やがて、死体は腐り始めた。
カラスにつつかれ、蛆が湧いて、だんだんと原型を失っていく。
あたり一面に立ち込めるのは、肉の腐った臭い。
世界中どこへ行っても、それから逃れることは出来なかった。
(やっぱり、この世界は人間の世界だったようだ)
アラボト天球の効果が及ぶのは、人間に対してのみ。
他の生き物たちには何の影響もないのだが、人間がみんな死んで、その死体が腐っているというだけで、なんだかこの世界そのものが腐っているような気がしてくる。
(この世界で生きている俺たちは、一体何なのだろう)
世界と一緒に、自分自身も腐っているのではないか。
この頃のトモヤは、ふとそんな想いに囚われることがあった。
あれから、トモヤとルーリアは何人かの異端者≠ノ会った。
が、結果はみんな同じ。救いを求める者など、一人も居はしなかった。
悟りを開いた僧侶。
この世の全てを集め尽くした大富豪。
全ての希望を投げ捨てたホームレス。
彼らが異端者≠ニなった理由は様々だったけど、要するにみんな「世捨て人」というやつだ。
そして最後にはみんな、口をそろえて言うのである。
「殺してくれ」と。
(これじゃあ、ただ人を殺して回っているだけじゃないか)
トモヤは、もう五人の人を殺した。
彼の「知識」を使って。
とは言え、あまり殺したという実感はない。
当然だ。
彼は、直接手を汚していない。
ただ、口にするだけなのだ。たった一言、「死ね」と。
そうすれば、彼の中の「知識」が、それを現実のものとする。
たったそれだけのことなので、人を殺した実感なんてわくはずがなかった。
(この腐った世界に生きて、人を殺して回る。これが、トモヤへの復讐になるのか……?)
自身への復讐とは、一体どうやればいいのか。
いくら考えても、それだけは「知識」も教えてくれなかった。
「あの……トモヤ様、それ、癖なんですか?」
そんな風に考えていたある日、ルーリアがそんなことを言った。
「その、爪を、カチカチって―――」
言われて、トモヤは愕然とした。
「自分はトモヤではない」という考えが、いよいよ否定されたのだ。
今ここで考えているのがトモヤであるならば、一体自分はどうすればいいのか。
復讐、というからには殺さないといけないのだが、かと言ってこのまま自殺したのでは大した無念も生まれそうにない。
まさに、八方塞がりの状況だった。
◇
二人の旅に、初めて異変と呼べるものが起こったのは、そんな折だった。
場所は、トモヤの住んでいた国とは少し離れた、自然の豊かな土地。
季節は、さわやかな風の吹く春だった。
桜の舞い散るそんな場所で、トモヤは六人目の異端者≠ノ会い、話をして、最後にはいつも通りにルーリアを遠ざけてから、殺した。
その後、少し離れた位置で待っていたルーリアと合流して、二人でシェキーナに戻ろうとしていた時のことだ。
「―――
聞きなれない言葉が、突如として、トモヤの頭上から降ってきた。
男にしては少し高くて、透き通った声。
春のさわやかな風に乗って、歌うような響きを残した。
それの接近に、トモヤは全く気が付いていなかった。
加えて、それが何を言っているのかも、よく分からない。
だけど、その「分からない」ということが、それが何であるのかを如実に表していた。
今この世界に在る中で、自身の「知識」が及ばない存在といえば一つしかないことを、トモヤは知っている。
「
ルーリアが、息を呑む。
二人の前方、ちょうど太陽に覆いかぶさるようにして、それは浮かんでいた。
トモヤを見下ろすのは、蒼色の目。
背後のよく晴れた空よりも、さらに濃い蒼色をしている。
春の風にさらさらとなびく銀色の髪は、太陽からの逆光を浴びて、白い雲のように透き通って見えた。
「……グノーシス? 何のことだ」
「何を言うか。お前に分からぬ筈はない」
それが今目の前に居て、自分と会話をしている。
そのことに、トモヤは酷く違和感を覚えた。
トモヤは今まで、それをただの「現象」として扱ってきた。
幸せだったトモヤの日常にいきなり入り込んできて、家族を文字通りずたずたに切り裂いた「現象」。
それを呼び込んだのはトモヤであり、そのトモヤが逃げ出してしまったから家族にまで被害が及んでしまった。
そういう風に理解していたから、その「現象」がもう一度現れて、自分に話しかけてくる、なんてことを考えたことがなかった。
「グノーシス―――神々の言語で、『知識』という意味―――なるほど、つまりは俺のことか」
だけど、トモヤの中にある「知識」は、彼に混乱することを許さない。
まるで何かに操られるかのように、トモヤの口はすらすらと動いた。
その言葉を聞いた命≠ヘ、満足したような笑みを浮かべた。
長い間満たされなかった自分の望みが、ようやく叶おうとしている。
その笑みは、そんな、喜びに満ち溢れた笑みであるように、トモヤには思えた。
そうして、一度大きく息を吸い込むと、意を決したように命≠ヘ言葉を発した。
「知識≠諱A問う。私は―――」
「ルシフェル!」
だけどその言葉は、喉の奥からしぼり出すかのようなルーリアの声に遮られた。
トモヤの聞いたことのない声だった。
「あなたは……っ! あなたは、何を……なぜ、世界をこんな風にする!
なぜ、何のためにお父様たちを殺した!」
ルーリアの言葉は文脈も無茶苦茶で、何を言いたいのか分からない。
恐らく彼女自身、自分が何を言ってるのか分かっていないのだろう。
彼女の表情から伝わるのは、燃えさかるように激しい憎悪。
いま口にしたのは、彼女の意志というよりは、その憎悪が彼女の中に納まりきらずに口から漏れて出た感じだったのだろう。
「ん……?」
対する命≠ヘ、あくまで冷静。
そこで初めて彼女の存在に気が付いたかのように、気だるそうな顔をして、ルーリアのほうへ目を向けた。
「……天使は、全て死に絶えたものだと思っていたが。どうやら、それは間違いだったようだな」
氷のように蒼い瞳と、同じくただひたすらに冷たい声。
その二つに晒されて、ルーリアはたじろいだ。
何か言い返そうとしたが、言葉が出てこない。
そして、次の瞬間。
「間違いは―――修正せねばならん」
桜が舞う空の向こうで、命≠フ体が大きく揺らめいた。
その瞬間にトモヤの脳裏をよぎったのは、あの日の光景。
命≠前にして、凍りついたように動かないルーリアの姿が、あの日、成す術もなく腹を貫かれた自身の姿と重なるような気がして―――
「止めろ……!」
気が付けば、叫んでいた。
とっさに出ただけであったトモヤのそれは、しかし単なる言葉ではない。
今まで、彼が一言「死ね」と口にするだけで、多くの異端者≠スちの首が飛んだ。
ただ口にするだけで、世の中の理を超えて、ものを変化させる奇蹟。
神に等しき、「知識」の力である。
だが今、肝心な今という時に限って、それは全くの無力だった。
命≠ヘ止まらない。
その姿には何の変化もなく、奇妙なほどにゆっくりな動きで、そのまま腕を振り下ろそうとしている。
だけど、それはトモヤにとっても全く予想外の事態というわけではなかった。
何度も言うようだが、トモヤには命≠フことが分からない。
なぜ分からないのか、その理由すらも不明だが、それはつまり命≠ノは「知識」が及ばないということ。
だからトモヤの言葉は、この相手に対しては何の効力も発揮することが出来ないのだ。
空に浮かんでいる命≠ニ、トモヤの少し後ろで立ち尽くすルーリアの間には、おおよそ十メートルほどの距離がある。
だけどそんなもの、きっとこの相手には関係がない。
あの腕が振り下ろされれば、間違いなくルーリアは死ぬ。
トモヤの家族と同じように、無残に殺される。
(そんなの―――許してたまるか)
「逃げろ、ルーリア!」
ただ言っただけなのか、それとも「知識」を使った言葉だったのか。
それすらも分からず、トモヤは叫んだ。
理屈ではなく、トモヤは叫ばずには居られなかったのだ。
だけど幸いなことに、それを言った瞬間、ルーリアの姿は一瞬にしてそこから消えた。
彼女が自分の足で駆け出したのではない。
トモヤの「知識」が働き、彼女の存在はどこかへと転移したのだ。
恐らく、彼女自身も気がつかないうちに。
どこへ逃げろ、と具体的に指定したわけではないので少し不安ではあったが、きっと大丈夫だろう、ともトモヤは思った。
彼女がどこへ行ったのか、トモヤには何となく予想がついている。
逃げろ、と言った瞬間になんとなく頭に浮かんだのはシェキーナだったから、おそらく彼女はそこへ飛ばされたはずだ。
本来ならばもっと遠くへ逃がすべきだったのだろうが、幸いシェキーナはここから少し離れた位置に停めてある。
とりあえずの危機は、回避できたと言っていいだろう。
「消えた―――? ふむ、なるほど、それがお前の力というわけだな」
標的を失った命≠ヘ、振り下ろそうとした腕をゆっくりと戻しながら、トモヤに言った。
その表情からは、少しばかりの驚きが感じられる。
「それにしても、何をそんなに慌てる必要があるのだ、知識≠諱B
それほどに、あの天使が大事か」
「……さあな。自分でもよく分からん」
対して、トモヤは皮肉交じりの笑みを浮かべる。
まともに答える気は、あまりなかった。
とはいっても、いま彼が言ったのもまんざら嘘ではない。
実際ルーリアのことをどう思っているのか、トモヤ自身にもよく分かっていなかった。
今トモヤが生きているのは、あの日、家族を死なせた「トモヤ」への復讐のため。
だから、そんな彼が他人に対して執着する、ということ自体、本来ならあってはいけないことなのだ。
だというのに、いざ目の前でルーリアが危機に晒されてみれば、必死になってそれを助けようとした自分が居る。
自分が彼女に対して何らかの感情を抱いているというのは、トモヤにとってもはや否定の仕様がない事実だった。
「分からん、とは何事か。お前の言葉とは思えん。もう一度言うが、お前に分からぬことなど何もないはずだ」
「……」
その言葉が間違いであると、トモヤは知っている。
トモヤには命≠フことが何も分からないし、それ以外のことも全て知っているわけではないのだ。
そもそも、己の感情ですらきちんと理解しきれていない時点で、全てを知っている、などとは到底言えない。
「まず、己を知れ」という言葉があるが、それすら今のトモヤは出来ていないのだ。
全知全能と言われる神の、「知識」とは「全知」の部分であろう。
だけど、今の自分は決して「全知」と呼べるような存在ではないと、トモヤは知っている。
「まあ、よい。要は、お前が私の問いに答えることが出来るか、だ」
そんなトモヤの心事など、命≠ヘ知る由もない。
そう言うと、命≠ヘもう一度大きく息を吸い込んで、口にする。
「知識≠諱A問う。私は、なぜ生まれた」
「……は?」
命≠ェ何を言おうとしているのか、トモヤには全く分からなかった。
だけど、そんな彼をよそに、命≠ヘさらに言葉を続ける。
「蔑まれ、ただ一人で苦しむためだけの生に、一体何の意味があったのだ?
教えてくれ、知識≠諱v
「……知るか。何のことかは知らないけど、いきなりそんなことを言われても、困る」
さっぱり訳が分からないトモヤは、そんな、そっけない返答をするしかなかった。
それを聞いた命≠ヘ、何か、慌てたような表情をする。
いかにも、そんな筈はない、というような顔だった。
「知るか、だと? 一体何度言わせるのだ。
お前に分からぬことなどあるはずがない。
そのためにお前を生かしたというのに、何だ、その様は」
「それこそ、知らん。
大体、お前のことは、俺には何一つ分からないんだ。
どうやら、お前には俺の『知識』は及ばないらしい」
「―――何と」
そんな馬鹿な、と命≠フ顔が言っていた。
どうやら命≠ヘ何かをトモヤに訊きたくて、そのためにトモヤを生かしたのだ、と言っているようだ。
だけど、今さらそんなことに興味はわかない。
トモヤにとって家族を殺したのはあくまで「トモヤ」なのだから、命≠フことなんて正直どうでもいいのだ。
むしろ、トモヤはこの会話を早く打ち切りたかった。
「知識」が及ばないということは、つまりこの命≠ニ対峙している間、彼は何の変哲もないただの人間に戻ってしまうということ。
このままでは、自分が元の、家族を死なせたあの「トモヤ」に戻してしまいそうな気がして、彼は内心、ひどく嫌な気分だった。
「……いや、そうか。
今はまだ、私の『命』の力がお前の『知識』を上回っているということだな。
それならば、お前にはもっと苦しみを与えなければいけない」
突如、再び空中で命≠フ体が爆ぜたのはその時だ。
大仰な動きで、目の前の虚空を掴み取るような仕草を命≠ェする。
その瞬間、トモヤの右腕に断裂するような痛みが走った。
いや、正確に言えばその表現は間違っている。
トモヤが感じたのは、やはり例の単なる情報としての痛みでしかなかった。
しかし、それとは無関係に、反射的にその部分に向けられたトモヤの目が映し出した光景は、予想をはるかに上回っていた。
一言で言うと、腕がなかった。
トモヤの右腕は、付け根に近い部分からもぎ取られるようにして、なくなっていた。
「悲鳴すら上げんのか。なるほど、それが『知識』を持つ者の在り様というわけだな」
その声に再び顔を上げてみると、命≠フ手には、人間の腕らしきものが握られている。
さっぱり実感がわかなかったが、どうやらあれが自分の右腕だったものらしい、とトモヤは他人事のように理解した。
「もう少しだけ、時間を与えよう。次に会う時には、私の問いに答えられるようになっておけ」
それだけ言い残して、命≠フ姿は虚空へと消えた。
一人残されたトモヤは、ぼうっとした頭のまま、もう一度自分の右腕を見た。
やはり、無い。二の腕の半分辺りから先がなくなっている。
引き千切られた切り口から、ぽたぽたと血が垂れ落ちて、地面に敷き詰められた桜の花びらを赤く染めた。
傷口から覗いているのは、赤黒い肉と、白い骨。
かすかに、あの日のことを思い起こさせる光景だった。
全く実感がわかないけど、目がおかしくなったのでなければ、どうやら自分は右腕を失ったらしい―――トモヤは、その時になってようやく、その光景が意味するところを理解した。
利き腕を失った状態で生きていく、これからの生活。
それを想像して、トモヤは少し嬉しくなった。
(少しは、トモヤへの復讐になるだろうか)
片腕を失ったということは、あの忌々しい癖も、もうなくなったということだ。
自分をトモヤと定義付けるものが、また一つなくなった。
そんなことを考えていると、
「―――トモヤ様!」
遠くから、ルーリアの声がした。
未だにその名前を呼ばれることが少し癪ではあったけど、無視するわけにもいかない。
黙ったままそちらへ目を向けると、予想通り、必死に走ってくるルーリアの姿がある。
トモヤはそのまま、彼女が近づいてくるのを待った。
「トモヤ様、あいつは、命≠ヘどうし―――」
トモヤに駆け寄ったルーリアは、何かを言おうとして、その途中で言葉を詰まらせた。
「ト、トモヤ様、腕が……!」
顔色を真っ青にして、わなわなと唇を震わせている。
対して、トモヤは平然と答えた。
「大げさなやつだな。こんなの、周りで腐ってる死体に比べれば、どうってことないだろう」
「そんな……そんな問題じゃありません!
命≠ノやられたのでしょう?! すぐに手当てを―――」
「いや、必要ない」
切り捨てるように、あっさりと言った。
見れば、切り口からの出血は、もう止まっている。
言葉に出さなくても、念じるだけでそれぐらいのことは出来た。
普通ならばこのまま放っておくと傷口が腐ってしまうところだが、そういう常識も今のトモヤには通用しない。
自分の体のこととなると、トモヤの「知識」は殊更に有効な働きをするのだ。
時には、トモヤ自身の意思すら無視して。
「ですが、いくらなんでもそのままというのは……」
必要ない、と言ったトモヤの真意はすぐに理解したルーリアだったが、それでも生々しい肉を覗かせたトモヤの右腕は、彼女にとってあまりにも見るに堪えない光景だった。
血の気の引いた顔のまま、呟くように言う。
「……そうだな。次の異端者≠ノ会うのに、このままというわけにはいかないか。
後で、どこからか包帯でもとってこよう」
「トモヤ様の力で再生する、というわけには、いかないのですか?」
「それは無理だ。この間も試しただろう?
俺の力は、この世界に存在しているものに変化を加えることしか出来ない。
何か新しいものを作り出すこと、つまり創造というやつは、俺には無理なんだ。
引き千切られた残りの部分があれば、くっつけるぐらいのことは出来るかもしれないけど、生憎それはあのエヴァとかいう奴が持って行ってしまったし」
あまりにもルーリアが悲愴な顔をしているので、トモヤはなんだかばつが悪くなって、左手で頭をかいた。
もし腕を再生する方法があったとしても、今の自分にはそれを行うつもりはない―――
トモヤは内心そう思っていたが、それに関しては黙っておいた。
しばらく時間を共にするうちに、ルーリアには少し心配性なところがある、とトモヤは思うようになっていた。
どうでもいいようなトモヤの言葉にもいちいち反応して、勝手に拗ねたり怒ったり、時には泣きそうな顔をしたりもする。
もっとも、それが人というものの本来の在り方なのだが、いろいろあって今のトモヤは意図的に心を閉ざしているし、そんな彼が接するのは、ルーリアを除けば他人への興味をすっかり失ってしまった異端者≠スちばかりである。
普通の人というのがどんなものなのか、トモヤはすっかり忘れてしまっていた。
「命=c…そうだ! それで、命≠ヘどうしたのです。まさか、もう倒したとか……?」
はっと思い出したように、ルーリアは急に大きな声を出した。
もともと彼女にとってそれが一番大事なことだったはずなのだが、それをすっかり失念してしまっていた。
それぐらい、トモヤが腕を失ったという事実が、彼女にとって衝撃的だったということだ。
「まさか。そんなはずはないだろう。
前にも言ったけど、あいつには、俺の『知識』が通用しないんだ。
あいつの前では俺もただの無力な人間に戻ってしまうんだから、どう頑張ったって今の俺にはあいつを倒すことなんてできない。
今だって別に俺が撃退したとかそういうんじゃなくて、あいつが一人でわけの分からないことばかり言って、結局自分からどこかへ行ってしまっただけだし」
「……でも、それじゃあなぜ、トモヤ様がそんな傷を負っておられるのです?」
ルーリアはそういう風に言ったが、内心では質問の仕方が間違っていることを知っていた。
本当は、「何故あなたは生きているのか」と問わなくてはならないのだが。
「さあな。あいつが何を考えているのか、俺にはさっぱり分からないよ」
そう言って、トモヤは深くため息をついた。
その後、どちらともなく「戻ろう」という話になって、二人はシェキーナに向かって歩き出した。
歩いている間、トモヤはずっと黙って、空を見つめていた。
どこか憂いを帯びた目で、春の爽やかな青空を目に映している。
その横顔を見ながら、ルーリアはふと、一番に言わなければいけないことをまだ言っていないことに気が付いた。
「あの、トモヤ様……」
「ん、なんだ?」
名前を呼ぶと、トモヤは空から視線を外して、ルーリアの方を向く。
その様子は、ろくに会話すらしようとしなかった始めの頃に比べれば、ずいぶんと好意的になっている。
ルーリアは密かに嬉しかったけど、その分彼に申し訳ない気持ちも大きくなった。
「なんて言ったらいいか……とにかく、ごめんなさい」
「ん……?」
言われて、トモヤは一瞬何のことか分からなかった。
だけど、彼女がじっとトモヤの右腕を見つめているのに気が付いて、すぐに「ああ」と思い当たった。
「いいんだよ。別に、意識してやったことじゃない」
「でも……でもトモヤ様なら、たとえ命≠ェ相手でも、無傷で逃げることぐらいは出来たはずでしょう?
私なんかに構わないで、ご自分のことだけを考えていれば……」
「だから、気にするなって。
そんなことをしてたら、君は間違いなく殺されていた。
その代わりに俺が右腕を失うだけですんだのだから、きっと俺の選択は正しかったんだと思う。
だって、結果として、誰も死ななかったんだからさ」
言いながら、トモヤは自分に違和感を覚えた。
誰も死ななかったから、正しかった。
とても、自分の言葉だとは思えない。
世界に点在する異端者≠殺してまわっていて、しかも最終的には自分を殺すことを目標にしている今の自分が言うような台詞では、決してないだろう。
だけど、トモヤに似つかわしくない、その妙に優しい言葉が、ルーリアにとっては逆効果だった。
「ごめん、なさい……」
もともと暗かった彼女の表情が、ますます沈んでいく。
見る見るうちに、緑色の瞳に涙が溢れて、ぽろぽろと流れ落ちた。
「私のせいで、こんな……」
「お、おいおい―――」
ルーリアの涙を見るのは、トモヤにとってもこれが初めてではない。
だけど、何故か今回は妙な戸惑いを感じてしまう。
だけど、自分のせいだとすると、何か変だ、ともトモヤは思った。
トモヤが腕を失ったことで彼女が泣くのだとしたら、もっと早くに、それこそ彼女が駆けつけて来てすぐにそうなるはずではないのか。
「なあ、どうしてそんなに泣くんだ。君が気に病むようなことなんて何にもないんだから。そう言っただろう?」
「……はい。すみません、ごめんなさい―――」
上擦った声で、何に謝っているのかも分からず、ルーリアは謝罪を繰り返した。
実は彼女自身、自分がなぜ泣いているのか、よく分かっていなかった。
直接の原因は確かにトモヤのことなのかも知れないけど、何か、それがきっかけになってあらゆることが思い出されて、頭の中がごちゃごちゃになってしまった。
(私は、いつも守られてばかり―――)
無力感から来る、悲しみと自己嫌悪。
いつも肝心なときには何も出来ない自分が、どうしようもなく嫌になった。
天使の世界、
何も出来ないまま、誰一人として救えないまま、結果として自分だけが生き残ってしまった。
わずかに残った天使たちも、まるで自分が居ない時を見計らったかのようにして命≠ノ襲撃されて、殺されてしまった。
そして今、唯一の「大切な人」と呼べる存在となったトモヤにすら、無力な自分のせいで、取り返しのつかない怪我を負わせてしまった。
いつも、傷付くのは周りの人々ばかり。
その中で、自分だけがのうのうと生きているという事実が、彼女をこれ以上ないほどに攻め立てていた。
そして、さらにもう一つ。
それらの出来事の元凶になっている存在、つまり命≠ヨの憎しみが、それと同時にわきあがった。
あいつを、どうにかして、殺してやりたい。
だけど、自分には何も出来ないのだ。
つまり、全ては無力な自分が悪い。
何も出来ないくせに、こんなところでのうのうと生きて、自分は一体何をしているのか―――
そんな風に押し寄せてくる感情を制御しきれずに、頭の中がごちゃごちゃになって、一度涙が溢れ出すともう止まらなかった。
トモヤは、必死にかける言葉を探していたけど、どうしても見つからない。
泣きじゃくる彼女を前にして、ただ立ち尽くすしかなかった。
◇
シェキーナに着いた二人は、いつものように、前の座席に二人並んで腰を落ち着けた。
せめてもの気遣いとして、少し時間を空けてからトモヤは話を切り出した。
「あのエヴァとか言う奴について、教えてくれ」
他でもない、あの
実を言えば、旅をする途中、ルーリアの方から命≠ノついて話そうとしたことは何度かあった。
だけど、その度にトモヤは「興味がないから」と言って聞こうとしなかったのだ。
その結果として、何も知らないままに命≠ニ対峙することとなり、ルーリアまでも危険に晒してしまった。
その愚行を、繰り返すわけにはいかない。
いつまた命≠ェ姿を現すか分からないのだし、いまのうちに聞けることは聞いておくのが得策だろう。
もっとも、命≠ェ何者であるのかを知ったところで「知識」が及ばないかぎりはトモヤに対抗する手段はないわけだが、話を聞けば何か糸口がつかめるかも知れない。
それに、どうやら命≠フ目的はトモヤを殺すことではないようだった。
だとすれば尚更、少しでも多くの情報を仕入れておかなくてはならない。
「ようやく、聞いてくださる気になったのですか」
少し呆れたような様子で、ルーリアは言う。
悪態をつくぐらいの元気はなんとか取り戻したようで、トモヤは少し安心した。
「今さら、すまない。だけど、もしよかったら話してくれないか」
「……まあ、いいんですけど。
でも、私だって大したことを知っているわけではありませんよ。
命≠ェ何を考えているかなんて、私にもわかりません」
「君が知っている範囲で構わない。
出来るだけ、あいつのことを知っておきたいんだ。
そうすれば、次にあいつが現れた時に、少しは対抗できるかも知れないからさ」
言いながら、「対抗する」というのはどういうことなのか、トモヤにはよく分からなかった。
別に命≠倒したいと思っているわけじゃないし、逃げるぐらいのことならさっきみたいに「知識」を使えばどうとでもなる。
結局は単なる好奇心なのかも知れない、とトモヤは思った。
「対抗するって―――命≠倒す、ということですか?」
「……さあ。別に、あいつをどうにかしたい、とか思ってるわけじゃないんだけど」
「え、でも―――こんなこと言っていいのか分かりませんけど、トモヤ様は命≠ノ家族を殺されたのでしょう?
憎いとか、復讐したいとか、そういうのは無いんですか」
「復讐―――」
ルーリアの口からその言葉が出て、トモヤは思わずどきりとした。
全く方向性は違うが、確かに今のトモヤは、そのために生きているのだ。
「まあ、いいじゃないか。ひとまず、話を聞かせてくれ。後のことは、それから考えればいい」
「……そうですね。
では、まずトモヤ様はどのくらい命≠フことをご存知なのか教えてください。
何度か出くわしているのだし、全く知らない、というわけではないのでしょう?」
ルーリアは、お喋りをしていると勝手に機嫌が良くなるタイプだ。
さっきまで泣いていたのがまるでうそのように、軽快なリズムで話を進める。
「そうだな、ええっと……知っている、というよりはただの予想なんだけど。
あいつが人間じゃなくて天使だってことは、なんとなく分かる。
あとは……そうだな、状況から考えて、この世界にアラボト天球を出現させたのも、きっとあいつの仕業なんだろう?」
「ええ、そうです、とりあえずその二つは正解です。……他には?」
「ん……いや、今のところ、知ってることと言えば、それだけ、かな」
言いながら、トモヤは考えを巡らせた。まだ、何かあった気がするのだが―――。
「―――あ。そういえば、あいつ、おかしなことを言ってたな。蔑まれる、とか、生きる意味がどうのとか」
「……? さっき、私が居なくなってからの話ですか?
そういえば、結局あの後、命≠ヘどうしたのです?」
「いや、どう『した』って言うのなら、見ての通り、俺の腕をもぎ取って、そのままどっかに飛んで行っちまっただけなんだけど―――」
そこまで言ってから、また余計なことを言ってしまったと気が付いて、トモヤは一度言葉を切った。
横目でちらりとルーリアの顔をうかがうと、案の定、彼女の表情には影が差している。
「……ごめんなさい。軽々しく訊くことじゃなかったですね」
「いや―――だからさ、いいんだよ、もう。
俺は気にしてないから、君も気にしない。分かった?」
「……はい」
消え入りそうな声で、かすかに返事をするルーリア。
小さく頷きながらも、その表情はあからさまに暗い。
かといって、これ以上言っていてもキリがなさそうなので、トモヤはそのまま話を進めることにした。
「それでさ。その時、あいつが言ってたんだよ。
『私は何のために生まれたんだ』とか。
その時はあまり深く考えなかったけど、今思うと、もしかしてあれって何か意味があったんじゃないかと思ってさ」
「生まれた理由……ですか」
そう言うと、ルーリアは小さくため息をついて、何か考えこむような仕草をした。
そうして、少し間を空けてから、
「分からなくもないかも知れません。
命≠ヘ、今ではすっかり私たちの敵となって、世界を滅ぼそうとしているわけですけど―――
命≠フ生い立ちを考えれば、確かにそんなことを訊きたくなるかも知れません」
そんなことを、ルーリアは言った。
「生い立ちって―――あいつについて、君はそんなに詳しく知っているのか」
「いえ、別に詳しいとかそういうんじゃないんですが―――
何と言うか、命≠ェ背負わされた運命、というようなものならば、天使なら誰でも知ってます」
「背負わされた、運命―――」
何か、深い含蓄がありそうな言葉だ、とトモヤは思った。
何も言わずに、無言で先を促す。
「あの……さっき、命≠ェ現れたときのことですけど。
あの時、私が命≠フことを何と呼んだか、覚えていらっしゃいますか?」
「……うん?」
何か言いにくい話なのか、ルーリアは奥歯にものが挟まったような話し方をする。
それが気にはなったけど、とりあえずは言われた通り、先ほどのことを思い出してみることにした。
「えっと……ああ、そういえば『ルシフェル』とか、言っていたか?」
「ええ。トモヤ様ならばわざわざ言わなくてもお分かりだと思いますが、それが、命≠フ天使名です。
それがさっき言った『天使ならの誰でも知っていること』というのは、それなんですが……」
「天使名、ルシフェル―――それが、『エヴァの生い立ち』とやらに関係がある、ということか?
ルシフェルと言えば、神に逆らった堕天使として有名だけど―――」
トモヤが言うと、ルーリアは少し驚いたような、感心したような顔をした。
話すうちに元気を取り戻したのか、彼女の顔を覆っていた暗い影は、すっかり取り払われている。
「へえ。そういう伝承って、こっちの世界にもあるんですね。
なら、この話も理解しやすいと思います。
ルシフェルという名前は、トモヤ様が仰ったように、神に逆らったりとか、禁を犯して『知識の実』を食べて、天使と人間が分かれてしまうきっかけを作ったとか、そういう、いわゆる『反逆者』として多くの伝承に残されていますけど―――」
「ちょっと待て。なんか違うぞ、それ。
神に逆らったというのはその通りだけど、『知識の実』を食べたのはルシフェルじゃないだろう?
それは、『アダム』とかいう最初の人間の仕業じゃないのか。
大体、『天使と人間が分かれる』って、何だ。
人間というのは、もともと天使とは別の存在として創られたものじゃないのか?」
「え―――」
トモヤが言うと、ルーリアは少しうろたえた様子になった。
右手の指に、後ろ髪を巻きつけるような仕草をする。
一緒に旅をするうちに気がついたのだが、どうやら何か困ったときにそうするのがルーリアのくせらしい。
「ええっと……私の知っている限りでは、今言った通りのはずなんですけど―――
でもまあ、そうですよね。
かなりの長い間、二つの世界には全く交流がなかったんですから」
「言われてみれば、それもそうか。どっちが本当なんだろうな」
「さあ、私にはさっぱり。というか、トモヤ様にも分からないのですか?」
「ん……まあな。何と言うか、そういう『神々の業』とか言うような類のことについては、俺の『知識』も及ばないらしい」
「そうですか。……あ、ごめんなさい、少し話が逸れましたね。
それじゃあ、そろそろ本題に入りましょうか」
そういうと、ルーリアは一度言葉を切って、小さく息を吸い込んだ。
彼女の視線はトモヤには向けられておらず、先ほどからずっと、窓の外の景色をじっと見つめている。
「実は、あんまりいい話ではないんですけど。
天使たちの恥ずかしいところ、というか―――私たち天使は、古い慣わしからなかなか抜け出せないところがあるんです。
『こういうのはいけない』とか『こういう時はこうしろ』とかいう、意味のよく分からない昔からの決め事みたいなのがあって、今でもそれがきっちり守られてるんですよ」
「ああ、そういうのなら、こっちの世界にもあるかな。
……だけど、それとあのエヴァという奴の話と、何か関係があるのか?」
「……ええ。いい話ではない、と言ったのは、そのことなんです。
昔から伝わっている慣わしというのは、私たちの場合、古い言い伝えが基になっている場合が多いんです。
その『古い言い伝え』の中には、さっき言った『ルシフェル』についての伝承も含まれるわけですが―――」
「ふむ。それで?」
「伝承の中で、『ルシフェル』は悪者ですよね?
神に逆らったり、決め事を守らなかったり。
だから、そこから生まれる風習というのは―――」
「なるほど。ルシフェルという名前の奴は、悪い奴だと」
「ええ。分かりやすい言い方をすれば、そういうことですね。
要するに、ルシフェルという天使名を与えられた天使に対して、差別思考が生まれたんです。
『あいつはきっと、世に害をもたらす』という風に」
「……」
ルーリアが言い淀んでいた理由が、トモヤにも少し分かったような気がした。
差別というものを身近に感じたことのないトモヤにとってそれはあまり実感のわく話ではなかったけど、彼女の言うとおり、あまりいい話ではないのは確かだろう。
「理不尽な話だな。天使名というのは、本人の意思とは関係なく与えられるものなんだろう?
なのに、それが原因で差別をうけるなんて―――」
「私も、そう思います。思うんですけど……分かっていても意識してしまうものなんですよ、こういうのって」
言い訳をするように、ルーリアは少し早口になる。
「あまりいい話ではない」と言っているのだから、彼女自身、それが恥ずべきことだと分かっているのだろう。
だけど、先ほど命≠ノ向けて「ルシフェル」と叫んでいたのを考えると、やはり彼女の中にも、それが相手を蔑む言葉だという意識が多少はあるのかも知れない。
「まあ、話は大体分かったよ。
つまりあのエヴァという奴は、ルシフェルという天使名を与えられたせいで、ずっと差別をうけてきた。
そのせいで世界を憎むようになって、ついには世界を滅ぼそうという思考までたどり着いてしまった、と。そういうことだな」
「はい、そうだと思います。
ですから、周りの天使たちにも、確かに多少は悪いところがあったのかも知れません。
……でも、それでも私は、命≠ェ憎いんです。
だって、いくら差別されたからって、こんなことしていいわけないじゃないですか!
どうして、どうしてこんな……私は、ほとんどの天使たちは、彼を直接差別したわけじゃないんですよ!
なのに、お父様たちや、全く関係のないこっちの世界の人たちまで……」
急に語気を荒げだしたルーリアに、トモヤは少し驚いた。
命≠ニ会ってからというもの、なんだか彼女は情緒不安定になっているのかも知れない。
「……ごめんなさい。今は関係なかったですね、そんなの」
「いいんだ。気にしなくていいから、先を続けてくれ」
「分かりました。
……でも、『ルシフェル』についての説明はもういいですよね?
じゃあ、次は命℃ゥ身のことについてお話します」
「ああ、頼む」
「はい。ええっと、何から言えばいいか―――
そうだ、トモヤ様、『エヴァ』という言葉の意味はご存知なんですか?」
「ああ。神々の言語で、『命』という意味だろう?
これも言わば『神々の業』みたいなもんだけど、どうやらこれぐらいのことは俺にも分かるみたいだ」
「そうですか。じゃあ、私が今から言おうとしていることも、大体想像がついていたりします?」
「あのエヴァというやつが天使の
まあ、何となく、そうかなと思っていたけど……やっぱりそうなのか」
「ええ。『命の実』を取り込んでいるから、命=B
単純なネーミングですよね」
「……ん? あいつがエヴァと呼ばれているのは、『命の実』を取り込んでいるからなのか?
じゃあ、あいつの本名―――天使名じゃないほうの、親から貰った名前は?」
「分からないんです。
命≠ヘ自分から名乗ったりはしないし、命≠フことを昔から知っている天使たちはもうとっくに死んでしまっています。
命≠ェ生まれたのは、もうずいぶん前のことですから」
「ずいぶん前って……どのくらい?」
「さあ。二百年前とか、三百年前とか。
もしかしたら、千年以上昔なんじゃないかって説もありますよ」
「そんなに長く生きているのか、あいつ。
『命の実』を取り込んだのだから、不老不死になったわけだな。
どおりで、おかしなしゃべり方をすると思った」
芝居がかった、大仰なしゃべり方をする命≠フ姿をトモヤは思い出してみる。
外観は、どう見ても二十代前半ぐらいの男であった。
だけど確かに、纏っていた空気というか、雰囲気みたいなものを考えると、トモヤの知る老人たちよりもさらに長い時間を生きていたとしても頷けてしまいそうな気もする。
「だけど、そんなに長く生きていたら、世界への憎しみなんてどうでもよくなってしまいそうなものだけどな」
「さあ……その辺りは、私には何とも。
長く生きていたのだから、その分憎しみも大きかったのかも知れませんよ」
「なるほど、そういう考え方もあるか。
……で、ええっと、何の話だっけ?」
「ああ、ごめんなさい。さっきから、話、逸れすぎですね。
要するに私が言いたかったのは、宙に浮かんだり、素手で人を切り裂いたりする命≠フ力は、『命の実』から来ているということ。
しかも不老不死だから、私たち普通の天使には対抗のしようがなかった。だから『知識の実』を探し出して、その上で人間の適格者≠ナあるトモヤ様に会いにきたというわけです」
「……とすると、君たちは俺に命≠倒してもらおうとしていたのか?
もう天使の世界は滅びてしまったのだろう。
なのに、それだけのために、わざわざ異世界まで?」
「いえ、ただ仇が討ちたかったとかそういうんじゃありません。
『知識の実』と『命の実』の両方を得た者は、神になれるという伝承をご存知ないですか?
『知識の実』を得たルシフェルが形成の世界≠追放されたのは、彼が『命の実』をも得て、神に等しい存在となって生き続けることを神々が恐れたからだ、という話もあります。
つまり、もしトモヤ様が命≠倒して『命の実』を奪うことが出来たなら、トモヤ様は神に等しい存在になる。
そうすれば、この世界を再生することだって、きっと出来るはずです」
「……」
ルーリアの言うことはどうもスケールが大きすぎて、トモヤにはよく分からなかった。
自分が神となる。
それがどういうことなのか、トモヤには想像もつかない。
「なるほど、それが君たちの狙いだったわけか。
でも、今の俺は、あのエヴァという奴に全く対抗できていない。
すまないな、期待に応えられなくて」
「そ、そんな……! トモヤ様が謝ることなんて、何もありません! 私たちが、勝手にしたことなんですから」
トモヤが「すまない」と口にした瞬間、ルーリアは立ち上がらんばかりの勢いでそれを否定した。
トモヤにとっては何気ない一言だったのだが、どうやら彼女にとってはそうもいかなかったらしい。
「……実を言うと、私たちにも確信があったわけじゃないんです。
人間の適格者≠ノ会えば何とかなる、なんて保障はどこにもありませんでした。
私たちは、ただ、オリゲリス様の予言に従っただけだったんですからね」
恥じ入るように、声を落としてルーリアは言う。
「そうやって、勝手にトモヤ様を巻き込んだ挙句、そんな怪我まで負わせてしまって……
謝らないといけないのは、私たちのほうです」
「気にするな。俺にとってそもそもの発端は、俺の家族が襲われたことだろう。
そのことに、君たちは関係ない」
「でも……」
「さっきから、悪い方に考えすぎだな。
少し疲れてるんじゃないか。
今日はもうここまででいいから、少し休んだらどうだ」
そういうと、いかにも話はもう打ち切りだというふうに、トモヤはため息をついた。
ルーリアはまだ何か言おうとしていたけど、トモヤが全く聞こうとする素振りを見せないので、仕方なくトモヤの言葉に従って目を閉じた。
しばらくして、やがて静かに寝息を立て始めた彼女の横顔を見ながら、トモヤは思う。
(身勝手な復讐に巻き込んでいるのは、俺のほうなんだ。
君が気に病むことなんて、何もない……)
そんな二人を乗せて、シェキーナは飛んでいく。
季節は反対方向へと進んで、やがて冬になった。
◇
トモヤが次に人の気配を感じたのは、とある海辺の町まで来た時のことだった。
季節は冬。
シェキーナのドアを開けると、途端に冷たい潮風がトモヤの体に吹き付けた。
「寒くないんですか?」
身じろぎひとつしないトモヤに、ルーリアが声をかける。
トモヤは「気にするな」とだけ言って、歩き出した。
寒いという感覚も、今のトモヤにとってはただの情報にしか過ぎない。
海沿いの道を歩いているあいだ、トモヤはずっと、海を眺めていた。
冬の海というものは、内陸の土地に住んでいたトモヤにとっては今まであまり馴染みがない。
もしかしたら、じかに見るのはこれが初めてかもしれなかった。
冬の海。
すさまじいと思った。
暗くて、陰々として、救いが無い。
灰色の空がある。
黒灰色の海がある。
波は鋭く、黒い刃のようだ。
岩に砕けるしぶきも、灰色だ。
ふと反対側を見ると、家々の屋根までもが暗い。
まさに今の世界を象徴しているかのような光景だとトモヤは思った。
「ここか……?」
灰色をした家々の前まで来て、トモヤは足をとめた。
陰惨な光景に溶け込んだ家々の中でも一段と暗く見えるような、小さな家。
僅かな広さしかない庭にはびっしりと雑草が生い茂っていて、家の壁にもつたが這っている。
廃墟、というか、まるでお化け屋敷。
とても人が住んでいるような雰囲気ではない。
「……本当に、ここであっているのですか?」
「多分、な。まあ、入ってみれば分かるさ」
そう言うと、トモヤはノックもせずにドアノブに手をかけた。
鍵は掛かっておらず、まるで開かずの扉のようにすら見えたそのドアは、いともあっさりと開いた。
そのまま、トモヤは中へと足を踏み入れる。
どんよりとした湿りっぽい空気に混じって、かびの臭いが漂ってくる。外観と同じように、中も全く手入れされていないのは明らかだった。
「ちょっと、いいんですか? 勝手に入ったりして。他人の家なんですよ、一応……」
「いいさ。どうせ中に居るのは異端者≠ネんだ。
勝手に家に上がられたぐらいで怒るようなやつは、はじめから異端者≠ノなったりはしないだろう」
「それは、そうですけど……」
所在なさげにしているルーリアを放って、トモヤはずかずかと奥へ進んでいく。
一人で取り残される形になったルーリアは、慌ててトモヤの後を追った。
追いついてみると、トモヤは一つのドアの前で足を止めている。
「ここですか?」
「ああ、そうみたいだ。
まさか化け物が飛び出してきたりはしないだろうけど、一応気をつけてくれ」
言ってから、トモヤはゆっくりとドアを開けた。
途端に、むわっとしたカビの臭いがいっそう強くなる。
部屋の中は、薄暗い。
一つだけ窓があるにはあるのだが、半分以上が何かに隠されていて、日の光はあまり入ってきていない。
あまりにも数が多いので、その「何か」が何であるのかを判別するのに少し時間が掛かった。
それは、四方を囲っている本棚の中にもびっしり詰まっていて、それでも入りきらないらしく、部屋の中央に置かれたデスク、さらには床の上にまで山積みにされている。
つまり、本だ。
その部屋は、文字通り本に埋め尽くされていた。
「ヘタな図書館よりもたくさんあるんじゃないか、これ……」
広さにして、七メートル四方ぐらいだろうか。
決して狭くはないフロアリングのその部屋は、しかし随所に積み上げられた本のせいで、足の踏み場というものがほとんどない。
中に入っていいものかどうか迷っていると、ふいに、声がした。
「なんだね、君たちは。何の断りもなく入ってきて」
人が居るとは思っていなかったので、二人は少し驚いてしまった。
二人の視界には本しか入っていなかったので、まるで本がしゃべったかのように思えたのだ。
本が山積みにされたデスクの向こうで、何かがむくりと起き上がった。
足の踏み場なんてないはずなのに、何の苦も無くすらすらと動いて二人の前に姿を現したそれは、よく見れば人間以外の何者でもない。
理由も無く身構えていたルーリアは、思わず安堵のため息をもらした。
一体何に対して身構えていたのかはよく分からなかったけど、思わず身構えずには居られないぐらい、この部屋の雰囲気は異様だったということだ。
「あ、ああ、すまない。俺たちは―――」
「いや、いい。言わんでいい」
自分から「なんだ」と言っておきながら、初老の男はトモヤの言葉を興味なさげに遮った。
いかにも手入れしていないぼさぼさの髪は、少しでも触るとフケがぱらぱらと舞い落ちそうなぐらい、汚らしい。
何日も風呂に入っていないのであろう、よく見れば男の顔は、垢やらインクやらでひどく黒ずんでいる。
「あの……」
「ぬ?」
代わってルーリアが声をかけると、男はあからさまに目を輝かせた。
「変わった服を着ているな。天使のまねごとか?
……いや、こんな時勢だから、あるいは本物の天使か」
「え……は、はい、私は―――」
「そうかそうか、やはり天使か」
ルーリアが言い終わる前に、男はさも嬉しそうに言葉をかぶせた。
ちらりと覗かせた前歯は、白ではなくて明らかに黄ばんでいる。
「で、その天使と共に居るお前は、何者だ?」
「……いや、その前に、あんたは何なんだ」
あまりにも自分勝手に話を進めるその男に、トモヤは少し腹を立てた。
もっとも、それは普段トモヤがルーリアに対してとっている態度とあまり違わないのだが、むろんそのことにトモヤは全く気付こうともしない。
「ん、ワシか? 下らんことを気にするもんだ。
ワシのことなんて、どうでもよかろうに。
……まあ、せっかく来たのだから、名前ぐらいは教えてやってもよいか。
コフート。ハインツ・コフートだ」
「ハインツ・コフート―――」
その名前を、トモヤは何度か反すうした。どこかで、聞いたことがあるような気がしたのだ。
「……そうだ。あの『ターギオリアの英雄』の訳者の名前―――」
「ほう。ワシの名前を知っておるか。意外と、見所のある奴だ。
……いかにも。それが、ワシの名だ。本来の職業は作家だが、気が向いたときには翻訳などもやっておる。
お前が目にしたのは、それだろう」
「作家の方、だったんですか……」
なるほど、というふうに、ルーリアは呟いた。
見渡せば、辺り一面を埋め尽くす、本、本、本。
確かに、作家の住みかとしてこれほど分かりやすい場所もないだろう。
「ずいぶん、偉そうですね。有名な方、なんですか?」
「……どうだろう。少なくとも俺は、あの『ターギオリアの英雄』以外で見たことはなかったけど」
いかにも機嫌を良くしている男に聞こえないように、二人は小声で囁きあう。
そんな二人に気付く様子もなく、男はにこにこした顔のまま、言った。
「生きている人間に会うのも、久方ぶりだ。
どうだね。少し、話を聞かせてはくれんかね」
「話って、どんな」
「そうだな、天使の話にも興味はあるが―――
やはりお前だ、片腕のお前。そういえば、まだ最初の質問にも答えておらんではないか」
「最初の質問って……ああそうか。でも、『何者だ』とか言われても。名前とか、そういうのを聞きたいんじゃないんだろう?」
「ふむ」
男は、あごに手を当てて少し考える仕草をしたあと、
「では、お前はなぜここに居るのかを教えてもらおうか」
いきなり重々しい口調になって、そう言った。
「なぜ、ここに居るのか―――」
ずいぶん抽象的な質問だとトモヤは思った。
聞き様によっては、どんなふうにでもとれそうである。
「俺たちは、生き残った人たちを探してる。生き残った人たちってのは異端者≠ニ言って―――」
「違う」
トモヤは自分たちの目的を説明しようとしたが、男はそれを短く遮った。
「そんなことを聞きたいのではない。
お前が、何を考え、何をするためにここに居るのか。
ワシが聞きたいのは、そういうことだ」
トモヤは、意外な気分だった。
どうして異端者≠ナあるはずのこの男が、こんなに他人に対して興味を抱いているのか。
今まで会ってきた他の異端者≠スちとは、ずいぶん様子が違っている。
「俺の目的、か。なぜ、そんなことを?」
「……いや、作家というものの常でな。何か、新しい刺激が欲しいのだよ」
そういえば、自分の真の目的について訊かれたのはこれが初めてだ、とトモヤは思った。
異端者≠スちにはもちろん、ルーリアにすら話したことはない。
それを今ここで話せばどうなるのか、少し不安ではあったが、興味もあった。
「つまらない話だけど―――」
そう前置きしてから、トモヤは全てを打ち明けた。
ある夜、突如
その異様な外観を見て、自分は家から逃げ出してしまったこと。
そして、そのせいで家族を死なせてしまった自分へ復讐するために、今の自分は生きているということ―――。
男は、たまに「ふむ」と相づちを入れながら、トモヤの話に聞き入っている。
少しは興味を持ったのだろうか、先ほどのように言葉を割り込ませることはしない。
もちろん、隣に居るルーリアも、トモヤの話を聞いていた。
彼女がトモヤの考えに疑問を抱いたのは、言うまでもない。
(どうして―――)
今すぐにでも問い詰めたいところだったけど、そんなことが出来るほど彼女は度胸のある性格ではない。
結局は、彼女も男と一緒に、黙ってトモヤの話を聞くことになった。
全部を話し終えるのに、五分と掛からなかった。
口にしてみれば意外と単純なことだと、トモヤは話しながら自分でも少し意外だった。
「……ふむ」
話を聞き終えた男は、しばらく黙ったまま、何かを思案していた。
ルーリアにもいろいろ言いたいことはあったけど、どう言っていいのかわからない。
ありふれた疑問をぶつけるのも、間違っていると諭すのも、何かが違っている気がする。
重苦しい沈黙が流れ始めたちょうどそのころ、男がゆっくりと口を開いた。
「それで、今のお前の、どこが不幸なのだ?」
「な―――」
トモヤは、思わず言葉を失った。
男の発言は、要するに今のトモヤの存在意義そのものを否定するものだ。
「家族を失ったから、不幸だと?
それとも、右腕を失ったからか? そんなはずはあるまい。
家族に恵まれない子供というのが、この世界に一体どのくらい居ると思っている。
右腕のことにしてもそうだ。
事故や戦争などで、片腕はおろか両手や両足を失った人間というのは、数え切れないほど居ることぐらい、お前だって知っているだろう。
生まれつき、腕のない子供だって居るぞ。
幸、不幸というのは感覚的なものだから、そういう統計学的な観点では量れんのかも知れんが、少なくともワシには、お前がとりわけて不幸だとはどうしても思えん」
「―――」
言い返せない自分に、トモヤは愕然とした。
今の自分が不幸でないとすれば、一体自分はどうすればいいのか。
「それに、だ。今の、この世界を見てみろ。
ほとんどの人間が、死に絶えているではないか。
それなのに、お前はこうして生き延びている。
その時点で、お前は少なくとも不幸ではない。
しかも、そんな綺麗な女まで侍らせて。
何が、不幸なものか。お前は、十分に幸せな生を送っているよ」
押し黙ったまま、トモヤは視線を床に落とした。
一面に散乱した、本の数々。
この全てに、男は目を通したのだろうか。
だとすれば、反論できなくて当然だ。
この男は、少なくとも今の自分よりははるかに物事というものを理解しているのではないか、とトモヤは思った。
「……ふむ。だが、己への復讐、というのはなかなか興味深いな。
よかろう、次の題材には、それを使わせてもらうとしようか」
それだけ言うと、男はくるりと後ろを向いて、再び椅子に腰掛けた。
「もしお前の中で答えが見つかるときが来たなら、そのときはまたここを訪れるとよい。
そのときには、きっとワシの作品も完成していることだろう」
男は、もうそれきり何も言わなくなった。
来たときと同じように、その姿はもう本の向こうに隠れてしまっている。
トモヤは、黙ってその場をあとにするしかなかった。
外に出ると、相変わらず冷たい潮風が吹いていた。
目に飛び込んでくるのは、黒々とうねる、冬の海。
あまりにも救いがなくて、トモヤはしばらくそこに立ち尽くした。
「生きていたら、復讐にならない。確かに、それはそうかも知れない。
……だけど、このまま死んだって、なんにもならないじゃないか」
「トモヤ様―――」
泣きそうな声で、ルーリアが名前を呼ぶ。
トモヤは、思わず天を見上げた。
どこまでも続く、灰色の空を。
「教えてくれ、ルーリア。俺は、これからどうすればいいんだ」
「……そんなこと、訊かないで下さい。私に分かるわけないじゃないですか」
強がってはみたものの、彼女の目にはもう涙が浮かんでいる。
必死にこらえながら、彼女は言葉を続けた。
「だけど、私が居ます。ずっと、一緒に居ますから―――
どうか、死ぬだなんて、そんなことは言わないで下さい。
あなたまで居なくなってしまったら、私、どうすればいいんですか」
「……」
トモヤは、何も答えなかった。
自分を必要としてくれる誰かが居るというのは、人にとってこれ以上ない幸福だ、というのを聞いたことがある。
だとすれば、彼女の存在こそが、この復讐の妨げになっているのではないか。
ふと、そんな考えが頭をよぎってしまって、トモヤは慌てて打ち消した。
(何を言うか。彼女は、彼女だけは、俺の復讐に巻き込んではいけないんだ)
遠くに聞こえるのは、ただひたすらに繰り返す波の音。
冬の海辺には、いつまでも、冷たい風が吹いていた。
代理人の感想
うーむ、ホームページビルダー使うと覿面に重くなるなぁ。
今回タイトルはちゃんと入ってるので作業するほうとしては手間が一つ省けていいんですが。
それはさておき本文ですが、コフートさんの歯に衣着せぬ物言いが素敵(笑)。
「しかも、そんな綺麗な女まで侍らせて」の下りでは思わず大笑い。
「僕が世界一不幸なんだ」とぐずる阿呆を一喝、したわけじゃないけどこう言うのはやっぱり痛快ですねぇ。
一喝されたほうも少なくとも迷いというか、物事を考え直すきっかけにはなりそうでそこらへん楽しみですね。
命も出てきましたが、それでも話自体が余り動かないので、こう言う動く原因になりそうなことは歓迎です。