北斗は、誰もいない座敷牢でただ一人、型稽古をしていた。
構えを取る。打ち込んで来る敵を想定していた。仮想の敵は北斗の右肩、左拳を狙って厳しく打ち込んで来る。わずかに足を送ってかわした次の瞬間には、北斗は腰から踏み込んでいた。
「ハッ!」
拳は唸りを上げ、敵の頭蓋を打ち据えた。
同じ型を十度、二十度と繰り返すうちに、汗は身体だけではなく髪の中にも沸いて、顔面を滴り落ちる。
どっと膝をついて、北斗は一息入れた。頭を垂れていると、額から落ちる汗が床に滴った。胴着の裾で顔を一撫ですると、北斗はまた立ち上がった。構えを変え、今度は左足と右足を前後逆に踏み替える。その構えで襲って来る敵を待つ。
敵は今度は胴を狙って来た。北斗は素早く足を引いたが、構えは微動だにしない。次に足はすべるように前に出て、深く踏み込みながら蹴りを放った。
「フン!!」
朝の空気を切り裂いて気合の声が響く。北斗は残心からゆっくり身体を引き戻した。
「ふう」
溜め込んだ息を吐き出す。朝の修練はこれで終わりだ。用意されていた朝餉をかき込む。不味い。
(あいつが来てくれていた頃は……)
4年前の事なのだが、ほんの数日前のようにも、または百年以上過去の事のようにも思われる。
「零夜……」
北斗は、4年前の戦いに思いをはせた。
おさななじみ 後編
全身がバラバラになりそうな衝撃と共に、舞歌は吹き飛ばされた。冗談のように長い飛翔の後、大地に叩きつけられる。とっさに体を丸めて零夜を庇う。受身は取れない。背中から落下。更なる衝撃。
全身の痛みだけで意識が飛びそうになるが、意地と負けん気と根性を総動員し、強引に繋ぎ止める。
「れ……いや……」
残された力を総動員し、かろうじて上体を起こす。胸に抱きしめた少女の小さな体は、ぴくりとも動かなかった。半開きの眼はまるで硝子玉のように何も映さず、口元からは血が一筋、糸のように細く垂れていた。
「……ごめ……んなさ……い」
守るべきものを守れなかった。それどころか逆に守られた。その悔恨は肉体の傷より鋭く舞歌の心を抉っていた。
その光景を一顧だにせず、北辰が枝織に声をかける。
「ふむ、よくやったぞ、枝織」
お父さまが褒めてくれる。こんなに嬉しい事は無い――
「多少詰めが甘かったが上出来だ」
とても嬉しい、最高に幸せ、のはず――
「これからも励めよ、我のために」
それなのに、それなのになんで――
「……どうした枝織?」
なんで目がこんなに熱いんだろう?胸がこんなに痛いんだろう?――
「――!枝織、お前!!」
枝織は、泣いていた。顔に笑いを貼り付けたまま、生まれて初めて泣いていた。
「何、これ――いったい何?」
「それが、悲しいという事よ」
真正面から、枝織を睨む舞歌。
「『お父さまの命令だから殺す』――零夜は、あなたにとって本当にそれだけの意味しかない存在だったの!?違うでしょう、だから泣いてるんでしょう、枝織!!」
「わたし、わたわたわたし――しししししししし――ううううううあうあうあ――ああああああああああああああああああああああ――」
膝を突き頭を抱え込むと、苦鳴をあげる枝織。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛――うあ゛うあ゛うあ゛――あおあおあおあお――おおおおおお」
徐々にそのトーンが変わり――
「おおおおおおおおおおおおおおお――れ、零夜――零夜ぁぁぁぁ!!」
「北斗……なの……?」
だが舞歌の問いに、枝織――いや北斗は答えない。呆然と自分の両手を見つめていた。まるで、己の罪に慄く咎人のように。
「俺が、俺が零夜を……殺し――」
羅刹が、哭いていた。血の涙を流し、慟哭していた。
「……勝手に殺さないで。生きているわよ、零夜なら」
「え」
間が抜けた声とともに、顔を上げる北斗。
「力が二人分に分散していたのと、枝織が寸前に加減してくれたおかげね。あの子も人の子だった、ってことか」
「本当か、本当なんだな」
実に珍しい事に、北斗の顔には、14という年齢にふさわしい表情が浮かんでいた。
「この、うつけが」
ギリギリと歯をかみ鳴らす北辰。
「たかが小娘一人、満足に殺せんとは。北斗に枝織――うぬらにはほとほと愛想が尽きた。せめてもの情けだ、我の手で引導を渡してやろう」
「それはこちらの台詞だ」
ゆらりと立ち上がると、北辰に向き直る北斗。その全身から、凄まじい怒気と殺意が迸った。
「さすがに今日という今日は我慢できん。零夜を医者に見せなければいけないんだ。殺してやるからさっさとかかって来い」
「つけあがるなよ、小僧」
相対する二人の影を見つめる舞歌。
「北斗……」
純粋な力量ならおそらくは北斗のほうが上、しかし北辰は帯剣している。俗に剣道三倍段と言う様に、無手で武装した敵を制するには三倍の力量が必要とされている。
そして、ここは道場ではない。北斗が北辰の目を抉ったのはあくまで稽古中。いかに禁じ手無しの黒稽古とはいえ、本当の死合いとは異なる。
北辰は、納刀した刀を鞘ごと左手に握った居合いの構え。北斗は、右手を腰に当て左手を突き出した撃拳の構え。
風が吹き、落ち葉が舞い上がる。両者の気がこの上なく高まるのを、舞歌は感じた。勝負は、おそらく一瞬――
「疾!!」
先に仕掛けたのは北辰。無言のまま、滑るような足取りで一気に間合いを詰める。その上体が徐々に前へと傾き、ほとんど地面と水平になった。北斗は、微動だにせずに待ち受ける。
「斬!!」
下から跳ね上がる銀光。神速の斬撃が北斗を襲う。
「ふん!!」
その瞬間、北斗も動いた。何の変哲も無い正拳中段突き。だが速度と威力が尋常ではなかった。受けも捌きも考えない。敵の攻撃を受ける前に己の攻撃を叩き込み、そしてその一撃をもって叩き伏せる――狙いは文字通りの一撃必殺。
一秒にすら満たぬ時間がすぎる。刀と拳が交差する瞬間、北辰の姿が外套と笠のみを残して霞のごとく消えた。空を切る北斗の拳。
「空蝉!?」
そう、踏み込みも斬撃も、殺気すらも虚。実の北辰は、北斗の死角へと滑り込んでいたのだ。
「――――!!」
北斗の背後から、無言で振り下ろされる一刀。なすすべも無く斬り伏せられる北斗の姿を、舞歌は幻視した。しかし――
「温い」
振り返りもせずに放った北斗の肘が、北辰のみぞおちに捻じ込まれた。
それでもなお刃を振り下ろす北辰。しかし明らかに鋭さを欠いている。北斗は問題なく振り向きざまに受け流し――
「ハッ!!」
今度こそ渾身の正拳が、北辰を吹き飛ばした。
「う……ぐ……ぬ……馬鹿な」
倒れ付し、うめき声を上げる父親を、北斗は冷ややかに見下ろした。
「初太刀の速さに全てを賭けるべきだったな。真っ向勝負を避け、空蝉のような小技に逃げたのが貴様の敗因だ」
一歩、踏み出す。
「所詮、貴様の剣は暗殺者の剣。闇に潜み、牙無き獲物を狩るしか能の無い邪剣にすぎん。果て無き高みをひたすら目指し、修練に修練を重ねた正道の業の前には、何の意味も持たん」
さらに一歩。手刀を振りかぶる。
「お待ちください、若」
声と共に現れた十人前後の影が北斗と北辰の間に割り込む。影護に仕える暗兵だ。
「これ以上、御館様に狼藉を働くのであれば、若といえども――」
「『若といえども』どうするんだ?笑わせるな!貴様らのような有象無象が、俺に指一本でも触れられるとでも思っているのか!?」
しかし、激烈な北斗の気にあてられても、暗兵達は引かなかった。北斗の口元が凶暴な形に歪む。
「ほう、そんなに死にたいのか、犬どもが。なら望みどおりにしてやろう。死ね」
破局の瞬間、声がした。
「駄目」
その声は小さかったが――
「ホクちゃん、駄目だよ」
羅刹の拳を止めるだけの、意思を持っていた。
「零夜!!」
振り返る北斗。零夜は、舞歌の腕の中で懸命に体を起こすと、まだ焦点の合わない瞳で北斗を見つめた。
「殺しちゃ、駄目。殺したら、負けだよ」
うわ言の様に繰り返す零夜。ふっと、北斗の表情が緩む。そのまま北辰達に背を向けると、二人に向かって歩き出した。
「零夜に感謝するんだな。あいつが死んでいたら、皆殺しだったぞ」
「まてい、この惰弱者が!刃を向けた敵に止めを刺すこともできんのか!見下げ果てた腑抜けよ!!」
北辰の言葉に、北斗は冷笑で答えた。
「ふん、その腑抜けに、完膚なきまでに叩きのめされたのはどこのどいつだ。いいから黙ってろ。何を言っても恥の上塗りだぞ」
最後に振り返り、言い放つ。
「いいか、これだけは言っておく!!今度また、こんなふざけた真似をしてみろ!!残った右目どころか、心臓を抉るぞ!!」
悪鬼の化身のように恐れられている暗兵衆が、後ずさる。彼らは悟った。目の前にいるのが、文字通り鬼を喰らう羅刹だということを。
「すまないな、舞歌」
舞歌の腕から零夜を受け取る北斗。
「これが、一番早いからな」
そのまま、風のように駆け出した。
零夜は、その夜のことをあまりよく覚えていない。
ただ心に焼き付いていたのは、敵に対峙する北斗の姿。
その姿は、とても美しかった。
自分の足で立つ。
自らの力のみで世界に立ち向かい、生きていく。
それは、とても美しいことだった。
(強いって事は……あんなに綺麗なんだ……)
恐ろしく逞しい腕の中で、零夜の意識は闇に沈んだ。
それから半月後、北斗は久しぶりの客を迎えていた。
「何の用だ」
鉄格子越しに不躾な視線を、舞歌に送る。
「あら、ごあいさつね。せっかく零夜の事を教えに来てあげたのに」
あの夜に関しては、影護家と東家が、総力を挙げて揉み消した。夜、家を抜け出して散歩していた零夜を暴漢が遅い、偶然通りかかった舞歌が撃退した。不自然極まりないが、そういう筋書きで押し通したのだ。
当然、零夜の義父母は激怒した。一度は東家にまで乗り込んできたぐらいだが、舞歌は知らぬ存ぜぬで乗り切った。
「零夜、退院したわよ。一昨日に」
「……そうか」
心なしかうなだれる北斗。退院しているのに会いにも来ないというのは――つまり、そういう事なのだろう。当然だ。自分達は、零夜にあれだけの事をしたのだから。
「手紙、預かってるわよ」
無言で受け取る北斗。手紙を読み進むうち、その顔色がみるみるうちに変わる。
「兵学寮に入るだと!?あいつが!!」
振り向きざま舞歌を睨みつける!!
「あいつが軍人に向いているわけ無いだろう!何を考えている、舞歌!!」
「あの子が選んだのよ、北斗」
舞歌の声は、残酷なほど冷静だった。
「あの子が選んだのよ。自分自身の意思と責任でね。あれだけの目にあってもなお、あなたと共に生きるために」
「俺と、ともに……?」
「そうよ。あなたたちの世界がどんなものか、あの子は骨身にしみてわかったわ。だからこそ、力が欲しいって、強くなりたいって言ったのよ、零夜は」
「…………」
無言の北斗に、舞歌は問いかける。
「あなたはどうするの、影護北斗。零夜の想いに、あなたはどう答えるの」
しばしの沈黙の後、北斗は口を開いた。
「関係ない」
「え?」
「俺と一緒にいたいというのは、あいつの勝手だ。好きにすればいいさ」
ふてくされた様に言うと、奥を見やる。
「北斗!」
「だがもう、俺はあんな不覚はとらん。だから零夜も、二度とあんな目には会う事は無いだろう」
一瞬ぽかんとしていた舞歌が吹き出した。
「なにそれ。素直じゃないわね。ごめんなさいレイちゃん、もうあんなこわいめにはあわせないよ、ぐらいの事は言えないの」
「ふん、俺はゲキガンガーはあまり好きじゃない」
「全く、そんな性格だから、こんな所にぶち込まれるのよ」
「意地も張れん自由など、こちらから願い下げだ」
いこじに言う北斗を、舞歌は楽しそうに見つめた。
以前に北斗は「俺にとっては戦いこそが全てだ」と言った。だがそれは、北斗がただ単に血に飢えた獣であることを告白するものでは決して無い。影護北斗は、自分の力が及ぶ限り、大切なもの全てを守り抜くつもりだった。
『前略 影護北斗殿
ホクちゃん、お元気ですか。わたしはだいぶ元気になりました。もう明後日には退院できるそうです。
入院している間、これからの事についていろいろ考えました。
驚かないでね、ホクちゃん。わたし、兵学寮に入ります。2年前から始まった特志幼年過程ならわたしの年齢でも入れるって、舞歌さまが教えてくれました。おじさまもおばさまも猛反対しているけど、何とか説得してみます。
わたし、ホクちゃんのことが好き。これからもずっと一緒にいたい。でも、今のままではホクちゃんのそばにいることは出来ない。あの夜の事で、よくわかった。
だからわたしは強くなりたい。ホクちゃんと一緒の場所に立てるくらい、強くなりたい。
軍人になったら本当に強くなれるのかどうかはわからないけど、がんばってみる。
だから、それまではもう会わない。何年かかるかわからないけど、ホクちゃんの前に胸を張って立てるようになるまで、もうホクちゃんには会わないようにします。すごくすごく寂しいけど、それがわたしのけじめです。
ホクちゃん、わたしがいないからといって、好き嫌いしてニンジン残したら駄目だよ。修行だからといって、あんまり危ないことはしないでね。おなか出したまま眠って、風邪をひかないように気をつけてね。
それから枝織ちゃん、あの夜の事は今でもよく覚えています。
あの時の枝織ちゃんはすごく怖かった。でも、わたしが死んだと思った時、枝織ちゃんは泣いてくれたね。正直、どっちの枝織ちゃんが本当の枝織ちゃんなのかはわかりません。でもわたしは、あの時に流してくれた涙を、信じようと思います。
ねえ枝織ちゃん、わたしはまずあなたの良いところを思い出してから、あなたの全部を考えるようにしているんだよ。
もっとたくさん書きたいことはあるけど、今日はここまでにします。手紙は、また書くから。ホクちゃんも枝織ちゃんも、お手紙くれたら嬉しいな。
敬具
紫苑零夜』
――そして現在――
東舞歌は、目の前に立つ七人の姿を、満足そうに見つめた。自らの直属として選んだ、いずれも劣らぬ能力を持った七人の女性――各務千沙、御剣万葉、玉百華、神楽三姫、天津京子、空飛厘、そして紫苑零夜。
「全員整列!東少将閣下に、敬礼!!」
頭である千沙が、錬兵場向きのよく通る声を上げる。七人が、一糸乱れぬ動きで見事な木連式の敬礼をした。
「よく来てくれました。以前から言っていた通り、あなたたち七人は私の直属の部下として、常に行動を共にしてもらいます」
自分も答礼すると、舞歌は言った。
「それと、以前から内定していましたが、退役した東八雲少将に代わり、私が東天守護に任ぜられました。以後は優人部隊総司令として、前線の指揮を執る事となります。あなたたちはこれより、私の耳目として爪牙として、何より股肱として、常に私の傍らにありなさい」
誰もが――日頃は感情を露にしない飛厘までが、抑えきれぬ興奮に頬を赤く染めていた。
「かたじけなくも草壁閣下が直々に、部隊名として『優華』の名を下賜されました。決して、この名を辱めることの無きように」
ふと舞歌は、列の端に立つ少女に視線を向ける。零夜も気づいたのか、見返してきた。四年前と同じく優しく、澄んだ、そして強い目。舞歌は、自分の目に間違いが無かったことに、満足していた。
零夜は、胸の中で小さく呟いた。
――とうとう、とうとうここまで来れたよ――
この4年間、一度も会わなかったおさななじみに呼びかける。
――ねえホクちゃん、わたし少しは強くなれたかな――
後書き
どうも、神聖十字軍です。
思ったより早く終わりました。どうでしょうか。
北辰と北斗の決闘シーンですが、代理人さんが「北斗は抜刀斎」何ぞと書いていたものですから、ついるろ剣の黒笠編が頭から離れなくてあんな形に。
それと北斗が、何だかやけに前向きになってしまった。まあいいか、良くあることサ
最後になりますが、零夜の家族構成を教えて下さった管理人ことBenさん、および『北斗異聞』等からの設定の流用を許可して頂いた代理人こと鋼の城さん、御二方に感謝します。
ではまた。
代理人の感想
・・・・いやぁ、いいなぁ。
零夜も零夜だし、なにより北斗が実に北斗らしい!
楽しませていただきました。
非常に満足です。