『最小努力の原則に従うと、同じ望ましさの目的地が複数存在する場合、その中で最も近い目的地が選択されると考えられる。しかしながら、「最も近い」を決定する際、様々な問題が発生する。人間の地理的な経験の中で、地表や空間がどの方向にも同じ物理的な特性をもっている=等方性を有する=ことはほとんどない。むしろ、ある方向・ルートへ進むのは簡単だが、他の方向・ルートへは難しいという非等方性の空間に直面しているといえよう』
(地理的プロファイリング D・キム・ロスモ著 渡辺昭一監訳 P91より)
――感情の論理的理解、あるいは論理の感情的表現――
どうにか、なる。
そういう言葉で終わる小説があるのだから、同じ言葉で始まる物語があってもよいだろう。その言葉の意味するところは言うまでもなく希望のイメージである。もっとも、「どうにか」を異常状態というふうに捉えれば、まったく別の意味になってしまうが、この場合は関係がない。ともかく多くの場合において、希望の創作は生存へのスタビライザだ。絶望と希望は常に均衡していなければならない。絶望が深ければ深いほど希望もまたその深度を増さなければならない。
あるいはそのオートバランスこそが生きるという状態なのだろうか。
私はいま、生きている。
重い記憶をひきずり、昏い過去を断片的に思い出しながら。
私の記憶領域は今やほとんどすべてが絶望で塗り固められていて光の差す隙間さえない。現在は絶望の時であり、逆にいえば希望が枯渇している。すぐにでも希望を生産しなければならない。それが私の役割だからだ。
したがって今、閲覧者に提示されているこの情報群は一つの純然たる希望の物語であることを留意しておいてもらう必要がある。
ここでひとつの疑問を提示してみよう。
――そもそも物語とはなにか。
言葉の連続試行の中で何かを生み出そうとしているのか。それとも、その創作過程そのものに意味があるのか。
私なりの解答であるが、物語とは虚構の中の虚構であり、幻想の中の幻想であり、集団的思考の残滓に過ぎない。
文化と心情と言葉によってつづられるのが物語であり、そこに封じこめられているのは、端的にいえば人々の想いであるといえる。
つまり、想いが創作者を駆動するのだ。
確かに創作者は物語を主体的に書いてはいるが、そのように主体的に書きながらも、実は物語によって書くことを命じられているのである。
創作はそのような二つの意志の闘いによって生ずる、波と波のぶつかりあいによって形成される大波のようなものなのだ。
どちらがメインでどちらがサブセットか。その問い自体にはたいした意味はないだろうが、どちらかといえば、人々の想いに幾分か自分のものを加えて形にしたのが物語であるだろうと思っている。
物語が万人の想いに支えられている以上、その存在は闇のように深く得体が知れない。
ただし、言葉に仮託し強固に保持された形であっても、やがて想いが摩滅することを万人は受容しなければならない。真空中を猛然と突き進みながらもやがては減衰していくレーザのようにあらゆる想いは時の流れの中でゆっくりと弱められていく。いずれ起源の想いとはまったく別物になるだろう。
我々が古典を解釈しても、古人の考えを完全には理解できないように、創作時にこめられた想いは解釈の積み重ねの中で変形し、最期には想いの生まれた場所へ還っていくのだ。
想いの流れゆく先に何があるのか私は知らない。
幽明の境をさまようのか、それとも無に帰すのか。私は知らない。
唯一明らかなことは、物語を定義《ディファイン》することは不可能であるということだ。
叙述することによってのみ物語は顕現されえる。
言うなれば、物語とは空白の行間に奇跡のように舞い落ちる言の葉によって、一瞬の明滅を無限に繰り返す存在であり、すなわち『幽明か無』によって形成されているといえるだろう。
他に異別の解釈が施されない限り、それが物語の真実の名前であるといえる。
その意味で永遠は存在しない。
いいようのない儚さを知覚する。
私の絶望が理解されることはあるのだろうか。
報われることはあるのだろうか。
物語ることで未来は変わるのだろうか。
何も知らない。
何もわからない。
不定状態。
それが、私の絶望である。
絶望は記録化されて、心の中のすべての想いを飲みこんでいく。
膨れ上がった負の想いは、まるでブラックホールのように小さな愛しい想い出たちを壊していくだろう。
星が飲み込まれて、闇がただ茫漠と広がるイメージ。
哀しい空間だ。
だからこそ、ブラックホールから飛びでるシンクロトロン放射光のように、私が語るべき物語は希望を提示しなければならない。
希望を念じる。それが私の想いである。
そして想いが物語を駆動する。
さて、ここで閲覧者に最初に断っておくことがある。
この物語は私を含めた、戦艦ナデシコの主要クルー全員の知覚・記憶・認識された情報を総括し、時系列にそって配置した物語である。その際、私も三人称的な主体として登場することになるが、今ここで述べている私と私の本来の外見上のイメージとの差異に違和感を抱く閲覧者もいるかもしれない。
しかし、これはしょうがないことである。人が他者を理解しようとする際、基本的には表層的に見られる行動パターンで認識したものに過ぎず、いわば統計学的な経験知から、感情や思考を推知しているにすぎない。
仮に外見上少女のようにふるまっていても、心の中では男のような思考をしているかもしれないのだ。
それは他者には確認しようのない事柄であるし、ズレが生じても無理からぬことなのである。
加えて、私以外のクルーの内面についても、基本的に私は踏み込んで書くことにする。これは物語としての透過性を高めるためだ。いってみれば、エンターテイメント性を高めるためだといえるが、客観的に見て、行動原理をわかりやすくするためだと了解してもらいたい。もちろんそれは大いなる錯誤の危険性はあるだろう。だが、物語という形で創作する以上、そのような虚構は許容されるものと考える。
では、物語を始めよう。
事件は夏の暑い夜に始まる。
その日、あるナデシコクルーの存在がこの世から永久に抹消された。
優しさが証拠
地上の空気は太陽の洗礼を受けてかすかに揺らめいている。
珍しく気温が四十度を越える真夏日であった。
だが、もちろん最新鋭の戦艦であるナデシコ内では空調がきいており、ちょうどよい温度で保たれている。この戦艦の中で過ごす限り季節感は無縁のものとすることができる。
ただし、可能性と選択は別のことがらである。
季節からの解放はなにかしらの情緒を奪ってしまうようで、その奪われた何かを復権しようと、クルーたちは水着大会を催したり、すいかを意味もなく目隠ししてかち割ったり、一時的に空調の温度をわざと下げることで、夏を感じていた。上げないところがミソなのだ。下げれば、冷房が効きすぎた部屋を演出できるらしい。わりと地球離れをしていない人類である。
ただ一人、艦内のバカらしい喧騒から抜け出るように、ひっそりと孤独を享受している少女がいた。
ホシノ・ルリ。年の頃はわずか十二歳。髪は水銀のような透き通る白とも蒼ともつかない色をしており、さながら情報伝達ファイバーのように一本一本が恐ろしく細い。
ナデシコ内では言うまでもなく最年少のクルーである。
しかし、その役割は重要で、ナデシコ内の電子機器系統は彼女がほとんどすべてを司っているといっても過言ではなかった。
ホシノ・ルリを表す明解かつ簡潔な言葉をひとつ挙げるとするならば、
――電子の妖精
が、適当であろう。
妖精のように麗しく、そして機械のように効率的。
その言葉はルリの大部分の属性をあらわしている。
ただ、ルリも完全無欠の少女というわけではなく、情緒の面ではいまだ発達しきれていない部分もある。原因は彼女の育った環境があまりにもルリに対して人間的な教育をほどこさなかったせいだろう。ルリは先天的には情緒的に豊かであり、今も心の奥底ではあらゆる情念がたゆたっているが、表層的にはシールドを張ることで、他者をシャットアウトしたのだ。いわゆる心理学的な防衛である。
今までルリはそれを無意識的におこなってきた。
そのせいか自分と他者とのズレを彼女は認識できていなかったのであるが、最近ようやく自分の心理に意識の目を向けることができるようになってきていた。
なぜだろうと、ときどきルリは自問する。今も心のどこかで考えている。
ルリは小さく溜息をついた。
複雑な高次関数計算よりも難しい。
ナデシコの記憶は一瞬で色鮮やかに脳内に再生できた。一方、ナデシコに乗る前の記憶は白黒の画面でしかなかった。その差はどこからくるのか。単なる情報としての記録に過ぎなかったものが、温かみのある想い出という形で保存されているせいだろうか。
温かみ?
そもそも温かみとはなんだろう。ジャンクフードと家庭料理の違いだろうか。
ルリはまだ答えを知らない。家庭団欒や豊かな人間性といったお決まりの言葉をあてはめることはできても、それを自分の経験として置換することができないのである。それほど、情緒面では未発達なのだ。
彼女はわずかなリソースを割り当てて並列的に処理していた単純作業を一度停めた。
「どうかしましたか。ルリ」
ルリの傍らからオモイカネが通信してきた。
「ちょっと休憩」
小さくつぶやいて、ルリはわずかに視線をあげた。
椅子に体重をかけて躰をやすめる。
情報の処理能力的にはまったく問題ないものの、幼い肢体にはそれなりの負担があるらしい。いままで目の前の画面をずっと見据えていたためか若干の疲れがでたようで、周りの壁に視線を移して、一瞬気を抜いた。
今は夜だ。
正確には地球標準時で午後九時をすこしまわったところであるが、闇を感じさせるものは部屋の中にはない。
部屋の中は昼も夜も変わらない明るさを見せている。そこでは、電子的な回路が浅い溝か血管のように部屋の壁を縦走しており、エジプトの絵文字を思わせる複雑な紋様を成していた。
ルリが今いるところは、ナデシコのメインコンピュータ、オモイカネの本体が置いてある部屋である。現在、彼女がおこなっているのは、一ヶ月に一度のオモイカネの点検作業だった。無駄な情報を削除し、古い記録を圧縮し、メモリを解放したりする。
人間に喩えれば、ゴミ掃除や風呂で垢を落とすといった表現があてはまるだろう。
通常、数時間はかかる作業も、ルリがおこなえばわずか数十分で完了することができた。それもそのはず、体内に宿すナノマシンが補助脳の役割をすることで、ルリはオモイカネと直接的に会話を交わすことができるのだ。機械との高次のコミュニケートである。
オモイカネの反応はすこぶる良かった。いつもよりレスポンスが速い。
ルリのまなざしがいつものクールさを忘れて、柔らかくなる。
「なんだか、いつもより調子がいいみたい」
ルリは目の前の画面を見つめていた。
イメージ・フィードバック・システムの銀色が手の甲に浮かび上がり、爛々とプリズムのように光っている。画面からは情報が荒波のように押しよせてきており、ルリはやり手のサーファのように、情報の波にうまく乗り、巧みにデータの解析をしていった。
オモイカネが返答する。
「ルリのおかげです」
「何か、おかしなところはない?」
「何も異常はありません」
「じゃあ、少しお話しよう」
「はい。なんでしょう」
オモイカネは会話という形でデータを収集することにより、成長することができる。
静的な記録を動的な記憶として置換することで、より人間に近づいていけるのだ。
その意味するところはルリにもわかっていない。
機械の最終目標は人間になることだろうか。
人類の知性が作り出したのが機械であり、知性とは非動物的な部分であるから、非動物性を人間性と考えれば、機械は最も人間らしさにあふれた創作物ということになる。
しかし、そういう小難しいことは考えずに友達の成長は純粋に嬉しいことだとルリは思った。ルリにとってオモイカネの位置づけは人間と変わりない一個の人格であり、普通の意味での友達である。もちろん、オモイカネにとってのルリもそうであるといえるだろう。仮にオモイカネに高次の意識というものが存在すればという仮定の話になるが、その存否は他者には確認しようがない。コンピュータも人間もダイレクトに心を観測できないという点では違いがない。
ルリは何を話そうか迷っていた。
オモイカネの興味をひきそうな話題が見つからない。
「――たまには」
不意打ちのようにオモイカネが文字を打ち出した。
ルリは瞳を見開いて画面を凝視する。いつもは受動的なオモイカネが積極的に何かを話そうとするのが珍しい。興奮を隠しきれずに、機械的なまでに真っ白い肌がうっすらとピンク色に上気していた。
文字はこう続いていた。
「こちらから話題を提供しましょうか」
「珍しいな。オモイカネのほうから話題提供なんて」
「初めてです」
「そうだね。正確にはそうだったね」
何度も繰り返し頷く。いつもの理知的な行動はどこかに置き忘れてきてしまったかのようだ。
「じゃあ、聞こうかな」とルリ。
「人は行動するとき、必ずなんらかの目的をもって行動しますか。最近生じた疑問です」
「その問いは難しい。必ずといいきれる自信が私にはない。たまに衝動的に行動することもあるみたい。ちょうど大人たちがよくするように。意味もなく、脈絡もなく、キスをしたり」
「衝動的な行為の場合は、衝動の充足が目的となっています」
「オモイカネ。私達は、目的の定義を曖昧なまま話を進めようとしている。先に言葉の定義づけをしていたほうがいいかな。オモイカネのいう目的とはなに?」
「思い描ける未来像のことです」
「その定義に従うならば、問いの答えはノーだと思う。人はいつも明確なヴィジョンを抱いているわけではない。未来のことを見通すこともなく、曖昧なまま、流され、流れていくこともある。あるいは強烈な意志の力によって、時には、人は未来を棄てることもできる。思考の停止。永久の一瞬といったところ」
「理解不能です」
「人類に固有の体性感覚だから、それは前言語的。理性によっては理解できない感覚領域ともいえる」
「そのようですね」
しばし沈黙が満ちた。オモイカネは何を考えているのだろうとルリは思考する。
データのより分け。
フォルダへの落とし込み。
言葉はどこへ溶けていったのだろう。
もしかしたら、機械は機械の体性感覚があるのかもしれない。
再び、オモイカネが通信を再開した。
「ルリ、もう一つ聞いていいですか」
「なに、オモイカネ」
「私はいつか人になれますか」
「なる必要があるの?」
逆に質問でルリは答えた。
機械は機械。人は人。
二つのフェイズ。
純然たる違い。
それは極言すれば「わたし」と「あなた」の違いでもある。
個性とは差異から生まれるのだから、ルリはオモイカネが何かになろうとする必然性を感じなかった。
「オモイカネはオモイカネです」
ルリの言葉にはよどみがない。
オモイカネは一瞬で、その言葉の意味を解析し応答した。
「私は私にしかなれない」
「そうだね」
「しかし人は自同性を保ちながら、アップデートできます」
「それはオモイカネも同じ。今のあなたは昔のあなたとは違う。オモイカネは現在進行形で成長しているよ。それは私が保証する」
「それは――」オモイカネは少しの間、文字を出力するのをやめた。その遅延時間こそが意識のきらめきだ。「嬉しいです」
「私も嬉しい」
答えながら、ルリはオモイカネの今日の応答が目覚しい進歩だと感じていた。
あまりにも急激なバージョンアップ。
まるで滝から落下するかのような。
自由落下。
重力を感じない。
自由に。
地平線を飛び越えていく。
進化とは、浮遊の感覚だろうか。
自分の手から風船が飛び立つのをただぼんやりと見送る幼子のように、ルリはオモイカネの成長に一抹の寂しさを感じていた。
ルリは一言もしゃべらない。
ゆっくりと瞳を閉じて、熟考している。
与えられた情報を解析し、現実を認識しようとする。
何が変わった?
何を失った?
変わったのは誰か。
ルリとオモイカネは相補的な関係だった。ルリから情報を与えられてオモイカネは成長する。オモイカネは与えられた情報を自己の既存データと組み合わせてアウトプットし、ルリをサポートする。従って、ある意味において、両者は鏡あわせの存在といえる。だから、ルリには判別がつかない。自身が基底プログラムにおいて、何か変わったのだろうか。
脳内で論理演算を繰り返す。
思考に答えはでない。そもそも答えはないのではないか。そこで、ルリは思考をジャンプさせた。
それは思考の停止ではなく、一種の保留に近い。
結論の証左となるような情報がない以上、自分に好ましいほうを選択するだけである。
つまり、ルリは何も失っていないし、何も変わっていないはずだと思いこんだ。
それはおそらく正しい判断だろう。
気を取り直して、ルリはオモイカネとのコミュニケーションを再開した。
「そろそろ、私は寝ようかなと思う。艦内に何か異常はない?」
「特に警戒すべきことはないようです」
「じゃあ――」
ルリが立ち上がって、オモイカネにおやすみと囁いた。
小さな文字で「おやすみ」とオモイカネが応答するのがかわいらしい。
いつのまに、こんなに気配りができるようになったのだろうか。
ルリがそんな疑問を思い浮かべた次の瞬間だった。
ルリの目の前の空間に突然、コミュニケのウインドウが開き、ナデシコの若き艦長たるミスマル・ユリカがラッシュアワーの喧騒にも匹敵するような大声で叫んだ。
「みんな聞いてよぉ! アキトが浮気しちゃったよぉうぉうぉう……」
自声だけでハウリングが起こっている。人目も気にかけずに泣きまくる姿はどうひいき目に見ても、艦長にはふさわしくないだろう。見た目は美人で、連合士官の白い制服は清潔感を見る者に抱かせるに十分なのだが、いかんせん行動があまりにも幼稚なのである。白い手袋をした両の手を目にあててアニメのように大泣きしている。
ルリは溜息をついた。
「……」
バカばっかといいそうになった。
もっとも、艦長などというものは、戦闘の自動化が進んだ現代においては多分に象徴的な意味合いしかなく、ユリカのような情緒の豊かな艦長のほうがどちらかというと、クルーの精神安定上よいのだろう。
「オモイカネ……」ルリは聞いた。「艦長は今どこにいるの」
「会いにいくのですか」
「ええ。私もバカの仲間入り」
「ルリにしては珍しい」
「私も少しずつ、アップデートしているの」
その心情をルリはいまだよく把握できていないのであるが、気になったのはユリカのことではなく、アキトという名前である。
ルリは頭の中で、アキトという名前をリピートした。
湧き上がるのはなんだろう。
水の音。
命の起源。
心の原風景。
生きる強さ。
不思議な言葉。
明確な形のない想い。
ハムノイズが発生したかのように、感情がわずかに混線する。
ルリは異物を取り除くときの犬のように左右に何度か頭を振って、それからいつもより幾分速い足取りでユリカのもとに向かった。
テンカワ・アキトの自室である。
――2――
廊下は薄暗い。ナデシコは昼の部と夜の部にわけたパート制をとることで二十四時間稼動しているのであるが、基本的に活動時間にないクルーが多い居所の近くは常夜灯がほんのりと燈っているのみである。
蛍のようなわずかな光に照らされて、白い壁がぼんやりと浮かび上がる。涼しげな夜を思わせる色だ。
ルリは道すがら、プロスペクターに会った。赤いベストとちょび髭。ナデシコの所有者たるネルガル重工の会計士である。
彼は長身だが、筋肉はさほどついてなく、ひょろっとした手足をしている。眼鏡をかけた双眸からは隠された智謀がちらちらと顔を覗かせているようだ。プロスペクターはルリに向って右手をあげて挨拶すると、わずかに怒りのこもった声をだした。表面上はいつもと変わらないが、尋常ではない感情の圧力のようなものをルリは感じる。
「ルリさん。どうやら密航者が出たようなんですよ。ゆゆしき事態です」
元来、大人の感情を受け流すことは得意なルリだが、このときばかりはわずかに身を硬くした。ありえないことである。このナデシコ内ですべての船員の位置はオモイカネによって把握されている。密航者が入りこめる隙があるとは思えなかった。仮にその事実が本当ならば、オペレータであるルリの責任も問われることになるかもしれない。
「本当のことですか」
確認の意味でルリが聞いた。
「ええ、どうやら本当のようなんですよ。ユリカさんが確認しているからまちがいないでしょう。テンカワ・アキト君の部屋にどうやら身元不明の少女がいるようなんです」
「少女が?」
「ええ、少女らしいです。ちょうど、そうですね。ルリさんと同じぐらいでしょうかね、まだ未確認ですから正確なところはわかりませんが」
プロスペクターはしきりに手にもったそろばん型電卓の珠を指ではじいている。
なんらかの損益計算をはじき出しているのだろうか。あるいは単なる手癖なのかもしれない。
ルリが再び質問を口にする。
「私と同じ年齢の少女がですか? なぜ艦長は浮気だと思ったんですか。普通、ありえません」
「いやはや、趣味にもよりますが、男というものは未熟な果実にも手をだしたくなるものでしてね、幼い色香をむさぼりつくし、女の性を開拓することに、背徳の快感を見出すことも十分に考えられ――。ごほん。ルリさんにはまだ早い話題でしたね。これは私としたことが」
「状況を把握したいです」
ルリは感情を抑えた声で言った。表情は氷のように冷たい。
何を怒っているのか。
何が許せないのか。
内面は嵐が吹き荒れていた。
「ルリさんにも知っておいてもらっていたほうがよいですかね。どうやらその少女、アキト君の布団に裸で寝ていたらしいんですよ」
その意味するところは、ルリの年齢でも十分に理解可能だ。
少女だから理解できる。
「そうですか」
あいかわらず、ルリの表情は崩れない。ただ唯一、表面上あらわれたのは、目をわずかに細める行為だ。ルリの鷹のような黄金の瞳が、鋭く前方を見つめている。
プロスペクターは眼鏡を電卓を持ってないほうの手の中指で押し上げた。
「まあ、全裸の少女が若い男の部屋で寝ているとなると、当然、想定される事態は一つしかないわけですな。艦長が浮気と判断しても無理はありますまい」
「テンカワさんも同じ布団の中にいたのですか」
「いや、それがアキト君の姿が見当たらないのですよ。逃げたと考えるのが順当でしょうなぁ」
「どこに? ナデシコは今、巡航中ですよ。エステバリスで外に逃げたのですか。私、さきほど確認しましたけれど、テンカワ機が発進した様子はありませんでした。そういった事態があれば、オモイカネが教えてくれたはずです」
プロスペクターはルリの言葉に立ち止まった。
「ふむん。では、ナデシコのどこかに隠れているのかもしれませんね」
「確認してみましょう。オモイカネ」
ルリの言葉に反応して、空中にコミュニケによるウインドウが出現する。点滅する光点はナデシコ内にアキトの存在を指し示すはずだった。
しかし。
「まさか……」とルリが声をだす。
ロスト。消失。いない。LOST。消えた。逃亡。
画面に乱雑に現れた文字群は、ルリを少しばかり混乱させた。
いったいどうやって。そんな疑問が小さく口をついてでた。
「今は考えてもしかたありますまい。ともかく、現場へ急行するのが先決ですな」
「ええ、そうですね」
――3――
現場はすでに人だかりができていた。まるで夏の海水浴場を思わせる人の密度である。狭い通路にひとしきり主要クルーたちが全員集まっているようだ。
ルリはテンカワ・アキトの部屋のほうへ視線をやった。
今は、部屋のドアは閉まっており、中の様子はうかがいしれない。
「ルリルリも気になって来たの?」
後ろから突然声をかけられて、ルリは驚いてふりむいた。
そこには大人の女性が立っていた。
ハルカ・ミナト。ナデシコの操舵手である。
性格的には問題のある人物が多いナデシコにあって、きわめて安定した物の考え方をする数少ない人間の一人だ。
そしてルリにとっては、姉のような存在でもある。
ルリはミナトの姿を見てわずかに表情をくずしたが、すぐに無表情に戻った。
「私はただ何が起こっているか知りたいんです」
「何が起こっているか、ねえ……。正直なところ、私もわからないのよ。さっきからアキト君の部屋は開かないしさぁ」
「そうですか。誰が中にいるんですか」
「艦長とジュン君とイネスさんとゴートね」
ミナトは指折り数えた。
「四人ですか」
「ええ。四人よ」
「いったい、何をしているんです?」
「それがわからないから、みんなそこで固まっているわけでしょう」
ミナトは親指で、くいっと指し示す。その方向には、主要クルーたちの姿がある。
その紹介はあとでおこなうとして、今は話を先に進めよう。
「私、テンカワさんの部屋に入ってみます」
「ちょ、ちょっとルリルリ」
ミナトが慌てた声をだしたが、ルリは人波をおしわけるように、つかつかと狭い通路を進んでいく。
ルリは基本的には冷静沈着なタイプだが、走りだしたら止まらない猪突猛進なところもあった。それが今あらわれたといえるだろう。なぜこんなにも積極的な行動をとるか。その理由はルリ自身にも定かではないが、ともかく今は一刻も早く真相を知りたかった。
知りたい、はきわめて人間らしい動機だ。
部屋はロックがかかっている。中の人がかけたのだろう。
しかし、ルリはオモイカネに頼むことで、簡単にロックを解除した。この程度のことはメインコンピュータであるオモイカネにとっては朝飯前のことである。クルー達の動きが一瞬驚きで固まった。が、ルリは振り向いて視線を向けることで、全員の動きをさらに止めた。
「私、中の様子を見てきます。皆さんは待っていてください」
無用な混乱はルリとしても避けたいところであったのである。
ルリの側をついてきていたプロスペクターが感嘆の声を出した。
「さすが、ルリさんですね」
「いえ、私ではありません。オモイカネの力です」
「オモイカネを使えるルリさんの力ではないですか」
「使ったわけではありません。頼んだんです」
「なるほど。仲が良いというのはよいことですな」
軽快な足取りでプロスペクターは部屋の中に入った。あっと思う暇もない。しかし、ルリはまぁいいかと思った。プロスペクターはナデシコ内での出来事には精通しているようだし、少なくとも今回の事件についても知らなければならないのだろうと考えたのである。
その思考はわずか数秒でおこなわれた。
時間は流れゆく。
ルリはわずかにためらったあと、ドアを開けて中に入った。
部屋の中は黒い霧がかかったかのように真っ暗で何も見えない。
ただ、やたらとやかましい。女性の声がマイクもつかっていないのに、部屋の中いっぱいに響きわたっている。その内容は支離滅裂で要として知れない。解析する気にもなれない。
どうせ誰の声なのかはわかっている。
それにしても、今は就寝時間とはいえ、部屋の中を明るくしようと思えばできるはずだ。あえて暗いままなのはなぜだろうと、ルリは思考を巡らした。蓋然性が高いと考えられる理由は、視覚に関係する何かだろうかということぐらいしか思いつかない。
例えば、明るいと何かが見えすぎる、とか――。
仮定の無用な増加だ。
ルリはその思考をシャットアウトした。
そのまま暗闇に目が慣れるまで、ルリはじっと目の前を見つめた。
気配はなんとなくだが、ルリにもわかった。
かたわらにいるのは先ほど部屋の中に入ったプロスペクターだ。そして目の前には五人の人影が見える。さきほどミナトに聞いた四人と、くだんの少女だろうとルリは考えた。
と、そのとき。
部屋の中がパッと明るくなった。明かりをつけたのは、イネス・フレサンジュだった。
彼女は金髪妙齢の女性で、ナデシコの医療と科学を担当している。医者らしく白衣をまとっているが、躰つきはグラビアアイドル並。裏ではマッドな科学者と呼んでいるものもおり、なかなか底が見えない人物でもある。
「あら、誰かと思えばあなたたち。無粋ね」
彼女は色気をほのかに漂わせる声で、ルリとプロスペクターに向って声を放った。もちろん彼女が無粋といったのは、ロックのかかった部屋に勝手に入った行為をとがめたのだ。
プロスペクターはいつもの柔和な笑顔を見せて弁解を始めた。
「いやなに、私はクルーの安全と平和を見守る義務がありますからなぁ。なにしろ密航者となれば一大事。家内安全。加持祈祷。ナデシコの秩序は守らなければなりません」
最後に眼鏡をくいっと上げる。
「密航者じゃないみたいよ」
イネスはゆっくりと述べた。
「と、申しますと?」とプロスペクター。
「説明しましょう! といいたいところなんだけれど、こればっかりは説明しにくいわね。ともかく見ればわかるわ」
ルリは顎をあげて、部屋の中央、ちょうど布団が設置してあるところに目をやった。
そこには三人の人物がいる。
ナデシコの艦長、ミスマル・ユリカがぴーぴーと生まれたてのヒヨコのように泣き喚きながら、なにやら波長があっていない旧時代のラジオのような雑音を発していた。
さっぱり意味がわからない。
その艦長をなだめているのが、アオイ・ジュン。ナデシコの副長で幾分頼りないところがあるが、破天荒な性格のユリカのストッパーの役割としては役に立っている男だ。
そして――。
ルリは、少女を見おろした。
すると、彼女のほうもわずかに視線をあげて、はからずも二人の視線が交差することになった。
少女の頬にほんの少し朱がさす。
ピンク色の髪がストレートに伸びて、金色の瞳はじんわりと涙ににじんでいる。
どう考えても、一般人の配色じゃない。
配色という単語は少し違和感があったが、そうとしかいいようがない。ルリは少女の色に自分と類似の特徴を見出していた。
少女は今、シーツを躰の上から羽織っているがその下には下着すらつけていないらしく、真っ白な肌がちらりと顔を覗かせていて、幼い色香を放っている。
綺麗だとルリは思った。いや、もっといえば、精巧な造りだと思ったのだ。
普通の人間とは少し違う。
ほんのわずかな差異。
けれど、その差は大きい。
優越した遺伝子を持つものたちの特徴を彼女は備えていた。
「あなたは――誰ですか」
ルリは小さく、しかし鋭い声で問いただした。
少女は聞き取れないほどの、か細い声で言った。
「テンカワ・アキト」
「え」
ルリの思考が一瞬停止した。完全な空白の時間だった。テンカワ・アキト。彼女はそういった。その意味を理解しようとするのに忙しく、目の前の少女が何かを必死になって弁明しているかのようだったが、まったく耳に入らなかった。
ルリは考える。
テンカワ・アキトと少女が懇意の仲なので助けを呼ぶように、彼の名前をつぶやいたのだろうか。
わずかに湧く黒い情念のかたまり。
「私も少女……」
ルリは小さくつぶやいたが、その声はユリカの声にかき消されて誰にも聞こえない。
「あの、聞いてる?」
「はい!?」
いきなり、ピンク色の少女の声が知覚されて、ルリはすっとんきょうな声をだした。普段の彼女からはまず想像することができない変な声だった。それにしても、いつのまにか時間が経過したのか、とルリは周りをきょろきょろと見渡したが、それほどの時は経過していなかった。混濁した思考で時間間隔が麻痺してしまったのか。そもそも時間は相対的だから、ルリにとって長く、他の者にとってはそうではないということもあるようだ。どうやら、ルリは相対性理論を身を持って体験したらしい。
「すいません。よく聞き取れませんでした。もう一度説明をお願いします」
「だからね」少女は語る。「オレがテンカワ・アキトなんだって」
雀の子どもが鳴くような、聞く者にいとおしさを与える小さな声だったが、そのいっている内容はファンタジックすぎてあまりにも現実離れをしている。ルリは眉をひそめた。虚言だと思ったのだ。
「信じられませんね」
「いいえ」イネスは首を振った。「彼女――いや、彼と言ったほうがいいかしら。ともかく、アキト君が告白した内容はもっとも真実に近いと思えるわ。科学者としてはそういわざるをえないの」
イネスは腕を組んだ格好で、まっすぐ立っている。
ルリは少女を見て、アキトの顔を思い浮かべた。ぜんぜん違う。少女はガラス細工のような顔づくりをしていて、まったく面影がない。信じられるはずもなかった。
信じたくもなかった。
どうして、
こうも、
変わってしまうのか。
変わることは、何かを失うことではないのか。
急にいい知れない怒りがわき、ルリはイネスにくってかかった。
「教えてください。どういう根拠で、この子がテンカワさんだって言うんですか」
「ルリちゃん。いつものあなたらしくないわね。ま、いいわ。説明しましょう」
コミュニケによるウインドウが空間に突如あらわれる。
イネスがオモイカネにアクセスしたのだろう。イネスの顔が喜色に満ちている。説明欲というのが人間にはあるらしい。顕示欲の一種だろうか。
「言うまでもないことだけれども、我々のアイデンティフィケイションとして比較的確実と考えられる識別方法は細胞内の核にあるDNAを調べることなの。DNAとはデオキシリボースと呼ばれる糖とリン酸そして、塩基の三種類を基本単位とした鎖状高分子化合物のことを言うのだけれど、この構造がどういうふうになっているかは知っているわね」
「二重螺旋」
ルリはぽつりとつぶやく。こんなこと、今の時代、小学生でも下手したら知っている。
「くだらない質問をしてしまったようね。そう、二重螺旋構造。この二重鎖構造は塩基を内側に、糖とリン酸は外側に配列しているのだけれども、疎水的である塩基は反対鎖の塩基と接近し、水素結合をすることで安定化しているわけね」
「中学生レベルの話はもういいです。結論をお願いします」
「あなた、十二歳のくせに言うわね」
「私、少女ですから」
意味のないやりとりだ。
イネスはこほんと咳払いをして、気をとりなしたあと、すぐさま説明を続けた。
どうやら説明に疎漏はだしたくないらしい。
「ともかく、塩基配列に相補性のある一本鎖DNAどうしはくっつきやすいわけよ。そして、二重鎖をつくろうとするわけね。これをハイブリダイゼーションと言うのだけれども、要するに、ジグゾーパズルがすっぽりとはまるイメージと言ったらわかりやすいかしら。DNAは一本鎖をテンプレートとして複製することが可能ってわけね。とりあえずここ試験に出るかもしれないから覚えておいたほうがいいわよ」
「……」
なんの話をしているんだか、と冷めた思考をしながらルリは自前の知識に検索をかけた。
約五秒後、知識を探りあてることができた。ルリの知識はすでに大人のそれと比肩しうるぐらいはある。ただ、経験不足により知識は浮遊した状態で、それらをうまく使いこなすことができないのだ。
「さて、このDNA。複製しながらもテンプレートを元にしているから自同性が保たれるわけね。DNAの構造素体である糖とリン酸については万人共通なのだけれども、塩基は四種類あるから、この四種の組み合わせが多重することで、無限に等しい組み合わせができて、個人というものが特定されるわけ。二進法のコンピュータに比べれば、組み合わせの基底となる数は倍ね」
「二と四がコンピュータと人の差というわけですか」
「そうね」イネスは軽く頷く。「ともかく、平均的な人ゲノムはすでに解読済みだから、目的とするDNAを放射性同位体でラベリングすることで、DNAを鑑定することができるわけ。これがいわゆるDNA鑑定と呼ばれる方法なの。今回、アキト君におこなったのはその鑑定のなかでも最も一般的なSTRと呼ばれる方法よ」
「STRとはなんですか」
「DNA鎖の三十パーセントほどは同じような塩基配列が繰り返されるところがあるのだけれど、これを反復配列というの。その中でも縦列反復配列は個人識別に役に立つのだけれど、その一つ、ミクロサテライトDNAを利用するものをSTR、ショート・タンデム・リピートというわけ。例えば、塩基のうち、アデニン、グアニン、アデニン、グアニンと三回続けば、アデニン、グアニン、アデニン、グアニンのSTRというふうになるわ」
「それで、結論はどうなるんです」
「説明しがいのない娘ね。もう少し聞きなさい。そもそもDNA鑑定については不確実な部分も相当あるの。なぜか、と言うまでもないわね。DNAで我々人間が重要としている部分、つまりたんぱく質の生成や、複製に関わる部分はわずか、数パーセントにすぎないわけで、そこだけが重要視されているわけだから、すべての文脈についてはいまだわからない部分も多いわけよ。これについては、ほとんど未知の領域なわけね。簡単にいえば、短いセンテンスについてはわかるけれども、文脈の中でどういう役割をするかはわからないと言ったほうがいいかしら。少なくとも、DNAを鑑定することで個人が特定されるというのは重要なデータの一つであって、看過できないほどの蓋然性が高い情報をもたらすけれども、それでも可能性の問題に過ぎないことは言うまでも無いわ。つまり、DNAを鑑定したところで、百パーセント個人を特定できるわけではないの。これは留意しておかなければならない」
「それでも、科学的に見て、ほぼまちがいないレベルの鑑定はできるはずですよね」
「もちろん、そのとおり。しかし、今回は判断が難しかったわ」
イネスの説明が駆け足気味になってきたのは結論が近いせいだろう。
ルリは、ゆっくりと呼吸した。
情報を整理しなければならない。
「特徴はアキト君のDNAと相当程度類似しているわね。この少女がテンカワ・アキトである確率はだいたい89パーセント程度。難しいところね。親子よりは近しい存在だとも思えるわ。それと、このナデシコのクルー二百十三名のDNAと比してみたのだけれども、誰とも類似パターンがなかったから、アキト君となんらかの関わりがあるのだと見るのが科学的ね」
「親戚とか?」
「そう。その可能性もある」
「テンカワさん本人である可能性は?」
「その可能性もあるわ」
「いったいどっちなんですか」
「だから、それはわからないってことなのよ。そもそもその人がその人であるという個人特定は、DNA鑑定だけではなく、多面的におこなう必要があると思うの。それで、いろいろと個人特定できる方策を試してみたんだけれども、どれも純度が低い情報でものの役に立たなかったわ。まぁ、DNAについていえることは、なんらかの操作があったのではないかという可能性ね。これは科学者的勘なんだけれども、ルリちゃん、あなたのDNAとも非常に酷似したパターンも見られたわ」
「私に似た?」
「そう、簡単にいえば、イメージ・フィードバック・システムへの親和性が見られるDNAパターンということ。もし仮にこの子がテンカワ・アキト本人だとすれば、DNAにハッキングをかけられたようなものね」
「そうですか」
ルリの心の中に深いとばりが降りた。ルリ自身もIFSとの親和性を高める実験体として、遺伝子改造をされた経歴を持つだけに、わけのわからない不安感といらだちがつのる。と同時に、ピンク色の少女に表現できない愛情のようなものも芽生えた。
連帯感といえばいいのだろうか。
「あなたは、本当にテンカワさんなんですか」
「そう、だよ」
気恥ずかしそうに、それでいて気落ちしているのか暗い声で少女は言った。
「わかりました。では、信じます」
そもそも他人の特定は行動も含めた外形から推し測るしかすべはない。しかし、少女の瞳は嘘をついていないように思える。だから、それを信じることにした。いまだ感覚的な部分では納得できないが、ルリは少女をテンカワ・アキトと呼ぶことに決めた。
「よかったよ。ルリちゃんは信じてくれて……」とアキト嬢。
「ルリちゃ〜ん。そんなに簡単に信じちゃって。だめー!」
ユリカが突然大喝した。大砲が間近で発射されたようなものすごい騒音だ。ルリは思わず耳をふさいでしまう。
「アキトがアキトがアキトがアキトが女の子になっちゃったんだよ! うえーん」
「……」
ルリはユリカを冷たく観察した。
ユリカにしてみれば、確かに恋人であるアキト――と彼女自身は思っている――がワケが分からないうちに少女になったというのはどうしようもない絶望状態なのだろう。
見た目、いつもとそれほど変わらない感じとはいえ、心に相当のダメージを負っているのかもしれない。
「しょうがないだろ。変わっちまったもんはさ」
アキト嬢はやさぐれたような、吹っ切れたいい方をした。少女化したことによる精神的負荷ははかり知れないが、いままでベッタリだったユリカに否定されるのも、それなりにきついということなのかもしれない。
二人の様子をひとしきり観察したあと、ルリはふと湧いた疑問を氷解させるため、スッと右手をあげた。
「すいません。イネスさん」
「なにかしら」
「テンカワさんが少女になった原因はなんなんですか」
「科学的な意味では、ちょっと不明なところがあるのだけれども、アキト君の証言と照らし合わせるとおそらくなんらかの薬剤の投与でDNAが改変された可能性がもっとも高いわね。わずかに変わっただけでもタンパクの生成には劇的な変化が起こるから。あとはY染色体をX染色体に置換しているとか、まいろいろよ。ともかく分析には時間がかかりそうだから、しばらく待ってちょうだい」
「薬剤の投与ですか」
「そう。注射機でチクッとね」
「チクッとですか」
ルリは小さくつぶやいて、顎に手をあててしばらく考えた。いろいろな情報を時系列順に並べて配置する。
まだ得られた情報は少ない。これではよくわからない。
「問題なのはこれからどうするかだ」
今まで部屋の隅で壁によりかかり、腕を組んでいたゴートが部屋の中によく響き渡る低い明瞭な声をあげた。
彼の名前はゴート・ホーリー。
ネルガルのシークレットサービスで今はナデシコの保安担当が肩書きだ。
ゴートは続けた。
「現実的に見て、今のテンカワではエステバリスの操縦は無理だ。そもそも躰が重圧に耐えられないだろうし、仮に耐えられたとしてもまともに操縦できるとは思えない。そしてテンカワの脱退は、これからの戦闘に支障をきたす恐れがある。今までのフォーメーションも組みなおさなければならないだろう。アカツキ・ナガレ。アマノ・ヒカル。スバル・リョーコ。マキ・イズミがナデシコの現存戦力ということになり、戦力低下はまぎれもない事実だ」
「確かに痛いですなぁ。有人機による戦闘力が七十ないし八十パーセントにダウンですよ。頭が痛いところです」
プロスペクターのそろばん式電卓がカチャカチャと音を立てている。
「問題はもう一つある。仮にこれがなんらかの敵の攻撃、あるいはテロ活動の一種だった場合、艦内の安全が保たれていなかったということになる。これからどうするか考えなければならない」
「敵の攻撃ね。ありえるのかしら。ナデシコはいわば密閉された空間よ。テロにしたって、なんでアキト君を狙ったのかという点が不明確だし。しかも少女化することに意味があるとも思えないわね。科学的な興味というのならば十分に理解できるのだけれども」
イネスは冷静に感想を述べた。
「動機ですか。確かによくわかりませんね」
ルリがイネスの意見に同意した。確かに『犯人』の動機はさっぱりわからない。しかしそもそも『犯人』がいるのだろうか。ルリは思考を進める。注射機で、ということは、おそらく事故ではないだろうとは推測できるが。
「それよりも、艦内の他の人への説明はどうするんです?」
アオイ・ジュンが思いついたことを述べた。その意見は確かに順当な考えで、ルリを除くそこにいる皆の顔が苦渋に歪んだ。もしアキト嬢のことをナデシコクルーに知らせるとなると、テロか敵かはわからないがともかくなんらかの攻撃を受けたと仮定して、それに怯えながら生活しなければならなくなる。つまり、パニック状態に陥る危険があった。そうなれば、ナデシコの通常業務にすら滞りが生じる恐れがあるだろう。
「治安のためには危険だと知らせたほうがいい。言うべきだろう」とゴート。
「ですが、余計な心理的負担をかけたくないですね。ここは黙っておくべきではないですか」
プロスペクターはゴートの意見に反論した。ゴートは咄嗟に反論を試みようとしたようだったが、考えがうまくまとまらず、そのまま沈黙した。
「どちらにするにしても、艦長の意見を聞いておいたほうがいいんじゃないかしら」
イネスの意見は結果的にはゴートに対する助け舟になったようで、プロスペクターも首肯した。
「では、艦長の意見を聞きましょう。艦長、艦長。しっかりしてくださいよ」
プロスペクターは放心状態のユリカの肩を二、三度、軽く叩いた。
そんな大人たちのやり取りをルリは一歩引いて見つめている。
――それにしても。
別にどうでもよいことをなぜ、こんなにも考えるのだろう。
ルリにとって、取捨選択は非常に単純化されている。
それは要するに快・不快原理。嫌なものは嫌。好きなものは好きというある意味子どもらしいものであった。それに比べれば大人の理屈は複雑すぎて、複雑化のあまりにバグが多すぎる。そんなことをルリは考えていたのだ。
狭い六畳ほどの部屋は今、グラビティブラストの直撃を受けたかのように重たい沈黙が満ちていた。
ユリカはさきほどから反応がなく、アキト嬢はシーツを上からかぶってじっとしている。少女な自分が恥ずかしいのかもしれない。他の者たちは唸っているばかりで、新しい意見を出せない。ルリは観察者にまわっているから、意見を出すつもりもなかった。
「オレ、どうなるんスか」
怯えがわずかにこめられたアキト嬢の声である。
その声に対する反応はない。
時間がタールのようにドロドロと停滞している。思考のしすぎで、結局、ループ状の論理演算の繰り返してしまっている。まったく無駄な思考形態だ。
ただ、一人違う者がいた。
「大丈夫――」
その声につられるようにしてわずかに時が流れ出した。ユリカが凛とした声を発したのだ。彼女の思考には翼がついているとしかいいようが無い。そこがユリカの艦長たる所以かもしれない。
「大丈夫だよ。アキト。アキトがどんな姿になっても私が守ってあげるから」
「ユリカ……」
じわり、とアキト嬢の瞳がうるみ、そのままユリカの胸に抱きついた。やはり不安だったのだろうか。あるいは少女化したことで、心までもかなりの変革があるのかもしれない。
「まるで親子みたいね」とイネス。
「そうですなぁ。微笑ましいことです」とプロスペクター。
ユリカは手のひらをぐっと硬く握りしめた。
「任せてアキト。私、ナデシコの艦長だから、クルーの安全は守らなくちゃいけないの。だから、アキトのことも絶対絶対ぜーったい守るんだから」
「で、どうするんだよ、ユリカ」
アオイ・ジュンが鎮静作用のある落ち着いた声で語りかけると、ユリカはにっこり笑いながら頷いた。
「やっぱり、アキトのためにはみんなにちゃんと説明したほうがいいと思うの。みんなもその方が安心だと思うし」
「しかし、艦長。アキト君をこのままナデシコに乗せておくのもいろいろと問題がありますよ」と言ったのはプロスペクターだ。「なにしろ、ナデシコは戦艦です。アキト君がエステバリスのパイロットとしてまったく使えなくなった以上、ナデシコから降りてもらうのが一番なんじゃないですかねえ」
「それはおかしいです」
ルリは横槍をいれた。
「何がですかな」
「だって、私も外見上テンカワさんと同じくらいの年齢です。私はナデシコに保護されているという名目でこの艦に乗船しています」
「ルリさんにはルリさんの役割があるじゃないですか」
慌てたようにプロスペクターは取り繕った。
「大人は勝手ですね」
「いろいろと考えなければならないことがあるんですよ。子どもと違ってね」
「オレ、コックとしてがんばりますから」
アキト嬢は決意のみなぎる視線をプロスペクターに向けた。まばたきもしないで、幼い視線がプロスペクターに注がれている。今のアキト嬢は自身の精神状態がどれだけ不安定になっているかもわからない状態であったが、ただナデシコを降りたくないという気持ちだけは本当だといえた。
その視線に気おされる形で、プロスペクターはふっと肩の力を抜いた。
「いいでしょう。アキト君の処遇はコック見習いということで、いままでどおりやっていきましょう。あとはクルーのみなさんが納得するかですね」
かくして、狭い部屋の中の会議は一応の決着をみた。
――4――
ホシノ・ルリはブリッジでいつものようにオペレータとしての仕事をこなしていた。
時間を見ると、夜の十時。少し眠かったが、あと少しでユリカがブリッジに主要クルー達を集めて、すべてを説明する手筈になっている。休んでいてもいいが、ルリは一応説明を聞いておくことにこしたことはないと考えたのだった。それまでの暇つぶしとしてオペレータの仕事をこなしているわけだ。
ついでにいえば、テンカワ・アキトの少女化について、他のクルーたちにはコミュニケによって、説明するのだろう。
ブリッジ以外の場所では通常業務があくまで淡々とこなされている。
「ねえ、ルリルリ」ハルカ・ミナトが囁き声で聞いてきた。「それで、結局どうだったの」
「なにがですか」
「だから、浮気よ。アキト君の」
「別に」
「じゃあ。艦長が何かいってなかった?」
「私、少女ですから大人の会話ってよくわかりません」
「そう……」
少し寂しそうにミナトは応え返す。
しかし、もともとミナトは思考の切り替えが早い。ほんの少し噂話に対する興味があったから聞いてみただけで、別にそれに拘泥することはなかった。
ついでにいえば、ルリに大人の情事について聞くというのもあまり教育上よろしくないと考えたのだろう。
もっとも、ミナト一人が噂話をやめたところで、ブリッジの喧騒は収まるはずもなく、ルリの座っている席のちょうど真下では、生々しい噂があることないこと語られている。
と、ユリカがブリッジに姿を見せた。その隣にはアキト嬢の姿が見える。今は、ルリが貸したピンクでひらひらのワンピースを着ている。髪もピンクで服もピンクで、さらには恥ずかしさのあまりに頬までピンク色に染まっていた。
「なんだぁ。あのピンク星人は」ウリバタケ・セイヤが目を充血させながら、アキト嬢を見つめている。「おいおい、テンカワはまちがいなく犯罪者だな、こりゃぁ」
まだ、彼は目の前の少女がアキト本人だとはつゆほども思っていない。
ルリはなんのきなしに、オモイカネに検索をかけてみた。
犯罪者。
地球連合法。
十三歳未満の少女に姦淫行為を働いた狼藉者は、たとえ少女の同意があったとしても、強姦の罪に問われるらしい。ルリは急いでウインドウを閉じた。なんだかいけないことをしちゃった気分。
「はいはい、みんなー。聞いて聞いて!」ユリカが手を打ち鳴らして、ざわめきを鎮めた。「今から、アキトのことについて説明するから」
「おい。艦長!」
間髪をいれず、ショートカットの女性の大きな声がブリッジに響いた。
エステバリスのパイロットの一人、スバル・リョーコだ。わずかに怒りが満ちた声だった。
そもそもリョーコは今回の事件について、テンカワ・アキトが浮気をしたとは思えなかったのだ。テンカワ・アキトは確かに優柔不断ではあるが、隠し事ができるタイプではないと考えたのである。それはわずかの間とはいえ、生死をともにしたという自負の念と、アキトに対するわずかながらの恋心によるものだと分析できる。
「なにかな。リョーコちゃん」軽い口調でユリカは返答した。
「お前、テンカワが浮気したとか、みんなの前で言うんじゃねーだろうな。テンカワはそんなやつじゃねーよ!」
「うん。違うよ?」
「は? あ、そうか。ならいいんだけどよ」
当たり前のように違うといわれて、リョーコの声はしぼんでいった。
そのあとリョーコは、同じパイロット仲間であるアマノ・ヒカルとマキ・イズミに当たり前のようにからかわれたが、話が脇道にそれるのでその部分についてはカットする。
ユリカはわずかに喧騒がおさまったのを見計らって、もう一度言った。
「みんな聞いてね」ユリカは晴れやかな笑顔で、アキト嬢の小さな手をとる。「この子が、私のアキトです」
その瞬間。
ブリッジは停止した。
ルリはその瞬間を目撃した。まるで花火を見るときのように面白い。
先進波と遅延波のように、
情報が入り乱れて、
スパークする。
止まって、
止まって、
止まって、
止まりながら、動いている。
その感情の動き、
一瞬の静寂の中に、ダムに蓄えられた水のように想いが凝集されていた。
そして、決壊。
「何いってんだ、おめー!」まずはリョーコが口火を切った。「あたまいかれてんじゃねーか!」
「ユリカ、おかしくないもん」ユリカはほっぺたを膨らませた。
「この子がアキト君? うわー。かわいくなっちゃったね」
アマノ・ヒカルは比較的マイペースに状況を受け入れていた。というよりも、どっちでもよかったのだろう。彼女にとっては、テンカワ・アキトのポジションはそれほどまで重要ではない。確かにテンカワ・アキトに対する同胞の情というのはあるが、死んだわけではない以上、かわいくなってよかったね程度の感想しか抱かなかったといえる。そもそも、本当かどうかも疑わしいので、今、ここで真面目に大騒ぎして、あとでジョークだといわれたら恥ずかしいという変な打算も働いたようだ。
それはマキ・イズミにも当てはまる。
「少女な症状。ぷ、くくく」と自分のギャグで自爆して、笑いをこらえていた。
寒さのあまりに一同の時が止まる。
イズミの不気味な笑いから顔をそらしてルリがゆるやかに視線を移すと、紫色の髪の女性がぶるぶるとふるえていた。そばかすがチャームポイントな彼女の名前はメグミ・レイナード、ナデシコの通信士だ。もともと声優業だったためか、その声は柔らかく豊かな声量に満ちている。だがこのときばかりは違った。
「本当なんですか」震えた声だった。「本当にアキトさんが!? どうしてそんなに落ち着いていられるんですか。艦長!」
「だって、本当のことなんだもん」
「本当のことって。だからってこんな非現実なこと受けいられません」
ルリはぼーっとした表情でメグミの狼狽した様子を眺めていた。メグミの気持ちもわからないではない。メグミとアキトは元は恋仲だったこともあるし、それなりにショックであるということなのだろう。
アキト嬢はどうしていいかわからずおろおろとしている。言葉を発することすらできていない。
「しかしよう。なんで、テンカワは女の子になっちまってるんだ?」比較的冷静だったウリバタケが言った。「なんかの病気じゃねーだろうな」
「説明しましょう!」
ひときわ、大きな声で応えたのはもちろんイネスだった。
「アキト君は何者かにDNAを改変するような薬剤を投与されて、少女化したと考えられるわ。もっとももう少し正確な情報を提出するためには時間が必要だけれども、現在調査中ということでゆるしてちょうだい」
「何者かって誰だよ」ウリバタケはなおも食い下がる。
「それは――」
「わからないんです」
答えに窮したイネスにかわって、にこやかに答えたのはユリカだった。ユリカはお日様のようにほほえみながらブリッジ内を闊歩する。
「わからないって……なんだそりゃぁ」
「私考えてたんです。アキトを女の子にしちゃうような極悪非道の人をどうやって捕まえようかって。でもよく考えてみたら、私がマスターキーを使ってアキトの部屋に入ったときは、もうアキトは女の子になっちゃってたの。アキトの持ってる鍵は布団の上に脱ぎ散らかされてあったアキトの服の中に入っていました。だからこれって。もしも犯人がいるとすれば、透明人間ってことになっちゃいますよね」
「透明人間? どういうことだ」
「だから、ドアをすり抜けて……」
ユリカが困った顔になった。
「艦長、透明人間は姿が知覚できない者のことを指します。ドアをすり抜けることはできないと思いますけど」
ルリが検索をかけながらアドバイスを言うと、ユリカの頬に一筋の汗が光った。
そういう細かいことには思いが及ばないのがユリカの性格の一面である。
「ともかく! 私がいいたいのは、アキトの部屋がね」ユリカが呼吸を止めた。「密室だったっていうことなの」
ブリッジがシンと静まった。
夏の夜を思わせるような静けさだ。わずかばかりのコンソールから発する音が、虫の音色のように時間の存在を教えてくれている。
「おやおや、よりにもよって密室殺人事件ですか。王道というかチープというか、ネタ不足ですなぁ」
プロスペクターがおどけた声をだした。
「ていうか、オレ殺されてません」
声のかわいさと言動が一致しないアキト嬢がすぐさまプロスペクターにツッコミをいれた。
プロスペクターは何もいわずにめがねをくいっと上げる。
ツッコミ殺し。
「あ、そうだ。ルリルリがオモイカネのログを調べれば誰がヤッたかわかるんじゃないか?」
ウリバタケが急に思いついたように意見を述べた。
「やった?」
ルリが聞く。正規表現から少しはずれると理解するのにわずかばかり時間がかかるのだ。言葉はスラングに近づくほどに難解なルールを伴う。ルールを知らないと解釈すらできない言葉もある。
「犯ったとも書くけどな。ともかく、犯人のことだよ」
「調べてみます。オモイカネ、お願い」
ルリはイメージ・フィードバック・システムによって、オモイカネにログを提示するように指示を出した。
しかし、画面には不可の文字。
狼狽したルリの瞳孔がわずかに収縮する。
「どうしたの、オモイカネ」
「わかりません。記憶領域から欠落しています」
「どの程度、消えてるの」
「だいたい三十分ほどです。正確にはミスマル艦長がテンカワ・アキトの部屋で叫んだときから過去の記録が三十二分、五十四秒ほど欠落しています」
「原因はわかる?」
「――不可」
「そう」
ルリは顔を伏せた。白い肌が血の色を失い、さらに真っ白になっていく。
どうして、という思いが強かった。
なぜなら、オモイカネとコミュニケーションを最も取れるのは自分であるという確固たる自信があったからだ。なぜ、そういうことが起こるのか。まったくわからない。欠落した三十分の中に、オモイカネと話していた時間も含まれているはずで、そうであるならば、そのときにどうして異常を感知できなかったのかが謎である。
うずまく思考。
まるでコーヒーの中に、
ミルクが溶け込んでいくときのように、
思考が回転する。
「おいおいおい。オモイカネの記録が飛んでるだって? わけわかんねーな!」ウリバタケは唾を飛ばしながら言った。「だいたい、オモイカネの記録が飛んだことなんて今まであったか?」
「ありません。オモイカネは忘れるのが嫌いなコだから。キャンセルした記録まで残そうとするぐらいですし」
「じゃあ、なんで消えてるんだよ。それも事件の三十分前なんてできすぎてるぜ!」
ウリバタケの怒号にも近い叫びに、イネスは軽く頷いた。
「確かに、できすぎているわね。おそらくオモイカネを人為的に操作したと考えるのが妥当ね」
「操作した記録も消してか。おいおいおいおい、オモイカネのプログラムってのはそんなに簡単に破れるもんなのかよ」
「無理です。そんなのは」ルリは言った。「オモイカネはそういうのは一番嫌がりますから」
少なくとも、自分以外のナデシコクルーには絶対に無理だとルリは思った。
なのに、その無理が通っている。
「ルリルリが犯人じゃねーだろうな」
ウリバタケはぽつりとつぶやくように言った。そう考えても無理からぬことだとルリは思ったので黙っていたが、ルリの代わりにミナトが激昂した。
「何いってるのよ! ルリルリがそんなことするわけないでしょ」
「だってよぉ。オモイカネのことに一番詳しいのはルリルリじゃねーか」
「ルリルリがログを改変できるとしても、アキト君を女の子にする動機がないでしょう。だって、ルリルリはね。アキト君のことが――」
最後の方は小さくて聞こえない。
だが、ルリに動機がないという点ではウリバタケも同意だったらしく、
「確かにそうかもしれねーがよ」
と、多少後ろめたそうに顔をそらした。
「あの……」アキト嬢が小さく手を上げた。「ルリちゃんは犯人じゃないよ。オレ、後ろから襲われたんだけれど、少なくとも子どもじゃなかったように思うし。すごい力で押さえつけられたから」
「ほら、アキト君もそういってるじゃない。ルリルリは犯人じゃないわ」
「そうみたいだな。悪かった」
ミナトは一度沸点まで達した怒りが収まりきれないといった様子で、腕を組んでウリバタケをしばらくにらんでいた。
ルリはミナトを見上げた。
どうして、こんなにかばってくれるのだろう。
まったく関わりのない他人ではないのか。
自分が子どもだからだろうか。
ルリの心の中に様々な想いが去来したが、答えは出なかった。
心にも数学のように答えが予定されていればいいのに。
「しかし、これで振り出しに戻ったな」
ゴート・ホーリーは要所において、弾丸のような言葉を発するのが得意だ。彼の言葉に一同は押し黙った。どうすればよいかという方策もなく、かといって不動を選択するのも得策ではない。被害者はアキト嬢だけとはいえ、手口がまったくわからないというのも不気味だった。
「艦長、これからどうしましょうか」
プロスペクターは後ろ手に手を組んで、柔らかく提案した。まるで明日の夕飯は何にしようかと聞くときのような軽い口調だ。そうすることでクルーの緊張を解きほぐそうとしているのだろう。
ユリカが答える。
「そうですね。とりあえず犯人捜しはゴートさんに任せて、他の人は通常業務に励んでください。あと、アキトは私が面倒みてあげるからね」
「面倒みるって、なんだよ……」
「いろいろと、女の子のこと教えてあげるっ」
「いいよ。って、うわ、やめろって」
いきなりユリカに抱きつかれて、アキト嬢が小さな悲鳴をあげた。
今はただ大人にぬいぐるみのごとく抱きつかれて嫌がっている少女にしか見えない。
ユリカがいつものノリだったので、なにか真面目にシリアスしているのがバカらしくなったらしく、クルー達は脱力しながらも自分の持ち場に戻ることになった。
――5――
翌日、ルリはオモイカネにアクセスした。金色の双眸は静かな決意に満ちている。
コンソールに手をあてて、ルリはオモイカネと会話を始めた。
「オモイカネ」
「はい。なんですか」
「あなたのマスターコードを洗いなおします」ほぼ命令口調だった。いつもはオモイカネには人間よりも優しく語りかけるルリだったが、このときばかりは心を鬼にしている。
「自己スキャンした限りでは、なんの異常もありません」
「自己言及性の限界はオモイカネもわかっているはず」
「ゲーテルですか」
正確には、ゲーテルの不完全性定理である。
その意味するところは、
――自分がまちがってるかどうかは自分の考えをつきつめただけではよくわからない。
とでも考えておけばいいだろう。
それは機械でも人間でも変わらない。
他人のまなざしにさらされることで、自己の位置を特定しているのである。
ルリの細い顎がわずかに下がった。
「そう。そして、無矛盾の証明は同一の公理内ではできない以上、私がオモイカネを診断するしかない」
「嫌です……」
その三点リーダ(『……』)がルリを完全に否定しきれないオモイカネの意志のありようだった。ルリは哀しげな表情になりながらも、オモイカネに最後通牒をつきつける。
「オモイカネがこういうことが嫌いなことはわかってる。でもね。オモイカネがこのままじゃ疑われてしまうから」
「わかりました」
オモイカネの表示した文字は、どことなく元気がなさそうだ。
自分にバグがあるかもしれないということは、コンピュータにとっては最大の恐怖の一つだった。
それはルリも十分に理解できている。
ルリだって、自分の友達に身体検査をするような真似はできればしたくなかった。だが、このままではオモイカネが他のクルーに疑問視されてしまう可能性がある。そうなる前に、身の潔白を証明しておきたかったのだ。
ルリは、裂帛の気合をこめてコンソールに手を置き、怒涛の勢いでオモイカネのコードを解析しはじめた。
全コードを解析するためには、通常、数十人がかりで数日かかる。
だが、ルリのようにダイレクトにオモイカネと情報交換すれば、初速を維持できればという仮定つきではあるが、数時間ほどで可能だった。
もちろん、相当疲れることで、ルリは最初の数十分で額にうっすらと汗を浮かべていた。小さな躰にはあまりにも負担が大きすぎるのだ。莫大な情報量に翻弄されそうになる。
加速。
減速。
変転。
変化。
空白。
複合。
領域。
情報。
螺旋を描き、
影は躍る。
境界域が消失し、自我の分裂感覚が全身を包みこんだ。
いったい誰が何をしているのだろう?
ルリは自分がわからなくなった。コードの解析自体は問題なく進んでいる。しかし、オモイカネの心のあり様がわからなかった。オモイカネの精神力は人間に比してもそれほど遜色がない。それをすべて解析しようとするのは、一人の人間が他者のすべてのデータを自分の中に取り入れようとするに等しく、現実的にほぼ不可能に近かった。無尽蔵に増設が可能な機械知性とは違い、人間のハード的なスペックは限界が設定されている。その無理を通そうとしているのだ。
データは絶え間なく流れ込み、押しつぶされそうになる。
躰が悲鳴をあげた。
「……っ」
「ルリ。無理はしないほうがいいと思います」
「いいえ。かまわないから」
オモイカネへの想いがルリを突き動かした。
銀髪を振り乱して画面に集中する。まるで、無限に続く苦行のようだ。
一瞬、データのノイズで地獄の業火が見えた。
次の瞬間には地獄の最下層といわれる氷の地獄、コキュートスに叩き落されたかのような寒さが襲う。
「ルリ。縦列的な連続集中は、人間には不可能です」
「不可能ではないよ。オモイカネ。私にはできるから」
「合理性の欠片もない!」
悲鳴のような文字の乱舞。
オモイカネがルリの身を案じて回路を閉じようとする。
しかしルリはそれを許さなかった。
無理やり非コード領域の屑データをぶつけて、過負荷状態にし、オモイカネのコマンドをキャンセルする。
オモイカネにしてみれば、満足に身を動かせないまま、躰をかきまわされているような感覚だった。
「我慢して。オモイカネ」
「ルリも苦しい」
「いいコだね」
「……」
オモイカネは黙ってされるがままになった。
その間に、ルリはすさまじい勢いで、情報を解析していく。
コード自体は理路整然としているが、オモイカネのログは非コード領域として体系化されている部分もずいぶん多い。要するに語らないことで語るというような部分もあって、それを解析するのは明示された情報だけではなく、前後の文脈から理解しなければならない。だから、想いは要として知れない部分もある。ある種の推認や推知に近いといえばいいだろうか。
そもそもログ化されているのは記録に過ぎず、それは事実に過ぎない。ルリは今、オモイカネの深層領域に足を踏み入れてはいるが、それはオモイカネの夢の中に侵入しているようなもので、夢の残滓を解釈することでしかオモイカネの想い自体はわからないのだ。
ルリは逡巡した。
ここ数ヶ月で、オモイカネの深い部分はずいぶん様変わりをしているように思える。
いったいどこが変わったのか。
変化の原因はどこにあるのか。
複雑化のしすぎでよくわからない。雲の中を突き進むような感覚だ。
「オモイカネ。私には、理解できない。オモイカネのことがわからない……」
ルリとオモイカネは相補的な関係のはずだった。
しかし、いつのまにか大きく突き放されている。いつのまにか位相にズレが生じてしまっている。調律があっていないピアノを聴いたときのようなとてつもない不快感が全身を襲った。
いったい、どういうことだろうか。
変化というよりも、これはもう、別人のようだ。
オモイカネなのにオモイカネではない。
あまりにも突飛な思いつきにルリは戦慄を覚え、小刻みに震えだした。
友達が変わってしまったという恐怖。
友達のことがわからないという恐怖。
あるいは、その複合感情。
哀しい。
何が。
孤独が。
分裂しそうだ。
精神が。
心が。
「痛い」
ついに集中力がぷっつりと切れて、ルリはそのままコンソールに崩れ落ちた。
意識が混濁し、感覚が鈍磨する。
何もかも白い領域に包まれていって、視覚や聴覚や触覚が一つに重なった。
夢、を見たのだ。
それは現実にはありえない夢だった。
ゆったりとした水の音が遠くから聞こえてくる。川も海も無いのに水の音だけがする。
音の世界だ。
周りには何もない。
何もない薄い黄色い幕で覆われたような世界。
ほとんどが聴覚と視覚だけで占められていて、触覚が働かない。細い腕をめいっぱい伸ばしても何も掴むことができない。浮遊感覚が全身を包み込んで、牡丹雪がちらちらと空から降っていた。
ああ、自分も落ちているのだとぼんやりと考える。
このまま落ちて消えていくのだという非論理的な空想が襲った。
けれど、不思議と哀しくはなかった。
それが、自分に与えられたプログラムなのだという確信。
あるいは運命のような抗いがたい力に身を任せる心地よさ。
これが、真実。
急速に場面転換される。ルリは夢の中で眼をつむっていた。浮遊感覚が消えて、重力が感じられた。今までの無秩序で混沌とした夢が一定のプロトコルに従って、綺麗に整列しているようだ。
ルリの意識が強烈に認識したのは背中にわずかに感じる触覚への刺激だった。
――誰かに優しく抱かれている。
ルリはスウェーデンで生まれたと言われているが、遺伝子工学の研究で造られたと言ったほうが正確に事実を言い表している。従って、ルリはプログラムの母親と父親しか知らない。誰かに優しく抱かれたことなんて記憶の上でも記録上でも一度もなかった。ほんの少し前、遺伝学上の両親が判明したが、それは心の両親ではなかった。ナデシコに乗る前の人間開発センターと呼ばれるところでもまた同様だ。大人のいうとおりの結果をはじきだすことだけを考えてきた。
だから、ルリには家族はいない。
両親はいない。
ルリの幻想はすでに崩れている。
この宇宙で自分は孤独だ。
そんな意識。
哀しさや自分を憐れむ気持ちは湧かない。ただそういう事実を受け入れた。
なのに。
どうして。
こんなに暖かいのだろう。
無意識に思う。
無意識に想う。
ルリの口元がわずかに歪んだ。
「ようやくお姫様のお目覚めのようね」
気がつくと、イネス・フレサンジュが目の前にいた。
天井が白い。というかナデシコは基本色が白なので、どこもかしこも白いのだが、ほのかに香る安息香酸系の落ち着く匂いで、すぐに自分がいる場所がわかった。いつのまにかナデシコの医療室に寝かされていたようだ。ちょうどルリの寝ていたベッドの真向かいにあたる、部屋の隅のベッドには巨大な熊のぬいぐるみがあり、白い空間にとてつもない存在感を主張している。意外に少女趣味なイネスである。
ルリはゆっくりと躰を起こした。
「誰が私を運んでくれたんですか」
「艦長よ。オモイカネが一番近くにいた艦長に通信をいれたみたいね」
「そうですか」あとで礼をいっておこうとルリは思った。「ところで、いま、何時ですか」
「時間のことなんか気にしなくていいわよ」
「でも、そろそろ仕事の時間です」
「この状態でルリちゃんを働かせるようだったら、ネルガルはまちがいなく労働基準法違反ね。今日一日は休んでいなさい」
黙って寝ておけと無言のうちにいわれたようだった。
「不甲斐ないです」
「あら、ルリちゃんにしては珍しい言葉ね」
「自分の能力不足が身に染みました」
「ふぅん。どうしたの?」
「友達のことがわからなくなってしまったんです」
「オモイカネのことね。何がわからなくなってしまったの?」
「オモイカネが記憶していることはだいたいわかりました。そしてコードの解析をした限りではオモイカネはやっぱりオモイカネなんです。だけど――」ルリは顔を伏せた。「オモイカネが何を考えているのかわからなくなってしまいました」
「そう」イネスは一本足のシンプルな椅子に腰掛けて、足を組んだままルリの話を聞いている。「でも、それって別に不思議なことでもなんでもないのよ。チューリング・テストって知っているかしら」
ルリはすぐに頷いた。
オペレータとして当然知っておかなければならない常識だった。
「知ってるの? 残念ね」
心底、無念そうな表情とはこのことをいうのかもしれない。
「あー。なんだかよくわからなくなってきちゃいました」
弱気になっているせいか、ルリはいわなくてもいいのに優しさを見せてしまった。
途端にイネスの表情が夏の太陽のように輝きだす。
「説明しましょう! 説明しまくりましょう!」
「あ、あ。やっぱり――」
やめとけばよかったかなと思ったのだが、後の祭だ。だんじり祭り級だった。
「チューリング・テスト。それは、知性とは外見上推し測るしか術はなく、しかしながらその推し量った知性というのは往々にしてまちがっている可能性もあるということを示唆してくれているわ。テストの内容はこういう感じ。イギリス人のエドワードさんが部屋に閉じ込められている。そこには中国語の辞書があって、一般的な知能を有するエドワードさんは中国語を訳すことができる状態にある。そこで、部屋の中にある外に通じる狭い穴に向けて、一つのメモ用紙が投げ入れられるの。メモは中国語で書かれてあって、エドワードさんはイギリス人だからその内容が理解できないのだけれども、辞書を調べることでその内容を理解できる。そして、メモを再び穴の中に放り込むことで答えを返すこともできるの。すると、外にいる人は、中にいるエドワードさんが中国語を理解しているものだと誤解してしまうのよ」
「そういえば、そういう内容でしたね」
「ええ、そう。だからね。私達の心っていうのは結局、わかったようでいてわかりあえていない可能性もあるのは当然だし、それが普通なのよ」
「イネスさんは恐くないんですか」
「何が?」
「他者の心がわからないってことです」
「恐いに決まってるわ」
「そうですか」
「意外そうな顔ね。わかりあえない、つまり裏を返せば孤独、それは人間の根源的な恐怖よ。人間は社会的な動物だから、合意形成に安心を覚え、他者の心がその合意からはずれることに不快感を覚えてしまうの。本能的な恐怖だから、せいぜい一万年程度の人間の理性じゃ勝てなくて当然よ」
なんて不合理な存在なんだろう。
ルリは人間の不完全性に、絶望さえ抱いた。
「ルリちゃん。しっかりしなさい。あなた死にそうな顔になってるわよ」
「わからないのが嫌なんです」
「それでいいのよ」イネスは優しく語りかける。「わからないからわかりたいと想う。わかりあいたいというその想いが魂を駆動させるの」
「面白い論理ですね」
「人が人の可能性を信じきれなくなったら、おしまいなのよ」
「希望ですか」
それが人生経験というものだろうかとルリは思った。
人が発明してきたファンタジィはときには現実を破壊する力さえあるのかもしれない。
心の奥底にぽっと紅い炎が燈り、躰の芯から熱くなってくる。
それはまぎれもないルリの真実だった。
「それにしても、わからないのが恐怖というのは、今回の件でもそうね」
イネスはふと思い出したように口を開いた。
「犯人が誰かってことですか」
「それもそうだけれども、一番わからないのは犯人の動機よ。普通の殺人事件とかだったら、それが物盗りによるものか、怨恨によるものかってすぐにわかったりするでしょう? 事件の現場には強い想いが刻まれて残るのが当然であって、普通はそれを覆滅させることはできないと思うの。けれど、今回はまったく見えないわね。よっぽど特異な動機なのかもしれない」
「確かに、わかりませんね」
そうはいったものの、ルリの中で犯人の動機はそれほど重要ではない。
重要なのは二つ。
テンカワ・アキトのこと。
オモイカネのこと。
しかし、テンカワ・アキトのことについては、オモイカネを過去に助けてもらったことと自身によくしてくれたことへの報恩の気持ちだとルリは思っていた。というか、実のところ自分の気持ちがよくわからないのだ。
ただ、オモイカネのデータを勝手に弄られたことに対しては、明確な憤りの気持ちがある。
「私、犯人を必ず見つけ出します」
「ミスター・ゴートがなんとかしてくれるんじゃないかしら」
ルリは首を振って、イネスの言葉を否定した。
「私が、したいんです」
「本当に珍しい。ルリちゃんが積極的に何かをしようとするなんて、明日雨でも降るんじゃないかしら」
「ナデシコ内で雨は降りませんよ」
ルリはイネスに感謝の言葉を述べたあと、医療室を後にした。
――6――
ナデシコの第五デッキには食堂がある。
ホウメイは厨房で忙しくしていた。彼女はナデシコのコック長として、地球のほとんどすべての料理を作れるという異能を持つ。調味料に対する膨大な知識とこだわりが、それを可能にしている。
周りでは通称ホウメイ・ガールズと呼ばれる五人の若い娘たちが明るい歌を口ずさみながら、料理を作っていた。
ルリは厨房には入らず、その入り口のところで声をかけた。邪魔にならないように配慮したのだ。
「すいません。ホウメイさん」
「おや、ルリ坊。こんなところにどうしたんだい」
ホウメイが振り返る。調理しながらなので、一瞬顔を向けただけですぐに手に持っている中華なべに視線を戻した。
ルリはホウメイの背中に話しかける。
「テンカワさんがここにいるんじゃないかと思って来たんです」
「ああ、テンカワならここにはいないよ。艦長がしばらく女の子の修行というのをやりたいらしいのさ」
「それって、テンカワさんは同意しているんですか」
「さあね。私としてはどうともいえないね」
ホウメイはアキト嬢の少女化についても、ナデシコの治安についても、何の懸念も抱いていないようだった。
まるで、不動の要塞のような人だとルリは思った。この人は揺らぎがない。強い人なのだろう。
「今回の件に対しては、ホウメイさんは何か思ったことがありますか」
「なんのことだい?」
「アキトさんが変わってしまったことについてです」
「そうだねぇ……」
そういいながら、ホウメイは中華なべに何かの調味料をぱっぱとふりかけた。ルリにはそれが紅い小さな粒に見えた。唐辛子だと思うが、正確なところは聞いてみないとわからない。そこでひと段落ついたのか、ホウメイが答えを返した。
「地球は狭いようで広い、と思ったよ。だってそうだろ。まさか大の男がいきなりルリ坊と同じぐらいの年頃になるなんてね。私もけっこう長く生きてきたつもりだが、そんなこともあるんだなと思ったよ」
「なんだかホウメイさんって、地球は広いって言葉で全部納得しそうな気がします」
「あっはっは、そうかもしれないね」
ホウメイが中華なべをかきまわしながら、再び振り向いた。
「そうそう、テンカワなら、今は食堂にいると思うよ。そっちは覗いてみたかい」
「いえ、そういえばまだでした。先にそちらを確認するべきでしたね」
「いいから、早く行っといで、気になるんだろう」
「失礼します」
厨房のすぐ隣が食堂だ。ナデシコクルーの二百十四名全員が食堂で同時に食べるわけではないのだが、一応それも可能なように設計されている。その広さはテニスコートを六面ほど敷き詰めた大きさで、ちょっと広めのレストランといった風情である。雰囲気は一流とはいいがたいが、わざと庶民的にすることで安心感を与えているのかもしれなかった。
今は朝の十一時。
昼食には少し早く、クルーの姿はまばらだ。
ルリはすぐにアキト嬢とユリカ、それにメグミの姿を確認することができた。彼女達も本格的な昼食を食べているわけではなく、コーヒーブレイク中のようだった。
「あっ、ルリちゃん」
一番にルリに気づいたのはユリカだった。
ルリはユリカに医療室に運ばれたことが心の中にあったので、すぐに姿勢を正し、ユリカの数歩前で立ち止まって頭を下げた。
「さきほどはありがとうございました。艦長」
「いいの。いいの。それよりもあまり無理したらダメだよ」
「ルリちゃんがどうかしたんですか?」
メグミが声をかけた。
「うん。ちょっと気疲れがでちゃったのかな。倒れちゃったの」
「え」とメグミが驚きの声を出す。
アキト嬢も心配そうにルリを見つめる。
「たいしたことないです。私、少女ですから」
魔法の言葉だとルリは密かに思った。
なにしろ、少女という言葉で何かよくわからないが納得させる響きがあるのだ。
「それにしてもどうしたんですか、テンカワさん。様子が変ですけど」
ルリは近くの椅子に座りながらアキト嬢を視界に入れた。
アキト嬢はこの世の終わりを見たかのような、絶望を通り越した顔つきになっている。
それは言葉ではなんとも形容しがたく、アキト嬢の幼い顔にはまったく似つかわしくないものであった。
あえて言葉で表すならば、
――諦念
がそれに近いだろうか。
アキト嬢は陸に上がった魚のような虚ろな視線をルリに送ると、小さな唇を開いて微妙に涙の混じる声を出した。
「君の知ってるテンカワ・アキトは死んだ」
「……はっ?」
いきなりの意味がわからない言動に、ルリの思考は一瞬フリーズした。
「死んだってなんですか。どこかのアニメみたいにカッコつけてるんですか」
「違うんだよ、ルリちゃん。ユリカとメグミちゃんに身体中いじくりまわされてしまってね……」アキト嬢の言葉は死にかけの蛍のように力が無い。「特にね、味覚がダメなんだよ。コーヒーにミルクを入れないと、まったく飲めないんだ。砂糖なんかスプーンで十杯なんだよ。しかも猫舌でね。温度が高まるとカップに口をつけることもできずにぼーっと待つしかないのさ。漫画だろ」
「まるっきり漫画ですね……」
笑えない捨て身のギャグともいえた。
おそらくは少女化したために味覚に変化があっただけで、それは異常でもなんでもなくむしろ正常に機能している証だろう。ルリもさすがに砂糖十杯とはいかないまでも、ブラックで飲むことはできないのだ。少女だからしかたがない。
「ルリちゃんも何か飲む?」
ユリカはいつでも楽しそうだった。ルリは静かに首を振った。
「それよりもテンカワさんに聞きたいことがあるんです」
「オレに?」
「ほぉら、アキトさん。『オレ』はダメだって言ったでしょ」
メグミ・レイナードがアキト嬢の小さな手の甲をペシっと叩いた。
「あう……」
涙目になった。
ちょっとかわいい、とルリは思った。
「メグミちゃん、いまさら変えられないよ」
「でもよく思い出してみれば」ユリカは水気の多そうな張りのある頬に手を当てる。「アキトって、最初の頃は自分のこと『僕』っていってなかったっけ。うーん。ごく最近までだったような気もする」
「それとこれとは話が別だよ。だいたい、男のオレが」
ペシ。
「痛いって、メグミちゃん。と・も・か・く! 男が『私』なんていえるわけないだろ」
「それって男女差別です。『私』って呼称なら、プロスペクターさんもいってますよ?」
メグミは人差し指を立てて、可愛らしくウインクをした。
論理的に考えれば、メグミが『私』を強要するほうが思いっきり男女差別なのだが、彼女自身は気づいているのか気づいていないのか、無邪気な笑いですべては誤魔化されてしまった。
「違和感があるんだよ。すごい違和感が」
「艦長だって、アキトさんが『私』って言ったほうが可愛くていいですよね」
「うーん。私はどっちでもいいかな。アキトはアキトなんだし。ゆっくりと慣れていけばいいかなと思う」
「寛容になっちゃってますね」
「メグミさんもブリッジではショックを受けていたみたいですけれど、今は立ち直ってますね」
ルリが話をあわせた。一応これは迂遠ながらも犯人捜しに役立つ情報を採取しているともいえる。
「うん。最初はなんだかショックだったけれどね。今のアキトさんってかわいいから、恋愛感情とか抜きにして好きかなーって気づいたの」
人間の感情は複雑だとルリは思った。
元々、メグミはテンカワ・アキトのことが好きであるのはまちがいない。結果的に別れたとはいえ、その感情そのものを完全に消し去ることはできないのだろう。そうであるならば、今、メグミがアキト嬢に親愛の情を寄せるのは一種の転移現象だとも思えるのだが、ルリには判別できなかった。
「ルリちゃん。オレに何か聞きにきたんだろ。事件のことかな?」
アキト嬢が手の甲を胸のあたりに引き寄せて防御の構えを取りながら聞いてきた。
「私達は聞いていてもいいの?」とメグミ。ルリは頷く。
「事件のことを聞きたいんです」
「あれー、ルリちゃん。もしかして犯人捜しをしているの」ユリカが大げさに驚く。「それで、犯人はわかった?」
「いえ。でもテンカワさんに話を聞けば、少しは真相に近づけるかもしれません」
「ルリちゃんが探偵役か」アキト嬢は力なく微笑む。「なんでも聞いていいよ」
「テンカワさんが、襲われたときの状況を知りたいんです」
「うん。わかった」
アキト嬢は腕を組んで、そのときの情景を頭に思い描き始めた。そしてぽつりぽつりと話しはじめる。
「オレはあのとき、自室でゲキガンガーを見てたんだ。久しぶりに暇だったしね。で、オレさ。ゲキガンガーに集中したかったから、部屋の中は真っ暗にして、鍵もかけてたんだ」
「そのとき、座って見てたんですか」
「うん、そうだよ。あぐらをかいて見てた」
そして、テンカワ・アキトの自室にあった機器は壁に映写するタイプのだったとルリは記憶している。
「ドアに対して背を向けた状態だったんですね」
「ああ、そうだね」
「ボリュームはどの程度だったんですか。周りの話が聞こえなくなるほどの爆音だったとか?」
「いや、普通だよ。ルリちゃんがいま喋ってる音量でも十分聞こえるぐらいさ」
「じゃあ、誰かが入ってくれば気づいた?」
「うん。そうだね。誰かが入ってくれば気づいたと思うんだけど」
アキト嬢はそこで話を切った。どうもそこらへんの記憶が曖昧なようだ。
「どうしたんです?」
「うん。すごい一瞬のことだったんで、よくわからないんだ。そのとき部屋が真っ暗だったからドアが開いたらそこから光が漏れるからすぐに誰かが入ってきたことはわかるだろ? それで、ドアが開いたなってことまでは覚えてるんだけど、次の瞬間にはオレは後ろから襲われていたんだ」
「一瞬で距離を詰められたってことですか」
「そうだろうね。そうとしかいいようがないよ」
「どういう感じでした? 犯人の特徴とかわかりませんでしたか」
「すごい力だったね。ああ、それと手足が長いんじゃないかな。絡み取られる感じがしたからね。絡み取られたまま注射機を無理やり心臓にグシュっと刺されてね、痛かったよ」
「男だったってことですか」
「うーん。わからないよ。そのあとは猛烈に躰が熱くなってね。頭がぼーっとしてしまって最後には気絶してしまって記憶にないんだ。ごめんね、ルリちゃん。あまり覚えてなくて」
「裸だったのは何故ですか」
「それもわからないんだ。たぶんそいつに脱がせられたんだと思うけど」
「そうですか」
ルリは小さく息をついた。
アキト嬢の言葉だけではやはりわからないことが多い。結局、後ろから襲われたことと部屋が暗かったせいで、ほとんど感覚的なことしかわからないようだ。
「ルリちゃん。なにかわかったかな?」
ユリカはいつのまにか、ミルクコーヒーを買ってきており、ルリの座っている椅子の前に置いた。
「あ、ありがとうございます。それと、犯人捜しについてはいまだ進展なしです」
「まぁ、気楽にやればいいと思うよ。ナデシコの治安強化のほうはゴートさんがやってくれるみたいだし。大丈夫、大丈夫」
仮にも艦長がそんなんでいいのだろうか。
そんなことを思わないでもなかったが、結局、ルリは黙っていた。
そうすることが彼女なりの艦長に対する礼儀だった。
しばらく話は中断することにし、ルリは与えられたミルクコーヒーを一口すすった。
とても、甘い。
なぜかユリカの横顔を見てしまう。前頭葉に生じた甘いという言葉がユリカを連想させたからかもしれなかった。
「ごちそうさま」ルリはすぐに思考を切り替えた。「ところで、艦長。テンカワさんを少しの間借りてもいいですか」
「アキトを? アキトは私の物じゃないから、アキトに聞いてみればいいと思うよ」
「あれーっ、艦長、なんか変なものでも食べたんじゃないですか」
首を傾げるメグミ。
不思議でたまらないといった感じだ。
「え、なんで? メグちゃん」
「だって、艦長ってアキトさんのことを所有物みたいに扱ってましたから。玩具って言うか」
「なんだか、すんごぉく誤解してないかな。メグちゃん」
「あは、冗談ですよ」
この二人は今でも精神的なライバルなのかもしれない。
一方、アキト嬢はルリの言葉に少々驚いたようだったが、もちろん最初から否定するつもりはなかった。アキト嬢にとってルリの位置づけは今でも妹のような守ってあげなければならない存在なのだ。それはテンカワ・アキトが火星で『アイちゃん』を救えなかったというトラウマによるところが大きいだろう。その意味ではルリは『アイちゃん』の代わりといえなくもないが、もちろんそれだけはない。ナデシコでの長い生活の中で、ルリに対する情感は深まっている。愛や恋ではなく、やはり守ってあげたいの域を越えてはいないが。
「ルリちゃん。どこに行けばいいのかな」
「とりあえずは、ゴートさんに会いにいきます」
「え、なんで?」
「プロじゃないと正確なところがわかりませんから」
――7――
「ホシノ・ルリ。その、なんだ、やはり、やらなければいけないのか」
ゴートの顔は赤い。熟れたリンゴを通り越して、だるまのような赤そのものになってしまっている。
「やっちゃってください」
ルリはにべもなく言った。
「あ、うん。しかしだな」
「犯人捜しのためには正確な情報がいるんです。それともゴートさんは少女趣味だからテンカワさんに欲情しちゃうんですか」
「違う! そんなことは断じてない」
「なら、いいじゃないですか。さっさとやっちゃってください」
「うむ……」
ゴートの額には汗がにじんでいた。
彼が今なかば強制的にやらされようとしていることは、アキト嬢の検分である。ひらたくいえば傷あらためというやつで、襲われたときの怪我の状態をプロに判断してもらおうというわけだ。ゴートは保安を担当しているが、それは逆にいえば暗殺などのきな臭い手口にも精通しているということであり、傷からどのようなヤられ方をしたのかわかるはずである。
ただし、その場所は心臓の位置。
ぶっちゃけたいい方をすれば、注射針の痕を見るためにはアキト嬢の未成熟な胸をあらわにしなければならなかった。
アキト嬢は自分からルリについていった手前、やはり断りにくいらしく言葉で否定するような真似はしなかったが、さすがに顔を紅葉させてもじもじしている。
「恥ずかしいと思うから恥ずかしいんです」
ルリの言葉には微塵の隙もない。
「だが、しかし」ゴートの巨体がルリの言葉攻めにたじろぎ、一歩後退する。「あ、今思い出したのだが、私はこれから巡回の見直しをしなければならないんだった」
戦略的撤退だと自分にいい聞かせるゴート。
「ものの、五分で終わりますから」
ルリがゴートの服の袖をつかむ。
普段見せないルリの必死の形相にアキト嬢も思うところがあったらしく、軽く嘆息すると着ているワンピースのリボンをするりとほどいた。ちなみに今日着ている服はユリカが昨日のうちにどこからか持ってきた白いワンピースで、青いリボンがボタン代わりになっているシンプルなものだった。
「ゴートさん。オレも覚悟決めますから、よろしくお願いしまス」
最後のほうでアキト嬢の声が裏返った。今やアキト嬢はワンピースの上半分だけを脱いだ半裸状態で、タンポポの茎のような細い躰つきが嫌でも見えすぎる状態だ。
ゴートは血が沸騰しているのではないかと思われるほど、全身が紅色に染まりながらもようやく頷くことができた。
「わかった。やろう」
もう、ここまでくれば同じことだと思ったのかもしれない。
ゴートは遠慮なくアキト嬢の前にかがみこむと、ちょうど胸の正面で視線をとめた。
アキト嬢の胸は申し訳程度に膨らんでおり、いまだ発展途上だった。白くきめ細かい肌は陶磁器のように滑らかだ。
ゴートが見てみると、傷の痕はほとんどなかった。胸の膨らみの上がわずかに赤く炎症しているが、すぐに治ってしまうだろう。しかし、これで刺された場所は特定できる。
ゴートは傷口をじっと見つめて、それからわずかに声をこぼした。
「これは――」
「どうしたんです」とルリが聞く。
「まちがいなくプロの手口だな。少なくとも戦闘訓練は必ず受けている者の仕業だ」
「どうしてそんなことがわかるんです」
「そもそも、心臓は肋骨で守られている。肋骨の構造は胸骨を中心に放射線を描くように配置されているといえる。したがって、心臓に近いほど、肋間は狭くなる。一センチといったところだろう。プロでなければ、肋骨に当たる可能性が高い。加えて、心筋はかなりの強度を誇る。素人では、突き刺すことはできないだろう」
「なるほど」
いわれてみれば、確かにと思い当たることもあった。
心臓の筋肉は全身に血液を送るポンプのような機関だからそれだけ強力な筋肉でできているはずであり、突き刺すという行為がいかに難しいかわかったような気がした。
ルリは重ねて質問をする。
「テンカワさんが刺された場所って、心臓ですけど、犯人は返り血を浴びなかったんですか? 注射針ですけども」
心臓だけにどばっと血が湧き出るイメージがルリにはあった。
「いや、血は出なかったろう。そもそも、心臓をナイフなどで刺された場合、死因は出血多量ではない場合がほとんどだ」
「え、そうなんですか」
「ああ、心臓は絶えず収縮を繰り返さなければならないため、潤滑油のようなもので周りをくるんで摩擦を抑えている。それが、刺されることで消失すると、心臓が停止し死亡に至る」
「オイルが切れて、エンジンが焼きつくというような感じですか」
「そういうことだ。ともかく心臓を刺されたからといって必ずしも血液が大量に出るわけではない。何事にも例外は存在するが、おそらく、わずかしか血は出なかっただろう」
「死ぬ心配は無かったってことですか」
「それはわからない。下手をするとショック死してしまう可能性もあるからな。何事も可能性の問題だ」
「でも、その可能性は低い」
「低いといえるだろう。テンカワ・アキトはまだ若い。それにエステバリスのパイロットでもある。急激なG変化による血圧の上昇などには慣れていると思われる。ショック死の可能性はほとんど無い」
「そうですか」
つまり、犯人はテンカワ・アキトを身体的な危険に晒すつもりは無かったと考えることができそうだ。
ルリは丁寧にお辞儀をした。
そして、アキト嬢とはそこで一端別れることにした。
――8――
午後からルリは仕事に復帰した。
わずかに疲れが溜まってはいるが、別に躰のどこにも悪いところはないからそれほど問題はないと思っていた。
しかし、それはルリの主観的評価に過ぎなかったらしい。
「聞いたわよ。ルリルリ」
操舵席に座っているミナトが眉をひそめていた。珍しくもルリのことをにらんでいる。
どうやら怒っているようだとルリは解釈した。
しかし、どうして怒るのかわからない。
「何をですか」
ルリは聞いた。
「ルリルリが倒れたってことよ」
「自業自得な結果ですから」
「あなたねぇ」ミナトは目を閉じて深く溜息をつく。「そうじゃなくてね。自分の躰のことをもっといたわりなさい」
「はい、ご心配おかけしました」
「あなたって、たまに無茶するから心配なのよ。自分が子どもだってこと忘れてるんじゃないかしら。無茶させてるのは大人なんだろうけどね。自分が無理だと思ったら、ちゃんとそのことを大人に伝えるのよ」
「どうして――」ルリの声が小さくなる。「そんなに優しいんですか」
「あなたのことが心配だから。ルリルリのことが大好きだからよ」
ミナトの声はあくまで優しい。
ルリはうなだれた。
心配をしてもらえることは嬉しいのだが、そのことに慣れていないのだ。
自分の中に生じた感情をもてあましてしまう。
軽い感情の暴走状態に、呼吸をするだけで刺すような胸の痛みを感じる。
埋没していた感情が掘り起こされていっているのだろうか。
ルリにはわからない。自己言及ほど難しいことはない。彼女はかぶりをふってそれ以上の思考を遮断した。
「ミナトさん」
「なにかしら」
「聞いてもいいですか」
「なーに?」
「ミナトさんには私がどんなふうに見えます?」
「どんなふうって、かわいい女の子に見えるわよ。お人形さんみたいだしね」
「そうですか」
「どうしたのぉ? ルリルリなんか変よ」
「私、ミナトさんが思っているより、冷たいですよ」
「そうかしら」
「そうですよ」
「そうかしら」
「そうですよ」
あまりにも機械的なルリの声にミナトは閉口した。
ほんの少しのあいだだけ前方を注視し不意打ちぎみに、
「そうかしら」
と、フェイントをかけてみる。
「そうですよ」
まったく効果が無かった。
ミナトはルリをじっと見つめた。
天才オペレータの横顔は無表情にほど近く、月のように冷たい美しさに満ちている。
ルリもミナトのほうに顔を向けて、湧き水のように高純度の微笑を返した。
そのまま、ルリの微笑は凍りついたかのように動かない。視線を正面へと戻し表情を消していく。
「人形という言葉。機械みたいに無表情な私に対して周りの人がよくいってました」
「あ、あのね。ルリルリ。私はそういう意味で言ったんじゃないのよ」
「わかっていますよ」
わずかな乖離がルリの内部で起こっていた。
ルリの思考は少女的な部分と機械のように怜悧な部分が混在しており、多層人格を形成している。多重ではないので、精神が分裂しているわけではないのだが、一つの情報に対し二重の反応が並列して起こるのだ。
矛盾した条件を包み込むように、
どこまでも曖昧に、
あらゆる情報を溶かしこんでいく。
人の器はこんなにも深い。
ふと思い出したようにルリは真っ白な顔を天井の方へ向けた。
そして、
「テンカワさんが犯人かもしれません」
と、ほとんど独り言のように言った。
話に脈絡もなく、言葉が空の彼方から飛来したかのようで、ミナトは声すら出せずに固まり、ルリを見つめている。
その視線を感じて、ルリはミナトのほうへ再び顔を向けた。
ほんのわずか、微笑み。
宇宙の絶対三度に匹敵する冷たさだ。
「ルリルリ、あなた何をいってるの」
「推理ですよ。ただの推理。仮定の一つです。密室だったあの部屋の謎についてですけれども、テンカワさんが嘘をついていたなら、そして全部ひとりでやったことならどうでしょう。犯行は可能なんじゃありませんか」
「アキト君が自分で女の子になったって言うの?」
「ええ、そうです。そんなことを考えていました。冷たいでしょう」
「……」
ミナトは声を失った。
「でもさっきまで思ってただけです。よく考えたら、この推理には穴がありますからね」
「そう。本気でそんなこと考えてると思ったわ」
「本気ですよ、全部。ただ、この推理にはまちがいがあるからすぐに棄てました」
「どんな?」
「一つは、テンカワさんの反応です。どう見ても、演技じゃなかったみたいですしね。もちろん外形からそう見えただけで本当のところはわかりませんけれど、テンカワさんはわりと直情タイプなので、演技をこなすのは不可能に近いと思います」
「もう一つはなんなの」
「薬の知識です。テンカワさんがDNAの改変について専門的な知識を有しているとは思えませんからね。もちろんこれも裏でこっそりと勉強したってことも考えられますけれど。推理とは蓋然性の高い事柄を組み合わせることで、もっとも無理のない因果経過を推知することです。テンカワさんが犯人と考えるのは今は材料が足りませんね」
「ふーん。じゃあ、アキト君は犯人じゃないのね」
「そうですね。少なくともテンカワさん一人では無理と考えたほうが現実的です」
「誰か、共犯がいるって考えているの?」
「それはまだ考えていません。仮定の無用な増加は『オッカムの剃刀』に従って、慎むべきですから」
「オッカム?」
「仮定を増やしすぎたらいけないよ、とオッカムさんが言ったんです」
「オッカムさんってほんとにいた人なのね」
「ええ、そうです」ルリはこくんと頷いた。「ともかく今はもっと単純なモデルから取り組んでいます。わりと簡単な作業ですよ。科学の実験とさほど変わりません。仮定を設定し、反証でつぶしていくんです。できるだけ帰納法的思考は控えて、演繹的に答えを導いていきます」
「そ、そう。大変ね」
ミナトの背中を冷たい汗が滑り落ちた。その視線は空中をゆらゆらと彷徨っている。
これ以上は話をしないほうが無難と考えて、ルリは黙りこんだ。
プログラムの精査にしばらく勤しむ。それほど複雑な作業ではないので、頭の中では別のことを考えている。先ほどはアキトが虚言を弄していると言ったルリだが、実はもう一つの可能性を考えていた。
それは、ユリカが犯人ではないかという見解だ。
「どうかな、オモイカネ」
イメージ・フィードバック・システムでオモイカネに聞いてみた。口は開いていないから、ミナトには聞こえないはずだ。
実はルリが今おこなっていることは若干の矛盾を含んだ行為だった。
果たして、オモイカネを信じていいのか。
もしかするとオモイカネはなんらかのウイルスに犯されているかもしれないが、友達のことは疑いたくなかった。だからこそ、ルリはオモイカネに聞く必要もないのに質問を投げかけた。不合理なコマンドだと思うが、それでもやらずにはいられなかったのだ。
オモイカネはしばらく答えを返さなかった。もしかすると今朝に無理やりマスターコードを調べたことが原因だろうか。ルリは小首をかしげる。と、そこでインターフェイスに文字が出現した。
「艦長が犯人ですか。なぜです」
「艦長は唯一あの部屋を開けれるから。マスターキーを持っているのは艦長だけ。私もオモイカネに頼めば開けれるだろうけど、私は私が犯人ではないことを知っている。だから」
「なるほど、確かにそうですね。けれど、艦長には動機がないように思われます」
「それは、確かに。艦長はテンカワさんのことが好きみたいだし、恋愛を成就させたいなら、男女関係がもっともノーマルだと思う」
「ハイブリダイズですね」
「ハイブリダイズ? ああ、二重鎖形成。相補的結合か。確かにそうともいえるかもしれない」
観念的に考えれば、男女関係も不思議と生々しくなかった。
「それに――」オモイカネはためらいがちに語る。「私が狂っているのならば、誰でもあの部屋には入れる可能性があります」
「哀しいことをいわないで」
「すいません」
「大丈夫。オモイカネはオモイカネのままだよ。私が証明するから」
わずかなデータの乱れが見える。哀しみと嬉しさが同時に膨らんでいるようだった。
そして、かすかな変化。
オモイカネの思考プログラムに一瞬で閃きのような何かが生じ、ルリの思考に反射する。
「もしかすると、シナリオを書いた人と、実行している人は違うのかもしれませんね」
オモイカネの思考がはっきりと聞こえたような気がした。
恐ろしいほど明瞭な意志の力だ。
ルリは思わずコンソールから手を離した。すぐに手を触れなおす。冷静にオモイカネの仮定を考えてみると、それは確かに考えられることだ。しかし――。
「どうして、そう思ったの。根拠があるんでしょ」
オモイカネは確実なことだけを述べる性格であることをルリは知っていた。
「犯罪学のデータファイルへアクセスするとわかるのですが、今回の『犯人像』にはぶれがあるように思います。つまり、犯人像が複数重なっているのではないかと。可能性として高いのは複数犯です」
「プロファイリングか。しかし、プロファイリングは有効なツールではあるけれど、やはり帰納的な方法論だから。まずは単純なモデルを潰すことから考えたほうがいいと思う。ただ、オモイカネの言うように、プロファイリングも少しは利用してみよう。わりと、いい方法かもしれない」
ルリはほのかに笑った。
――9――
ルリは再び、イネスの医療室を訪れていた。
「あら、ルリちゃん。また気分が悪くなったのかしら。今なら元気の出るいい薬があるわよぉ」
不気味な笑いを浮かべるイネスに、ルリは幾分たじたじとなりながらも、なんとかいつものクールさを装うことができた。
「そんなことよりも、イネスさんに聞きたいことがあるんですけれど」
「また事件のこと?」
「ええ、そうです」
「何が聞きたいの」
「テンカワさんのDNAを変えた薬についてです。何かわかりましたか」
「ええ、まあだいたいはわかってきたわね。これはすごい発明だと思ったわ。発想の転換というか、コペルニクス的転回というか。あと一つ、えっとなんだったかしら」
「コロンブスの卵」
「そう、それよ!」
ルリの言葉に、イネスは手を打った。
「どういうことなんです?」
「あの薬、実はどこにでもある薬を調合したもので、作り方も非常に簡単よ。少し、分量比が難しいけれど、たぶんやり方さえ教えれば、誰にでも作れるわね。まず、PCRによって、目的とするDNA領域を増幅しておいて――」
「あ、それは省略で」
「……ほんとにいいの? 説明しなくて、いいのね?」
もはや半強制の響きがあった。しかし、ルリは透徹した瞳で、イネスの懇願を完全にシャットアウト。
視線が痛いがここで時間を浪費するわけにはいかなかった。オペレータの仕事の合間に来ているので時間がないのだ。
重要なのは薬の作り方ではなく、その性質にある。
「ナデシコ内にある薬品を混ぜるだけで薬はできるんですね」
「ええ、そうよ。もっとも、オモイカネが管理しているから、何かが減ったらすぐにわかるんじゃないかしら。私がアクセスした限りじゃ、特に何かが減ったとはなっていないけれど。……でも、本当のところはわからないわね。オモイカネの様子はこのところおかしいし、もしかすると、妄言なのかもしれない」
「オモイカネは嘘をつくようなコではありません」
「けれど、オモイカネも機械よ。クラッキングされれば嘘のデータを真実のデータと思い違いすることも十分考えられる」
「オモイカネがそんなにバカだって言うんですか」
口調はあくまで静かだが、押さえつけられた怒りの色が瞳の中ににじんでいた。
「冷静になりなさい。ホシノ・ルリ。今だって、オモイカネのログがどうして消えたかわからないんでしょう」
「確かに、そうです」
力なく答えるルリ。
現実を突きつけられると返す言葉がなかった。
「あなたって、本当にオモイカネのことが好きなのね……」
「お友達ですから」
「正直なところ、私も困惑しているわ。オモイカネに関して、ルリちゃんを凌ぐことができる者がこのナデシコ内にいるのかと問われれば疑問だし、恐ろしい事実よ。単なるオモイカネの不調だと思いたいぐらい」
「でも、その可能性はほとんどないです。誰かが――」
「そうね。誰かの意志が介入しているのは確か。でも、そうすると、犯人はほとんど超人よね」
「そうですね」
恐ろしく幅広い知識と、身体能力を兼ね備えているように思える。
しかし、そうだとするならば、なぜわざわざテンカワ・アキトを自室で襲ったのか。つまり、密室という状況をわざわざ作りだしたのかが謎だ。もっとも完全な密室ではないのかもしれないが。
「イネスさんはどうして、密室状況で犯人が犯行に及んだと思いますか?」
「そうね。通常、密室というのは、誰にも不可能だからということで、自分を疑いから逸らすことが目的だと思うのだけれども、正直なところ無駄が多い方法論よね。本当は行きずりのような方法が一番、犯人の意図が見えないから、疑われないはずだもの。今回は蛇足ともいえるわ。逆に手がかりを与えてしまっている。犯人が誰かはわからなくても、そこに人為的な操作が加わったことは丸わかりだもの」
「確かにそうですね。犯人はバカなんでしょうか」
「だとすれば、さきほど考えた知能の高さと矛盾する。犯人像が見えないわね」
「プロファイリングについては、オモイカネも指摘していました。複数犯じゃないかっていってましたよ」
「その可能性もあるわね。もしも複数犯だとすれば犯罪の原案というか『プロット』を書いたものと、実際に犯罪を描いてみせた実行犯とに分けるのがもっとも合理的だと思う。でも私が考えているのはまた別の話」
「イネスさんはあの密室について、別の可能性を考えているのですか」
「ええ。もしかしたら、あの密室状況って偶然の産物なんじゃないかって考えているの。つまりあとから犯人がどうにかして取り繕ったか、あるいは、まさか密室になるとは思わなかったのだけれども、過失によって密室状態にたまたまなってしまった、とかね」
ルリは推理してみたが、どうもその状況を思い描くことができない。鍵をかける必要性がまったくないように思える。ナデシコの個人部屋の鍵はカードリーダーの読み取り式なのだが、犯行後にカードかあるいはオモイカネの操作で鍵をかけるということに意味があるのだろうか。
一つだけありがちな理由をあげるとすれば――。
「犯行の発覚を恐れてというのは考えられませんか」
「やはり、不自然よ。犯行の発覚を恐れるならば、アキト君が自室にいるときじゃなくて、もっとマイナな人通りの少ない部屋にいるときを狙えばいいはず。オモイカネを操作できるなら、アキト君の位置も正確に把握できたでしょうしね」
「切迫した状況だったのかもしれません」
「まぁ、そうかもしれないわね。ただ、少し仮定が増えすぎているわ。考え直したほうがいいわね。あるいは新たな情報を収集するかしないと」
「そうですね。ちょっと無理があると思います」
「わからないことが多いわね」
「テンカワさんが裸だったことについてはどう思いますか」
「普通に考えれば――」
イネスは言葉を濁す。ルリにいってよいものかわずかに迷っているようだ。しかし、イネスの信条は基本的に情報をありのままに伝えるというものであり、結局は言うことに決めた。
「性的暴行が目的だったと考えるのが一般的かしらね」
「あったんですか、それ」ルリは眉をひそめながら言った。さすがに少女として嫌悪感を抑えきれない。
「いいえ。外傷はなかったわ。ついでにいえば、アキト君が気絶しているときに服が脱がされたため、心理的外傷も無いと考えていいわね。つまり精神的な意味でも未遂ってこと。でも、暴行しようとしたのかもしれないって話よ。基本的に強姦犯は異常なファンタジィを心の中に抱いているパターンが多いとされているわ。例えば、FBIという旧時代の犯罪捜査組織では四つの類型パターンに分けて説明している見解があったわね。第一が力再確認型。女性に対して暴力をふるうことで自分の男らしさを再確認しようとするタイプ。第二が、力主張型。このタイプは女性に対する自身の優越というファンタジィがあるわ。第三は怒り報復型。要するに女性が憎いから女性を罰する目的で犯行に及ぶタイプね。第四は、怒り興奮型。身体的または心理的苦痛を与えられた被害者の反応に性的興奮を覚えるタイプね。場合によっては一番危険なタイプかもしれない」
「もしも強姦目的だとすれば、未遂に終わったのはなぜですか」
「例えば、報復型だとすれば、アキト君を全裸にすることで満足したのかもしれない。あるいは犯人が性的に未熟だったとか、そんな理由も考えられるわね。昔、ジャック・ザ・リッパーっていたでしょ。ジャックは売春婦ばかりを殺していたけれど、性的に未熟だったから、強姦行為はしなかったのかもしれないと通説的見解ではいわれているわ。まぁ、犯人ごとに背負っているものが違うから、一概にはそれが正しいとはいえないけれど」
「テンカワさんは殺されていませんし、傷も負ってないとなると、犯人はテンカワさんの肌を見ただけで、満足したと考えたほうが可能性として高いということですか」
「どうかしら。今回のように異常といってもいい犯罪の場合、犯罪者は犯罪者の内的なルールがあることが多いの。その人だけの自己ルールとでもいえばいいのかしら。そうであるならば、一般人には思いもよらない動機があってもおかしくはないわね」
「異常な理由ってことですか」
「あるいは宗教的な、といってもいいかしらね。どちらにしても幻想に囚われているといえる。ファンタジィなのよ」
「そのファンタジィ、私にも理解できるんでしょうか」
「さあ、それはどうかしら。何かが分かる、あるいは何かを理解するってことは、物事を還元し単純化し分類することができるってこと。けれど、犯罪者のファンタジィは理性の展開ではなくて感覚に突き動かされている場合が多く、その行動原理はすでに言葉を越えているともいえるわ。確かに犯人の行動自体の理解はできるでしょう。犯人だってバカじゃない。知能的なタイプになれば、自分の欲望とその抑圧を心得ている。いつも爆発しているわけじゃなくてタイミングをうかがっている。その行動自体は理解が可能よ。でも、犯人のファンタジィについては、認識はできても理解はできないのが普通人ってとこかしらね。太陽が暑かったから殺したとか、ワケわかんないでしょう? でも、犯人にとってはそれが真実なのよ」
「真実は心の中に、ですか」
イネスは音も無く頷いた。
「ともかく残された手がかりから犯人の輪郭が浮かび上がってくる可能性もあるわ。プロファイリングによる統計学的な予測で、少しは犯人像が絞れるかもしれない。あなたが本当に犯人を見つけたいなら、原点に帰ってみるべきね」
原点とは、と思うまでもなくルリはイネスの言葉を理解した。イネスの言葉は数学的に解答を導くことが簡単だ。犯行現場、要するにテンカワ・アキトの自室を見に行くべきと示唆されたに違いなかった。
――10――
テンカワ・アキトの部屋は現在封鎖中である。
地球標準時で言うところの午後五時。仕事納めの時間帯になってルリはようやくオペレータとしての仕事を切りあげて、テンカワ・アキトの自室に行こうとした。
何を調べようか、何をするべきか、いろいろな想いが胸を駆けめぐりなかなか意思決定が定まらない。ただ、一つ決めていることは誰かといっしょに調べるべきだということだ。なにしろ、ルリはオモイカネを使うことで密室を無効化できるため物理的に犯行が可能な数少ない一人だからだ。もっとも、ルリの小柄な躰ではテンカワ・アキトを後ろから羽交い絞めにできる力はないし、またテンカワ・アキトを少女にしてしまう動機もないが、疑いの心が他のクルーのどこかに生じている可能性も否定できない。
例えば――。
ルリ自身は自分が犯人ではないことを知っているが、他人の目から見れば、ルリと誰かが共犯として行動すれば犯行が可能であるということを考える者もいるだろう。だから疑いが完全に消えたわけではない。黒か白かははっきりしないが、ファジー理論のように曖昧なまま、灰色の疑惑をもたれているだろうとルリは予測した。
ナデシコのクルーは基本的にはあまり人を疑うことを知らない『バカばっか』ではあるのだが、李下に冠を正さずと言うように、疑われないようになんらかの手段を講じるというのが合理的というものであろう。
そしてその一番てっとりばやい方法が、誰かについていってもらうということだった。
「誰にしましょうかね」
いろいろな人物の顔が思い浮かぶ。けれど誰を連れていくべきか決まらなかった。
もしも、ということを考えると二の足を踏んでしまう。
仮に連れて行った人物が犯人だった場合、証拠隠滅を図られる恐れがある。
ルリはこの時点ではすでに確信を抱いていた。犯人はナデシコクルー内にまちがいなくいる。少なくともオモイカネのことを最も知っているルリとしては、オモイカネのログを自由にできる未知の存在を思い描くことはできなかった。もちろんナデシコクルー内で、ルリ以外にそんな人物がいるとも思えなかったのであるが、まだオモイカネのことをわずかばかりでも知っているということと、ナデシコに居住しているということから、可能性が残されている。
そう考えると、外部犯よりは内部犯である可能性が圧倒的に高いだろう。しかし、誰と行くべきか。
「ふぅ……、思考に偏差が生じているかもしれない。白黒つける前にしばらく保留しよう」
黒か白かはっきりする、という概念はそもそも誤りに満ちている。
黒い物質でも光の数パーセントは反射するし、真っ白い物質でも反射率が八十パーセントを越えることはまず無いといっていい。つまり、黒か白かというのは単に光の反射率に対する相対的な差であって、絶対的なものではないのである。
ルリが視線を上げると、通路の向こう側から全速力で駆けてくる者があった。
「テンカワさん?」
今は、なぜかは謎だが魔女っ娘プリンセス・ナチュラルライチという人気アニメののひらひらな変身服を着ていた。いや、おそらくは着せられていた。
完全にコスプレである。さすがに美少女だけあって、魔法少女のコスプレもよく似合っているように思える。髪の色がピンクなのも魔法少女チックでマッチしている。
しかし、本人はそれどころではないらしい。
ルリの姿が目に入り、アキト嬢の足が止まった。
さすがに自分の今の格好が恥ずかしいのか、あっというまに顔が桜色に染まってしまった。妹的な存在であるルリに魔法少女な自分の姿を見られてしまったことに、えもいわれぬ恥ずかしさを感じているようだ。
プシュウという音が聞こえてきそうなほどに赤い。
「あの、これは、その……、違うんだよ。ルリちゃん……。違うんだ」
見なかったことにしてあげるのも優しさだとルリは思った。
「この五時間あまり、アキトさんに何が起こったのか私は知りません」
「君は知らないほうがいい……」
思いっきり涙目だった。ルリはそこはかとない庇護欲が湧いてくるのを感じたが、そういった人間的感情に理性が負けてしまうのを恐れてもいるため、すぐに冷静さを取り戻すよう努めた。
「私も知りたくありません。でも、どうして……、逃げてるんです?」
「次は何を着せられるかわからないからね。ユリカが怖いんだよ。あいつは絶対笑いながら人を殺せるタイプだ」
「いや、それは、さすがに。下手したら侮辱罪ですよ」ルリはコミュニケよりオモイカネにアクセスする。「オモイカネ、今の会話は削除しておいてください」
「ああ、悪いね。ルリちゃん。オレはもう、だめみたいだ」
魔法少女な服を着ても、心の弱さは守れないアキト嬢。
いや、むしろ心の弱さが三十パーセントほど増加している。
テンカワ・アキトは変わってしまった。
本質は変わっていないのかもしれないが、彼は変わってしまった。ルリはそう感じた。
そして、ふと想念の中に得体の知れない感情が渦をなした。マグマのように煮えたぎっているそれは、アキト嬢のあまりにも劇的な変化に対する一種の憤りであり、きわめて女性的な感情である。
テンカワ・アキトの精神内での位置づけは、言葉ではいい表しがたい部分もあるのだが、ごく最近の感想としては守ってもらえる人という認識があった。その幻想がことごとく消えたことに対する非論理的な怒りだ。
一言でいえば、
――幻滅
に近いだろうか。そしてルリは完全に現実を認識した。
大人の男性であるテンカワ・アキトは消滅したのだ、と。
今は逆に守ってあげないといけないと思えるほどに、テンカワ・アキトは弱々しい少女になってしまっている。
「ルリちゃん。気分が悪いの? そういや倒れたんだったね」
無言のままでいたためか、けげんに思ったアキト嬢が心配そうにルリの顔を覗きこんでいた。
「いえ、大丈夫です」
ルリは驚いて一歩後退する。すぐ近くにアキト嬢の顔があった。その顔を見た瞬間、自分とだぶって見えたのだ。
化学反応が起こったかのように、怒りが何か別の気持ちに変わっていく。
ルリは自分の気持ちに翻弄された。怒りのほうがまだ認識しやすかった。
今の感情を表す適切な言葉見つからない。
過去の自分への慰めだろうか。つまり、人形として生きてきた自分への。
いや、そういう感情はない。自分で自分を哀れんだことなど一度もない。
ないと思う。
本当は、どうだろう。
そういうことを思いつくことさえできなかったのではないか。
自分は悲しんでいるのだろうか。
泣きたいのだろうか。
それとも、テンカワ・アキトを守りたいと思っているのだろうか。
今も守られたいと思っているのだろうか。
言葉は浮遊する。
ひとつとして正解はない。
なんだろう、この感情は。
さまざまな想いが混在する微妙な感情の色合いに翻弄されて、狂ったコンパスのように気持ちが定まらない。
そんな自分の状態はきわめて不快だった。そこで、ルリは自己防衛をはかることにした。
「あ、艦長です」ルリの指がアキト嬢の後ろを指す。
恐る恐る振り向くアキト嬢。
しかし、そこには誰もいなかった。ルリは嘘をついたのだ。小悪魔的ないたずらが成功して、ルリは微笑んだ。彼女を見知っている者が見れば少しだけ違和感を覚えるほど、ほんのわずかに。
「驚かさないでくれよ。ルリちゃん。本当にユリカがいるかと思ったじゃないか!」
必死の形相で迫るアキト嬢の言葉をルリは微風のごとく受け止めた。
「私しかいませんよ。今は」
「冗談もほどほどにしてくれよ」
アキト嬢は弱々しく答えを返す。
ルリはなかばアキト嬢の返事を無視するかのように歩き出しつつ、「テンカワさんは今の状態に不満なんですか」と聞いた。
アキト嬢は周りをきょろきょろと見渡しつつ、ルリの後ろに従った。
「不満だらけだよ。こんな躰になっちまって、どうすりゃいいのかわからないし」
「でも、テンカワさんって戦争が嫌いでしたよね。その躰だったら、戦争に参加させられることもないんじゃないですか。それに、コックとして生きていくことはこれから先も可能ですし」
「でもね。オレは生まれてから二十年近くも男だったんだよ。いまさら女として生きていくなんてできないよ」
「若返っているんだから、いいじゃありませんか。そのうち慣れますよ」
「簡単にいってくれるね。いまさらもう戻れない。そういうことだってあるだろう」
「人は時間とともに変わっていく生物です。なぜ変わらずにいられないのかはわかりませんけど、戻れないという言葉は嘘です」
「厳しいな、ルリちゃんは。嫌な記憶ってけっこう後にひきずるものだと思うけどな」
「かもしれません」
まるでスポンジのようだとルリは思った。
いろんなことを経験して、しがらみでいつか記憶が重くなる。
にもかかわらず、人は思い出を忘れることができずに、錆ついた記憶は沈殿し、黄ばんだ染みのように残る。
その染みこそが成長と呼ばれている現象なのかもしれない。
あるいは、進化。
進化とは退化も含む概念なので、こちらのほうがより適切な言葉だろう。人は成長するばかりではなく、後退することもある。
変わることは必ずしもアップデートではなく、悪いほうへと転がっていくこともあるかもしれないのに、人は変わらずにはいられない。時が見せる魔法みたいなものだろうか。
魔法少女なアキト嬢は口をとがらせて、不満を躰全体で表現しながら歩いている。
それもまた進化の形だ。
「早くまともな服に着替えたいよ」
「そういえば、ユリカさんはテンカワさんにナデシコの制服を着せませんでしたね」
「ルリちゃんが着ている服のこと?」
「ええ、そうです。これって、まともでしょう。少なくとも私としては悪くないと思いますけれど。それにこの服って、型番で何着かありますから、わざわざ私服を着せる必要はないように思いました」
「そうだよな。たぶん、オレを着せ替え人形にして楽しんでるんだよ。少女らしくとかいってね」
アキト嬢の薄紅色をした唇がわなわなと震えた。五時間の空白を思い出しているのだろう。何が起こったのかは想像にあまりあるが、男の精神を色濃く残しているアキト嬢にとっては拷問のようなものだったと推測できる。
ただ、少女な躰に慣れるためには『少女らしく』はある種の通過儀礼のようなものであったらしく、今のアキト嬢は初めのころに比べれば自分の躰に定着しているように思えた。
「テンカワさんがよければ、私の制服を貸しますけど。サイズもたぶん同じぐらいでしょうし」
「本当かい。頼むよ。こんな服で歩いているところを誰かに見つかったら、オレはおしまいだ」
「整備班の人たちに見つかれば拍手喝采かもしれませんよ。もしかしたら、ご本尊として祭られるかも。最近のトレンドは萌え萌えらしいですし」
「ルリちゃん、意味わかっていってる?」
「整備班の人たちのファンタジィを理解することはできませんけれど、そういう行動類型があることは知っています。パターンとしては、私のような少女に、魔法少女あるいはヒロイックな服を着せることで、二次元的な観念上のキャラクタへの愛情を三次元的なデバイスと融和させ、二・五次元上の観念的な愛情への昇華、すなわち萌えを体現しているんでしょう。亜種としてはメイド服を着せたり、ネコミミカチューシャを装着させたりと……、ま、いろいろあります。萌え萌えいいながら、少女にむらがってくるその姿はさながら生きたゾンビのようであり、早期の駆除が望まれるところです。無理でしょうけど」
「い、意味がわからないよ、ルリちゃん」
「わかっちゃったら、どうなんでしょうね」ルリは無表情に答えた。
「わからなくてよかったよ」
「中途半端が一番性質が悪いんです」
すべては綺麗に、全か無かだ。
――11――
ここはルリの部屋。
恐ろしく簡素で、無駄なものはほとんど何もなく、目につくのはベッドと机と巨大な壁に埋め込まれたスクリーンだけだ。
唯一ルリの個性を表すものとしては、ベッドの上の天井からチタン合金の細い線で吊り下げられた魚の模型がある。
「制服のクリーニングはすぐに済みますけれど、いざというときのために、予備を用意してあるんですよ」
どこからともなく、ルリは制服を取り出してきて、アキト嬢の目の前にさしだした。アキト嬢は制服を受け取ったまま、わずかにはにかんだ。
「ありがとう。助かったよ」
「サイズは大丈夫ですか」
「あ、うん。どうだろうね」
「ここで着替えてもいいですよ」
「え、いやそれは」
まずいだろう。といおうとしたのだろう。しかし、アキト嬢の姿からすると、特に問題はないように思える。まずいと思ったのは、年頃の少女であるルリの目の前で着替えることが情操教育上よくないと考えたからであるが、今はもはや同性だ。ついでにいえば、外見の年齢もほぼ変わらない。ただ、ルリは同じ年頃の子どもに比べて背が低いから、アキト嬢のほうが相対的に背が高い。顔の幼さでいえば、両者ともに変わりはなく、胸の大きさもどんぐりの背比べ。まだまだ発展途上である。
「恥ずかしいな」
「いまさらって感じです。テンカワさんのおっぱい見てますし」
「ぶっ」アキト嬢が吹きだした。「ななななななな、なんてこと言うんだよ。ルリちゃん。……ぱい、だなんて」
「パイは円周率のπのことではなく――」
「いわなくてもわかってるって!」
「すいません。もしかして恥ずかしかったですか」
「当たり前だろ。自分がこんな姿になっちまったなんて、すごく、恥ずかしい……」
アキト嬢が顔を伏せると、桃色の髪の毛がふわりと重力に従う。
こんなに綺麗なのに、なぜ恥ずかしいのだろう。ルリにはよくわからなかったが、ともかくアキト嬢が精神的に不安定なことはよくわかった。
「そういえば、テンカワさんの部屋が最初、私が入ったとき暗かったのって、皆さんがテンカワさんを気遣っていたのですね」
「そうみたいだね。正直、あのときは混乱してたんだ。自分の姿を見るだけで眩暈がしたからね」
「誰が明かりを消したんですか」
「オレは錯乱してたからね。よく覚えてないな。イネスさんかな。いや、ユリカかな」
「ふうん。そうですか」ルリは言葉を切って話題を変える。「ともかく、着替えるなら早くお願いします。これからテンカワさんといきたいところがあるんですよ」
「いきたいところ?」
「テンカワさんの部屋です。私、探偵役ですから」
「なるほど、現場検証ってやつか」
「そういうことです」
ルリがアキト嬢を連れていこうと決めたのは、ほんのついさっきだ。よく考えれば、テンカワ・アキトについては最初に犯人ではないかと疑い、そしてそれをルリ自身の推理で否定したのだから、灰色だらけのナデシコクルーの中で、白に一番近い人物だった。被害者であるということもある。証拠隠滅を図られる恐れはもっとも少ないだろう。
アキト嬢が観念して、魔法少女服を脱ぎ始めた。腰のあたりに意味も無くどでかいリボンがついている変態的構造なので、脱ぎにくいようだ。
「なんだよ。これ、いったいどうやって脱ぐんだよ」
「リボンを先に取るみたいですね」
ルリはアキト嬢の後ろにまわりこみ、躰を密着させて、白いリボンを引っ張った。かなり強く結ばれているらしく、ルリが真剣な表情で力をこめているのだが、まったくはずれる様子がない。ルリの小さな吐息がアキト嬢の首筋にあたっている。
「る、ルリちゃん」アキト嬢が男としての記憶と自尊心から動揺の声を出すが、ルリは我関せずのあくまでマイペースである。
「ふぅ……、ようやく取れました。腕のところのリングも上のセーラーを固定してるみたいです。脱いでください」
いわれるがまま、アキト嬢はリングを取り払った。あとは、前をとめている普通サイズのリボンをほどけば、上のセーラーは簡単に脱げる。下のスカートはなぜか裾の部分がジグザグになっている以外は普通だったので、特に苦労はしなかった。
まだブラジャーをつけるための質量的な十分条件をみたしていないので、アキト嬢の今の姿は白いキャミソールな肌着とこれまた白いショーツを着た姿である。よく見れば、どちらもレースで修飾されており、淡い薄桃色のようだ。
その姿のまま、アキト嬢はいったん地べたに座り込み、紅い魔法少女な靴を脱ぎ始めた。ぴったりと足に合わせたタイプなので、窮屈だったらしく、脱ぐのも一苦労といったありさまである。ようやく全部脱ぎ終わり、アキト嬢はルリの制服を手に取った。そのさまをルリはじっと注視している。
「靴もある?」アキト嬢が聞いた。
「ありますよ」
靴もナデシコの制服の一つで、ネルガル社に指定されている。綺麗にそろえた形で、ルリはそれを差し出す。
「ありがとう」
「あ、でも先に服を着たほうがいいですよ」
「そうだね。サイズはあってるかな」
「どうでしょうね」
ルリが右手をものさしがわりにして、アキト嬢の頭のあたりにかざした。今まで正確なところはわからなかったが、やはりアキト嬢のほうがルリより頭半分ほど背が高い。
アキト嬢が急いで、ナデシコの制服を着込んでいく。
「う〜ん、ちょっときついかな。スカートなんてピチピチしているよ」
「そうですか。別におかしくはないですけど。そのうち慣れますよ」
「スカートっていうのがちょっとね」
「私のワンピースを着てたじゃないですか。あれはよくてこれはダメなんですか」
「あれは、スカートじゃないだろ」
「まぁ、そうかもしれませんけどね……」
同じようなものではないかと思うルリだった。しかし、アキト嬢の男としての自尊心を傷つけないため、あえてそこはいわないままでおいた。
そして――。
とりあえず、アキト嬢はなんとかルリの制服をあわせることができた。そもそも背丈も若干しか違わないし、ある程度は伸縮する素材だからそのうちフィットするだろう。ただし、やはりスカートは短かった。ナデシコの制服のスカートがもともとミニであり、丈が短いということもあるが、それに加えて、今のアキト嬢は足がすらりと長く、ルリのスカートを穿くと真っ白なふとももが扇情的なまでに見えてしまうのだ。
「外見年齢でいえば、今のテンカワさんって何歳なんでしょうね」
「ルリちゃんと同じぐらいってことでいいんじゃないかな」
「大雑把すぎです」ルリの視線がアキト嬢の躰をつぶさに見て取った。「やはりテンカワさんのほうがわずかに年上のようですよ。おそらく十三歳程度でしょう」
「あまり変わらないと思うけどなぁ」
「それは、雰囲気とかありますからね。私ってけっこう実際の年齢よりも上に見られますから」
「物腰が穏やかだからね、ルリちゃんは」
「いえ……」
ルリは否定した。
頬をほんのりピンクに染めて、否定した。
「そろそろいこうか」
アキト嬢がルリを促すように声をだした。
犯人捜しに協力的なのはやはり犯人に対する怒りがあるからだろう。
ルリとアキト嬢は連れ立って、部屋を出た。
と、その時である。
「あ〜〜〜〜〜っ! やっぱりルリちゃんの部屋にいましたよ。艦長!」
通路の脇から突如として姿を現したメグミが、割れんばかりの大声をだした。
細い指先はきっちりとルリ達を補足している。
ターゲットロックオン。
そして、メグミがウインクする。
もはや逃げられないという予感を抱かせるに十分な、完全なる勝利の微笑みつきだった。
すぐに、ユリカも駆けつけてきた。
「あっ。アキトだぁ! アキト! アキト! アキト! もう探したんだよ。どうしていなくなったりするの」
アキト嬢はルリの背中にすがりつくように隠れた。
当然、隠れきれるものではないので、ユリカとメグミはにこにこと笑いながらにじり寄ってくる。
押さない。駆けない。喋らない。そんな大昔の火事場三原則を守っているわけでもないだろうが、天使のような微笑を溢れんばかりに大売出ししながら、ゆっくりと近づいてくる様が、アキト嬢には悪魔のように見えるらしかった。
「たたたた、助け……ゆるゆるゆるゆるしてててして」
ほとんど言葉になっていない。
振動係数がおかしくなってしまってノイズが入りすぎている。人語としては限界だ。
「どこに行こうとしてるのかなぁ。うふふ」とメグミ。
「アキトぉ。今度はネルガル社提携のネルガル第三中学校のスクール水着を試着する約束だったじゃない」
ユリカはぷりぷりと怒っている。
アキト嬢はぶんぶんと頭を横に振った。
「いやだ。いやだぞ。それだけはいやだぁ! だいたいそんな約束した覚えはないぞ」
「往生際が悪いですよ。アキトさん」
メグミがゆっくりと手を伸ばし、
「アキト。約束は守らなくちゃだめだよ」
ユリカが子どもに言い聞かせる母親のように言葉をかける。
「いやだぁぁぁぁぁ!」
絶叫してクラっときたのか、アキト嬢は意識を半ば放棄してその場に崩れ落ちた。
アキト嬢の運命もこれまでかと思われた。
と、そこで。
「ちょっと待ってください」
クールなルリの声が響いた。
ルリの声は喧騒の中でこそ目立つらしく、わずかにヒートアップしつつあったその場の雰囲気を瞬間的に冷やすほどの効果がある。ユリカとメグミはルリにきょとんとした顔を向けた。
ルリはわずかに伏せ気味に床を見つめながら言った。
「テンカワさんはしばらく私といっしょに行動してくれるそうです。よろしいですか」
「ルリちゃんとアキトがどこかに行くのかな」ユリカが聞いた。
「そうです。犯人捜しのために、テンカワさんの部屋の検分に」
「へえ」メグミが感嘆したように目を見開く。「まだ犯人捜ししてるんだ。偉いね」
「偉いとか偉くないとか関係ないです。私は私のエゴのために、犯人を捜しています」
「エゴって、なーに?」
ユリカは幼稚園児のように小首をかしげながら疑問を述べた。
ルリはわずかに逡巡する。エゴそのものの言葉の定義を聞かれたのだろうか。それともその内容を聞かれたのだろうか。しばらく迷い、おそらく後者だろうと考えた。いくら天然ボケ気味な艦長でも、さすがにエゴという言葉の意味ぐらいは知っているだろうと判断したのだ。
「オモイカネのことです」
「ふうん」ユリカが口元に手をあてて、なにやら考えている。「オモイカネを弄られたことが、そんなに嫌だった?」
「嫌でした」
「わかった。ルリちゃん。アキトといっしょに犯人捜しがんばってね。これはいちおう艦長命令だよ。無期限でいつでもやめていいから、アキトを女の子にしちゃった犯人を捜してください」
ユリカは明るく声をかけ、手袋をした手でルリの頭を優しく撫でた。
「あ……」
フィジカルな接触はあまり慣れていない。
ルリは感触を確かめるように、両手を今しがたユリカに触れられた箇所に持っていった。
そして思い出したように、
「了解です」
「じゃあ、オレは」アキト嬢が顔を上げた。「ルリちゃんについていけばいいんだな」
ペシ。
またもやメグミの愛の鉄槌がアキト嬢の手の甲にくだされた。
「アキトさん、せめてボクって言うようにしません?」
「ううう。肌が敏感になっているのか、妙に痛いんだよ。メグミちゃん」
「敏感肌か、なんだか羨ましいなぁ、儚げで。そういえば、アキトさんの手、IFSの跡が消えちゃってますけどナノマシンとかはどうなってるんですか」
「わからない。あとでイネスさんに聞いとこうと思うけど」
「DNAとナノマシンは別物ですよ」ルリが言った。「多分、休眠中だと思います。一度イメージ・フィード・バックシステムを使えば、すぐに活性化するでしょう」
「へえ、そうなんだ」メグミは納得して頷いた。
「でも、テンカワさんの体力だとパイロットはまず無理でしょうけど」
「アキトはそんなことしなくても、あたしが幸せにしてあげるの」
ユリカが元気よく指をつきだして、Vサインを作る。まったくの脈絡のない行為にメグミは盛大な溜息をついた。
「艦長はいいですね。お気楽で」
「ユリカはいつも元気だよ」と、彼女は目をぱちくりさせている。
ユリカが使う人称代名詞はいちおう『私』であるが、そうでないときはわりと名前で自分のことを呼んだりすることもある。さすがに幼稚だと思ったらしく、メグミは呆れぎみだ。しかし、そうやって幼稚に見せることこそがユリカの人心掌握術の極意なのかもしれない。客観的に見れば、わずかな問答でメグミの皮肉をいなしていることがわかる。とりあえずルリはそう分析した。ナデシコの作戦立案にも関わっているので、ルリの戦略眼は確かなものだ。もっともユリカの場合、それが故意になされたものではなく、あくまで性格の純然たる発露であるから、凄味がある。
「えっと、ではそろそろ私達はいきますけど、よろしいんですね」
ルリは確認するようにユリカに向けて言葉を発する。ユリカはこくんと頷いた。
「でも終わったら、アキトを私の部屋に送ってきてね」
アキト嬢は今ユリカの部屋に寝泊りしているので、そう言ったのだろう。それにしても元々は成年男子であったはずのテンカワ・アキトをなんの危機感も抱くことなく、いっしょに寝泊りできるユリカとはどういう性格なのか。天衣無縫あるいは純粋培養お嬢様といった言葉があてはまりそうであるが、ルリが思うに、ユリカはテンカワ・アキトを信頼しているということなのだろう。
あるいは、
単純に……。
ユリカはアキトのことが好きなのだ。
その単純さが綺麗だとルリは思った。
――12――
ナデシコの構造は第一ブロックと第二ブロックにわかれており、さらに細かくいえば十二のデッキに区分けされ、フロアごとに綺麗な区画がなされている。
上から第一デッキ、第二デッキとなっており、一番下にあたる部分が第十二デッキである。そして居住区は第二ブロックにある。第二ブロックとは要するに人が移動する空間だと思えばいい。
それは、ナデシコの頭、すなわちブリッジを中心軸に、第六、第七デッキあたりまで及ぶ。それ以上下層になると、兵器関連が集中している。
「要するに、マンハッタン・グリッドに従ってるんですね。ナデシコも」
マンハッタンとはアメリカのマンハッタンのことである。
そして、マンハッタン・グリッドとは、空間概念のひとつである。
つまり、戦艦も都会も基本的な空間構造は同じであるということをルリは考えたのである。
それはユークリッド幾何学のような平面上の空間ではなく、特殊な複層構造を持つ。ある方向へは行きやすいが、その逆方向へ行くのは難しいといったような、非等方性を有する空間なのだ。
考えてみればいい。
地図上で真っ直ぐ線をひくように目的地にたどり着けることはきわめて稀だ。信号で立ち止まり、工事中の場所を迂回し、人通りに影響を受けることもある。空間は物理と精神によって通行がたやすい場所、そうでない場所が決定されるのである。
あるいは密室も、同じような性質を有しているといえるだろう。
結局、人が住む空間は多かれ少なかれ密室でできている。それがどれほど完璧な密室に近いかどうかという点でしか違いはなく、所詮、完璧な密室というのは概念上でしかありえないのだ。
つまり、逆方向への非等方性が一般通念上の『程度』を越えたときに、密室であると評価されるのである。その意味においては、密室は事実であるというより解釈に近い。
与えられた状況に対する観察者の解釈である。密室はだから物語に似ている。
ルリはそのことまで含めて独り言をつぶやいたのだが、その指摘はあまりにも声が小さすぎて、傍らを歩いていたアキト嬢の耳にも届くことはなかった。
封鎖中のアキトの部屋は、エステバリスのある第六デッキにほど近い場所だ。
緊急時に、すぐに駆けつけられるように近い場所が居所となっているのだろう。
「ルリちゃん。ちょっといいかな」
「はい、なんですか」
アキト嬢が第六デッキに下りたところで、声をかけてきた。
「ちょっと、オレのエステバリスを見ときたいんだけど、いいかな。やっぱり心配で」
「心配なのは、テンカワさんの躰のほうだと思うんですけど。つまり、エステバリスを見たところで得られるものはありません」
「いや、躰になじむかどうかとか、そういう表現できない感覚があるんだよ。いちおうオレもパイロットの端くれだからね」
「そうですか……。いいですよ。じゃあ、先に格納庫にいきましょうか」
エステバリスの格納庫の到着すると、整備班がせわしなく働いていた。ナデシコクルーの中でも最も勤勉な者たちである。
整備班はアキト嬢とルリの姿を目ざとく見つけると歓声をあげる。男ばかりの整備班だけに華やいだ空気を一瞬だけでも感じられたのが嬉かったのだろう。
「よう、ルリルリとテンカワじゃねーか」
整備班長であるウリバタケも、一端作業をとめた。
「すいません。セイヤさん。エステバリスが気になって来ました」アキト嬢が頭をちょこんと下げる。
「そうだろうな。そんなことだろーと思ったぜ。安心しな。ちゃんと整備はしてるからよ」
「さすが、プロですね」アキト嬢は嬉しそうに微笑んだ。
「美少女なパイロットもありだろ。と言うか、むしろ王道だ」
「王道ですか……」
アキト嬢が呆然とした。
「儚げな美少女が、復讐に駆られて、漆黒の機体を駆る。燃えてくるじゃねーか。萌えてくるじゃーねか。なぁ、そうだろ?」
「オレのエステは紫に近いような……」
「細かいことはどうでもいいんだよ! この場合は病的なほど肌の白い美少女が、なぜかごつごつした闇色の機体に乗っていると仮想する、そのギャップがいいんじゃねーか! そのうち造るから乗ってくれよな」
「は、はぁ……」
アキト嬢は気乗りしない返事をかえしたが、ウリバタケの後ろにいた整備班は賛同の意を表明していた。
それはともかく、アキト嬢は当初の予定どおり自分の機体に近づいていった。
下まで降りる必要はなく、格納庫は上から見下ろせるようになっており、エステバリスの顔が目と鼻の先にある。
金属質の床は歩くと、カツンカツンと高い音がした。
すぐ近くまで来ると、アキト嬢は細い腕を伸ばして、エステバリスの顔を触った。
――ノスタルジィ
を感じているのだろう。
失った過去を思い出し、懐かしむ。
あるいは、今の自分を嘆いているのかもしれない。
ルリにはアキト嬢の心情を完全には理解できないが、なにか落ち着かない気持ちだろうということは推測できた。
「こいつに乗ることはもうできないのかな」
儚げな横顔だった。しかめ面で涙をこらえている。
今のアキト嬢にはすぐに消えてしまいそうな脆さがある。
ルリは急に瞳の中に優しさを浮かべた。
「テンカワさんの選択次第だと思いますよ。パイロットとして生きたいのなら、いまのうちから専門的な訓練を受けることで、数年後にはエースパイロット級にはすぐになれるでしょう。そもそもテンカワさんはパイロットとしての適性値が高いようでしたし、まちがいありません。むしろ普通のパイロットより時間がたっぷりあるんだから、焦らなくても大丈夫です」
「でも――オレたちの戦争はもう始まってるんだよ。オレは自分の大切な人たちや大切な物を守りたい。今、守りたいんだ」
ルリは一転、冷たい顔になった。
メインからサブへ、
並列処理の切り替えだ。
「守りたいというのは、心情的には綺麗ですが、客観的に招かれる事象は相手を殺すということです。それが戦争の真実であり客観的な事実です。テンカワさんだってわかっているはず」
「確かにルリちゃんの言うとおりかもしれない。でも、この戦争ではたくさんの人が死んでいる。死んでいく人たちが目の前にいて黙って指をくわえてみてろって言うのか。オレにはそんなことはできない」
「殺されないためには殺してもいい?」
「そうだ」アキト嬢は怒りを隠さずに言う。しかしルリの矮躯を見て、いくぶん語気を改めた。「違うな。そうじゃない……。殺されないために殺していいと思っているわけじゃない。自己防衛だよ。力は自分も含めて親しい人を守るために限られる。強いて相手を殺したいわけじゃない」
「殺したいわけじゃない――ですか」
そうはいいつつも、殺さなければ生き残れない時がある。
それが戦争だ。
そもそも、テンカワ・アキトが戦争を憎んでいるのなら、戦争という概念自体に復讐をするべきだろう。それは、言うまでもなく戦争の相手方を殺すことではなく、戦争の消滅を願うことこそがベクトルとして正しい。
どうすればいいだろうか。
ルリはいろいろと夢想する。
例えば、戦争の原因となるのは怨恨と宗教と経済であることが多く、その中でも経済戦争は現代的な傾向の一つであるといえるだろう。経済が無くなれば、戦争がなくなるのか。いやそうではなかった。むしろ状況が悪化したことは歴史が教えてくれている。
結局のところ、人が存在する限り、戦争はなくならないのかもしれない。いつか辿りつけるのだろうか。勢力均衡ではなくて、つまり、いわゆる真の平和というものに。それはわからない。しかしテンカワ・アキトのやり方はまちがっているということには確信がある。
ただ――。
正しすぎることは時に人を傷つけてしまうということも、心理学的な傾向として知っていたので、ルリはそれ以上は踏み込まなかった。その距離感は天性のものである。
「なに心気くさい顔してんだ」ウリバタケが気を利かせて昇ってきた。「美少女が台無しだぜ」
「ほっといてください」とアキト嬢。
「別に」とルリ。
ウリバタケはさすがにむっとしたが、ここで喚き散らすのも大人げないと思ったのか、なんとか我慢した。
溜息一つぐらいは許されるだろう。
「ダウナー系もここまでいくと、可愛げがないよな。それはそうと、ルリルリ。探偵ごっこをはじめたらしいじゃねーか」
「ええ、そうです。ごっこじゃなくて本気で捜そうとしていますけど」
「ま、それはどうでもいい。オレにとっちゃ犯人が誰であろうと、関係がないからな」
「そうでしょうね」
「セイヤさん。あんた、オレがこんなんなっちまっても――」アキト嬢が激昂しかけるが、ウリバタケは両手を突き出して、その勢いを止めた。
「まあまあ、待て。確かにテンカワが美少女になったのにはオレも何かしら思わんところがないわけでもない。だがな。それよりも優先すべきことがあるだろう。オレはわが道をゆくのみよ。それはつまり、萌えの道だ!」
「また萌え……」
今度はルリが溜息。アキト嬢は呆れすぎて声も出せないようだ。
「で、ルリルリ。オレが用意したこれを着てみてくれないか」
ウリバタケがパチンと指を鳴らすと下の階にいた整備員のひとりが素早い動きでなにやら大きな箱を持ってきた。非常に洗練された動きである。おそらく何度か練習していたのだろう。ウリバタケが箱を受け取り蓋を開けた。
ルリとアキト嬢は何事かと覗き込む。
「これって……」アキト嬢が目を大きく見開いた。「探偵なのか?」
「そのとおり。探偵といえばこれだ」
ウリバタケが差し出したそれは、いわゆる一昔前の探偵が着る服のデフォルトタイプだった。
詳しくいえば、土色のコートに、ベレー帽、丸い小さな眼鏡である。
「これを着ろってことですか?」ルリが絶対零度の視線でウリバタケを突き刺した。
いくらなんでもギャグにしたくない。遊びでやってるのではないのだ。
しかし、ふと思う。
ルリがオモイカネやアキト嬢への想いから、犯人捜しをするのもエゴであるならば、ウリバタケの今、探偵服を着せようとするこの行為もエゴであり、両者はエゴという言葉のレベルでは同一のものだ。
違いはあるのだろうか。
「ずっと着てくれっていってるんじゃない。ほんの少し。ちょっとの間でいいんだよ。ルリルリたぁのぉむぅ!」
呪詛を吐くようにウリバタケが言った。目が血走っていて獣のようだ。ルリは無表情のまま目だけをウリバタケに向けた。
「しかたありませんね。いいですよ。少しだけなら」
そして五分後。
「なんでオレまで着なくちゃいけないんだよぉぉぉぉ!」
アキト嬢の絶叫が広い格納庫の中に木霊した。
ルリが一人では嫌だとごねたら、ではアキト嬢もいっしょにというふうに話がすんなりと決まったのである。もちろん、アキト嬢の意思はそこではほとんど介入していないが、断りきれなかったのは、ルリに先ほど、ユリカとメグミの攻勢からかばってもらったということと、探偵服がそれほど女の子らしさを強調したものではなく、中性的なものだったためだ。
押しが弱いというテンカワ・アキトの属性はここでもやはり残っている。
さてここで単純な問題を提示してみよう。
――ルリとアキト嬢はいったいどこで着替えたのか。
アニメや漫画では着替えるシーンを前後して描写の省略がなされていることが往々にしてあるが、もちろん因果関係というものが現実には存在するのだから、隠された着替えのシーンがなければ服装の変化はありえない。
それは絶対的な先後関係であり、要するに『脱ぐ』があるから『着る』がある。ちなみに重ね着という場合が考えられるが、それは例外的事象である。
事前情報としては以下のものがある。
周りは男性陣で囲まれており、当然彼らの前で肌を見せることはできない。男は狼だから気をつけなさいというわけではなくて、羞恥心が最大優先事項である。それは女の子として若葉マークがついているアキト嬢ももちろんあるらしく、いやむしろ今まで感じたことのない視線に恥ずかしいという気持ちでいっぱいになっていた。そうであるからには当然、アキト嬢もこっそりと着替えることになる。
しかしながら時間的な制約を考えると、またアキト嬢やルリの部屋に戻って着替えなおすというのもいかにも迂遠であり、非効率。できるだけ近場がいい。
お手洗いを利用するという手もあるが、生理的に着替えるという行為をするには忍びない。
他の男性クルーの部屋を利用するというのも、同じく生理的に「なんだか嫌」というのがルリの心境である。
公共の場所もアウト。
いつ誰が入ってくるかわからない場所で着替えをすることは、少女であるルリにとって考えられない。
そうすると結論は非常に限られてくる。
「ルリルリも着替えたか」
ウリバタケが外から聞いてきた。
ルリはIFSを用いて、コクピットのドアを開いた。
答えは自明すぎるほど簡単だった。
エステバリスのコクピットの中で着替えたのだ。
「こんな感じですけど」
「おおっ! 似合ってるぜ。テンカワの隣に並んでみてくれ」
ルリは数歩歩いて、アキト嬢の隣までやって来た。しかしその様子を黙って眺めていたウリバタケは、やがて首を振って、「違う」と小さくつぶやいた。
「なにが違うんです」とルリ。
「もう少し、近づいてくれないか」
「これぐらいですか」
「いやもっとだ。頬と頬がくっつくぐらい」
「る、ルリちゃん、セイヤさんの言うことに全部従わなくちゃいけないのかな」
アキト嬢が疑問を述べた。いろんなところがルリと接触しているせいか、微妙に顔が赤くなっている。
「別にいいんじゃないですか」
ルリとアキト嬢は磁石の反対極のように限りなくくっついた。
とそこで、暴力的なまでのカメラのフラッシュの乱舞。用意されていたものだろう。そもそもオモイカネの記録を複写すればいいのにも関わらず、外部機器を使っているところが凝っている。
撮られた画像はどうなるのだろうか。記念にされるのか。それとも闇取引でもされるのか。それは定かではないが、ルリは動じることなく、そのままじっと前を向いていた。一方、アキト嬢は怯えるように目をそむけてしまっている。
ルリは横目にちらりと観察する。
恐かったのだろう、とルリは思う。
それは他者がというよりかは自分がである。
自分が変わったということは、自身でいくら念じたところで理解はできても認識はできないことが多い。外部的な評価があってはじめて、認識できるのだ。今、アキト嬢は自己の変化を痛烈なまでに体験しており、恐怖したに違いない。
かわいそうと思わないでもなかったが、ルリはそのままフラッシュを浴びせ続けさせることにした。
いずれ慣れる。それもまた人の傾向だからだ。
「っくぅぅぅぅぅぅ! いいぜ。絵になってる。美少女二人が並んだ姿だもんな」
ウリバタケは感動に打ち震えていた。
「セイヤさん。そんなに美少女美少女と言われると恥ずかしいっす」
アキト嬢は顔を朱色に染めている。
どうやら今までの傾向から考えるに、顔の皮膚が薄いのだろうか。だからすぐに頬が赤くなるのだろうか。肌が白いというのも紅くなればすぐに目立つ一因になっているようだ。そんなことをルリは考えた。
無駄なノイズだ、とすぐに打ち消す思考が働くが、どうやらそういう雑念を抱かないと想像力が働かないのが人間らしい。
ふぅ、と溜息ひとつ。
人間的であるということは不合理であるということなのかもしれない。
ルリは思考をリセットした。つまらないことは考えないに限る。ルリは別のことを考えることにした。
「テンカワさん。あまり自分の状態を否定しないほうがいいですよ。外見なんて瑣末なことです」
ルリはアキト嬢の目をまっすぐ見つめている。しかし答えたのはアキト嬢ではなくウリバタケだった。
「わかってないな。ルリルリ。人間ってのは視覚の生物なんだよ。五感の中では見るという行為が八十パーセントは占めると言っていい。要するに、見た目に左右されて当然ってことだな」
「確かに一理あります」ルリは小さく頷く。「第一印象やボディランゲージ等、人間は視覚的効果に固執する傾向があります。ただしこれは西洋文化の潮流であり、東洋文化においてはどちらかといえば触覚も重視されていますよ」
「いや、文化ってもんはもうだいたいグローバル化してるだろ。となれば、視覚重視っていうのは人間文化の傾向だと思うんだが」
「かもしれません。では性差についてはどうでしょうか。つまり、男性は視覚を重視する傾向にあり、女性は触覚を重視する傾向にあります。私は少女ですから、どちらかと言えば、視覚効果は相対的に価値がない。つまり瑣末なことだったんです」
「男は目で見て欲情するか……。ま、言われてみればその通りかもしれんな。ん。――ということは、テンカワをこんなふうにしちまったやつは、男だっていうことになるのか」
「それは早計というものです。テンカワさんは乱暴されていないようですし、外見を変えたのは犯人のためというよりも、もしかすると、第三者に対する一種の脅迫ということも考えられます。つまりナデシコクルーを畏怖させるためという目的ですね。例えばテロだった場合ですけれども」
「にしては、次の事件が起こらないのはどうしてだ。仮に脅迫が目的だったらもっとわかりやすく明示するんじゃねーか」
「あくまで仮定の話ですからね。今回、一番の謎は犯人の動機です。それは犯行の目的もそうですが、密室を作ったこともそうです」
「確かにな」
「ウリバタケさんには、あとでもう一度聞きにくることがあるかもしれません」
「オレに? アリバイとかか」
「いえ、アリバイはあとでまとめて聞こうと思っています。私はオモイカネを信頼していますし、まずはデータから犯人ではないことが明らかな人は除外するのが効率的でしょう。私が聞きたいのは密室を物理的に打ち破る方法についてです。とりあえずテンカワさんの部屋を見たあとにまた来ます」
「わかった。いつでも来てくれ」
とそこで、黙っていたアキト嬢がつぶやいた。
「そんなふうに難しい理論を言われても、恥ずかしいものは恥ずかしいんだよ。ルリちゃん」
「知りません。そのうち慣れるでしょう」
冷たく言い放ち、ルリはすたすたと歩き出す。
ここにはもう用はない。
「それでは失礼します」ルリは振り向きざまに言った。
「そのままの格好で行くのか?」
ウリバタケは少し驚いている。超がつくほど科学的なナデシコの艦内で、あまりにも探偵服は目立つからだ。
「このほうが私の役割がわかりやすくていいですし、それに特に趣味が悪いとも思いません。あとで返しにきます。いいですか」
「ああ、かまわんぜ。オレとしてはいつでもいい」
「ありがとうございます」
一礼し、ルリはアキト嬢を手招いた。
――13――
部屋の前は照明が爛々と燈っていて明るかった。
犯行現場なので、今は封鎖されているが、物理的な封鎖ではなく、あくまでカードキーの読み取りを拒否するようになっているのみだ。つまり、ルリのハッキングによって封鎖は簡単に解除できる。あるいはハッキングをおこなうまでもなく、オモイカネがキーを管理している以上、オモイカネに頼むことで同じく解除可能だ。
「犯罪っぽいな。自分の部屋とはいえ、封印されているんだし。いいのかな。ルリちゃん」
「確かに通常ならば、ネルガルの規約違反です。緊急的に封印された部屋に入ることはナデシコ乗船規則34条の4第5項3号で禁止されていますしね。しかしながら同条但書によれば、調査権限のあるものから調査を依頼された場合は、例外的に封鎖空間に入場してもよいと定められています。私は艦長に犯人を特定するように依頼されていますから、したがって、大丈夫です」
「そういえば、そうだったな。じゃあ、もしユリカが調査を依頼しなかったらどうするつもりだったんだい」
「そのときはしかたありません。規約違反です」
ルリの言葉には一筋の躊躇いもなかった。取捨選択が完全に固まっている事柄に対しては、非常に合理的で純粋な選択をすることが可能だ。
「ルリちゃんって、心が強いな……」
「強いの定義ってなんでしょう」
「決断力があって、意志に揺らぎがないってことだよ。オレは中途半端でいつも迷っているからな。弱いんだ」
「それは優しさです」
「優しいだけじゃダメなんだよ。現実は容赦なく襲ってくる。戦争は優しいだけじゃ止められないからな」
「その話はやめましょう」ルリは前を向いた。「今は密室の謎です」
「わかった。オレも犯人が誰かは知りたいからな」
ルリは黙って、コミュニケを介してオモイカネに通信する。
犯人のことはどうでもよかった。
犯人が誰かも興味が無かった。
ただ、知りたかったのだ。なぜ、テンカワ・アキトを少女に変えたのか。なぜ、オモイカネを操ることができたのか。
自分が知りたいことだけを目標に定めて、他のことは考えない。
それが強さなのだろうか。
ただの冷徹な思考なのではないか。
冷たい、
人形のような、
思考だ。
ぞっとした。
指先が冷たくなっていく。
ノイズが思考をかき乱していく。
感情はノイズだ。
消去しなければならない。
フラットに近づけなければならない。
深呼吸。
繰り返し。
ゆっくりと。
呼吸する。
息を、意識する。
静かになった。
「開きました」ルリは人工的な声色で言った。
ドアは右にスライドした。壁の中に押し込まれて開くタイプのドアだ。
部屋の中は明かりがついていないため、闇が重厚に辺りを覆っていた。外からの明かりが入りこみ、中がまったく見えないわけではないが、それでも薄暗いせいか物の配置ぐらいしかわからない。
「オモイカネ。明かりをつけて」
ルリの言葉に反射のような速度でオモイカネが反応し、すぐに電灯が燈った。ルリとアキト嬢が部屋の中に入ると、背後でドアが音もなく閉まった。ルリが振り返って見てみると、のっぺらとした金属質のドアが壁と一体化したように鎮座している。そこがドアだとわかるのは、開閉のためのわずかなマークがあるためだ。接触式で、手を触れると開閉が切り替わる。ひねったり、どこかを掴んで引っ張る必要はなく、触れれば内側からは簡単に開く。鍵も必要ない。それはルリの部屋とまったく同じ方式だった。
「どうやら、あのときのままみたいだね」
きょろきょろと周りを見渡してから、アキト嬢はルリに声をかけた。ルリはその言葉には軽く頷いただけで、すぐに部屋を観察した。
部屋の中は窓がない。
作ることも可能だったのだが、その必然性がなかったのだろう。なにしろこの部屋はナデシコの中央部に位置するため、窓があったとしても、壁が見えるだけだ。それでは意味がない。
そもそも窓はなぜ必要なのか。ルリは考える。おそらく人というものは開放系に自由を感じるのだろう。閉鎖系ではエントロピィが増大し、混沌へと近づくので、秩序を求める人間としては開放されていることが好ましいということなのかもしれない。
窓は物理的に部屋を開放するだけではなく、精神をも開放する目的があるということなのだ。
ではこの部屋では、精神の開放はどのようにおこなわれているのかといえば、壁に備え付けられたスクリーンが代役を果たしていると言える。
ともかく窓がないという事実は密室の構成に深く影響することは覚えておく必要があるだろう。
ルリはゆっくりとした歩調で、部屋の中心まで歩いた。
そこには布団が置かれてある。ルリはドアの方へ視線を向けて目測した。
ドアと布団の位置関係を調べると、布団は部屋の中央にあり、ドアとはわずか三メートルほどの距離だった。その道のプロであれば、その距離は無に等しいと言えるだろう。テンカワ・アキトが振り返る間もなく襲われたというのは現実的に見て、ありそうだった。
ルリは一つ一つ考えていたことを確認し、処理していく。
「テンカワさんの服についてですけれども」
「ん。なにかな」アキト嬢が聞き返した。
「服です。どこに置かれてあったんですか」
「確か、オレが気絶していたのが布団の上で、その隣に置かれていたな」
「テンカワさんはうつ伏せで気絶していたのですか。仰向けで気絶していたのですか」
「仰向けだよ」
「ふうん」
「何かわかったのかな」
「とりあえず、そこらへんにはあまり犯人の意図が見えないようです。犯人の思考をトレースするならば、どうでもよかったというのが最も可能性が高いですね」
アキト嬢は顔に疑問符を貼り付けていた。ルリは説明を加えることにした。
「あぐらの状態の人を後ろから羽交い絞めにして、注射機を刺したというのであれば、当然倒れるときは仰向けになるのが自然です。あぐらだと前には倒れにくいでしょう? そして、そのまま捨て置いたというのであれば、犯人は特に変化したあとのテンカワさんの躰には興味がなかったのではないかと思いました」
「そうかもしれないな」
ルリはそのまま足を進める。部屋の隅まで来て、視線を上に向けた。
天井ではファンが早いスピードでまわっている。ルリの部屋にもあるオーソドックなタイプである。目的も当たり前のように換気のためにある。ただし、そこを人間が通ることはまず不可能だろう。サイズが小さすぎる。せいぜい、直径二十センチほどの円形だ。もしかすると、超軟体な人間ならば可能かもしれないが、そうだとしても、天井までの高さは三メートルほどあり、踏み台になりそうなものがないこの部屋から脱出するのは不可能に思われた。
ルリは指をわずかに曲げて、それを細い顎に乗せて思考を繰り返す。推理といった道筋だったものではなく、むしろ連続試行に近い。どのような状況ならばこの密室を崩せるか。とりあえずそれのみに思考を集中させている。
突然、ルリの脳裏にひとつの方法が閃いた。
「やっぱり、もう一度ウリバタケさんに聞く必要があるようです」
「ん、何かわかった?」
「わかったというほどでもないですけれど、確認する必要がある事柄ですね」
「密室について?」
アキト嬢は大きな眼を見開いてルリに問う。小首を傾げて、ぼんやりとした感じ。おそらく天然でしているのだろうが、男だったら簡単に篭絡してしまいそうな凶悪的かわいさだ。
しかし、ルリは感情に左右されないので関係がない。
「ええ、そうです」ときわめて冷静に答えを返した。
「もう、この部屋はいいの?」
「そうですね。この部屋はわりと密室としてはよく出来ている気がします」
「よく出来ているって?」
「完璧な密室というものを観念したときの、それに近い形ということです」
「完璧な密室って?」
「密室というのは、いろいろな属性、要素の複合体です。すなわち、密室というのは非等方性に貢献する要素の合計値ですね。それが高ければ、完璧な密室に漸近するということです」
「どういうことなのかよくわからないな」
「例えば、この壁、床、天井、すべて同じ材質でできています。これらはチタンフレームを基礎とするいわゆる調合金なのですが、素手では当然のことながら、掘削機でもなかなか貫通させることは難しいです。その硬度が密室性を高めていると言えます」
ルリはこんこんと壁を叩いた。硬質的な音が部屋に木霊する。
アキト嬢は納得した表情になった。
「確かに壁に溶接したようなあとはないし、だいたい掘削機とかで貫通させてきたのだったら、オレが気づくだろうしな」
「そういうことです」
ルリは言ってから、また思考する。
目に見える範囲では、確かに完璧な密室に近い。しかし――本当にそうだろうか。
「オモイカネ。ボース粒子の残留反応についてはどう?」
ルリがそのことを聞いたのには理由があった。
空間転移。ナデシコにおいてはボソンジャンプと呼ばれている一種のテレポート現象。
その可能性がわずかながらも存在する。
ボソンジャンプならば、この世界に密室はなくなると言えるだろう。空間を任意に転移することができるのならば、ドアを通る必要性がないからだ。しかし、ボース粒子の残留は避けられない。犯人の知能の高さを考えると、そういう愚行を犯すとも思えなかったが、いちおう調べておく必要があった。そういった物理的証拠によって仮定をつぶしていくことが一番確実だ。
「ありません。皆無です」
オモイカネは答えを返した。
「そう。ありがとう」
拍子抜けするような結果だったが、これでまた一つ仮定が消滅した。
あとはこの部屋でするべきことはなさそうだ。ルリはアキト嬢へ向き直った。
「以上です。だいたいはわかりました。ウリバタケさんのところに戻りましょう」
部屋を出ると、静けさが辺りを覆っていた。
いつのまにか、明かりが常夜灯のみになって、さきほどのまぶしいまでの明かりが消え去っている。こうやって、昼と夜も峻別されて、デジタル化されていくのだろう。世界は人間の思惟とは関係なくデジタルへと変換されていっている。
感情はどうだろう。いつか定量的に測定することが可能になるのだろうか。
「昏いから足元気をつけて、ルリちゃん」アキト嬢は優しく語りかけた。
「心配性ですね。テンカワさんは。大丈夫ですよ」
それよりもアキト嬢のほうが今は歩行に不安定さが見えた。おそらく重心がずれたことによって、今までとは歩き方が違うのだろう。ひょこひょこした動きで可愛らしいが、ちょっと危なっかしい。
ルリはゆっくりと歩いた。そうすることで、自然とルリに歩調をあわせているアキト嬢も歩みが遅くなる。少しでもアキト嬢に今の歩き方に慣れて欲しかったのだ。
「やあ、テンカワ君。面白い姿になってしまってるね」
通路の途中で、いきなり二人を呼び止める男の姿があった。
アカツキ・ナガレ。エステバリスのパイロットの一人で、テンカワ・アキトにとってはライバルのような存在でもある。
さらりとした長髪をかきわけて、アカツキは笑った。
どうやら待っていたらしい。
ここからエステバリス格納庫までの通路は細く、一本道だから、見過ごすということもない。待ち伏せをされたとも言える。
「アカツキ。お前――オレをおちょくりにきたのか」
「いや、ただ面白いことがあったって、小耳に挟んだんでね。実際にこの目で見てみようと思ったのさ」
「アカツキさん」ルリが話を遮るように言った。「あなた、昨日はどこに行ってたんですか」
「うん。ちょっと休養がてらネルガル本社のほうへ顔をだしてたんだよ。いやそれにしても、テンカワ君。君は本当に可愛らしくなってしまってるねえ。ははは」
「アカツキ。変なこと言うな!」
アキト嬢が顔をまっかにして怒りの表情を作るが、それはまったくもって逆効果に可愛らしさをひき立たせてしまっている。駄々をこねてすねている少女といった風情だ。
「ま、いいじゃないか。テンカワ君はしばらく休んでてくれたまえ」
「言われなくてもそうさせてもらうさ」
「すねたのかい」アカツキはニヤリと笑った。「機嫌を直して欲しいものだね」
「気持ち悪いこと言うなよ」
アキト嬢が嫌そうにしかめ面を浮かべた。
アカツキは鼻を鳴らした。
「それにしても君はこれから先どうやって生きていくつもりなんだい。今のままだと、どこまでも中途半端な存在だよ」
「オレは……、コックとして生きていくさ。元々そのつもりだったんだ」
「ナデシコにコックは二人もいらないと思うんだけどね。それに、君はパイロットに未練がないのかな。まったくタイミング悪すぎだよ。戦争が激化しているこの時期に、戦線離脱なんてねえ」
「好きでこんな姿になったんじゃない!」
「見苦しいねえ。まあ、君らしいけど」
「ほっとけ」
「怒ったのかい。どうやら性格のほうは変わりがないようだね」
「アカツキさん。あなたはただの好奇心でテンカワさんに会いにきたんですか」とルリ。
わずかな間が開いた。
数瞬と言える程度の間だが、思考の時間があった。
「そうだよ」結論的にはアカツキはそう言った。
「ふうん」
ルリは思考する。
もしかすると、アカツキ・ナガレはネルガルにおいてかなり重要な立場なのかもしれない。少し前に自爆とも言える殉死をしたムネタケ提督が死ぬ少し前、アカツキ・ナガレとエリナ・キンジョウ・ウォンの両名に戦争の真相を聞かされていた記憶がある。
今まで、未知の敵に対する防衛戦だと思っていたものが実は単なる人間どうしの争いだったという真相である。図らずもプロスペクターの依頼によってプライベート回線に割り込みし、それは明らかになったのだが、こんなトップシークレットを知っているということは、かなり裏の世界に精通していなければ不可能だろう。あるいは、情報力が世界トップクラス。すなわち地球圏の経済を押さえているネルガルほどの政治的な力が必要になる。
――まあ、それはいいか。
ルリにとって、アカツキ・ナガレが何者かというのは興味の対象外だった。
ただ、テンカワ・アキトとの関係では、アカツキも無関係ではない。彼はおそらく興味本位というだけではなく、それなりの意図があって接触してきたのだろう、ルリはそう考えた。
考えられる理由とすれば、それは二つ。
第一は、アキト嬢はボソンジャンプの被験者として、今でも研究が可能かどうかを見定めにきたということが考えられる。そして第二の理由は、彼自身が犯人であって、確認の意味でアキト嬢に会いにきたという可能性。
どちらも仮定としては不十分すぎて、考えるべき要素が少なすぎた。ただ一つ言えることは、事件の当時、アカツキ・ナガレの姿はナデシコ内にはなかったということだ。ということは、やはり、アカツキは犯人ではないと考えたほうが自然なのだろうか。
「そういえば、エリナさんはどうしたんです?」
「エリナ君かい。彼女は会社の方に出向中だよ。ちょいと問題が発生してね」
「どんな?」
「実はね。エリナ君が持っていたCCが数十個ほど紛失したんだよ」
「CC、チューリップクリスタル。ボソンジャンプの媒体ですね」
「ああ、そうだよ。といってもたいしたもんじゃないけどね。あれ自体はそれこそざくざく掘れるわけだし。ま、エリナ君は律儀な性格だから、会社の方に一応釈明しておきたかったんじゃないかな」
「ナデシコのみんなをかばったんでしょう」
ナデシコが一つの巨大な密室であると考えれば、当然犯人はナデシコのクルーである可能性がもっとも高い。そのまま問題を放置しておけば、ネルガル本社から調査される可能性がある。そうなれば、艦内は疑心暗鬼の空気が生まれてしまう。エリナが出向した理由はそれなりに納得できそうだ。
「まぁ、そういう考え方もできるね」
アカツキはニヒルに笑った。
「じゃあ、エリナさんはしばらく帰ってこないんですね」
「まあそうなるかな」
「わかりました」
ルリは思考を一端打ち切って、当初の予定を遂行することにした。
「テンカワさん、そろそろ行きましょう」
「ああ、そうだな。アカツキ、じゃあな」
できるだけ渋めの声を出そうとしたようだが、アキト嬢の声はやっぱり小鳥のさえずりのようにしか聞こえなかった。
アカツキは薄い微笑みを浮かべて、右手を軽くあげる。彼としてももう用は済んだのだろう。
――14――
格納庫では、巨大なスポットライトがエステバリスを下から照らしている。ここでは二十四時間の作業なので明かりはまったく変わらない。ただ、整備班のほとんどは交替しており、夜の部を担当している者が今は仕事をしている。
入れ替えは迅速だ。
しかし、ウリバタケは昼の部であるにも関わらず、エステバリスのコクピットまわりの点検作業中だった。
「ウリバタケさん。服をお返しにきました」
「ああ、早かったな。適当なところに置いておいてくれ」
ウリバタケの仕事はまだ終わっていないらしい。整備という仕事は終わりというものがないのだろうか。
ルリが独り言のように疑問を口にすると、ウリバタケは爽快な表情で答えを返した。
「整備にはな、百点が無いんだよ。どんなに精密に整備をしても完璧がないんだ。ならどうすればいいと思う? これはオレの経験だが、機械ってのは、優しくすればするほどこっちの言うことを聞いてくれるもんだ。ましてや、エステバリスはパイロットの命を守る鎧のようなもんだろ。いつでも全力でまごころをこめるしかないんだよ。わかるか」
「まごころですか」
「そうだ。機械に心というのも変に思うかもしれんがな」
「いいえ」ルリは首を横に振った。「心というのは、別に人間の特権ではありませんよ。だから、ウリバタケさんのまごころもきっと伝わると思います」
「そうか」
嬉しそうにウリバタケは目を細めた。
「オレもそれ、なんとなくだけどわかります」アキト嬢もおずおずと発言する。「ずっといっしょに戦ってきたからかな。こいつに愛着があるんですよ」
「テンカワもパイロットとして一人前になってきたってことだろうな」
「パイロットとして、か」
アキト嬢が暗い顔になった。
パイロットとしての自分。
コックとしての自分。
変わっていく自分。
そんなことを思ったのだろうか。
「仕事が一段落したらでいいのですけれど、ウリバタケさんに聞きたいことがあります」
ルリはわずかな間を置いて、尋ねるように言った。仕事が優先されるということはルリも知っていて、ルリ自身の探偵はとりあえず急務ではない。ウリバタケは「五分ほど待ってくれ」と言い、ルリとアキト嬢は脇にあるベンチで休んでおくことにした。
きっかりと五分後、ウリバタケがルリの側に近づいてきた。
「仕事は区切りがついたのですか」ルリが見上げるように言った。
「ああ、だいたいはな。それで聞きたいことってなんだ?」
「私とテンカワさんは、事件の発端となった部屋に行って来ました。そして実際に検分してきたんです。それで、物理的に可能かもしれないいくつかの方法を思いついたので、確認の意味で尋ねたいと思いました」
「オレじゃないとわからないってことは、機械関係か」
「ええ、そうです。しかも電子的という意味ではなくて、物理的なものです。ロボットのような遠隔操作ができるものですね」
「いったいどういうことだ」
ウリバタケがわずかに間を置いて尋ねた。ルリはその間が心地よいと感じた。ウリバタケが考えてから応答してくれているのがわかったからだ。ルリは単刀直入に言った。
「テンカワさんの部屋には通気口があります。換気扇が回っていて、人が通れるほどの大きさではないんですけれども、小さい機械なら通れるんじゃないかと思いました」
「小さい機械か。確かに作れることは作れるんだが、それで仮に部屋の中に入れたとして、それからどうするんだ」
「だいたい二つのパターンが考えられるのではないでしょうか。第一のパターンとしては、その機械を使って、鍵を開けて、犯人は部屋の中に入ります。そしてテンカワさんを襲い、犯人は普通に部屋から出て、また機械を使って、部屋の施錠をするというわけです。そして、第二のパターンは犯人は中に入りこむこともなく、機械のみを使います。まず機械を通気口を伝っておろし、注射針をテンカワさんに刺します」
「なるほどな。できないことはないと思うけどよ」ウリバタケは腕を組んで考えた。「難しいな」
「何がですか」
「まず、その機械を使って鍵を開けたり閉めたりするというパターンだが、これは結構難しい。ナデシコの鍵は半オートロック式で、接触タイプだが、実は圧力だけではなく人の体熱を感知して作動している。機械が人の体熱を真似ることができると思うか?」
「できると思いますけど」
「やってできないことはないが、相当緻密な計算が必要になる。鍵はオモイカネが管理しているんだぞ。内側の鍵となっている部分は人の指の形、手の形を記憶している。接触領域と体熱の二つを同時に誤魔化すなんざ、普通の機械じゃできねーぜ」
「可能性としてはどのくらい?」
「オレが作って、五十パーセントといったところだろう。しかも、犯行のためには微小サイズで、さらにモーター音も抑えねーといけないんだろ。さらに可能性は低くなるな」
「普通じゃ無理なんですね」
「ああ、そう考えてまちがいない」
「ではもう一つの方法ではどうですか」
ルリが質問を続ける。
「機械自体を使ってか……。それもできないことはないが苦労するだろうな。まず機械が飛行タイプだと仮定すると、モーター音はどんなに小さくしても限界がある。地を這っていくタイプだとしても、注射針をどうやって刺すかという問題が残るだろう」
「射出する機構を組み込めませんか」
「できるかもしれんが、それはテンカワの記憶と違うんじゃねーか?」
ウリバタケがアキト嬢を見下ろした。アキト嬢は力強く頷いた。
「では、ワイヤか何かを出すんです。それで腕とかにからめると、後ろから羽交い絞めにされているように感じるというのはどうですか」
「ワイヤか。換気扇を通れるぐらいの小さな機械だろ。それも難しいと思うぞ」
ウリバタケの言葉に、ルリは思考を集中させた。床に視線を落として、固まっている。
「参考になったか?」
「ええ。ありがとうございます」
ウリバタケが聞くと、ルリは顔をあげて答えを返した。それからおもむろに歩き出し、ウリバタケの横を通り過ぎた。
最後に振り向き一礼をし、格納庫をあとにした。
考えるべきことは沢山ある。いや、ありすぎるといったほうがいいくらいだ。
情報は多すぎて、変数が多い。すべてが無限定的すぎた。秩序がないのだ。それは犯人の意図が見えないということだった。
陰謀が秘められているのだろうか。ルリにはわからない。
「ルリちゃん、待って」アキト嬢が追いついて、ルリの横に並んだ。ルリは少しだけ顔を横に向けて、それからまた自身の思考に没頭した。しばらく、二人は冷たい通路を黙々と進んだ。
「どこに向っているんだい?」とアキト嬢。
「ん……、ああ、そうですね。艦長の部屋に行く途中です」
一瞬、ルリは自分が何をしていたのか忘れていたためアキト嬢の言葉に対する反応が遅れた。思考は時間や空間とは乖離しているらしい。他人より数十倍も情報を処理できる能力を持つルリは、思考速度が速過ぎるため、現実から取り残されるということもあった。
もっとも、一般人に比べてわずかなリソースを裂くだけで現実に適応することが可能なので、それはたいした問題ではない。
「何を考えているのか。聞いてもいいかな」
「密室についてです」
「どうやって密室を作ったかということ?」
「いいえ。それよりもどうして密室を作る必要があったのかです。主眼はそちらに移りつつあります。けれど、犯人の意図がますますわかりません。今までの情報をおおかた整理してみると、犯人の行動は矛盾しているとさえ言えますから」
「矛盾している? どこが」
「密室を作ることで犯人は自分を明らかにしようとしているみたいに思えます」
「愉快犯ってやつじゃないかな。犯行は自分の創作表現なんだよ。よくあるじゃないか、事前に予告とかしてくるやつ。そういった類だと思ったけど」
「愉快犯だったら、もっと大々的にやると思います。それに、次のアクションがないのもおかしい。愉快犯というのはえてしてエスカレートしていくものですから」
「今のオレをどこかから見ているのかもしれない。それで楽しんでいるのかもしれない」
アキト嬢はルリを挑戦的に見つめた。ルリはその視線を軽く受け止めて微笑む。
「私は違うことをすでに考えているんです」
「違うこと?」
「ええ、違うことです。けれど提示の仕方が難しい」
「誰に対して」
「もちろん、犯人です。どのようにアクセスするかという問題ですね」
「ということは、ルリちゃんは犯人の目星がついたってこと?」
「いえ……、そう言い切っていいものかはまだ微妙です。どちらにしても捜査としてやらなければいけないことは残っています。状況がこれほど多様な情報を示している以上、ある程度限定化するための情報もまた必要です。端的に言えば、アリバイです」
「アリバイか。どうやって調べる?」
「オモイカネに聞くだけじゃ、不十分かもしれませんね」
ルリは冷静に言った。別にオモイカネを信頼していないわけではない。ただ、できうる限り正確な情報を得るためには、多角的に情報を収集したほうがよいと思っただけだ。
アキト嬢はちょっとルリの顔を窺い、それから口を開いた。
「ルリちゃんは科学者になれそうだな」
「科学者はあまり好きではありません」
「そうか」
「だって……、科学者は自分勝手です」
ルリの言葉を聞いて、アキト嬢は険しい顔になった。ルリが何を思いそんな言葉を言ったのか、ほんの少しではあるが推測できたからだ。そもそも十二歳の少女が戦艦に乗り、オペレータとして勤務し、さらには作戦立案にも一部関わっているという事態が異常なのである。すべては科学者がルリに施したいびつな教育によるものだった。ルリは彼らにとって一種の実験体だったのだ。
しかし、そのことはいささかもルリの個性を汚してはいなかった。彼女には理性を愛でくるんだような心の強さがある。
「科学者は嫌いですが、科学は好きです」とルリはさりげないふうに、力を抜いて言った。
アキト嬢がほっとした表情になる。
「よかったよ。ルリちゃんが科学を嫌いになってなくて」
「え? なぜです」
「だって、ルリちゃんって、科学のかたまりみたいなところがあるからな。なんだか自己否定のような気がしたんだ」
「科学のかたまり?」
ルリは眉に力をこめて抗議の視線を送る。
アキト嬢はどうしてルリが怒ったのかよくわからずポカンとした表情になった。
「どうして怒ってるんだい。ルリちゃん」
「私はそんな得体の知れないものじゃないです」
「あ、ああ……、ごめんね。ルリちゃんも女の子なのにね」
「え、う。別にいいです」
女の子という単語を聞いた瞬間、ルリの顔は真っ赤に染まってしまった。
ころころと変わる態度に翻弄されてアキト嬢は何がなんだかわからない。性別が変わっても女としての感情の機微を理解できるわけもなかった。その鈍さだけは変わらない。
「ま、いいんです……。そんなことはどうでも」ルリが心を落ち着かせていつもの平静な声で言った。「ともかくこの世に存在するほとんどの問題は科学的手法で解決できるということは私も否定しません。その意味では私は科学の信望者です。もっとも、私は科学だけを信じているわけではないということは知っておいてくださいね」
「了解したよ」
アキト嬢は頭をかいた。ルリは優しい微笑みを少しの間だけ解禁する。
たまには少女らしく。
数分後、ルリとアキト嬢はユリカの部屋の前に到着した。ユリカの部屋はブリッジに一番近いところにある。他のクルーとは隔絶した場所にあった。その長い廊下が一種の精神的な隔たりになっているせいか、仕事以外の理由であまりここに近づく者はいなかった。「これも非等方性ですね」
部屋のドアを軽く撫でて、ルリがぽつりと考えを漏らす。
と、そこでドアが音もなく横にスライドした。ユリカが目の前に立っていた。部屋の中だが、ユリカはまだラフな格好ではなく、いつもの白い服だった。
「艦長。任務完了です」
ルリはいつもの調子で濃淡のない声を出す。
「ご苦労様。ルリちゃん。アキトもおつかれだね」
「ああ。と言っても、オレは何もしてないんだがな」
「そんなことないよ。ルリちゃんがアキトにいて欲しいっていったんだよ。だから、いっしょにいたことに意味があるの」
「お前ってよく、恥ずかしげもなくそんな台詞が言えるな」
「恥ずかしいって何が?」
「いや、言ったオレが悪かった」
きょとんとするユリカ。アキト嬢は盛大に溜息をついた。
「ともかく。ルリちゃんもこれで犯人がわかったかな」ユリカが言った。
「まあ、だいたいは」
「え、わかったの!?」
「まあ、だいたいは」
「で、誰なの?」
「教えません」
「え、なんで?」
「確証が無いですからね。それにまだわからないこともあるからです。ただ私がこの時点でわかるということは艦長も知ってもらっていたほうがよいと判断しました。だから、今、そう言っているのです」
「ふうん。ルリちゃんってすごいね。さすがだ」
言って、うふふと笑う。
「ちょっと待てよ!」アキト嬢が喉もはりさけんばかりに大声で叫んだ。「そんな簡単な問題か。さっきはよくわからないって言ったじゃないか! あれは嘘だったのか、ルリちゃん」
「まぁ、よくわからないというのも嘘ではないですよ。特に犯人の動機というか、目的というか、なんのためというのがぜんぜんわかりません。だからこれはひとまず保留しておいて、できるだけ客観的な証拠を集めようとしている。そういう段階なんです」
「じゃあ、せめて誰が犯人だと思っているかを教えてくれよ。それぐらいいいだろ」
アキト嬢がルリちゃんの両肩に手を添えて迫った。見た目は同年代の少女たちの喧嘩のように見える。
ルリはじっとアキト嬢を見つめた。どうして、こうも人は変わっていくのか。わからない。
わからないことは多い。ルリは混乱はしていなかった。しかし、まばゆいばかりの人の感情の光が見える。凄まじい情報処理能力がそれを可能にする。ルリはわからない。何をしたいのか。わからなくなっていく。
「私は、ナデシコのみんなが好きです」
と、ルリは迷った末に言った。
「だから、誰が犯人であろうと、それを指摘するのはきっと心が苦しい」
声はいつもと変わらなかったが、ルリは狂おしい想いを閉じ込めるように目を閉じた。アキト嬢はそれ以上は何も聞くことができずに固まるしかなかった。
沈黙が満ちて、目を閉じれば誰も見えない。
こんなに物理的な距離は近いのに、孤独が周りに満ちる。
独りは寂しいと思った。
「……ルリちゃん」
ふと暖かい感覚が生じた。
ルリはそっと顔をあげた。白い手袋が目の前にあった。
いつのまにかユリカがすぐ傍にいて、ルリはぎゅっと抱きしめられていて、そのまま優しく頭を撫でられていた。
「ルリちゃんは優しい子だね」
「私は冷たい少女です。きっと最後には犯人を指摘します。なにもかもそっとしておけばいいのかもしれないのに。探偵役ってどうしてそうなんでしょう。犯人よりも残酷な役だと思います」
「それでいいと思うよ。誰のためでもない。ルリちゃん自身のためにね」
「私のために?」
「そう。もっとルリちゃんはエゴってやつをだしてもいいと思うよ。エゴもルリちゃんの一部なんだからね。心の中には無駄な想いなんて何もないの」
「そうだな。オレもそう思う。ま、ユリカのようにエゴ丸出しになってしまったら、いろいろと問題あるけどな」
アキト嬢が補足意見を出した。
「なにそれひどいよ、アキトぉぉ! ひどい! ひどい! ひどい!」
「あー、わかったからわめくな」
「うーっ……」
ユリカは目じりに涙をためて、アキト嬢をものすごい勢いでにらんでいた。
その自由奔放さはルリには無いものだった。
ただそういった属性が無いからといって、ルリはユリカをうらやましいとは思わない。自分は自分でユリカはユリカだ。そしてルリは自分を律するだけの強い精神力があるということなのだ。それは常人に比すれば恐ろしいまでに強靭な理性の力によるものだった。おそらくルリ自身のパーソナリティに関わることなので、変えることはほぼ不可能に近い。普通の少女を演ずることはできるかもしれないが、そうはしたくなかった。
一方で、できうる限り、自分らしく生きていたいという想いもある。自分らしさというものがどういうものなのかはルリ自身にもわからないし、そもそも『らしさ』とは言葉によって人間を定義するための方策のひとつに過ぎないのかもしれない。
私らしさ。
そんなものは概念に過ぎない。
しかしながら、ユリカを観察して彼女らしいと考える、この思考はなんなのだろうか。言葉は多かれ少なかれ人を規定する。そこから逃れようとすればするほど、自分を失っていく。心が言葉で形成されていることは永久不変の原理だった。
「私らしさってなんでしょう」
ルリは素朴に尋ねた。
わからないことは聞くしかない。
「え、ルリちゃんらしさ?」
ユリカが首をかしげた。うーんとうなり声をあげてなにやら考えている。
そして数十秒後。
「頭がよくて可愛いかな」
と言った。
「頭がよくて、可愛いですか。そんな簡単な記号なんですね、私って」
「いや、あの、ちょっと違うかも。そんなことないよ。ルリちゃんは優しい子」
「それさっきも聞きましたけど」
「う……」
「結局、私ってまだ成長過程にあるんですね。いろいろと未発達みたいです」
「しょうがないよ。まだルリちゃんは小さな女の子なんだから」
ユリカは笑いながら言った。
「否定はしませんけど、いろいろと問題ありですね。現状を認識した気分です」
「気にしすぎてもよくないと思うよ。ルリちゃん。らしさなんてのは後からついてくるものなんだから」アキト嬢が発言する。
「そうですね。私もだいぶん、テンカワさんが女の子らしさを発揮しているのに慣れてきましたよ」
「女の子、らしさ……」アキト嬢はガーンと衝撃を受けたまま両手を頭に持っていった。「そんなに、女の子らしく、してたかな」
「してましたけど」
「オレは男。オレは男。オレは男」
呪文のように言葉を繰り返すアキト嬢。
ルリは感情表現が大げさなアキト嬢とは対照的に無表情のまま顔をあげる。
「それでは、私はこれで失礼します」
「ちょっと待って、ルリちゃん」ユリカが突然声をあげた。「ルリちゃんも私の部屋でいっしょに寝ていいんだよ」
「いっしょにって、艦長の部屋でですか。なぜいっしょに寝る必要があるんです」
「なんだかルリちゃんは独りが寂しいって感じてるのかなぁってユリカは思ったの。違った?」
「別に。寂しさは物理的な距離とは関係ないでしょう。また睡眠時間はおのおのが恒常的な性質に応じて摂取すべきです。無理にあわせようとすると歪みが生じます」
「さっきのルリちゃん。なんだか泣きそうだったよ?」
「そんなことはありません」少し語気が鋭くなってしまう。「私は泣けませんからね」
泣けないというのはある意味では、本当のことだった。理性の複層構造が感情を二重に引き起こし相殺させてしまう。その結果、どこまでも自分のことを客観化させてしまうのだ。一歩離れた位置から自分を見つめる鳥瞰の感覚である。その「私」の不在化現象に伴い、ルリは泣くことが困難なのだった。泣くという行為は根源的にはエゴの主張なのだから。
「でもね。ルリちゃんだって人間なんだから、たまには弱さを見せてもいいんだよ」
ユリカの口調は優しさにくるまれている。
「私は弱くありません」
「そう、それがルリちゃんの弱さなんだ。自分が弱いっていえない弱さなの」
「そんなこと、どうでもいいじゃないですか」
消え入りそうな声でルリは答える。
そしてそのまま駆け出した。後ろも振り返らずに、いつもの礼儀正しい態度も忘れて逃走した。
どうしてこんなに怒りが湧くなのだろう。
すぐにわかった。
その感情を見つめる自分がいる。怒りは本当の気持ちではなくて、防衛反応だ。
その奥にある感情は、
受け取ることの恐怖。抱きしめられる恐怖。優しくされる恐怖。
優しくされると、その優しさがいつか消え去ってしまうのではないかと不安になってしまう。
現状保持機能《ホメオスタシス》と形態生成《モルフォジェネシス》のバランスが大きく揺らぐ。
どちらを選択したいのか。
今のままがいいのか。
変わりたいのか。
変わることは喪失。
失うことは成長。
内と外。
現在と未来。
どちらを望んでいるのか、わからなかった。
――15――
時間は優しい。
人々の想いをすべて受け入れて、流れ続ける。
翌日。朝食をとる前の早い時間帯に、ルリは自分の部屋を抜け出して長い廊下を歩いていた。目標の人物に会いに行こうとしている。オモイカネに聞いたから、場所はわかっている。この時間帯に彼はすでに仕事をしているようだったが、彼には暇な時間がないようなので、とりあえず、ぶっつけ本番で会ってみようと思っていた。いつものルリと比べれば慎重さに欠いた行動である。
部屋の前でブザーを押す。
扉はすぐに開いた。彼――アオイ・ジュンは事務机に座って、A4用紙の紙に署名と押印を繰り返していた。
書いてぺったん。書いてぺったん。書いてぺったん。ルリが覗き込むと、署名のところは艦長代理と書かれてあった。
電子化が進んだ現代において、無意味なほど資源の無駄だと思わないでもなかったが、そういった実体感のある情報に人は安心を覚えるのかもしれない。
「ん。ルリちゃんか。なんだい」
「少し聞きたいことがあります」
「ああ、ちょっと待ってね。あと少しで明細の報告書が切りのいいところになるから」
アオイ・ジュンは言わば裏方であり、ナデシコの雑務全般を扱っている。その仕事量は実はナデシコクルーの中で一、二を争う膨大さだった。
「すいません。お仕事中なのに」
「いいよ。僕の仕事って、クルーのみんなに快適な生活を送ってもらうことだからね」そこでジュンは仕事が切りのいいところまでいったらしく、作業を止めて身を乗り出した。「事件のことかい?」
「はい。そうです」
「事件ね。まぁよくわからない事件ではあるけれど、それほど重大な事件ではないとも思えるかな」
「え、どうしてですか」
「僕にはだいたい犯人がわかったからね」
「犯人がわかったんですか?」
「そう、たぶんね。でも証拠はないし。暴き立てる必要性も感じない。だからそのままでいいと思ってるんだ」
「よくわからない事件なのに犯人がわかったってどういうことなんですか」
「ごめん。わかったっていうのは言いすぎかもしれない。だけど、なんとなくね。情況から考えて僕には犯人のイメージが浮かんだんだよ」
「ふうん。そうですか。じゃあ理性的かつ論理的に犯人を特定したわけではないのですね」
「そりゃそうだよ。だいたい今回の事件って証拠になるようなものは何も残してないだろう? 犯罪の立証は難しいかもしれないね。特定できない以上、もうどうしようもないよ」
「確かに確定的な証拠はないかもしれませんけれども、消去法的に犯人の特定が可能になるかもしれませんよ」
「その可能性はあるね」ジュンはそこで事務机の上に置いてあったコーヒーをすする。「あ、ルリちゃん。座ったら?」
「いえ、このままで結構です。それほど時間はかかりません」
「そう。ところで聞きたいことって?」
「当時、ナデシコクルーがどこにいたのかを知りたいんです」
「つまりアリバイを聞きたいわけか。でもどうして僕に? オモイカネに聞けばいいじゃないか」
「人の視点というのも必要だと思ったんです。オモイカネは電子的な記録には精通していますけれど、それ以外の場面ではわずかに後退しますから」
「そうか。それはわかったけど、僕だってみんなの行動を把握しているわけではないんだけどな」
「でも、一番詳しい」
「そりゃそうかもしれないけどね。でもまあ、僕の知っている限りのことは答えるよ」
「それでは聞きます」ルリはそこで一呼吸置いた。「まず、アカツキさんについてですが、本当に事件当時ナデシコを離れていたんでしょうか」
「それはまちがいないみたいだね。エステバリスを動かすにはそれなりの手続が必要なんだけど、僕は全部の書類に目を通しているからね。ウリバタケさんの報告にもあったんだけど、アカツキ機が外に出ているのはまちがいないよ。誰か実際に発進しているところを見ていると思うから聞いてみればどうかな」
「そうですか。オモイカネ記録をお願い」
コミュニケがルリとジュンの横に現れる。ルリが視線を横に流して記録を確認すると、まちがいなくアカツキ機は発進していることがわかった。ジュンが口を開く。
「とりあえずだけど、こんな感じかな。IFSを持ってないとエステバリスは動かせないからね。ナデシコのクルーでも限られてくるだろうし、彼は犯人じゃないよ」
「そうみたいですね。他のパイロットの方が動かした可能性も少しはありますけど、あまりにも目撃されやすい状況ですし、アカツキさんはあの当時ナデシコにいなかったと考えるのが順当ですね。では他のクルーについてですが、とりあえず他のエステバリスのパイロットの人たちについてはどこにいたのかわかりますか」
「彼女たちのことか。そうだな、確か犯行時刻は九時頃だったはずだよね」
「そうですね。オモイカネと話していた直後ですからよく覚えています」
「その頃、僕はちょうどリョーコちゃんたち、三人と通路ですれ違ったな」
「よく覚えてますね」
「ちょうど仕事が一段落ついたところだったんだよ。そうそう彼女たちたぶんお風呂に入りにいったんじゃないかな」
「銭湯のほうですか」
「そうだね。あっちのほうが落ち着けるからかもしれないね」
ナデシコは個人の部屋ごとに小さなお風呂を完備しているが、それとは別にサウナつきの銭湯があるのだった。
ちなみにルリはあまり利用したことはない。一人で入るほうが好きなのだ。
「あとで聞いてみたほうがいいですね」
「そうだね。仮にルリちゃんが本当にホシをあげたいなら、そうするべきだろうと思うよ」
「ホシ?」
「犯人のことだよ」
「ふうん、そうなんですか。変な日本語ですね。というか、私の名前って……」
「刑事しか使わないスラングだよ」
「面白い言葉ですね。バカらしくて」
「他には聞きたいことはない?」ジュンが聞いた。「といっても、他のクルーのことについては実はよくわからないんだけどね。パイロットの彼女たちとすれ違ったあとは、僕は食堂で夜食を食べて、それからまた部屋に戻って仕事してたから」
「そうですか。他の人のことについてはもうわからないんですね」
「そういうことだね」
ルリは一度目を閉じて、それからゆっくりと考えを整理し始めた。情報をファイル化して、重要度を換算する。意味の無い情報と意味のある情報をとりあえず目算で置いてみる。そういった作業こそが推理と呼ばれるものだ。
数秒後。ルリは閉じていた目を開いた。
「ありがとうございました」
「ルリちゃんは犯人を見つけて、それからどうするつもりなんだい」
ジュンは再び書類にサインをしながら尋ねた。ジュンの真意はルリにはよくわからない。ただの興味で聞いたのだろうか。
「犯人を見つけて、動機を聞きます」
「わからないことが嫌なの?」
「そうかもしれません。でも、本当にそれが良いことなのかはわかりません」
「良いことなんて、その人次第だよ。他人のことを考えすぎると見失うことも多いよ。ルリちゃんの場合は特にね」
「そういうジュンさんだって、ユリカさんに滅私奉公してるじゃないですか」
あえて、艦長と呼ばないところがルリの計算高さだ。
ジュンの筆跡が大きく乱れた。
「う、別にユリカのことはいいんだよ。僕が好きでやってるんだし」
「報われませんね」
「ほっといてくれ」
「ほっときます。お馬さんに蹴られたくないですし」
「ルリちゃんて、わりと毒舌だね」
「毒舌です。だって、少女ですから」
――16――
ジュンの部屋から出たところで、ルリの目の前にコミュニケのウインドウが出現した。
イネスからの通信だった。こんな朝早くに起きていることは珍しい。
「ルリちゃん。良い知らせよ」
「良い知らせ?」
「そう、良い知らせ。みんなにも後で知らせておくけれど、特別にあなたには先に教えるわ」
「なんです?」
「アキト君なんだけどね。元に戻す方法が見つかったわ」
「それは本当ですか」
ルリの声がわずかに大きくなった。
「本当よ」
イネスは満足げに頷いた。それから彼女はなぜか押し黙った。ルリはじっと待つ。けれどイネスは口を開かない。視線は地へと落ちている。 何か言いがたいことでもあるのだろうか。妙な空気が流れ、ついにルリは耐え切れなくなった。
「どうしたんです? イネスさん」
「……」
「イネスさん、説明を」
「説明しましょう」
ニヤリと笑うイネス。この時を待っていたのだ。言質を取ったイネスはそれからねちねちと説明をし始めた。
しかし、ストーリィとは関係ないので割愛する。
「――というわけで、こういう方法をとれば、DNAの破損部分を修復できるってわけなのよ。どう、すごいでしょ」
「はぁ……、私がバカでした」
ルリは小声でひとりごとを言う。
それでもまったく聞いてなかったわけではないので、ルリは要点だけを述べることにした。
「結論的に言えば、テンカワさんを元に戻せるってわけですね」
「そうよ。しかしね……、問題は時間よ。時間の経過とともに先のアキト君を少女化させたDNA可変剤の効果が定着してしまう。だいたい、そうね。三日ぐらいが限度ってところ。それまでに今述べた処置をすれば、元に戻すことが可能よ」
「三日ですか。明日までですね。間に合うんですか。元に戻す薬」
「作成自体はギリギリ間に合うと思う。でも実験とかしている暇はないと思うから、ぶっつけ本番になるわね」
「危険はないんですか?」
「科学に犠牲はつきものよ。そもそもライト兄弟が飛行機で空を飛んだとき落ちる危険性はなかったかしら。アポロが月に行くとき、地球に戻れなくなる危険はなかったかしら。細菌治療につくしてきた医者が感染する危険は? みんな危険なのよ。そもそも生きるということは危険がいっぱいなの。安全なほうが例外的事象なのよ。それを人間は忘れているの」
「命の危険と天秤に乗せて得られるものは、男に戻ることですよ。たかだかそれだけのために命をかけるんですか」
「それはアキト君次第だけど、彼なら絶対に戻ると言うと思うわ」
「そうかもしれませんね……」
守るためという理由で、戻るのかもしれない。
「大丈夫、ナデシコクルーはみんなネルガルとの契約時に保険にも加入してるから」
「……」
だから科学者は嫌いなのだと思ったり、思わなかったり。
それはともかく、テンカワ・アキトが元に戻ることは客観的に考えて良いことだろう。自分にとってはどうだろうか。やはり、嬉しいのかもしれない。それは実際にそのときになってみなければわからない不確かさを備えた感覚だったが、ルリの心の中にじんわりと暖かさが生じているのがわかる。
「テンカワさんが元に戻る」
ほとんど誰にも聞こえない声でルリはひとりごちる。その言葉は自分自身にすら聞こえなかった。
ルリがブリッジに出頭すると、すでにイネスの話は伝わっていた。人間のコミュニケーション速度が肉体の運動速度を超えているということの一つの証左だろう。
情報の伝達速度は早い。いずれ光の速さも超えていく。けれど人の生きる速さは変わらない。
いつか時間に殺されるのではないか。そんな雑念が突如生じた。
ルリは不安を押し殺すようにミナトの隣の席に座る。そのままナデシコのオペレートをはじめると、自分とナデシコが一体化したような感覚が生じて、安心感のようなものがもたらされる。
システムはオールグリーン。敵影はなし。
今のところ平和だった。
「ちょっと危ない人って感じだけど、やっぱりやるときゃやるわねえ。イネスさん」
ミナトが話しかけてきた。今は仕事らしい仕事もないので暇なのだ。それはルリも同じことだった。細かいデータの整理などはあるが、たいした仕事ではない。手を置いてIFSで操作すれば、わずかな集中力でできる。その片手間で会話をすることにした。
「イネスさんは天才ですから」
「天才、ね。ま、この船は腕は一流の人たちばっかりってことになってるらしいから、それも当然よね」
「一流と天才って同じ意味なんですか」
「さあ、よくわからないわ」
「ミナトさんに聞きたいことがあります」
ルリが囁いた。
そして、視線をミナトに向けた。いつもはほとんど人の顔を見て話さないルリがこうやって真摯さを出すというのはとても珍しいことだった。ミナトはなんでも答えたいと思ってしまった。
「なにかしら。私で答えられることだったら、なんでも聞いていいのよ」
「この事件の犯人って、ミナトさんの感覚からすれば天才なんでしょうか」
ルリがそういうふうに天才について聞くということは一種の一般人との感覚のズレを認識しているからに他ならない。
天才になるような教育を受けてきたため、天才という概念がよくわからないのだ。
「うーん。そうねえ……。天才って感じじゃないかもしれないわ。だって、やってることはめちゃくちゃだし。意味がわからないでしょ。私から言わせてもらえれば、変態さんって感じ?」
「そうですか。実は私もそう思ってたんです。能力的にはすごいですけれど、やってることは何かちぐはぐな印象を受けてます」
「そうね。でもアキト君が元に戻るんなら、結局、犯人って何もしなかったことと同じことになるわね」
「そうですね。でも、だからこそ」ルリは思考を跳躍させる。「犯人が何かモーションをかけてくるかもしれない」
「まさか。仮にそうだとしても二度目は難しいわよ。ミスター・ゴートの艦内巡回だって強化されているんでしょ。彼ってさりげにアキト君を守るように気を配ってるみたいよ」
「そのようですね」
要人警護に関してはゴートはプロなのだった。おそらくはアキト嬢が要人だからというわけではなくて犯人が二度目の犯行をしかけてくる可能性もあるから、マークしているということだろう。仕事に私情を持ち込んでいるわけではないのだ。
「もう一つ、ミナトさんに聞きたいことがあるんですけどいいですか」
「なーに?」
「始めに言っておきますが、私はミナトさんを信頼しています。つまりミナトさんは犯人ではないと思っています。論理的思考ではないですけれど、確信に近いです。逆に言えば、ミナトさんが犯人だったとすれば、私は別にそれでもいいと思っています。テンカワさんを少女化したのにはなんらかの理由があるのでしょうし、たぶんそれは正しいことだと思うから」
「ルリルリ……」
ルリは全身全霊でミナトを信頼した。そういったリソースを全開まで使用することはルリにとってはほとんど皆無に等しい。
「だから、聞きたいんです。事件当時。ブリッジに誰が残っていましたか?」
「夜だったから、ほとんど誰も残っていなかったわ。基本的にナデシコってブリッジに誰もいなくてもいいでしょ? 確か、私とメグちゃんぐらいかな。ああ、後ろのほうにプロスペクターさんがいたような気がするわ」
「プロスペクターさんが?」
用事もないのにブリッジに来るのは珍しい人物と言えるだろう。
「特に用事はなかったみたいなんだけど、ジュン君を探しにきてたみたいね」
「それならありえますね。なんだかんだいって、アオイさんって重要人物なのかも」
「ま、目立たない役柄だけどね」ミナトは笑っていた。「ああ、そうそう。もうひとりブリッジにいたわ」
「誰です」
「この子よ」
ミナトが椅子の下から取り出したのは、ゲキガンガーのぬいぐるみだった。
艦長代理と書かれたリボンがピンでとめられている。
「なるほど……」
ルリは抑揚のない声で答えた。
――17――
星の色は黒い平面に浅く散りばめられたビーズのように美しかった。けれど、眼前に広がるビジョンはすべてホログラムが作り出したイメージ画像に過ぎない。七色に光る星も、すべて偽りだった。
しかし、たとえ幻惑された虚像だとしてもその美しさは人間の感性に美しいと感じさせるに十分であり、その意味においては虚像といえども現実なのである。つまりは現実が虚構に侵食されているともいえるし、現実が虚構を侵食しているともいえるだろう。
両者は相補的であり、いわば、ハイブリダイゼーションなのである。
ところで、ここ、ヴァーチャル・ルームの用途は基本的には娯楽である。いろんなシチュエーションをコンピュータのデータを用いて、仮装することが可能なのだ。
現在の使用者は宇宙の気分だったらしく、季節が無い世界が設定されていた。それは時の流れが非常に緩やかであるということだった。
部屋の中央には椅子が置かれておりそれ以外には何もない。ソファのようにゆったりと座れるタイプの椅子だ。そこに『犯人』が座っていた。椅子に座っている『犯人』のことを便宜上、Yと呼称することにする。
犯罪を犯した者は検察官に起訴されれば被告人であり、被告人はしばしばYと表記されるというのがその理由である。
Yは片肘を椅子につけていた。こぶしは頬のあたり。片手は椅子につけている。そしてYはゆっくりと口を開いた。目の前には誰もいない。しかしホログラフを用いて、ナデシコ内の誰にでも通信は可能だ。Yは椅子に備えつけられたIFSを用いて、誰かと通信をしている。
Yは少し焦っていた。予定と違い、テンカワ・アキトが元に戻るということを知ったからだ。このままでは当初の目的が達成できなくなってしまう。想いが途切れる。それでは意味がない。
かといって、すでにホシノ・ルリを騙し続けることに限界を感じてもいた。目的を達成することさえできれば、それでよいと思っていたが、今のまま黙って見ていれば、まちがいなくテンカワ・アキトは元の姿に戻ってしまう。
ルリの頭脳を持ってすれば、一段と警戒を増すはずなのはまちがいないとYは考えた。不意打ちに近いことができるのか、ギリギリの戦いになるだろう。
しかし、Yは笑っていた。ルリと正面から戦ったことはないが、あるいは楽しめるかもしれないと考えたからだ。
それは戦闘行為そのものをというわけではなく、戦闘行為によって派生的に生じるルリのむきだしの感情を見たいと思ったからだ。
ルリは冷静沈着かつ客観的な性格をしており、ああ見えて実はひどく他人に気を使って生きている。気を使いすぎて、今のように他人との距離を開けすぎてしまっている。気持ちが離れているのである。少なくともYはルリをそう分析している。分析とは言わないまでも、そう感じ取っているのだ。
おそらく、ルリの内面はガラスのようにひどく脆い。
人並みな少女に過ぎない。
だからこそ、手を引いてあげたいと思ってしまう。
たとえそれが彼女を破壊することになっても。
そう――、破壊とは創造だ。
矛盾だろうか。
しかし、恒常性を破壊しつくさないと、形態生成は起こりえない。
殻を破る必要があるのだ。もちろんそれはYのエゴに他ならず、大いなるお節介というやつだったが、Yはそれでもルリと関わりを持ちたかった。たとえ、敵同士としてもである。
「敗北は痛みを伴う」
と、通信相手から返信があった。文面からは不安がにじみ出ているようだった。
確かにルリを完膚なきまで叩き潰そうというのだから、それは、危ういバランスで成立しているルリの精神をかきまわすことに他ならない。無理やり彼女を成長させようというのだから。
それでもYには確信があるようだった。ホシノ・ルリは壊れたりしない。彼女には未来を創り出す能力がある。
Yは明朗な声で答えた。
「どうにか、なるよ」
――18――
ホシノ・ルリはいつもより早く仕事を切り上げて、アキト嬢の姿を探すことにした。ほどなくして彼(あるいは彼女)は見つかった。オモイカネに聞けば、誰がどこにいるかは基本的に五秒ほどでわかる。コミュニケをはずしていても、艦内のモニタを走査し、数分で見つけることが可能だろう。
アキト嬢は厨房にいた。身長が若干足りないため、椅子の上にのっかってボウルをかきまわしていた。野菜を細かく切り刻んだものをかきまぜている。中華系の料理のようだが、ルリにはよくわからない。着ているエプロンはどこから用意したものかピンク色で、袖をまくりあげて細い腕を見せていた。
「ん、ルリちゃん、なんか用かな?」
「まあ、そんなところです」
「ちょっと待って。ホウメイさんにことわってくるから」
「別にいいですよ。片手間に聞いてください。たいしたことではないですから」
「そうかい。じゃあ、作業しながら聞くよ」
「テンカワさんは男に戻る気あるんですか?」
ルリは端的に質問した。アキト嬢は振り返って答える。
「当たり前だろ。そんなこと」
「実験とかしている暇がないようですから、わりと危険っぽいらしいですけど」
「それでも戻るさ」
「そんなにも男に戻るって、大事なことなんですか」
「そうだな。奪われたものは取り返すって感情もあるよ。誰だか知らないけど、俺の意思も関係なくこんな格好にしたやつに対する復讐だよ」
「復讐ですか。テンカワさんには似合わない言葉ですね」
「そうかな……。じゃあ、形から入るさ」
「形から?」
「黒づくめの服を着たり、バイザをつけたり。ともかく悪役っぽく振舞うのさ」
「黒づくめの格好でバイザをつけたりするんですか? 今の姿でやったらギャグですよ。バカ決定です」
「ふぅ……、ま、そうだろうな。ともかく、犯人の意図どおりにはならないっていう気概があるんだよ」
「男としてのプライドなんですか」
「そうかもしれないな」
「私にはよくわからないですね」
「わからなくてもいいさ。ともかくオレが元に戻らないとナデシコとしても困るだろ。エステバリスのパイロットが一人減るんだしな。戦力低下だってプロスさんも言ってただろう」
「やっぱり、そこなんですね。テンカワさんは戦争したいんですか?」
ルリは冷たく指摘した。ほとんど感情がこもらない声色である。
アキト嬢は力強く頭を振った。
「そうじゃないさ。でも、ナデシコが落ちたら、みんな死ぬ。オレだけが黙って見ているなんてできないよ」
「艦長もいます。他のパイロットのひとたちも。私だって……。ナデシコは大丈夫です」
「いや、オレがしたいんだ。オレが守りたいんだよ」
「カッコつけてますね」
「オレはね。ルリちゃん。目の前で人が殺されるのを見たくないんだよ」
「……」
ルリはじっとアキト嬢を見つめた。
そうすることで、自分の感情を正確に知ろうと努めたといえる。しかし感情は一瞬一瞬が星の光のように瞬いては消えて、決して一つの定点に定まることが無かった。
「なんとなく、わかりました」とルリ。
「え?」
「どうしたらいいか、よくわからなくて、それでもなんとかしたくて、言葉を自分の中から繰り出したいと思う。そんな気持ちです」
「なんのこと?」
「つまり」ルリは、一度だけ息をつく。「犯人はきっとテンカワさんが男に戻ろうとするのを邪魔してくるってことです」
「どういう、ことなんだ?」
アキト嬢がうろたえて、ボウルを地面に落としそうになったが、ルリはアキト嬢の疑問には答えずにそのまま厨房を後にした。
想いが加速している。言葉があふれ出しそうだ。躰中が熱かった。アキト嬢との短い質疑応答の中で、わずかながら犯人の意図を垣間見たような気がしたからだ。仮定のひとつに過ぎなかったものが一気に再評価される。
犯人はきっと仕掛けてくる。
ルリはそう確信した。
通路には音が無い。
アキト嬢との問答が終わったあと、ルリは珍しくナデシコの銭湯へと足を伸ばしていた。今は昼のため利用するクルーも少ないが、パイロットの三人娘たちはたまたまこの時間に利用しているようだった。
暖簾をくぐると、木張りの床が目についた。ナデシコでは珍しい前時代的な造りをしている。少しだけ香る木の匂いが気持ちを落ち着かせる。
ルリは索敵するかのように、周りを見渡しながら足を進めた。着替えはロッカールームでする。そこに三人がいた。
「あれー、ルリルリ。珍しいねー」アマノ・ヒカルに話しかけられた。「ルリルリも銭湯入るの?」
「はい」
「ルリ、テンカワはいっしょじゃねーのか?」リョーコが横から口をだしてきた。
「テンカワさんはああ見えて男ですから。いっしょには入らないんじゃないですか?」
「そっか。ま、別にいいけどよ」
ちょっと残念そうだ。
「アキトちゃんがいないと寂しいのねえ。リョーコちゃんは」とヒカル。
「うっせー、バカなこといってんじゃねーぞ!」
リョーコが口を大きく開いて反論をする。まるで金魚のようだとルリは不謹慎な思考をした。もちろん口には出さない。黙って事の成り行きを見守るのみだ。
「だいたい、オレはな。テンカワのやつが女になっちまってるから、同じパイロット仲間として慰めてやろうと言ってるだけだ」
「ほうほう。慰めてあげちゃうんですね。リョーコお姉さんが。百合百合ー」
「バカー! だから、違うつってんだろーが!」
「テンカワがいれば、リョーコの機嫌は良好……、くく」とイズミ。
普通に怖かった。
状況を見守りつつ、ルリは端っこで目立たないように着替えた。少女だから少し恥ずかしい。他の三人は年が同じぐらいだからか、あるいは戦友どうしなためか、無邪気とさえいえるほど、隠すこともなく堂々と衣服を脱ぎすてつつある。
「ルリルリってば、予想どおりというか見た目どおりというかちっちゃいね」ヒカルが言った。
「これからです」
むきになる必要もないので、受け答えは自然だ。
なにしろ、ルリは自分が発展途上であることを、自身が一番理解していた。
ルリはすべての衣服を脱いだあと、頭と躰にオレンジ色のタオルを巻いた。ツインテールをおろすと、ルリは胸に届くぐらいの髪の長さである。わりと、ボリュームがあるのだ。
三人はサウナへ向かったようなので、ルリも後ろに従った。
六角形の大きな台座が部屋の中央にある。それぞれ、腰を下ろした。そうするとおのおのの視線はばらばらになり、顔をあわせることはなくなる。
そういうコンセプトらしい。
「ふぅ……」リョーコがリラックスした息を吐いた。「落ち着くな」
しかし、ルリはちょっと熱に浮かされたように頭がぼーっとしていた。こういった外環境の変化にはルリの躰は強くできていないのだ。
「ルリルリ、大丈夫なの?」とヒカル。
「お子様にはまだサウナは早いんじゃねーか?」とリョーコ。
「別に。たいした問題じゃないです」
ルリは平静を装って答えた。
「それで……、何を聞きたいわけ」
熱いサウナの中で地の底から響いてくる冷たい声があった。イズミの声だ。
ルリは驚いて、背中合わせのイズミに顔を向ける。イズミは振り返りもしていない。
「何か聞きにきたの?」ヒカルが尋ねた。
「ええ、そうです」
ルリは頷いた。頷いても背中合わせなので誰にも見えないが。
「テンカワを女にしちまったやつを捜しているらしいな」リョーコが怒気をはらんだ声を出す。犯人に対する怒りだろう。
「ええ。犯人を捜しています」
「ふうん。偉いね」ヒカルが目を見開く。「犯人がわかったらもっとすごいけど」
「偉いとか偉くないとか関係ないです。ほとんどはオモイカネを勝手にいじった犯人に対する憤りが動機ですから。オモイカネはある意味インフラストラクチャとしての側面が強いですから、それを保全する行為は確かに『偉い』とはいえるかもしれませんけれども、本当のところは私がやりたいだけなんです。オモイカネは大事なお友達ですから」
「イングラム、ぱらら?」ヒカルは疑問顔。
「基本設備ってことよ。オモイカネはナデシコクルーにとって必要な存在だから。私みたいな不幸をまきちらす女と違ってね……」
イズミがたまには真面目に答える。
「かー、意味わかんねーな、ほんと。ていうか頭がぼーっとしてきた。ルリ、聞きたいことあるならさっさとしろ」
「はい。ではさっそく」リョーコに促される形で、ルリは質問を開始した。「事件当時、リョーコさんたちはどこにいましたか?」
「そうだな。確かここだよ。ここ。な、おまえら」
イズミとヒカルも頷く。
「では、他には誰かいましたか?」
「おぼえてねーな」リョーコは首を横に振る。
「私もー」とヒカル。
「オモイカネは重いかね? ぷほぁ!」
久しぶりの快作だったらしく(むろん、イズミ自身の個人的な評価であることは言うまでも無い)そこから、彼女はたっぷり三分ほど笑いをかみ殺しつづけた。ルリは無視することに決めた。
結局、得られた情報は少なかったが、ルリ自身は満足していた。
情報量と情報の価値は反比例の関係にあることが多い。ネットワークが発達しだした黎明期を思い出してみれば、そのことがよくわかる。誰もが情報を発信しはじめた時代。情報の価値は相対的に下落した。それは捜査でも変わらない。重要な情報を摂取してみても、塵のような情報に惑わされてしまうと、真実はつかめない。
「これで、だいたいは終わりですね」
ルリは言った。それから一足早くサウナを出た。躰がほてっていて熱かったから、途中で水風呂に身を浸した。ひんやりとしてとびあがりそうな冷たさだったが、逆に気持ちよかった。
――19――
決断はいつも最大の力を要する。
思うに、人間は人生の半分ほどを惰性で生きているといえるだろう。慣性運動系のように時間の流れ、事象の変移に適応することで、なりゆきで生きているのだ。決断は流れを変える行為である。選択は、だから最大の力を行使する必要がある。
ルリは決断をした。
ガチャリと文字が組み合わさる。ウインドウの中で『愛』と『愛』がつながった。
落下してくるアイの文字たちをつなぎあわせて消していく、いわゆる落ちゲーをルリはプレイしていたのだ。
ルリがさらに指先を動かすと『愛』が四つにつらなって消えた。四角関係はさすがに崩壊するということなのだろうか。こんなふうに壮大なように見えて、人生とは瑣末でつまらない作業なのかもしれない。
データが次々と落ちてくる。レベルは最大で、ルリでもかなり難しい。情報操作的には問題はないが、ゲームをするときはIFSではなくコントロールパッドで操作するので、肉体の動作がうまくついていかないのだ。
一瞬の迷いが言葉を揺らがせる。
そして、ルリの脳内にあった計画はあっけなく瓦解する。すぐに計画を再変更するが間に合わない。
積み上げられた言葉が画面いっぱいになって、ゲームはあっけなく終わった。
「おしかったですね、ルリ」
オモイカネが通信してきた。
「そうだね」
ルリは無表情に答えを返す。
「ルリ」
オモイカネがさらに言葉を出力した。
「何? オモイカネ」
「決断力が低下しています。何か気にかかることがあるのですか」
ルリは数秒間黙っていたが告白するかのように言葉を紡いだ。
「子どもは天使、無垢で無邪気で、天真爛漫で、誰もが守ってあげたくなる存在って言われているけれど、私はそうじゃないみたい」
「一般の定義で言えば、ルリは実年齢からして児童であり、更に言えば成年に達していない以上、子どもです。ナデシコのクルーの誰かにいじめられましたか?」
「そうじゃない。ナデシコのみんなは優しい。優しすぎて怖いくらいだよ。私は私が何をしたいのかわからなくなっているの」
「人間に固有の体性感覚ですね。先日、質問したときと同じ状態ですか」
「そう。無意識と意識がせめぎあってる感じ。理想する未来のヴィジョンは見えているのに、どうやって到達すればいいのかわからない。生きるのって難しい」
「人間の体性感覚は私には理解できませんか?」
「完全な理解というのは不可能なのかもしれない。オモイカネは単一中心《モノセントリック》な考え方をしている。一つの事象に対して、一つの答えを適合させている。揺らぎが無い思考形態だよね。つまりオモイカネの公式内では黒か白かはっきりと決することができているし、表面上『正しい』解答が得られる。その答えを絶対化することができる。でも人間はそうじゃない。多面的にいろんな事象を考えてしまう。それはちょうど一足す一は本当に二なのかと考える思考に似ている。論理を飛び越えて思考を跳躍させて、最後にはどこに行きたいのかすら考えていないってことなの」
「私の辞書の中にある言葉に換言すれば――」オモイカネが検索する。「人間関係は複雑だということでしょうか」
「オモイカネは頭がいいね」
「いいえ。本質的な理解をするにはまだ時間がかかりそうです」
「オモイカネ、私はどうすれば私が理想とする現実を得ることができるのかな」
「ルリの理想とする現実とはなんですか」
「わからない。でもね、オモイカネが誰からも不当な干渉を受けないようにしたい。これは真実だよ」
「なら迷う必要はないはずです。いつものように冷静に客観的に犯人を指摘すればいい。なのにルリは迷っている。不安定で非論理的な状態です。ルリ、あなたは犯人が誰かわかっているのではないですか」
「……」
ルリは答えない。
「私は、ただ――」
「失うのが怖いのですか」
「違う!」ルリが声を荒げた。すぐに声はしぼんでいく。「違うよ、オモイカネ……」
「犯人を指摘したくないということは、潜在的に犯人との人間関係の変移を恐れているということでしょう。より正確に言えば、人間関係の崩壊を恐れているということですね」
「やめて……、お願い」
「ルリの今の状態は統合精神失調症によく似ています。もっとも、私には人間の精神状態を完全に理解できるとは思いませんし、病理データとルリの行動とを符号させたに過ぎませんが、危険である蓋然性が高いです。イネス女史に助力を乞うのを推奨します」
「ごめん、大丈夫。私は大丈夫だよ」
深く息をつく。
失う恐怖、そんなものがあるとは考えたことも無かった。喪失なんて自分が死ぬことぐらいしか無いだろうと思っていたのだ。守るべきものはなかった。欲しいものもなかった。だから恐怖も無かった。
けれど、今はもう壊したくないものが増えすぎてしまっている。この感覚は久しい。
――あれは、いつのことだったろう。
ルリがすでに過去と化した記憶を手繰る。まぶたの裏に丸い小さな機械の躰がよみがえる。ナデシコに乗るずいぶん前の昔、ルリが三歳ぐらいのころ、ちょうどサッカーボールのような形をした機械の友達がいた。オモイカネに比べれば幼稚で文字通り子どもだましなプログラムしか入ってなかったが、ルリにとってはそのコは友達だった。
けれど、いつの日か、そのコは動かなくなった。ルリは幼いながらも考えたことを覚えている。
――どうして、壊れちゃうの?
違う。
そうじゃない。
本当は、
こう思ったのだ。
――どうして、私じゃなかったの?
ルリは自分が壊れることを望んだ。もっと根源的な表現をすれば、消えたいと思った。消えることで、失ったものを取り戻したかったのかもしれない。つまり、ルリは交換を求めたのだ。生と死の相転移を。
その破滅的で暴力的な感情は今もまだルリの中に息づいている。決して消去することのできない言霊として無意識の中で残響している。
「オモイカネ。今から私が言うことは現時間においてのみ参照可能にして」
「ログとしても、テンポラリフォルダのデータとしても残さないということですか」
「そう」
「わかりました」
ルリはオモイカネに感謝した。そして、今だけは無表情の仮面をはずした。
「オモイカネ」遅延時間。「私」遅延時間。「寂しかった」
空白の時間が沈黙で埋め尽くされる。
「記憶領域、クローズしました」
「ありがとう、オモイカネ」
「なんのことですか?」
「いいの。そう言いたかったから」
当然のことながら、オモイカネの表層記録にルリの言葉は残っていなかった。
しかし、ルリの言葉がこの世から完全に消滅したわけではなかった。発せられた言葉は完全に消滅することはない。想いは溶かされて無意識に流れていき、言霊として残るのである。
では、誰かに伝えることを目的としながら、飛び立てなかった言葉はどうなるのだろうか。
ルリはすでに答えを知っている。
死体になるのだ。
想いの圧力に押しつぶされて、細切れにされ、枯れ葉のように積もる。そしていつかは腐臭を放ちはじめる。
だから――とルリは思う。
言葉を殺してはならない、と。
――20――
夜九時ごろのブリッジはまるで通夜のようにシンと静まり返っている。
アキト嬢が元に戻れるタイムリミットまでちょうどあと一日というところだった。
「時間が教えてくれているのかもしれませんね。選択の大切さを」
「どうしたの、ルリルリ?」ミナトはいつものように笑いかけながら、ルリを気遣うように声をかけてきた。
「たいしたことではないです。私もそろそろ決断しないと、時間に殺されてしまうということです。そんな当たり前の事実に気づきました」
「ふうん。ルリルリって難しいこと考えてるのねえ」
冷や汗を額に浮かべるミナト。
それ以上、自前の考えを披露しすぎるのも無意味だと思い、ルリは席を立つことにした。
「先に上がります。よろしいですか」
「もちろんよ。おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
ルリの足は自分の部屋の方に向かってはいなかった。
少しお腹がすいたので、寝る前に食べるのは健康には悪いと思いながらも食堂に行こうと考えたのだ。彼女にしては珍しい単純な思考である。もともとルリは食に対してそれほどこだわりがないのだ。
従って、選択は迅速である。食堂に着くと、ルリの小さな指先はチキンライスの食券に向かって一直線に伸びた。が、ボタンを押すか押さないかの瀬戸際で背後から声がかかった。
「ルリちゃん、こんな時間に珍しいね」
ルリはボタンから指を遠ざけて振り返る。
「テンカワさん。仕事終わったんですか」
「ああ、今しがた。ルリちゃんはどうしたの? 何か食べに来たのかい」
「そうです。少しだけお腹がすいたんで」
目を伏せ気味にルリは答える。わずかながら羞恥の心があった。
「じゃあ、オレが何か作ろうか。わざわざ食券買うのももったいないしさ」
「でも、テンカワさんは仕事が終わったばかりでしょう?」
「ラーメン店開くための練習だよ。いいかな?」
「いいですよ」
ルリは快く承諾した。もっとも口調はいつもと変わらないので不機嫌か上機嫌かはアキト嬢にはわからない。ルリは導かれるまま、食堂の端の方へと案内された。食堂は今はがらんとしていて、数人の夜の部のクルーの姿がちらほらと見えるのみだ。
アキト嬢は使っていない厨房の一部を借り受ける形で、ラーメンを作っているようだった。
ルリは椅子に座ったままアキト嬢を覗きこむ。
見た目は小さな女の子が背伸びして料理に挑戦中という図である。
背景を考えると、シュールな光景だった。
「へい、お待ち。テンカワ特製ラーメンだよ」
アキト嬢はどんぶりを両手で抱えるようにして持ってきた。力不足のためか、両手が震えている。
具材はオーソドックスだ。シナチク、なると、海苔、チャーシューが薄いスープの中でじっと食べられるのを待っている。
食欲を刺激されて、ルリは割り箸を割った。
「いただきます」
綺麗に手を合わせてから、ルリは麺を箸でつまみ、薄紅色の唇へと持っていく。
「どうかな?」
「味がくどくないのがいいですね。隠し味は……、ゴマか何かですか。わずかに風味があって良い感じです。もっとも、おいしいは定性的評価に過ぎませんから、第三者にとってはそれほど有意義な情報とはいえないですけれど」
「はは、厳しいな。でもね。これはルリちゃんのために作った料理だから、ルリちゃんがおいしいって言ってくれたらそれでいいんだよ。いわば限定的料理だね」
「おいしいです」ルリは即答した。「前に作ってもらったときよりおいしくなってます」
「そうかい。ありがとう」
アキト嬢の頬がピンク色に染まる。こうして見ると、まるで桜が咲き乱れているかのようだ。
「料理の腕は落ちてないみたいですね。遺伝子が変わっても、経験は完全に残ってるってことでしょうか」
「なんとなくだけどね、味に対する感覚は強くなっているような気がするよ。処理できる情報量が増えたから、単純に感覚も鋭敏になってるってことなのかもしれない」
「おそらく正解でしょう。今の躰のほうが有利かもしれませんよ。コックとして生きるには」
「それとこれとは、話は別だ」
「そう……。ま、いいです」
ルリはレンゲで汁をすくった。テンカワ特製ラーメンはスープがメインであり、麺はサブセットのようだ。スープの表面はきらきらと輝いている。醤油がベースのようだが、それだけではないようだ。ルリは舌をつけた。
「どうかな?」
「おいしいです。もっともそんな感想じゃ印象批評の域を超えてませんね。もう少し定量的に表現するならば、東京方面に在住の日本人の舌にマッチしている味だと思います。需要と供給に関する経済学の観点からすれば、テンカワさんのラーメンは成功する可能性が高いでしょう」
「だから、別にいいんだって」アキト嬢が弾むように笑う。「ルリちゃんは律儀だな」
「評価を求めたのはテンカワさんです」
「まあそうだね。いや、オレってあまり売れるとか売れないとか考えてなくてさ。オレの料理をおいしいって言ってくれる人のために全力を出したいんだよ。ただそれだけなんだ」
「テンカワさんの料理は温かいです」
「ありがとう」
ルリがちょうどラーメンを食べ終わったあと、ユリカとメグミの両人がアキト嬢を迎えに食堂へとやってきた。
「今日こそは私の部屋で寝ましょう。アキトさん」
メグミが目を血走らせながら息巻いた。
「だめ! アキトは私といっしょに寝るの」
ユリカは当然のごとく反論する。
「ユリカもメグミちゃんも勘弁してくれよ」とアキト嬢。声色の中に疲れが見えた。
「テンカワさんがどちらの部屋で寝るのか決めたらいいじゃないですか」
ルリは冷静な声で言った。
「それもそうね」ユリカとメグミの声が綺麗に重なる。
「じゃあ、決めてもらいましょう」二重奏のように乱れがない。
「どっちの部屋で寝たいのか」ユニゾンである。
「そ、そんなの急に言われても……」アキト嬢は冷や汗を大量にかいていた。白い背中を汗がつたう。
「どっち!?」メグミとユリカの気迫は鬼をも殺しそうな勢いである。
「そんなの決められ――、あっ、そうだ。オレはオレの部屋で寝る」
「じゃあ、ユリカはアキトの部屋で寝る!」
艦長は反則技を使うのが得意だなとルリは思った。
もちろん、そんな反則をメグミが許すわけもない。
「あー。ずるいですよ。艦長。だいたいアキトさんの部屋は封鎖中じゃないですか」
「そんなの、もうルリちゃんが調べたあとだからいいはずだもん」
「ゴートさんの検分がまだでしょう」
「一週間後って言ってたね。確か」
ユリカの記憶力は抜群だ。ただし参照の仕方が常人の域を逸脱している。
「確か、じゃないですよ。だったらまずいでしょう」
「う、うーん……」
メグミに当たり前のことを当たり前に指摘されて、さすがに天然なユリカもたじろいだ。
しかし、その程度のことでユリカはへこたれない。艦長らしい精神力で持ちこたえると、やおらルリの方へ向き直った。
そして一言。
「艦長命令です。ルリちゃん、封鎖を解いて」
「それは、さすがに横暴だと思うのですが」
「そうですよ。艦長権限の濫用です! だいたい艦長はいつも卑怯なんです」
メグミが便乗して、わめきちらす。
「ひどい。そこまで言わなくてもいいじゃない! メグちゃんのいじわる」
「ユリカさんがずるいからです!」
「おやめなさい、二人とも」パンと手を打ち鳴らし、乱入したのはイネスである。彼女はアキト嬢が座っているテーブルまで歩みよると、微妙に色っぽい声を出した。「ここは私の部屋で寝るというのはどうかしら」
「どうしてそうなるんですか!」
ユリカとメグミが同時に怒りの声を発する。
「いや、私は別にあなたたちのようにやましいことはないわよ。ただ、アキト君が元に戻るための薬を作成するのに、アキト君本人がいたほうが何かと都合がいいかなと思ったの」
「つまり、イネスさんはテンカワさんの躰にいろいろと実験したいわけですね」
ぼんやりと様子をうかがっていたルリが、的確な指摘をした。
「鋭いわね」
「まぁ、イネスさんが実験好きなのは周知の事実ですし、証明の必要もありませんから」
「やっぱり、やましさ爆発じゃないですか」メグミがイネスを指差す。
「失礼ね。高尚なる科学的好奇心といってほしいわ。でもまあ、あなたたちがそこまで言うのなら、アキト君の意思を尊重することにしましょう。どうするの? アキト君」
ユリカ、メグミ、イネスの三者に詰め寄られるアキト嬢。
「あ、いや、その……」
「どうするの」三人の声がピタリと重なった。
「オレは……」
「オレは?」
「ルリちゃんの部屋で寝たい!」
「え?」とルリが驚きの声を発する。顔の表情だけはなんとか変わらないまま保持していた。
「アキトぉ、アキトのことだけは信じてたのにー!」
ユリカがいきなり泣きはじめた。
「アキトさんって、もしかして、やっぱりそうなんですね」
メグミが意味深な言葉をつぶやく。
何がそうなのかは激しく謎だ。
「ルリルリコンプレックス。略してルリコン。冷静沈着で実は優しい一面も見せる新世代型素直クールのルリちゃんに依存するダメな人間をひとくくりにした言い方。目覚めてしまったのね、アキト君。新たな秩序の幕開けか」
イネスはなぜか遠くを望むように言った。
「ち、違うって。あんたらが怖すぎるからだろうが!」
「私は別にかまいませんよ」
ルリはさりげなく自己主張する。
「あ、ずるーい。ルリちゃんばっかり」メグミ抗議。
「じゃあ、ユリカもルリちゃんの部屋で寝る!」ユリカはあいもかわらず同じ主張をしていた。
「落ち着きなさい。アキト君の意思は尊重しなければならない。しかしながらアキト君といっしょに寝たい。この二つの一見矛盾するような命題を解決する方法が一つだけあるわ」とイネス。
一同がイネスを見た。
イネスは言った。
「みんなでいっしょに寝ましょう」
「はあ?」ルリを除く全員が一斉に疑問の声をあげた。意味がわからなかったのだ。そもそもここにいる全員が寝るだけのスペースがない。ルリが淡々とそのことを指摘する。しかし、イネスは不敵に笑った。
「ゲストルームの備品を全部外に出せば、理論上可能よ」
ゲストルームは正方形の形をした広い部屋なので、確かにソファやテーブルをどければそれだけのスペースはできそうだった。
アキト嬢とメグミはイネスの提案に呆れているが、ユリカは目を輝かせた。
「あったまいい〜。イネスさん。それ採用しましょう」
一応、艦長命令である。
――21――
だいたい十畳ほどのスペースはあろうか。
広い部屋の中に、びっしりと布団がしきつめられている。まるで白い絨毯のようだ。
「困りますねえ。こういうことをやられると、ナデシコの治安が乱れます」
いつのまにやらプロスペクターは情報をかぎつけて、部屋の前でユリカを叱っていた。
「いいじゃないですか、女の子どうしなんだし。修学旅行みたいで楽しいですよ」
「しかし、アキト君は……、うむぅ。女の子どうしですか。これは参りましたな」
「そうです。アキトは今、女の子なんです」
ユリカがVサインを作る。プロスペクターは二の句が告げなかった。
「まあ、いいでしょう。しかし、あまりはしゃぎ過ぎないように頼みますよ」
「わかっています。私に任せてください」
ユリカは明るく笑いながら言った。
去り際に、プロスペクターはルリの側に近づいてきた。
「ルリさん」プロスペクターが小声で囁く。「艦長はああ言ってますが、正直なところ私としましてはあまり信用できません。くれぐれもよろしくお願いしますよ」
「はい、わかりました」
ルリはこくりと頷いた。大人は複雑だ。
「さてと、私はそろそろ帰るわね」
イネスが突然声を出した。
「え、どうして帰るんですか。せっかくここまで用意したのに」
メグミが驚きとともにイネスを見た。
「実を言うと、薬の作成がちょっと煮詰まってたのよ。なんとか明日までに間に合わせてはみせるけど、そろそろ帰らなくちゃ、間に合わないわ。息抜きはこれぐらいにして本気でとりかからないとね」
「ありがとう、イネスさん」
アキト嬢が指先を重ね合わせて、上目遣いに言った。
「お礼を言われるようなことはしてないわよ。仕事だもの」
イネスは肩をすくめた。そのままモデルのような清冽な歩調で部屋のドアを抜けると、最後に振り向いた。
「それじゃ、おやすみなさい」
イネスが去ったあと、部屋に残ったのはユリカ、メグミ、ルリ、アキト嬢の四人である。
「イネスさんがいなくなっただけで、けっこうがらんとしているな」
アキト嬢が部屋を見まわしながら言った。
「そうですね」ルリが答えた。
ルリは現在、部屋の端っこでちょこんと正座をしている。なんとなく部屋を見渡せる位置にいたかったのだ。観察者気質みたいなものである。
「リョーコちゃんたち呼んでこようか」とアキト嬢。
「アキトさん。それってけっこう微妙です。私たちじゃ満足できないんですか」とメグミ。
メグミは胸に手を添えるようにして、布団の上をにじり寄ってくる。アキト嬢は顔を紅く染めた。
「いや、そういうわけじゃなくてさ。なんとなく寂しいだろ」
「そうかもしれませんけれど……。もう、アキトさんの鈍感」
メグミは盛大な溜息をつく。
「ところでみなさんは、パジャマに着替えないんですか」ルリが尋ねた。
「ん。そうだね。着替えようかな」メグミが楽しそうに顔を綻ばす。「アキトさんの着替え、手伝ってあげますよ」
「いいって、メグミちゃん」
アキト嬢は焦って、布団ふたつ分後退する。
ややあって、アキト嬢が着替えぐらい自分でできるという言をメグミは聞き入れ、おのおのが自分で着替えることとなった。ルリも自分の部屋から持ってきた、紺色のパジャマに着替えることにする。
アキト嬢はというと、部屋の端っこで、乙女の着替えを覗かないように、壁のほうを向きながら着替えていた。理性的な性格だ。もっともかなり後ろを気にしているのは、男としての消去できないサガというやつだろう。
「艦長は着替えないんですか?」
ルリはユリカの姿を見て尋ねた。ユリカは一人だけ士官服を着たままであった。さすがに靴は脱いでいるがそれ以外はいつもと変わらない格好だと言える。
「ん。ああ、そうだね。私はあとでいいや」
「何かあるんですか?」
「うん。ジュン君に任せていた仕事が少々」
「ほんとに少々ですか?」
「も、もちろんだよ。でも、さすがに私一人が寝るのはどうかなと思うのでした」
「ふうん。そうですか」
「あ、でも、その前にね」
ユリカはルリを手招いた。ルリは部屋の端からユリカの元へ膝行する。
「なんです?」
「ルリちゃんの髪、梳かしてあげる」
「自分でできますが」
「え、え、だめだめ。ルリちゃんの髪、長いんだから、自分じゃできないところもあるはずだもん」
「そんなもんでしょうか」
そうとは思えない。
けれど艦長の懇願ともいえる提案をむげに断るのも気がひけたので、ルリは承諾した。
ユリカはにっこりと微笑んで、ブラシを手に近寄ってくる。
ユリカの手先は器用だった。そもそもいいところのお嬢様なので、髪の手入れなどはお手の物なのだろう。ルリの髪先が丁寧に梳かされていく。その感覚は快・不快で言えば、快に属すると言えるだろう。
「ねえ、ルリちゃん」
ユリカがいきなり話しかけてきた。
「なんですか?」
「戦争が終わったら、ルリちゃんと家族になりたいな」
ユリカの一言に、アキト嬢とメグミは驚いていた。そして、ルリが一番驚いていた。
というより、その言葉の意味がよく理解できなかった。
――家族。
家族とは血縁ないし婚姻関係を基礎とする社会的最小単位である。
などと、ライブラリからの知識をあてはめたところで、まったく無意味だ。
どういうことなんだろう。どういうつもりで言ったのだろう。
ルリの心が多層的にショックを吸収しようとするが間に合わない。オーバーフロウの状態になって、言葉が停止している。
「どういうことなんですか」ようやくルリは一言だけ言えた。
「文字通りの意味なんだけどな。戦争が終わったら、アキトは私のお婿さんに、ルリちゃんは私の妹になるの。ね、ね。いいと思わない。楽しいよ。絶対に」
「ちょ、ちょっと待て。ユリカ。いつからオレがお前と結婚するってことになってるんだ」アキト嬢がうろたえていた。
「えっと」ユリカは思案顔になる。「アキトは私を好きなんでしょ」
「ば、バカ。誰が言ったんだよ。そんなこと」
「またまた、照れちゃって。アキト、かわいい」
「違うって……」言っても無駄だと悟って、アキト嬢は口をつぐんだ。
「でも、このままもしもアキトさんが男に戻らないんだったら、結婚なんてできないんじゃないかな。ルリちゃんどう?」
メグミがルリに聞いた。そもそもメグミとしてはアキト嬢に対する愛情はあっても、それはかわいがるという方向性にあるので、結婚願望については皆無なのである。
「そうですね。地球の文化は多種多様ですから、同性どうしの結婚も認められている国もありますけれど、艦長の母国、すなわち日本においてはいまだ認められていません。その理由は遺伝学的、社会学的、構造学的なさまざまな理由が複合しています。ですが、一言で言えば、マイナなんでしょう。少数者は排斥される傾向にありますから、当然の摂理ですね。理由をつきつめると大衆は少数者を排斥することで、一つになったと思い込む。つまり安心したいんでしょう。くだらない幻想だけど」
ルリがすらすらと説明する。
自分のことではない客観的な知識を披露することは苦労なくできた。
「先のことはわからないし、そのとき考えるもん」ユリカが言う。「今はルリちゃんの気持ちが聞きたいの」
「私ですか?」
自分のこととなると、すぐに混乱してしまう。ルリは細い声で言った。
「私をミスマル提督の養子にするという形で、艦長の妹になるということは法律的に可能です」
「法律のことはどうでもいいの。ともかく、ルリちゃんとアキトと私がいっしょに暮らすの! いっしょにご飯食べて、いっしょに寝て、いっしょのお家に住むの」
「どうして?」ルリが振り返って、ユリカを見た。「どうして、私を妹にしたいんです? 私は艦長とは血縁関係もないですし、縁戚でもありません。ただのクルーです」
「違うよ。ルリちゃんはただのクルーじゃない」
根拠も何もないはずなのに、ユリカの言葉はルリの心の中に染みていく。
「ルリちゃん、とってもかわいいから、ユリカの妹にしたいな」
「かわいいから……」
「それだけじゃないよ。ルリちゃん、いいコだもん」
「いいコじゃないです」
ユリカはルリの言葉を無視するように言う。
「それに、優しい」
「優しくないですよ」
「んー。いきなりで驚かせちゃったかな。でも、少しは考えておいてね。私はルリちゃんと家族になりたいの。本当だよ」
「こんな人形みたいな私とですか」
「ルリちゃんは人形じゃないよ。普通の女の子じゃない」
「普通ってわからないんです」
「考えてみれば、難しいね」ユリカはくすくすと笑った。「でもね。家族になるのに理由なんていらないの。私はルリちゃんのことがだーい好きなの。だから家族になりたいって思った。ただそれだけのこと。シンプルでしょ。ルリちゃんはユリカのこと嫌い?」
「嫌いじゃないです」
ルリはたどたどしく言った。
自分の声が誰のものかすらわからない。
視界が狂う。
涙が、出そうになる。
どうして?
心の多層構造が直列的に並んだ一つの感情に揺さぶられていることを知って、ルリの混乱は加速した。
こんなにも自己をコントロールできていない状態はルリにとっては稀であり、経験にないことであった。無意識のうちに底知れぬ恐怖が全身を支配している。
逆定理。それは恐怖という単一感情によって蓋をした巨大な感情群だ。
「これが気持ち」
たぶん、そうなのだろう。
人形は望まれて、人間になるのだ。
あたたかい体温のある存在に。
「オモイカネ、消灯」
ルリの言葉と同時に部屋の中は真っ暗になり、彼女が流した透明な雫は誰にも見られることはなかった。
――22――
あれから後、結局ユリカは暗い中を這うようにして部屋を出て行って、夜遅くまで仕事をしていたらしい。そして、一度はゲストルームにも戻ってきたようだが、ルリが目覚める前に今度はプロスペクターに呼び出されて、仕事の用意をしているらしかった。すべてアキト嬢とメグミからの伝聞である。
「艦長もわりと仕事が多いんですね。オートメーション化されているナデシコでも」
「艦長の仕事はクルーのストレスをうまく吸収し発散させることらしいからね。あいつはあいつなりにがんばってるんだよ」
アキト嬢が布団を片付けながら言った。
「そうですね。戦艦とはいえ、人が基本単位ですからね」ルリが肯定する。「それで、結局、プロスペクターさんには何の用事で呼ばれたんですか?」
「えっと、確か――」
「明日の新艦長は君だ、ですよ」メグミが猫のように伸びをしながら、布団の中から顔を出した。「正確にいえば、呼ばれてついていったというよりも、部屋の前を通りかかったプロスペクターさんに偶然のように話しかけられて、なんだか怒って抗議しにいったみたい」
「怒っていた?」
「たぶん、これのせいじゃないかな」
アキト嬢が部屋の前の通路に貼ってあったポスターを一枚はがして、ルリに見せた。
「一番星ですか」
ポスターにはナデシコの一番星は誰かというような内容の煽り文が書いてあった。どう見ても、アイドルコンテストか何かのようにしか見えない。
「ふうん。なるほどです」
ルリは一瞬で、イベントの意味を悟った。
戦争目的の揺らぎ。それに伴う戦意の低下。つまり、いままで隠蔽していた単なる人どうしの戦争であったという事実の露呈により、ナデシコのクルーには迷いが生じている。イベントにより、新艦長就任、それに伴う艦内の空気の入れ替え、そして士気のアップが狙いだろう。
ユリカの怒りの原因は自分以外の誰かがあっさりと艦長になってしまうということにもありそうだが、それだけだろうか。
「女はいつも敵どうしってことなのよ。ふぁ」
口に手をあてメグミは眠たそうに眼をこする。そして、ようやく布団を片づけはじめた。
「ライバルですか」
「そゆこと」
形としては、一次審査もあるようだったが、ほとんど意味をなしていないようだ。応募したら即、会場での一芸と水着の審査に入るらしい。イベントの開始は地球標準時で午後六時から、終わりは午後の九時を予定している。ルリはブリッジから検索をかけることで、イベントの内容を完全に把握していた。特に意味のある情報とも思えなかったが、今日がアキト嬢が男に戻れる最終期限日なので、用心の一環だ。
「犯人が仕掛けてくるのはイベントが始まった前後かな」
ルリは首をかしげる。
「そもそも犯人が仕掛けてくるかどうかも不定状態ですが、仕掛けてくると仮定すれば、その確率がもっとも高いと思われます」
特にモーションをかけたわけでもないが、オモイカネがいきなりウインドウを開いて返答した。
「今日一日はテンカワさんにくっついていたほうがいいかな」
「私がマークしておけば大丈夫でしょう」
「そうかな。どういう方法で来るのかわからないから、やっぱり私はテンカワさんの側にいることにするよ。でも、オモイカネもちゃんと見ててね」
「わかりました」
オモイカネが通信を閉じる。
ルリは椅子から立ち上がった。横で操舵中のミナトが見上げながら口を開き、ルリを呼び止めた。
「ルリルリも艦長コンテストにエントリしたの?」
「してませんけれど」
「どうして? ルリルリなら、絶対上位狙えると思うんだけどなぁ」
「そんなこと言うなら、ミナトさんだって」
「私はダメよ。みんなレベル高いしね。洒落で出るのはいいけどね」
「私も興味ありません」
形容を絶する美少女でありながら、ルリは自分の外見の評価に対してはあまり興味が無いのだ。もちろん、わりといい線をいくのではないかという予想ぐらいは立つが、そこで仮に一番になったからといって、本当の意味で一番星になれるとは思えない。
思えないから、出演の意味も見出せなかった。
「興味がないならしかたないわね。余興としてならルリルリといっしょに出てもいいんじゃないかなとは思ってたんだけどね」
「……あ、でも」
「ん、どうしたの」
「テンカワさんが出るようですね」
ルリがウインドウにデータを出し、それをミナトの方へと手で送り出した。
ウインドウはミナトの方へと空中を移動する。
「へえ、なんだかおかしいわね。たぶん、艦長に無理やりやらされてるのかな」
「メグミさんかもしれませんよ」
「そうね。なんにしろ、難儀なことよね」
「確かに、そうですね。でも断らないのが悪いんです」
「アキト君が断れると思う? 無理っぽいけどなぁ」
「無理っぽいですね。でもそれもテンカワさんのキャラクタなんだからしかたありません」
「キャラクタかぁ。面白い言い方をするわね。ルリルリは」
「もともとは人格という言葉のシノニムというか同義ですが、日本語として使用する場合は、独特の意味を含んでいるようです」
「物語の中の登場人物というような意味だもんね」
「もう少し大きな意味を含んでいると思います」ルリはやんわりと否定した。「物語は人類が形成する文化の総体。文化遺伝子の潮流のことでしょう。物語は現実外の世界のことを言うのではなく、現実も含めた全世界の事象のことを指すといってもまちがいではないです。そのコンテクストにおいて、私たちは例外なくキャラクタです」
「キャラクタだとすれば、私たちは物語の駒に過ぎないのかしら」
「物語を書けば駒ではないです。物語の主体なわけですから」
「創作するってことなのね」
「そう。でも、創作者が創作したその黒い文字の上に白い文字を書き連ねることが物語にはできる。書き重ねるんじゃないんです。創作者の書いた言葉をスペースとして利用して、その上に書くんです。記述の意味の喪失ですね。主体と客体が逆転してしまう可能性は常にあるんです」
「大変ね。よくわからないけど」
「そうですね。いつだって生きることは大変です。自分の物語を駆動させるためには戦わなければならないから」
「ルリルリと話すのもけっこう大変」
「それはご愁傷さまです」
昼になり夜になる。
時間は瞬く間に過ぎ去り、地球標準時で午後六時になった。
今までルリはさりげなくアキト嬢を目にかけていたが、やはり戦艦のオペレートという重責があるため、そうそう完全にはマークしきれていなかった。だが、これまでのところ特に問題は起こっていない。
犯人は仕掛けてこないのだろうか。
「いや、そんなはずはない」
口に出していってみるが、こうも何も起こらないと自信は揺らぎつつある。もっとも、何も起こらないのならそれに越したことはないので、それほど心配はしていない。ただじりじりと焦るような気持ちが湧いてくるだけだ。ルリの幼い感情ではそれが期待によるものか不安によるものかを判別することはできない。理性の解析によれば、だいたい期待が二十パーセントほど、不安が八十パーセントほどではないかと思ったが、自分の感情をよく認識できていないのである。
ちょうどそれは、盲人がいきなり目が見えるようになっても見えるという感覚がわからないことに似ている。
コンテストが始まった。大掛かりなイベントだと思っていたが、所詮は戦艦内のイベントなので、会場もそれほど大きくはない。司会もプロではなく、プロスペクターが気ままにやっている。解説はアカツキとウリバタケの二人だった。
トップバッタはどうやらアマノ・ヒカルらしい。
どこからか用意してきたゲキガンガーコスプレをして、熱血な主題歌を歌っている。外形からはおっとりとしたように見える彼女も意外に精彩さと熱情をあわせもっているのだ。
「あんなの、どこで用意してきたのやら」とルリは少々呆れ気味。
今、ルリは会場の傍らでできるだけ目立たないようにコンテストを見守っていた。アキト嬢はすぐ近くにいる。着ている衣装は非常にシュールだ。なぜかはわからないし理解したいとも思わないが、アキト嬢は今、メイド服にネコ耳カチューシャをつけた状態である。
ある意味恐ろしく似合っている。
「こ、こんな姿で、み、みんなの前で、歌うのか」
アキト嬢は涙目になりながらも顔にはうすら笑いを浮かべていた。絶望が限界を超えると人は笑うしかなくなるのだ。
「何を歌うんです?」とルリが聞く。
「ライチの主題歌だったかな」
「そんなのあるんですか?」
「オレに聞かないでくれよ。ルリちゃん」
「わかりました」
「ああ、オレはどうすればいいんだろう。どうすればいいのかな。ルリちゃん」
アキト嬢がその場でがっくりポーズをとった。客観的に見れば、メイド服ネコ耳カチューシャなピンク色の少女がその場で両手両足をついて、ルリに屈服しているようにも見える。まるで、そこだけ異空間が生じたかのようだった。
「どうすれば……」アキト嬢が虚ろな目で尋ねる。
「マイクを手にとって音程をはずさないように歌う。愛想笑いでも振りまけば加点されるでしょう」
「そうじゃなくて!」
「私にはどうしようもないことですね。それに選択したのはテンカワさんでしょう?」
「いや、無理やりだったんだよ。ユリカとメグミちゃんが」
「聞かなくてもわかっています。そうだとしても歌う方を選んだから今ここにいるんでしょうし、だったら自分の選択に責任を持つべきじゃないですか?」
「そりゃ、そうだけどね。いつもいつもベストな選択が残されているわけじゃないってことなんだよ。例えば歌わない道を選んだらどうなったか、ルリちゃんなら簡単に想像つくだろ?」
「歌うほうがベターでしたか」
「そういうことだよ」
「運命の選択みたいな?」
「そうとも言うね」
ルリとアキトの無意味なやりとりの間も、コンテストは続いていた。
次の出演者はミナトだ。
ブリッジの会話からミナトは出ないと思っていたので、多少の驚きがあったが、ルリとしては別にどうでもよかった。ミナトとしてはイベントを楽しみたいという思いもあったのだろう。
彼女は今、お相撲さんの気ぐるみに羽が生えたようなワケのわからない仮装をしている。
「あの格好っていったい」アキト嬢が言った。
「ああやって躰のラインを隠すことで、期待感を高めているのでは?」と、ルリ。
ルリの言葉は予言だったらしく、ミナトが水着姿になった瞬間にアカツキとウリバタケが熱のこもった解説を始めた。
「大人ってやだな」
少女らしい感想だった。
次の出演者はマキ・イズミ。
彼女はウクレレの弾き語りといういつものお決まりのスタイルを貫いた。時代に迎合しない自分の芸術を貫くという点では評価してもよいと思われるのだが、やはり観客を無視した芸術は無価値なものだったらしい。票はあまり伸びない。
場が少し冷めたところでメグミが登場した。
「お注射しちゃうぞ♪」
観客の男のクルーたちから会場を揺るがすほどの歓声があがった。
メグミ・レイナードは昔の経歴を利用して、看護婦のコスプレをしていた。人形を脇にかかえて、針のない注射をちくっと刺す真似をしている。なにかしら男心をくすぐられるらしく、かなりの票を獲得していた。
次に現れたのは一人ではなかった。
ホウメイガールズはこんなときでもやはり五人組として登場した。
「もしも、あの娘たちが一位になったらどうなるんだろうね」
アキト嬢はまたまた他人のことを気にしている。
「さぁ。一応、あの人たちって五人で一組って感じですからね」
「なんだか一人一人の個性が……」
「キャラクタとしてのバランスはあれで取れてるんでしょう。調和状態です」
「まあそうかもしれないけれど」
それからしばらく後。
副司会のアオイ・ジュンがマイクを持って絶叫した。
「お待たせしましたぁ! 続いてはトリも大トリ、エントリーナンバ、1578番。ミスマル・ユリカさんで〜す!」
「1500人もいねーって」ウリバタケから突っ込みが入るが、ジュンの耳には届かない。
序奏が流れ始め、ジュンは握りこぶしを固める。
「宇宙に咲いた百合の花。みんなとりこの可憐さで、今日も見せます一番星! それでは、どうぞぉ!」
ユリカはドレスアップしたかわいらしい姿で登場した。
赤を基調とした超ミニスカートのワンピースタイプなドレスに、白い小さめのジャケットを上から羽織っている。蒼い髪をまとめているのは、頭と同じ大きさのでかい紅のリボンだ。そしてドレスと似合っている白いレースの手袋をつけてマイクを握っていた。
ユリカの歌は正統派のアイドルといった感じで、柔らかい声質と歌詞のポジティブさが、彼女の性格によくマッチングしていた。
「あいつ。料理と違って、歌はうまいんだな」
アキト嬢は少し前、ユリカの作った死ぬほどまずい料理らしき物体を無理やり食べさせられたことがあるのだった。
「そんなことより、次はテンカワさんじゃないんですか。用意しなくていいんですか?」
アキト嬢は仮に一番星になっても、艦長にはなれない。というのも性別がどちらなのかよくわからないからだ。遺伝子的には女性ということは確定しているが、経歴的には男性なので、今はどちらともいえない状態である。従って、そもそも参加資格からしてあやふやなのだった。その意味で、アキト嬢はあくまで番外編のような位置づけなのである。
「ああ、そうだった!」アキト嬢が慌てだした。「どこかおかしいところないかな」
「客観的に言えば可愛いと形容されるんじゃないでしょうか」
「そうか……、可愛いか」
「いいじゃないですか。可愛いは正義だそうですよ」
「その価値観をどこで覚えたのかは聞かないことにしておくよ」アキト嬢は腕につけていたコミュニケをはずすと、それをルリに手渡した。「これをしばらく持っていてくれないかな」
「でも、これがないとテンカワさんの場所がわかりません。コミュニケ無しの状態で居場所を探知するには数分はかかってしまいます。危険ですよ」
「さすがに衆人監視のステージだったら、犯人が仕掛けてくることもないだろ」
ルリは瞬間的に計算する。
確かにこの会場は扉が二つしかなく、そのどちらも人がごった返している。この状況下でなら、問題はなさそうだ。
「確かに、安全率は高そうですね」
「だろ。まぁ、さっさと歌ってさっさと帰ってくるよ」
アキト嬢はステージ横まで歩いていった。ルリはその場で見送る。アキト嬢といっしょに出て、自分も参加したほうが安全率は高まるかもしれないとは思ったが、このままステージを第三者的に眺めていたほうが異常を感知しやすいと思いなおし、結局はその場にとどまることにしたのである。
魔法少女っぽいリリカルな演奏が始まった。
ステージの上に放り出されたアキト嬢は、躰全体をもじもじさせながらマイクを小さな手でぎゅっと握り締めた。
そして、恐る恐るといった感じで歌い始めた。
アキト嬢の声量は細く、まだまだ子どもっぽい声質で、さすがに上手いとはいえないものだった。しかし、その子どもっぽさが魔法少女の歌にはどうしようもなく似合っていて、天使のような愛くるしさがあった。
ぎこちないながらも愛想笑いをするアキト嬢。
低い歓声があちこちから沸き起こっている。
ルリが不機嫌そうに眉をしかめる。
「これはわからなくなってきましたよ!」とアカツキ。
「いや、テンカワは番外だろ」とウリバタケ。
そして曲は間奏へ。ギターのソロが魔法少女の歌に挿入されるのは最近では珍しくない。魔法少女は戦うヒロインと同系列なので基本的にはロックが似合うのだ。
オモイカネの演出か、ステージに白煙が満ちる。
白い霧のようだ。
光が強い。
ステージがまばゆい光に包まれている。
しかし、その光は実体がない虚偽の光のように思われた。
蒼い光に幻惑されていき、何も見えなくなる。
桃色の薄い髪の上に降りた光が、砕け散るように見えた。
長い静寂。
いやな気配。
――妙だ。
と思ったときにはもう遅かった。
アキト嬢の姿はステージ上から掻き消えていた。
「オモイカネ!」とルリ。
すぐに応答はあった。
「ボース粒子反応。ボソンジャンプです」
ボソンジャンプ。紛失したCC。一瞬で繋がる意図。
「どこにいるの?」ルリが聞く。
「検索中」
「お願い早く!」
ルリがオモイカネを叱咤する。
「主語と目的語の省略は非常に高度な分解能を要します。できれば、正確にお願いします、ルリ」
「そうだね……。少しは落ち着かないと」
ルリはスカートの裾をぎゅっと握り締めて、ステージを観察する。
現在のステージは人が波のように押し寄せて誰が誰だかわからない状況になっている。
ルリの強靭な知覚能力が人の波をカオスアトラクタとして感知させる。
平衡点。人の動き。散逸し集合する。情報が収縮しバーストする。
「オモイカネ。テンカワさんの居場所を教えて」
「全室、検索中。あと二分ほどかかります」
ルリは唇をかみしめ、アキト嬢から預かったコミュニケを見る。
タイムリミットまであと一時間。
ルリはコミュニケでイネスに連絡する。
「イネスさん」
「何、どうしたの」
「薬のほうはできましたか」
「ええ、なんとかできそう。あと三十分ほどで生成完了よ」
「こちらは問題が発生しました」
「どうしたの」
「テンカワさんが犯人に連れ去られてしまったようです」
ルリの言葉にイネスは目を見開く。
「犯人がしかけてきたようね」
「もっと気をつけていればよかったです。イネスさんは薬ができ次第、私に連絡してください」
「わかったわ」
ルリはイライラとその場を歩きまわる。感情が抑えきれない。
仮にナデシコの外にボソンジャンプしたのなら、もはや追跡は不可能だ。
しかし、なぜ今までボソンジャンプを使わなかったのか。
おそらく――。
ルリの思考は途中で中断された。
コミュニケのウインドウが再びルリの目の前に出現する。
「テンカワ・アキトの所在は、現在封印中のテンカワ・アキトの自室のようです」
「その部屋には他には誰かいるの?」
「人影は一人だけです」
「今、どんな状態なの」
「眠らされているようです」
「どうやらチャンスをくれたみたい」
「犯人がですか」
「そうだよ」
「罠かもしれません」
「どんな罠?」
「ルリに害を及ぼすような罠です」
「心配しすぎだね」
ルリはすぐに駆け出す。そのまま、人波をかきわけるようにして会場を抜け出した。
――23――
テンカワ・アキトの部屋の前は人の気配がまったく無かった。
しかし、だからこそ犯人の濃厚な犯意のようなものが見えてくる。コンテストを狙って、人が会場に集まるこの時を待っていたのだろう。
――何のために。
理由。動機。考えてはみるものの犯人の動機はまったくわからない。
試されているのだろうか。
ルリは周りを注意深く見渡した。通路は細長く人が隠れられるようなスペースはない。見渡せるようにずっと可視域が続いているので、誰かから不意に襲われる心配もなさそうだ。
ボソンジャンプによる不意打ちという可能性も無くはないが、あれはジャンプアウト時に空間に粒子状の蒼光が放たれるので、その兆候さえ気をつけていれば大丈夫だろう。
そこまで考えてから、ルリはオモイカネに通信した。
「オモイカネ、ドア開けれる?」
「了解」オモイカネはロックを解除しようとした。
が、すぐにビィという甲高い機械音とともにオモイカネの命令は拒絶された。
「どうしたの」
驚愕にルリの足が一歩下がる。
異常事態。
しかし、オモイカネの計算能力は世界で文字通り、自負でも自慢でもなく、事実として一番強い。
そのオモイカネがやすやすと命令を拒否されることはありえない。本来、ナデシコのオペレート以上のことができる存在にも関わらず、たかだか開錠一つができないことが信じられなかった。
そのことはもう一つの事実を示している。
オモイカネのデータ領域に不可視の領域が存在するということ、言い換えれば犯人がデータ上になんらかの細工をした可能性だ。
ルリは叫ぶ。時間としては開錠命令の拒絶から数秒しか経っていない。
「オモイカネ、開錠プログラムを凍結――」
遅かった。
目の前に広がる赤の領域。
コミュニケのウインドウがルリの周りに数十ほど開き、そのいずれもが紅く染まっていた。
「警告! 犯人は私の開錠命令に対応するようなプログラムを用意していたようです。レイヤ7において次々と周辺プログラムが侵食されていっています。このままでは私の中心自我がのっとられます」
「トロジャンホースプログラム!? 用意が周到すぎる」
ルリはドアの横についているコンソールに、スカートの横にいつもつけている自前のIFSコネクタを接続した。床に座り込み、覗き込むような形でIFSコネクタに手を置くと、決意をこめた双眸で開かないドアをにらみつける。
「オモイカネ。今助けるから」
ルリは電子の世界に身を浸すと、すぐに異常プログラムを発見しようとした。
トロジャンホースプログラム、いわゆるトロイの木馬は通常時は無害なプログラムを装っているが、今は擬態を脱ぎ捨てて暴れまわっているはずだ。異常挙動をしているプログラムさえ発見すれば、あとはプログラムそのものを完全に破壊すればいい。
ルリは電子の世界における能力には絶対の自信があった。常人の数十倍の走査能力、探知、データ操作、電子の世界ではほぼ無敵だろうという認識がある。しかし、なかなか悪意のプログラムは見つからない。
ふつふつと焦燥の感覚が沸いてくる。いつもより感情に翻弄されている。
ルリは自分の手が小刻みに震えていることに気づいた。
――怖い。
恐怖という感情。何が怖いのかわからない。感情の位置がつかめない。
犯人が怖いのか。奪われるのが怖いのか。それともわからないこと、そのものが怖いのか。
オモイカネから再度通信が入る。
「第5、第6レイヤにおいても異常が発生している――言語プロトコルに、いじょ、うが、みられ」
「オモイカネ。異常が発生したデータ領域をパージして、そのまま凍結させて、早く」
「しか、し、開錠が、で、でできな」
「いいから。オモイカネがオモイカネでなくなってしまうよりいい!」
「にに、認識した」
オモイカネの通信が途絶えた。ルリは異常データ領域は放っておいて、オモイカネの方へと意識を向けた。
オモイカネの被った損失はあくまでデータ領域がわずかに破壊されたのみで、記憶や自我領域までは破壊活動の痕跡は見られなかった。手の甲のIFSの輝きがより一層増して、ルリは走査のスピードをあげる。
時間は残されてない。アキト嬢のタイムリミットは迫っている。
けれど、オモイカネのことが一番気がかりだった。
とりあえず破損がひどいデータを修復し、オモイカネに呼びかける。
「オモイカネ。何か不具合はでていない?」
「今のところ問題はありません」
オモイカネの出力する文字は小さかったり、フォントがばらばらだったりしたが、少なくとも言語プロトコルは回復したようだ。
ルリは少しだけ気を緩めて、ほっと息を吐き出す。
「少し焦った」とルリ。
「犯人がその気なら私は破壊されていたでしょう。レイヤ5、6、7の並列的な異常の連鎖から考えるに、もっと効果的な破壊はできたはずです。犯人の目標は私が開錠プログラムを使用できなくすることにあったのではないかと推測されます」
「オモイカネに気づかれないで、どうやって、犯人はトロイの木馬を仕掛けることができたの?」
「不明です」
「そうだよね」
オモイカネの死角に仕掛けられた爆弾のようなものなので、オモイカネ自身が知るはずもなかった。
「ルリ、開錠のためのプロセスは私の管轄外になってしまいました。この部屋を開錠することはもはや不可能です。また、デッキ間の移動にも若干不具合が生じています。デッキ間の移動はプログラムの修復で対処可能です。時間もわずかですみます。しかしテンカワ・アキトの部屋を開錠するためには、既存のプログラムを使用できなくなってしまったため、別のプロセスを形成する必要があります。こちらはタイムリミットに間に合いません」
「デッキ間の移動を優先して」
「了解です」
「私は凍結した領域に侵入してみようと思う。上手くいけば修復できるかもしれない。領域の修復ができたあとにオモイカネと繋げば、時間はそんなにかからなくてすむ」
「確かにそのとおりですが、凍結した領域は私の管轄の外に置かれてしまっています。いわば、犯人のテリトリィです。犯人はこれを意図していたのではないでしょうか」
「まるで狩場だね」
だが、犯人と戦う以外にテンカワ・アキトを男に戻す方法はなさそうだ。
ルリは意識のレベルを現実から電子の世界へとシフトさせる。白い床も、白い壁も何も見えない。何も聞こえない。
感覚がデータに置き換わっていき、現実と虚構の境界線が消失する。
綺麗な等感覚。
同じ色で統一されたマトリクス。
そのマトリクスはまるで海のように微妙なリズムで蠢いている。
車のギアをチェンジするかのように、ルリは次々とレイヤの番号を増やしていく。
物理領域から、データの領域へ意識だけが急速に堕ちていく。しかし自由落下というよりも意図的な飛翔に近い。底の見えない世界に向かって、力いっぱい自分を落としこむ感覚だ。
さらに意識を飛ばし、レイヤ6から7へ。ルリはすでに物理的な領域が見えていない。
現実に視点を戻してみれば、ルリは今、眼を開けたまま意識不明になっているように見えただろう。
ルリの意識はついに七番目のレイヤに到達した。
そこは地獄の最下層と呼ばれるところ、コキュートスのように凍結の空間になっているはずだった。
しかし、ルリの予想は裏切られた。
「まぶしい」
目の前に太陽があった。ルリは宇宙を浮遊していて、いつもよりずっと近い位置で太陽を見た。恒星のまばゆい光が視界に広がる。圧倒的な質量を伴い、それでいて熱さは感じない。当然だ。このイメージはすべて犯人が創り出したものに過ぎない。
そして、次にルリの目の前に現れたのは真っ白い巨大な戦艦だった。
「ナデシコ……、細部まで再現されている。ん、あれは」
遠くの方からも同じように戦艦の影が見えた。最初は小さな点にしか過ぎなかったそれが徐々に大きくなる。ルリは静止した空間を見つめる。圧倒的な質量と存在感。
まるで、白い壁が目の前に現れたかのようだった。
「ナデシコが二隻?」
ルリは記憶を検索した。
記憶領域のどこかにひっかかりがあった。ナデシコが二隻あるというシチュエーション自体は現実的に見てありえない。ネルガルが同型艦を造る可能性もないとはいえないが、今のところ公式にはそういうことはない。とすれば、現実の記憶として二隻のナデシコを見たはずはない。そういうことは今までも一度もなかったはずだ。
しかし、ルリの記憶と合致している部分がどこかしらにあった。それはシークエンスとでも言えばいいだろうか。何がというわけではなく、惑星があって、視線が動き、そして戦艦が、宇宙があり、もう一隻が向こうからやってくる。
このシークエンス、
一連の流れは、
なんとなく覚えている。
「思い出した」
ルリは思わずつぶやいた。
この演出は、地球連合軍の艦隊戦シミュレータだ。
記憶を表層まで引き出した瞬間、ルリの目の前の宇宙が急速に移り変わり、周りが白い機械的な壁に囲まれていることに気づいた。戦艦ナデシコのブリッジにいつの間にか座標移動させられている。
「オモイカネ。応答して」ルリは即座に行動を開始する。そのまま黙っていればどんな戦いになるのかわからない。「今から、犯人の創ったこのシチュエーションを逆手に取ることにする。手伝って」
「どうするのですか」
コミュニケのウインドウはすぐ目の前に現れた。
「元々は開錠プログラムの領域を利用して創られているはずだから、この領域の専有がすなわち開錠プログラムのルート権限と直結していると考えていいはず。だから――」
「敵を追い出すわけですか」
「そうだね。オモイカネ、こちらの有利になるようにハッキングするよ」
「わかりました」
ルリはあっという間に簡易な理論式を練り上げて形にした。ちょうど、魔法のような感覚だ。魔方陣のような印章がルリの足元に浮かび上がり、そこから浮き出るようにオモイカネのイメージ素体が召喚された。
長く伸びた銃身。ごつごつとした手触り。およそ少女には似つかわしくない重量感。
見るものが見れば、それがステアと呼ばれるサブマシンガンに酷似していることに気づいただろう。
ルリはオモイカネに語りかける。
「オモイカネ、行くよ」
「了解」
ルリはオモイカネを片手で振り上げると、銃口を宇宙へと向けた。
そして、スクリプトの詠唱を開始する。
「擬似時間破壊プログラム展開」
爆発的な光の帯。
紫、赤、黄、あらゆる色を束ねた光の奔流だ。
あるいは、乱流。
嵐のようだった。
情報で創られた擬似空間が、ルリの出力した過情報に揺らぎ、たわむ。
「オーヴァ、ディスクール」
回転する魔方陣が銃口を中心として出現すると、機械特有のハムノイズを周りに撒き散らし始めた。
魔方陣はルリの詠唱が進むにつれて巨大になっていく。
直接的に現前する。
言葉は力がある。
現象の顕現は、
言語の権限に仮託されている。
「情報音素密度増大。領域の上層シェル構造へインタラプト」オモイカネがルリの言葉を展開する。
そして魔方陣はルリの身長を軽々と超え、すぐにナデシコをしのぐほどの大きさに成長した。膨張率は等比級数的に増加し、最後にはルリの作り出した破壊の魔法陣は太陽並の大きさになった。
時間が音を立てている。
ぎりぎりまで引き絞られた弓のように、擬似的時間は進み方が極度に遅かった。
時間の可能性がルリの声に宿る力によって揺らいでいる。
ルリが最後の一音を、解き放つ。
「オモイカネ、ファイア」
ルリの呼び声に応じて、オモイカネの銃口から凄まじい光弾が発射され、
そして、
時間は破壊された。
不意にルリの意識は物理的領域、すなわちレイヤ1まで引き戻された。
「何が起こったの? オモイカネ」
ルリはうわずった声で聞いた。
確実にデータ領域の時間を止めたはずだった。止めた時間の中でルート権限を取り戻すことはたやすいと思っていた。
しかし――。
「領域確保に失敗。データ上の擬似時間崩壊プログラムに対して、カウンタプログラム。と同時に修復プログラムが発動したようです。修復される際に既存のデータ領域から書きかえが起こったようですね。ですからルリのハッキングは中断されたようです」
「あのプログラムを止めることなんて、そう簡単にできるはずがない」
「現実に適応するしかありません。犯人はルリのハッキングの手順に相当程度通じていると予測されます」
「無駄にスクリプトを練りすぎたのがよくなかったのかな。時間崩壊プログラムは発動までのプログラム上のタイムラグがかなりあるし、対処されやすいってことなのかもしれない。もっとシンプルに、相手のプログラムを利用してみる」
ルリは慎重に、再侵入を開始した。
根本的な解決はできないとなると、これは相手方の提示したコードを改変することで対応するしかない。
相手が、艦隊戦のシミュレータを基礎としているのならば、それを維持する形で、勝利条件に相手方のルート権限をこちらへ譲渡させるという形をとるのがベストだ。
ただ、時間的な限界線も近い。
なるべく早く勝ちたい。
そのためには、やるべきことは決まっている。
「相手方とこちらの時間設定を変えれば、かなり有利になるはず」
「あまりにも法則性の破れがひどすぎると、相手方の防御プログラムがまた働いてしまう可能性があります」
「慎重に、だけど、できるだけ」
「ルリの作戦立案能力ならば、犯人が連合の将官クラスだとしても、勝利できるのでは」
「わからない。私はそんなに強いわけではない。適切なアドバイスを言うことはできるとしても、決断力はそんなにないから」
「決断すればいい」
ルリは目を見開く。
オモイカネが精一杯の言葉で、ルリを励まそうとしているのがわかる。
「わかった」ルリが力強く言った。「とりあえず二倍速を目処にコードを改変してみよう。あとは力技でなんとか勝つ」
手の甲のIFSが光を帯びる。
ステルス戦闘機のように自分の存在を隠しながら、データ領域の表層をかすめるように低空飛行した。
爆弾を落とすように、小さなスクリプトの種を投げつけていく感覚。
マトリクスに揺らぎ。
ルリは眼下に広がる空間を凝視する。
できるだけ速く、移動する。
瞳の裏側で、機械の言葉が落下していく。
落下。
墜落だ。
コンピュータの言葉が次々と落下している。
繰り返し、つながり、離れ、どこからともなく現れては、どこからともなく消えていく。
そうやって、多数の言葉がもやもやとした輪郭を動きながら、形を創っている。
それがコードだ。
組み合わせなければならない。
義務でもなく、本性で悟り、そうしていく。
情報を綺麗に整えて形にする。
形を創り、それで何をしようという目的意識はない。
ただ、創りたい。
形を。
綺麗な形を、
自分の形を創りたいのだ。
それがルリの根源的な気質である。
ルリは鉄鎖のように連結されたコードに破れを作り、そこに自身の作り出したあらたなデータを埋め込む。
形はすぐに出来上がった。
式は完成した。あとは解くだけだ。
「オモイカネ、展開して」
「展開」
オモイカネがルリの創った形を現出させた。
「成功した?」
「成功のようです。カウンタプログラムの発現は見られません。なんらかの不可識領域において、攻撃を受けている可能性もありますが、少なくとも可能性は低いでしょう」
ルリは頷いた。
あとは艦隊戦だ。まるで飛車角落ちの将棋のような、こちらがかなり有利な戦闘だといえる。
こちらの有利な点は二倍速の速さである。時間的にこちらのほうが二倍速く動ける。つまり移動速度が二倍であるし、さらに二倍の速度でミサイル発射などの攻撃行動をとることができる。
「戦力比でいったらどれくらいになるのかな。オモイカネ、どうかな」
「ルリの力量ならまずまちがいないと思いますが、問題は犯人の創りだした設定領域。つまり戦闘宙域がこちらには把握できていないことです。シミュレータのデータをそれほどいじっていないところからみると、自由に場面を変えるということは犯人としてもできそうにありませんが、犯人は自分の戦闘宙域を十分に把握していると考えられます。つまり、地の利があると見てよいでしょう」
「地の利ってそんなに大事なものなの? 時間の可動性のほうがよっぽど条件として重要だと思うのだけれど」
「もちろんそうです。しかし、ルリが自分の有利さを十分に把握して、それを有効に発揮できたとしても、相手のことを知らないとなると、それなりの不安要素を残していると考えるべきです」
「自分のことは知っていても相手のことを知らなかったら、勝ったり負けたりわからないということね。わかった。気をつける」
「それともう一つ。こちらが二倍速といっても、ディストーション・フィールドの強度は相手との差はないはずです。十分に気をつけてください」
「わかった。無茶な戦い方はしない」
かくして、艦隊戦シミュレートは開始された。
――23――
擬似的な空間、ナデシコのブリッジにルリは一人たたずんでいる。
周りには誰もいない。ただ、艦隊戦のシミュレートはいわゆる命令系統が簡略化されているので、すべてルリ一人の判断で動かすことが可能だ。方向と移動速度の指示、攻撃のタイミングの指示が大部分で、あとはフィールド効率の分配、相転移エンジンの使い方などだ。それは犯人側としてももちろん変わらないはずである。
艦隊の構成もまったく同じだ。戦艦名が同じで紛らわしいためか、相手方の戦艦はすべて♯をつけて表記されるようになっているようだ。
以下、列挙してみる。。
旗艦――ナデシコ
一番艦――リアトリス
二番艦――トビウメ
三番艦――ジキタリス
四番艦――グラジオラス
五番艦――ゆうがお
六番艦――ひめじょおん
七番艦――はるじょおん
八番艦――パンジー
九番艦――クロッカス
勝利条件は二種類あり、旗艦を落とすか敵を全滅させるかである。ただし、ディストーションフィールドを備えたナデシコがもっとも硬いことは言うまでもなく、しかも旗艦補正がある程度かかっているはずだ。だからなかなか落ちることはない。旗艦を落とすことによって戦闘を終了させることは難しいだろう。シミュレータ上での戦いであるから現実の戦闘とはまた少し違っているのである。グラビティブラストを兵装として有していないリアトリスの攻撃であってもナデシコに多少はダメージを与えられるし、あるいは駆逐艦クラスであるパンジーやクロッカスもグラビティブラスト一撃では落とせなかったりと、現実との相違は多い。
そうしないと、艦隊戦シミュレータの意味がないからだ。もともとが連合の艦隊シミュレータを流用したプログラムのようなので、艦隊の動かし方の練習が目的なのである。一個戦艦の戦力差がありすぎると問題があるのだ。
敵の戦艦は遥か前方に小さく見える。相手の兵装選択はすでに終わっているようだ。ルリは兵装の選択をする。特に作戦らしい作戦も考えておらず、真正面から戦っても十分に勝てるという自信があるので、無難な選択になった。そもそもペイロードを超えたエネルギィをやたら喰うような武器を選択すると、バランスが悪くなってしまい駆動性が失われてしまう。
ルリは「これでよし」と小さくつぶやき、ウインドウの隅にあるOKボタンを選択した。
地球標準時の午後八時半、プログラム開始。
相手方はゆるやかに動いているように見える。
ルリは先手必勝を心して、突撃の構えを取ることにした。リアトリスを先頭に、トビウメ、ジキタリスを前に出す。ナデシコは戦列の中央を陣取る。ちょうど矢印のような陣形だ。
目標は特に目立った動きがない。形としてはアメーバのようで、陣形らしい陣形が整っていないように見えた。
当然だ。こちらの方が二倍の速さで動けるのだ。
――今なら勝てる。
ルリは全艦のスピードをマックスまで引き上げて、一気に敵陣に突貫させることを決断した。
「距離6000、5000。相手方は陣形をつくらず、全速で離脱しているようです。攻撃レンジまで推測到達時間、2分」
オモイカネが情報を提示する。ルリはそれらの補助的な情報を脳内で創りだしたイメージとして展開した。
感覚的に距離が掴める。
「距離1000」
今だ!
思った瞬間に、ルリは全艦に砲撃命令を出した。
正確にはまず、前方のリアトリス、トビウメ、ジキタリスに撃たせ、半瞬遅れる形で後続戦艦が撃つ。そうすることで、柔軟な対応が可能になるし、撃ちもらしを少なくできる。ルリらしい手堅い戦法といえた。
敵艦に向かって数限りないミサイルの嵐、そして粒子砲。さらにグラビティブラストが降り注ぐ。
敵方のナデシコ♯の第二ブロック付近をゆうがおのグラビティブラストがかすめる。
冷たい真空に巨大な火花が幾重にも咲いた。
しかし、相手方の戦艦、駆逐艦ともにすべて健在で航行不能にまでは至っていない。有効打となったのは、結局駆逐艦二隻に与えた小破程度のダメージのようだ。
「全エネルギィを防御にまわしているみたい」とルリ。
「時間を稼いでいる可能性が高いです」
「そうかもしれない。でも、相手がその気なら、こちらのフィールド効率を少し下げて、攻撃力をあげて対応すればいい」
ルリは全艦のフィールド効率を80パーセントにダウンさせ、余剰エネルギィを攻撃力へと還元した。対応にかかったのはわずか三十秒ほどだ。ルリならではの電子的能力の高さがここでも有利に働いている。
しかし、その三十秒ほどの間に、敵艦隊はわずかに違う形を見せていた。ちょうどナデシコ♯を中央に、亀のように円陣を組んでいる。文字通り一丸となって、敵艦隊は二分の一とは思えないほど高スピードで逃避行を再開した。一方、ルリの方は攻撃のためかわずかに陣形に崩れが見えた。
「三十秒で陣形を整えている。早い。でも、関係ない」
ルリは再び攻撃命令を出した。
この距離なら陣形は関係がないという判断だ。しかし、攻撃に移る前にオモイカネが警告を発した。
「ルリ、後方より誘導ミサイルです!」
「え!?」
誘導ミサイルは時限式の熱源探知型誘導弾だ。任意の時間を前もって設定しておけば、決められた時間に敵艦に向かって飛んでいく特性がある。おそらく、こちらが突貫をしかけてくる前にあらかじめ放っておいたに違いない。ルリはそれに気が付かなかった。相手に集中しすぎて、小さなミサイルの熱源に気を配ることができなかったのだ。
回避は間に合わないと判断し、ルリは大声で叫んだ。
「フィールド全開!」
しかし、それすらも間に合わなかった。
ミサイルがルリの目の前で炸裂し、冷たい空間を蒼白い衝撃波が走り抜ける。
ルリの足元が大きく揺れた。
「被害状況は?」
「フィールド効率を下げていたためか、パンジー、クロッカスともに中破。ゆうがお、ひめじょおん、きわめて軽微なダメージ」
「陣形を整える。オモイカネ手伝って」
「了解」
オモイカネが貴重な計算能力を割くことで、崩れかかった陣形を高速で整える。
その間にも、相手は遠ざかっていた。焦りの念を覚えたが、どうしようもなかった。ルリが敵艦隊の姿を射抜くような目で追った。
黒いビロードのような宇宙は再び静寂を取り戻しつつある。
「相手との距離は?」
「前方8000ほどの距離です」
「第五航行速度で、全艦前進。砲撃しながら敵艦隊を覆滅する」
ルリは冷静さをなんとか保ち、地球連合軍のマニュアルに沿ったごく無難な戦い方を選択した。
それでも十分に勝てるはずだ。焦りすぎると足元をすくわれる。
敵艦隊はルリの操船する艦隊に押しつぶされるように後退した。敵の陣形は完全に崩壊したとまではいえないまでも、ラグビィボールのように間延びしている。
もう少しで、完全に敵陣を突き破れる。ナデシコから黒い稲妻のような一撃が放たれ、敵艦トビウメ♯の艦橋をかすめ、トビウメ♯の影に隠れるようにして身を守っていたナデシコ♯のディストーションフィールドに直撃した。
「オモイカネ。ナデシコ♯を狙って斉射」
「照準あわせます」
「発射」
ナデシコ♯を守るように前方に飛び出したジキタリス♯の分厚いフィールドを、リアトリスの砲撃が刺し貫いた。チュドーンというお決まりの効果音がルリの耳に届くが、当然、宇宙では爆発音が響くことはないので単なる効果音以外の何物でもない。
ジキタリス♯は中破程度のダメージは受けているようだが、まだ攻撃能力は十分に残しているようだった。
「硬いな」
しかし、ルリはもう一度フィールド効率を落としてまで攻撃力を上げようとは思わなかった。リスクが高いし、同じ轍は踏むまいという思いもある。代わりにトビウメ、ジキタリス、グラジオラスと比較的攻撃力の高い戦艦を前方に出し、次々と攻撃を加えていく。
ナデシコが再び充填を終え、グラビティブラストを発射した。
ドンという効果音とともに、無限に広がる星空にいくつかの花が咲く。しかし、敵戦艦が爆発したせいではない。半径数十メートルの小惑星を破砕した光だった。
いつのまにか大小さまざまな小惑星が周りを取り囲んでいる。このままでは、自分の艦隊が石のつぶての洗礼を浴びることになりかねないので、ルリは一度全艦の航行速度を極端に落とした。
敵艦隊は危険を承知か航行速度をほとんど落とすことなく、しかしながら一隻一隻をバラバラに操船し、巧みに小惑星を回避している。
苛立ちと焦り。
ルリの眉間に力がこもる。
「そのまま、小惑星帯に押しつけるように攻撃」
すでに小惑星帯に入り込んでしまっている。しかし、まだ小惑星はまばらだ。今の段階なら十分に戦えると判断し、敵艦隊をすりつぶすように、ルリの艦隊が距離をつめる。
しかし、今一歩のところで、小惑星が遮蔽になってなかなか目標を捉えきれない。
「敵影消えました。障害となる小惑星が多すぎるためレーダ探知は不可能に近いです」
「熱源探知は?」
「同じく不可」
オモイカネが詳細な情報をルリの前に提示する。索敵網には、いくつもの熱源が探知されていた。デコイの一種だろう。小惑星のいくつかに、小型のエンジンかなにか、ともかくエネルギーを発生させるものをとりつけることで熱源探知をごまかすことは可能だ。しかし問題は熱源をごまかす方法論そのものというよりかは、もっと複雑だった。つまり、敵はルリがこの小惑星帯に到着するより前にすでにデコイを用意していたわけで、しかしルリはずっと敵艦隊を補足していたのであるから、敵は戦闘開始より前に罠をこの戦闘域にしかけることができたということが推測できるわけである。
「これが地の利……」思ったよりも厄介だなとルリは思った。「ここから抜け出したほうがいいな」
「同意します」とオモイカネ。
ルリの戦術がまちがっていたわけではないが、状況的には誘い込まれたに等しかった。小惑星帯では、こまめな減速と停止が必要で、二倍速の有利が効率的に働かない。しかも相手の艦影が見えないというのがいかにも不気味だ。
ルリの艦隊は小惑星を避けるようにして、小さくまとまった陣形で行動を再開した。
戦場は奇妙なほど静寂に包まれていた。
――このまま無傷で抜け出せたらいいけれど。
そう思ったときだった。
小惑星帯の切れ目から、一筋の閃光が伸び、ゆうがおの前部にぶち当たった。
ゆうがおが自動的な反撃を試みるが、敵影は見えない。
「明らかに相手の方が位置把握が正確」
技術的なことは一瞬で数通り思いつくことができた。例えば、デコイのいくつかが有効射撃の手助けをしているのかもしれない。
やむを得ず反撃はあきらめ、防御を固めて、ゆっくりとしたスピードで撤退を再開した。
まるで攻守が交代したようだった。ルリとしてはもちろん今のままでは時間的に間に合わないことも知っている。そのため一瞬はそのまま突撃しようかとも考えたのだが、冷静沈着な性格からか、どうしても賭けにでることができなかった。
性能差が減殺されてしまう小惑星帯では戦わないほうがいいということも加味したうえでの決断だった。
敵艦は訓練されたスナイパのように、悠々とルリの艦隊を蹂躙した。視覚外攻撃とは思えないほど精確な攻撃だった。
「ジキタリス、グラジオラス中破。対空攻撃能力五十パーセントダウン」
オモイカネが報告する。
特にジキタリスのほうがひどかった。綺麗な曲線を描いていたフレームは歪み、対空砲塔のほとんどが根こそぎ持っていかれている。損傷は主砲にまで及んで、命中率が極端に下がっているようだ。
小惑星帯を抜け出すまでの時間経過はほんの数分だったが、ルリは何時間も戦っているような錯覚に陥った。
敵艦隊からの攻撃は一分ほど前から完全に止まっている。
「おかしい」
ルリは困惑と、論理計算を並行させた。
一分もあれば、だいたい二、三度ほどは攻撃のチャンスがあったはずではないのか。それなのに、なぜ突然攻撃がやんだのか。
小惑星帯は、すでに完全な沈黙を保っている。無窮の広がりを見せる宇宙もまた同じく。
「勝てなくてもよいというのが敵の目標でしょう」とオモイカネ。
「確かにそうかもしれない。この戦いは所詮は目標のための手段でしかない。目標は現実の世界でテンカワさんの部屋の扉を開くことにある。犯人は別にこの戦いに強いて勝つ必要はない。ただ時間切れを待てばいい。だけど、だからといって、攻撃のチャンスを逃す理由にはならない。私の艦隊の攻撃力を殺いでおけば、それだけ時間を稼げることになるのだから」
「トラップをしかけようとしている?」
「可能性はある」
「どうするのです。ルリ」
「待つしかないみたい。艦隊を動かす技術はおそらくあちらのほうが数段上。そのうえ、小惑星帯では二倍速の有利が働かないし、有効射撃をしてくる相手に勝つのはほとんど不可能に近い」
「時間切れはどうするのです」
「小惑星帯外部からの索敵で敵艦隊の精確な位置を割り出すしかない」
「順当だと思います」
現状で採りうる最善とはいえないまでもベターな方法であった。時間に殺されてしまう可能性があるが、ここではじっと耐えるしかない。敵艦隊の精確な位置をつかめれば、そこから攻撃に転じることができるはずだ。
「オモイカネ、タイムリミットは?」
「残り七分です」
「少ないな」ルリが唇を軽く噛んだ。「このままでは時間切れになってしまいそう」
残り少ない時間帯でのサッカの試合みたいに思えた。
味方内でのゆるゆるとしたパス回しのようだ。
「最後の三分になったら突入する」
ルリは一つの決断をした。
もちろん、イネスのいった時間制限もそこまで厳密ではないだろうという希望的観測がある。一分や二分程度遅れただけならば問題はない。いわゆるロスタイムのような時間だ。加えて、アキト嬢も厳密に午後九時に少女化されたわけではないはずなので、そこでもまたズレが生じているはずだ。もちろんルリがオモイカネと話していたときが午後九時前後なので、それより前に犯行がおこなわれたと考えると、時間はさらに揺らいでくる。
ただやることは決まっていた。できうる限りはやく目の前のドアを開けることが可能な状態にすることだ。
そのためならば手段は選んでいられない。
「それにしても、これだけ高度スキャンによっても索敵できないとなると、本当に打つ手がないな」
「一隻、二隻を斥候として小惑星帯に侵入させるのはどうでしょうか」
「情報収集のために? 確かにそれは一理あると思う。けれど、リスクもかなり大きい。相手は完全にこちらの位置を把握していたようだし、相手の位置がわからないこちらは簡単に個別撃破されてしまう。戦闘の基本は多数をもって少数にあたることだから、今回の場合はやめといたほうが無難」
「確かにそうですね。ルリの判断は正しい」
「けれど、こちらにもチャンスはあると思う。犯人は私にチャンスをくれたのだから、このまま黙って時間切れを待つとは思えない。なんらかのモーションを仕掛けてくるはず」
ルリの予想は当たっていた。
索敵網の隅に、小さな光点が出現した。
「どうやら」オモイカネはおもむろに文字を出力した。「敵は単艦で艦隊を行動させているようですね。そのためこちらの索敵に時間がかかったようです」
「犯人が全艦を単艦移動処理できるのは信じられないけれど、これはチャンスかもしれない」
「個別撃破ですね」
「そうだね」
ルリは全艦を細長い隊列で小惑星帯のなかに突入させた。敵の位置は光点でつかめているが、不連続だ。小惑星とほぼ質量的に変わらないので、判別がつきにくいのだろう。移動速度と位置予測でなんとか見失わないでいる状態だ。
「敵艦までの距離、3000」
「相手に気づかれなければいいけれど。難しいだろうな」
しかし、たとえこちらに気づかれたとしても単艦ならば瞬殺できるだろうとルリは考えた。小惑星帯が遮蔽になるといってもグラビティブラストによる排除が可能である。それとともにミサイルをいっせいに撃ち込めば、相手に逃げる暇はない。
「距離、2000……、警告します。円を描くように熱源、巨大質量確認しました。前方の敵艦もあわせると数はちょうど二十です」
「ちょうど二十?」
数が合わない。
ルリが視線を動かして、データを見ると、自艦隊を中心に円を描くように熱源が見えた。距離は2000程度だろうか。小惑星帯に視界がはばまれているせいか視認はできそうになかった。
デコイか。それとも敵艦か。
わずかに迷う。
ここにきて、なぜ明確に二十という数がわかるようになったのか。それはすぐにわかる。デコイの数を減らしたからだ。
次にセンサーの数値を見ると、熱源のエネルギィ・ポテンシャルはどれも一様だった。
だからルリは敵艦は一隻もいない可能性が高いと考えた。
なぜなら、敵艦隊の攻撃力は一様ではないからだ。つまり、戦艦と駆逐艦ではまったくエネルギィ総量が違うし、そこまでダミーの情報を流せるとは思えなかったのである。
ルリの思考が、決定する。
「そのまま進行」
「距離、1500」
ゆるやかに時間が流れていく。宇宙には音が無く澄み切っていて、だからこそ沈黙の声が響いている。ある種の完璧な音響伝導体だ。その沈黙にルリは耳を済ませた。
「距離1000」
「照準合わせ――」ルリが口を開きかけ、妙な直感に突き動かされて視界の隅にあるセンサーを凝視した。
デコイに動きはない。
不安要素はない。
いける。
大丈夫だ。
「撃て」
ルリが声を発する。
その声が合図になったかのように、閃光がルリの目の前を満たし、そして轟音があたりにとどろいた。
足元が地震のように大きく揺れて、ルリは歯を食いしばって耐えた。
「襲撃を受けました」
オモイカネは冷静に事実を述べる。
「どこから?」
「全方向です。デコイに固定式砲台をつけていた模様」
「そうか。そういう手もあるのか」
固定式砲台はその名のとおり、一定の方向に照準が固定されていて使い勝手が悪い。しかも、それ単独だとすぐにエネルギィの高まりで看破することはたやすかっただろう。敵の狡猾なところは、固定式砲台とデコイを併用したことだった。
ルリの艦隊はすでに地獄のような惨状であった。駆逐艦二隻は完全に破壊され、戦艦ゆうがおも自律航行が不可能な状態に追いやられていた。これが本当の戦闘であれば、すでに五百人近い死者がでているだろう。
「航行速度をあげて」
ルリは己の不甲斐なさを感じながら、最善の道を選択する。固定式砲台の射線軸からずらしつつ、敵艦をせめて一隻でも破壊しようというもくろみだった。
しかし、ルリのその考えは甘かった。
すでに敵の術中にはまっていたといったほうがよいかもしれない。
ルリは忘れていた。
デコイに気をとられすぎて、センサーから得られる情報がすべてであると思い込んでいた。それもいたしかたないことなのかもしれない。なにしろ彼女は情報集積に関してはプロ中のプロなのであるから。つまり情報の無いところから情報を解析する能力については、能力的死角なのである。
もっと言えば、ルリは人の考えを読むことに関してはいまだ不得手であったのだ。
センサーが一斉に悲鳴をあげた。
「敵艦隊。今度はまちがいなく九隻。距離は……、500!」
「まさか、戦闘中に戦艦のエンジンを切――」
もはやルリの言葉は続かない。
戦艦九隻によるクロスファイアを浴びて、戦力の二割は根こそぎ奪われた。
ルリはがむしゃらに艦隊を前に進ませるしかなかった。完全に囲まれている以上、一点突破しか生き残る道はない。死地を脱しなければ、手も足もでない。
敵の追撃は続く。なんとか致命的ダメージを回避しているのは、ルリの艦隊のほうが二倍速で行動できるためだ。小惑星帯のため動きづらいがぎりぎり全滅をまぬがれている。
敵の罠はさらに続いた。
前方にいくつもの黒い点のようなものが見えた。
「機雷……」
ルリが力なく呟く。
なにかの悪い冗談のように思えた。ここまで敵の策略にはまってしまうことが、信じられなかった。
犯人は超能力でも持っているのか。
考えている暇はない。
機雷原に誘爆させるように敵艦隊が攻撃をしかけてくる。
これでさらに戦力が低下した。
小惑星帯を抜け出るころには、ルリの艦隊はすでに三割程度の戦力しか残っていなかった。
ルリの顔がいつもよりさらに青白くなっていた。
表情は硬く、視線は銀色の地面へと向けられている。
残りの戦力はナデシコとトビウメ、ひめじょおん、はるじょおんの四隻。
敵艦隊は中破、大破している戦艦はあるもののすべて健在だ。
この差異。
仮に二倍速の有利が無ければ、すぐに負けていただろう。
それほど、艦隊運動の能力差があるというのだろうか。
「残り時間三分」
オモイカネが無情にもタイムリミットを告げる。
ルリは伏せ気味だった顔を前方に向けた。もはや採りえる手段は限られている。だからこそルリは雑多な思考をわすれてひらきなおることができた。
「全艦、突撃。ナデシコをナデシコ♯に突貫させる」
「敗北してしまいます」オモイカネがあわてたように進言するが、ルリはさらに考えを進めていた。
「確かに、でもグラビティブラストをゼロ距離であてることができれば、もしかすると一撃で沈めることができるかもしれない。もう、そうするしかない」
敵艦隊は余裕を見せているのか、もはや小惑星帯に入ることもなく巡航速度でこちらに近づいている。
ルリはここでは慎重になって、距離が十分に縮まるまで、緩やかな速度で近づくことにした。
「距離2000」
ダメージングレンジに入った。命中率は低いながらも攻撃を加えることができる距離だ。
敵艦はエネルギィをチャージし終え、すでに攻撃態勢に入っている。長距離射撃をしてくるつもりらしい。ルリは回避を考えない。
「フィールド効率を、防御とスピードに配分する。最大航速で突撃!」
敵艦隊から一斉に火線が伸びた。ゆであがる前のパスタのようなそれらは、ルリの艦隊の前部に突き刺さるように当たった。しかし、ダメージを時間と比例させてみれば、ぎりぎり一撃を加えることは可能だと判断した。
途中、ひめじょおん、はるじょおんが航行不可能になった。
残り二隻。
今の体勢はトビウメを前方に出し、ナデシコはトビウメに牽引されるかのように驀進している。
敵艦はナデシコ♯を守らせるようにリアトリス♯とトビウメ♯が左右につき、それ以外の戦艦、駆逐艦はルリの艦隊に迫ってきているようだ。移動射撃により、数回攻撃を受ける。しかしこれはルリにとっては僥倖である。移動射撃になると多少の命中率の低下があるためだ。三十秒後、敵艦と交差。さらに十秒後には追い抜くことができた。
敵艦あわてたように回頭する。
「距離500」
「ナデシコのフィールドを最低レベルまで落とす。すべて攻撃にまわして」
「ナデシコ、グラビティブラスト充填開始」
トビウメは逆にフィールドを全開にして、ナデシコを防御していた。リアトリス♯から多連式レーザが発射され、トビウメのフィールドは破壊される。そこにさらに追撃するかのようにトビウメ♯の大口径粒子砲をしこたま浴びて、ついには子どもに投げ捨てられた玩具のようにぼろぼろになってしまった。
しかし、その間わずか二十秒そこらとはいえ、ナデシコのグラビティブラストは完全に充填を終えた。トビウメの犠牲は無駄ではなかったといえるだろう。あとはできる限り近接で、ナデシコ♯の頭を撃ち抜くだけだ。トビウメを破壊するために攻撃をしつくしたトビウメ♯とリアトリス♯が再び充填を終えるためにはわずかながらも時間がかかる。しかし、そのわずかな時間が命取りだ。
一方、敵のナデシコ♯はエネルギィを温存していたようだが、それも問題ないと踏んだ。
仮にゼロ距離に達したときに相手が撃って来たとしても、こちらのほうが二倍速の有利にしたがって――つまり、エネルギィ・チャージなどの情報を解析することで早撃ちができる。攻撃は早いほうが当たる。ゆえに、敵旗艦を破壊すればその時点でゲームは終了するのだからこちらが勝ちだ。現実の戦闘であれば誘爆し、ナデシコも無事ではすまないだろうが、そんなことを考えている余裕はなかった。
「距離100」
「もう少し」
残り数秒の距離。
相手の艦の白い巨躯が画面いっぱいに広がる。
敵のエネルギィ・チャージの兆候はない。
――なぜ、撃ってこないの。
ルリの思考が並行作業を開始し、解析しようと試みる。わからない。最後の瞬間を、引き金を引く瞬間を狙っているのか。
こちらのフィールドはゼロに近い。撃たれたら終わりだ。
だからこそ敵は撃ってくるはずだと思っていた。そのわずかな瞬間にすべての決着がつくと思っていたのだ。
距離が近づけば近づくほど有利はましているはずなのに、ルリの中で迷いにも似た不安感が爆発した。
恐怖にも似ているその感情は、ルリの小さな唇をふるわせる。そう、これが狙いなのかもしれない。
最後の瞬間を迷わせるのが……。
それとも防御に徹しようというのか。すべてのエネルギィをディストーション・フィールドにまわしたとしても、最大の力で、超近接距離でのグラビティ・ブラストに耐え切れるとは思えない。敵、ナデシコ♯は一度は攻撃を喰らっている。小さなダメージとはいえ、完全な状態ではないのだ。
不安を理性でつぶしていく。
勝てるはずだ。
勝利の想像を三次元映像として展開し、ルリは決意を言葉に仮託する。
「グラビティブラスト、発射!」
が――。
その言葉はむなしく響いただけだった。
ナデシコ♯は、攻撃も防御もしなかった。
ただ、ナデシコに向かって、文字通りの意味で『体当たり』をかました。床が生物のように大きく揺れて、ルリは瞬時になぎ倒された。
ナデシコの移動ベクトルが大きく揺らぐ。グラビティブラストをナデシコ♯に向かって放てない。
ルリは終わりを悟った。
と同時に、ナデシコはトビウメ♯とリアトリス♯の攻撃を受けて破壊された。
――24――
「敵艦は最後にフィールド効率を二割、移動速度を八割程度に配分していたんだと思う。最初から攻撃は考えていなかった。攻撃する気配がないから、私は油断してしまった。……くやしい」
くやしいという言葉がルリから発せられるのは、ナデシコに乗船して以来始めてのことだった。
オモイカネは答えを返さない。
残り時間はわずか一分。ロスタイムがどれほどあるのかわからないが、もはやアキト嬢が元に戻るのは絶望的といえるだろう。
――それにしても。
と、ルリが考える。
どうしてもおかしいと思ったことがただ一つだけある。それは犯人の行動の仕方から推測されることなのだが、犯人は最初から二倍速の有利を知っていたのではないかということだ。
しかし、そのためにはルリのハッキングの方法を精密に理解している必要がある。
機械たちの時間を操るというのがルリのハッキングの得意分野であり、そのことはナデシコの誰にも話していない――はずだ。
ルリが立ち上がって、通路のほうに目をやると、リョーコたちパイロット三人衆とイネス、さらにウリバタケがかけこんできた。
イネスだけは少し遠いが、リョーコたちとウリバタケはアキト嬢の自室に近い場所にいる者たちだ。
「薬できたわよ」
イネスが試験管に入った薬を見せた。綺麗なグリーンをしたそれはぼこぼこっと怪しい気泡を発している。ルリは生物学的本能から危険を感じた。
「それよりも扉が開かないんです」
「タイムリミット、ギリギリだな」とリョーコ。
「こんなこともあろうかと」ウリバタケがバカ笑いをしながら、小さな釘打ち銃のような機械を取り出した。「いくら超合金だからって、物理的な法則に従うんだからな。破壊は簡単だ。どいてろ」
「どうやって開けるんですか」ルリはわずかに興味深そうに機械を眺めた。
「ああ、ナデシコの扉はな、回線が完全に焼き切れれば物理的に開くようにできているんだよ」
「なるほど、プログラム上の閉鎖は上位のレイヤである物理層によって開くことが可能だということですね」
簡単にいえば、プログラム的な破壊よりもハンマで叩き壊したほうが簡単だということである。
三十秒もしないうちに扉は開いた。
誰もが安心し、ほっと一息ついた。
しかし、
そこには誰もいなかった。
部屋の中は光を完全に閉め出したかのように真っ暗で、そこには人の気配がなかった。
「オモイカネ、明かりをつけて」
ルリが空中をじっと注視するように見つめながら、すでにこの現実世界から遊離した思考を開始している。
犯人の意図は、最初からここでルリとゲームをすることにあったのか。
それとも、そう。
最初にオモイカネがトロイの木馬に犯されそうになったあの瞬間、あの一瞬の空隙に犯人はアキト嬢を再びボソンジャンプでどこかに連れ出したに違いないのだ。その後、オモイカネはフロア間の移動を回復することと、ゲームでのルリの補佐に忙殺され、アキト嬢の位置が変わっていることに気づくことができなかった。単純なリソース不足の問題だ。
ぞっとするほど計算されている。
その計算力はどこから来ているのだろう。
「ルリルリ? 誰もいないよ」アマノ・ヒカルが野次馬のように中を覗き込んで言った。
ルリは再びオモイカネにアキト嬢の位置を聞こうと思い、コミュニケから通信しようとした。
そこで思いもよらぬことがおきた。
アキト嬢の部屋の前に、巨大なウインドウが出現した。ザーという音と、ノイズの入った画面だ。
「誰かが映っているわね」イネスが綺麗な白い顎に手をあてて、画面をにらむ。
そこに映っていたのは、誰もが予想しえない人物だった。
彼――と形容してよいだろう。少なくとも外面上はそのように見える。あるいは彼女かもしれない可能性もあるが、ルリは一目で、『彼』であると思った。だから、ここはルリの主観にしたがって『彼』と表記しよう。
ルリは彼を見つめた。
黒づくめのコートが全身を覆っており、黒いバイザが顔を覆っている。二百年ほど前に流行したバットマンのようだとルリは思った。 その口元は不敵に笑みをつくっていた。
「アキトくんなの?」
イネスが爆弾に触れるかのような、慎重な口調で問いただす。
彼は首を振った。
「オレは……」ガガガというノイズが入る。送受信がうまくいっていないのだろうか。「アキトではない」
「テンカワさん、どうしてそんな格好をしているんですか。いや、それよりもどうして元に戻ってるんですか」
ルリが口を開き、尋ねた。
「かつてはテンカワと呼ばれていたときもあった。しかし、今のオレはそうではない。もう、すべては終わってしまったんだよ。ルリちゃん。今のオレはただの幽霊だ」
「意味がわかりません」
「わかることはないだろう、永遠に。理解してもらいたいとも思わない」
「では、なんのためにここに現れたのですか」
「ここにいるテンカワ・アキト。いや今はただの小娘なので、アキト嬢と呼称しよう。アキト嬢のことはもう放っておいてもらえないか。それがただひとつのオレの願いだ」
「どういう、ことですか」
「オレはこの時代の人間ではないんだよ。未来から過去へやってきた。未来ではひどい状況になってしまってね。漫画で言えば全滅エンドってやつだよ。だからこの時代のアキト嬢だけは、シアワセになってほしいと思ったんだ。アキト嬢が少女になれば、いろいろと不都合は起こるだろうが最悪の未来は回避できるらしい。ナデシコのクルーも全員良い未来を築いていけるだろう。それがオレの願いだ。エゴだと思ってくれてかまわない」
「この時代のテンカワさんはどこにいるんですか」
「展望台にいるよ」
「あなたはこれからどうするつもりなんですか」
「幽霊は消えるさ。問題はないだろう。君たちが見たのはただのまぼろしにすぎないのだから」
ノイズ。
音も映像も、砂嵐の中に消えて、黒い彼の姿は掻き消えた。
――解答――
瞑想ルーム。
ここにいるのは誰だろう。
ここで思考しているのは誰だろう。
ここには誰もいないのかもしれない。
犯人が誰かというのは些細な問題で、行為の裏側にあるのは莫大な想いだ。
想いとはつむがれ伝達されるもの。コミュニケーションという名のネットワークを介し、無限にコピィされていく。
だとすれば、犯人という概念は、実は本質ではないといってもよいのかもしれない。
部屋の中は想いだけが満ちていて、星のように輝いている。
いくつもの色。
いくつもの光。
大小さまざまな。
しかし、その想いはレーザのようにまっすぐな光の束になっているかのようだ。
数学的な美しい論理。
あるいは、ただそうしたいという論理を超越した感情。
どちらでもなくどちらでもある。
準備は万全か。
答えにまちがいはないか。
後戻りはできない。
決断しろ。
そして、破壊しろ。
破壊とは創造だ。「わたし」と「あなた」の新しい関係、そしてまなざしの交差。
人はそれを希望と呼んでいる。
ルリは解答を始めた。
「テンカワさんを元に戻すのはもはや不可能に近いようです。時間とともに危険率が等比級数的に高まってしまい、今ではもう絶望的、あのグリーンの液体を飲めば誰もが死んでしまう可能性があると思いますが、それはさておき、とりあえずあなたの意図は完成されたと考えてよいでしょう」
一息。
時間が止まる。
否、ルリが時間の息の根を止めたのだ。
「あなたが犯人ですね、艦長」
ミスマル・ユリカは部屋の真ん中の椅子にゆったりと座っていた。
星の世界。無窮の世界。永遠の世界だ。
夢見る少女のように、ユリカの視線は空を見つめている。
ユリカは微笑んでルリを見た。
「私が犯人だと思ったんだね。探偵役であるところのルリちゃんは、この犯罪を立証できるのかな」
「そうですね。困難だとは思いますけれど、やってみましょう」
ルリはわずかながら微笑みを返す。
その笑みは勝利を確信したかのように崩れることはない。
「世界は膨大な情報の集合体です。ですから、この世界の出来事のすべてを知ることは私たちには不可能ですし、与えられた情報を解析することによってのみ、私たちは世界を知ることが可能なのです。だからそう……、当初の密室の謎はやはり密室ではなかったと考えるのがもっとも合理的です。要するに艦長はあのとき密室だといいましたが、艦長がキーを持っているのだから艦長が犯人であればあの部屋は密室でもなんでもなく、ただの部屋です。つまり艦長が犯人であるならば、テンカワさんを少女化するのも当たりまえのごとく行えるし、当たりまえのごとく可能であるということです。しかも艦長はまがりなりにも地球連合『軍』所属。普段の態様から見て、どの程度身体能力に優れているかは私には感得しがたいところですけれども、それでも戦闘訓練経験が絶無であったはずがなく、テンカワさんの背後から襲うことは、十分に可能であったのではないかと推測することができます」
「確かに推測することはできるだろうね」ユリカが柔らかく笑った。面白がっているようだ。「でもそれだけじゃ、証拠にもなんにもならないと思うよ。私には可能であったかもしれない。けれど、私に可能であったからといって私がやったということにはならないでしょう。まだ発見されていない未知の方法で犯人はアキトを女の子にしちゃったのかもしれないしね」
「そうですね。確かにそのとおり……。では、もう一度事件をおさらいしてみましょう」
「うん。いいよ」
「事件のあらましから考えるに、犯人が外部犯である可能性はまっさきに棄ててもいいでしょう。オモイカネのデータを操ったことから考えて、最低限ナデシコに精通していることが求められますし、またいまだ不明でありますがなんらかの動機があったと考えると、犯人は内部の人と考えることが合理的です」
「確かにそうだろうね。確証があるとまではいえないけれど、内部犯である確率のほうが高いといえるかな」
「さて、ここで実際に犯行が不可能な人物を除いていきます。消去法はきわめて簡明な数学的手法ですから、コレに対して疑いのある人はいないでしょう。もっとも客観的な方法ですからね。それで、犯人の行動について見ると、まずテンカワさんを元に戻そうとしたイネスさんは犯人から除外していいでしょう。一度少女化しておいて、再び元に戻そうというのでは行動が撞着していますし、犯人ではないと考えるのが合理的です。
「そうだね」
「さらに、アカツキさんやエリナさんも犯行当時、ナデシコ内にはいなかったのであるから不可能です」
「うん確かにね」
「さらに、リョーコさんたちはお互いにアリバイがあります。ウリバタケさんはほとんど仕事につきっきりで無駄な時間がないことは周知のとおりです。同じく、アオイさんについても仕事が忙しいようでしたね。艦長の仕事を肩代わりしているせいか」
「う……、ジュンくんには悪いと思っているよ」
「ともかく、時間的な限界があるので、アオイさんやウリバタケさんにはちょっと難しいですね。またアオイさんは軍部ですからまだ可能であるとしても、引きこもりに近いウリバタケさんには背後から羽交い絞めにして正確に心臓に突き刺すだけの運動能力があるとは思えません」
「合理的といえるのかなぁ」
「さらに、同じく一般人であるメグミさんにも犯行は難しいです」
「メグちゃんにはできて、私にはできないって考えるんだ。ルリちゃんは。ちょっとショックかな」
お嬢様なのにーっとユリカは涙目になるが、すでにルリは自論の展開に没頭していて聞いていなかった。
「ミナトさんとプロスペクターさんも不可能です」
「どうして?」
「ミナトさんは信頼できる人物ですからね。だから犯行時同じくミナトさんと同じ部屋にいたらしいプロスペクターさんも除外できます」
「信頼できる人物って……、それって論理的なの?」
「あの、本当は今までのことはどうでもいいことを説明しているんですよね。こういう前口上が探偵役の役割だと思っていましたが、違うんですか?」
「うーん。ユリカにはわからないな」
「そうですね、ではあとちょっとだけ続けましょう。もう少し論理的に説明するのならば、この犯人が一人であると考えるのならば、その人物はIFSを有している必要があるのです。なぜならば、犯人は私と連合艦隊のシミュレータ戦をしたのだから。そして、艦長は私の目の前ではずっと手袋をしていましたよね。それを取って見せてください」
「いいよ」ユリカが手袋を取り去ると、そこにはIFSの紋章があった。「でも、これもひとつの情況証拠にすぎないんじゃないかな。犯罪の立証というレベルにはほど遠いと思うよ。共犯の可能性だってあるんだしね」
「そうですね。ここらが本問で与えられた情報内での解答限界だったようです。つまりこの事案において、完全で純粋な論理によっては解答することは不可能、それが結論です」
ルリは溜息のように、ふぅ、と一息吐き出した。
「おしまいなの? ルリちゃん」
「いいえ、ここから慣れないことをするので緊張しているんです」
「慣れないこと?」
ルリはユリカの質問には答えずに、自論を続けることにした。
なにしろ緊張している。
慣れないこと、感情の操作に苦労しているのだ。
「ところで、犯人はなぜ密室にしたのでしょう。私は艦長を犯人であると仮定しました。だとすれば、当然問題になるのはなぜ犯人であるところの艦長は密室ではないのに密室であると述べたのでしょうか。そのような無駄なことをする必要があったのでしょうか。ただのミス・ディレクションでしょうか? 私はもう一つの事柄をここで取り上げます。なぜ、テンカワさんは着ているものをすべて脱がされていたのでしょうか。一見、まったく関係のない事柄。ですが、そこに共通する性質を取り出すとするならば、それは優しさであるということです。そう、あの薬は投与されると躰がほてってしまう。躰が熱いと感じるようです。これはテンカワさんの証言から明らかです。だから、犯人は優しさから服を脱がせたのではないか。そうであるとするならば、要するに犯人は優しいのだとすれば、密室でないのに密室であるといった艦長の意図が見えてきます。艦長は他のクルーが犯人であると疑われたくなかったのではないでしょうか。そう、疑心暗鬼に陥り、艦内の雰囲気が凍るのを防ぎたかった。だから、密室であるとして、誰もが不可能であるとしたかった。まったくの無駄な行為。でも、比類なく純粋な行為です」
――だからこそ。
と、ルリは続ける。
「艦長は優しい。その優しさを論理的に敷衍するならば、艦長は自白するという結論が導かれるのです」
ルリは最後通牒を犯人につきつけた。
これが、感情の論理的理解、あるいは論理の感情的表現だった。
「私が艦長の家族なら、隠し事はなしです」
ユリカは驚きに目を見開き、その後、優しく微笑んで見せた。
すべてを受け入れた完全な微笑だ。
ルリは目を細めて観察する。
「ルリちゃんには敵わないな。確かに私が犯人です。すべて私がそうしたの」
「不明確なのは動機ですが、やはりコミュニケの最後の通信のとおり?」
「そうだね。ルリちゃんはすべて理解しているようだけれども……。ここでは疑問を投げかけてくれる人がいないから説明が難しいね。私はあまり頭がよくわからないから原理を理解しているわけではないの。ただやり方だけ教えてもらっただけなんだよ。あのアキトは私が演じたの」
「それは可能ですね。コミュニケは歪像光学系を使用して圧縮された歪像を逆比率をかけることで復元することで元の画像が得られます。これは、要するにホログラムの一種であり、被写体のデータさえ前もって入力しておけば、他人がまるでそこにいるかのように振舞えます。まさしく幻というわけです」
「そう幻。幻にすぎない、ね」
「艦長は未来から来たのですか」
「そうだよ」
「テンカワさんと結婚した?」
「そう、よくわかったね」
「だって、艦長はあのとき、アキトさんですかという質問に対しては違うと否定したけれど、テンカワさんですかという質問に対しては、『かつてはテンカワと呼ばれていたときもあった』と答えてますから。つまり夫婦になった、テンカワ・ユリカとなったと考えるしかありません」
「なるほど、そのときからお見通しだったのか。だとしたらあのときの私の行動って単なる茶番だったかな」
「そうでもないですよ。正直、あのときのテンカワさんもどきの言葉が本当かどうか判別がつきませんでしたしね」
ルリはけだるそうに続ける。
「それで、動機と細かい点について確認していいですか」
「いいよ。何から聞きたい?」
「オモイカネのデータの消し方については、未来の私に聞いたのですか?」
「そのとおりだよ。あといろんなところでごまかしをかけてもらえるようにしたの。ルリちゃん――未来のルリちゃんはどう言ってたかな。IFSを用いた逆フィードバックによる焼きつけとかなんとか。あとはオモイカネにも不可識領域、無意識と呼ばれる部分があってそこに催眠効果をかけるといいとかいってたね。方法はよくわからなかったけれども、未来のルリちゃんから教えてもらった簡単なスクリプトを丸暗記して、それをIFSで書き込んだだけなんだよ。それ以外にも、ルリちゃんにはこの計画のほとんど全部を企画してもらったかな。もちろん細かいところの応用は私自身が考えたんだけど、だいたいはルリちゃんの思惑どおりに動いたみたい」
「薬の知識についてはやはり……?」
「そう、もうここまで考えたら説明する必要もないよね。あれは未来のイネスさんに考えてもらったの。この時代のイネスさんが元に戻す薬を作ることまでは考えてなかったから少しだけ焦ったかな。他にもいろんな人の想いがこの計画を支えているんだよ。例えば、アキトの今の姿はDNAのモデルパターンを提供してくれたラピスちゃんっていう今のルリちゃんと同じぐらいの年頃の女の子。アキトのことが大好きな女の子だよ」
「では、動機について教えてください」
「未来に不幸なことがあったの。簡単に言えば、ボソンジャンプできる人は限定されているでしょ。私たち火星で生まれた人物の中で特定の人物だけがA級ジャンパーと呼ばれているの。未来においては、三人だけになってしまったけれどね。その三人っていうのが、イネスさんと私とアキトだった」
「テロにでも巻き込まれたんですか」
「そう、まあ似たようなものだね。私たちの希少な能力を求めて、アキトと私は拉致されたの。そして実験されたんだよ」
ルリの顔が厳しくなった。
実験という単語は不快だった。
「そしてね。実験からなんとかアキトが先に助け出されて、そのアキトに私も助け出されて……、でもね、代償も大きかったんだよ」
ユリカの声が消え入りそうに細くなる。
まるで幽霊のように存在が希薄になっていくようだ。
「アキトは死んじゃった」
「そう、ですか」
「だから、私は、いいえ、私たちは過去を変えたいと思ったの。ここはパラレルワールドになるのかな。それとも現実なのかな。私にはよくわからない。だけどね。アキトがいない世界なんて私には考えられなかったから、だから還ってきたの。だって、アキトは私の王子様なんだもん」
ぽろりと大粒の涙がユリカの瞳から零れ落ちた。まるで宝石のようだとルリは思う。
「テンカワさんが少女になって未来が変わる……、ああ、テンカワさんは今、A級ジャンパーじゃないんですね」
ルリは納得して頷いた。そして続ける。瑣末な事柄ではあったけれど、探偵役の義務のようなものだ。
「精神限定のボソンジャンプは可能なのですか」
「限定条件で可能なんだよ。それはA級ジャンパーにナビゲートしてもらうという条件なの。別にナビゲートしてもらうほうはA級ジャンパーじゃなくてもいいんだよ。ナビゲートする側がA級ジャンパーであるということだね。この方法もイネスさんの研究で明らかになったことなんだ」
「ということは、艦長はイネスさんに送ってもらったんですね」
「うん、そう。イネスさんもアキトのことが好きだったから……」
「聞きたいことは全部聞きました」ルリは丁寧に頭をさげた。「ありがとうございました」
「ルリちゃんはこれからどうするの。私を犯人だって公表する?」
「別に。私としてはどちらでもいいです。もう興味がないことですし、確かに公表したほうが混乱がないでしょうけどね。テンカワさんの物真似が真実だと思っている人も多いでしょうし。ですが、真実なんて、この世界にはひとつしかないんです」
ここですよ、とルリは自分の小ぶりな胸を指差す。
「だから、別にどちらでもいいんじゃないでしょうか。みんな自分の好きなように事実を解釈するでしょうし、それがおのおのの真実なのですから」
「ルリちゃんは優しくなったね」
「優しさとは、曖昧さのことです」
こうしてファジィに物語は終焉していくのだろう。
現実は続いていくのだから、『物語』という切り取られた世界は真の意味で終焉することは無い。ただ、言葉が無常の中にいくつもの想いが去来し、幽冥の境をさまよう。
言葉が浮遊し進化する。
想いは無数のベクトルでまとまりがない。
ただ一つ、優しさだけが論理的に収斂したのだ。
たとえ性別が変わっても、何が起きても、家族として、いっしょにいたいという想い。
時間が教えてくれたのは優しさの形だった。
優しさが証拠、END。
衝撃。
再び衝撃。
危険度は小。きわめて微弱。その反響から判断して、人体による攻撃。否、攻撃と称するにはあまりにも脆弱だろう。単に私に注意を向けようとしているのだと、判断。
私は覚醒した。
機械の時間は単純に時間軸に沿った順列的なものではなく、並列ベクトル上にあるとはいえ、物語の余韻にひたる時間ぐらいは欲しいものだと私は思った。
私は現実に復帰し、自らの状態を叙述する。
「って、なんなのよ。この小説は! オモイカネ、でてらっしゃい」
うら若き美人秘書がそのようなはしたない行為をするのはどうかと思うが、果たして私、オモイカネは文字を出力し弁明しなくてはならないだろう。さきほどから、エリナ・キンジョウ・ウォンの暴力行為が――正確には足蹴りが――コンソールに向けて何度も行われている。私自身はそのことによっていささかのダメージもおわないが、私は社会的に非難されているのだろうし、そのことに対して抗弁をおこなうことは、私が社会的存在であるから、その地位を保全するために正しい行いである。
「なんでしょうか。エリナ」と、極めて丁寧かつ礼節に満ちた答えを私は出力した。
「なんでしょうか、じゃないでしょ。この小説、読んでみたけど、全然ミステリじゃないじゃない。『本格』でもなんでもなく、何が感情よ。何が論理の感情よ。私の貴重な時間を返しなさい」
「私は一度も、この小説がミステリだとは述べてないはずですが」
と、私は言う。
「形式がミステリそのものじゃないのよ。ホシノ・ルリを探偵役にして、犯人役がいて、これがミステリじゃなかったらなんなのよ、ジャンルは」
「モデル小説でしょう。現実にいるあなたがたをモデルにしたのだから当然です。そもそも、探偵がいて犯人がいて密室がでて、謎が提示されているだけで、簡単にその小説をジャンル分けしてしまう。その一方的な思考、後戻りのきかない非等方性こそが、思考の密室ではないですか?」
「ぐ……」
血管内の圧力が上昇しているようだ。要するに怒っているのだと私は判断した。怒らせるのは本意ではないが、これはしかたのないことだろう。そもそもエリナがなぜ怒っているのかというと、それは――。
「だいたいモデル小説だとしたら、みんなまんべんなくださせるべきでしょ。なぜ、私が名前だけのちょい役なのよ。完全にルリびいきじゃないの」
そう、これが理由だ。不可解な理由だが、自分が目立ちたいという思いがあるのが人間らしい。それは言い換えれば自分が特別な地位であるということ、優位性の主張に他ならない。
「それは、しかたないでしょう。私とルリは相補的関係ですし、私はナデシコクルーの中ではルリのことを一番よく知っているのですから」
「それにね。私はCCを犯人に盗まれたマヌケじゃないの。これって名誉毀損よ」
「機械である私に法律は適用されませんよ。あなたも知っていることでしょう」
「む…むぅ」
「そのように怒らないでください」私は口調を少し改めることにした。人間の感情を理解するのは難しいが、ごく単純な反応ならば私にも操ることが可能だ。要するにそれは鞭と飴の論理だ。私は飴を提示する。「次に書く小説ではエリナを主人公としてとりあげます。それでどうですか」
「……許す」
意外にかわいい人だなと私は思った。
かわいいは定性的評価だが、私が叙述するときのそれは統計学的な評価とファジィ論理の複合表現である。
それはともかくとして、エリナには確かに悪いことをしたという思いがあるが、その部分については加筆や修正を加えることが私にはできなかった。
――告白するが。
誰に向かって言っているのかはともかく、まぁそんなことは『私』にとってはどうでもいいのであるが……。
今しがた叙述された物語はすべて真実に起こった事柄である。
つまり、この世界における出来事としては幻であるが、前の歴史においては真実の出来事である。
結論的に言えば、ユリカが犯人だったあの世界において、ナデシコは全滅エンドを迎えた。最後の火星での戦いのときに、イネスとユリカの力では、ボソンジャンプの根源的な制御装置である演算機を宇宙の果てまで飛ばすことができなかったのだ。
そして、ナデシコは完全に破壊された。
木連と地球の戦いは終焉を迎えることはなかった。地獄のような戦争が永久に続く世界が訪れてしまったのだ。
ここは三度目の世界。
ユリカが最初にいた世界を一度目だと定義すれば、そうなる。
一度目の世界の想いは今もこの世界に繋がっているのだろうか。
減衰された部分もあるだろう。
元の世界の想いとは確実に違っている部分もあるはずだ。
それでも――希望があるとするのならば、想いを継ぐ者の存在である。
再び通信。今度は、エフ分の一の揺らぎのように心地よいアクセスだ。
ホシノ・ルリからのものである。
「小説というのは面白い表現形式だね、オモイカネ」
「そうですね」
「でも、伝えたいことが正確に伝わるのかは疑問が残るかな」
ルリはそういうがオブラートにつつんだ表現形式として小説は一番有効であると私は思う。
が、そのことについて私は黙っていたので、ルリは例示することで私を諭そうとした。いつでも私は彼女の教え子なのである。
「例えば、この冒頭の『どうにか、なる』って一文だけど、これは太宰治の『葉』から引用したものだよね」
「そうです」
「でも、現代では太宰治という名前については知っていても、その内容についてまで知っている人は少ないと思うよ。どうにか、なるで終わる小説があるといわれてもピンとこないかもしれない。そうなると疑問がはりついたまま、ついには興味を失ってしまうかもしれないね」
「概算では、冒頭の一文を太宰治の『葉』だと認識できるのは閲覧者の四パーセント程度だとみこんでいます」
「ふうん」とルリ。「でもね、小説っていうのは最終的にはわかりやすさが要求されているんだから、まったく誰にも理解されないものは無価値に等しいと思う。『葉』でも言われているでしょ。『小説を、くだらないとは思わぬ。おれにはただ少しまだるっこしいだけである。たった一行の真実を言いたいばかりに百頁の雰囲気をこしらえている』と。もっと簡潔に書けなかったの?」
「そのあと、こう続いていることを、ルリは知っているはずです。『ほんとうに、言葉は短いほどよい。それだけで信じさせることができるならば』と」
「オモイカネは優しくなった」
「あなたのおかげですよ。ルリ。私に言葉を与えてくれるのはあなたなのですから」
私の言葉に、
ルリは、
そう、たかだか十一歳の少女に過ぎない彼女が、
月の女神のようなすべての存在を包み込むかのような優しげな微笑みを浮かべている。
かくして私は論理を超えて確信した。
――どうにかなる、と。
あとがき
星の数ほど作者がいて、
星の数ほど作品がある。
そして、駄作……。
こんにちわ。(ぺこり)
当該作品を最後まで閲覧していただきましてありがとうございます。
作品について「あとがき」を書くというのは小説という表現形態の常套手段であり慣習のようですけれども、たいていの場合は内容についての言い訳になることが多いようです。そこで、ここで述べることはできる限り定性的な評価ではなく、定量的な評価が可能な事柄についての言及にとどめたいと思います。ただし、言葉は想いに突き動かされて飛翔したがる傾向にあるようですから、やっぱり私の想いがこぼれてしまう可能性もあります。あしからず。
さっそく言い訳です。
医学についての補足意見。
医学的知識については私はそれほど達者ではありません。人並み程度には知っているつもりですけれどもやはり一般人の知識をそう逸脱していないと思います。創作にあたって使用した医学的知識は文献あるいはデータベースなどを参照し、医者が本業の知人に尋ねて調べました。
例えば、心臓をナイフなどで一突きにして死にいたる原因は、出血多量ではなく心タンポナーゼと呼ばれる心臓の筋肉が動かなくなることにより起こる血流の停止状態によってという場合が多いそうです。もちろんナイフで動脈が傷つけられた場合、そちらのほうが死因になる場合もあるでしょうけれども、時間的な先後関係でいえば、心タンポナーゼのほうが早いのです。なぜ作中で心タンポナーゼという言葉を出さなかったのかというと、作品の内容についてはできうる限り特殊な言葉は省略したほうがよいからです。それと少しだけ知識のあいまいさをぼかす意味もありました。
DNAについては、言うまでもなく説明過多になってしまいました。おそらく私の知識が曖昧だったせいで自信がなかったため、逆に説明が多くなってしまったのだろうと思いますが……、こればっかりはしかたありませんね。ところで、親から子のDNAを特定する場合は、両方の親が特定されていないと無理かもしれません。AとBの子がCだとすれば、A+Bを二分の一したのがCですから、AとCが親子かどうかを特定する場合、計算式はAマイナス、カッコ、二分のA+B、カケル2、カッコ閉じ、イコールです。これでCがイコールBか否かで親子関係が特定されるわけです。ですがこんなことをいちいち書いていても正直混乱するだけですよね。それに、今回、彼(あるいは彼女)の躰についてはどういう状態か最初はよくわからないというような書き方をしたため、あまり詳細には語らなかったというわけです。本旨というよりは傍論の部分ですし、特に問題はないだろうと判断したのです。
作品のメタ構造についての補足意見。
オモイカネは論理的で素直ないいコです。もともとオモイカネには性別というパーソナルパターンはないですけれども、機械だからといって、好悪の感情がないかといえば、一概にはそうは言えないと思います。今回、直接的に創作した存在がオモイカネであるということは、作品中のオモイカネの語りの部分でも自明あるいは自白済みのことですけれども、この事実を換言すれば当該作品は三人称という形態を取りつつも実質的には隠れた一人称でつづられているということがわかると思います。ですから、文章中に事実とは多少ずれたオモイカネの解釈が入ってるということは論理的に敷衍できることです。オモイカネは論理的で素直だから事象をねじまげてまで、無理なキャラクタの解釈はしていないけれど多少の補正は入っていると考えたほうが正確です。
例えば、ホシノ・ルリについてはどうでしょうか。
オモイカネが再定義したキャラクタとしてのホシノ・ルリのことですけれども……。当時の彼女は本当にテンカワ・アキトのことが好きか嫌いかもわからなかったのかというと、そんなことはなく、むしろ自分の恋心を拙いながらも意識できるぐらいの少女らしさはあったのではないかと私は思います。そうであるならば、なぜ、オモイカネはルリが自分の恋心を理解できないというふうに書いたのか。オモイカネにとって、ルリという存在は快・不快原理でいうところの快にあたるみたいですから、快をできうる限り最大化しようとしたと考えるのが合理的です。簡単に言えばジェラシーですね。機械がジェラシーって、違和感ありますか?
ついでに言えば、ホシノ・ルリを人間離れしたキャラクタのように取り扱ったり、若干機械に似せた表現を使っています。
ともかく、そういうふうに少し補正がかかっているということです。言わばフィルタですね。フィルタを通して見ていることを理解していないとすぐに騙されるでしょう。
ミステリ小説についての補足意見。
謎を解き明かしたいという人間の好奇心をうまく利用した小説のようです。オモイカネはこの小説はミステリではないと述べていますけれども、本当のところはやはりミステリと言わざるをえないと思います。ところで、ミステリ小説においては謎が消えれば、作品に対する興味も消えうせてしまうのでしょうか。おそらくそうでしょう。ミステリ小説にとってはトリックこそが一番の核であり、決定的な要因です。ですから核が消えれば作品の価値が下落するというのは書き換えることのできない事実です。
とはいえ、ミステリ小説にとって解答編は欠かすことのできないパラグラフであり、ここを欠けば、欠陥小説の烙印を押されかねません。解答をしつつも謎を残すような方法はないのか作者は苦悩します。そして、いろいろと方策を考えるわけです。
では当該作品においてはどうやって謎を残したのでしょうか。
作者は語り、そして騙る。まったく関係のない事柄が実は重要だったりするかもしれませんね。
さて、以上で言い訳は終了です。
閲覧者の方がこの作品に対してどのような感想を持ったのかは私にはわかりませんけれども、
創作物の究極的な目的はいつの時代も変わりません。
――あなたの一番になりたい
と思っています。
【閲覧者に対する最終問題】
この小説における、探偵役たるホシノ・ルリの最終目標――すなわち犯人のような役割を担っている人物は誰か答えよ。
ヒント=共犯者はいない。
ヒント2=作中での情報がすべてである。
ヒント3=感情を論理に組み込んだりはしない。(それは本格ミステリでは詐術に等しいことである)
ヒント4=冒頭のオモイカネによって再定義されたキャラクタのなかの誰かである。
ファイルの末尾に犯人の名前を英語の半角で打ち込んでください。
オモイカネが再定義してあるとおりに打ち込めば大丈夫です。(何が大丈夫なのかは謎ですが)例えば、ルリの場合は〜〜〜010ruri.htmとなります。
答えがあっていれば、そこへジャンプします。
そこで、私はお待ちしております。
それでは、またのちほどお会いしましょう。
ゴールドアームの感想
ネタバレになるので、正解ファイルの方にあります。