スモーク

                               yasuoman

 秋の風が優しく校舎を吹き抜けていく。

 朝比奈 昇は家に帰ってもする事がないので、とりあえず学校の屋上に行ってみた。屋上から見える海はいつも地球の広さを実感させてくれるほど大きかった。そんな海をみれば、中間テストの点など紙に書かれたただの記号に思えるだろうと昇は考えていた。実際、記号でしかなかった。

 屋上には先客がいた。昇の親友である川畑 隆士だった。

「おう、昇。どうしたんだ? 先、帰ったんじゃなかったのか?」

「隆士こそどうしたんだよ。煙草なんか吸って・・・」

 隆士は煙草を吸っていた。もちろん、まだ中学三年生の隆士が喫煙していいはずがなかった。こうやって格好つけて煙草を吸う、なんちゃって不良がどこのクラスにも一人はいると思う。

「・・・俺んちさ、家が新聞屋だろ。だから早く帰ると仕事手伝わされるんだよ」

 そこで隆士は一旦言葉を切り、煙草を思いきり吸い込み、大きく煙を吐き出した。煙は海から吹いていた風に捕まり、放課後の喧騒とともに流されて霞んでいった。

 隆士は大きく伸びをしながら。

「だからこうやってのんびりと海を見て時間潰ししてたんだよ。で、おまえは何しにきたんだよ」

 隆士は顔に微笑を浮かべながら昇に聞いてきた。

「・・・実はテストの点が思ってたより低くてさ。それに家に帰っても暇だし」

「それで海でも眺めて現実逃避か?」

 透明な空には飛行機雲が浮かんでいる。とてもとても高く感じられた。

「・・・隆士も似たようなものじゃないか」

「ははっ、まあな」

 そういうと隆士は静かに笑い出し、昇もそれにつられて軽く笑った。二人の奇妙な笑い声は飛行機雲が浮かぶ秋の空に消えていった。

 

「じゃあ、僕はそろそろ帰るよ」

 そう言うと昇は立ち上がった。もうすでに四時半をまわっていた。結局、あれから昇は一時間くらい隆士とあまり意味のない日常会話を繰り返していた。

「そっか・・・」

「じゃあ俺もそろそろ帰るとするかな」

 隆士は立ち上がり、服についた塵を右手で払い落とした。

 空は茜色に染まりつつあった。

 飛行機雲はいつのまにか風に流されてその姿を消していた。

 そして二人は海に背を向け、屋上のドアに向かってゆっくりと歩き出した。

 

「そういえば昇は今、家で一人なんだよな」

 階段を二人で下りていると、隆士は唐突に昇に聞いた。

「うん、そうだけど・・・なんで知ってるの?」

「んっ? 忘れたのか? 一昨日、おまえが自分で言ってただろ」

「そうだったっけ・・・」

「そうだったんだよ。自分で、明日から親父が単身赴任するんで一週間だけ母親が世話をしに行くって言ってたじゃないか」

「・・・ああ、ごめん思い出した」

「まったく、しっかりしてくれよ」

 そう言うと隆士は煙草臭くなった右手で昇の肩を軽く叩いた。

 二人は靴箱に着いた。

 ほかの生徒はいなく、そこには静寂な世界が広がっていた。空気は澄み切っており、正面玄関から見える外の世界には茜色に染まった風景が見え、微かに風が吹いていた。

 そんな世界に昇は圧倒された。そして、自分が『今』というものに完璧に溶けこんでいる事を感じ幸せな気分に酔いしれた。

「おい、どうしたんだ?」

 隆士は靴箱から取り出した靴を持ちながら聞いてきた。

「・・・いや、なんでもないんだ」

「? 変な奴・・・」

 隆士は靴をポイッと地面に投げ、靴の踵を踏み装着した。

「よし、帰ろうぜ」

「・・・うん」

 昇はそう答えたが、静寂しきった世界に未練を感じているのか、足は一向に動こうとせず、幻想が作り出した摩訶不思議な匂いに捕われたままだった。それは淋しくも幸せな匂いだった。

 

 日が落ちた。

 辺りは静けさを増し、澱んでいく。

 暗い。

 昇は一人で家路をたどっていた。

 隆士は今日発売の漫画があるのを思い出したらしく駅前の本屋へと駆けて行った。まあ正直一人の方が落ち着く。昇はそんな気分だった。

 楠木が両側に植えられている並木道路は閑散としていた。たまに通り過ぎる車のライトだけが現実さを保っており、暗闇を照らし出していた。微かだが昇の耳に電車が線路を叩く音が聞こえてきた。

 いつも通っている踏切だった。

 この踏切は開かずの踏切として地元では悪名高い代物である。電車が通り過ぎてもまた次の電車がやって来て、歩行者の行くてを阻む。噂では半年程前に電車に飛び込んで自殺した女性の霊がそうさせているのではないかと言われている。その死んだ女性には子供がいたそうだ。何とも気の毒な話である。

 昇は踏切まで辿り着き、ポケットに手を入れて電車が通り過ぎるのを待った。

 そういえばこの前、この踏切辺りが妙に騒がしかったが一体何だったんだろう・・・。しかしその騒がしさはすぐに消え去り何事もなかったように今日を迎えていた。

 昇は思った。

――もしかしてまた誰かが電車に飛び込んだのではないか。

 上り線を走っていた電車は通り過ぎて行く。と、同時に反対の線路の電車がやって来る。

 その時、昇は気付いた。

 隣に昇と同じように踏切が開くのを待っている少女がいた。歳は昇と同じくらいだろうか、もしくは年下か。

 奇妙な事に踏み切りは二人をこの先に進ませまいとしているようだった。

 電車から漏れてくる明かりが二人を照らしていた。

 少女は何か小さな箱を大事そうに持ち、流れる電車を悲しそうな目で見つめていた。長い髪が電車のおこす風になびき、ちらっと見えた端正な顔立ちは辺りが暗いせいなのか青白く見えた。

 少女は不思議な雰囲気を辺りに漂わせており、とても孤独なのが見てとれた。

 昇はそんな少女に目を奪われていた。

 電車は通り過ぎて行く。喧しい踏切音が止み、遮断機がゆっくりと上がった。

 昇は踏み切りを渡ろうと一歩踏み出したがその時、後方から光が指した。昇は振りかえり、眩しい光を手で遮りながら光の元を直視した。

 車だった。

 よく見るとその車は猛スピードでこちらに向かっていた。

――あの娘が危ない!

 昇は直感的にそう感じた。事実、車は少女めがけて突進して来た。まるで狙っているかのように。

 昇は駆け出し叫んでいた。

「危ない!」

「えっ」

 少女は振り返った。

 昇は少女と車の間へ飛び込み、力一杯少女を突き飛ばした。

「っっっ・・・」

 昇が急に飛び込んできたせいか車は激しくクラクションを鳴らし、背筋が凍りつくようなブレーキ音を立てて、昇達が倒れこんでいるすぐ真横を通り過ぎた。

 車はそのまま踏み切りを乗り越え停車した。運転手は一瞬こちらを見ているようだったがしばらくすると何事もなかったように走り出した。そしてあっという間に昇の視界から消え去った。

 昇は口を大きく開け、遠ざかるブレーキランプを放心状態で見つめていた。

 手が震えていた。

 時間は確かに止まった。が、すぐに動き出し、昇の心を平静の風に乗せてくれた。

 昇は落ち着きを取り戻し、状況を把握しようと試みた。まだ手は震えていた。

「助かった・・・」

 とりあえず昇の第一声はありきたりの言葉であった。

 辺りを見まわす。

 静まりきった住宅街に鈴虫の音が響き渡っている。

 二人のほかに人影などない。ただ暗闇の中に街灯の明かりが弱々しく降り注いでいる。

「・・・大丈夫だった?」

 昇はそう言ってから気付いた。

 昇は倒れている少女に覆い被さるような体勢になっており少女の息遣いか聞こえるほど密着していた。

「ご、ごめん」

 昇は急いで起き上がり謝った。

 少女は上半身だけ起こして言った。

「・・・あ、ありがとう」

 とても悲しそうな顔で昇を見上げる。目の両端には涙が浮かんでいた。

 昇は少女が泣いている事に驚き。

「大丈夫っ? ケガとかない?」

「あっ、うん・・・」

 少女は自分が泣いている事に今気付いたのか小さい手で涙を拭った。そして何やら辺りを見まわし始めた。と、思ったら少し離れた所にある白色の小さい箱を見つけ、取りに行こうと起き上がった。が、しかし。

「痛っ」

 少女は小さく叫びペタっと地面に座り込んでしまった。

「あっ大丈夫?」

 昇もしゃがむ。

「あっ、足が:痛い・・・」

 どうやら足を挫いていたらしい。しかし少女は何故か不思議そうに足を眺め。

「何で・・・」

 呟いた。

 

 とりあえず昇は少女を近くのベンチに座らせ、落ち着かせようと試みた。

 しかしベンチに腰を下ろしても少女は泣き止まず、手に持っている白い箱に涙が滴りおちる。

 どうやら白い箱はオルゴールらしく、母親の形見なんだそうだ。

 しかし昇が突き飛ばした時に何メートルか宙を舞い地面に叩きつけられていたので、いくらネジを回しても空回りするばかりで音色など聞こえてこない。

「ごめん。僕のせいで壊しちゃって・・・」

 昇の声に少女は首を横に振り。

「ううん。・・・ありがとう」

 そう言うと涙で濡れている顔に無理やり笑顔を浮かべ優しく微笑んでくれた。

 しかしそんな顔など見たくない。絶望に近い眼差しで笑われても・・・。

 逃げたい。

 隠れたい。

 隠れたら安心できるのに。

 しかし昇は何をするべきか分かっているはずだ。少なくとも今は。

 隠すな隠すな隠すな隠すな隠すな・・・。

「・・・あのさ、とりあえず僕の家に来ない? いやっ、ほら捻挫したままじゃ帰れないでしょ。あっそれに・・・オルゴール・・・弁償しなきゃいけないし・・・」

 妙に緊張していた。

「・・・ありがとう」

 そう言うと少女はまた泣き出した。昇は少女が泣き出す意味が分からずただただ困惑した。

 空に目を向ける。

 黒い空に黒い雲が浮かんでおり月など見えなかった。

 隠れていやがった。

 

 暗い世界を二人で歩く。

 少女に肩を貸し連れだって歩く。

 手にとった少女の手は恐ろしく冷たく温かいコーヒーが飲みたくなる。

「あのさ、君の名前は?」

 昇は聞いた。

「あっ・・・。レン・・・」

 レン・・・。漢字は分からない。

「レンか・・・。いい名前だね」

 それを聞いた少女:いやレンはとても嬉しそうな顔で、

「・・・ありがとう。この名前はお母さんが付けてくれた名前なの」

 とても可愛い笑顔だ。

 昇は素直にそう思った。

 

「まあ、遠慮せずに上がってよ。家には誰もいないんだ」

 結局あれから会話など発生せずに家に着いた。

「お、お邪魔します・・・」

 やはり遠慮がちにレンは言った。

「まあ、適当に座って」

 レンをリビングのソファに座らせ、昇はあまり使わない救急セットを探しに行く。

――しかしこれからどうしよかなー。やっぱり無人の家に女の子と二人なんてまずいよなー。

 昇には彼女などできた事がなかった。

――まあとりあえず家に電話でもしてもらってレンの両親に迎えに来てもらうかー。

 行動指針は決まった。

 救急セットは何故かトイレにあった。

「ごめん、待たしちゃって」

「あ、あの」

「えっ?」

 レンは両手を胸の前で組み、幾分力強く言った。

「あの、私、実は:家出してて、家に帰れないの。だから、その・・・。オルゴールが直るまででいいから、ここに居たらだめかな・・・」

 気を失いかけた。しかし、レンの必死に訴えてくる瞳を見ると、

「・・・まあ、別にいいけど::」

 としか言えなかった。君もあの瞳を見るとそう言うと思う。

まるで銃を向けられたウサギみたいに悲しい瞳で訴えてくるんだ。

 そして昇は感じた。なぜそう感じたのか分からない。

 彼女に居場所なんて無かったんだ、と。

 

 それからレンとの生活が始まった。

 とりあえず母親の部屋をレンに使ってもらう事にした。

 彼女は驚くほどなにも喋らず、自分の事について何も話そうとはしなかった。

 おかげで夕食は気の滅入る食事となってしまった。

 リビングにあるテレビが酷くうるさい。

 

 翌日の放課後、昇は駅前の商店街にある古い時計屋まで出向き、オルゴールの修理を依頼した。

 眼鏡をかけた店主が言うには部品を取り寄せるので二日ほど掛かるらしい。

 時計屋の帰り道、昇はふと昨日レンが話していた事を思い出していた。

『私、家出してて家に帰れないの』

 何かが引っかかっていた。もちろん嘘だとも思えない。しかし彼女は何か隠している。そんな気がするのだ。

 辺りは暗くなり始め、地上に降り注いでいた昼の光は夜の闇にかき消されて夢の跡のように余韻だけが残されていた。

 ほとんどの人間が家族の団らんへと帰っていく。嫌な時間だ。

 家に帰っても出迎えてくれるのは素性も分からぬ家出少女。まあ誰か待ってくれてるだけ幸せか・・・。

 昇の顔はにやけていた。

 

「ただいま」

 家の中は静まりかえっていた。空気中の埃がゆっくりと辺りを漂い、いつのまにか消えていく。

「レン?」

 とりあえずリビングに足をのばす。

「・・・寝てる?」

 レンはソファの上で気持ちよさそうに寝息をたてていた。

 とても儚い微笑を浮かべた寝顔だった。このまま消えてしまいそうな、今の今まで隠されてきた表情。

 昇は自然と笑みを浮かべていた。

 

 静寂な空間に食器の生み出す音がこだまする。

 夕飯はシチューだ。レトルトのシチューを皿に移しかえたお粗末な夕飯。

「ごめんね。僕、料理できないからこんなご飯しか用意できないけど・・・」

「えっ、そんな事ないよ・・・」

 レンはシチューを顔の前まで運び、ふーふーと冷ましてから口の中に放り込んだ。

「うん、おいしい。それに温かい::」

 レンは自分の寝顔を見られた事がとても恥ずかしかったのか、顔が赤くなっていた。

「・・・足の方は大丈夫?」

 昇も照れるレンを見て、何故か照れていた。

「ああ・・・うん。だいぶ痛みはなくなってきた・・・」

「そう・・・」

 何故か舌がうまく回らない。

 何故かレンの顔を直視できない。

 何故か心臓の鼓動が早い。

 今になって女の子と二人きりなんだと実感する。

 お互いにお互いを意識してしまって沈黙する。

 蛍光灯に照らされた食卓に食器の音だけが響き渡る。

 そういえばトイレットペーパーがなくなりそうだったな。しかしなんで救急箱がトイレにあったんだろう。あっそうだ、隆士に借りてるCD返さなきゃ。

 昇の脳裏は意味の無い思考で埋め尽くされていた。

「あの・・・」

 沈黙を破ったのはレンだった。

「あの・・・お父さんやお母さんはいないの?」

 珍しくレンの方から話し掛けてきたので幾分驚いたがとても嬉しくなった。

「あっ、父さんが単身赴任するんで、一週間だけ母さんがその世話焼きにいっているんだ」

「・・・仲、いいのね」

 レンの顔にふっと陰が射す。しかし昇は気付かなかった。

「あの、家に連絡しなくていいの? 家の人心配してるんじゃないかな」

 余計な事を言ったかなっと昇は思ったが少し疑問に思っていた事なのでよしとする。

「ううん、いいの。家には私の帰りを待ってる人なんて・・・いないもの・・・」

 レンは自嘲気味に言い放った。

 余計な事を言ったみたいだ。

 顔に涙が浮かんでいる。

――話題を変えよう話題をかえよう話題をかえよう話題をかえよう。

 昇は頭を振り絞った。しかし頭の隅では逃げたいと考えていた。

――あっそうだ。

 逃げる心を上回った。

「あのさ、オルゴールなんだけど、二日ほどで直るらしいよ。思ったより早くてよかったね」

 泣き止まない。それどころか声を出して泣き出す始末。

 どうやら追い討ちだったらしい。

 昇は、何を喋ってもレンを泣かせてしまう自分に苛立ち、何故レンは泣くのかと困惑し、やがては宿題しなきゃ、と現実逃避に走った。

 実は明日は祝日で全国的に休みなのである。

 しかし昇は忘れたふりをして自分に嘘をついた。

 

 目覚めるとカーテンの隙間から日の光が入ってきていた。太陽は空高くまで上っており、時計を見ると十一時であった。

――あっそうか、休みか。

体からはまだ眠気が抜けきっていない。

――さて、今日はどうしようかな。家にずっといるのもなー。

 昨日、あれからレンは「ごめんなさい」と小さく言ったと思ったら自分の部屋へ一目散に駆けて行き、それきり出てこなかった。

 レンに謝ろうとも思ったが何を言っても的を射ていない気がして、そっとしておく事にした。今となっては何か言っとくべきだったかな、と後悔する。

 窓の外に目を向ける。

 一面に広がる薄く青い空はとても高く感じられた。雲など一つもない快晴であった。

 蒲団の中でうずくまっているのがもったいなく感じ、蒲団を跳ね飛ばし、ゆっくりと体を伸ばしリビングへと向かった。

 リビングにはレンがいた。

 昇は驚いた。驚いて自分がパジャマのままであることも忘れていた。

「おはよう。早いね」

「・・・あの、昨日はごめんなさい。突然泣いてしまって・・・」

「いや、いいんだ。僕の方こそ無神経に喋っちゃって」

「あなたは悪くないの・・・ごめんなさい」

 レンはうつむいてしまった。

 朝から重い空気が充満している。

「・・・あのさ、散歩に行かない? 近くにとても大きな公園があるんだ」

 レンは下を向いたまま黙っている。

「少しは気が晴れるんじゃないかな::」

「・・・うん」

 レンは頷いた。うつむいたままなので表情までは分からない。

「よし、じゃあご飯を食べたら行こう」

 日の光がリビングに射し込んでおり重い空気を一掃するように温かい空気が流れてきた。秋のくせに珍しく強い陽射だ。

 眠気は飛んでいた。

 

 緑ヶ丘公園はとても大きな公園で公園内に池がありボートも貸し出している。平日はもっぱらジョギングしている人や、ご老人の方々がゲートボールをしに来るくらいであまり人は見かけないのだが、休日ともなると家族連れが大勢押し寄せ、子供の笑い声で公園の緑を震わせる。

 昇はレンと二人で来てみたのだが予想通り人が多い。もっと静かな所で散歩したかったのだが仕方ない。

「綺麗・・・」

「えっ、何が」

 聞いてみたもののレンは「内緒です」といたずらっぽく笑いながら言い、ゆっくりと駆けて行ってしまった。

 なんなのか分からない。しかしレンの笑顔を久しぶりに見れて昇はとても嬉しくなり涙が込み上げてきそうだった。

 とりあえず涙を堪え、後を追った。

 

 レンは池のほとりに座り弧舟を見ていた。

 やっとの事で追いついた昇はレンの隣に座り空を見る。

 枯れつつある木々の間から見えた薄い青は新鮮な空気を地上に運び池の水面を揺らす。

 ふとレンが口を開いた。

「みんな楽しそう・・・」

「・・・レンは楽しくないの?」

「ううん、楽しい・・・かな」

 そう言うとレンは突然後ろに倒れ、落ち葉の蒲団に身を委ねる。

「うん、楽しい。すごく・・・」

 昇もレンに習い落ち葉の蒲団に身を委ねる。

 秋の風が木の葉を揺らし、ざわざわと鳴いていた。

「・・・風が吹いてるね」とレンが言った。

「そうだね」

 上を見ると高い高い空の中に細く長い飛行機雲が横たわっており、まるでこの世とあの世を繋ぐ橋のように感じられた。

「・・・落ち葉が気持ちいいね」

「そうだね」

 落ち葉が風に揺られ池に積もっている。

「ねえ・・・人は何のために生きているのかな」

「えっ? どうしたの突然」

「・・・お願い、何のためだと思う?」

「うーん・・・分からない。でもたぶん・・・自分自身の歴史を作り、自分自身の歴史を後世の人に伝えるために生きているんじゃないかな」

「・・・」

「・・・人はさ、いつかは死んで煙のように消えて行っちゃうけど。けどその人の意思はずっと残ると思うよ。人が生きている限り、消えていった人の意思は消える事はないと思う」

「・・・でも私の歴史は悲しい事だらけだよ。そんな歴史残さない方がいいんじゃないの?」

「いや、悲しい事も忘れてはいけないんだ。悲しい事が無くなると楽しい事も無くなってしまう。二つは対なんだ」

「・・・」

「・・・それに僕はレンの歴史が悲しみに覆われているとは思わない」

「えっ・・・」

「だって悲しみに覆われていると思い続ける事が本当に悲しい事だと思う」

「・・・」

 だいぶ日が傾いてきていた。日の光が濃さを増す。

 とても穏やかだった。

 どこからか子供の笑い声が聞こえてくる。近くをジョギング姿のおじさんが通り抜けていく。鳥が視界を横切って行く。車の排気音が街を包む。空に赤みが増し、いつのまにか雲が出ていた。その雲は人々の息遣いが生み出す風に吹かれ遠い地へと運ばれていく。

 世界には悲しみと楽しみが降り注いでいた。

 誰かが言っていた。

『空は繋がっている。まずはここから始めよう』

 ふとレンが言った。

「・・・悲しい事も多かったけど、お母さんの手は温かかった」

「・・・うん」

「・・・世界はこんなにも綺麗で儚かったのね」

 レンの目には涙が溜まっていた。けれど穏やかな笑みを浮かべて上空の飛行機雲を見ていた。とても綺麗だった。

 昇はもう気付いているのかもしれない。

 授業が身に入らない。昇の頭の中は、今日直るオルゴールとレンの事で埋め尽くされている。隙間などありはしない。

 終業のチャイムと共に学校を飛び出し、駅前の古い時計屋へと向かう。

 何故か急ぎ足となっている。

 少しでも早くレンに直ったオルゴールを見せてあげたい。一体どんな笑顔を見せてくれるだろうか。

 疑問の余地はなかった。

 時計屋に入ると眼鏡を掛けた店主が出迎えてくれた。

「おっ、兄ちゃん来たかい」

「こんにちは」

 少し息が切れていた。

「ちょいと待っててくれるか」と言うと店主は奥の部屋へと入っていき、小さな箱を持って出てきた。

「はい、これでいいな」と昇に手渡す。

「ありがとうございます」

「ばかやろう。礼を言うのはこっちだよ。こんなに持ち主に大事にされてるオルゴールは初めてだよ。こっちまで嬉しくなっちゃうよ」

「・・・」

 レンが大切にしていたオルゴールを壊したのは他ならぬ昇である。

「あの、なんでそんな事がわかるんですか?」

「ん? それはな・・・おじさんが職人だからだ」

 店主は優しげな瞳で昇の目をまっすぐと見て言った。体中から優しい光が滲み出ていて、昇の心は無抵抗のままに彩られていく。

「ほら、ぼさっと突っ立っていないで早く帰ってやりな。待ってんだろ」

「っそんな事まで分かるんですか?」

 普通に驚く。

「ばかやろう。今まで何回もおまえさんのような人を見てきたんだ。なんとなく分かるんだよ」

 昇は代金を払い笑顔で言った。

「ありがとうございます」

 店主は何も言わなかったがかわりに、顔中に満面の笑みを浮かべて見送ってくれた。

「ただいま!」

 昇は玄関の扉を開けリビングへと向かう。

「レン。ほらオルゴール直ったよ」

 レンはソファに座りテレビを見ていた。

「そう・・・」

 レンは笑顔だったが同時に悲しそうでもあった。

「? どうしたの? 嬉しくないの?」

「ううん。嬉しいわ・・・」

 しかし元気がない。

 レンはすっと立ち上がり昇からオルゴールを受け取る。

「お母さん・・・」

 オルゴールを胸に抱く。

「これでよかったんだよね・・・」と呟く。

「レン・・・。君がここに居たかったらずっとここに居てもいいんだよ」

 昇は右手でレンの手を握る。

「ありがとう。でも・・・それはできないの。私はここに存在してはいけないの。私の歴史はもう終わってしまったの」

 レンは涙を流す。消えていく笑顔を必死に手繰り寄せながら泣いている。

 やはり気付いていたのかもしれない。その証拠に昇の顔に涙は浮かんでいない。かわりにとても優しげな笑みで彩られている。いつから気付いていたかは分からない。そしてそれはあまり問題ではない。

 テレビの音が室内に響き、レンの泣き声が吸い込まれていく。そこで昇はやっと悲しんでいる自分に気付く。

「レン・・・」

 昇の声も吸い込まれそうになる。

「昇くん・・・」

 レンは涙目で昇を見上げた。

「ありがとう。すごく嬉しかった。できれば・・・。できる事なら・・・もっと早く昇くんと知り合っていれば、よかったな」

 レンの体を柔らかな光が包んでいく。

「・・・もういくの?」聞く。

「うん。もういかなきゃ。お母さんが待ってる・・・」

 時間が止まった。

 レンを包んでいる光が輝きを増していく。

「ねえ、昇くん。一つだけお願いしてもいいかな」

「何?」

「私が消えてなくなってしまっても、私の事は忘れないでいてほしいの」

「もちろん。約束する」

 レンは優しく微笑み。

「ありがとう・・・」

 消えていった。

 まるで煙のように光の余韻が虚空に残っていたが、やがて消えていった。

 夢の跡。

 昇は最後まで涙を流さなかった。

 号泣する悲しみもあれば、思い出に笑いかける悲しみもある。そういうもんだ。

 昇はふと煙草を吸いたくなり、テーブルの引き出しから父親の煙草を取り出し火を点けた。

 苦い。

 煙がゆっくりと宙を漂う。しかし消えていく。

 昇はどんどん煙草を吸い煙を吐き出していく。

 煙は天井に上り、辺りをさ迷い、消えていく。

 儚く感じられた。とても儚く。

 やがて視界が揺れ動いていく。気分が悪い。

 煙草の火を消す。

 昇はソファに寝転び目を閉じた。

 その時、昇の目から一筋の涙が流れた。

 煙はまだ辺りをさ迷っている。

 眠い。寝たい。

 昇の意識は遠ざかっていく。夢の流れに身を任せる。

 煙は次第に消えていった。未練を残すように消えていった。

 しかし、吸殻は残る。そういうもんだ。

 昇は夢を見ていた。どんな夢かは分からない。

 しかし、夢には続きがある。そういうもんだ。

 やはり学校の屋上から見える景色は絶景だった。

 秋の空はどこまでも高く、世界の果てまで延びていた。風が体を突き抜け、果ての無い空間を旅立って行く。

「おう、昇じゃねえか」

 突然、背後から声がしたので昇は振り返った。

「隆士か・・・」

「ん? どうしたんだよ。たそがれて」

「・・・別に」

「・・・そっか」

 快晴の青空は奥に闇を隠している。誰も触れられない。そんな事を考えていたら、隆士が煙草に火を点けながら話し出した。

「・・・半年くらい前、おまえの家の近くにある踏み切りで女の人が自殺したんだってさ」

「・・・」

 隆士は煙草を吸い込み煙を吐き出した。

「なんか夫の暴力が原因らしいぜ。そんで一週間くらい前かな。その女の人の娘が後を追うように自殺したんだって。::なんか悲し過ぎるよな」

 レンだ・・・。昇は思った。

「そうか・・・」

 しかし昇は知っていた。決してレンの心が悲しみに包まれた歴史ではない事を。少なくともそう信じている。

 隆士は煙草を大きく吸い込み煙を外に出す。

「秋の空って綺麗だよな」隆士が言った。

「・・・そして儚い、かな」昇が言った。

 隆士の吐き出した煙は風に吹かれ、果てのない空間を漂う。

 鈴虫が鳴き出した。

 空に薄い雲が流れている。

 やがて隆士は煙草の火を消す。

 吸殻が残る。

 しかし、煙は虚空を漂い消えていく。

 そういうもんだ。

                                  終劇

 コメント ど、どうでしょう?・・・・・・・。

 

 

 

代理人の感想

楽しませていただきました。

オチは割と読めてましたが解っていても読める作品だったと思います。

テーマは・・・そうですね、「初恋」でしょうか?

少年が大人になる過程で経験する異性への憧れ、そして失恋。

これは、一寸変わった初恋の話なんだと思います。

 

タバコについて。

やりきれない気持ちを鎮める為に人は酒を飲みます。

私は下戸ですが、それでも呑みたくなる時と言うのは確かにあるものです。

昇がタバコを吸いたくなったのも、同じ事かなと。

そして、ある意味ではこれも大人への一歩であると思います。

どうにもならないことがこの世にはある、と痛感してしまう時、

人はほんの少しだけ大人になるのではないでしょうか。

 

でもタバコは体に良くないと思います。ノースモーキングプリーズ(笑)。