二十七 春樹 真人
この町にこんな所があるとは、知らなかった。
まだ所々火が燻り続ける町を抜けた先。大きく地割れを起こした小高い山の麓に、それはあった。
横向きに広がった、禍々しい気配を放つ奥深い洞窟。
聖司によれば、この場所こそが封印されていた「門」であり、天野が捕らわれている場所だと言う。
「これは、お前に託す。お前の中の「真実」を見つけて、使いこなしてみせろ」
中に入る直前、有無を言わせぬ口調でそう言い、それを手渡してきた。
「オレの事は心配いらない。そもそも、オレがこいつを使っている事自体が間違いなんだ。オレは「知識」を信じる事によって、模擬的にこいつを使える様になっているだけの、言わば偽者にすぎない。お前が自分自身で「真実」に辿り着いてこいつを振るえば、オレとは比べ物にならない程の力を発揮出来る筈だ」
言うだけ言って、聖司は洞窟の奥へと駆け出した。
春樹真人の中にある真実とは、何なのか。未だに答えを見出せないその疑問が心に痞えたけど、余計な事を考えている場合ではない。出来るだけ心を無に近付けながら、その後を追った。
奥に進むほどに、異様な気配は濃くなっていく。
だけど、目の前を駆ける少年からは、それすら消し去ってしまう程の凄まじい気配が放たれていた。
今の聖司からは、いつもにも増して圧倒的な力を感じる。
彼を後を駆けながら、神々しいまでの光を放つその背中を見て―――
「――――」
しかし、何故か一瞬、それが今にも消えてしまいそうな程に儚いものに見えた気がしたけど。
今の俺には、それを気にする余裕はなかった。
その洞窟が思ったより深くはなかったのか、それとも自分たちがとんでもない速度で進んでいたからなのか。それは分からないけど、とにかく、俺たちが最深部まで辿り着くのに一分と掛からなかったと思う。
「ソーマはオレが引き受ける! お前はさつきを助け出して、すぐにここを離れろ!」
そこに二つの人影を確認すると同時に、聖司の声が響き渡る。彼はそのまま、手前に立ち尽くす人影に、矢の様な速度で飛び掛かった。
「セージィッ!」
あの時俺を串刺しにした声が、呼応するように響く。
今は、それに構うべきではないだろう。迷うことなく、その背後に縛り付けにされているもう一つの人影、つまり助けるべき少女の下へと駆けた。
そのまま、その少女からの借り物である黒い剣で彼女を縛っていた物を断ち切り、彼女の戒めを解く。
「――――天野!」
「ん……」
意識があるのか、ないのか。俺の声には微かに反応を見せたものの、その体はそれを戒めていたものを無くすと同時に、力なくこちらに倒れこんできた。
「…………」
その華奢な体をしっかりと抱き留めながら、彼女にガツンと言ってやろう、とか今まで考えていた事がどうでもよかった事に気が付いた。
そもそも、彼女を守り通せなかったのは他ならぬ俺自身のせい。そんな事を考えるのは、見当違いだ。
―――すまん、天野。俺が不甲斐ないせいで、お前に辛い思いをさせちまった。
ここで、彼女の身に何が起きたのか。
今は、それを考える時ではないだろう。何しろ、これだけではまだ彼女を助け出した事にはなってない。
信じられない事に、あの圧倒的な闇の気配を放つ相手に対し、聖司は素手で対等に渡り合っている。しかし、それはきっと長くは続かない。彼は、俺の援護を待っているに違いないだろう。
彼女を抱きかかえて、その様子を横目に見ながら、一旦は退いた。平坦になっている岩場を見つけて彼女を寝かせ、再びそこへ向かおうと駆け出した、そこで。
「えっ―――?!」
突如、そこに見えない壁でもあるかの様に、何かにぶつかって俺の体は制止させられた。
「な……なんだ、これ」
両手で触れてみると、喩えではなく本当にそこには見えない壁のようなものがあるらしいとわかった。しかもそれは特別頑丈に出来ているらしく、いくら圧してもビクともしない。焦りが募り、果てには剣で斬り付けてみたが、それすらも虚しく弾き返されただけだった。
「聖司! 何なんだ、これ! そっちへ行けない!」
どうやら俺の声は向けられた相手に届いたらしく、彼は一度だけちらりと顔をこちらに向けた。
「そう言えば、まだ話してなかったか。これが、「神」からの三つ目の授かり物。自分中心に任意の空間を切り取り、全ての理から断ち切る能力。いわゆる、「絶対領域」って奴だ」
その声はハッキリと聞こえたが、男とやり合うその姿はだんだん虚ろになっていく。何か、目の前の空間そのものが消え去っていくかの様だった。
「何だよ、それ。じゃあ、これはお前がやってるのか? なんでこんな事する必要があるんだ! いいから消せよ! これじゃあまるで―――」
「オレが消えて行くみたい、か? その通りだ。オレの命は、ここで終わりなんだからな」
「な―――」
言葉が出なかった。聖司は確かにふざけた奴だと思ってたけど、こんな時に、何故そんな洒落にもなっていない事を―――
「おい、ふざけんな! 何なんだそれ。なに勝手な事言ってるんだよ!」
「……真人。お前の中の真実を、信じるんだ」
彼の声を聞いたのは、それが最後。その姿は、突如放たれた眩い光の中に消えて行った。
二十八 元靖 聖司
「……何故だ」
哀しく漏れる、幼い頃から聞き慣れた彼の声。
「オレのやり方は、何も間違っていなかったハズだ。なのに、何故。何故、オレは失敗した」
どうやら、その声はこちらへは向けられていない。まるで自問するかの様なその呟きは、この閉ざされた空間において尚、消え入るような響きを残すだけだった。
「……いや、まだだ。ここでお前を倒して、今度こそ「悪」を手にしてみせる」
彼の周囲をグルグルと渦巻いていた「悪」の力が実体化し、彼の手に一振りの剣が握られる。虚空のみを捉えていたその目は一転してこちらへ敵意を向けており、その剣はどうやらこの元靖聖司の身を切り裂く為に用意されたものらしいと分かる。
「――――悪いけど、それは無理だ」
「…………」
その様なもので、この体を傷つける事など出来はしないだろう。
この体に漲ってくる力は、これ以上無い程に眩い光。反対に、彼が操るのは闇でしかない。そうである以上、それは光に照らされれば消えてしまうだろう。
両者の戦いは、それが始まる前から既に決着は着いている。それに、彼が気付いていないワケではない。しかし、それでも尚、彼は挑みかかって来る事を止めないだろう。
彼、黒瀬奏眞の道と、元靖聖司の道。同じ場所から始まった、しかし正反対の方向へと続いていたそれらが再び交わる時とは、その両方が終着する時に他ならない。
何故なら。始まりの場所が同じならば、終着する場所もきっと同じに違いないのだから。
彼にとっては、それは受け入れ難い事実だ。目的を何も果たしていない彼には、ここで終着を迎えるという事は耐え難い苦痛でしかない。
だから、その事実を消すために。交わってしまった道をもう一度分かつために、彼は何としてでも目の前の敵を打ち倒そうとしているのだ。
だが、それは無駄な足掻きだろう。二人の道は、こうしてもう既に交わってしまっている。二つの道の終着地点とは、きっとここなのだ。元靖聖司にとって力の反動による死が避けられないものであるのと同様に、きっと彼にとって、力を開放した幼馴染によってその命を奪われるというのは、もはや避けられない事なのだ。
「――――ならば。せめて、安らかな最期を迎えようじゃないか……ソーマ」
ぐ、と拳に力を籠めると、そこに光が集ってくるのが分かった。
黒い力を纏いながら迫ってくる目の前の相手に向かい、躊躇うことなくそれを振るった。
二十九 春樹 真人
「おい、聖司! 返事しろよ、セイジィーーッ!」
友であり、師でもあった、つかみ所のない少年。その姿が消え入った虚空に向かっていくらその名前を叫んでも、何も返って来ない。その声は、ただ虚しく洞窟内に響き渡るだけだった。
「こんなの、意味わかんねえよ。何だってんだ、くそっ……」
がっくりと、膝が折れた。
突如として、何の前触れもなくやってきたそれは、どうやら別れというやつらしかった。
……全く、意味が分からない。
皮肉っぽく笑う彼の姿が頭に浮かぶ。
時には無邪気で、時には冷酷で。本当につかみ所の無い彼の事を、俺は親友だと思っていた。からかわれ、バカにされたりしてむっとした事もあったけど、本当は尊敬していた。揺るぐ事のない心を持ち、それに裏付けられた力を持つ彼の姿は、あるいは俺の中での理想と言えたのかも知れない。
英雄、という言葉は彼の様な人間にこそ相応しい。己の全てを懸け、ただ、世界を守るために戦ってきた。そんな人間を、英雄と呼ばずに、他に何と呼ぼうか。
―――なのに。だというのに。
「何で、お前が死なないといけないんだ」
彼が幸せになれないなんて、そんなの嘘だ。
世界を救う定めに従い、一人、戦ってきた。己を省みず、ただ、人々の為にその身を捧げた。
そんな男が幸せになれないなら、他の誰に幸せになどなる権利があるというのだろうか。
……しかし、哀しんでばかりは居られない。
彼の最期の言葉が脳裏をよぎる。
―――お前の中の真実を、信じろ。
それが何なのかは、分からない。だが、つまりは「戦え」ということ。まだ、戦いは終わりではないと。後は、お前に任せると。きっと、そういう意味だろう。
なら、こんな所でへこたれているわけにはいかない。
「―――分かったよ。お前の分まで、戦ってみせるさ」
ゆっくりと立ち上がり、岩場に寝かせてある彼女のもとへと歩いた。そうして彼女を再び抱き上げようとした―――その刹那。
「が―――っ?!」
突如ぶつけられた真っ黒い何かに吹き飛ばされ、俺の体は背後の壁へと叩きつけられた。
「く―――ッ」
激しい痛みに一瞬朦朧とした意識を、何とか繋ぎとめる。砕けた骨はすぐに癒され、倒れる事もなくその場に立って、その先を睨み付けた。
「汚い手で、触るな。それは、私の物だ」
それは、俺たちが進む道を塞ぐかのように、そこに立っている。
癪に障る言葉を発するそれには、無論見覚えなどない。しかし俺は、それが何であるのか、一瞬にして悟っていた。
「―――お前か」
だって、それは全ての元凶。聖司を含め、多くの犠牲を出したこの戦いの、そもそもの発端も。天野に、らしくない、哀しい顔をさせるのも、全て。
「お前かァァァァッ!」
気が付いた時には、駆けていた。手には黒い剣を握り締めて、心には、それと同じ色をした感情のみを浮かべて。ただ、それにぶつかって行った。
三十 共に消え行く二つの光
二人が出会ったのは、まだ六つになったばかりの頃だった。
一人は、その出生からして既に異常で、生まれる前から忌み嫌われた。
一人は、理由も無く異常な力を持ち、取り巻く全てに拒絶された。
互いを「セージ」「ソーマ」を呼び合い、傷を舐め合いながら成長していったその二人の少年は間違いなく親友同士であり、お互いを掛け替えのない存在だと認め合っていた。
それが。一体、どこで間違ったのか。何故、そんな二人が争わなければいけなかったのか。それは、誰にも分からない。
みんなに認めて欲しい。自分を拒絶したものが憎い。
彼ら自身がその原因だとしているその二つの違いは、その実些細なものだ。ならば、何故、二人はこうも正反対の道を歩んでしまったのか。
きっと、彼らは周囲の声に振り回されすぎたのだ。
周りの人間が何と言おうと、自分は自分の道を進むだけ。「セージ」と呼ばれた少年が一人で生きていく過程で気付いたその事に、二人がもっと早く辿り着いていれば、あるいはこんな事にはならずに済んでいたのかも知れない。
―――だが。今となっては、全てがもう手遅れだ。
「ぐ……ふっ」
その戦いの決着は、呆気なかった。
「ソーマ」と呼ばれた少年は、その身に宿る「神」の力を開放したもう一人の少年に敵うべくも無く、いともあっさりと敗れ去った。
「……終わった、な。お前にとっても、オレとの戦いが存在意義だったんだろ? なら、お前もここで終わりだよな」
静かに声を漏らす彼の腹部には、神々しい光を放つ拳がめり込んでいる。
それは、命に届く一撃。しかし、「悪」の力に埋め尽くされた彼の体には最早苦痛という感覚すら残っておらず、彼の表情には穏やかさに似た色すら窺えた。
「―――存在意義? 何故そんなものが必要なんだ。今、ここに生きている。それだけで充分だとは思わないか?」
反対に、その言葉に答える少年の体には、傷一つない。神々しい光を放つその佇まいは、しかし今にも消え入ってしまいそうな儚い灯火であるようにも見えた。
「……なら、尚の事。どうして、命なんかを懸けたんだ。そんな事をしてまで守る価値が、本当にこの世界にはあると思うのか」
「ああ、思う」
「……オレには分からないよ、セージ。何故お前は、そう思うんだ? オレ達を拒絶したこの世界に、どんな価値があるんだ。一体、どんな希望があると言うんだ」
「希望なら有るさ。どこにでも、な。――――どんなに深い闇も、一筋の光を覆い隠す事は出来ない。それがある限り、人はどんな絶望からも、希望を見出せる。……だからオレは、人々に生きていて欲しいんだ」
それ以外には何も存在しない空間に、二人の声だけが静かに響く。
その様はまるで、お互いの生きた道の是非を相手に問うているかの様だった。
「―――はっ。どこかで聞いた様な奇麗事ばっか並べやがって。ったく、変わらないな、お前は」
「いや。オレだって、変わるべき所は変わったさ。人には、変わる所と変わらない所がある。お前だって、そうだろ?」
「……そうか。そうだな、そうかも知れないな。――――なあ、セージ。オレたち、どうしてこんなになっちまったんだろうな。あのまま、一緒に生きていく道は、無かったのかな?」
「分からない―――いや、きっと有ったんだろうな。……だけど、今となってはもう遅い。だから、せめて死ぬ時は一緒だ。天国でも地獄でも、一緒に行ってやるさ」
「ソーマ」と呼ばれた少年が最期に聞いたのは、、そんな、これ以上無い程の親愛が籠められた言葉だった。
彼は、その言葉に安堵したような笑みをうっすらと浮かべ、彼が作り出した「モノ」たちと同じ様に、ゆっくりと砂になって崩れ落ちて行った。
三十一 「願う」心
彼が崩れ落ちていくのを見届けた後、力を失ったその体は、ドサリと倒れ伏した。
今まで、人々の為に戦ってきた事に対する、せめてもの報いなのだろうか。
どうやら自分には、人間らしい最期が用意されているらしかった。
ゆっくりと、今までの事を考えてみる。
母と過ごした幼年期。孤児院で暮らした六年間。一人で戦った、その後の日々。
そして、何より掛け替えの無いものとなった、最後の二週間―――。
「―――まあ、悪くはなかったか」
だからこそ、多少名残惜しくはある。
……あるが、生きて幸せになるのは自分の役目ではない。その役目は、あの二人が―――いや、この世に生きている全ての人々が、しっかりと果たしてくれるだろう。
この心が見出した「願い」とは、つまりそういう事だ。
自分が守りたいと思った、あの二人―――真人とさつきとの間にある「何か」。それは、何も特別なものではなかった。それはきっと自分と真人との間にも有ったし、さつきとの間にも有ったし、恐らくソーマとの間にも存在していたのだ。
―――恐らく。それは、全ての「絆」と呼ばれるものに。
この世界全ての家族や友人、恋人たちの間には、守りたいと思わせる「何か」が存在しているに違いないのだ。
だから。ただ人々の為に戦った自分が心に持つ「願い」とは、ただ一つ。
人々が、離れ離れになる事のないように。全ての幸せが、引き裂かれることのないように。
「―――全ての心に、光有れ―――」
それが、光のみをただ求め続けたこの心が紡いだ、最後の言葉となった。
三十二 ある親子
「ウオオォォッ!」
何度目かも分からないその咆哮は、やはり虚しく弾き返される。
「クソ、が……!」
それでも、少年は立ち上がる。
「籠手」の加護を受けられない傷を全身に負い、もはや動くことすらままならない筈の体を奮い起こし、決して光を失わない瞳で、対峙する相手を睨み付ける。
その姿に、彼は戸惑いを覚えていた。
彼の欲するものとは、ただ一つ。自身の愛―――この上なく歪んだものではあるが―――の対象である、彼の愛娘のみである。
他の人間とは、彼にとって興味の無い存在。己とは何の関係も持たない存在は言うまでもなく、養子である黒瀬奏眞という少年に対してすら、何の感情も抱いてはいない。
彼を養子にとったのも、あくまで娘の為。「悪」を手にする為にと偽って、気安く動ける立場では無い自身に代わって彼女を探し出す為だった。
故に、その想いに迷いなどなく。この五年間、ただ彼女を取り戻す為だけに生きてきた。
しかし。
その目的が正に達されようとしている今になって、彼の心には初めてそれ以外の感情が浮かんでいる。
―――何故、ああまでして戦おうとするのか。何度やっても結果は同じ。ならばそこに意味などないのに、一体何故、あの人間は立ち上がるのか。
「何故だ。何故、諦めようとしない」
戸惑いの色を隠しきれない声を漏らす彼は、彼本来の、見るに耐えない異形のモノへとその姿を変えている。
まず、腕からは先ほどから向かってくる少年をつるべ打ちにしている蔦のようなものが何本も生えており、しゅるしゅると音を立てて地面を這っている。
体は人間では有り得ない程に肥大しており、既に着衣はぼろぼろにはちきれている。
脚も、当然それを支える為に膨れ上がっており、まるで象のそれでも見ているかのようだ。
その中で、首から上だけが人間の姿であった時のまま残っており、それがかえって見るものに与える畏怖を増長させていた。
「うるせぇ! 俺は……俺は、負けるワケにはいかねぇんだ!」
しかし、それと対峙する少年には、恐れの色など微塵も感じられない。叫びつつ、もう何度目になるか分からない跳躍をする。
その行動は、今までと同様、無駄に終わるだろう。
だが、彼の中にある戸惑いは膨らんでいく。それは焦りとなり、やがて彼の心には恐れにも似た感情が生まれ始める。
理解できないものへの畏怖。それが際限なく膨らみ、その心を支配した時、自分は敗北するのではないか。
そんな焦燥感を抱いた彼は、半ば無我夢中で、その理解できないモノの体を打ち続けた。
その傍ら。
彼の娘であるその少女は、「悪」に支配されかけたその心を必死に繋ぎとめながら、意識の底でその様子を「感じ取って」いた。
あの異形こそが、自分の父親。
今の目の前にあるその戦慄すべき事実は、しかし彼女にとってはどうでもよかった。
彼女の心に映るのは、ただ、それへと向かっていく少年の姿だけ。彼が、致命傷だとしか思えない傷を負って尚、衰える事を知らない意志でそれを繰り返すその度に、彼女の心は締め付けられた。
――――もう止めてよ。死んじゃうじゃない。
心の奥底で、泣き叫ぶ。
彼女にもまた、少年の行動は理解できなかった。
それは当然だろう。彼女には、彼が他ならぬ彼女自身の為に戦ってきたなどとは思いもよらない事であるし、増してや彼女が「セイジ」と呼んだ少年が最期に遺した言葉など知る由もない。
彼女が思うのは、その無謀な行為を止めて欲しいという事だけ。
もう、傍に居て欲しいとか、そんな事はどうでもいい。
ただ、彼に。彼女の想い人であるその少年に、これ以上傷ついて欲しくない。
心に浮かぶのは、それだけだった。
その想いこそが、彼女がセイジと呼んだ少年が言った「一筋の光」であり、それがあったからこそ「悪」の器と化して消え去る筈だった彼女の心はこうして踏み止まっているのだが、それは今語るべき事ではないだろう。
彼女は、ただ願い続けた。
もう、傍に居て欲しいとか、声を聞きたいとか、そんなのどうでもいい。だから、お願い。死なないで―――!
それは彼自身に向かってなのかも知れないし、あるいは居るのか居ないのかも分からない「神」に向かってなのかも知れない。
だが。
まるで彼女のそんな願いを嘲笑うかのように。
「え――――」
カラン、と、乾いた音がその場に響いた。
同時に、少年の体はやはり弾き飛ばされる。それはもう何度目になるかも分からない、繰り返しの様な光景。しかし、それには一つだけ、それまでとは決定的な違いがあった。
それは、少年が手にした「イングラム」が、「剣」と呼ぶに相応しい姿ではなくなった事。
洞窟に響いたその音とは、少年が手にしていた唯一の武器であったそれが圧し折れて、地面に落ちた音だった。
そして、それはつまり。少年の愚直な行為が、遂に、本質的に意味を失ったという事だった。
「――――流石に、もう悟っただろう。諦めて、そこで寝ていろ。邪魔をしないのならば、命までは奪わん」
暗闇に包まれた洞窟に佇む異形が漏らしたその声には、その余裕を含んだ様な言葉とは裏腹に、安堵に似た響きが含まれていた。
ようやく、あの理解できないものを打ち倒した。もしまたあれが立ち上がるような事があっても、それは本当に意味が無いこと。畏怖を抱く必要など、微塵もないだろう。
思わぬ障害があったものだ―――などという感慨を抱えつつ、彼の娘のもとへと近付いていった。
彼女の心にも、それとは違った意味での安堵が訪れていた。
もう、彼には戦う術が無い。さすがの彼でも、この状況で尚挑みかかる事などはしないだろう。
これで、彼が命を落とすことはなくなった。図らずとも、彼女の願いは聞き届けられたのだ。
だから、喜ぶべきだ。……たとえ、ここで父親に連れ帰られてしまえば、二度と彼に会うことは叶わないと知っていたとしても。
――――さよなら、春樹くん。せっかく約束してくれたのに、ごめんね。
ずきり、と心が痛むのを感じた。
もちろん、本当の意味では彼女は報われてなどいない。それは、他ならぬ彼女自身が一番よく分かっている。
だが、それは願ってはいけない事。今それを願うという事は、彼に命を捨てろと言っているのと同義だ。
だから、諦めよう。
そもそも、自分はあの異形の子。彼と一緒に居たいなんて、そんなこと、最初から願ってはいけなかったのだ。
彼女の心を、諦めが支配する。そんな彼女を手にしようと、ゆっくりと異形が近付いていく。
状況は、最早揺ぎ無いものであるように見えた。
光が、闇に敗北する。ある少年が口にした言葉が真実であったとすれば有り得ない筈のそれが、今ここで起ころうとしている。
見る者があれば、誰もがそう思っただろう。
――――だが。
唯一、暗闇の中で蹲る少年だけが。
最後の希望がまだ残されている事を、知っていた。
三十三 「信じる」心
「―――――」
半ば過ぎから先が無くなってしまった黒い剣を、ため息をつきながら見た。
「……すまねえ、天野。イングラム、折っちまった」
余裕があった訳ではない。だけど、一番に浮かんできた言葉は、それだった。
けど、そんな事ばかりに構ってもいられない。
目に映るのは、ゆっくりと歩を進める異形のモノ。そしてその先には、自分の守るべき少女。
状況が言っている。お前は、どうしても「ユートピア」を使いこなさなければいけない定めにあるのだ、と。
そうするために、必要なもの。俺の中にある真実とは、一体何なのだろうか。
溢れてくる様々な感情に蓋をして、心を無にして自らと対峙する。
―――強く、優しく生きなさい。
真っ先に浮かんできたのは、俺がこの戦いに関わる事のそもそもの引き金となった、その言葉。
もしそれが俺の中にある真実だというのなら、もんなもの、見付けろと言われるまでもなくずっと心に刻んである。
きっと、聖司の言う「真実」というのは、別のところにあるものなんだと思う。
なら、それは一体何なのか。
もう一度、心を無に戻す。
次に浮かんできたのは、やはり聖司の事だった。
……そういえば、俺が協力者に選ばれた理由はそもそも何だったのか。
聖司は、それを「お前自身で気付くことだ」と言った。つまり、それこそが彼が俺に求めたもの―――すなわち、「春樹真人の真実」という奴ではなかったのか。
聖司との思い出で最も印象深い事と言えば、やはり鍛錬の中での出来事だろう。
その中で、彼は何か重要な事を自分に話したのではなかったのか―――。
事実と真実。
女の子に悪戯をする男の子の話は印象に残ってるけど、あんな話をして、聖司は俺に何を伝えたかったのだろうか。
事実と、真実。
俺の事実とは、何なのか。それは考えるまでもない。俺はただ、戦っているだけ。
―――何のために?
それは、今は少し違ってしまっているけど、元々その理由はただ一つだけ。
ただ、彼女の事が心配で。彼女の事を放っておけなくて、この戦いに参加する事を決意した。ただ、それだけだった。
二週間、一緒に住んでいる間ずっと見てきた、いつもどことなく不機嫌な彼女の顔。その影に隠れた優しさや思いやり、そして笑顔。
俺は、それを気に入っていた。彼女には、ずっとそうして居て欲しかった。
きっと、それで。彼女らしくない彼女を見るのが、耐えられなかったんだと思う。
どうして、そう思ったのか。
そもそも、どうして彼女の事が放っておけなかったのか。
それは――――
――――ああ。なんだ、そういう事か。
ようやく、俺は答えらしきものに辿り着いた。
……いや。とっくに辿り着いていたのかも知れない。
聖司の話を聞いて、戦う事を決意して。
彼女のらしくない姿を見て、強くなりたいと思って。
そんな中で何かが変わった様な気がしていたけど、結局、俺は最初から何も変わってはいなかった。
俺はただ、彼女の哀しむ姿が見たくなかっただけだ。
彼女には、いつも彼女らしく居てほしい。いつも通りの不機嫌な顔で、「情け無いわねえ」と言って欲しい。
そうして、たまにでいいから笑って欲しい。あの、思わず赤面したくなる程に綺麗な笑顔で、楽しそうに、幸せそうに笑って欲しい。
それが、俺の全て。言葉にしてしまうと陳腐だけど、俺は、その為になら命を賭けてもいいとすら思った。
それを。その感情を何と言うかなんて、決まっている。
―――つまり。
俺は、彼女のことが、好きだから。
この、天野さつきという女に、どうしようもなく惚れちまってるから。
だから、彼女のことを、守りたいと思ったのだ。
「は――はははっ……」
思わず、笑いが込み上げた。
だって、可笑しくて仕方が無い。今こんな状況でそんな事に気が付く俺も可笑しければ、こんな素直さの欠片もない難儀な女に惚れ込んじまってる俺の馬鹿らしさも、可笑しくて仕方が無いんだから、笑わずには居られなかった。
「……何を笑っている。絶望のあまり、頭がおかしくなったか」
「―――いや、気にすんな。ただ、絶対に彼女を守り通さなくちゃいけない理由が、出来ちまっただけだ―――」
ゆっくりと光が集っていくそれを手に取り、立ち上がる。気付けば、体の痛みはすっかり無くなっていた。
「なっ――き、貴様、それは―――」
俺は今、信じているから。
自分の心を。彼女への、その想いを。
だから。
「ユートピア」が、応えてくれない、筈はなかった。
「これで終わりだ、クソ親父。彼女は、俺が幸せにしてみせる……!」
そうして、それを振るった。
辺りを被うほどの巨大な光となったそれは、目の前の闇を残らず切り裂いて、自分たちが進むべき道を、眩いばかりに照らし出した。
三十四 「光」
人の光とは、つまりは命そのものである。
それぞれの役割など、それに後付けされたものに他ならない。
それは、これまで見てきた三人の若者にとっても、同じ事。
一人の少年が、「願い」を持つ。その加護の下で光を得た少女が「恐れない」心を持つに至り、そんな彼女をもう一人の少年が「受け入れる」。
そう言えば簡潔ではあるが、それでは余りにも陳腐に聞こえてしまう。
元来、人の心とは、そんな風に簡単に言い表すことの出来るものではない。
喜び、哀しみ。怒り、憎しみ。友情、そして愛。
そういった様々な感情はそれ単体のみで意味を持つものではなく、それらが複雑に絡み合ってこそ初めて人の心は形成される。
そうして形成された、どれ一つとして同じものの無いそれは、しかし決まって一つの物を追い求める。
幸福。
それが何であるかは人それぞれではあるが、突き詰めれば人の望みというのは全てそれに終着する。
それこそが人の素晴らしい所なのだ、と気付いたのは最近の事。
ある少年の心を借りて、人の世を見ていた時の事である。
どうやら人とは元来、他人の幸せを見て、自分も幸せになれる心を持つらしいのだ。
中には妬みを持つ者も居るようだが、それは自分もそれを望んでいるという事の裏返しに他ならず、ならばそれは本質的なものではない。
その心の持ち主が意図的に作り出している、ただの偽りに過ぎないのだ。
つまりは。
誰もが持つ「幸せになりたい」という願いは、「みんなを幸せにしたい」という願いと同義なのだ。
繰り返しになるが。
生きる意味などを求める必要はない。
人は、生きる事にこそ意味がある。
生きている限り。「幸せになりたい」と願っている限り。
知らず、誰かを幸せにしているにしているに違いないのだから。
三十五 春樹 真人
彼女は今、何を思っているんだろう。
目を覚ますことなく横たわる彼女の表情は、どことなく穏やかに見える。
それは、気のせいなんかじゃないと思いたい。
だって、これで彼女を縛っていたものは無くなった。あとは、幸せになるだけなんだから。
そっと抱き上げた彼女の体は温かく、俺の心が安らいでいくのが分かった。
「―――帰ろう、天野。俺たちの、家へ―――」
呟く様に口にして、歩き出した。
彼女が目を覚ましたら、まず何と声を掛けようか。
聖司の事とか、彼女の父親の事とか、あと、俺の気持ちとか。言わなければいけない事は、たくさんある。
だけど、第一声は、やっぱり一つしかないと思う。
―――おはよう、と。
いつも通りに、声を掛けよう。
それでもし、彼女もいつも通り「おはよう」と返してくれたら、そんなに嬉しいことはない。
ゆっくりと、出口に向かって歩を進めて行く。
今はまだ、暗くて、よく見えないけれど。
その先には、光に溢れた明日が待っていると、信じている。
代理人の感想
終わりましたね。
色々といいたいこともあるのですが、今ここでそれを言うのもヤボというものでしょう。
執筆お疲れ様でした。