Interlude――Ⅳ






 その時の彼は――間違い無く、歓喜に打ち震えていた。
 五百年。永遠にも等しきその時間の果てに、彼は漸く、その時を、機会を得たのだ。
 傍観者。彼の姉は、弟を指してそう言った。登場人物として存在していながら、配役を与えられ衣装を与えられ出番を与えられていながら、その本質は物語の外側に位置する『傍観者』であると。
 事の推移をただ見守るだけ。非接触の不干渉を貫き、全ての終わりを目に焼き付けるのみ。本来そうあるべき彼は、しかし彼の意思にも物語の調和にも反して、その内側に組みこまれてしまった。
 それはきっと、酷く醜く不快でおぞましい、見るに堪えない無様な喜劇。破綻したアドリブと破断したストーリーが作り出す、究極に悲惨で絶対に無惨な仮面演劇コメディア・デラルテ
 是正しなければならない。
 訂正しなければならない。
 彼の――セロニアス=ゲイトマウス=チェズナットの存在しない、本来的に彼がその内側に介在しない物語ストーリーを、本質的な彼の傍観者としての立場ポジションを、取り戻さなければならない。
 その機会が、今、目の前に。

「解ってマス。だカラ、僕モあいつモこうしテル」

 物語には調和が必要だ。
 だから、傍観者の存在は不必要。
 ――全て終わらせなさい。そうすれば、貴方は『傍観者』に戻れるのだから。
 脳裏を過ぎる姉の言葉に応えながら、半壊したバルサザール艦橋に、音も無く彼は降り立った。
 次元空間に放り出されたバルサザールは竜巻に舞い上げられた家屋の如く、端から自壊が始まっている。今自分が立っている場所も、あと五分としない内に崩れ落ちるだろう。そうなれば終わりだ、バリアジャケットを展開していても、生身で次元空間に放り出されて無事で済む保証は無い。
 今も轟々と空気が流れ出していく。ストールの裾と髪の毛が気流に煽られ、ばたばたと音を立てた。

「さテ、と。終わらせよウ、友達アミーゴ
 
 前腕の環状魔法陣が輝き、掌に赤褐色の魔力光が纏わりつく。
 セロの使うブーストデバイス<ククルカン>の機能は実のところかなり単純に出来ている。魔力を高密度・高出力のエネルギーに変換し、変化をつける前段階で留め置く事。これを状況に応じて展開する事。戦況によって、それは剣となり、爪となり、盾となり、砲となる。極端な話、ククルカンはこれしか出来ないのだ。他の攻撃魔法などは一切使えない。
 セロの得意とする転移魔法は例外と言えるが、それとて彼の一種異端と言える術式のサポートに特化しており、普通の転移魔法は使えない。デバイスに組みこまれているタイプの魔法では無いので、他者がククルカンを使った時には転移魔法は使えない――否、ククルカンに組み込まれた術式の殆どは使えなくなるだろう。
 良くも悪くも、セロニアス=ゲイトマウス=チェズナットという魔導師に使われる事を前提として設計されているのだ。だがそれ故に、本来の主によって使われたその時は、他の如何なるデバイスにも引けを取らぬ性能を発揮する。

Grrrrrr……………

 ヒドゥンは動かず、低い唸り声と共にセロを睨みつけるのみ。
 第四段階のヒドゥンは、次元嵐精製の為に動きを止める。否、次元嵐の精製の為には、動きを止めざるを得ないと言う方が正しい。挙動に割り振るエネルギーさえも注ぎ込んで、魔獣は災害を生み出すのだ。
 何としても止めなければならない。だがヒドゥンの周囲には強固な障壁が展開されており、近づく事もままならない。次元嵐精製による副産物、圧縮された空間の歪みが物理的・魔導的な障壁となって、魔獣を覆っている。
 だが。
 
「距離。障壁。防御。警戒……」

 ふん、とセロが鼻を鳴らす。
 無駄な事だ。
 少なくとも、セロとククルカンを相手に、それらの要素は何一つ意味を持たない。
 
「始めよウ、ククルカン」
【Comprensión.】

 セロの眼前に展開される、赤褐色の魔法陣。魔力光が炎の様にゆらめく右掌を魔法陣へと、その向こうの敵へと晒す。敵との距離はヒドゥンの張った障壁とセロの展開した魔法陣を間に挟んで、およそ十七メートル。
 
「――『血槍』」
【Lanza de la sangre.】

 感情の篭もらぬ、酷く平板な声音の撃発音声トリガーヴォイスに反応して、グローブの宝玉が明滅する。
 掌でゆらめく魔力光が鮮血色の槍となって、眼前の魔法陣へと放たれ――魔法陣を貫く事も魔法陣に弾かれる事も無く、その全てが奈落に向けて水を放つが如くに、呑み込まれていく。
 刹那の静寂。
 少年は掌を晒したまま動かず、
 彼の眼前の魔法陣が構成を失って消滅し、
 そして、
 ヒドゥンの胸部が、内側から弾ける様に――爆裂した。

GrrrruuuuuAAAAAHHH!?

 紫色の体液を噴出し紫紺の肉片を撒き散らしながら、ヒドゥンが叫ぶ。その咆哮は驚愕に塗れ、世界すら滅ぼす魔獣は困惑と混乱に転げ回る。
 種を明かせば簡単な事。セロの展開した転移魔法陣は、ヒドゥンの体内に・・・繋がっていたのだ。外皮部分がどれほどの魔力強度を持っていようと、それ故に内側へのダメージは跳弾の様に体内を駆け巡る事になる。
 敵を視認して転移先の座標を設定し、魔法陣を極小サイズにまで抑え込んで発動させる。静止目標、それもかなりの近距離でなければ使えず、発動にも時間がかかってしまう技だが、だからこそメリットは大きく、強固な障壁も鋼鉄の外皮も完全に『有って無きもの』として、敵を砕く事に成功した。
 どろりとした体液を床に滴らせながら、ヒドゥンが立ち上がる。認識したのだろう、最も優先して行なわなければならないのは、目の前の敵を砕く事だと。
 今更だ。酷く今更。五百年遅いぞ、と嘲笑混じりに言ってやりたい衝動を、セロは腹の中へと押し込める。
 敵なのだ。魔獣にとって少年は紛れも無く敵性存在。そして無論、少年にとっても魔獣は不倶戴天の怨敵だ。
 少年は傍観者だ。傍から眺め、観察するだけの存在だ。しかしその少年は、『魔獣に対する備え』として物語に組みこまれてしまった。完全なるミスキャスト、台本に記された全てを台無しにする誤植。故に、少年は魔獣を打倒するまで、その本質である傍観者に立ち戻る事は出来ない。
 すう、とセロは一つ息を吸い込んだ。吸い込んだ空気が熱暴走しかける脳髄を冷却する。既に一個の災害そのものと化した魔獣を相手にするにはあまりに心許ない残余の魔力、そして体力。それらを冷静に、或いは冷酷に把握して、少年は懐に手を差し入れた。
 取り出したのは、長さ20cmほどの長細い筒。冷たく光る金属性のそれは一方の端にボタンらしきものが、もう一方の端に噴出孔の様な小さな穴が開いている。
 五百年前のあの日、間に合わなかった最後の切り札。今、この日この時の為にと託された筒をくるりと手の中で回転させ、噴出孔を左の前腕に押し付ける。
 躊躇無く容赦無く、セロはボタンを押しこんだ。
 ばしん。心肺蘇生の際に使われる電撃装置の様な音が、空気の漏れだす轟々という音に混じる。
 
「………………ッ!」

 歯を食い縛り、声を殺して、体内を駆け巡る“増幅された魔力”に耐える。
 筒の側面がシャッターの様に開き、そこから小さな金属片が弾き出された。まるで薬莢の様な形状・・・・・・・の金属片が、床に落ちて涼やかな音を立てる。
 カートリッジ・インジェクター。彼を造り出した魔導文明が、他の魔導文明で使われていた魔導機器を模して造り出したもの。薬莢型の魔具に込められた圧縮魔力を体内に撃ち込む器具の事で、瞬間的に爆発的な魔力を得る事が出来る。
 無論、模造品であるが故に、オリジナルと比してもデメリットは大きい。外側から無理矢理に膨大な魔力を流し込むのだ、本来、人間の肉体はその負荷に耐えられない。ただ一つ、壊れた端から『復元』されていく少年をその例外として。筋線維が断裂し骨格が歪み血液が沸騰する。バリアジャケットの下から立ち昇る白い蒸気。それは間違い無く、彼の命の削り滓。
 
「ククルカン、第二解放ボンバルデオフォルマ
【Bombardeo Forma.】

 ぱぁん――と、前腕の環状魔法陣が弾けた。粒子に還元された魔法陣は再び前腕に絡みつき、金属の籠手へと変化する。ただし形状的に防具や武具としての機能は見込めない。寧ろそれは何らかの儀式に使われる様な、神秘性象徴性を追及した形状をとっていた。
 籠手にはグローブに嵌め込まれているものと同じ、群青色の宝玉。それが二つ。両前腕の籠手にそれぞれ二つ、グローブにそれぞれ一つ。計六個の宝玉が、敵を睥睨する様に一度明滅する。
 こちらの準備は整った。どう見ても隙だらけだっただろう自分を、魔獣は律儀に待っている。ただ単純に損壊した肉体が戦闘に耐え得るだけの状態に戻るのを待っていたのかもしれないが、自分と、目の前の敵と真っ向からの決着をつける為に待っていてくれたのだと、セロは解釈した。
 ありがとう。礼の言葉を口にして、改めて少年は魔獣に相対する。

「それでは。貴方に敬意を払い貴方に賞賛を送り貴方に感謝を捧げ――貴方を、虐殺します」
  
 呟いた言葉は、とても流暢で。
 それを引き金に、ヒドゥンが動いた。両の掌を突き出し、その十指の先端に黒色の魔力光が収束を始める。セロが間合いを詰めんと踏み出した瞬間、針の様に細く絞り込まれた収束砲撃が十閃、標的に向かって撃ち放たれた。
 広域破壊では無く貫通力をこそ高めた砲撃。崩壊を始めるこの空間においてその判断は間違い無く正当で、徹底的に圧縮されたそれは一閃一閃が全て紛う事無く必殺。触れれば切れるどころでは無い、掠めただけでも濁流の如きその勢いに引き裂かれ、飲み込まれ、或いは抉り取られる。
 だがセロは事もあろうに、迫る十閃の砲撃の一つに、正面から飛び込んだ。転移魔法によって砲撃を返すつもりか。しかし最早それも通じまい。転移魔法という手札を、彼は敵に見せすぎたのだ。正面から迫る一閃、そして彼の両側から回りこむ様に、それぞれ一閃。止めに頭上からも一閃。残る六閃も、全てが彼の死角から、獲物を貫かんと迫っている。
 正面からの一閃を、予想通りにセロは転移魔法陣に飲み込ませた。だがそれだけ。この一撃のみをただ返したところでヒドゥンは墜ちない。耐久力というステータスを比すれば、魔獣と人間とは二つ三つ桁が違う。例え肉体の内部に撃ち込んだところで、ヒドゥンが死するそれよりも先に、残る九閃がセロの身体を打ち砕く。
 だが。
 突如として頭上に――そう、それはセロの頭上にも、ヒドゥンの頭上にも――浮かび上がった無数の魔法陣・・・・・・に、魔獣は虚をつかれたか、砲撃のコントロールを一瞬、ほんの一瞬だけ手放した。
 入口は一つ。
 出口は無数に。
 そして、それが導く結果は。

 ――絨毯爆撃の様な、砲撃の雨。
  
 迫る九閃が全て、降り注ぐ砲撃にその勢いを、方向性を逸らされ、床に壁にと突き刺さる。
 ヒドゥンの身体にも、そして当然、セロの身体にも砲撃は降り注ぐ。幸いにも直撃は無かった。肉を削がれ、骨を貫いた数発以外には――『復元』によって取り返しがつく数発以外には、直撃は無かった。
 
Grrrrrr…………GruOOOOOOOHHHHHH!!

 ヒドゥンが猛る。
 所詮小手先の芸、鼻先を綿毛でくすぐる様に、それは敵を挑発したに過ぎないらしい。一発の砲撃を数十に散らして降らせただけなのだから、威力だってたかが知れている。現にヒドゥンの身体には少しの焼け焦げ以外、目立った傷も無い。
 それで良い。砲撃の雨が降ったその瞬間、自分の懐の中へと転移させた“それ”に気付かれなかったのなら、それで良い。
 セロは自分と敵との差を、過小にも過大にも捉えていない。カートリッジ・インジェクターによって魔力を底上げしたところで、ククルカンを第二解放状態にもっていったところで、ヒドゥン、それも第四形態にまで進化したヒドゥンと自分との差はさして埋まってはいないのだ。
 結構。遥か格上をこの身一つで打倒する、中々に痛快な事では無いか。
 赤褐色の魔力光が掌でゆらめき、鮮血色の光爪を作り出す。その四肢五体、五臓六腑に至るまで微塵に引き裂いてやる。そう言わんばかりに、少年は魔獣へと爪を向けた。
 ヒドゥンが床を蹴る。先の砂漠で見せた突撃と異なり、空間の崩壊が近い今、人外の腿力にものを言わせた突進は出来ない。だがそれにも関わらず、魔獣は一陣の風となって、少年の眼前に姿を現していた。
 握りこんだ拳が振り降ろされる。前段階で身体を彩っていた銀色は最早そこに無い、黒禍の如く黒々と染まった拳が、暴風を孕んで打ち降ろされる。
 対するは掌。鮮血の様な魔力光に包まれた右掌が、拳を受け止めた。
 びきびきべきべきと、腕の骨が亀裂を生じていく。素手で受け止めれば腕ごと消失しかねない威力の拳撃だ、この程度にまで威力が減殺されているのはそれだけで一個の奇跡。されどその奇跡はこれにて終了。元より、先に繋がるものでは無い。
 指先から肩までの骨格に微細な罅が入り、急激に力を失っていく右腕を、しかしセロは引こうとしない。『復元』は追いついていない。しかし爪は魔獣の拳に食い込んで、敵が第二撃に入る為の動作を許さない。
 だがヒドゥンにはもう一つ拳がある。そしてセロにももう一本腕がある。鏡映しの様に残る拳の一撃も爪に阻まれ、魔獣の両拳は少年の両掌によって封じられる。
 少年は人間だ。故に、攻めるも防ぐも、その四肢をもってするしか方法は無い。彼の両腕は敵の両腕を封じ、彼の両脚はそれを支える為に使われている。
 しかし――ヒドゥンは違う。
 がぱっ、と魔獣が口を開いた。大きく裂けたその口の中に、漆黒の魔力光が集っていく。零距離での砲撃、四肢を防御に使いきった少年にそれを躱す術は無い。
 元より。
 躱すつもりなど無いのだから、術など必要無いのだが。

「――ククルカンっ!」
【¡Es!】

 セロが、そしてククルカンが叫んだ瞬間。
 彼の眼前に、小さな魔法陣が展開される。握り拳程度の大きさしか無い魔法陣、放たれる砲撃を飲み込む事はまず不可能。だがそれで良い、この魔法陣は“入口”では無く“出口”なのだから。彼の懐にあるものを、移動させるだけの魔法陣なのだから。
 魔法陣が輝き、そこに一つの物体が姿を現す。宝石を削りだした花弁で組まれた、一輪の花。あらゆるエネルギーを吸収し、増幅し、放出する、災厄という概念を物体として象った、薔薇の花。
 ――<ジュエルフラワー>。

「――――!」

 その存在に気付き――その危険性にまでは、気付いていないだろうが――ヒドゥンの目が見開かれる。砲撃は最早止められない。目の前の少年に、その直前の薔薇に向けて、魔獣は漆黒の魔力波動を撃ち放つ。
 黒禍を浴びせられたその瞬間、ジュエルフラワーが鳴動した。砲撃として放たれた魔力光を吸い込み、飲み込み、取り込んで、煌めく花弁を猛毒の如き漆黒に染める。だがそれも僅かに一瞬、漆黒は純白の光に駆逐され、宝石の花は眩いばかりに白光を撒き散らす。
 セロはヒドゥンから手を離した。ぐらりと後ろへ傾く身体を支えず、ぼろぼろの腕を顔の前で交差させる。突如として取り込んだ膨大な魔力に、そして己によって更に増幅したそのエネルギーに、ジュエルフラワーは耐え切れなかったらしい。耳を劈く轟音と共に、花弁の中央から凄まじい勢いで魔力が吐き出され、宝石の花は砕け散る。セロとヒドゥンの身体を弾き飛ばし、元より穴だらけの艦橋の天井を完全に粉砕して、白光の柱は極彩色の次元空間へと突き立てられた。
 異変が起こる。いや、セロにしてみればあくまで予想通りなのだが、次元空間が急激に歪みを生じた。大海の中に生まれ出る大渦の如く、光柱の突き立てられた一点を中心として、次元空間に穴が穿たれていく。
 虚数空間へと繋がる穴。ここに敵を叩き落とす事こそが、セロニアス=ゲイトマウス=チェズナットに設定された勝利条件であり、人類に本来予定されていた勝利条件。
   
GruOOOOOOOAAAAAHHHHHH!!

 魔獣が迫る。『復元』の終わらぬ腕を持ち上げて、セロは暴風の如く繰り出される一撃を捌く。籠手が砕け、肉が削がれた。左の前腕が半ばほどから千切れてぶら下がる。構わない。続く一撃も、ぼろきれの様になった左腕で叩き落とした。右を温存したのは判断と呼べる様なものでは無い、本能的にそうしたというだけ。だから次の一撃、顔面を鷲掴みにせんと伸ばされたヒドゥンの腕に、対応する事は出来なかった。
 顔を掴まれた瞬間、ばきん、と頭の中で酷い音がした。恐らく、頭蓋に致命的な損傷を負ったのだろう。握り潰す気か握力は一瞬単位で強まっていく。
 それで良い。もっと強く掴め。小気味良い程予想通りに進む現実に、セロが薄く笑みを浮かべる。肩口に猛烈な熱さを感じた。左肩にヒドゥンが噛み付いたのだと気づいた瞬間、左肩の骨が噛み砕かれたその瞬間、セロは反射的に、生き残った――そして『復元』が終わった――右腕で、ヒドゥンの頭を押さえつけていた。
 セロの目論見に気付いたか、ヒドゥンが暴れだす。だが少年の肩に深々と食い込んだ牙を引き抜くのは容易では無い。食い千切ろうと満身の力を込めて噛み付いたのが仇となった。加えて、どこにそんな力が残っていたのか、頭を押さえつける少年の腕は万力の如くヒドゥンを固定している。
 赤褐色の光紐がセロとヒドゥン、一人と一匹の身体を縛り上げた。千切れんばかりに締め付けて、その挙動を完全に封じる。
 だん、と少年が魔獣の身体を固定したまま、床を蹴る。同時に、遂にバルサザールが崩壊を始めた。あらゆるものが形を失い、虚数空間へと繋がる穴へ飲み込まれていく。それは少年と魔獣も、例外では無く。
 次元の海を視界に捉えたのは一瞬だった。すぐに視界は虚数空間の暗闇に塗り潰され、同時にバリアジャケットがばらばらと崩れていく。

GuuOO!? GuuuuOOOOOOAAAAAAHHHHH!!!

 ヒドゥンの身体がセロから離れる。バリアジャケットだけが崩れるセロと違い、ヒドゥンはその肉体そのものが崩壊を始めていた。
 四肢の先から、まるで砂となって風化する様に、ヒドゥンは崩れていく。脚が崩れ腰が崩れ腹が崩れ腕が崩れ胸が崩れ。そして最後に頭部が。

「……さようなラ、友達アミーゴ

 消滅するその寸前――ヒドゥンの瞳が、セロを捉えた。或いはそれはただの錯覚だったかもしれない。けれど消滅を、死を前にして、ヒドゥンの瞳は何処か安らかで、何処か嬉しそうに見えた。
 ふと、思い出す。
 かつてヒドゥンと、正確にはその前身となったモノと、肩を並べ背を預けて戦った時があった事を。
 だから、礼を言う。
 その言葉が届いたかどうかは定かでは無い。ヒドゥンは何も言わず、砂の如くに消え去った。

「さテ――これデ、やっト」

 やっと、傍観者に戻れる。
 物語の登場人物なんてこりごりだ。痛くて辛くて苦しいだけだ。それを傍から眺めて、そうあるものと観察するだけで、僕は良い。
 力が抜ける。魔力によって駆動する身体だ、それが解除されてしまうという事は、即ち彼にとって死を意味する。
 否、それは寧ろ、既に死んでいる事を、本来あるべき寿命が尽きている事実を、身体が思い出すとでも言うべきか。
 眼を閉じ、大きく息を吐き出して、セロは意識を暗闇に溶かす。重力の縛りから解かれている筈なのに、果て無き奈落へと落ちていく感覚。最早二度と戻る事は出来まい。音も光も無いそこは停滞で満たされている。心地良い静寂に包まれて、少年は全てを手放した。
 ――だが。
 

『あたしが、セロのお姉さんになってあげる』
『一つだけ、約束』
『ちゃんと――戻ってきなさいよ』


 脳裏を過ぎる言葉に、セロは再び、目を見開いた。
 ああ――そういえば。
 そんな事を、言っていたか。
 とにかくやかましくて、とにかく元気が良くて、とにかく馴れ馴れしかったあの少女が最後に言っていた事を、彼は思い出す。
 約束。
 それは、つまり。

「あ――ああ」

 ……何という事だ。
 漸く傍観者に立ち戻る事が出来るのに、出来る筈だったのに。
 己が既に、舞台の上で新たな配役を与えられている事に、彼は気付いた。


『気をつけなさい、セロニアス』
『物語の『主役』でありながら、台本をアドリブで書き変えてく存在。目に付くものを片っ端から取り込んで、物語を組み上げてく存在ってのが、世の中には居るの』


 そうか。
 そういう事――だったのか。
 気をつけろ、と姉様は言っていた。けれどどうすれば良いかは、結局、教えてはくれなかった。
 それは意地悪じゃ無い。どうする必要も無いのだ、それはどうにもならない事なのだから。

「は……はは……ははははははははははははははは、あはははははははははははははははははは!」

 畜生。
 成程確かに――それは、『傍観者』の天敵だ。
 傍観者を物語の中に引き摺り込む。傍観者としてのアイデンティティーを崩壊させる。傍観者を当事者として参加させるそれは、“外側”の存在を許さない。
 すっかり完全に間違い無く――セロニアス=ゲイトマウス=チェズナットは、それに嵌まってしまったという事。
 絡め取られる様に、飲み込まれたという事。

「何テ……酷イ」

 ふりだしに戻る、か。
 ゴール寸前で突き付けられたそれは、あまりにも残酷で。
 約束なんて無視すれば良い。元より一方的に押し付けられた約束だ。守らねばならない道理は何処にも無い。
 けれど。もし自分がそうしたのなら、約束を破棄したのなら、彼女はどうなる?
 彼女は待つだろう。彼が必ず戻るという義務を果たすと信じ、己の義務として、待ち続けるだろう。永遠に報われる事は無いのに、永久に叶う事は無いのに、それを知らず、それを信じず、いつまでも。
 それを分かっていて尚、約束を破り、信頼を裏切る様な真似が出来る程、少年は人間らしく・・・・・無かった。

「…………仕方ない、デス」

 くすりと。
 口の端を歪めて、少年は笑う。
 それは屈託の無い微笑の様でもあり、邪悪そのものな嘲笑の様でもあった。
 そう――セロニアス=ゲイトマウス=チェズナットという人間の内側を形作る諸々が、全て現れた笑み。
 ゆっくりと、セロが拳を握りこむ。身体に力が、目に光が戻る。
 果ての無い奈落へ堕ち続けながら、彼は口の中だけで呟いた。

 
 姉様。
 もう少しだけ――舞台の上ここに居ようと思います。
 





Interlude――Out






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