第一章 帰還



 知らない部屋で、彼は目を覚ました。
 
 広さは八畳ぐらいだろうか。和室だ。彼はベッドではなく、畳に直接敷かれた布団の上に寝かされていた。
 布団が敷かれているほかに、家具らしきものは一つも無い。四方は飾り気のないしっくいの壁に囲まれている。ちょうど彼の正面には障子があって、出入り口らしきものはそれだけだった。

 ――さて。彼はゆっくりと頭を回転させはじめた。何故、俺はこんなところで寝ていたのだろう?
 昨夜、自分はいつ寝ただろうか。いや昨夜だとは限らない。そもそも今は何時なのだろう。障子から差し込んでくる光の具合からすると、朝ではない。昼間――たぶん正午を少し過ぎたあたりだろうか。すると、自分はどのぐらいの間眠っていたのだろう?
 
 駄目だ。頭が混乱して、うまく考えがまとまらない。
 
 焦るからいけないのだ。基本的なことから始めよう。
 自分は誰か。さすがにそれぐらいは分かる。名前は春樹真人。私立井ノ水学園に通う十七歳の高校二年生だ。
 そうだ、学校。昨日も――いや昨日かどうかは分からないが、とにかく記憶にある一番新しい日も、きちんと学校へ行ったはずだ。授業を終えて、いつも通りそのままアルバイトに向かった記憶もちゃんとある。
 アルバイトはいくつか掛け持ちしているが――そう、昨日は駅前のカフェでの仕事だった。仕事中のことはあまり記憶に残っていないので、特に何事もなく終えたということなのだろう。
 
 問題はそのあとだ。何事もなく仕事を終えて帰途について――そのあと、どこへ向かった?
 
 自宅のアパートではない。それは確かだと思った。ここまで思い出したとき、真人は自分の頭の中にその日帰宅した記憶がないことにも既に気がついていた。
 アルバイト先の店から家へと向かう間に、何かがあった。でも、何が?
 
 その部分だけがどうしても思い出せない。もどかしくなった真人は、毛布をはねのけて立ち上がった。

 体は問題なく動いた。全身が少し重いように感じるが、それは寝起きだからだろう。なんとなく、もう一度部屋の中を見渡してみて――そこでふと、真人はある思いにとらわれた。
 正面にある出入り口の障子以外には、窓すらない。真人の背中側、つまり布団の頭側にも引き戸があるが、これはたぶん押入れだろう。日当たりのよくない部屋だ。やはり家具はひとつもないが、よく見ると、ところどころに何かが置かれていたような跡がある。きっと以前は誰かが使っていたに違いない。
 
 知らない部屋。本当にそうだろうか? なんだか、空気がひどく体に馴染む。このいぐさの匂い。障子から差し込む光。俺は、この部屋を知っているんじゃないか?
 
 その時だ。不意に、真人の頭の中を何かがよぎった。

 ――なんで俺だけこんな端っこの部屋なんだよ、親父。
 
 俺の声だ。真人はすぐに分かった。幼い頃の自分が、父に向かって文句を言っている。

 ――うるせえな。お前もちっとはあの子に気をつかえ。女の子なんだぞ、女の子。

 口の悪い父の声。ひどく懐かしい響きを残して――そして、はっと気がついた。
 女の子。それが、全てのキーワードだ。

 真人は障子に駆け寄って、勢いよく左右に開いた。

 差し込んできた日差しに、思わず目を細める。瞬間的に白く染まった視界は、やがてゆっくりと色を取り戻して――その先に現れた光景を見た瞬間、真人の脳裏にいくつもの光景がフラッシュバックした。

 板張りのせまい廊下。そこを走り回っている幼い頃の自分。それを見つけて叱りつける父親。おろおろしながらその様子を窺っているあの子――
 そしてガラス窓の向こうに広がっているのは、やたらと広い庭。たくさんの友達を呼んで一緒に遊んだものだ。いつの頃からだったか、やがてあの子もその仲間に加わって――

 もはや間違いない。ここは俺の家だ。といっても、むろん今住んでいるのではない。小さい頃に住んでいた、思い出がいっぱい詰まった、だけどもう二度と戻ってくることはできないと諦めていた懐かしき我が家だ。真人は胸がいっぱいになったが、それと同時にますます首を捻らざるを得なかった。一体なぜ、どういう経緯で、俺は今ここに立っているのだろう?

「よう、気がついたか」

 そこへいきなり声をかけられたものだから、真人は思わず飛び上がりそうになった。人が近付いてくるような気配などまるで感じなかったのだ。どうやら考え事に集中しすぎていたらしい。

 あわてて声のしたほうに向きなおした真人は、そこで信じられないものを見た。

 銀色の髪。まずそれが目に入った。そして、真人を見返す瞳の色も銀。それらと並んでも違和感のない、あまりにも見事に整った造作。

「――初めまして。俺は青原聖司。見ての通りの男だ」

 そう言われて初めて、真人はその人物が男であると知ったのだった。





 居間に通された真人は、聖司と名乗った人物が貸してくれた上着を肩にひっかけて、コタツで暖をとった。
 家の中の間取りは昔から変わっていなかったが、当然ながら内装はすっかりと様変わりしている。この居間にしたって昔はただコタツとテレビと本棚が並んでいるだけの味気ない部屋だったのに、今は四方を間接照明やらアンティークらしきオブジェやらが囲んでいる。かすかに感じるハーブのような香りは、たぶんフレグランスの類だろう。どうやらインテリアにはかなりこだわってあるらしい。

 そしてそれよりも何よりも、真人の対面に腰掛ける、聖司という少年。あの髪と瞳の色。あんなの、それこそ漫画か何かでしか見たことがない。銀色――と最初は思ったが、見ているうちになんだかその表現も違う気がしてきた。

 ――ダイアモンド。さっき思いついた。あの色を言い表すにはその表現がぴったりだろう。

「さて。ええと、真人、でいいな? 俺のほうからも話したいことがあるんだが、とりあえずそれは後でいい。先に、お前が訊きたいことを言ってくれ」

 まるで声変わりしていないかのように澄んだ声。じっとダイアモンドの瞳に見つめられて、真人は声が出せなかった。

「え、っと……」

   あの瞳。あれがいけない。あの人のものとは思えない瞳(ちょっと失礼だが)に真正面から見つめられると、どうにも萎縮してしまって、うまく頭が働かなくなってしまう。

「そ、そうだな……じゃあ、あのあと俺がどうやって助かったのか。ああいや、それよりも、佐宮さん――俺の隣に倒れてた女の子が居ただろう? あの子はどうなった?」

「助かったよ。命に別状はない。怪我は結構酷いけど……そうだな、ちょっとめんどくさいけど、順を追って説明してやるか」

 聖司は言葉通りめんどくさそうに言う。ちらりと表情をうかがうと、彼は湯飲みに入ったお茶に口をつけていた。何気ない光景だが、彼にはひどく不似合いだ。

 ちなみにお茶は真人の前にも用意してあるが、なんとなく気がひけてしまって口をつけていない。

「お前さ、昨日のことはちゃんと思い出せるか? あまりにもショッキングな出来事があったら、その前後の記憶があいまいになるとか言うけど」

「えっと……」

 緊張はしているもののさすがにもう寝ぼけてはいないので、記憶をたどるのはそう難しいことではない。

 昨日、コトが起こったのはアルバイト先の店から自宅へと向かう途中のことだった。なんとなく胸騒ぎがして、普段は通らない川辺の公園のほうへ向かってみたら――

「うん、たぶん大丈夫」

 そこであの子が襲われている場面に出くわして、助けに入ったら逆に自分がやられてしまった。事件の顛末は、簡単に言えばそういうことだ。

「そうか。なら説明は簡単だ。実は俺、OH課の人間でな。署に居たら通報があったんだよ。女の子が襲われてるって。んで、どうも襲ってる奴はOHらしいってんで俺が駆けつけてみたら、お前とあの子が倒れてたってわけだ。だから本当はお前にも事情聴取とかしないといけないんだけど……ま、それはいいだろ。署のほうにはあとで俺から適当に報告しておくよ」

 早口でもなく、ゆっくりでもなく。実に小気味のいいペースで聖司は話す。

「んで、肝心の犯人だけどな。残念ながら、俺が駆けつけた時にはもう誰も居なかった。特に犯人につながるような証拠も見つかっていないし、通報した人も犯人の顔は見えなかったと言ってるし――そういや、お前はどうだった? 犯人の顔は――そうか、見えなかったか。じゃあやっぱり、捜査は難航しそうだな。お前には申し訳ないけど、被疑者の割り出しにはかなりの時間がかかると思う」

 聖司の話に適当な相づちを打ちながら、真人は犯人について考えてみた。
 一体あいつは何者だったのだろう。全身を真っ黒な服で覆い、その上フードまで被っていたので性別すら分からなかった。覚えているのはおそろしく動きが速かったこと、そして、手に持っていたあの漫画か何かに出てくるようなあれ――

「被害者の佐宮さつきはそのまま病院に搬送。んで、お前は、だな。簡単に言うと……ふむ、そうだな。ちょっと、手を出してみろ」

「……?」

 聖司の意図はよく分からなかったが、とりあえず言われるままに真人は右手を差し出した。聖司はそれを片手でぐいと引き寄せると、もう一方の手でテーブルの隅にあるペン立てからカッターナイフを取り上げる。

「え? ちょっと……?」

 あわてて手を引こうとした真人だったが、手首をがっちりと掴まれているので動かせない。聖司はそのままカッターナイフの刃を出して、ためらうことなく真人の指先を切りつけた。

「いてっ」

 大した傷ではないが、皮膚が切れて血が流れ出た。何をするんだ――と真人が抗議の声を上げるよりも早く、聖司は指先でそっとその傷に触れる。その瞬間――

「熱っ!」

 じゅ、という音が聞こえたかと思った。感触としては、熱したフライパンに触れてしまった時のものによく似ている。

「よし、治ったぞ」

「え……?」

 言われて見てみると、確かに指先の傷は跡形もなく消えている。もう痛くもない。流れ出た血だけはそのままになっているので、なんだかおかしな眺めだ。

「こういうわけで、お前は助かったわけだ。まあさすがにあんな重症を治すのは初めてだったから、少し苦労したけどな。……どうだ? 納得したか?」

 血を拭けということなのだろう、ティッシュの箱を投げて寄こしながら聖司は言う。しばらく自分の指先を眺めながらポカンとしていた真人だったが、やがて小さくため息をついた。

「まさか、この世に超能力者が実在するなんて……でも、こんなことができるなら、どうして佐宮さんも一緒に治してやらなかったんだよ?」

「バカ野郎。この能力はな、そんなホイホイと誰の傷でも癒せるような、都合のいいモンじゃねえんだよ」

「……男にしか使えないとか?」

「いや、もっと限定的だ。考えてもみろよ。そんな誰にでも使えるんだったら、俺はこんなところに居るワケがねえ。外国の戦争とかやってる場所に連れて行かれるか、そうでなきゃ、どこかで医者でもやってるさ」

「あ、そっか……」

 聖司の言うことはいちいちもっともだ。どちらにしても、あんな超常現象を目の前で見せ付けられては真人としては信じるしかない。それに、何より――

「まあとにかく、これで分かったよ。あんたは、俺にとって命の恩人なわけだ。……ありがとう、助けてくれて」

 真人がそう言った時、聖司は何故かとんでもなく複雑な表情を浮かべた。彼に感情のゆらぎが表れたのは恐らくそれが初めてだっただろう。そのまま何かを言おうとして――だけどまたふっと例の笑みを浮かべて、

「いや、いいんだ。後から言うけど、お前を助けたのはそれなりの事情があってのことだしな。それより、他に訊きたいことはないのか?」

 そう言った。なんとなく不可解なものを感じないでもなかったが、きっとそれも「後から言う」とかいう彼の話で解決するのだろう。とりあえず、真人は忘れかけていたもう一つの疑問をぶつけてみることにした。
「それじゃ、もう一つ。ここって、俺の家――じゃない、俺が小さい頃に住んでた家だよな? 今はここ、あんたが住んでるのか? 俺が昔ここに住んでたって知ってて連れてきたのか? だとしたら、なんのために?」

「お前、それのどこが『もう一つ』なんだよ」聖司は小さく笑った。「まあいいけどさ。別に隠すことでもねえし。確かにお前の言うとおり、俺は今ここに住んでる。お前が昔ここに住んでたってのも知っていた。ここへ連れてきたのは、署やら病院やらよりもここのほうが落ち着いて話ができると思ったのと、実はもう一つ理由があるんだが――」

 そこまで言って、聖司は心持ち姿勢を正した。手に持ったままだった湯飲みをテーブルの上に置いて、少し身を乗り出してくる。

「いきなりで悪いんだがな。これが本題だ。お前――俺の、弟子にならないか?」

「……へ?」

 変なリアクションをとってしまったのはこれで二度目になる。唐突におかしなことを言うのは聖司のクセなのだろうか。

「俺がOH課の人間だってのはさっきも言ったよな。弟子制度のこと、知らないか?」

 OH課。さっきは流してしまったが、そういえばそんなことも言っていた気がする。

 OH課について説明するためには、まずOHというものについて説明しないといけない。

 結論から言うと、OHというのは身体能力に優れた人間のことである。血中のOD(outdistancer)という物質の濃度が高ければ高いほど、人は優れた身体能力を発揮する。つまりOHというのは、血中のOD濃度が高い人間のことを指す呼称である。

 Outstanding Human――略してOH。最近ではこの呼び方が選民思想につながるという主張も出てきたりしているが、今のところ呼称を変更しようという流れはない。OHという言葉も今ではすっかり日本語化してしまっているし、中にはOHというのが何の略なのか知らない人も居るぐらいだ。そんな感じだからわざわざ変える必要もない、というのが偉い人たちの考えだろう、と真人は思っている。

「補助金が出るってやつだろ? それは知ってるけど……あのさ、俺の計数、いくつだと思う? 保有者ですらないんだけど」

 血中のOD濃度は、成長に従って変化する。そのため日本では、生まれてから二十歳になるまでの間、毎年一回OD濃度の検査を受けることが全ての国民に義務付けられている。

 その検査の内容は、体力測定と血液採取。後者は当たり前だからいいとして、何故前者が必要なのか。

 それは、当たり前のことであるが人間の身体能力はOD濃度だけで決まるものではないからである。生まれ持った体格や運動神経、またどのくらい体を鍛えているかということも当然関わってくるのだから――というわけで、血液採取の前に体力測定が行われるようになったのは、わりと近年になってからのことである。

 ちなみに真人が十二歳になるまでの間、彼はこの検査を本来なら一年に一度で済むはずのところを何故か毎月受けさせられていた。父親がOHであったためなのだろうと真人は思うことにしているが、その真相は未だ明らかではない。

 さて。その検査の結果からはじき出されるのが、さっき真人の言った「計数」である。一から百までの数値で示されるそれは、つまりその人物がどれくらいの身体能力を持っているかを表す数値というわけだ。それによって学校で体育のクラス分けがされたり、もっと重要なところでは将来的に就く職業にも違いが出てきたりもする。当然、この計数が高ければ高いほどいろいろと得をするわけだが、実際に計数のおかげで得をしている人間はごくわずかである。
 実はこの計数ごとに人々は四つのグループに分類されていて、三十以上でOH要素保有者、五十以上でOH候補者、七十以上でOHとなる。真人がさっき言った「保有者ですらない」というのはつまり「自分は計数が三十以下の凡人である」という意味なのだが、これは別に恥ずかしいことでも何でもない。というのも、人々の五割以上がここに分類されているからだ。三十以上五十未満の「OH要素保有者」も含めればそれだけで全体の七〜八割に届いてしまい、残りの約二割もほとんどが五十以上七十未満の「候補者」。百近い計数を持つ「OH」は、百人に一人居るか居ないかの割合でしか存在しないという具合である。だから真人は何のためらいもなく口に出したのだ。

 むろんこれは春樹真人という個人の考え方であって、世の中の誰もがそういうふうに考えているわけではない。人というのはそれぞれに違った考え方を持っていて、その中には計数が低いことに並々ならぬコンプレックスを抱いている人も居るのである。先ほど言った「OH」という呼称がどうのこうのと主張している人たちの本心には、恐らくこういう心情が隠されているのだろう。世間を知らない真人にでも、それぐらいは想像がつく。

「いや、それはいいんだ。お前でないといけない理由ってのがあんだよ」

 OHについて理解したならば、あとは簡単。OH課というのは、警察組織に属するOHのことである。

 先ほどはたんに「身体能力が優れている」としか言わなかったが、では具体的にOHがどの程度「優れている」のかと言うと、計数三十以下の人間と比べた場合、多少の個人差はあるが、一般的にOH要素保有者は約二〜三倍、OH候補者で五〜十倍、OHでは二十倍〜三十倍ほどの身体能力があると言われている。この数値を見れば分かるとおり、計数と身体能力は真っ直ぐに比例するのではない。このあたりはまだ科学的にもきちんと証明されているわけではないのだが、どうやら血中のOD濃度が高くなれば高くなるほど一定量のODあたりの働きも活発になるらしいというのが定説である。

 つまりどういうことかというと、OHが悪意を持って人を襲った場合、襲われたのが計数五十以下の人間だったならば逃げることも難しいということだ。自分の十倍以上の身体能力を持っている相手である。OHには逆らうな、というのが一般の常識になっているのも仕方のないことであろう(その常識に逆らった結果が昨日のあれなのだから、やはりその認識は正しいのだと真人は思い知らされたわけだ)。

 さて、ここでOH課の出番である。毒をもって毒を制する、ではないが、OHに対抗できるのはやはりOHだけ。百人に一人と言われるOHだが、その通りの確率で生まれるのだとしても日本には少なくとも百万人以上のOHが居るという計算になる。それだけ居れば当然いろんな人が居るわけで、「自分の能力を社会のために役立てよう」と頑張っている人間も居れば、「自分は選ばれた人間だ」と年中威張り倒している人間も居る。そして中には、その力を悪用しようと企てる人間もむろん出てくるのである。
 だからOH課が必要になるわけだが、残念ながらOH課になりたいと希望する人はかなり少ない。OH課は普通の公務員と比べて給与などの待遇もかなり良いのだが、それだけならば他にもっと良い就職先がたくさんある。中卒でもOHというだけで雇ってくれる企業は世の中を探せばそれこそ数え切れないほど存在している。入社後の待遇は所によりけりだが、たいていの場合はOH課に入るよりもずっと良い条件が用意されている。
 さらに、OH全員がその能力を生かした職業に就くとも限らない。芸術関係を志すOHも居れば、学問を修めようとするOHも居る。OH課に入りたいという人間は、もともと数少ないOHの中でもさらに少数派であるというのが現状である。
 というわけで、OH課は万年人手不足。いかめしくOH「課」などと名乗ってはいるが、実際に組織としてそんな課があるわけではない。そんな課が作れるほどの数のOHが、警察には居ないのである。「課」という呼び方は、たんに象徴的な意味合いで使われているだけだ。

 そこで考案されたのが、今二人が話題に挙げている「弟子制度」である。話としては簡単で、OH課に入ってくれそうな中高生、またはフリーターなどを探し出してスカウトし、前もって仕事を教えようという試みのことである。仕事を教えている間は「研修費」とかいう題目で国から特別手当が出て、スカウトされた人員が無事に警察へ就職すればさらにボーナスが出るという仕組みだ。スカウトする側はもとより、研修費のいくらかはスカウトされた側の人間に手当てとして渡すのが常例になっているので、そちら側とってもいい稼ぎになる。ということで、今から二十年ほど前から施行されはじめたこの制度は、それなりに効果を上げている。
 この制度に基づいて今聖司は真人に声をかけているのだが、ここで真人の計数が問題になってくるわけだ。OH課になる人間を集めるのだから、この制度でスカウトの対象になるのは当然OHだけである。なのに、今声をかけられている真人は、何度も言うようだが計数三十以下の凡人なのだ。それを怪訝に思って「俺の計数を分かっているのか」と言ったら、聖司は「お前でないといけない理由があるのだ」と答えた。そういう流れである。

「俺でないといけない理由……?」

「そう。その理由ってのが何なのかについては、お前がこの話を請けてくれたら話そうと思う。今話すと、お前はきっと断りにくくなっちまうからな」

 真面目そのもの、といった表情で話す聖司。とても冗談を言っているようには思えない。

「請けてくれたら、研修の間、慣例どおりお前にはいくらか金を渡す。お前一人が暮らしていくには十分すぎるくらいの額だ。今のバイトは辞めてもらわないといけないが、経済的にはむしろ今よりずっと楽になると思う」

 そこで一息ついて、聖司はずずっと音を立ててお茶の残りを飲み干した。空になった湯飲みをテーブルに戻すと、カタリと軽快な音がした。

「ま、つまりはそういうこと。話が前後しちまったけど、それがお前をここへ連れてきた本当の理由ってわけだ。もしお前がこの話を請けてくれることになったら、平日は放課後にここへ通ってもらわないといけないからな」

 真人は父親のことを思い浮かべてみた。

 OHの中でも特に強い力を持っていたという父、春樹秀彰(ひであき)。彼もまたOH課の人間で、真人にとっては憧れのヒーローのような存在だった。もっとも真人がそれを口にするといつも「俺はヒーローじゃねえ。吸血鬼だ」とよく意味の分からないことを彼は言ったものだが。
 とにかく、真人にとってのOH課というのは、そういった父のイメージそのものでありながら、父の死については殉職であったという説明だけで詳しいことは何も教えてくれなかった、という半ば恨みにも似た不信感を抱いている存在でもある。そのOH課に自分がなるというのは、一体どういう気分だろうか。

「俺じゃないといけない理由ってのは、やっぱり親父のことが関係してるのか?」

 聖司は「うーん」と唸って首をひねった。

「微妙だな。関係してるとも言えるし、全く関係ないとも言える。……まあ、その話はまた今度だ。中途半端に話したら続きが気になっちまうだろ。そしたら話さないでおいた意味がなくなっちまうしな」

 確かにその通りだと思った。もっとも、既に気になって仕方がないという気分になりつつあるのだが。

「念のために言っておくけど、この話を請けたからって絶対OH課に入らないといけないってわけじゃねえぞ。お前の進路はお前の意思で決めたらいい。あと、計数のことも気にするな。お前にとって、この話は請ける価値があるかどうか。そのことだけを考えてくれ」

 それが締めくくりの言葉だった。聖司はこのあと用事があるとかで、あまりゆっくり話をしていられないらしい。まだ他にも聞きたいことはあったが、話の続きはまた今度ということになった。

 帰り際に、聖司は昨日真人が持っていた荷物を渡してくれた。現場に落ちていたのを拾ってきてくれたらしい。しかしながら昨日着ていた制服はぼろぼろになってしまっていたようで(当たり前だが)、もう処分してしまったらしい。その代わりに、聖司は新品の制服を用意してくれていた。

 真人の通う私立井ノ水学園の男子の制服は、濃紺のブレザーに白のシャツ、チェックのネクタイ、ネクタイと同じ色のズボン(ちなみに女子はブレザーにブラウスとリボン、チェックのスカート)。これ一式を揃えるのには結構お金がかかるはずだが、聖司はそれについて何も言わなかった。ずいぶんと気前がいい。もっともこのぐらいの出費は、真人が弟子になればすぐに取り返せるのだろうが。

 返事は急がないからゆっくり考えてくれ。新しい制服を身に着けて出て行こうとした真人に向かって、聖司はそう言った。その時になって気がついたのだが、弟子になったら何をするのかとか、そういう一番大事な部分について真人は何一つ聞かされていない。これでは考えるもなにもあったものではないではないか。そう思ったが、口には出さなかった。高校生の身分で仕送りもなしに一人暮らしをしている真人にとって、この話はこれ以上ないほどに魅力的であるのは事実だし、これ以上あれこれ言うのはなんだか悪い気がする。

 最後にあの子が入院している病院の名前と場所だけ訊いて、真人は玄関を出た。そのまままっすぐにアパートへ帰ろうと思った。病院の場所が分かったところで、一人でのこのこと見舞いになど行けるわけがない。明日学校に行って、その帰りに誰か友達にでも同伴してもらって行くことにしよう。

 玄関から庭を渡り、出口の門のところまで来た時、真人は何となくそうしたくなって、振り返ってみた。
 広い庭の右側に、大きな柳の木が一本生えている。玄関から門への道には石畳があるが、その他には何もない。まるで学校のグラウンドのように、だだっ広い土の地面が広がっているだけだ。
 そしてその向こうに見えるのは、一階建ての平べったい屋敷。瓦葺きの屋根に冬の太陽が反射して、黒々と光っている。
 内装はかなり変わってしまったが、こうして外から見ると本当に何もあの頃と変わっていない。ああ、俺は帰ってきたんだ。今さらながらその実感がじんわりとわいて来て、寒空の下、真人は温かい気持ちになった。

 そうして、ふと思い出した。聖司が名乗った「アオハラ」という名字。どこかで聞いたことがあると思ったが、やっぱりそうだ。
 真人を産んですぐに亡くなったという、真人自身にとっては顔も知らない実の母親、春樹真弥。彼女の旧姓が、確か「青原」ではなかっただろうか。
 母の旧姓と同じ名字の人間が、この家に住んでいる。そのことにはきっと何か意味があるに違いないと思った。何故そのことを聖司が黙っていたのかは分からないが、それもまた次に訊けばいいだろう。

 そう、次だ。次がある。もう一度、俺はこの家に戻ってくることが出来るのだ。そのことが嬉しくてたまらない。何だかうきうきした気分で、真人は帰途についたのだった。



 真人が帰ってから一時間ほど経った後。空がうっすらと茜色に染まり始めた頃、旧春樹邸に一人の人物が訪ねてきた。

 歳は二十代後半から三十代の前半というところだろうか。背の高い男だ。長く伸ばした髪にはうっすらとパーマがかけられているようで、茶色の柔毛がゆるやかな曲線を描いている。
 レザージャケットの下にチェック柄のシャツ。ボトムスにはグレーのパンツを合わせている。落ち着いた色使いの服装が、夕日に映えている。

 男は無言のまま門をくぐった。そのまま少し歩いて柳の木の前あたりまで来たところで立ち止まり、人のよさそうな笑顔で「やあ」と短く言った。

「そろそろ来る頃だと思っていた」

 そう言って男を出迎えたのは、他でもない聖司である。柳の木に背中をあずけ、もたれかかるようにして立っている。

「彼はどうしたんだい?」

「もう帰した。あんたと会わせると面倒くさくなりそうだったんでな」

 俯きがちの顔を銀色の前髪が覆い隠し、表情を覗うことができない。口が動いているのがかろうじて見えるだけだった。

「ひどいな。僕も彼に会って、話をしてみたかったのに」

「あんたにそんな権利はない。俺がこうやって話をしているだけでも奇跡みたいなもんだ。それを忘れないでほしい」

 聖司の出で立ちは先ほどと同じだが、纏っている空気がまるで違う。声にも感情というものが一切感じられない。風に揺れる銀色の髪が、まるで氷のような冷たさを放っている。

 長身の男はすこし肩をすくめるような仕草をしたが、聖司の言葉に対しては何も言わなかった。一度小さくため息をついてから、また笑顔に戻って話題を変えた。

「それで、彼はどんな子だった? うまくやっていけそうかい?」

「さあな。まだ分からない。けど――」

 一瞬、言うべきかどうか迷うような仕草を見せた後、聖司は言葉を続けた。

「あいつは最後まで、佐宮塔子のことを一つも訊かなかった。それが少し気に食わない」

 気に食わない、と言いながら、彼の声には相変わらず何の感情も宿らない。どういう心情で話しているのかを一切読み取らせない口調。意図してそうしているのか、それともこれが彼本来の姿なのか。それすら見当がつかない。

「それは偶然じゃないかな。彼だって混乱していただろうし、塔子のことまで頭が回らなくたって仕方がないよ」

「どうだろう。それにしては、佐宮さつきのことだけはしっかりと気にしていたな。……まあ、どうでもいいさ。あいつが話を請ける気になればそれでよし、そうでなかったなら俺が――」

「彼には、どれくらい本当のことを話したんだい?」

 聖司が何かを言おうとしたところへ、男は言葉をかぶせた。まるで、その先を言わせまいとするかのように。

「差し支えのない程度に。嘘はつかないつもりだったが、つじつま合わせのための嘘も多少混じっちまったな」

 聖司は気を悪くした様子もなく、淡々と答える。
「なんにせよ、すべてを話したら、あいつはもうここへは来ないだろう。そうなることは避けたい。なにしろ、あいつには――」

 そこまで話して、聖司はようやく上を向いた。真人がダイアモンドと称した彼の瞳に夕暮れの空が映り込んで、真っ赤に染まっている。

信剣(ビリーヴス)を、渡さないといけないんだから」

 彼の視線の先で、カラスが二羽、並んで山へと飛んでゆく。だんだんと小さくなって、黒い点になって、やがて見えなくなるまで、彼の瞳はずっとその光景をとらえ続けていた。



 次の日から、真人は日常に戻った。いつも通りに目を覚まして、学校へ行った。

 この学校の生徒がOHに襲われて大怪我を負った、というニュースはかなり広まっていたが、それに真人が関わっていたということは誰も知らないようだ。昨日のことについては学校に連絡が行っていたらしく、病欠という扱いになっていた。担任の教師やクラスメイトには「もう具合はいいのか」というようなことを訊かれたが、特に細かく追求されることもなかった。誰か一人ぐらい生徒が欠席したところで、別にどうということはない。それが真人の生きる日常であるし、別に不満にも思わない。

 授業のあいだ、真人はずっと放課後のことを考えていた。
 アルバイトはもう休みをとってある。問題は、誰と一緒に行くか、ということだ。

 行く、というのは当然あの子のところへ見舞いに行くということである。昨日あれから少し考えてみたのだが、やはり一人では行けない。残念ながら今の自分とあの子はそんな間柄ではないし、どんな顔をして会いに行けばいいのか分からない。
 となると、やはり友達か誰かを誘わなくてはいけない。女の子のお見舞いに行くのだから当然誘うのも女子のほうがいいわけだが、女子なら誰でもいいというわけでもない。ちょっとした理由があって、自分と一緒に行ってくれそうな女子が少ないことを真人は承知していた。

 少し考えてから、真人は声をかける人物をある一人の女子生徒に決めた。まともに取り合ってくれそうな女子といえば、あの子ぐらいのものだろう。

 授業が終わるのを待ってから、真人は目的の人物のところへ向かった。その人物とは一年のとき同じクラスだったのだが、今は別のクラスだ。ちなみに今入院中のあの子は、一年のときも今も真人とは別のクラスである。

 隣の教室を覗くと、幸い目的の人物はまだそこに居た。帰り支度をしている彼女のところへ近付いて、声をかけた。

「菅(すが)永(なが)さん」

 真人の声に、その人物は無言のまま顔を上げてこちらを見た。彼女らしいショートカットの髪が活発に揺れる。

 菅永理佳。バレー部の女子、というもののイメージがそのまま現実に出てきたような女の子だと真人は思う。背が高くてしなやかな体つき。ストレートのショートカットがよく似合うはっきりとした顔立ち。性格も体育会系そのもので、さばさばしていて人当たりがいい。

 くるりと開いた大きな瞳が、覗うような視線を向けてくる。さっきも言った「ちょっとした理由」というやつのせいで、一年生の始めの頃に知り合った女子の中には、真人に声をかけられただけで嫌な顔をする人も多いのだが、この理佳はそんなことはしない。先入観で人と付き合うことはしないたちなのだろう。そのおかげで真人も理佳とだけはそれなりに話をできる仲になることができた。
 さらに都合のいいことには、理佳と入院中のあの子とは、中学時代からの親友であり、今でも休み時間のほとんどを一緒に過ごしているという仲だったりもする。まさに誘うにはうってつけの人物というわけだ。

 だけど、ことはそう簡単には運ばない。

「あのさ、佐宮さんの、お見舞いに――」

 佐宮さん、という単語が出た瞬間、理佳はちょっと呆れたような顔になった。またあの子のこと? という感じ。真人の予想したとおりの反応である。

「今から行くトコだけど。なに?」

 口調もどことなく突き放したような感じのするものだ。だけど「今から行くトコ」と教えてくれるだけ、ずいぶんとマシな反応と言わなくてはならない。これが他の子だったりしたら、「佐宮さん」という単語が出た時点で「知らない」とか言って追い返されているところだろう。

「そっか。……あのさ、できたら、一緒に――」

「ダメ」

 だけど、結局はこうなるのだ。真人はがっくりと肩を落とさずには居られなかった。

「話に聞いて知ってるとは思うけどさ。分かってるの? あの子、怪我してるのよ? ほんとに酷い怪我。それに、あんなこともあったしさ――」

 言い辛そうに、理佳はそこでちょっと言葉をつまらせた。
 あんなこと。その理佳の言葉が何を差しているのか、もちろん真人にもすぐに察しがついた。佐宮塔子のことだ。あの子にとって唯一の同居人である彼女が、先日亡くなったのだ。OH課の職務中に、殉職という形で。

「とにかく、今あの子は精神的に参っちゃってるの。そんなときに、あんたなんか連れていけるわけないでしょう」

 理佳の言い分はもっともだ。あの子の中に「落ち込んでいる時に会いたくなる人のリスト」みたいなものがあるとすれば、真人の名前は間違いなくその中には入っていないだろう。
 だけど、ここで引き下がるわけにもいかないのだ。

「菅永さんの言うとおりだけどさ。俺、どうしても佐宮さんに言わなくちゃいけないことがあるんだ。だけど一人で行くわけにもいかないしさ。なあ、頼むよ菅永さん、なんとか一緒に行かせてよ」

「でも――」

「じゃあ、病室の外まででいい。佐宮さんが、俺の顔なんて見たくない、って言ったら大人しく帰るからさ。な、マジで頼むよ、このとおり!」

 真人は少し頭を下げて、その前で両手を合わせてみせた。きっとまわりの生徒たちからは奇異の目を向けられているだろうけど、そんなことに構っている場合ではない。

「ちょ、ちょっと止めてよ。みんな見てるじゃない」

 当然、これは理佳にとっても居心地のいい状態ではない。慌てた声で、真人の行為を止めさせようとする。

「菅永さんが一緒に行ってくれるっていうまで止めない」

 真人はちょっとした脅しのようなものをかけてみた。ちょっと理佳に悪いような気がしないでもなかったが、彼女の態度からして、これはわりと効果がありそうだ。

「もう……ったく、ちょっと性格悪いんじゃない、春樹君?」

 その甲斐あって――かどうかは分からないが、真人の頭上で理佳がふっと態度を緩めるのを感じた。

「わかった、いいよ。連れて行ってあげるから、もう止めて」

 どうやら勝負あったらしい。ゆっくりと顔を上げると、困ったように笑う理佳の顔がそこにあった。

「ごめん、みっともない真似して」

「ほんと。大げさなのよ、まったく……」

 理佳はもう一つため息をついてから、少し真人に顔を寄せて小声で言った。

「ちょっとは周りの目も気にしてよね。さっきの図って、外から見たら春樹君が私をデートに誘ってるみたいだったと思わない?」

「え」

 言われて、真人もちょっと想像してみた。一緒に行ってくれと頭を下げている男、その先で困った顔をしている女の子――

「……確かに」

「でしょ?」

 理佳が可笑しそうにしているので、つられて真人もちょっと笑った。

「あとで私、質問責めにあっちゃいそうだね」

 まあいいんだけど、とはにかむような笑顔を見せながら、理佳は鞄をとって歩き始めた。
 きっと沈んだ気持ちで見舞いに向かうんだろう、と思っていたが、理佳のおかげで思ったよりは気楽に行けそうだ。理佳の性格に内心で少し感謝をしながら、真人は学校を出たのだった。



 あの子が入院している病院は、学校の最寄り駅から電車で二駅ほど行ったところにある大型の総合病院である。学校から駅までは近いので、電車を降りてから病院までの道のりを含めても二、三十分ほどで着くことの出来る距離だ。実際、理佳は昨日もお見舞いに行ったらしいのだが、その後また学校に戻ってバレー部の練習に参加したらしい。今日もそうするつもりだということで、あまりゆっくりはしていられないのだとか。

 というわけで、最低限度の寄り道しかせずに二人は病院に向かった。ちなみにその最低限度の寄り道というのは、あの子の自宅であるマンションに寄って着替えやら何やらを鞄に詰めた(理佳は昨日見舞いに行ったときに鍵を預かってきたらしい。こういうところを見ても、いかにあの子が理佳のことを信頼しているのかがよくわかる)のが一回と、病院近くの花屋に立ち寄ったのが一回の計二回だけである。

 そんなこんなで病院についた。正面の門のところに、「信原総合病院」とある。遠くから見たことなら何度かあったが、実際に中へ入るのは真人にとってこれが始めてだ。
 理佳は受付に一言声をかけてから、三階にあるというあの子の病室にまっすぐ向かった。真人も大人しくそれについていく。
 歩くたび、スニーカーの底がリノリウムの床にこすれてゴム質の音を立てた。廊下は隅々まできれいに磨いてある。実際、階段で(もちろんエレベーターもあったのだが、理佳が階段を使うと言って聞かなかった。どうやら部活の練習に遅刻する分を補っているつもりらしいが、何故それに真人がつき合わされるのかは不明である)三階まで向かう途中、掃除係の人と何度かすれ違った。どうやら悪い病院ではなさそうだ。

「分かってるわね? あの子が『会いたくない』って言ったら、大人しく帰るのよ」

 病室まであと少しというところまで来たとき、理佳はそう言って念を押した。真人は素直にうなずく。真人としてはあの子の顔ぐらいは見ておきたいけど、それをあの子が迷惑に思うのならば無理に会うつもりはない。

 そのまま少し歩いて、あの子の病室の前まで来た。理佳は真人に振り返って「ここで待ってて」と言う。そうして理佳がドアノブに手をかけようとしたとき、それより先にドアが内側から開いた。

 中から現れたのは、若い男だった。若いと言っても真人よりはずっと年上で、たぶん二十代後半ぐらいだろう。茶色く染めた長髪にうっすらとパーマをかけている。すらりとした長身、黒のスーツ姿だがネクタイはしておらず、うすいグレーのシャツのボタンを第二ボタンまで外している。――大人の男。今の真人にはまだない男の色気というものがどことなくにじみ出ているような気がした。
 その男は真人たちに気がつくと、「おや」と小さく言った。

「さつきちゃんの友達かい?」

「はい、そうです」

 声をかしこまらせてそう答えたのは、真人ではなくて理佳だった。真人と話す時とは露骨に態度が違う。相手が大人だからなのか、それともかっこいい男だからなのか。かっこいい大人の男だから、というのが一番正解に近いだろうか、と、明らかにどうでもいいことを真人は考えていた。
 ふと顔を上げると、真人は男と目があった。その瞬間、気のせいか、男が一瞬驚いたような顔をしたように真人には見えた。が、やはり気のせいだったのか男はとりわけ何も言わず、ふっと優しげな大人の笑みを浮かべる。

「そうかい。ま、彼女をよろしくね」

 それじゃ、と小さく手を振るような動作をしてから、男は真人たちの横を通り過ぎて行った。
 結局、今のは誰だったんだろう。なんとなく気になって、去ってゆく背中を目で追ってしまう。すると、声が届かない程度に男が離れたところでふと、真人の懸念をさらに大きくするようなことを理佳が言った。

「あの人、誰なんだろ。昨日もこの病院に来てたんだよね。廊下ですれ違っただけだったんだけど、おしゃれだなって思ったのが印象に残ってるから多分間違いないと思う。ひょっとして、昨日もさつきのお見舞いに来てたのかな?」

「ふうん」と努めて無関心な声を出しながら、真人の心の内は穏やかではなかった。あの男は真人と違って、一人で見舞いに来ているのだ。まあさすがにあの子とは歳が離れすぎているとは思うが、それにしたって気にならないはずがない。

「塔子さんの恋人とかかな……?」

 なんとなく呟いたそのセリフには、そうであって欲しいという真人の思いが多分に含まれていた。お見舞いに来てみたら、実はあの子に年上のかっこいい彼氏が居るということが明らかになって――というのでは、あまりにも惨めすぎるではないか。

「塔子さん……って、さつきのお姉さんのこと? 春樹君、お姉さんとも知り合いだったの?」

 真人が思い悩んでいると、いきなり理佳がよく分からないことを言った。さつきのお姉さん、だって? 塔子さんが?

「……あの子が、そう言ったのか?」

「え?」

「あの子が、佐宮さんが『塔子さんは自分のお姉さんだ』と、自分でそう言ったのか?」

「う、うん、そうだけど……なに、どうかしたの春樹君。そんなに怖い顔しないでってば」

 む、そうか。真人としてはそんなつもりはなかったのだが、いつのまにか怖い顔になっていたらしい。

「とにかく、私が先に入るから。いいって言うまで、絶対に入って来ちゃだめだからね」

 逃れるようにして、理佳は病室の中へ入っていってしまった。少し悪いことをしただろうか。今の真人はいわゆる「テンパりすぎ」というやつなのかもしれない。

 一つため息をついて、真人は廊下の壁にもたれかかった。ドア越しに、理佳を迎えるあの子の声が聞こえてくる。学校の様子はどうだとか、どうやらそういう世間話みたいなものをしているようだ。明日からはもっとたくさん友達を連れてくるから、と理佳が言っているのが聞こえた時には、内心真人はどきりとしてしまった。もしそれがあの子を励ますためのウソでないのだとしたら、明日からはお見舞いに来づらくなってしまうかも知れない。

 それらの会話に耳を傾けながら、真人は廊下の窓に映った自分の顔をぼんやりと眺めていた。短く刈り込んだ髪、凹凸の少ない平坦な顔立ち。スポーツマンでもないくせに、飾り気というものがまるで無い。

 だけど、今の状況ではそれも致し方ないと思っている。中学校の頃まで面倒を見てくれていた親戚の家を出て以来、つまり高校生になって以来、なにしろ金がない。髪を短くしているのだって、そっちの方が似合うだとか、髪をセットするのが面倒だからとかそういう理由からではない。たんに真人の生活が整髪料一つ買うのにもためらってしまうほどに窮しているだけの話である。
 
 今の真人はそういう生活を送っている。あの子はどうなのだろうと考えてみた。塔子もOH課だったから今まではお金に苦労していなかったはずだけど、これからはどうするつもりなのか。そりゃあ多少は塔子が遺した金もあるのだろうが、そんなものは一時的な助けにしかならない。真人と違ってあの子には学費を立て替えてくれる親戚なんてのも居ないはずだし、これからはかなり苦労するはずだ。まさか学校をやめてしまったりしないだろうか。そんなことまで心配になってくる。
 
 ――ああ、くそ。
 
 もどかしくなって、真人は心の中で悪態をついた。あんなことがなければ、親父の貯金からでもいくらか分けてあげられるのに。

「ねえ、君」

 ふいに、廊下で声がした。まさか自分が呼ばれているとは思わなかったので、はじめ真人は反応しようともしなかった。

「君だよ、そこの君」

 重ねて呼ぶ声がするので、いちおう声のするほうに目を向けてみると、そこに居た人物とばったり目が合ってしまった。
 さっき病室から出てきた男だった。周りに目を配ってみても、廊下には真人の他に誰も居ない。

「そうそう、君だよ」男はやんわりと微笑んだ。「君、ひょっとして春樹真人君じゃないかい?」

「……え」

 なんだか、昨日にもあったような場面である。なんだ、俺ってそんなに有名なのか?

「そうか、やっぱりそうなんだね」

 真人の驚きを、男は肯定と受け取ったらしい。少しの間なにやら考えるような仕草をしたあと、

「ごめん、何でもないんだ。あの子をよろしくね」

 さっき言ったのと同じようなセリフを言い残して、そのまま足早に歩いていってしまった。

「……なんだ、今の」

 当然、真人はわけが分からない。しばらく首を捻ってはみたが、分からないものは分からない。とりあえずは忘れることにして、意識を病室内の会話に戻した。

 ちょうど、理佳が真人のことを話し始めたところだった。実は外で待っているのだけど――という理佳の話に、あの子は会ってもいいと言ってくれた。よくは聞こえなかったが、どうやら「訊きたいことがある」みたいなことを彼女は言っているようだ。
 よかった。会ってくれるのか。安堵すると同時に、ちょっと心配にもなった。訊きたいことって何だろう。何しに来たんだとか、もう二度と来るなとか、そういうことじゃなければいいのだけど。

 病室のドアが開いて、中から理佳が顔を覗かせた。

「会ってもいいってさ。入ってきて」
 


 ほとんどが白で埋め尽くされた、清潔な病室。壁、カーテン、シーツ。全てが白い。

 それに同調するかのように、青白い顔をしたあの子――佐宮さつきの姿が、ベッドの上にあった。

 頭全体に包帯が巻かれている。そこからわずかにはみ出したセミロングの黒髪が右頬に張られた分厚いガーゼにかかっていて、なんだか余計に痛々しい。両手は指先近くまでギブスで覆われており、アームリーダーを使って胸の前あたりで交差するような形で固定されている。下半身は毛布に覆われていて分からないが、足が吊るされていないことを見ると足の骨折はなかったのかも知れない。それでも見える部分のほとんどに包帯が巻かれていて、いかにも事件の被害者という姿である。

 目を逸らしたくなるのを必死に耐えた。脳裏をよぎるのは、血にまみれて倒れている彼女の姿。二日前の夜の出来事である。殴られ、蹴られ、何度も悲鳴を上げる彼女を前にして、真人は一歩も動けなかった。OHには逆らうな。長年染み付いたその常識を覆す勇気が、最後の一瞬になるまで出せなかったのだ。
 自分には見舞いに来る権利はないと思った。来る義務があると思った。相反する二つの想いが真人の中をぐるぐると回って、思考をかき乱す。俺は、約束を守れなかった――

「春樹君」

 呼ぶ声が聞こえても、真人は顔を上げられなかった。今の自分はきっと怖い顔をしている。今顔を上げたって、さっき理佳にやったみたいに、さつきを怖がらせてしまうだけだ。

「どうして黙ってるの? せっかく来てくれたんだから、何か話をしようよ」

 理佳の声でないのは分かっていた。これはさつきの声だ。さつきが、自分に向かって話をしようと言ってくれている。

 彼女がそんなことを言ってくれるのなんて、一体いつ以来だろうか。真人はゆっくりと顔を上げた。
 とたんに、さつきの瞳が真人をとらえた。大きくもなければ小さくもない、だけど笑うと独特の愛嬌があるさつきの瞳。今は愛嬌なんてかけらもなくて、その代わりにひどく弱々しい光がそこに宿っている。

「さつきちゃ――」と思わず口に出しそうになったところで、ベッド脇のパイプ椅子に腰掛けている理佳にぎろりと睨まれた。いけない、そういえばお目付け役が居たんだっけ。

「佐宮さん。具合はどう?」

 ――佐宮さん。それを口にするのはもう何度目になるか分からないが、未だに真人は慣れることができない。

「うん、元気だよ……とは言えないよね、このザマじゃ」

 ベッドの上でさつきは小さく微笑んだ。無理に作っているのが丸分かりの、痛々しい笑顔。

「あちこち痛いし、身体の自由はきかないし……けっこうキツいかな、正直。特に両手が使えないのが――あ、ごめん。春樹くんも座って。そこにもう一つ椅子があるから――あ、いたたたっ」

「こら、無理して動いちゃ駄目でしょうが」

 突然さつきが痛がり始めたので真人は驚いてしまったが、理佳の態度からするといちいちそんな気にするものではないのかも知れない。まあそれにしたって、彼女のこんな、文字通り痛々しい姿を見て平静を保っていることなんて真人にはできそうにもないが。

「ね、分かるでしょ。なんにも出来ないよ、これじゃ」

 またさつきは笑顔を作った。そうせずには居られないかのように。それ以外の表情を忘れてしまったかのように。
 理佳がベッドの下から椅子を引いて出してくれたので、真人はそこに腰掛けた。

「食事とかはどうしてんの?」

 真人はなんともなしに訊いた。あまり意味はない。何か言わずにはおられなかっただけだ。

「看護婦さんが食べさせてくれるんだけど……あれは恥ずかしいよ、ほんとに。まさかこの歳になって『あーん』とかやらされるとは思わなかった」

 さつきはよく喋った。真人が一言何かを言えば、二言三言の答えが返ってくる。

「あははは。昨日は私もやってあげたもんね。あんた、恥ずかしがりすぎだって。こんな時ぐらい遠慮なく人に頼ったらいいのに」

 それに合わせているのか、理佳の声も明るい。

「それにしても、彼氏が居たらよかったのにね。そしたら甘えられたでしょ? 『ねえ、食べさせてぇ』とか言ってさ」

「えー、しないよそんなこと」

 明るい声が飛び交う病室。なんだか違和感を覚える。これでいいのだろうか? さつきが無理をしているのは明らかなのに、このまま放っておいていいのだろうか。理佳はどう思っているのだろう。

「……君。春樹君ってば。どうかしたの?」

「っと。なに?」

 考え事をしている間に、どうやら自分の名前が呼ばれていたらしい。真人はあわてて顔を上げた。

「なに、じゃないっての。さっきからいきなり怖い顔したり、そうかと思えば次は黙り込んじゃったりしてさ。一体何なワケ? なにか言いたいことでもあるの?」

 理佳が問い詰めてくる。どうやら外から見た真人の様子はよほど変だったらしい。

「ああいや、別になにもないんだ。気にしないでくれ」

 そう答えてから、ふと、先ほど廊下で聞いたやりとりのことを思い出した。

「そういえば佐宮さん、何か俺に訊きたいことがあるとか言ってなかった?」

「……あんた、盗み聞きしてたの? いやらしい」

 理佳の咎めるような視線は、この際無視だ。

「あ、うん。あのね……」

 言いながら、さつきはじろじろと真人の全身を眺め回すような視線を向けてきた。一体何なのだろう。ひどく居心地が悪い

「春樹くん、悪いんだけど……ちょっと、後ろを向いてくれない?」

「へ? なんで?」

「訳は後で言うから。ね、お願い。ちょっとでいいから」

「……まあ、別にいいけど」

 さっぱりわけが分からなかったが、あえて断る理由もないので真人は言われるままに従った。理佳も「なんの意味があるの」というようなことを言ったが、さつきは何やら考え込んでいるらしく、返事をしなかった。
 後ろを向いた真人の目に映るのは、病室の真っ白な壁だけというひどく味気ない光景だ。それでいて、背後ではさつきが自分の背中をじろじろと観察しているのかと思うと、なんだか首のうしろあたりがむず痒くなってくる。

「……やっぱり、そうなのかな。うーん……でも、あれは……」

 さつきは何やらぶつぶつとつぶやいている。いつまで後ろを向いていればいいのだろう、と思い始めたちょうどそのとき、

「……あ、ごめん春樹くん。もういいよ」

 お許しが出たのでさつきのほうに向き直ってみると、彼女はなんだかひどく自信なさげな顔をしていた。

「あの……違ってたらごめんね」

 それでいて、上目遣いで向けられた視線は明らかに何かを期待している。

「春樹くん、さ。おとついの夜、私が襲われたとき……ひょっとして、助けに来てくれた?」

「……え」

 予想外の言葉だった。確かにそれはある意味間違ってはいないが、真人が飛び出したのはさつきが意識を失って、いよいよ止めを刺されようという場面になってからのことだ。それなのに、さつきは真人に気がついていた?

「あの夜、私、いきなり襲われて……逃げようとしたんだけど、ダメだった」

 その時のことを思い出したのか、さつきはぶるりと身震いをした。

「ボコボコにされて、意識がなくなりかけて、襲ってきた人が刃物みたいなのを振り上げるのが見えて――もうダメだって思ったとき、ぼんやりとだけど、誰かの背中が見えた。なんだか、泣きたいぐらい嬉しかった。この世界にはまだ私を守ってくれる人が居るんだって」

「……それが、俺の背中だって言うの?」

「うん。……違う?」

 何と答えるべきなのだろう。さつきの瞳は明らかに真人の肯定を期待している。だけど、それは――

「……ごめん。それ、俺じゃないよ。俺、昨日は普通にバイトして、そのまま家に帰ったから」

 さつきの顔に落胆の色が広がるのを見るのは、正直あまりいい気分ではなかった。視線をそらすついでに何気なく時計を見てみると、いつの間にか結構な時間が経っている。

「もうこんな時間だけど、菅永さん、部活は大丈夫?」

「え……? あ、いけない、そうだった。ごめんさつき、私もう行かなきゃ」

 理佳は真人の期待通りに動いてくれた。真人の意図を汲み取ってくれたのか、それとも本当に時間がないのかは分からないが。

「うん、分かってるよ。練習がんばってね」

 さつきは少し残念そうな顔だったが、自分のせいで迷惑をかけたくないという思いのほうが強いのだろう。最後にはまた笑顔を見せた。理佳が立ち上がったので、それにつられるようなふりをして真人も立ち上がって、

「ごめん、俺も帰るよ。バイトもあるしさ」

 また嘘を言った。今日、アルバイトは休みなのだ。

「……うん」

 真人に対する返事はそれだけだった。さっきまでのさつきがあんなに饒舌だったのは、「この人は自分を助けてくれた人かもしれない」という期待が裏にあってのことだったのだろうか。それを思うとなんだかさつきに対してひどい裏切りをしてまったような気がするが、どうしようもないことだとも思った。本当のことなんて言えるわけがない。俺は君を見殺しにしようとしたのだ、なんて。
 それじゃ、と軽く挨拶してさつきに背中を向けたとき、追いすがるようなさつきの声が聞こえた。

「ねえ、また来てくれるよね?」

 最初、理佳に言ったのだろうと思った。だけど振り向いてみると、さつきが見ているのは真人のほうだった。
 真人はちょっと嬉しくなって、ようやく、病院に来てから初めて、自然な笑顔を浮かべた。

「もちろん。また来るよ」だって、俺と君は――

 その先に続く言葉をぐっと飲み込んで、真人は病室を出た。



 帰り道、理佳はしばらく無言で歩いていたが、駅について電車待ちをしているとき、不意に言った。

「ねえ、さっきの話だけどさ」

 それがあの夜の話だというのはすぐに分かった。

「あれ、本当はどうなの? さつきの言う通り、春樹君、現場に居たんじゃない?」

 一瞬驚いてしまった真人だったが、それはそうかとすぐに納得した。あの時の、驚きを隠しきれてはいなかっただろう自分の顔。その後、否定の言葉を発するまでの微妙な間。さつきは気がつかなかったようだけど、第三者から見れば確かにあからさまだったかも知れない。

「春樹君、昨日休んでたよね。病欠とかいう話だったけど、今日の春樹君、とても病み上がりには見えないし。ねえ、本当は何があったの?」

 それが止めだった。もともと、理佳に対しては無理に隠しておく必要なんてないのだ。
 さつきには黙っておくという約束をとりつけてから、真人は事情を説明した。あの夜本当は何があったか、そしてどうしてそれをさつきに話すことができなかったのか。ただ、聖司のことについては話すとややこしくなりそうだったので省いておいた。真人が気を失った理由については、突き飛ばされて頭を打ったのだ――ということにしておいた。

「その話、変よ」

 全部話し終える頃には、二人は学校に戻ってきていた。そのまま校門を通り過ぎながら、真人が話し終えた途端に理佳はそんなことを言った。

「こんな言い方はしたくないけど……それじゃあ、さつきが助かったはずがない。春樹君がそこで意識を失ったんだったら、その後犯人はいくらでもさつきを――その、殺す、ことができたわけじゃない?」

 殺す、の部分を口にするとき、理佳はちょっとためらった。正直あまりおしとやかな印象ではない彼女だけど、別に過激というわけではないのだ。

「それにさ。これは昨日から思ってたんだけど、さつきが襲われた理由が一体何だったのか、ちっとも分からないのよね。犯人はOHだったんでしょ? その上、刃物まで持ってた。命が目的だったなら、殴るとかじゃくていきなり斬りかかっていたと思わない?」

 確かにそれはそうだ。さすがは理佳、というべきか。

「いやらしいことが目的だったのか、とかも考えてみたけど、春樹君の話を聞くかぎりではそんな感じでもないし……ほんと、ワケ分かんない。そんなワケ分かんない奴がまだ捕まってないって思うと、ちょっと怖いよね」

 話しているうちに、体育館の前まで来てしまった。別に真人はここに用があったわけでもないし、そもそも学校に戻ってくる必要自体なかったわけだが、なんとなく理佳に付き合っているうちにいつの間にかここまで来てしまったのだ。

「でも、ちょっと見直しちゃったな。OHに飛びかかるなんて、春樹君、勇気あるんだね」

 別れ際、理佳はこんなことを言った。

「もし私がその犯人に襲われたら、その時はまたお願いね、春樹君!」

 いたずらっぽい笑顔を残して、理佳の姿は体育館の中に消えていった。
 とんだ皮肉だ。真人は思った。勇気あるんだね、だって? そんなことがあるはずがない。もしそうだったなら、さつきはあんな怪我をせずに済んでいたのだし、真人自身もこんなにうじうじ悩むことはなかったのだから。

 ――もし私がその犯人に襲われたら、その時はまたお願いね、春樹君。

「……無理だ。そんなこと、俺には出来ない――」

 見上げた空は、驚くほど真っ赤に染まっていた。











ゴールドアームの感想

 感想人のゴールドアームです。
 
 旧作品のリテイクとのことですが、とりあえず現時点では、まだ物語が動き出した段階ですね。ご要望にもありましたが、確かにストーリーについてはまだ何ともいえません。 で、設定や文章表現について、とのことですが。
 
 一通り読んだ感じでは、特に違和感のようなものは覚えませんでした。
 私は作品に感想を求められたとき、まず「一気に読み通せるか」を重視しています。
 文章構造や表現に問題のある作品は、たいていこの段階で引っかかりをおぼえるものですので。 その点M.S.T.さんの作品には、そういう引っかかりは感じませんでした。キャラクター的にも、主役の真人や聖司は、きちんとキャラができていると感じられました。そのほかの脇役に関しては、まだ少し印象が薄いですが、これは物語としてのバランスにも寄りますので微妙なところですが。
 
 設定に関しても、とりあえず『現在必要なことは説明されている』と感じました。
 これは結構大事な点で、設定は説明不足でもいけないですが、過剰に出し過ぎても問題になるものです。その点では明らかにすることとそうでないことを、きちんと区別できているとき感じました。矛盾も現時点では見えませんね。
 

 では、続きを頑張ってください。ゴールドアームでした。