「歓喜の歌 あるいはそれを求める静謐な飢え」
authored
by Effandross
それは、まどろみの中の世界のようであった。
夢と現実、空と色の狭間のような不思議な浮遊感。
何にも触れていないようでいて、全てに包まれているような。
そこには一切の光も無く、かといって闇でもなく、無色であってそれと同時にありとあらゆる色が瞬く色彩の乱舞でもある。
情報に満ちていてそれでいてどこまでも静謐な世界。
矛盾に満ちているようで全てが整合しているような感覚。
自分自身が存在しないようで実はその世界全体が自分である、という奇妙な認識。
自らを無知と知り、理解に対する飢餓が存するのと同時に、全てを知っているかのような充足感もまた、そこにあった。
時の感覚すら忘れられたその世界に、どれだけ漂い続けたのだろう?
一秒、あるいは1000年?
だがその一瞬の永遠は唐突に終わりを告げた。
己の含まれる、あるいは己そのものである世界に不意に揺らぎが生じる。
突然に莫大なエネルギーの迸りが生まれ、自己が宇宙の開闢の如き勢いで爆発的に拡大しはじめた。
そしてその永劫とも一瞬ともつかぬ時間の後、力のベクトルが逆転し、ブラックホールに吸い込まれるかのごとく恐るべき速度で自らが爆縮していった。
そして、己が一点に集束した、その、瞬間、
彼は世界を真白に染める強烈な光に全身を焼かれていた。
唯一光の当たらぬ背中も、無数の氷の針をあてがわれたような、激痛に見舞われていた。
口の中も身体の奥も、酸を流し込まれたような熱さと痛みに襲われ、周囲の空気は耐え難い異臭を放っていた。
これが、死か。
彼は気が遠くなるような苦しみの中、のた打ち回りながら心で叫んだ。
これが、地獄というものか。
これが幾千の命を奪ったオレに対する罰なのか。
ならば、受け入れよう。
オレの罪がオレだけで背負えるのであれば。
そう、心を決めると彼は動きを止めて身を静かに横たえ、全身の筋肉を緊張させて身体全てを襲う激痛を受け止めようとした。
だが、その瞬間にはそれらは既に痛みですら無くなっていた。
身を焼き尽くすかのような光は、夏の太陽の輝きであった。
背を刺していた冷たい痛みは、露にぬれた青草の葉。
口に感じた熱さは、己が唾液の味。
そして、異臭と思っていたものは、夏の川岸の、水の匂いであり草叢の空気であった。
あの強烈な痛みは、長い間忘れていた感覚に、彼の身体が、いや精神が過剰反応したためであったのか。
そして、それが意味することは、彼にとってあまりにも明らかであった。
身体の奥底から湧き上がってくる衝動が、なんとか自制しようとする理性を吹き飛ばした。
その両の瞳からあふれ出る涙、その頬に感じる涙の熱さえも心地よい。
草の上に横たわり、大きく伸びをしながら彼は力の限りに笑い続けた。
全身に降り注ぐ陽光のもたらす圧力を、頬をなでる川面を走る風のささやきを。
耳をくすぐる鳥たちのさえずりを、夏の生命にあふれた草の香りを。
そして大きく息を吸い込むことでわかる自然の空気の味を、魂の限りを尽くして満遍なく楽しんだ。
これが、夢でなどあるはずがない。
五感が戻る夢、あるいは過去に戻ったという夢など、それこそ数え切れないほど見てきた。
だが今そこには、夢の中でもヴァーチャル・リアリティの中でも感じることのできない圧倒的な存在感が、彼の周りに存在していたのだ。
彼は笑いの発作が治まっても、ずっと、空を見ていた。
青空が、みえた。
目蓋を閉じても、灰色とも桃色ともつかぬ不思議な色が見えた。
バイザー越しに作られる電子的な擬似感覚とは似ても似つかなかった。
はじけるような歓喜の想いが落ち着いて、なお静かに喜びをかみしめた。
不意に、「バイザー越し」という言葉が胸に引っかかって身を起こした。
今の今まで喜びに身を震わせていて己の状況を確認することすらしていなかった。
五感が戻っていることはもはや疑いの余地もない。
だがそれが何故起きたのか、ということは全くわからない。
それにその理由はともかくとして、彼自身は現在人類生息圏全体にて指名手配を受けている身である。
悠長なことをしている余裕は本来無いはずであった。
服装がいつもの黒い戦闘服ではないことにはなんとはなしに気づいていたが、少なくとも武装と緊急用のCCの有る無しは確認しなければならない。
・・・・・・無い。 武装も、CCも。
しかし、今着ている服と周囲の風景に既視感のようなものが感じられる。
これは、ユートピアコロニーから地球にランダムジャンプした時の状況と瓜二つではないのか?
しかも己の体型すら昔の無力だった時期の自分自身のようではないか。
至極混乱したままであったが、あやふやかつ瑣末な情報群が、次に起こるであろうことを予想させた。
「お〜い、兄ちゃん大丈夫か〜?」
間延びした感じののんびりした中年の男の声が、その想像の正しかったことを如実に示していた。
ユキタニ・サイゾウ。
彼の最初の師匠であった尊敬すべき料理人。
思わずその名前が口に上りそうになるのをあわてて止めた。
混乱する頭をなんとか抑えて、なんとか思い出しながら昔サイゾウにしたのと同じやりとりを繰り返す。
そして、サイゾウの返事もまた同じで、気がついたら彼は雪谷食堂までの道のりをサイゾウの後をついて行くところであった。
彼の中の予感は確信に変わった。
ここは過去だ。
彼は、あの蜥蜴戦争勃発時まで、時を戻ってきてしまったのだ。
「おら、なんか悩んでるようだけどよ、腹へって疲れた頭じゃいい考えも浮かびゃしねぇぞ?
オレの奢りだから、食ってみな。
見た目はあれだが、そこらの一流店なみの味は保障してやるぜ」
考えをまとめることができないまま、サイゾウの言うままにカウンターに座る。
そして今、目の前にあるものは、ほかほかと湯気をあげる醤油ラーメンとチャーハン。
なんとも言えぬ香しい匂いが胃袋を、そして彼の涙腺をこの上なく刺激する。
サイゾウが彼の涙をみて驚いていることが視界の隅に見てた。
だがかつての師は彼の厳粛とも歓喜の末とも思える表情を見て、先ほどまで見せていた笑みを消し、口をつぐんでいた。
なんと複雑な匂いであることか。
そしてその匂いを内包した湯気が頬をなでて昇っていく。
震える手で蓮華を取り、スープを一すくいし、吐息で軽く冷ましながら、ゆっくりと口の中へと流し込んだ。
嗚呼。
もはや言葉にならない。 口に広がり、鼻腔にまで突き抜けてゆく豊かな香り、そして味。
口の中を、そして喉を流れ落ちる熱い液体の感覚。
流れる涙を一層増やしながら、次に彼は割り箸をとって麺を取り上げた。
そして、かつてそうしたのと同じように、音を上げて啜りこみ、ゆっくりと咀嚼して、そして飲み込んだ。
歯が麺をぷつりとちぎる感覚が、弾力のある麺の感覚が、喉を滑り落ちてゆく感覚がどうしようもなく愛しかった。
美味い。 どうしようもなく、美味い。
もう、とまらなかった。
彼はチャーハンを蓮華でかきこみ、麺をすごい勢いですすりこみ、スープを丼から直接飲み込んだ。
最初の一口にあれだけ時間をかけたことが嘘のように、二分とたたずに丼も皿も空になっていた。
これが、料理。
子供のころからの夢であった、人々の腹を膨らせ心を豊かにする魔法の技。
ひと時は己の命を懸けるような情熱で取り組み、生涯の仕事と思っていた過去そのもの。
どれだけ、この感覚を恋焦がれていたのだろう。
そして、どれだけ料理というものを愛していたのであろうか。
その想いが、沸々と心を満たしていった。
ご馳走様でした、と心からの感謝とともにサイゾウに頭を下げると、照れたように頭を掻きながら、サイゾウは冷たいおしぼりを手渡してくれた。
「まあ、細かい事情はわからんけどよ、とりあえず顔を拭いたほうがいいんじゃねぇか?」
大の大人が涙を流しながらラーメンをすすっていたのだ、心配するのも当然といえば当然だろう。
再び彼は礼を言っておしぼりを受け取り、顔を拭った。
冷たい感触が、少しだけ、彼の心に冷静さを取り戻させてくれた。
まだ考えは全くまとまっていないが、何を考えるべきかが少しだけわかってきた。
暫し顔におしぼりを押し当てていると、サイゾウが行く当てはあるのか、と聞いてきた。
そのままの姿勢で首を横に振ると、当てがないならここに暫らく置いてやる、と言ってくれた。
彼は、ありがとうございます、と再三頭を下げた。
心の中でサイゾウの優しさに付け込んでしまっていることことを謝りつつ。
その夜、雪谷食堂の住み込み用の6畳間で布団にもぐりこみ、彼はそもそもこの状況になる前のことを思い出そうとした。
不思議と、自分自身にとってはわずか一日前程度のはずなのに、記憶をたどることがやけに難しかった。
だが時間をかけることで、次第にはっきりと思い出していった。
あれは、火星沖戦役が電子の妖精と呼ばれた少女の電脳掌握によって一瞬にして終わり、彼の宿敵たる外道の武人を殺してから一週間後のことだった。
独り、己の乗艦たる白亜の船を駆り、火星の後継者たちの残存する製造・軍事拠点を潰しつつネルガルの情報工作が終了することを待っていた時期。
その情報操作さえ成功裏に終了すれば、彼は彼の妻であった女の元に王子ならぬ英雄として凱旋できるはずであった。
愛する女を救い出すために被っていた無慈悲な復讐者の仮面を脱ぐ日がくるはずであった。
だが、突然に己の艦に搭載されていた無人兵器が命令無しに起動を始め、造反したことからトラブルは始まった。
艦の頭脳は、その暴走はなんらかの物理的な工作を行われた為に起きたと推測していた。
しかし、艦内でいきなり暴れ始めた機動兵器に対処する時間もなく、無敵を誇った白亜の船は航行不能となり、相転移エンジンが異常稼動を始めた。
艦が爆散する前に彼は己の機動兵器に搭乗して脱出しようとしていたが、機動兵器のアサルト・ピットに入ったところで轟音が響き、
・・・・・・そして、それからの記憶がない。
なるほど、あれが切欠でランダム・ジャンプが起きたのか。
それで昔の身体に戻った、と考えるしかないか。
ようやくあやふやだった自分の中の記憶がつながり、ほう、と息をつく。
ジャンプしていなかったら、爆発に巻き込まれて死んでいた。
無人兵器の暴走を思うと、信頼していた友に裏切られたのだろうか、と考えてしまう。
それでも生きている自分を見て、運が良かったと言うべきだろう、と考える余裕がでてきていた。
そして、同時にこうも思った。
また、オレは全てを失ったのか、と。
かつては、築きあげたと思ったとたんに木っ端微塵に砕かれた幸せを。
そして今度はもがいて苦しんで、ようやくの想いで取り戻せるところだった愛する女を。
いままで達成した全てが、無に帰してしまったのだ。
その代わりに失われた五感を取り戻したにしても。
翌朝、サイゾウに対しては現状を警察なり役所なりに報告しに行くと伝えて店を出た。
一瞬でも包丁なり鍋なりをもってしまうと、料理に対する喜びに押し流されて何一つ考えられなくなってしまいそうだったからだ。
一晩悩み続けたが、それでも今すぐに答えを出したいことがあったのだ。
それはこれからのこと。
自分が失ってしまったものに対してはなんとか折り合いをつける、というか諦めることができた。
しかし、これから何をやるかということを考えると、己が未来を知っているだけにどうにもならなくなってしまうのだ。
愛した女と再び幸せを築けるのか?
コックとして、再び夢を追うことができるのか?
再びあの船に乗って戦い続けるべきなのだろうか?
それとも、他の道を模索するべきなのだろうか?
彼女と時代を超えてやり直すことは、一番に切り捨てた。
今これから会えるかもしれない彼女は、彼が愛した女性と同一であって同一ではない。
そのことがもたらす齟齬ははっきり言って怖い。
彼女には、会えない。
彼女が彼を見る眼に耐えられないと思う。
共に築いてきたはずのことを初めて見るような眼で見られることが怖い。
いままで成し遂げてきたことが無に帰したことをこの上なく再認識させられるだろうから。
他の道を考えてみても、平穏な暮らしを望もうにも、彼がA級ジャンパーである事実は消えない。
それゆえに、やがては火星の後継者なり他の組織なりのジャンパー狩りの対象になるのは明白だ。
ならば、平穏な幸せなどありえるはずもない。
選択肢はわずか二つに絞られた。
――――殺すか、殺されるか。
夕暮れになって、まだサイゾウの元に帰らないまま港にきていた。
ナデシコが後に出向するドックが港の反対側に見える。
心配しているだろうなと思いはしつつも、サイゾウのところに戻ることなどできないままでいた。
特に意識もせず、釣り糸をたらす人たちをよけながら、防波堤の先端まで足を向けていた。
歩きながら、そして先端の小さな灯台の下に腰を下ろしながら考えをめぐらせていた。
生き延びるためには、殺さなくてはならない。
その言葉が心の中で鳴り響き続けている。
コックを続けるには、殺さなくてはならない。
でも人を殺した手で、料理なんてできやしない。
でも、ただ生き延びるために、殺さなくてはならない。
殺す。
人を殺し、命の炎が散華していく様を再び見続けなければならないのか。
あの、己の感覚では何も感じられなかった時期、彼は命の消える際に発する微弱な、だが独特な電磁波を知覚していた。
それは過敏になっていたIFSフィードバックと彼の乗機の鋭敏なセンサーがもたらしたもの。
己の五感がIFSを用いての擬似的な、偽物の感覚だったのに対して、その感覚はIFSを通すことで初めて知覚できた感覚。
それゆえに、それはあの戦いを通して、彼の中でもっともリアルな感覚だったのだ。
幾千の命の炎が吹き消える瞬間を、幾多のコロニーが沈んだ瞬間を彼は覚えていた。
炎に包まれる戦艦が、重力波の奔流にひしゃげる機動兵器から散り去っていたもの達を彼は覚えていた。
それは傍受した通信越しに聞こえた悲鳴よりも遥かに、彼の心に深く刻印された傷となっていた。
・・・・・・もう、イヤだよ。
もう、殺すことは嫌なのだ。
かつては己が愛した女のために、非情な仮面を被ることができた。
取り戻すため、という至上目標の為に殺戮者を演じることができていた。
あの魂の散華した光から受けた影を隠し通すことができていた。
だが、今はその愛した女も既にいない。
同姓同名の他人が存在しているだけだ。
他人を殺してまで生き延びようという気概が、彼の心からは失われていたのだ。
殺すことを恐れるのであれば、殺されるしかない。
どんな生活を送っていても、やがては彼らに秘密裏に捕まって実験に供されるだろう。
所詮はそれまでの人生にしかならないのだ。
彼はかつて火星の後継者より受けた実験を思い起こす。
その記憶は身体を恐怖にすくませるが、それでも生き延びることに対する飢餓の感を掘り起こすには至らなかった。
今の彼の気持ちを一言で表すと、こうなる。
――――無力感。
陽が海に落ちた後も、彼は灯台のすぐ傍で寝転がっていた。
月明かりが海面に降り注ぎ、波でちぎれたかのように見える月をぼんやりと眺めていた。
水面にて崩れ、細波にかき消される月の影。
自分が手に入れられるかも知れなかった幸せ。
ほう、と大きなため息をついた。
突然、サセボの町がにわかに騒がしくなった。
サーチライトが夜空を切り裂き、同時に警報が鳴り響いた。
西の空から飛来するものが、かすかに月明かりに照らされて見えた。
軍港から戦闘機が上がってくる音が聞こえた。
・・・・・・煩わしい。
そう呟くが、彼は動き一つを見せなかった。
灯台、というある意味目立つ目標の下にいるのだから、逃げるべきであることはわかっていた。
だが、どうでもいいとも思っていた。
港の上空で戦闘が始まっていた。
戦闘機が一機、空中で爆散し、破片が海に落ちた。
水面の月が、大きくかき乱された。
戦闘機がもう一機、黒煙をあげながら、灯台を掠めるようにして落ちていった。
それでも男は、水面に映る月を見続けていた。
あの戦闘機の上げた煙が、上空の月のみならず海に映る月も隠してしてしまった。
月の見えなくなった水面からついに目をそらし、星空を見ようと首を上げる。
そこには耳慣れた駆動音とともに一体の虫型機動兵器が降りてきていた。
そのセンサーが薄く輝き、明らかに彼を目標としたことがわかった。
夜風が舞う。
機銃に銃弾が装填される金属音。
先ほどの黒煙が去っていくのが見えた。
照準を調整する機械音。
男の目に月が映る。
姿勢制御するための駆動音。
再び海面に視線を戻す。
そして、銃口が火を放つ爆音。
・・・・・・水面の月は、無粋な鋼の兵の影に遮られて見えなくなっていた。
機銃が背後の灯台を鉄くずに変える音を聞きながら、己の肉体を穿つ音を聞きながら、男は心で呟いていた。
あいつと暮らして、料理をして、笑って、泣いて。
そんな幸せが、欲しかったな・・・・・・
後書き
お久しぶりです、Effandrossです。 およそ半年振りの投稿になりました。
実は、ここ三年くらいまともなラーメンを食べていないのです。 即席ヌードルとラーメンのまがい物としかいえないようなものくらいしか食べていないのです。 そういうわけで、心の中に膨れ上がるラーメンに対する想いを形にさせていただきました。 それが、どうしてこんな話になってしまうのでしょうねぇ・・・・・・(嘆息)。
まあそれはともかく、前作が終わったあと、長編をこつこつと書いていたのですが、見事に3話目の途中で頓挫していまして。 ある意味練習代わりの習作として書いてみました。 ちなみに固有名詞が異常に少ないのは、仕様です。
練習代わりとは言えそれなりに読めるものに仕上げたつもりです。 読者の皆さんが楽しんでくれたことを祈っています。
拙作の推敲に協力していただいたナイツさん、ありがとうございました。
一杯のラーメンに心からの愛を込めて。
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