微笑 〜 それはあたかも夢を見る少女のように 〜


authored by Effandross





1.

 無針注射器が音も無くオレの身体に異物を注ぎ込む。
 その行為自体に痛みが伴うことは一度たりとも無かった。 そして、その注ぎ込まれた異物が身体中に広がっていく過程で残す感覚が同じであることも一度も無かった。 ある時はただ血管が脈打つ音が大きくなっただけであったし、ある時は血管を突き破り、汗腺から血液と一緒に激しい痛みと喪失感を残しながらその異物が噴き出してくることもあった。 また時には、羽毛のような柔らかさで体表を撫でる感触が全身を駆け巡り、不覚にも身体の一部を固く屹立させ、研究者どもの失笑を買うはめになった。 繰り返し行われる異物の投与、そしてそれに伴う異様な感覚、そして検査。 これらが行われるサイクルは全く一定ではなく、計画性もあるかどうかわからなかった。 もっとも、そのサイクルを認識する自分の時間感覚が正常であるという保証もどこにもなかったのだが。 オレに理解できていたことは大してありはしない。 奴らが、オレの身体を体のいい玩具と思っている、ということぐらいのもの。 最初にこの遊戯が始まったときに湧き上がった怒りはやがて惰性となり、 ときには何故耐え抜かなくてはならないかということを忘れそうになった。 そんな時にはともにこの遊技場に供されているはずのユリカのことを思い出し、いつか救いだすという誓いにすがって怒りを持続させなくてはならなかった。

 だが、この消えそうになっていた怒りの炎は再び轟然と燃え盛ることとなった。 ある実験を機として失われたものがあったのだ。 ある薬物が投与され、その効果によってか嗅覚が異常なまでに鋭くなり、己が体臭や薬物の匂い、そんなありとあらゆる臭いが嗅覚器官を激しく刺激した。 やがては顔の中心が痛めつけるほどになり、それが次第に鋭さを増してやがて頭部を真っ二つに裂くのではないか、というくらいに激しくなった次の瞬間に、ぷつんとなにかが切れたかのような体内に発生した音とともに、鼻の痛みは、それと同時に全ての臭いは消え去った。 
 それを失うことは味覚をとてつもなく鈍くする。 そのことは、いつかオレがこの遊技場から出ることができたとしても、オレの夢を追いかけることが不可能になったことを意味した。 嗅覚を失った後、体内に注ぎ込まれた異物は悪魔になったかのごとく、暴れまわる頻度を至極高めた。 水が喉を潤すことに反応して背中の皮膚が外目にわかるほど大きく脈動し、そこに多大な内出血の痕を残した。 研究者が消毒をするためにアルコールを塗布したときには右のふくらはぎが肉片を撒き散らしながら弾けた。 胃も食道もその異物に食い破られ、夕焼け空のように光の粒をちりばめた血を吐くことがあらたな日常として定着した。 それでも既に身体に染み込んでいた異物の一つが肉体の欠損を治してくれるだけに、その繰り返しはとどまるところを無くした。


 それでもなお遊戯は続き、残虐性を増す体内の悪魔はあらたに注ぎ込まれるその仲間と手をとり、さまざまな宴をオレの身体のあちらこちらで催すようになった。 今度は耐え続けることが惰性となることは無い。 崩壊が加速度的に進むオレの身体が、また他の感覚が無くなる事を恐れる心が、あるいは無くしてしまった絶望が、オレに慣れさせることを不可能にしていた。 
 嗅覚の次になくなったのは、右下半身の自由。 拘束され続けているゆえほとんど意味の無いこととはいえ、身体の一部が本当に動かなくなることはひどく辛かった。 やがては四肢の皮膚感覚も消え、オレ自身が身体を動かすことができているのかどうかすら判らなくなっていった。 その無感覚を確かめるかのように、研究者たちも麻酔なしのお医者さんごっこ (外科手術)をするようになった。 オレを生き長らえさせるためか、さらなる遊びのためなのかはオレにはわからない。

 痛覚や皮膚感覚が失われることと平行して視覚・聴覚が衰えていった。 嗅覚が失われて鈍くなった味覚も血を味わい続けることに嫌気が差したのか、機能しているのかどうかですらわからなくなった。 そうして世界が闇に包まれ、一切の音が消えていった。 舌は動いているのだろうが、オレ自身が声を確かに発しているのかどうか確かめる術も消えうせた。 自分が呼吸をしている感覚さえほとんどない。 研究者の遊戯もすでにいかなる痛みももたらすことは無くなり、痛覚を失い、他の皮膚感覚も殆ど失われた身体にまだ生きていることを信じさせることができるものはただ一つだけ。 それは熱。 まだ生き残る心臓が送り出す血液の熱、呼気によって僅かに冷やされる喉、そして肺。 それだけが、オレが存在していることを確認させることができる全てであったのだ。
 だが、絶対無に等しい状況のなかで意識を保つことは難しい。 睡眠と覚醒の間の境目が低くなり、何が夢で何が現実なのかを理解することが困難になった。 この差異があまりにも明らかであるにもかかわらず。 だがそれでもなお、それから意識をそらしたくなる自分を責めることのできる者がどこにいようか? 何かを感じている時間こそが夢であり、何も感じていない時間こそが現実である、というあまりにも無慈悲な、容赦の無い事実から。 現実にはオレはここから動くことはなく無音の闇に身を横たえ、だが夢の中でオレはこの常闇から引き上げられ、ユリカと褥を共にし、鍋を振るい、ガイと殴り合い、そして笑っていた。 次第に、己の鼓動を数えることにも飽いたオレは、夢の世界におぼれるようになっていた……。


2.

  そんな時、また別の夢を見た。 身体が動かされている夢。 研究者たちに動かされているときのような移動台に乗せられてのような移動ではなく、おそらくは何かに担がれて運ばれていくような。 だがそこで気がついた。 今まで見てきた夢とあまりにも大きな差異。 浮遊感を得るような夢は数多く見てきたが、光も音も感じられないオレの現実をそのまま如実に表した夢は無かったのだ。 
 普段とはまったく異なる血流の動き、前半身に感じる誰かの熱、そして身体の奥底に僅かに感じるリズミカルな鈍い振動がそれを物語っていた。 救いが、来たのだ。 全てが旨くいくことを夢見ながら、ユリカと再び会えることを信じながら、オレはその救いの手に身をゆだねていた。 
 その救いの手による移動が終わってから、状況が何かしら変わることをオレは心待ちにしていた。 だが予想とはうらはらに、待てども待てどもオレはこの無音の暗闇に一人置き去りにされたままだった。 移動が終わってから、意識のある間はずっと鼓動を数えていたのだが、その数が10万を越えたところで止めた。 期待は失望に変わった。 あるいはオレが救いの手だと思っていたものは実は黄泉の闇への誘い手だったのかもしれない。 もしも死んだ後にも鼓動を聞くことができるというのなら、これが死というものなのだろう。 望みを保つのにも疲れたオレは、いつしか夢を見ることも止めていた。


 何かが、オレを呼び覚ました。 オレの全身をくるむような暖かさ、そして鼓動。 自分自身のもの以外の鼓動が、そして熱が。 何の確証も無い、世界はまだ暗闇の静寂に包まれたまま、にもかかわらずオレは自分の生命の存することを確信した。 オレがもしも声を上げることができていたのなら、きっと物凄い声を上げていただろう。 だが自分で声を出せているかどうかすら定かではないオレにとって、何とかしてこの鼓動の主に対して応えたかった。 オレはまだ生きている、オレはお前を感じているぞ、と。 オレは己の心臓をでき得る限り強く鼓動させ、身体の熱を高めて身体全身を使って叫んだ。
 そして、答えがあった。 温もりを伝える面積が広がり、その鼓動がより近く、より大きく、そしてより早く伝わってきた。 それは、あたかもお前をみている、お前は一人じゃないと告げようとしているかのように思えた。 オレは、泣いていた。 たとえオレの眼が涙を流すことができなくなっていたとしても、オレは泣いていた。 オレの心が、身体が泣いていた。 もう孤独じゃない、その喜びに打ち震えていたのだ。 

 それからの毎日は、この温もりに満たされるときとその喪失のときの二つのサイクルで繰り返された。 彼女――感じる熱の分布からそうとわかった――のスケジュールの確かさからオレは時間の感覚も取り戻しつつあった。 彼女の目覚めとともにオレは彼女の暖かさを失い、そのあと身体を洗浄される。 しばらくの空白の後に彼女の温もりを取り戻し、そして彼女が眠りにおちる。 ほとんど一日の6割以上を彼女はオレのために費やしてくれていることになる。 彼女が誰か、ということは努めて考えないようにした。 今の自分には彼女の厚意にすがるしかないし、彼女が誰かを認識できない以上は、誰かを勝手に思い描くことは失礼に思えたからだ。
 そうしたサイクルが半月ほど過ぎた辺りで、いきなりオレは彼女が誰なのかを知ることになった。 その日、オレは暗闇からいきなり引き出され、目の前にいきなり広がった大海原に呆然としていた。 波打ち際に立つオレの足元をさらっていく細波、燦々と輝く太陽の光、海鳥たちの鳴き声。 これは夢か現実か? 自らに問いただしたその刹那に答えが出た。 少なくとも現実ではない、と。 オレと外界の唯一の接点であった熱。 その感覚のあまりの不自然さ、いや人工的さとでも言おうか? それゆえにオレがこの光景を現実と誤認することはなかった。 現実ではないとしたらと思考をめぐらせ始めたその瞬間に、後ろから声がかかった。

「アキトくん、聞こえるかしら?」

 その声は間違えようもなく、

「イネスさん……」

 振り向くと、黒い水着姿で金髪を高く結い上げた女性がオレに向かって歩いてきていた。 歩調に合わせて揺れるものと黒い布の切れ込みを眼で追ってしまうのは、男の性か。 久しぶりに見たのだから仕方が無いと自分を納得させる。

「どう? 久しぶりに会話する感想は?」

「よくわからない。 ……でも、最高だ」

 そう、最高だ。 たとえ現実じゃなくても、こうして光を感じ、言葉を交わすことができるなんてまさに夢のようだ。 イネスはオレの隣まで来ると海に向かって腰を下ろし、オレにもそれを促す。 

「イネスさん、これ、て言うかここは、」

仮想現実(ヴァーチャル・リアリティ)よ。 アキトくんと話すために他の方法が今のところ無かったの。
 でも、悪くないでしょ?」

「悪くない。 それどころかすごく良い。
 でも、なんでもっと早くできなかったんだ?」

「できなかったのよ。 これまでの三週間、ずっとアキトくんの身体に過剰投与されていたナノマシンと薬品の分析と透析による除去に忙殺されていたんだから。 ちょっと刺激を与えるとすぐナノマシンが暴走してアキトくんの身体を痛めつけるものだから、危険で今までできなかったのよ」

「そうか……。 ありがとう、イネスさん」

 オレの礼の言葉を片手をあげて止めて、冷たい科学者の眼になって言葉を続ける。

「こうやっている間もアキトくんの脳神経に負担がすごくかかっているはずだから、手短に現状を説明するわね。
 ゴートくんたちがアキトくんをとある研究所から助け出してからおよそ3週間経っている。 救出当時は振動を与えただけでナノマシンの暴走が起こっていたため、治療は人工透析を中心に行われたわ。 でもアキトくんに残っている感覚は熱感覚のみ、運動神経系も完全に麻痺しているということも理解していて早急な対応が必要なこともわかっていたの。 外界からの刺激がほとんど無い状態が長く続くと、アキトくんの意識が崩壊してしまう危険があったから。 実を言うと、アキトくんが今自意識を保っていることも奇跡的なことなの。 並大抵の人なら精神が崩壊しているか、少なくともボケているわね。
 一週間ほど経ってようやく暴走頻度が下がって危険が少ないと確認が取れてから、肉体的な接触による信号の送信が行われたわ。 結果は大成功。 アキトくんはこちらの信号に反応し、反応を返してきた」

「イネスさん、あれはイネスさんが?」

「ええ、その通りよ。 恐る恐る抱きついたらあんなに敏感に反応、、してくれるんだもの。 嬉しくて、思いっきり抱きついちゃったわ、お兄ちゃん」 

 微かに頬を染めるイネスにどんな反応だか知りたいような知りたくないような気がしたが、それを押しとどめて頭を下げる。

「本当に、本当にありがとう。 イネスさんにもゴートさんにもなんてお礼を言えばいいのかわからない」

「お礼は後にするのね。 それよりも今、話しておかなくてはならない重要なことがあるの。 これからのアキトくんの治療について。
 まず言っておくけれど、アキトくんの運動神経は過剰なナノマシンの除去と外科手術で神経を繋ぐことで治るわ。 再発の可能性は否定できないけれどね。 問題はむしろ、感覚神経系の方。 痛覚・触覚は比較的単純な部類に入るから100%とは言えなくても大部分は回復できる。 視覚や聴覚も、網膜や鼓膜自体は生きているから切断されて失われた神経系を培養して繋ぎ合わせればなんとかなるはずよ。
 でも、どうにもならないのが味覚と嗅覚。 この二つは構造が複雑すぎて現在の科学では手に負えないの。 だから……」

「コックは無理ってことか」

「脳死体を探して脳移植でもすれば可能かもしれないけれど、技術としても完全じゃないし今のナノマシン中毒状態のアキトくんの脳じゃそんなオペは怖くてできないわね。
 悪いとは思うけれども落ち込むのは後にして、最後まで話をさせてね。 今後オペを進めていくにあたって、徐々にアキトくんの感覚が戻ってくる。 でも復活していくアキトくんの痛覚を完全に抑えるだけの麻酔を使うことができないの。 アキトくんに深く根付いている治癒力を高めるナノマシンが麻酔を分解してしまうのよ。 だから、術中に麻酔が切れてしまうことがきっとあると思うの。 もちろん、一番クリティカルなパートは間違いなく麻酔が効くようにするけれど、それでもアキトくんに真剣にお願いをしなければならないことがあるの」
 
 その瞳と声を冷徹としか言いようのないレベルまで硬くしたイネスに思わず息を呑む。

「……何を?」

 一瞬だけ目を伏せると、再び強い眼差しでオレを射抜き、

「耐えて」

 と一言容赦の無い現実を突きつける。
 何てことか。 治る為とはいえ、お医者さんごっこ(麻酔なしの外科手術に逆戻りか。 だがその治った先にあるものがあるのなら、耐えていくしかない。 だが、その前に聞いておかなくてはならないことがある。 イネスが敢えて話そうとしない、そのことを。

「イネスさん」

「なに?」

 一瞬の躊躇の後、

「ユリカは無事なのか?」

「知らないわ」

 即座に答えるイネスに思わず声を荒げそうになるが、再び口を開いたイネスに声を戻さざるをえなかった。

「ゴートくんたちが潜入した施設には彼女は居なかった。 というよりは、施設そのものが廃棄されていたのね。 あなたは死体と一緒に放置されていて餓死寸前、助け出した他の被験者たちはもうこの世にいない。 施設のコンピューターにはろくな情報が残されていないし。 彼女の行方は私たちは掴んでいないわ。 その生死を含めてね」

「誰なんだ、奴らは?」

「逃亡した草壁春樹を頭と抱く反政府組織、火星の後継者と彼らは呼んでいるわ。 実際は木連、統合軍、クリムゾンとも深く繋がっていることが判っている。 いずれはクーデターを起こして自分たちがトップに躍り出ようとしている輩よ」

 沸々と心に煮えたぎるものが湧き上がる。

「そいつらが、何でオレたちを?」

「ボソンジャンプね、端的に言うと。 彼らはこのジャンプ技術を独占して政治的・軍事的に圧倒的優位に立とうとしている。 その為にアキトくんたちを始めとするA級ジャンパーを解析するとともに、その存在を根絶やしにしようとしているの。 あとは、先の大戦で苦汁をなめさせたナデシコに対する恨みも込みかもしれないわね」

「ユリカも、その研究に使われている……」

「そう見ておいて間違いは無いわね。
 いずれにせよネルガルは彼らに立ち向かうための準備を進めている。 その情報力の全てを使って彼らの根拠地をいくつか既に見つけているわ。 現在のところ、ネルガルSSと火星の後継者は血みどろの戦いを演じているところね。
 アキトくんが回復した後には、実の所、広告塔になってもらおうと思っている。 彼らの非道な所業の実態を示して彼らの正義になんの根拠も無いことを世界に知らしめるの。 彼らが決起した、その瞬間に電波ジャックを行ってそれを公開、いかな理由があれども統合軍も木連軍も彼らに加担することができないようにするためにね。 そうすれば如何に彼らがジャンプ技術を独占できたとしても、絶対的な戦力差から彼らはテロリスト以上の存在にはなりえなくなる」

「イネスさん……。 オレも、戦う。 どんなきつい手術だって苦痛だって耐えて見せる。 生き抜いて、戦ってユリカを取り戻して、奴らを叩き潰す」

「無理ね」

 オレの決意の言葉に、彼女は昏い顔であくまで冷静に答えた。

「アキトくんに何ができるって言うのよ? 視覚・聴覚が戻ったにしても、衰弱・疲弊しきったあなたの身体じゃ戦えるようになるまでどれだけかかるかわかる? 機動兵器戦をするにも、いつ暴走が起こるかわからないナノマシンを抱えてじゃ自殺行為よ?」

 拒絶の声に何も答えず、ただ視線に意思の全てを込めてイネスを見つめる。
 イネスもただ、オレを見つめ返す。
 無言の時間が何分か過ぎ、ややあって頭を掻きながらイネスが立ち上がる。 結った金髪が乱れて肩に流れ落ちる。

「もう、悪いけれど時間だわ。 
 アキトくんの言葉は一応アカツキくんに伝えておくけれど、きちんと治して、それからよ?」

「ありがとう、イネスさん」

「それと、またしばらくこの仮想空間での会話はできなくなるわよ。 脳神経への負担が強すぎてね。 今のうちに聞いておきたいことがあったら聞いておいたほうがいいわよ?」

 特に思いつかなかったので、さっきからずっと心にかかっていたことをそのまま聞いてみた。

「イネスさん、なんで水着姿なんだ?」

 サービスよ、と両腕を胸の下で組み、艶っぽく微笑みながらその姿はかき消えた。
 古典的だ。 そんな脈絡の無いことを考えていたら世界は暗転した。




3.

 これから話す治療の経過は、後にイネスから説明されたものの抜粋だ。 手術が終わるまで、オレは一切彼女との会話をすることができなかったのだから。
 まず痛覚が甦る前に全身の骨格が補強された。 これはもともと異物どもの宴のせいで崩壊寸前だった骨組成を補助するためでもあり、万が一機動戦ができるようになった時に強力なGに耐えられるようにするためだ。 特殊な樹脂で補強することがほとんどだったが、必要があれば骨そのものをより強固・軽量な人工骨に置き換えた。 いっそ全部強力な人工骨に換えてくれればいいのに、と告げると、どんなに親和性の良い素材でも人体の拒絶反応を100%抑えることは不可能なので、最小限に留めたほうが良いということだ。 人体というものはかくも面倒くさいものか。
 人工透析を繰り返し、またコロニーを作りあげていた異物を除去することによって、体内のナノマシン量が辛うじて許容範囲内に治まるようになり、神経系を縫い合わせる手術が可能になった。 だが、このナノマシンの減少が脊髄を圧迫していた腫瘍のような物を取り除くことになり、全身の感覚が大幅に取り戻された。 身体はまだぴくりともしなかったものの(これはオレが苦痛で暴れて手術を失敗させることを防ぐために意図的に遅らされた)、痛覚を初めとする触覚の多くがとりもどされ、イネスの温もりや肌の感触をはっきりと感じることができるようになったことと同時に、縫合された痕が痛み始めることになる。 
 
 そして神経系の回復のための手術が行われ、オレの視覚・聴覚を取り戻す努力が為された。 結果をまず言うと、手術は失敗した。 視神経を接合している最中に麻酔が切れ、激痛に刺激されて大規模な宴が催され、網膜も鼓膜も再起不能となってしまったのだ。 これでオレは己が目と耳で世界を感じる望みを失った。

 
 それから丸二日、イネスは後悔と自責の念でオレの傍らで激しく泣き続けた。 オレの目も耳も死んでいたが、それでも脇腹に感じる熱い雫の感覚と、それと肌から感じる彼女の声が作り出す振動で、彼女の深い嘆きをはっきりとオレは感じていた。 手術失敗後に仮想現実でも一度会ったが、彼女はただ泣き続けてまともに言葉を発することすらできずにオレに謝り続けるだけで、オレが逆に慰める立場になっていた。

 そんな、嘆き続けるイネスとただ呆然としていたオレとを救い出したのは、意外なことにアカツキだった。

「仮想空間で話せるのなら、同じように脳みそに直接視覚信号とか送りこんでやればいいんじゃないの? IFSとか使ってさ」

 忙しい合間になんとか時間を作ってきたという奴は、あくまで人事然と気軽にのたまったらしい。 だがその言葉は、まさにイネスには天啓そのものだったそうだ。 
 イネスはその言葉を聞くや否や弾ける様に飛び起きて、自らの格好も気にせずにアカツキを跳ね飛ばす勢いで端末に向かい、その椅子にかけてあった白衣を羽織ると猛烈な勢いで設計を始めたという。 オレはというと、突然彼女が居なくなってただ戸惑っていただけだった。 誰かがオレの肩を叩いたのだが、それが誰だか随分と後になるまでわからなかった。


 独りの眠れぬ夜が三晩続いた後、オレの意識は半覚醒状態から一気に目覚めさせられた。 突然に抱きつかれて、オレの顔にキスの雨が降ったのだ。 そしてオレの額とこめかみの何箇所かに何かが貼り付けられる。 それらが肌に馴染むにつれ、後頭部に鈍い痛みが走り出す。 そしてまた彼女の両の腕がオレの首にまわされ、強く抱きしめられる。 やがてまぎれもない音が、光が、いや世界がオレの意識の中に広がっていった。
 イネスの声にならない駆け足のような息づかいがオレの耳をくすぐる。 そして視界の隅に彼女の乱れた後ろ髪と白いうなじ、そして白衣に包まれた肩から背中の線が見て取れた。 どこか夢の中の景色のように、あたかも薄紙を一枚挟んだかのように現実感がない、だがしかし紛れも無くそれはオレの目の前に広がっている光景であった。

「イ・ネ・ス――」

 多少違和感こそあれど、間違いなくオレ自身の声。 オレ自身がそれと自覚して発する何ヶ月ぶりかの声。

「イネス――さん……、顔を上げてくれない……か?」

「アキトくん、見えるのよね? 聞こえているわよね?」

 顔を上げたイネスは、濡れて光っていた。 涙に輝き、そして歓喜に満ちていた。

「ああ、見えるよイネスさん。 ちゃんと聴こえているよ」

 彼女はオレの両頬に順に唇を押し付けると、

「良かった――」

 と安心したようにそのまま眠りに落ちた。


 イネスが眠りに落ちておよそ二時間(そう、今のオレは時計が読めるのだ)、オレは困っていた。 目の閉じ方が判らないのだ。 目蓋を閉じれば良いとかそういう問題ではなく、そもそも目蓋はずっと閉じたままであるし、天井の明かりがずっと脳を刺して痛いのだ。 彼女を起こすことにも気が引けて、そのままさらに二時間の後オレはイネスの温もりに包まれて、『本当に疲れている人は目を開いたまま眠ることができる』ということをある意味体現しながら眠りに落ちた。

 彼女が起きたのはそれから七時間後。 彼女の目覚めとともにオレの目も覚めた。 イネスは三日間一睡もせずに設計・作成をして、その疲れが一気にでたのだという。 

「んっ」

 オレの身体のすぐ横で起きだして伸びをする。 前を留めていない、はだけた白衣の下から彼女の白い肌が見えた。

「どう、アキトくん。 今の調子は?」

「目の閉じ方がわからなくて困っています」

 何故か棒読み口調でそう答えると、イネスはオレの意の一つを悟ったのか、白衣の前をかき合わせる。

「いえ、そういう意味ではなくて、眩しくて頭が痛いのです」

「ああ、そういうこと。 じゃあ、とりあえず一度外すわね。 意識によって明るさを変えることができるように改良する必要があるわね。 他に問題点は?」

「今のところありません。 はい。 それと、そろそろ身体が動かせるようになれるといいな、と」

「わかったわ。 運動神経系を繋げるのはほとんど終わっているから、簡単なオペで済むわ。 今日にでも済ませましょうか」

 そう言いながらオレの額にある端子に両腕を伸ばす、イネスの白衣の奥に意識が行ってしまったのは、人類の男としての業だ。
 そして、再びオレの視界は暗転した。 




4.

 そして次の日からオレのリハビリが始まった。 あまりにも長い無運動期間と度重なる手術と人工透析によって、オレの身体からはほとんど筋肉というものが削ぎ落とされていた。 さすがに顔の表層筋は生きていたがそれ以外の部分は首も手首も動かすだけで一苦労だった。 だが、細かく計算されたカロリー・たんぱく質の大量摂取によってまずは自力で寝台から降りることができるようになり、立つことができるようになるまで一週間。 支えなしに歩けるようになるまで更に三日間を要した。 これはイネスの予想を遥かに超える上達振りであり、同時にそれは彼女の献身的な介護・監督、そして呪わしくも未だオレの身体に巣食うナノマシンどもの力も手伝ってのことである。
 一日の終わりは身体中が悲鳴をあげながらベッドに倒れこむようにしてたどり着くのが日常になった。 その倒れ伏した身体を優しくマッサージし、滋養強壮疲労回復効果のある彼女手製のローションを塗りこむのもイネスの仕事だ。 そしてオレが眠りに落ちたことを確認するとその脇にそっと潜り込んで自ら眠りをむさぼる。 一度と言わず止めるように言ったのだが、彼女自身の疲労と時間的効率性を理由に押し切られてしまった。 それにそもそも今まで一月以上ずっと添い寝してくれていたのだ。 今更オレが彼女に何を言えようか?
 考えてみればイネスの多忙さも相当なものだ。 オレの世話と同時にオレのためのIFS視聴覚サポートシステムの改良、それにネルガルの科学者としての業務も果たしているのだ。 

 オレが常人並みの体力を取り戻すまで、それから三週間かかったのみ。 この努力に、ついにアカツキもオレが戦いのための訓練を始めることを認めた。 その裏にはIFSサポートシステム無しに彼の裏拳を叩き落したオレの感覚の鋭敏化に、アカツキが大きな期待を込めていたこともあるのだが。 オレは、強くなっていた。 肉体的な力そのものは三年前、ナデシコに乗り込んだ時よりもさらに弱いと言っても良いし、即席で作り上げた筋肉特有の持続性の無さが致命的な欠陥としてあるにもかかわらず。 ゴートに助け出されてイネスに治されるまでの数ヶ月間、熱感覚のみが外界との唯一の接点だったオレには、己が血流を自覚し、武術家の言う気配とか言うものが大した苦も無く感じることができるようになっていたのだ。
 それからのオレは、ゴートに銃器の扱いと基本的なナイフ戦闘術を、ネルガルSSに所属していたという元木連の月臣に木連式柔を初めとする戦闘術を叩き込まれた。 内臓にまで負担がかかるような明らかなオーバーワークだが、肉体の限界まで酷使しつつもイネスの補助に助けられながら毎日が過ぎ、そして半年後にはゴートや月臣を相手に模擬戦をして片手では簡単にはあしらえない程度まで上達してきた。


 月臣に両手を使わせることができたその日、二人の師から三日間の完全な休養を言い渡された。 イネスもそれに合わせて三日間の休暇をとり、オレが無理をしないよう監視することとなった。 イネスがいつも以上に念入りにマッサージをしてくれ、オレにあてがわれた部屋で二人でただ寝転がって音楽や映画を楽しんでいた。 

 休暇の二日目、オレはその穏やかな時間の中、ふと心に思いついた疑問をそのまま口に出してみた。

「イネスさん……、なんでオレにそこまでしてくれるんだ?」

「大好きなお兄ちゃんのためだもの。 このくらい、当然でしょ?」

「イネスさん……」

 上手く言葉が出せないオレに、彼女は身体を起こして顔をオレに向ける。

「まだ言っていなかったわよね、お兄ちゃん。 いえ、アキトくん。
 私、アキトくんのこと好きよ。 ずっと好きだと思っていたけれど、ゴートくんに助けられてきたアキトくんを見て、私がどれだけあなたを焦がれていたのかがわかったの。 どれだけ生きていてくれて嬉しかったことか。 私に答えてくれて嬉しかったことか。 そして私だけがあなたを助けることができる、ということがどれくらい私の中で大きかったことか」

 何も言えずにただ見つめるだけのオレに言葉を続ける彼女。

「愛してるわ、アキト。 あなたの為なら世界だって敵に回して見せる。 あなたの眼を耳を奪ってしまった時の絶望、決して忘れない。 もう二度とあなたからは何も奪わせない。 
 大好きよ、アキト。 本当に、本当に心から愛してる」

 しなだれかかる彼女を、なんとか力を振り絞って振りほどく。

「イネスさん……、ごめん。 オレの妻はユリカだから」

「わかってるわよ!」

 初めて聞く彼女の叫び。

「そんなことはわかってるの。 そしてあなたが絶対にユリカさんを見捨てないこともわかってるの。 だから好きなんじゃない!
 あなたが彼女を見捨てることができるような人なら、最初から好きになったりするはずないもの! 仕方がないじゃない、好きになる人は選べないんだから! 選ぶことができるような器用な生き方できないんだから!」

「ごめん、イネスさん」

「謝らないでよ!!」

 さらに声を張り上げて、ついに見せる涙。

「わかってるのよ、私が勝手に盛り上がって勝手に好きになって。 アキトくんが悪いわけでもユリカさんが悪いわけでもないってことくらい。 でも、私の気持ちぐらい知っててくれたって良いじゃないの!」

 オレから顔を背け、すすり泣くイネス。 だがなんて声をかけたらいいのだろうか? 声を上げようものならまた反射的に謝ってしまいそうだ。
 だが、彼女はすぐに立ち上がり、こちらを振り向くことなくオレの部屋から出て行った。


 それから先、オレと彼女が顔を合わせるのはマッサージと診断の時のみとなった。



 彼女が離れてから2ヶ月、その間にオレのIFS視聴覚サポーターはバイザーという形に定着して暗視機能(ノクトビジョン)がつけられ、オレが乗ることになる強襲用の機動兵器の調整を進めつつ、戦闘技術に磨きをかけていた。 二人の師からは雑念が多いと殴られ続けていたが、それでもその技術は日一日と二人に近づいていった。

 オレの生活からは、明らかに欠落しているものがあった。 それが何であるかは明らかだったが、それを求めていいものなのかどうか、ずっと悩み続けていた。 寂しい。 淋しくて、哀しくて、虚しい。 毎日のように彼女と顔を合わせるから、それが更にオレの胸をかき乱した。 彼女の顔を直視することができず、ずっと独り煩悶としていた。


 そして火星の後継者に本格的に打撃を与えるための作戦の前日となった。 それはオレが初めて参加し、おそらくはこの手で人を殺めるであろう最初の作戦だ。 場所はオーストラリアにあるクリムゾンの隠しラボ。 ホシノ・ルリのクローンなど、マシン・チャイルドに関する人体実験をメインにやっているラボだ。 マシン・チャイルドの力が敵側に渡ってしまうと情報掌握・統制能力のアドバンテージが激減してしまうため、どうしても早急に完全に潰しておかなくてはならない研究だ。

 今のオレの精神状態で戦いに赴いたら、間違いなく死ぬだろう。 それだけではなく作戦全体をも失敗させてしまうようなことになってしまうかもしれない。 許されるかことかどうか、受け入れてくれるかどうか全く自信が無いが、少なくとも悩み続けて見極めた自分自身の気持ちをぶつけてしまわなくてはならない。 
 

 オレは、イネスの個室の扉を開けた。

「なあに、アキトくん。 今日は健康診断の日じゃないでしょ?」

 軽い拒絶を交えた言葉だが、嬉しそうな声と受け取れるのはオレの自惚れか?
 二ヶ月ぶりに、目を彼女の顔にしっかりと向ける。

「イネスさん、聞いて欲しいことがある」

「あら、もしかして愛の告白かしら?」

 彼女の声にからかうような調子が混じる。 が、図星をさされたオレは呻くように叫ぶ。

「……その通りだ!」

 だが、返ってきた声には拒絶の冷たい棘が刺さっていた。

「何よ今更。 私が必死の愛の告白した時には謝るしかできなかったくせに」

「あれからずっと考えていたんだ。 オレ、イネスさんのことずっと好きだったんだと思う。 多分助け出されてから初めて再会してからずっと。 でもそれを真剣に考えたことがなかったんだ。 だから、この前突然に答えを求められた時にただあたふたしてしまって」

 低い声でゆっくり問う彼女。

「……じゃあ、今では答えは出たというの?」

「好きだ、イネスさん。 愛してる」

「ユリカさんはどうするの?」

「ユリカも好きだ。 手放したくない」

「呆れた。 愛の告白の最中に二股宣言? 冗談も休み休み言って欲しいわ」

 溜め息とともに大きく首を横に振る。

「でも、本当にその通りなんだ。 どちらも好きで、どちらも離したくない」

「ユリカさんがどちらか片方に決めないと別れるって言ったら?」

「説得する。 話して、わかってもらうまで話し続ける」

「私がそれで納得すると思って?」

 詰問調だったイネスの声が、やや柔らかくなる。

「わからない。 でも好きなんだ。 どっちも離したくない、大事なオレの女なんだから」

「アキトくん、私もアキトくんのこと、大好きよ。 でも、私だけのものにはなってくれないの?」

「好きなものは好きなんだ! どっちも選べないんだ! 最低男だって笑ってくれたっていい! 好きなんだ!!」

 オレの唇に柔らかいものが押し付けられる。 それが何かを理解したときには既にオレの口を離れ、目の前には柔らかな微笑を浮かべた彼女が居た。

「それでいいのよ。 それでこそ私が大好きになった、まっすぐで融通が利かなくて優柔不断なアキトくんよ。
 愛してるわ、アキト。 生きてユリカさんを助け出して、しっかり帰ってきなさい! 彼女は私よりもずっと説得しづらいわよ!」

 そう言って、イネスはオレを部屋から叩き出すように送り出した。 唇に手を当て、今起こったことを、今イネスが言ったことを反芻した。
 胸が温かかった。 受け入れてくれる人が、オレを見て、愛してくれる人がここに居てくれるのだ。

「行こう」

 身体の奥底から湧き上がってくる熱いものを抑えつつ、顔が柔らかくなるのを感じつつ、オレは月臣とゴートが待つ格納庫に向かって歩き出した。 踏み出したその一歩が、やけに軽かった。




 アキトを送り出して後ろ手に扉を閉め、背中越しに寄りかかったイネスはほう、と息をついた。
 命の限りを尽くして、医者として、科学者としての自分の全てを用いて救い出し、再び立ち上がるための力を与えた愛しい男の無事を願う言葉を紡ぐ。
 そしておもむろに顔を上に向けると、まるで夢見る少女のような微笑を見せた。












 ……ニヤリ












後書き

 お久しぶりのEffandrossです。
 イネスさんまんせーの15禁くらいかな、という小品を書いてみました。
 いろいろと読者の皆さん、言いたいことがあると思いますが、ギャグですから。 どんなに一見シリアスで、シリアスとギャグの頻度がシリアスに傾いていてかなり黒いといっても、1部以外はしっかりと落ちをつけたギャグですから。

 夢見る少女の夢ってどんな夢なんですか、とか、イネスさんがどこからどこまで計算していたのか、とか、アキトが見せた反応はどんなものですか、とか作中のイネスさんの服装はどんな格好なんですか、とかいうのは全部秘密です。 皆さんの想像で適当に補ってください。 あっしは知りません。
 それと、人間の身体、神経系についてかなりいろいろ書いていますが、全部でっち上げです。 実際はそうじゃない、という突っ込みは覚悟してますので。

 拙作の推敲に協力していただいた、ナイツさん、K−999さんに大感謝です。 ナイツさん、ラストはナイツさんの言葉を受け、この様にしてみました。 K−999さん、結局、読者の受け取り方で印象が変わりまくる形のままで残しました。 それもまた、意図のうち、ということでご理解ください。 好き嫌いはかなり分かれると思いますが。

 それではまた、近いうちにお会いしましょう。

 

 

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代理人の感想

ナイスッ!

うむ。丁寧に描写を続けた上で、最後の落ちで綺麗に決めてますね。

 

ただ、一つ粗があるとすれば「目を開けたまま寝る」下りですね。

直接的な描写が全くなかったので、

「額に貼り付けたセンサーが常時稼動中なので、光の信号が脳を刺激しつづけている」

という事実に思い至るまで一瞬のタイムラグがありました。

まぁ、どちらにせよ瑕疵ではあります。