< 時の流れに >
低めに設定されたエアコンが稼動する中、玄夜と一人の女性が冷えた麦茶を飲みながら話をしていた。
何時もならちょくちょく顔を見せる吉野も、今は玄夜の頼みにより顔を出してはこない。
向かい合ったソファーに座った二人だけが、静かに院長室のエアコンの恩恵を受けていた。
「文明の利器って偉大よねぇ」
美味しそうに麦茶を飲みながら、女性が感嘆する。
その女性は三十代を少し過ぎたはずの年齢だが、その仕草と口調からはもっと若い印象を受ける。
年齢による衰えが見えない美しい外見も、若く見える要因の一つだろう。
だが長い黒髪を高く結い上げ、知性的な光を宿す瞳はただの女性とは思えないものがある。
「この院長室に涼みに来た訳じゃないでしょう?」
「本当つれないわねぇ、玄夜君って」
色っぽい流し目を送る女性に、無意識のうちに身体を後退させ玄夜。
どうにもこの女性には、最近主導権を握られっぱなしだった。
その上、変に気に入られてしまったらしい。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人妻なら、夫の隣に居たほうがいんじゃないですか?」
「ああ、大丈夫大丈夫。
さっき着替えを持って見てきたら、逃げ出そうとしていたから眠らせてきたのよ」
ケラケラと楽しそうに笑う女性。
この女性が冗談でなく、本気でヤる事を玄夜は短い付き合いの中で既に思い知っていた。
今頃、彼女の旦那はベットの上で強制的に眠らされているだろう。
身体を動かした時に、ズレた眼鏡を無意識に指で押し上げながら、ベットで寝ている患者の安否を祈る。
後で暇を作って回診に行こう、と玄夜は心の中で思った。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・退院が延びても知りませんよ」
「問題無いわよ、どうせ当分は大人しくしておく予定だから」
一転して冷静な口調で返答をされ、玄夜の顔も引き締まったものになる。
女性が暗に示している意味が分かるだけに、何も言い返せない。
それはそもそも、院長室で話すような内容では無いのだ。
「ここは病院ですからね、怪我人は治しますよ。
ですが、怪我をしないように努力をする事も必要だと思いませんか?」
「頭で分かっていても、止められない事は幾らでもあるわ。
お酒に煙草、博打に麻薬・・・
そして、私が東 舞歌の名前から逃げられないようにね」
玄夜は黙り込み、東 舞歌と名乗った女性は再び麦茶を口に運んだ。
問題の夫婦が久遠病院を訪れたのは、つい最近の事だった。
彼女の夫はかなり酷い怪我をしており、すぐに適切な治療を施す必要があった。
だが、その夫婦には厄介な肩書きがあったのだ・・・レジスタンスの指導者という肩書きが。
勿論、本人達にはそれを自慢気に語るつもりはない。
また自慢など出来るものではない事を、この二人は十分に分かっていた。
しかし、本人達の意思とは別にその正体が判明した時、病院の人間が『街』に彼等を売り飛ばさないという保証は何処にも無かった。
自分達の首に懸かっている賞金が、かなりの額だと知るが故に。
「でも良くあそこまで治してくれたわ・・・当時はもう駄目かも、って諦めかけてたのに」
「本人の治りたいという気持ちが強かったからでしょう」
ついでに言えば、何時までもベットに寝たままでは、命に関わると思ってる節があるし。
目の前の女性が見舞いに来る度に、視線で自分に助けを求める患者の顔が思い出される。
逞しい体躯を持った男性に、縋るような目で見られても困ってしまう玄夜だった。
別段、傷口が開くなどの被害は無いのだが・・・妻の見舞いがある度に、患者は精神的に深い傷を負っていた。
かと言って、夫婦間の問題に玄夜が口を挟めるはずもない。
「さて、じゃあ今日こそ話してもらうかしら?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ですから、『東 舞歌』についての逸話は、祖父から聞いただけですよ。
代々そう名乗っている女性が、ある組織のトップに立っている、とね。
その祖父も、もう亡くなっています」
身を乗り出して問い質してきた舞歌に、身体を引きながら玄夜が応える。
警戒心を顕にして瀕死の夫を連れた舞歌が現れた時、玄夜は名前からその正体を言い当てた。
その上で、自分は舞歌達に危害を加えるつもりは無い、と誓約をして夫を治療したのだ。
実際のところ、舞歌の夫にはそれ以上移動をする体力も望めなかった。
舞歌には玄夜を信じるという賭けに出るしか、方法は残されていなかったのだ。
当初は玄夜の行動を見張る為に、病院に泊り込んでいた舞歌だったが数日でその警戒を解いた。
それとなく配置しておいた仲間からも、『街』へのアプローチをしていない事を聞いていた。
それに誠心誠意、夫に治療を施す玄夜に、自分達を売ろうという邪な意思は感じられなかったのだ。
ここまで信じて裏切られたのなら、それは自分に人を見る目が無かったという事だろう。
そう結論を出すと、今度は極一部の人間しか知らないはずの自分の正体を知る玄夜に、俄然興味が沸いてきた。
院内の看護士や医師達と話をした限り、自分と夫の正体も己の内に秘めている。
この久遠病院の噂は、他の地区でも有名だった。
その噂に縋るように、夫を連れて訪れた事は正解だっただろう。
だが期待以上のものを、この病院の院長は隠していると舞歌の勘が告げていた。
「じゃ、他に何か聞いて無かったかしら?
東 舞歌という名前を継ぐ女性について」
にこにこと笑いながら、最近の楽しみになりつつある質疑を続ける。
この真面目な院長は、舞歌を力尽くで追い出す事も出来ず、何時も困った顔をしながら質問に答える。
だが、今までも色々な揺さぶりを掛けてきたが・・・肝心な事は聞きだせずにいた。
「・・・いえ、特に何も」
話はここで終わりとばかり、ソファーから立ち上がり仕事用の机に戻る。
玄夜とて暇ではない、仕事は山のように積まれている。
その姿を見て舞歌は苦笑をした後、一礼をして院長室を出る。
これ以上は玄夜の仕事に差し支えるだろうし、何より彼は夫を治療してくれている主治医でもあるのだ。
「あら、どうしたの吉野さん?」
「いえ、別に用事は無いのですが・・・」
院長室を出た瞬間、ドアの前でオロオロとしている吉野と出会った。
その落ち着かない仕草と複雑な表情に、彼女が何を心配していたのかを舞歌は悟った。
舞歌にしても玄夜は魅力的な男性だと思う、そして吉野とはお似合いだとも。
暇潰しに、院内の人間関係などの調査を独自に行っていたので、二人の関係は知っている。
きっと吉野も看護士仲間にそそのかされて、玄夜の事が心配になって見に来たのだろう。
・・・多分、その看護士仲間は自分の事を悪女に仕立てている事も、十分に予想済みだった。
「私の話は終わったから、もう入っても大丈夫よ。
ほらほら、玄夜先生も待ってるかもしれないわよ?」
「え、そうですか?」
顔を輝かせて院長室のドアをノックする吉野を、温かい目で見守る舞歌。
そして、吉野が院長室に消えた後、不気味な笑みを浮かべながら看護士の休憩室へと向かう。
確かあの噂好きの看護士は・・・理恵という名前だったわね?
看護士の休憩室から、理恵の悲鳴が響き渡ったのは、それから十分後の事だった。
最近、弟達の様子がおかしい。
暁は何処か覇気が無いし、時々家の中で何か考え込んでいる場面を見掛ける。
無駄にテンションの高い暁らしくないその姿に、一抹の不安を感じていた。
貴は逆に、何時もより元気になっていた。
何時もくたくたになるまで外で何かをしているらしく、家では食事をとって、飼っている鳥に餌をやった後で直ぐに寝てしまう。
二人とも夜更かしをするタイプだったのだが、最近では十二時にはベットに入って寝ているようだ。
心配をしていないといえば嘘になるが、二人が相談をしてくるまでは放任する事にする。
兄弟とはいえ個人である以上、それぞれが秘密を抱えても不思議ではない。
現に、自分自身が弟達に話していない『秘密』を、幾つも抱えているのだから。
「どうかしました、玄夜さん?」
「いや、何でもない」
久遠家の自室で書類の整理をしている玄夜を、吉野が手伝っている。
そして二階にある玄夜の部屋に、階下の台所から美味しそうな匂いが漂ってきた。
どうやら料理は順調に作られているようだ。
「私も何か手伝ったほうが、良いんじゃないでしょうか?」
「・・・それだけは止めてくれ、本当に」
台所を気にする吉野を、半ば懇願気味に押し止める玄夜。
看護士としての腕は上達が著しい吉野だが、料理方面に関しては成長の片鱗すらなかったのだ。
そして不思議な事に本人には、その料理の効果が効かない。
一度練習で作ったものを味見している吉野を見て、安心して暁が横から手を出した事があった。
――――――結果は今更、言うまでも無い。
「あ、これアルバムですか?」
「ああ、結構昔のものだな。
・・・そうか、そんな所に埋もれていたのか」
本棚の整理をしていた吉野が、持ってきたアルバムを見て玄夜の頬が緩む。
その古びたアルバムの表紙に、幼い時の自分の文字で家族の名前が記されていたからだ。
好奇心に輝く視線で、玄夜にアルバムを見ていいかと問い掛ける吉野に、苦笑しながら玄夜は頷いた。
最初のページには、この久遠家をバックにして家族全員の写真が載っていた。
「これが玄夜さんですね!!
その隣で泣いている子を宥めているのが、暁さんかな」
「そうだ、ついでに言えばその泣いているのが貴だ。
確か暁が十二歳、貴が四歳の時の写真だな」
楽しそうにページをめくる吉野を時々見ながら、玄夜は自分の作業をこなしていく。
過ぎ去った時が写真となって、あのアルバムに残っている。
当時はまだ祖父 久遠 秀人は生きていた。
祖父からは色々な事を教えてもらい、鍛えてもらった。
今となっても、自分は祖父の腕に追いついてはいないと思っている。
記憶の中での話しだが、それでも祖父は間違いなく名医と呼ばれる人物だった。
その腕と人望を損なう事無く受け継ぐのは無理かもしれない、だが無理だからといって諦めるつもりもなかった。
――――――そして祖父が抱える数々の謎も、同時に受け継いでいく。
「あの、この貴君の隣にいる男の子と夫婦らしき方達は?」
「大介君と彼の御両親だ。
貴は小学校で初めて会ったつもりらしいが、それ以前から面識はあったんだ。
ま、肝心な事を忘れるのは、貴の数多い欠点の一つだしな。
・・・どうした?」
大介の両親の顔を、じっと凝視している吉野を不思議に思い玄夜は問い掛けた。
その声を聞いて、驚いて顔を上げる吉野。
暫く周囲をキョロキョロと見ていたが、どうやら無意識の行動だったらしい。
「何だか記憶に引っ掛かったんです、大介君の御両親の顔が」
「そうか・・・記憶を取り戻す切欠にでもなればいいんだが。
残念な事に、大介君の御両親は既に亡くなられている」
そうでしたね、と首を振りながら再びアルバムをめくる吉野。
その吉野の姿を、今度は心配そうな視線で見守る玄夜だった。
「そういえば、玄夜さん達の御両親の写真が無いですね?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・もう、その頃には居なかったな・・・二人とも」
『街』の景色を一望にできるテラスで、一人の男性が眼下の景色を眺めていた。
完全に制御された空調は、黒いマント姿の男性に汗一つ浮かべさせない。
何か面白い事でもあったのか、男性の口元は心なしか笑みを作り出していた。
この男性が、勤務中にこのような表情を作ることなど、今までに無い事だった。
「なんでぇ、何か良い事でもあったのかよ?」
書類を片手に男性の背後からもう一人、黒い制服を着た男性が現れてそう問い掛けてきた。
その声を聞いて、景色を眺めていた男性が後ろを振り返る。
振り返った男性は、貴が格闘技の教えを請うたあの赤顎であった。
今はバイザーを外し、鋭い眼差しを晒している。
しかし、その左目は縦に走る刃物の傷跡により、潰されていた。
「ああ、前に話した少年の事を覚えてるか?」
「スラムの住人で、お前に師匠になってほしいと頼んできた、物好きで命知らずなガキか?
もしかして、お前さんのお眼鏡に適ったのかよ?」
部屋に置かれている机に書類の束を置きながら、男性が驚いた口調で聞き返した。
赤顎自身がどれほどの鍛錬をしてきたのかを、彼はもっとも身近な場所で見てきたのだ。
それと同じ事をただの少年にこなせるとは、到底思えない。
赤顎に手を抜いて、優しく格闘技を教えるなどという器用な真似は、決して出来ないからだ。
「ま、約束は約束だ・・・暇潰しにはなるだろうさ。
それより、例のルポライターはもうすこし泳がせておこうと思う」
「泳がせて、彼女に情報収集をさせるって事だな?」
赤顎の答えを聞くまでもなく、彼もその意見には賛成だった。
相棒として、副官として、自分は赤顎のサポートを長年の間続けてきたのだ、大体の考えは読める。
・・・まだまだ、自分達の地位は磐石ではない。
今でも見張りは付いているし、こちらの勢力を削ろうと様々な嫌がらせを受けている。
勿論、こちらも大人しくやられるつもりはない。
せめて、宰相や長老達が流出を恐れている過去の出来事について、情報を握っておく位はしておきたい。
自分達が大っぴらに動けば相手を刺激してしまうが、一介のルポライターならそれほど問題にはならない。
――――――何より、手段を選ばなければ彼女を『処理』する事など容易い。
「動向だけはしっかりと把握しておけ。
もしかすると、意外な大物と出くわすかもしれないからな」
「ああ、その辺の事はちゃんと分かってるよ」
赤顎の指示を聞き、部下への命令内容を考える。
スラムでの活動ではかなり制限されてしまうが、『街』の中ではこちらに出来ない事はまずない。
それで話は終わりだとばかりに、赤顎は机に積まれた書類を手にとって目を通しだす。
これ以上は仕事の邪魔になると思い、相棒を自認する男は部屋を退出しようとして・・・ドアの前で振り返った。
「その将来有望な少年は、上手く育てればお前の直属の部下に出来そうなのかよ?」
「いや、無理だろう。
奴には・・・人は殺せん」
己の右手を見ながら、赤顎はそう呟いた。
「ハッピーバースデー!!」
突然、クラッカーの洗礼を受けて、思わず動きを止める暁。
玄関に誰かが居る事は気配で分かっていたが、特に殺気も無いので深く考えずに玄関を開けたのだ。
そして次の瞬間、思わぬ相手に祝福のクラッカーを受けた。
「・・・なんでこの家に居るんだ?」
「あら失礼ね。
せっかく誕生日を祝ってあげようと思って、ここまで足を運んだのに」
ちょっとしたおめかしに、綺麗に化粧をした真北にそう言われて、暁も悪い気はしない。
だが自宅の所在と、自分の誕生日を真北が知っている事が、不思議で仕方がなかった。
依頼人として上客にあたる真北は、確かに大切な存在だ。
だがそれは仕事上の話であって、プライベートな話ではない。
女好きと自認している暁だが、その場限りの関係が主であり、深く付き合おうと思った事は今まで一度も無いのだ。
そんな彼の本能が、これ以上真北に深入りするなと告げていた。
何より、あの『真実』を知った以上、彼女との距離をもっと開く必要があると思っていたほどだ。
なのに・・・何故真北はこの俺の誕生パーティなどに参加しているんだ?
しかし、その疑問はリビングのテーブルで自分を待っていた貴と、サンシローにより晴れた。
「ああ、僕のクラスメイトに真北さんの妹さんがいるんだ。
で、この前暁兄さんの誕生日について大介と話してたら、真北さんの事にも話が広がっちゃって」
「ちなみに、この家への送迎は俺が担当」
「そうか、お前等が全ての元凶か」
獰猛な笑みを浮かべる次男に、自分の今後の運命を心配する貴とサンシローであった。
翌日、その心配は的中する。
「うわぁ、真北さんって料理がお上手ですね」
「有難う、褒めてもらえて嬉しいわ。
母親が色々と教えてくれたのよ」
初対面の時から意気投合をした、吉野と真北が楽しそうに会話に弾ませている。
実際、真北が作った料理は素晴らしく、『街』から持ってきたという食材もかなりのモノだった。
貴などは一心不乱に、目の前の御馳走と格闘をしている。
この席に呼ばれていた美代も、しきりに真北の腕を褒め称えていた。
どうやら、暁が逆らえない真北を見て随分と気に入ったらしい。
「何時まで仏頂面をしてるんだ?
せっかくお祝いの為に、駆け付けてくれた女性が居るのに」
「ふん、頼んだ訳じゃねーもん」
ローストビーフの欠片にフォークを突き刺し、口に運ぶ。
玄夜の言う事も分かる、だが自分は彼女に深入りする前に手を切ろうとしたのだ。
それが自宅までばれてしまっては・・・あの行動力の塊ともいえる真北が、黙っているとは思えない。
サンシローと大介が何やら熱心に語り合ってる中、暁は真北から貰ったジッポーを手にベランダに向かう。
少しだけ考えた後、玄夜がそれに続いた。
視線を向けてきた吉野に、小さく頷いて他の女性陣が来ないように足止めを頼む。
玄夜の意図が分かったのか、吉野は軽く頷いて返事をした。
二人がベランダに出た後にも、リビングでは女性陣の楽しそうな話し声が響いていた。
暁はベランダにある何時もの特等席で一人、煙草の煙を吐き出しながら星を見ていた。
自分が付いて来ている事を、弟が気が付いていると分かっているので、何も言わず玄夜はその隣に立つ。
暫くの間、お互いに沈黙が続いた。
「・・・なあ兄貴、『テンカワ アキト』って知ってるか?」
一瞬の躊躇い。
その時、兄が硬直した気配を感じて、暁は答えを知った。
「・・・さあな、俺にはそんな名前の知り合いは居ない」
「・・・ふ〜ん、そうか。
ま、かなり昔の有名人らしいしな」
「過去の有名人、か。
なら忘れてしまえ、今を生きる人間には関係無い」
それ以上、二人の間に言葉は無かった。
夏の蒸し暑い夜の中、背後の騒動を感じつつ二人はただ立ち尽くしていた。
後書き
すんません、更新止まりましたね(汗)
でも社会人である以上、それは仕方の無いことだと理解してほしいです(大汗)
では、次は月末に更新を目指します。