土見 稟が目を覚ましたのは、隣の部屋から、小さくすすり泣く声が聞こえてきたからだ。
生まれたときから開かない目蓋越しにも、窓の外が暗い事が分かった。
布団から体を起こして、手近の時計のボタンを押す。
時計が独特の電子音を鳴らして、『タダイマノジコク、ゴゼン、二時、三分、デス』と、今の時間を教えてくれた。
そっと、物音を立てないように廊下に出る。
そのまま廊下を歩き、隣の部屋の前で立ち止まった。
回りは一切光無く、稟の目も見えては居ないはずなのに、その足取りはまるで昼間に出歩いているように危な気がない。
しかし、それも当然だろう。
稟は毎夜、このすすり泣く声が聞こえる都度、この部屋に入っているのだから。
そっと音を立てる事無く、扉を開く。
目蓋越しに見える部屋の中。
稟はその中の、丁度真ん中辺りにあるベットに近づいていく。
ベットには、一人のとても可愛らしい女の子が眠っていた。
瞑った目尻から、ポロポロと大粒の涙を流しなて、「おかあさん……おかあさん……」と呟きながら。
―――『芙蓉 楓』。
土見 稟の一番大切な友達で、とても大切な約束をした少女で、そして―――
この世で一番、自分を憎み恨んでいる人間。
「…………」
稟は何ら言葉を発する事無く、楓のその手をそっと握ってあげた。
反対の手で、いつも携帯しているハンカチを使って涙を拭う。
そのまま布団越しに、楓を慰めるように、或いは小さな子供を寝かし付けるように、トン、トン、と優しく叩く。
そうしていると、やがて楓の寝息が穏やかになり、涙も止まった。
ソレを確認すると、稟は優しく優しく、本当に優しくその手を離して、また物音一つさせずに部屋を出た。
部屋のドアを閉めた瞬間の、小さな呟きを残して。
「おやすみ、……楓」
これが毎夜毎夜、稟が日課にしている行動だった。
SHUFFLE!
on the mix days
〜 The throng of ruin 幼獣咆哮篇 〜
< 第一楽章 / 間節 > とある少女の間奏曲
芙蓉 楓にとって『土見 稟』という少年は、彼女の父親の親友の子供だということで知り合った仲だった。
そして稟は、彼女の知っているどんな人間より無口で無愛想だが、誰より信頼できるお手本のような男の子だった。
彼は目が見えない――というか、目が開かない――というのに、回りの事を見ることが出来たりした。
彼女自身は、“我慢する”ということが苦手だったが、彼は“我慢する”事が得意だった。
一人でじっとしている事が苦手だった彼女に対し、稟は何時間でもじっと待つことが出来た。
楓も運動は得意な方だったが、稟は得意とかそんな物ではなく、大人だって出来ないようなことが出来た。
事実、彼は自分や彼女の父より力が強かった。
回りの大人たちはその事にとても驚いていたが、彼は得意になることもなく、何時も静かで飄々としていた。
(わ、わたしだって出来るもん)
楓はそんな彼に負けるのが何故か悔しくて、彼のマネをするようになっていった。
彼のマネをして、早寝早起きをするようになった。
彼のマネをして、食べ物を好き嫌いしなくなった。
彼のマネをして、大人の人には丁寧語で喋るようになった。
彼のマネをして、約束は必ず守り、友達を大切にして、誰とでも仲良くするようになった。
―――それは、本当なら特別なことなど何も無い、ごくごく『当たり前』のこと。
だがその『当たり前』の事を、『当たり前』にする事がどれだけ難しいか……。
(稟くん……すごい)
だから楓は、すぐに稟のすごさを実感した。
だから稟の事を尊敬したし、いつか彼に追いつこうと考えていた。
稟のマネをしだすと、彼女は彼に追いつけないところは別の事で追い付こうとしだした。
稟は運動は得意だったが、勉強はそれほどでもなかった。
―――だから彼女は予習・復習をきちんとするようになり、いつしかクラスで一番になっていた。
稟は誰とでも仲良くなったし、友達は大切にしたが、自分から他人に関わるような事はしなかった。
―――だから彼女は積極的に誰かと話すようになり、それがいつしか彼女をクラスの中心的な少女にしていた。
それでも彼女は恥ずかしがり屋で、どこかおっとりした少女のままだった。
逆に稟は、回りから恐い男の子だと思われるようになったいった。
目が見えず、クラスで一人だけ黒い眼鏡を掛けていたから、クラスの中でも浮いていた。
誰とでも仲良くするから、悪い友達ももちろん居た。
運動が得意で、力も大人よりも強かったから、ケンカをしたとき相手に怪我をさせることもあった。
無口で無愛想だったから、誰も恐がって話しかけようという人は少なかった。
―――そんな彼のことを、他の大人たちも嫌がって、子供を近づけさせようとはしなくなった。
楓が何かと稟のマネをするようになってから、回りはすぐに稟と楓を比較するようになった。
逆に、稟が楓のマネをするのだと、誰も――先生たちまでも――が思うようになった。
だけど、やはり彼はまるで気にした様子もなく、やはり静かに飄々としていた。
それどころか、彼女がテストで一番になれば「おめでとう」と言ってくれた。
中学生にイジメられたり、一人で泣きそうになったときは、必ず傍に居て助けてくれた。
彼ともう一人の親友と一緒に遊ぶとき、危ない事があれば必ず彼が何とかしてくれた。
だから、芙蓉 楓にとって『土見 稟』という少年は、誰よりも大好きで、誰よりも信頼できる、『正義の味方』のような存在だった。
大好きな父と、もっと大好きな母。
大切な友達と、何物にも変えがたい親友。
そして、―――大好きな、『正義の味方』のような男の子。
みんなが傍に居て、暖かい輪になって、その中にはもちろん自分も居る。
そんな日常が、ずっと続くと彼女は信じていた。
いや、それ以前にこの日常が無くなるなんて、考える事もしなかった。
―――あんな日が来るまで。
その日は、朝からじっとりとした雨が降っていた。
その雨の中、楓は父と稟と一緒にとあるお寺に来ていた。
彼女の周りには、その境内一杯の人が集まっていた。
自分たちも含め、誰もが真っ黒の服を着ていた。
稟は普段から黒い服を好んで着るが、今日は趣が違った。
―――そして彼らの向かう先のお寺の中には、彼女の母と、稟の両親の写真が花に囲まれて飾ってあった。
そんな中、楓は父の手を引き何かを否定して欲しいように、ずっと問いかけ続けていた。
「ねぇ、おとうさん。……おかあさん、どこ?」
頭では分かっている、でも頭が―――心が、その事を拒絶していた。
「ねぇ、りんくん。……りんくんのおかあさんたちは?」
問いかけた稟の顔は、無表情なのにどこか痛ましげで。
彼は何も言わずに、精一杯に優しく彼女の頭をそっと撫でただけだった。
「ねぇ、りんくん……」
「楓、……もう、止めなさい」
何も答えようとしない稟に、楓は何故黙っているのかと彼の手を引く。
そんな彼女を、楓の父はそっと諌めた。
しかし、彼女はそれを振り切るように、さらに強く稟の腕を引きながら言う。
「ねぇ、りんくん。何で黙ってるの?
何か知ってるんなら教えてよ。かくしごとは、いけないんだよ」
「楓、止めなさい」
「だって、おとうさん。りんくんが―――」
「楓―――っ!!」
なおも言い募ろうとする楓に、滅多に彼女を叱らない父が僅かに荒げたような声で彼女に言った。
「いい加減にしなさい……。稟君だって、辛いのを必死にガマンしているんだ。
……お前も、もう受け入れなさい………」
滅多に聞かない父の荒い声色に、楓が驚いたように黙る。
「………すまなかったね、稟君。
私の―――せいで。………本当に、…私という男は――――」
「おじさんのせいじゃありませんよ。
もちろん、誰かのせいというわけでもありません」
稟に話しかける父の声は、どうしようもなく泣き出しそうで、どうしようもなく辛そうだった。
返す稟の言葉は、本当に何時もと変わらない抑揚の声なのに、何故か泣いているように聞こえた。
「……君は、泣いてもいいんだよ?」
父もその事に気付いたのか、稟にそう言った。
だが何故か、稟が泣く所を楓は見たくなかった。
稟が悲しむところを、どうしてか見たくなかった。
自分でも分からないその感情の理由を見抜いているように、稟はその黒眼鏡越しに楓をチラリと【観】て言った。
「此処で俺が泣いたら、……楓が耐え切れないでしょうから」
「………すまない――稟君」
父は、とうとう泣き出しそうに顔を歪めた。
何故か楓には、それが稟の言った言葉のためだと気が付いた。
同時に、此処に来ていた彼女の親戚が言っていた事を突然思い出した。
「ねぇ、りんくん。
さっき、親戚のおばさんが、「紅葉さん――お母さん――が死んだ」って言ってたの。
ねぇ、りんくん。それ、嘘だよね?
おかあさん、遠くにお出かけしたまま、まだ帰ってきてないだけだよね?」
ホンの三日前、稟の両親と、楓の母親が一緒に遠出をしに出かけたのだ。
その日の事を、彼女ははっきりと覚えている。
だって、その日から三日間、彼が自分の家にお泊りした日なのだから。
―――何故か、その日の事しかよく覚えていないけれど。
「ああ、……そうだな」
稟はそう言って、やはり楓の頭を優しく撫でるだけだった。
「そうだよね、……おかあさんが死んじゃったなんて、嘘だよね?」
安心したように言う楓。
「―――本当だ」
――ドクンッ
だが父の言葉は、あっけなく彼女の内側に滑り込んだ。
「――――――え?」
「いいかい、楓」
父は彼女に言い聞かせるように、ゆっくりと言い放った。
―――イヤダ、キキタクナイ。
「お母さんは、(―――ヤメテ、キキタクナイ)もう戻ってはこない。(―――ヤメテ、ソンナノウソナンダカラ)
帰る途中、(―――ヤメテ)事故に(―――ヤメテ)あって――(―――ヤメテ)――(――ソンナノウソ―――)死んだんだ」
――ドックンッ
父のその言葉を最後に、彼女の意識はブレイカーを落としたように途切れた。
何も感じない、どんな思考も出来ない中で、彼女はただ外部からもたらされる声を聞くとはなしに聞いていた。
誰の、どんな言葉も理解できないその只中で。
『おそらく、……お嬢さんの症状は、精神的なものと思われます。
奥様の死に対して、お嬢さんは我々の想像以上に精神的ショックを感じたのでしょう。
彼女の心が、それに対して一種の防衛反応を取り、心を閉ざした―――というより、自分の心の部屋に引き篭もったのではないかと……」
『そん…な。確かにあの子はお母さん子で、紅葉に……家内に懐いていました。
けど、だからって、そんな事が在り得るんですか?』
『……こういった症例が無いわけではないんです。
『逃避』―――つまりお嬢さんは、奥様が亡くなった世界を肯定したくなくて、その世界そのものから逃げようとしている。
怖いもの、嫌な物から逃げようと、拒絶しようとする事は自体は、それほど珍しいことでもないでしょう?
ただ、お嬢さんの症例は、かなり極端で酷いものではあります』
『……娘は目を、―――覚ましますか?』
『非常に、申し上げにくいのですが………』
『は、はは……勘弁してくださいよ。
妻と、親友とその奥さんを一度に失って、……その上、娘もですか?』
『それは……』
『もう、もうこの子しかいないんですよ!
先生、教えてください。
私は、私は何をすればいいんですか!?
臓器が必要なら、私のを使ってください!金が必要なら、必ず用意します!!
だから、……だから、この子を………っ!!!』
今にも死んでしまいそうな父の声と、辛そうに答える医者の声。
聞こえているのに、彼女には理解できない。
だって、彼女の心は、ずっとずっと深いところに沈んでしまって、外の事など知るよしも無いのだから。
知ることなど出来ないように、彼女は自分から沈んでいったのだから。
『かえでちゃん、ほら、お花とお菓子持ってきたんだよ。
これね、あたしが一人で作ったんだ』
「………」
幼馴染の女の子の桜が、お見舞いに来てくれていた。
だけど、彼女は何も聞こえない、何も感じない。
『ねぇ、かえでちゃん……』
大切な幼馴染が、寂しそうに呼ぶ声も。
『りんくん。かえでちゃん、起きないよぉ』
今にも泣き出してしまいそうな声も。
『お医者は、生きる理由があればまた起きるって言っていた。
目を覚ます方法はある、きっとまた、楓も目を覚ますよ。
だから桜。それまで待っててくれないか?
きっとまた、三人で一緒に遊べるから』
優しい、大好きな人の声も。
『そう、……方法は、あるんだ』
悲痛な決意に染まった、その声も。
誰も居なくなった、真夜中の病室。
音を刻むものなど何も無い、そんな静寂に包まれた病室。
彼女自身はそんなこと理解も出来なくなっていたのに、その日だけは誰かが居たことに気付いた。
「なぁ、楓。聞こえているか?」
聞こえてくるのは、とても優しくて穏やかな、大好きな人の声。
「楓に、言っておかなきゃいけない事があるんだ」
「………」
暗い病室の中の、暗い彼女の精神の部屋。
其処に、彼の声は鳴り響くように反響して聞こえた。
「紅葉おばさんの事故は、本当は帰って来なくていいときに、無理に帰ろうとして起きたんだ。
……だから、もしあの時無理に帰ろうとしなければ、おばさんは死なずに済んだ」
(―――ナニヲイッテルノ?)
響く、響く、彼の声が、意識の部屋に反響する。
無意識の闇の中、彼女はその言葉の続きを聞きたくないと、必死に己の耳を塞ごうとする。
けれど、稟の言葉は、あの時の父の言葉と同じように、あっけなく彼女の中に滑り込んでいく。
「あの時、(ヤメテヨ)紅葉おば(モウナニモキキタクナイノ)さんに『帰って(ダマッテ)きて』って連絡を入(ヤメテッ)れたのは………」
しかし、その拒絶も彼女には出来ない。
彼女は自分から、全てを放棄したのだから。
(ヤメテ―――ッ)「―――俺なんだ―――」
「俺が、おばさんを……殺したんだ」
その日、少年は少女に一つの【嘘】を吐いた。
その子を守りたかったから。
その子に笑っていて欲しかったから。
だから少年は、一つの嘘を吐いた。
暗く閉ざされた闇の中、少女の意識はその言葉を聴きとめた。
その言葉は、【事実】ではなかった。
だけど少女はソレを信じてしまった。
彼女にとってその言葉は、不動の【真実】として記憶された。
『オカアサンヲ、コロシタ』
その、憎しみの感情と共に。
幼い子供だとは考えもつかないほど、深く、暗く、激しく。
―――その憎しみだけが、彼女が生きる理由の全てであるが故に―――
だから、彼女は口にしてしまったのだ。
本来なら、決して言葉にしてはいけない筈の事だったのに。
決して、彼女だけは言ってはならない言葉だったのに。
その言葉が、大好きだった彼を、
―――決定的に、ヒトではなくしてしまったというのに。―――
「稟なんか……あんたみたいなバケモノ、死んじゃえばいいんだッ!!!」
...... to be continue
あとがき
はい、なんかダイジェストみたいな形になってしまいましたが、間節です。
『オリジナル・稟』は、無口で無愛想なのでキャラとしてかなり書きにくいんですが、「後で考えたら恭也も同じだしまいっか。」とか自己完結してみたり。
さて、次回からはやっと女の子幼少時代に突入です(いや、まぁ今回からとも言えなくは無いんですが)。
純正キャラだけでなく、半オリジナルキャラや、その他色々なオリジナルも出るかもしれません(予定は一杯ありますが)。
とにかく、ストーリー性は殆ど無視した設定、及び構成のこのお話。
同時進行中の『天の空座』で、本気で悩んでいるパワーバランスすらこのお話ではガン無視です。
何でもかんでも積み込んだ無茶なお話ですが、これからも付き合ってやってください。
それでは、次回。