少年
機動戦艦ナデシコ
第6話 「優しくて 優しくて 優しくて」
操縦士、ハルカ ミナトは戸惑っていた。
現在の状況のほとんど全てに対して戸惑っていると言ってもいい。
艦長である自分の妹のような少女が艦橋より消えてしまったことにも、
現在彼女に行き先を指図しているのがこの間まで保安部の軍曹だった男だということにも、
副長である高杉三郎太がいまだに医務室から復帰していないことにも、
オペレーター、マキビ ハリが自室に閉じこもってしまったこともにも。
そして何より彼女の戸惑いを助長するのが、
囚われた三人に対する面会が、基本的に自由だということだ。
入室前のボディチェックは受けるにしても、
昨日のあの厳しさからすると、面会が許されるとは心の片隅にも思っていなかったのだ。
半ば検察の男たちに対する嫌がらせに、
どうせ無理でも思いっきり連中に食って掛かってやろうとか思っていただけに。
だから昨晩、ルリに会えることができたのには本当に驚かされたのだ。
現在この優しい操縦士は地球への航路を設定している。
従わざるを得ないことに悔しい気持ちがあるにしても、
ホリの言に従って地球に帰還する以外の選択肢を彼女一人で決められるわけも無く。
寂しくなったものね。
ミナトは心の中で呟く。
今、通常の艦橋要員でここに居るのはミナト本人と通信士のサクラだけだ。
あとは艦長席のすぐわきあたりにホリとタダオカ、検察の人間が立っているのみ。
いつもだったらハリや三郎太を交えて会話に華が咲くことも多く、
会話が無くてもこのナデシコCのブリッジは暖かい雰囲気に包まれていたというのに。
昨日さっさと気絶してくれて状況をほとんど把握していないサクラが立て続けに質問してくるが、
正直昨日のことを思い出すのが気が重く、
鬱陶しさが先に立ってしまってまともに返答していない。
その状況説明は、全部ホリに丸投げしている。
彼女は航路設定を適当にしながら、
自分がこれから何をするべきかを考えていた。
囚われた三人に面会もしなければならないし、
声嗄れて力尽きるまで泣き続けた少年のことも見舞ってやらなくてはならない。
他より優先順位は下がるものの、両足を負傷した副長も心配ではある。
設定を終え、思兼に自動操縦を頼んでホリの許しを得ると、
ミナトは自室へと足を向けた。
その道すがら、昨日あの後面会することができた少女のことを思い起こす。
ルリへの面会が許されたのを戸惑いつつも喜び、
最初はあのハリへの暴言に対して思いっきり叱ってやろう、と思っていた。
アキトと一緒に暮らせるという幸せが目の前で失われた故の
彼女の感じたであろう絶望は理解できなくは無いが、
だからといってあの言葉は酷すぎた。
彼の少年が気を失うまで悲痛な声で泣き続けたのをずっと抱きとめていた彼女としては
何があろうとハリに対して謝らせなくてはならないと思っていた。
だが、三人の警備員の間を通って
思兼からの干渉を完全に排除された営倉に入るなり、
ミナトはその叱責の言葉を飲み込まざるを得なかった。
落ち窪んだ眼窩、削げた頬、水分を失ってひび割れた紫がかった唇、
そして生気を失い輝きの失せた銀色の髪。
ほんの半日ほどで、如何にしたらここまで憔悴できるというのだろう?
無論、ミナトには心理学の造詣など無い。
だが良くも悪くも社会を深く見てきてしまった彼女には
銀の少女が精神の均衡を失いつつあるのが見てとれてしまった。
「ねぇ、ル」
「アキトさんはどこです!!」
彼女の声に反応して、髪を振り乱しながらミナトに怒鳴りつける少女。
が、その声の主がミナトであることを知ると、
「ミナトさんでしたか、ごめんなさい‥‥‥」
「え、ええ。 いいのよ、ルリルリ。
それより、大丈夫? 元気が無いみたいだけど」
「わたしは大丈夫です。
それより、アキトさんとラピスさんたちが心配です。
ラピスさんなんか、突然一人ぼっちになって随分心細くなっているでしょう」
「そうね。 後で会ってくるわ。
寂しいの位なら紛らわせてあげられるかもしれないしね」
内心、ミナトは驚いていた。
精神の均衡を失ったと思った少女が思いのほか冷静で、別の少女への思いやりを見せていることに。
だが、その気持ちは次の少女の一言で消し飛んだ。
「それにしてもあの裏切り者‥‥‥
あれさえ居なければアキトさんたちが捕まることも無かったのに」
「う、裏切り者って」
「マキビ ハリ!
あんなのが居るからアキトさんが! ラピスさんが!」
背筋に冷たいものが流れ、
この優しい操縦士は確信してしまった。
少女はあの少年を裏切り者、憎悪の対象に仕立て上げることで、
憎しみの対象を作り出すことで己の精神が壊れきらないように繋ぎ止めているのだ。
今は駄目だ、とハルカは思う。
今は何を言ってもこの少女は憎しみを捨てることは無いだろう。
いたずらに刺激しても、カウンセラーでも心理学者でもない彼女が
今の少女を良い方向に導くことができるとも思えない。
時間が必要? でも手遅れになってしまう?
わからない。 私にはこの子を救ってやることなんてできない!
ここまで無力感に打ちのめされた事は彼女の人生には無い。
目の前に居るにもかかわらず何もしてやれることが無い、ということは
或いは白鳥を喪失した時よりも無力感を募らせるのかも知れない。
アキトが捕まることを止めることもできなかった。
その根拠を覆してやることもできなかった。
泣き叫ぶ少年の心を癒すこともできなかった。
そして今、少女を導くための術すら見つからないでいた。
己の無力を嘆くミナトには、
この怒れる少女を抱きしめてやることしかできなかった。
自分の温もりが、少女の心を少しでも和らげることを信じて。
「大丈夫、必ずなんとかなるから」というあまりにも根拠の無い、
空虚な言葉を少女に対して繰り返すことしかできなかったのだ。
泪をこらえるのが、精一杯だったのだ。
――今はとてもじゃないけれどもルリには会えない。
それが正直なミナトの感想であった。
彼女にしてあげられることが見つからないのだ。
その傷口を広げるだけかもしれないと思い
臆病になってしまう優しい女を誰が責められよう?
それに、更なる無力感に苛まれる(さいなまれる)ことは
彼女自身、心を深く傷つけることになりかねない。
ミナトの心も限界に瀕しているのだ。
そしてミナトは自室でコーヒーを一口飲んで一息つくと、
昨日部屋まで負ぶって行った傷ついた少年の部屋へ足を運ぶことにした。
せめて、ハーリーくんのことを元気付けてやらなきゃね。
ふと思いついて少年の部屋に行く前に食堂によることにする。
ちょっと甘いものがあれば嬉しいかな、くらいの気持ちで。
他人を励まそうというのだから、自分自身も元気じゃなきゃいけない、
と気分を切り替えられるのがこの女性の多くの美点の一つだろう。
ついでに医務室にも寄って替えの包帯と消毒液をもらってくる。
「ハーリーくん、いる?」
呼び出しのボタンを押そうとして扉が勝手に開いた。
少年が開けてくれたのかと思ったがそれにしては中が真っ暗で、動きも無い。
「‥‥‥思兼、あなたが開けてくれたの?」
『うん‥‥‥。
ねえミナト、ハーリーを助けてあげてよ。
ルリも心配だけど、ハーリーも心配なんだ』
「もちろんよ。
優しい子ね、思兼」
『ルリも酷いよ!
どうしてあれでハーリーが悪くなるのさ?』
「いろいろあるのよ、後で話をしてあげる。
それより、今はハリくんのほうね」
『お願いだよ、ミナト』
思兼の嘆願の言葉に頷くと、
彼女は少年の部屋に足を踏み入れ、照明のスイッチに手をかける。
「ハーリーくん、点けるわよ?」
部屋に照明が灯り、ハリの姿がミナトの眼に映る。
少年は眠っていなかった。
昨晩彼女が着替えさせた寝巻きを着て、
俯いたままベッドに腰掛けていた。
その頭と両手に巻かれた包帯が赤黒く変色して痛々しい。
「なんだ、起きてたんだ。
なら返事くらいくれないと、おねぇさん寂しいな」
「‥‥‥」
「元気ないなぁ。
ほら、包帯取り替えてあげるから顔こっちに向けて」
返事のない少年の前に屈みこんで
優しく両手を少年の顔に差し伸べる。
少年の目に光は無い。
あたかも錆びてくすんでしまった真鍮のように。
「ほら!
ちょっと痛いけど我慢するのよ?」
血が乾いて癒着しかかった包帯をゆっくりと剥がす。
傷口は今も生々しく、そこを丁寧に消毒する。
結構な痛みがあるはずにもかかわらず
少年は微動だにせずこの女性の為すに任せている。
ミナトは額の次に両手の包帯も交換し、
乾ききった赤黒い包帯を洗濯籠に放り込んで手を軽く洗う。
「はい、お終い。
ちょっとはすっきりしたでしょ?」
「‥‥‥」
「ほら、元気出しなさいよ。
甘いもの持ってきたから一緒に食べましょ?」
そういうとミナトは食堂でもらってきたエクレアをベッド脇のテーブルに並べ、
ポットに入った紅茶を二人分カップに注ぐ。
そして彼女は再び少年の前に膝をつく。
「ね、ハーリーくん?
すごく落ち込んでいるのはわかるんだけど、
私もなんだかんだキツイのよ。
それこそ泣きたくて泣きたくて仕方がないくらい。
だから、ちょっとでいいから付き合ってくれないかな?
ほんの少しだけでいいから」
「‥‥‥ミナトさん。
どうして、僕なんかに優しくしてくれるんですか?
僕なんかどうせどんなに頑張ってもルリさんを傷つけるしかできない役立たずなのに」
長い沈黙の後、ついに聞くことのできた言葉は
ひどく擦れた声で呟かれる自虐の言葉であった。
その声に胸を痛めつつも喜色を見せるミナト。
「良かった‥‥‥
ようやく話すことができて」
「答えてください、ミナトさん。
僕なんかに、なんの価値も無いっていうのに」
「どうしてって、決まってるでしょ?
ハーリーくんが、とても優しい男の子だからよ。
他の人の為に一所懸命になれて、他の人のことを思って傷ついて。
そんな子に優しくできなくて、一体誰に優しくすればいいのよ?」
「でも‥‥‥でも!
僕は何にもできなかったんだ!
ルリさんを傷つけるだけで!」
それは私も同じだ、とミナトは思う。
後悔と無力感に苛まれているのはこの少年だけではないのだ。
「ねぇ、ハリくん」
「三郎太さんが倒れても、見ているだけしかできなくて!
何にも、何にもできないままアキトさんが捕まるのを見ているだけで!」
「ハリくん、ちょっと待っ」
「何もできなかったんだ!
僕になんか生きていても何の意味も無い!
僕なんか死んでしまってれば良かったんだ!!」
白銀の少女の言葉は、かくもこの少年の心に深く突き刺さっているものか。
だが、少年の言葉は悔いと無力感に打ちひしがれていたこの優しい女性の心の殻をも突き破ってしまった。
「ふざけないでよ!!
何もできなかったらいなければ良かった!?
価値が無い!?
それじゃあ、私はどうなのよ!!」
ミナトは激昂した。
大人気ないと心のどこかで冷静に見つめている。
だがそれでももう堰を切った言葉の奔流を止めることができなかった。
「ルリルリの姉ぶって、人生の先輩面して偉そうにして、
いざって時には何もできなくて!」
熱いものが頬を流れる。
限界だ。
もう止めたいという理性も吹き飛んだ。
「十やそこらのあんたが何もできないからって生きる価値が無いって言うなら
無駄に歳とった私なんか、わたしなんかもっと価値が無いわよ!!
あんたが自分に価値が無いなんて言う度にね
それはわたしも、サブちゃんも、アキトくんもみんなを馬鹿にしてるのと同じなのよ!!
死ねって言ってるのと大してかわらないのよ!!
そうよ、私に大した価値なんて無いわよ!
ただちょっと操縦がうまいだけの操縦士よ!
だからってわたしに死ねって言うの!?
わかってるの、あんた!!
自分で、何言っているのかわかってるの!!」
顔をぐしゃぐしゃにして少年の寝巻の襟をつかみ
恐ろしい勢いで少年に向かって怒鳴りたてるミナトの姿は、
ルリに向けられた憎悪とは全く別の意味で少年の心に金槌で叩いたような衝撃を与えた。
少年の今までの十年そこそこの短い人生の中で
間違いなく一番優しい女性であるハルカ ミナトがかくも激昂し、泣き叫んでいるのだ。
「ご‥‥‥ごめんなさい。
ごめんなさい! ミナトさん!!
そんなつもりは無かったんです!」
傷つけてしまったとの想い。
動転した心から溢れる、精一杯の謝罪の言葉。
しかし、泣き続けた故に喉を嗄らしてしまったその少年は
まともに声を出すこともできなかった。
言葉にならぬ謝罪を繰り返しながら、
すぐ目の前にあったミナトの顔を己の頼りない胸に抱いた。
泣き声を抑えようとしてか、彼女自身もハリの寝巻に顔を押し付け、
彼の背に両腕を回してくぐもった声を上げながら泣き喚き続けた。
あたふたとしながらも必死でなだめるハリの努力が通じたのか、
ややあってミナトの嗚咽が穏やかなものに変わる。
泣き声が止んでも二人はそのままの体勢でいた。
少年は何とはなしに彼女の髪を撫でていた。
そのほうが彼女の吐息が和らいだものになるのを感じていたからだ。
しばしの静かな時間の後、
ミナトがそのままの格好で大きく深呼吸して、
ハリの背をぱんぱんと叩いて顔を上げる。
「まいったな、
まさか元気付けてあげようと思ってたハリくんに
逆に慰められるなんてね」
耳まで真っ赤にしていかにも照れくさい、というその表情を見て
この年上の女性を可愛いと思ってしまった。
自然、その口調もしどろもどろになる。
「いえ、その、
僕はなにも」
「いいのよ、本気で泣いてたのを受け止めてくれたんだから。
おかげですっきりした。 ありがと、ハリくん」
「え、えっとその、どういたしまして。
それと、ごめんなさいでした」
「いいわよ、大して価値が無いってのは本当なんだし。
でも良かった、少しは元気がでたみたいで」
「その、はい。
なんだか必死になっちゃって」
その少年の言葉を迎えたのは大輪の笑顔。
両の目もその周りも泣き腫らして真っ赤になっていたが、
それでもその笑顔はとても、とても綺麗だった。
「うん。 それでこそ、男の子。
‥‥‥ねぇハーリーくん、
ハリくんを元気付けることができたんだから、
わたしにも少しは価値があるって言っても大丈夫だよね?」
「もちろんです、ミナトさん!
ミナトさんに価値が無いなんて、そんなことあるはずが無いじゃないですか!」
「じゃ、そのわたしを慰めて
助けてくれたハリくんにも立派な価値があるよね?」
虚を突かれたハリ。
だがその意味をしっかりと噛み締め、彼女に頷きで応える。
もう一度立ち上がるための力と意志を備えた瞳とともに。
「よし!
じゃ、元気になったんだから、前向きに考えましょ?」
「そうですね、ミナトさん!
まず、艦長と、三郎太さんと話をして、
これから何をしたらいいのか考えましょう!」
「‥‥‥ルリルリには、ちょっと時間を置いたほうがいいわ。
訳は後で話すけどね」
それに対しては無言を返すにとどめる。
大まかな事情は理性を取り戻した少年には想像がついてしまう。
「でも、三郎太くんと話すのは賛成。
あと、アキトくんとラピスちゃんにもね。
じゃ、まずは医務室にお見舞いに行かない?
三郎太くん、寂しがってるかもね」
「そうですね。
でもミナトさん、先に顔を洗ってからの方がいいですよ?」
「あ〜〜、
そんなに酷い顔してる?
ごめん、一回部屋にもどって化粧直してくるね。
ダンケ、ハリくん」
そういい残すとミナトは包帯越しにハリの額に軽く口付け、
小走りに部屋を出て行った。
額に手を当てて、またも呆けたように部屋に一人残された少年は
着替えようと思いたって立ち上がろうとして、
ベッドサイドのテーブルにエクレアと紅茶が残されたままだということに気がつく。
初めて自分が空腹だったことに気がつき、
エクレアを頬張り、紅茶に口をつける。
紅茶はもう冷めてしまっていたが
甘さと香りが口の中に広がり、心が少し満たされていくのがわかった。
僕はなんて幸せ者なんだろう。
自嘲でも皮肉でもなく、少年はそう思う。
たとえ己の慕う少女に口汚く罵られて挫けても、
ふと目を上げれば必ず誰かがいてくれる。
本気で心配し、叱ってくれる人たちがいる。
温かい目で見守っていてくれる人たちがいる。
支えてくれる人たちがいる。
僕はもう大丈夫。
もう、負けない。
両の頬を力強く叩き、
少年は勢いよく立ち上がった。
できることを、しなくてはならない。
例え憎まれているとしても、
あの白銀の少女を救いたいという想いは失われることは無かったのだ。
「思兼?」
『何、ハーリー?』
「心配してくれたんだろ? ありがとう」
『元気になって、良かった』
「ありがと。
ねえ、思兼?
力を貸してほしい。
僕一人ではどうすればいいのか全然わからないけれど、
それでもルリさんを助けたいんだ」
『あんなことを言われたのに?』
「それはもちろん、傷ついたけどね。
でもだからと言って見捨てられるはずも無いだろ?
ルリさんが幸せになるようにするのに、
協力してくれるね、思兼?」
『もちろんだよ、ハーリー!』
代理人の感想
大丈夫、ハーリー君は男の子!
・・・な話なんですが。
まさかハーリー×ミナトなんて事はないですよね?(爆)
いくらなんでも親子寸前の年齢差だからなぁ・・・・・(汗)
>錆びてくすんだ真鍮
あー、ハリの眼って青なんですよ。よく間違われますが(爆)。