六 春樹 真人
天野が作ってくれたというハムエッグとコーンスープ、こんがり焼けたトーストを頂いてから(朝はご飯と味噌汁がベストだと思うのだが、ここは文句を言える立場ではないだろう)、俺は天野と一緒に一旦町に戻ることになった。しばらく聖司の家に泊り込むことになるという事なので、着替えやその他もろもろの荷物を取りに帰る必要があったというわけだ。
……そう言えば、彼女は、塔子さんと二人で暮らしていた家に戻るわけか。ふと心配になって、「大丈夫か?」とだけ声を掛けると、どうやら彼女は俺の言いたい事が分かったらしく、「バカね、大丈夫よ」と、強気に微笑んで見せた。
「準備できたら電話して。それじゃ、また後で」
別れ際に番号を交換して、二人はそれぞれの家路についた。
時刻は、午前九時を少し過ぎたあたり。登校やら出勤にはもう遅いし、主婦が買い物に行くにはまだ少し早い時間。あまり人通りのない住宅街の道を抜け、何だか随分久しぶりな気がする我が家に帰って来た。
「―――たった一晩、帰って来なかっただけなのにな」
壁の薄汚れた、築七年だという鉄筋コンクリートのワンルームマンション。フロアリングの六畳にユニットバス、申し訳程度に付いたキッチンという、いかにも学生が住んでそうなその部屋は、自分にとって何だか随分懐かしいものに感じられた。
部屋に上がってまず、置きっ放しにしていた携帯を見ると、「着信一件あり」の表示。履歴の一番上には、昨日の夜十一時に「井上永治」の名前があった。きっとまた、いつもの下らない電話だろう。とりあえず気にしないことにして、作業を始める事にした。
大きめのバッグを用意して、荷物を詰め込み始める。別に着替えさえ持っていけば後は何とかなるのだろうが、しばらく泊り込む事になるなら他にも色々持っていくものが出てくる。一応こだわりを持っている整髪料、読みかけだった本数冊、その他もろもろのつまらない物。TVゲーム機とかも入れようとしたけど、そういえばあの家にもあった事を思い出して止めておいた。
「これでよし、と」
パンパンに膨らんだバッグのチャックを強引に閉め、準備完了。携帯を取り出し、先ほど教えてもらった天野の番号をダイヤルする。
『春樹くん? 早いわね、もう終わったの?』
どうやらもう登録済みだったらしく、電話に出るなり彼女はそう切り出した。
『こっちはまだだから。悪いけど、あそこで待っててくれる? ほら、昨日のあそこ』
ろくに答える暇もないまま、それじゃ、と一方的に電話が切られる。
彼女らしい、その無愛想な電話でのやりとりに思わず苦笑したが、気を取り直してすぐに出ることにした。彼女が何のつもりで昨日の川辺を指定したのか分からないが、とりあえず先に行くに越したことは無いだろう。このまま部屋に居ると、昨夜一睡も出来なかった事もあって、睡魔が襲ってきそうだ。もしこのまま寝てしまったりした日には、後で何を言われるか分かったモンじゃない。
部屋を出て、徒歩で昨日の川辺に向かった。そういえば、あの場所はアパートのすぐ近く。歩いて行っても、三分も掛からないうちに到着した。
見れば、ベンチには先客が居るようだった。仕方なく荷物を地面に置いて、立ったまま待つことにした。
しばらく、そのままボーっと彼女が来るのを待った。流れる空気は平穏そのもの。昨夜の痕跡を何も残さないこの場所は、まるで何も無かったかの様に、何も知らないかの様に振舞っている。
「―――ふう」
まだ冬の色を残す少し冷たい風が、ため息をつく自分の頬を撫でていく。
今は、この時間が心地よく感じられた。もしかしたら、しばらくこんな平穏な時間はなくなるのかも知れない。きっと考えすぎなんだろうけど、そう思うと、こんな何でもない時間がこの上なく貴重なものに感じられた。
「―――君、知ってるかい? 昨夜、ここで殺し合いがあったんだよ」
「えっ―――」
しかし。そこへ、急にそんな声を掛けられたもんだから、せっかくの平穏は一瞬にして霧散してしまい、一転して場が緊張に包まれた気がした。
とっさに振り向いた視線は、何食わぬ顔でベンチに座っている男以外、何も捉えない。どうやらその声は、そこから発されたらしかった。
「お、どうやら正解だったようだね。ああ、そんな怖い顔、しないしない。別に僕は、君の敵という訳じゃないよ」
「――――」
敵じゃない、と言っている時点で、この男が裏の世界の住人である事は明らかだろう。なら、「守護者」だろうか。言われてみれば、何となく父や塔子さんに似たものを感じなくもない。
年の頃は、三十代前半というところか。あるいは、優男風に伸ばされたその髪が、実際より男を若く見せているのかも知れない。黒のツイードロングコートに身を包んだその人物に、このような場所は不似合いな筈なのに、その実彼の姿はこれ以上ない程この平和な光景に溶け込んでいた。
「信じられないかい? 困ったな。僕は、この町に新しく配属された「守護者」なんだ。この町の住人とは仲良くしたいんだけど」
「……何で、昨日ここであった事を知ってるんです?」
「ん? おかしな事を言うね、君は。そんなの、魔力の残滓を見ればすぐに分かるじゃないか。僕、そんなに信用できない顔してるかな。―――ああ、もしかして、君が関係者だと知っている事が不思議だとか? それならあてずっぽうだよ。君は本当にうまく魔力を隠しているからね。正直、ちょっと自信なかったんだけど」
ハハ、と。少年の様な語り口調で、男は屈託のない笑顔を見せる。……分からない。この男、信じていいのか、どうなのか。
「―――うそ。なんであんたがここにいるのよ」
しかし。その疑問には、男の後方から聞こえてきた、一晩ですっかり聞きなれてしまったその声が、あっさりと答えてくれた。
そうして、そちらへ視線を向けた途端、思わずどきりとしてしまった。どうやら、昨日の格好は動きやすさ重視だったらしい。彼女は、ふわふわしたウールがついたショートコートにプリーツスカートという、随分と女の子らしい服装に着替えており、必要以上に「女の子」を感じてしまったから。
「やあ、さつき。久しぶりだね。しばらく会わないうちに、随分と綺麗になった」
「……そのなんにも考えてない顔は相変わらずね、慶。まさか、あんたが塔子の後釜ってわけ?」
男は、そんなこと普通言わないだろうと言いたくなる、歯の浮く様な台詞を口にしたが、彼女は全く気にした様子も無い。むしろ逆。訝しげに、何か難しい表情を浮かべている。
「ああ、そうだよ。どうしたんだ、何か問題でもあるのかい?」
「……いえ。ま、考えすぎかな。悪いけど、今は久しぶりの再会に浸ってるヒマはないの。あなたが来たのならこの町は任せておいて大丈夫だろうから、ますます留まっておく理由は無くなったしね。後腐れがなくて助かるわ。さ、行きましょ春樹くん」
「ん、あ、ああ」
いきなり話しを振られ、よく分からない返事をしてしまう。彼女がこっちをろくに見ないままさっさと歩き出してしまったので、慌てて荷物を抱えなおし、彼女の後を追った。
そうして、男の前を通り過ぎようとした時、
「―――この不思議な力の残滓は、君のものなのかい?」
ケイと呼ばれたその男は、そんな事を言ってきた。一瞬、何の事か分からなかったが、少し考えると、ああ、と思い当たった。
「あ、さっきは失礼しました。よく分からないけど、多分それは俺じゃないですよ。きっと、俺たちを助けてくれた奴のじゃないかな」
「そうか。なら、その人に伝えておいてくれ。気をつけて力を使うように、と」
「―――? はあ、分かりました、とりあえず伝えておきます。それじゃまた、えっと……ケイ、さん」
「ああ。きっとまた会うことになるだろうからね」
男の言い分は、よく分からない。とりあえず気にしない事にして、その場を後にした。
大通りに出て、タクシーを拾う。聖司に教えてもらった住所を伝えると、意外な長距離に機嫌をよくしたのか、運転手は快調に車を走らせ始めた。
特に話題も無くて、車内にはしばらく沈黙が続いた。彼女は、黙って窓の外を見つめている。何となく話しかけ辛かったけど、道中ずっと黙っているのもなんなので、
「なあ、よかったのかあんなので。久しぶりに会った知り合いだったんだろ?」
彼女の横顔にそんな質問を投げかけてみた。
「いいのよ、別に大して話すこともないし。今は早く戻って、話の続きを聞く方が大事でしょ?」
彼女は流れていく外の景色を眺めたまま、こちらを向かずに答える。
「まあ、天野がそう言うならいいけど。……あ、そういえば天野、あの人を見たとき何か考え込むような顔してたよな。あれ、何だったんだ?」
「……そんな分かりやすい顔してた、私? まあいいけど。ちょっと気になった事があってね。さっきのやつ――柏原慶、っていうんだけど、あいつは今「協会」でナンバーワンって言われてる凄い奴なの。あなたのお父さんにしたってそうだったでしょ? 私が気になったのは、それ。どうしてそんな凄い「守護者」が、たて続けにこんな大して人口も多くない町に来るんだろう、って。ちょっと気になったの」
運転手は、なんの話しをしているのかとさぞかし不思議な顔をしているに違いない。そもそも、平日のこんな時間にタクシーに乗っている、十代にしか見えないであろう自分達を見て、この人はどう思ってるんだろう?
「まあ、でも偶然でしょうね。派遣される「守護者」って、手の空いてる者から適当に選ばれるらしいから」
彼女はやはり窓に向けられた視線を動かさず、呟くような声で続ける。目をこちらに向けようとしないその横顔が、なんとなく、今はあまり話したい気分じゃない、という意思表示のような気がして、そこで話は止めておいた。
彼女に倣って、窓の外に目を移してみた。流れていく景色をじっと眺めながら、やっぱり彼女の様子が気になったけど、しかしやっぱりそれ以上話し掛けられなかった。
七 天野さつき
家に帰っても、やっぱり誰も居なかった。試しに「ただいま」とか言ってみたけど、何も返って来なかった。
荷造りをしながら考えていたのは、やっぱり塔子の事。一昨日、いつも通りの見回りに行って、そのまま帰らぬ人となってしまった彼女。
彼女がまともにやって負ける筈がない、と言ったけど、それはやっぱり本当だったと思う。あの男を見れば、彼女がなぜ負けたかなんて明らかだ。
彼女は、頑ななまでに、自身が身に付けた戒めを守る人だった。魔力を感じない相手には、その力を振るってはいけない。きっと、最期までそれを守っていたからこそ、あれとは戦えなかったんだと思う。
なんだか、あれだけの人物の最期にしては、随分と間抜けに聞こえる。だけど、それは物凄く彼女らしい。己の信じたものに従って戦い、己の信じたものに従って殉死する。確かにこれ以上無い程に彼女らしい最期だけど……正直、「なんでなのよ」と言いたくなる。そんなの、死んでしまったら意味がない。そんなの破ってもいいから、塔子らしくなくていいから、帰ってきて欲しかった。いつも通り帰ってきて、いつも通り「「守護者」ってヒマな職業よねえ」とかぼやいて欲しかった。そうすれば、私は、何も失わずに済んだのに。
もう哀しまないと決めていたけど、どうやらそれは無理だったらしい。塔子は、私のすべて。失ったものが、あまりにも大きすぎた。
……だから今は、彼とはあまり話したくなかった。たまたま一緒に映っただけの写真を隠し持っていたりする、私の、恥ずかしくなる程に幼稚な部分。唯一、私の事情を知っていて、心配してくれる人。できるだけ意識しないようにしてたけど、今は、その人が傍に居ると思うだけで、自分の心は弱さを見せてしまいそうだった。だけど、彼にそれを見せるわけにはいかない。だから、話しかけられても視線を動かす事もせず、ただじっと窓の外だけを見つめていた。
どのくらい、時間が経ったのだろう。もう少しなのか、まだ先なのか。その道中は、私にとって随分と長いものとなった。
八 春樹 真人
聖司の家は、俺たちの町である井ノ水町から五、六キロほどの位置にある、庭がやたらと広い立派な屋敷だ。明らかに金持ちが住んでいそうなそこに、彼は一人で住んでいるのだという。聞くところによれば、知り合いに金持ちが居て、別荘を貸してもらっているのだとか。こんなでっかい家に一人で住んで寂しくないのか、とか言いたくなるけど、まあそのおかげで、俺たち二人が泊まりこんでも、何の苦も無く生活できるというわけだ。
その屋敷に戻って部屋に荷物を置いた後、俺達は再び居間に集まった。また三人でコタツを囲んで、詳しい話を聞いた。
聖司の作ったキムチチャーハン(結構うまかった)を食べながら聞いた話しによれば、昨夜自分達を襲ったあの男たちは、「悪」の力を操る男によってその力を埋め込まれた人間だったらしい。自分にはよく分からない話だが、天野によると、あの男には「魔力」が全く感じられなかったという。それは、あいつがそれの代わりに「悪」の力を使っていたから。その力を得る代償として、あれは死ねば砂の様に崩れ落ちてしまう体(実際あの大剣の男はそうなったらしい)になってしまうんだそうだ。
残念ながら、あの男が何故あの町にいたのかは分からないという事だが、別に大した目的は無かったのではないかと聖司は言った。何故そう思うのかと聞くと、彼は少し前に起こった、ある大事件の話しを出した。
とある人里離れた土地に建てられた、この国最大の刑務所。重大な罪を犯した凶悪犯が多数服役していたそこを、何者かが襲撃したというものだ。その服役囚はそのほとんどが行方不明、残りの関係者は全員死亡という、この国の犯罪史上にないほどの大惨事となったそれは、そういえば未だに解決したという話を聞いていない。
聖司によれば、なんとそれを計画した男こそが、自分達の一番の敵なのだという。その男の名は黒瀬奏眞(くろせそうま、と読む)。襲撃の目的は、力を埋め込む人間を得るため。凶悪犯罪に手を染めた、もう二度と外に出る事はない筈だった者たちならば、訳の分からない力をやる代わりに自由を与えると言われて、従うのは道理だろう。
しかし、その力を埋め込まれた者たちは、殆どの場合、悪に意識を呑まれてしまい、ただ命令通りに動くだけの操り人形になってしまうらしい。それこそが黒瀬奏眞の意図するところであり、昨夜の男のようにはっきりと意識を持っているモノはむしろ邪魔らしい。よって、それらは捨て置かれて、己の思い通りに動いているそうだ。だから、あれはたまたま井ノ水町にやってきて、偶然に塔子さんと出くわして、相対する事になったのだろうということだ。
それはともかくとして、ならば今の話しと昨日教えられた自分達の目的に矛盾が生じてしまう。昨日聞いた自分達の目的とは、「悪」とやらを手にしようとするものを排除すること。だが、そんな事が出来るのであれば、その男、黒瀬奏眞はもうすでにその力を手に入れているのではないのか。そうではない、と聖司は言う。それは、その男がある別の男から与えられた力で、「悪」そのものとはまた違うのだそうだ。そもそも、その男が「悪」を手にしたならば、もう既にこの世界は破壊されている。まだこの世界が存在している事こそが、まだそいつが「悪」を得ていない証拠に他ならない、と。
驚いて、思わず何故その男がその様な狂気に走ったのか訊きたくなったけど、よく考えればそんなこと聖司が知るわけないかと思いなおし、止めておいた。
それに、と彼は続けた。「悪」を得るには、ある場所にある「門」と、特別な「鍵」が必要だ。それを見つけられていないのは、自分だけではなくその男も同じのはずだ、と。
その「鍵」とは、当然その「門」を開けるのに必要なもの。つまりはその「門」を先に突き止めて破壊してしまえば、その男の目論見は破れるということだ。「鍵」については後回しでいいからその「門」の在り処についてなんとか調べてくれ、というのがとりあえずの天野の役目だそうだ。無茶な注文に思われたが、別に世界中を探せというわけではないのだという。聖司がこんな所に住んでいるのは、この付近にその場所があると感じたから。つまりはこの付近を調べればいいだけなのだが、所詮戦う事しか能の無い男(本人談)である彼にはそれ以上の絞り込みがどうしても出来なかったらしい。で、そんな男の代わりに、いろいろ器用な彼女に調べてもらうのだという事だ。
俺がまずしなければいけない事は、「魔力」の扱い方の習得なんだそうだ。それにはしばらく時間が掛かるから、天野はその間、部屋で調べ物。とりあえず、しばらくの間は、そうしながら様子を見るのだと言う。世界を守る為に戦うという割には随分と悠長な話しだが、聖司曰く「「知識」は、お前を鍛えろと言っている。だから、今はそれ以外の事は考えなくていいんだ」との事。それだと何だかこの家に泊まり込まなくてはいけない理由がよく分からない。学校に通いながらでも出来るじゃないかと言うと、無駄を無くすためだ、と聖司は答えた。それに「学校に関しては政府に手を回させてるから心配するな」となんだか無茶苦茶な理由も付け加えられ、強引に納得させられた。
で、そこまで聞いて思い出したけど、そういえば、結局なぜ俺が協力者に選ばれたのかが分からないままだ。それを訊ねると、
「それは、今オレが言うことじゃない。お前が、お前自身で気付くことだ」
との事。さっぱり分からないが、とりあえずそういう事らしい。
とにかく、まず自分がしなければいけないのは「魔力」を扱う事。しかし、自分はその言葉を知っているだけで、それが何なのかという事までは知らない。
「魔力」とは何なのか、という講義は天野さつき教授によって行われた。聞いた限りでは、ここでいう魔力とは一般的にその言葉から来るイメージとは大分違っていると思う。どんな生物の体にも例外なく流れているものであり、使いこなせば身体能力を飛躍的に上昇させる事が出来るもの。人それぞれ違うのだというそれを使いこなす方法が、しかし例外なく心象的なものである事から「魔力」と呼ばれているのだそうだが、イメージ的には「気」と言った方が近いような気がする。
で、一番肝心なこと、つまり自分がそれを使いこなす方法はと聞いたら、何と彼女からは「分からない」と返って来た。人それぞれ違うものだから、それがどのようなものなのかは、その本人にしか分からないのだと。そんな事を言われても困ると言うと、傍らで見ていた聖司が「まあ、何となく分からなくもないぞ」と口を挟んだ。彼が言うには、春樹真人の場合それはきっと「事実を受け入れる事」なんだそうだ。「魔力」を使いこなす方法は、その人物の心を特徴付けるものと一致している場合がほとんど。自分の場合、それが「受け入れる」ことなのだと言う。
「お前は、今までの常識では考えられない様なあの状況から、目を逸らさなかった。逃げ出す事もせず、パニックになる事もせず、冷静に目の前の事実を「受け入れて」いた。そんなこと、なかなか出来ないと思う。だからきっと、魔力を扱う方法もそれに違いない。つまり、これから始める特訓とは、それを出来る様になる為のものってわけだ。……まあ、でも、何でもかんでも「受け入れる」ってのはどうかと思うけどな」
―――昨晩死にかけたあの時を思えば、どういう意味かは分かるだろ?
そんな言葉で、講義は締めくくられた。
「辛いと思うけど今は耐えてくれ」と聖司が言った「受け入れる」為の修行とは、難しげに聞こえるそれとは裏腹に、物凄く単純なものだった。聖司との、竹刀を使っての訓練。五メートル程離れた位置から真っ直ぐに踏み込んで顔面に打ち込んでくる彼の一撃。自分は「それをかわせる」ということを、事実として「受け入れ」ろというもの。
それだけ言うとよく分からないと思う。その訓練は、相手が聖司だからこそ成り立つのだ。彼の打ち込みのスピードは、普通ではかわせない速さだった。踏み込んでくる向き、打ち込んでくる角度が分かっていようと、そんなの関係ない。なにしろ、五メートル程の距離があるにも関わらず、その初動と、俺の顔面に竹刀が打ち込まれるのは、ほぼ、いや全くの同時なのだから。そんなの、普通の人間にかわせる筈がない。つまり、これをかわせるようになった時には、俺は「魔力」を使えるようになっているということだ。
要するに、特訓の内容をまとめれば、物凄く単純だ。つまりは、かわせる様になるまで竹刀を顔面にぶち込まれ続けろ、ということなのだから。
そうして始まったその日々は、確かに聖司の言葉通り辛いものではあったが、それ以上に楽しいものだったと思う。具体的に言えば、何度も何度も竹刀をぶち込まれて失神させられまくるその特訓は、痛くて情けなくて確かに辛かったけど、それ以外の何でもない時間は、それを補って余りあるほど楽しかったのだ。自分たちはこれから世界を救うために戦うのだ、と言われても、正直実感できない。俺――春樹真人の心を特徴付けるのが「事実を受け入れる事」だと言うのなら、今受け入れるべき事実というのは、同年代の男女が三人、同じ家で同じ時間を過ごしているのだという事だけだった。
こうして一緒に暮らしてみれば、普段の聖司は本当に、普通の気のいい少年だった。しかも、意外にも自分と通じるところが結構多い。共に朝が弱かったり、好きな食べ物が一緒だったり。その上サッカーゲームという共通の趣味まであったりして、対戦に燃えてみたり。けど、やり過ぎるとほったらかしになった天野が「つまんない」と怒り出すから、程々にしておこう、ということになったり。
もしかしたら、お互い片親に育てられ、その片親も早くに亡くしたという似た様な境遇を持っているせいなのかも知れない。でもそんな事はきっと関係なく、三日も経った頃には、二人はまるでずっと昔から仲の良かった親友同士の様に語り合うようになっていた。
逆に天野は、初めてまともに会話をしたあの日のイメージからあんまり変わっていない。彼女が自分に向けて発した台詞の中で一番多かったのは、ダントツで「情けないわねぇ」という、何とも情けなくなる台詞だった。何度も何度も失神させられる春樹真人を見ては、一人暮らしをしているクセに家事がからっきしダメという春樹真人を見ては、その台詞をまるで口癖の様に繰り返していた。
で、それ以外の時の彼女はというと、やっぱり何だかいつも不機嫌で偉そうだったと思う。まあ、その原因は半分以上、いや八割方、俺たち男二人にあるわけだが。
早起きして朝食を作ってくれる彼女を差し置いて毎朝二人して寝坊したりとか、二人がサッカーゲームに勤しんでいる間ろくに構いもしなかったりとか。まあ、怒らせて当然と言われれば確かにその通りで、反論できないだろう。
でも、正直に言えば、そういう彼女も嫌いではない。いや、むしろどちらかと言えば気に入っている部類に入るのではないだろうか。慣れてきた頃に気が付いたけど、その不機嫌さの中にはどうやら日々訓練に明け暮れる俺への分かりにくい心配も含まれているようだし、なによりその無愛想さが、何でもない会話の中でたまに見せる彼女の笑顔を際立たせているような気がするのだ。その笑顔は本当に女の子らしくて可愛くて、彼女が笑うたびにいつもどきりとさせられた。そうして、普段は意識しない様にしている、彼女と一つ屋根の下で暮らしているのだという事実を思い出してしまい、一人赤面する自分が居た。
そうしてあっという間に一週間が経った頃、ようやく自分は魔力を使う事に成功した。きっかけは、本当につまらない事。それまで俺はバカ正直に真正面から聖司の打ち込みを受けていたのだが、その日言われた「いい加減飽きてきたな」という彼の台詞を見返してやりたくて、一度だけある事を試してみた。それは何かと言うと、打たれる前、つまり聖司が動く前に思いっきり真横に駆け出してみたという、何とも馬鹿らしい事だった。
言うまでもなくそれ自体は失敗であり、思いきり顔面に竹刀をぶち込まれてやっぱり失神させられたのだが、その時偶然に気が付いた事があった。横に駆けている途中、聖司の驚く顔を見てやろうとちらりと視線を向けた時、彼の姿が消えているのを見た。竹刀が顔面を襲ったのはその直後。気付いた事というのは、つまりはそういう事。彼の姿が消えているのが見えたのであれば、その初動と打ち込みは決して同時ではないという事になるのだ。当たり前だと思わないでほしい。そのタイムラグが全く認識できないものであったのなら、それは同時と呼ぶべきものだ。自分にとって、その一撃はまさにそれだった。そんなのかわせるはずがなかった。
しかし、彼の姿が消えているのが見えた以上、それは間違っていたという事。初動から打ち込みまでのタイムラグ。瞬きなどよりもはるかに短いその刹那に自分が反応すれば、それはかわせるに違いない。それが「事実」。
そうして俺はかわせるのだと「受け入れ」て、どうやら魔力の力によってそれをかわした。あの一撃を自分がかわせたという事にも驚いたけど、もっと驚いたのはその後。バックステップをとっただけだった自分の体が、二十メートルほど後方にあった筈の外壁にぶつかったのだと気付いた時だった。我ながら、なんて跳躍力。オリンピック選手も真っ青だ。信じられないけど、聖司の打ち込みを前にした自分は魔力に目覚め、必要もない二十メートルもの距離を瞬時に跳躍してそれをかわしたのだという事だ。それがその時の「事実」。彼によれば、それ、つまり自分は魔力を使えるのだという事を「受け入れる」ことで、次からは驚くほど簡単に魔力が使えるだろうという事だ。いまいち実感が湧かなかったが、どうやらそうして俺は、魔力の扱いを習得したらしい。
「―――うそ。春樹くん、もう使えるようになったの?」
天野には得意げに報告してやろうと思っていたら、彼女が自分の顔を見るなりそんな事を言うので出鼻を挫かれた。どうやら、見ればすぐに分かるものだったらしい。
彼女の話しでは、普通魔力の扱いというのは何ヶ月もかけて苦労した挙句にようやく習得するもので、よく分からないけどそれを一週間で済ませてしまった自分は特例中の特例なんだそうだ。じゃあ何ヶ月も掛けるつもりだったのかと聖司に聞くと、何となくお前ならすぐ出来る様な気がしたんだと返って来た。すごいね春樹くん、と珍しく素直な感想を漏らす天野に照れ臭いものを感じながら夕食を済ませ、その日は床に就いた。
そうして魔力を使えるようになったのが、昨日までの出来事。今日はと言うと、やっぱり俺は庭に居て、やっぱり目の前には聖司が居る。今までと違うのは、彼の手に握られた変なもの。次の段階に進むとか言って、彼は奇妙な武器を持ち出してきた。
「これ、分かるか? あの夜に使ったやつなんだけど」
「……いや、分かるわけないだろ。俺、死にかけてたんだから」
聖司のセリフに突っ込みを入れながら、じっと、その手に握られた得物に視線を這わす。なんと言えばいいのか。銀の中に淡い青色を落とした様な色に輝くそれは、短剣と呼ぶには、余りにも装飾過多だろう。
柄は、刃とほぼ同じ長さで、二十センチほどはあるだろうか。両手で握ってもまだ余裕がありそうだ。その両側からは、左右に十五センチほどの、角のように尖った立派な鍔が、斜め上に向かって生えている。そして、その中央から、幅十センチにも満たない小さな刃が、真っ直ぐに突き出している。
どう見ても、無駄の多い武器だ。あんな小さな刃に、どうしてあんなにも立派な支えが必要なのか。装飾にしても、程度が過ぎている。あれもこの癒しの籠手(命名天野さつき)と同種であるというのなら、何か特別なものだというのは間違いないんだろう、という事だけは分かるのだが。
「変に見えるだろうけど、今のこれは、まあ言えば仮の姿だ。こいつの本当の力というのは、別にある」
得物を持ち替え、胸の前に翳す。ぐ、とそれを握る手に力が籠められるのが分かった。
「―――よく見ておけ。これこそが、オレがお前に求めるものだ」
彼が言うのと、どちらが早かったか。突如、目の前で光が爆発し、思わず目を覆った。
「っ! な、なんだ―――……」
吹き飛ばされるかと身構えたが、暫くしてどうやら自分の体に何の異常も無いらしいと気付き、ゆっくりと目を開けた。そうしてそれを見た瞬間、思わず目が釘付けになった。
爆発したと言ったが、事実は全く違っていた。むしろ、引き寄せられるような感覚。言うなれば、尊い何かを形にしたような。ただ、綺麗。それ以外、何も思い浮かばなかった。
「信じる心の光。これはそういうものだ」
これは仮の姿だ、という聖司の台詞は、まさしくその通りなのだと分かった。無駄に見えたあの支えの部分は、その実決してそうではなかったのだ。その欠落した部分。本来あるべきだった、巨大な刃。それが今、光という形で補完されていた。
「こいつの名前はユートピア。信じるものだけが辿り着ける、という意味でそう名付けられたんだと思う」
神剣、という言葉すら、あれには生温い。青光りする小さな刃を包み込むように形作られた、煌く光。完全な形となったそれは、正に神そのものを想像させた。
「……呆けてないで聞けよ、真人」
「え――ああすまん、一応聞いてる。その光が信じる心の光ってやつで、その剣はユートピアって名前なんだよな。意味はさっぱり分からないけど、聞いてることは聞いてるぞ」
「剣って言っちまうと、ちょっと違うんだが――ま、そういう事だ。とにかく覚えておいてくれよ。オレはな、最終的にはこいつをお前に譲るつもりなんだからな」
思わずもう一度「え?」と漏らした。自分が、この光を譲り受ける? そんな事、あっていいのだろうか。だって、この春樹真人はただの人間だ。そんな俺が、あんな、神の如き光を手にするなんて、あまりにも分不相応ではあるまいか。
「心配するな。いつか必ずお前にも扱えるようになる。さっきも言ったけど、これは信じる心の光。つまり「信じる」ということが出来れば、別に誰にでも扱えるんだからな」
よく分からず、「そう言われても、なあ……」などと呟く。ただ、「信じる」という言葉が、俺の心を特徴付けるらしい「受け入れる」という事は何となく正反対の響きであるような気がして、ならどうして聖司はそんなこと俺に言うんだろう、と不思議に思った。
―――と、そこへ。
「ちょ、ちょっと! 何の騒ぎなの、これ!」
何か、妙に慌てた声が聞こえてきた。誰のものかは確かめるまでもない。どうやら彼女はいつの間にか屋敷から出て来ていて、この光を見て珍しく慌てているらしい。滅多に見れないその慌てた顔を見てやろうと視線を移すと、しかし見事に自分の期待は裏切られて、そこには何か怯えた様な表情を浮かべた彼女がいた。
「う……うわ、何なの、それ。何か、眩しくて……」
「眩しい? ―――そうか、そうだろうな」
どこか上の空で言う天野に、何故か彼は哀しそうに呟いて、ふ、と体の力を抜いた。光の刃はゆっくりと消え去り、それは元の姿へと戻っていったらしい。
なぜ「らしい」とかと言うと、自分の目はそちらを見ていなかったからだ。
彼女の姿から微かに窺える、怯えの色。それが、いつも快活で偉そうな彼女らしくなくて、何故だかそれが許せなくて、その姿を凝視してしまっている自分がいた。
「で、さつき。何で出てきたんだ? 何か進展があったのか?」
「―――え? ……あ、そうだった。それがさ、どうもあの町が、怪しいんじゃないかって結論にたどり着いちゃったのよね」
しかし、それはすぐに消えてくれた。聖司のその声に、どこかうつろだった表情を引き締めて、彼女はそう言った。で、その言葉の意味を理解した時、一転して今度は自分が慌てたと思う。
「え、あの町って――まさか井ノ水町か?」
「ええ。私もまさかとは思ったんだけど。でも、確かにそれだと、色々と辻褄が合っちゃうのよね」
言われて、信じられない気持ちになる。彼女は「悪」の力を得るために必要な「門」とやらの場所を調べていたはずだ。そういえば何をどういうやり方で彼女がそれを調べているのか全く聞いてもみなかったけど、あの見慣れた平和な町がそんな「悪」なんていう訳の分からないものと繋がっているとは思えない。
「でも、確かにそうなのよ。ここから調べられる範囲では、あそこに一番強い気配を感じるのは間違いないと思う。で、どうするのよセイジ。これ以上調べても、ここからじゃあ何も分からないと思うんだけど―――って、ちょっとあんた、聞いてるの?」
ふと、その言葉に視線を移すと、彼は何だか難しい表情を浮かべて、腕組みをしながら立ちすくんでいた。どこかあさっての方向に視線を泳がせている彼には、彼女の言葉は本当に届いていないらしい。
「おい、聖司……?」
「―――なんだと? ち、まだ早い。……くそ。これ以上時間をかけてたら手遅れになるってのか―――」
そうして、彼は忌々しげに何かを呟いた後、
「真人、修行は終わりだ。町に出るぞ」
覚悟はいいか、と言う様な表情で、そんな事を俺に告げていた。
代理人の感想
んー、今回も微妙。
読んでて楽しくはあるんですが、妙に淡々としてて、振り返ってみると単調に思えるような、そんな感じ。
それと・・・まぁ、これは言わぬが花でしょうか。