トモヤは走った。
走って走って、それでも後ろを振り向けばまだあの蒼い目が追いかけてきているような気がして、だからまた走った。
なぜ、あれが怖いのか。
いや、あれは「怖い」などという言葉でとうてい表せられるものではない。
畏怖だ。
そのような感情を抱いたことは今までなかったが、これが畏怖と呼ばれるものなのだとトモヤは確信した。
蒼い目。銀色の髪。
人の形こそしているものの、明らかに人間ではなかった。
もっと恐ろしくて、もっと純粋で、もっと高貴な―――
「うわっ」
足がもつれた。
無我夢中で走っていたトモヤは踏みとどまることが出来ず、そのままの勢いで地面に倒れこんだ。
世界が回転するような感覚。
「いっててて……」
とても痛い。それもそのはず、ここは硬いアスファルトの上だ。
人が滑ったり転んだりしていい場所ではない。
(……あれ? なにやってるんだろう、俺)
ふと、なぜ自分が走っていたのか分からなくなった。
息が荒くて、全身が熱い。長い距離を全力で走ってきたのだから、それは当たり前だ。
(とにかく、帰らなきゃ)
こんな夜更けに、靴も履かずにアスファルトの道を全力疾走して、その挙句ド派手にすっ転んだのだ。
こんなところを近所の人に見られでもしたら、どんな噂を立てられるか分からない。
『あそこの家の息子さん、おかしいんじゃないかしら……』
そんな風に言われるのは嫌だ。自分はどこもおかしくなんてないのに。
「つっ……」
立ち上がろうとすると、体のあちこちに痛みが走った。
結構強く打ったところもあるみたいで、所々擦りむいているもいるようだ。
(ぜったい何か言われるな、これ。どうやって言い訳したらいいか……)
家族のことを考えたとき、何かを思い出しそうになったが、何なのかは分からない。
ため息をつきながら、いま来たばかりの道を戻り始めた。
思ったほどは長く走っていなかったようで、家に帰り着くのにそれほど時間はかからなかった。
帰り着いてみると、玄関のドアが開けっ放しになっている。
どうやらそれは自分の仕業らしい、というのはなんとなく分かった。
(危ないな。泥棒が入ったらどうするんだ)
泥棒、という単語が出て、また何かを思い出しそうになったが、やはり何なのかは分からない。
中に入って、ドアの鍵を閉めた。
(うわ。なんだ、この臭い……)
玄関を上がると、いきなり強い異臭が鼻をついた。
はじめ、錆びた鉄の臭いに似ていると思ったが、そうではない。
もっと不快で、いやらしい。
汚い便所の臭いにも似ている気がする。
トモヤは吐き気を覚えそうになったが、なんとかこらえて、奥へと入っていった。
(何か、おかしい)
感じたのは、違和感。
本当にここは、住み慣れた自分の家なのだろうか。
いや、間違いなくそうなのだが、何かがおかしい気がする。
空気が、体に馴染まない。
まるで全く知らない場所に迷い込んでしまったような感覚すら、トモヤは覚えていた。
なんだか、目の前がくらくらする。
ろくに考えもしないまま、ただなんとなく、奥へ奥へと足を踏み入れていく。
ある部屋の前まで来て、中の様子をうかがった時、彼の思考はいよいよ停止した。
「なんだ、これ……」
もともとは居間だった部屋で、入り口の引き戸は開いたままになっている。
明かりもやはりついたままにしてあって、
まるで「見ろ」と言っているかのように、その光景を赤々と照らし出していた。
そう、赤だ。
文字通り、真っ赤に染まっている。
いや、染まっている、などという生易しいものではない。
端的に言えば、沼だ。
真っ赤な泥で満たされた沼が広がっており、所々にぶよぶよした気色の悪いものや、白い尖ったものが浮かんでいる。
原型など、留めていない。
もともと何であったのか全く分からないほどに、バラバラだ。
ようするに、臭いのもとはこれだった。
一面に広がった血の臭いと、散らばった臓物から放たれる糞便の臭い。
近くまで来ると、もはや鼻を覆わずには居れなかった。
「親父……母さん?」
そんな惨状の中、トモヤがそれと判別できたのは、たったひとつだけ、原型を保っている部分があったからだ。
それは、まるで奇妙なオブジェのように、二つ並んでテーブルの上に置かれている。
一方は、きれいな顔をしていた。
静かに目を閉じ、まるで眠っているかのようだ。
それとは対照的に、もう一方は、恐怖に慄いたままの形で固まっている。
大きくひん剥かれた目がこちらをにらみ付けていて、(お前が―――)と、呪ってきているような気がした。
トモヤが叫び声を上げなかったのは、あまりにも現実感がなかったからだ。
夢だ、とも思えなかったが、かといってこれが現実だとはとうてい思えない。
頭上で、ごとり、という物音がしたのはその時だ。
(姉貴……)
急に、そのことを思い出した。
この家にはもう一人、家族がいる。
トモヤは急いで階段のほうへ向かった。
今度は、逃げてはいけない。
今度は、ということは、じゃあさっきは逃げていたのだろうか。
だとすれば、何から? やっぱり分からなかった。
階段を駆け上がって、そのまま姉の部屋へ。
ドアが閉まっていたので一瞬躊躇したが、心を決めてドアノブに手をかける。
ドアを開けると、
今度は、明かりはついていなかった。
月明かりに照らされて、銀色の髪がきらきらと光っている。
蒼い目がこちらを向いた瞬間、あ、とトモヤは思ったが、もう遅い。
「――――」
うめき声すら出ない。
倒れた床も、赤で満たされている。
トモヤの血ではない。赤い沼が、この部屋にも広がっているのだ。
(もう、いいや)
このまま死んでしまえばいい、とトモヤは思った。
この一家は、わけの分からない侵入者に襲われて、みんな死んでしまうのだ。
一人だけ生き残る、なんてことがあってはいけない。
何日か経って、誰かがこの惨状を見つけたときのことを考えてみた。
これだけの事件だ。新聞やテレビなんかでも、大きく報道されるに違いない。
「一家四人、惨殺」
それでいい。
自分一人だけが生き残ったりしたら変だ。
もしかしたら、なにか変なふうに疑われるかも知れない。
そんなのはごめんだ。
まるで他人事のように思いながら、トモヤはゆっくりと意識を失っていった。
◇
もう一つの異変は、トモヤの家からは少し離れた、人気の無い山の中で起こった。
何の前触れもなく、物音もなく、突如としてそれは現れた。
「ラケル、反応はどうか」
太い、男の声がする。
約十メートル四方の、鉄の建物の中で、だ。
「大気成分、セフィロトのエネルギー量、共にデータと一致しています。
間違いありません。我々はいま、
興奮気味に答えたのは、女の声だ。建物の中には、三人の男と、一人の女が居る。
「外は、夜か。どうする、オリゲリス。朝になるのを待つか」
「いいや、アレクセイ。何か胸騒ぎがする。急いだほうが良さそうだ」
オリゲリス、と呼ばれたのは、長いひげを蓄えた、四人の中で最も年長者である男だ。
彼を含め、四人はみんな、同じような服装をしている。
白い絹に頭と腕を通すための穴を開けただけの、簡素な衣服。
伝承などに登場する、天使がしているような服装によく似ていた。
「そうか、分かった。いますぐ行こう」
アレクセイ、と呼ばれたほうの男がそう言って立ち上がるが、一人がそこへ口をはさんだ。
「本当に行くのですか。人間に力を借りるなど、恥ずべきことです」
「まだ言うか。我々に手段を選んでいる余裕などないと何故分からんのだ、ジュリオよ」
ジュリオ、と呼ばれたその男は、まだ若い。
歳は二十を超えるか超えないかといったところで、顔にも少年の面影が残っている。
そんな彼が、一団のリーダーであるアレクセイに向かって異を唱えたのには、理由がある。
今彼が言ったように、「人間」に力を借りることが気に入らないというのと、もう一つ。
「ルーリアは、どうするのです」
むしろこちらの方が、彼が反抗的になっている要因としては大きい。
ルーリア、というのはアレクセイの娘であり、ジュリオが密かに想いを寄せている相手でもある。
そんな彼女に対して先日与えられたオリゲリスの予言≠ェ、どうしても彼には納得できなかったのだ。
「ルーリアか……そうだな。ラケル、今あの子はどうしてる」
「たぶん、奥で休んでいると思います。いろいろと、疲れているようでしたから」
「そうか。では無理に連れて行く必要はない。
一人で残して行っても危険はないと思うが……ラケル、念のため、お前がついていてやってくれ」
「分かりました」
ラケルの返事を確認すると、アレクセイはもう一度、ジュリオの方へ向き直った。
「いいな、ジュリオ。これ以上何か言うのなら、一人で
「……」
ジュリオはまだ気に入らない顔をしていたが、さすがにそれ以上は何も言わなかった。
今度こそ、彼らは鉄の建物を出て、目的地へと向かった。
全く勝手の分からないはずの異世界において彼らが目的地を把握できていたのは、
やはりオリゲリスの予言≠フおかげである。
そこへ着くころには、オリゲリスの「胸騒ぎ」は確信に変わっていた。
「どうやら、ただ事ではないぞ」
中に入ると、死体などとっくに見慣れている彼らですら目を背けたくなるような、とんでもない惨状が広がっていた。
「一体、なにが……」
アレクセイは、もはや希望は潰えたかと思ったが、オリゲリスは冷静だった。
「上だ」
彼らの唯一の希望である少年は二階におり、まだ生きているという。
俄かには信じがたかったが、とにかく彼らはその言葉を信じ、階段を駆け上がった。
果たしてそこには一人の少年が居て、確かにまだ生きている。
しかしながら彼もかなりの深手を負って倒れており、早急な治療が必要であるのは明らかだ。
「どうだ、オリゲリス。助かりそうか」
「保障はできんがな。いずれにせよ、ここでは無理だ。シェキーナに連れて帰るぞ」
「シェキーナに人間を入れるのですか。空気が汚れます」
「……黙っていろ、ジュリオ」
戻る途中、オリゲリスはもう一度、この家の惨状に目を向けた。
幸せであったはずの家庭で繰り広げられた悲劇。
状況からみて、恐らく少年はそれを目の当たりにしたはずである。
(助けたところで、果たして協力する気になるかどうか)
恐らくなりはしない、とオリゲリスは思った。
もしこの少年が普通の神経をしているのなら、まず立ち直れない。死にたい、とすら思うかも知れない。
「この世界の夜は、やたらと暗い―――」
誰かが、そう呟いた。
代理人の感想
電撃文庫の書き出しみたいですねぇ。(笑)
ただ、グッと来るものがありません。
(公平を期すために、電撃文庫の作品の大半は書き出しでグッと来ないと言うことは申し添えておきましょう)
投稿当初の別バージョンのほうがグッと来るという点では(すなわち「つかみ」においては)上だったような気もします。
平凡な家庭生活があって、そこから暗転すると言うところでつかみになるわけですね。
ごく単純に言って、二転三転するか最初にどかんと来るか、つかみというのはそのどちらかが書きやすいと思います。
冗長に思えた部分を削ったとの事でしたが、削りすぎて必要な展開まで削ってしまっているように思います。
あるいは長編の1シーンとしてはこれで十分なのかもしれませんが、今回分だけではこう判断せざるを得ません。
感想を求めるんだったらある程度まとめて書いてから送るか、
あるいは連載作品のように各話毎に纏まったエピソードにして送ってもらえると嬉しいかなと。
と、いうかそうでないと感想つけるのに困ります(笑)。