第29話







瞬間、我を失った

突き抜けた衝撃。それがなにによって、誰の手によってもたらされたのか、それが俄かには信じられなかった

ただの子供。取るに足らない、理想と現実との折り合いをつけることを未だ知らない、ただの子供のはずだった

二秒と掛けずに瞬殺し、全ての人間に失望と恐怖を与えるための、ただの小道具のはずだった

だがその小道具が、信じられない成果を引き出したのを、北辰は瞬時には理解出来なかった

今まで、数え切れない程の修羅場を潜って来た。だがその修羅場はあくまでマトモな感覚を持っている人間にとっての修羅場であって、北辰自身にとってはなんでもないただの日常。物足りない、退屈とすら取れるような、ただの日常だった

そして北辰自身、そんな自分と普通の人間との感覚の差も、当然自覚している

自分が異常なのか、それとも彼らが脆弱なのか、北辰に測る術はない。同時に、そんなことになど欠片も興味などない

だが事実として、常人と北辰とは、その感覚も感性も価値観も、そして強さそのものも相容れないといっても過言ではないような隔たりがある

そんな自分が、直撃を受けた

直撃とはいえ、ただのエステバリスの殴打一発である。損傷としての観点から見れば、取るに足らない一撃だ

だが、そんなことはどうでも良かった

自分に、あんな子供が一撃を入れたことそのものが、驚愕に値する

そしてそれは、曲がりなりにも、歪んでいようとも、それでも積み上げてきた北辰の自分自身の強さへの自信が、揺らいだ瞬間でもあった

だが

「クク・・・・」

過去など、この男にとっては取るに足らないものである

一秒前の好敵手より、今現在の血飛沫を選ぶ

生涯最高の死闘という過去に浸るよりも、なんの昂揚感も味あわせてくれないような雑魚を屠るほうが、余程面白い

そしてその北辰にとって、目の前のエステバリスと、そしてそれを操っている少年の存在は、正に最高のイレギュラーだった

素晴らしい。心底、そう思った

この目の前の小僧が自分に一撃入れられた要因など、わからない

エステバリスのリミッターを解除しただろうことは予想がついたが、それだけとも思えない。第一、自分が操る錫杖をいなし、そしてその直後に攻撃を加えて来たときの動作の滑らかさに説明が付かない

口元を歪め、哄笑を上げる

説明がつかない。少なくとも自分には

だが変えようのない事実として、目の前の子供はそれをやってのけたのだ

全身が、悪寒と歓喜に震え上がる

たまらない。最高だ

説明出来ない不可思議な力。火事場の馬鹿力とでも表現される、否、それ以外に説明しようがないその力こそ、自分が求めて止まないものだ

視界の中、動かない自分を見て好機と判断したのか、灰色のエステバリスが、追撃をくわえようとさらに両腕を振りかぶる

それを見つめながらも、北辰の笑いは止まらない

振り下ろされた両腕、しかし今度は受け止めた

確かに、速度は速い。量産型エステバリスとして見れば正に規格外だ。これほどの速度を出せる機体は、おそらく他に無い

だが、それだけ。視認出来ないような常軌を逸した速度であるわけでもない、あくまで、エステバリスにしては、というだけの話だ

振り下ろされた両腕を、今度はガッチリと受け止めた

ウインドウの中、少年が息を呑む気配が伝わってくる

楽しくてしょうがない。嬉しくてしょうがない

元々、『あの男』が現れるまでの、暇つぶしのつもりだったのだ。遺跡に時限装置を仕掛けたのも、それをホシノルリが開いた全世界へ通じている回線で告げたのも、あの男が出て来易くするためのお膳立てに過ぎない

だがその暇つぶしの時間に、思わぬ拾い物をした

裂けるような笑みを讃え、北辰はさらに笑い声を大きくする

捉えた両腕の中、灰色のエステバリスがそれを振りほどこうともがく

だが、いかにリミッターを解除した状態とはいえ、いや、それだからこそ、北辰の操る夜天光の拘束からは逃れられない

おそらく先ほどの一撃で、すでにガタが来ているのだろう。もがく腕の肘関節の両方から、白い液体が漏れ出している。冷却液だ

本来、両腕を拘束したくらいでは勝敗はつかない。腕が動かないのならば、蹴りを繰り出せば良いのだけの話だ。或いは背部にある小型ミサイルを発射することも手ではある

だが目の前のエステバリスにそんな物はないし、操縦者の少年も戦闘経験の少なさから、蹴りを放つという発想が浮かばないようだ。硬く握り締められた両腕をなんとか解放しようと、必死に機体を捩じらせている

そこで蹴りの一撃でも相手のアサルトピットに打ち込んでやれば、勝負はついた。だが北辰は敢えてそれをせず、握りこんでいた両腕を手放した

解放されたエステバリスと少年が、驚いたように身を退く

そしてそれを見つめながら、北辰はゆっくりと呟いた

「小僧・・・名は?」

恍惚と歪ませた、不気味な笑みで、北辰はそう語りかけた

解放された少年は、相変わらずその目に燃えるような強さを込めたまま、口を開く

『マキビ・・・・ハリ』

その視線からは、絶望も弱気も感じられない。おそらく機体のあらゆる部分に出ている故障や誤動作の報告が彼の元に届いているのだろうが、それでも尚退くという気配は微塵も伺わせない

北辰は、歓喜に身を震わせた

「マキビハリ・・・・か。よい名だ」

マキビハリと名乗った少年の背後、彼の操るエステバリスの無言の促しに合わせるように、両腕が完全にいかれているエステバリスが、ゆっくりと身を遠ざけていく

だが、北辰は構わない。そんな物など視界にも入っていない

今北辰の目に映るのは、この目の前の拾い物、マキビハリの姿だけだ

夜天光の手の中にある錫杖を、弄ぶように振るう

金属同士が擦れる音が、小さく辺りに響いた

僅か、北辰は夜天光を操り、目の前のエステバリスから距離をとった

咄嗟に追いかけようとしたハーリーだったが、その動作が存外にゆったりとした物であったことと、その動作の中に滲む不吉な気配を察して、自分を押し留めるように動かなかった

その判断を見て、北辰はさらに嬉しくなった。勘も悪くないようだ

間合いを取り直し、ゆっくりと口を開く

「マキビハリよ」

言葉に、ハーリーは身に力を込める。あわせるようにエステバリスも、全身からギシギシと軋む音を立てながら、迎撃体制を取る

「人形と呼んだ非礼は侘びよう。マキビハリ。貴様は間違いなく、我が出会ってきた中でも三本の指に入る男だ」

笑っている顔とは裏腹に、北辰の声色には真摯な響きがこもっていた

意外な言葉に眉を寄せるハーリーを見つめながら、北辰は心底そう思った

一人目は、あの、ただの一度とはいえ自分を執念で打ち負かせたあの男、そしてもう一人は、月面で自分を相手に尚一歩も退かなかった、あの禿頭の男だ

だがその二人の男の内、一人目の男はすでに腑抜けに成り下がった。或いは這い上がってくる可能性もあるし、自分もまたそれを望んでいるが、果たしてどうなるか

そして二人目の男は、もはや再戦も叶わぬ場所へと逝ってしまった。悪役になることで、世界の目を覚ましたあの男。それと再び相容れることが二度とないことは、酷く残念に思う

しかし、今目の前にいる三人目の男は、そんな心配など欠片も必要ない。自分とこの男は、今現在進行形で、戦っているのだから

その事実に震えると同時に、やはりどうしようもない憂いが、北辰の心に混ざった

惜しいな、と、素直にそう思う

後十年、いや、せめて後五年もあれば、目の前のこの男は、さぞ自分を喜ばせる存在へと成長しただろうに

だがそれは、叶わない望みだ。すでに引き金は引かれ、終わりへの秒読みが始まっている

或いはあのホシノルリが、時限装置を解除するかもしれない。だがその結果に関わらず、自分とこの男との戦いは、これで最後になるだろう

加減も自制も、するつもりなど毛頭無かった。飢えていた自分の目前に転がり込んできた最高の餌だ。喰い散らかさない道理など欠片もない

笑みを深め、歪めながら、北辰は声を漏らす

「さあ」

片目を酷く見開き、もう片方の眼球を細める、曖昧で不可思議で、そして不気味な笑みを顔に貼り付ける

「死ね」

爆発的な加速を伴って、夜天光は踊った










機動戦艦ナデシコ

 Lose Memory 』






『 二度目の終わり 』

 

 









息が切れる

純白の支配する空間の中、ルリは途切れる息を必死で押し殺しながら、踊っていた

手に光を宿し、それを目の前の壁にぶつけながら、常人では捕らえきれないほどの速度でクルクルと回る

すでにこの目の前の壁へと光をぶつけ始めて、十数分が経過しようとしていた

目の前の、数え切れないほどの色を束ねた巨大な壁は、相変わらずの巨躯を誇るように聳え立っている

その外見は、パッと見なんの変化もないようにすら思える。相変わらず暗く澱んだ黒にその身を染め上げ、微動だにもしていない

しかし、僅かながら確かな変化が、そこにはあった

巨大な壁の前、遠めに見れば豆粒のようにすら見えるルリの前にある部分は、確かに他の部分よりもへこんでいる

周りの壁との落差も、なだらかなものでしかない。しかしその部分には確実に、穴が穿たれつつあった

視覚化されているだけのルリは、汗を掻いていない

しかし実際には、現実空間でIFSシートに腰を掛け、ウインドウボールに囲まれているルリの体には、無数の汗が流れていることだろう

息は荒い

元来、ナデシコCを伴わなくとも、ルリのシステム掌握から逃れられる防壁はこの世界には無かった

どれだけ強固なプロテクトを敷かれていたとしても、ルリならば五分、ナデシコCのサポートがあれば、一分でそれを打ち破れるという自負があった

そして事実、それは本当のことである

異常ともいえる特性に特化しているルリの前には、今現在に至るまで、本当の意味でてこずるような障壁など存在していなかった

そしてだからこそ、ルリは今まで、十分以上もの間、全力でこのような作業を行ったことがなかった

それが幸運なことだったのか、それとも不運なことだったのか

後者だと、ルリは歯噛みしながらそう思う

並の実力者なら、一つの防壁に一時間以上もの時間を掛けるなどざらにある。むしろ一時間に一つプロテクトを解除できるというのは、それだけで恐ろしいほどの実力を持っているということにもなる

だが残念ながら、ルリは明らかにその規格の外にいた

彼女の攻撃に、それほど長時間耐えることが出来る防壁など存在しなかった。それゆえ、ルリ本人も無意識の内、力の配分という物を忘れていた

否、それは忘れていたという言葉すら不適格だった。知らなかったのだ、純粋に

だが、ルリは思う。そんなことは言い訳だと

すでに息は切れ始めている。例えるなら、ルリは短距離しか走ることを知らない陸上選手だ

長距離を走る選手とは、必要な筋肉も心構えも違う。そのことがルリには悔しかった

都合の良い悔恨であることは、よくわかっている。だがしかし、そう思わずにはいられない

心のどこかで、そんな自分に満足し、歩みを止めていたのは事実だからだ

このような事態は、当然想定などしていない。だがこれに順ずるなにか、自分の手に余るような、これに似たような事態が起こるかもしれないという発想を、心のどこかで軽く見ていた

それはルリの心の中に、僅かながらでも確かにあった、油断と傲慢だった

ナデシコCを伴い、火星の後継者事件を事実上たった一人で制圧した自分が、てこずるような障壁などありはしないと、そしてそれはこれからも現れることなどないと、心のどこかでそう思っていたのだ

そして、その結果がこれだ

光の飛沫があがる、それをルリは目を細めて見つめながら、また新たな光を手の平に宿そうとした

そして、そのとき、ルリの脇を無数の光の矢が通り過ぎていった

通過した光が、吸い込まれるようにルリの穿った穴へと直撃した。ぶつかった光が目を覆うような飛沫となり、それが再び針のようにその身を細め、再び壁へと殺到する

突然の事実、ルリは思わず動きを止めた

その耳に、声が届いた

――― 援護するぞ、ホシノ中佐

――― アキヤマさん?

聞き覚えのある声だった。今現在火星上空にいる全艦隊の総司令である、アキヤマゲンパチロウだ

言葉に挙動を止めるのすらもどかしく、ルリは意識を半分攻撃に向けながら、もう半分でアキヤマの言葉に耳を傾ける

――― 君は知らないだろうが、現在我が艦隊の内、一隻を覗く全ての戦艦がその管制を切り、君の援護に回っている

その言葉に、ルリは小さく驚いた。その作戦そのものはハーリーからすでに聞いていたが、まさか本当に実現するとは思っていなかった

火星上空に展開する、無数の戦艦。それら全てが己の演算能力の全てを発揮し、自分の援護をしてくれる

それは、願ってもないことだ。おそらく全てを総合してもルリの能力の半分に届くかどうかだろうが、この状況での加勢は喉から手が出るほど欲しかった

だが、それは

――― 北辰は、一人の少年と一隻の戦艦が引き付けている

その事実に、ルリの胸にどうしようもない不安が過ぎる。少年とは、マキビハリ以外の何者でもあるまい

彼が、アキヤマ達を説得してくれたのは、正直予想外である。だが、それを成功させたあの少年に、ルリは彼が自分の知っている彼よりも遥かに大きくなっていたことを悟った

だがそれと同時に、あの人外とでも形容する他ないあの化物を、彼が一人で引き付けているという事実に、ルリは内心の焦燥を駆り立てられた

彼が、この騒動を通して、なにかしら思うところがあったのは知っている。第三刑務所で再会した彼は相変わらずの子供だったが、なんとなく雰囲気が違った

弟とも言える存在の成長は、素直に嬉しく思う。だがやはり同時に、あの北辰と慣れないエステバリス戦を展開してまで彼が無事だと思えるほど、ルリは楽観的ではなかった

――― 安心したまえ、ホシノ中佐

だがそのルリの内心を見透かしたように、アキヤマの声が響いた

――― 彼は、強いよ

その、根拠もなにもない曖昧な言葉には、しかし不思議な確信が込められていた

――― 力及ばず、敗れるかもしれないが

直後、再びルリの背後から生まれた無数の光が、目の前の巨大な壁を直撃した

――― 負けはしない





衝撃が、身体を駆け抜けた

舌を噛まないように、歯を全力で食いしばる。そのとき初めて、ハーリーは自分の口内を血の味が満たしていることを実感した

目の前のスクリーン。大写しになった夜天光は、振りぬいた錫杖を確かめるように握りなおす

来る

見たというよりも感じたハーリーは、そう思うより早くエステバリスを全力で後退させた

直後、目の前の空間が掻き切れた。攻撃速度は相変わらず自分には視認すら出来ない。だがそれでも、相手の機体の挙動に全力で集中すれば、攻撃の前触れくらいは読むことが出来る

後はもはや勘だ。右か左か、上か下か。見て判断することが出来ない以上、全てを勘任せで行うしかない

アサルトピット内を、損傷と警告の赤い文面が埋め尽くす。どうやら先ほどの夜天光の一撃で、右足を叩ききられたらしい

力の差は歴然。子供と大人どころの差ではない。ライオンと犬でさえ、もう少しマシな拮抗を見せるだろう

マトモな神経の持ち主なら、さっさと逃げ出すのが自然だ

だが、ハーリーは退かなかった。確かに勝ち目はない。組み付いての自爆攻撃という選択肢すら考えたが、おそらくズタボロになってしまった今のエステバリスとハーリーの技量では、組み付くことすら相手は許してくれまい。僅かでも間合いに踏み入れば、即座に細切れにされるのがオチだ

だからハーリーは、全力で回避する。それしか出来ない自分を悔しく思いながらも、これほどの相手に時間稼ぎをやっている自分に、ホンの少しの誇らしさを感じながら

アサルトピット内に、機械的な音声が響く

『残り時間、12分34秒』

『・・・・気になるか?』

その音声に被せるように、北辰の笑いを噛み殺したような声が響いてくる

一撃が来た。それは再び勘で回避したハーリーは、しかし息一つ吐く暇すらなく次の追撃に集中する

だが

『・・・・逃げられてばかりなのも、少々つまらんな』

言葉に、瞬間的に悪寒を感じた

脇のウインドウが、さらなる損傷を告げてくる。右腕が無くなった。かわしきれなかったのだ

その事実に僅かに身を硬くするハーリーを、北辰は笑った

『時間稼ぎ。逃げの一手。勘任せの回避・・・・否、我は別に貴様を蔑むつもりはないぞ? マキビハリ。己の限界をしかと見極めた、自らに出来る唯一のその行動だ。悪いはずがない』

そう言って、北辰は夜天光の動きを止めた

だが、ハーリーは警戒を解かなかった。臨戦態勢のまま身を沈める。ハーリーの操るエステバリスから僅か五十メートル足らずの距離だ。気を抜くことなど出来ない

しかしそんなハーリーを嘲笑うかのように、北辰は次の言葉を紡いだ

『では、我がこうしたら、どうする?』

一言一言を噛んで含めるように、北辰はそう言った

直後、夜天光はハーリーに、背中を向けた

その挙動に、ハーリーは思わず目を見開いた。それは別にこの男が自分にこれほどまでに無防備な姿を晒したことに対する驚きでもなければ、夜天光がその手に持つ錫杖を投げ捨て、手首を回転させ始めたことでもなかった

ハーリーが驚愕に引き攣った、その理由は

夜天光の向く火星の大地。その向こうにナデシコCと、それを取り囲む大艦隊がいたことだ

『さあ・・・・』

夜天光の背部にあるスラスターに、熱がこもる

咄嗟のことに動けないハーリーが我を取り戻すのを待つように、北辰はゆっくりと口を動かした

『どうするう? マキビハリ?』

その迫られる内容は、最悪の二者択一だった

この男は、今自分に、選べと言っているのだ

逃げ回るか、それとも、ナデシコCに向かうこの夜天光の眼前に立ちはだかり、もはや回避も許されぬ戦いを演じるかを

ウインドウの向こうに映る北辰の顔を見たとき、ハーリーは実感した

それは、酷くいびつで歪んでいるが、それでもハーリーが受けた印象は、それとは全く別な物だった

まるで、子供のような表情だ

初めて出会う手品師に向けるような、期待と喜びに満ちた視線

その目が、なによりも雄弁に物語り、ハーリーに語りかけてきた

もっとやれ、と

もっと自分を楽しませ、驚かせろ、と

それが出来ないのなら、この目の前の子供はあっさりと自分を見限り、新たな楽しみの元へと行ってしまうのだ

選択の余地など、冷静に考えれば微塵も無かった

例え僅かな生を選択し、逃げを選んだところで、ナデシコCを、ルリを沈められれば、どうせ遺跡の爆発を止めることなど出来ない。そうなれば、どこに逃げようと結果は同じだ

だが、例え彼の行動を阻むことを選んだとしても、やはり結果は同じようにしか思えない。先ほどまでとは状況が違うのだ。回避し続けることを選択し、北辰の機嫌を損ねれば、彼は今度こそ自分になんの猶予も時間も与えず、ナデシコCを沈める

背中を、冷や汗が伝った

自分に、出来るかと語りかける

正面から立ちふさがり、この目の前の化物とマトモに戦って、時間を稼ぐことが自分に出来るかと

おそらく、出来はしない。乗っている機動兵器が互角であったのなら、一分程は稼げたかもしれない。だが今自分が操っているエステバリスは元々の性能差にプラスして、すでに右足と右腕を喪失し、先ほどのリミッター解除の影響でほぼ全ての機構にガタが来ているような状況だ

一太刀で切り伏せられ、絶命するのは火を見るより明らか

そしてそれは、北辰も十分に承知していることだろう。だがそれでも、この男はそれをしろと言っているのだ

奇跡を、強要されている

説明出来ないなにかを起こして、自分をもっと楽しませろと、北辰はそう言っているのだ

その余りの身勝手さと常軌を逸した思考回路を改めて実感し、ハーリーはIFSの上にある己の両手を握り締めた

迷うような沈黙が、一瞬だけ辺りを支配する

『マキビ中尉』

と、不意に声が割り込んできた

目を移す、ハーリーのエステバリスの背後。いつの間にか接近していたのか、一隻の戦艦が姿を現していた

アララギだ

『もう十分だマキビ中尉。後は我々に任せて、君は下がれ』

聞こえるその声は、静かな怒りを称えていた。彼もまたハーリーと同じように、北辰の余りに常軌を逸した物言いと身勝手さに、思うところがあったようだ

『その機体では、もう満足な戦闘も出来まい。君は下がるんだ』

言い聞かせるようなその口調に、しかしハーリーは頷かなかった

ハーリーは、知っているからだ。もはやアララギの操る戦艦に、満足に戦えるエステバリスなど無いことを

先程、自分を助けるために、その彼らはすでに自分以上に戦闘が不可能な状態に陥っていることを

残った戦艦で、この夜天光の相手など出来るはずがない。それこそなんの誇張もなしに、瞬殺されてしまう

選択肢など、もとより一つしかない。この男の考え通りに動くのには腹が立つが、それは仕方が無いことだろう

マトモに戦えば、時間稼ぎなど出来ない。そして逃げれば逃げたで、この男は自分のことなど忘れてあっという間にナデシコCを沈め、世界を壊すだろう

ならば、取るべき手段はなにか

答えなど、一つしかない

その考えに達したハーリーは、諦めたように口元を笑みに歪めた

スラスターを吹かし、出来るだけゆっくりと、目の前の夜天光の眼前に回りこむ

ナデシコCを背にし、彼らを守るような体勢に

『マキビ中尉!』

『そうだ。それで良いマキビハリよ・・・・精々、我を楽しませろ』

「・・・奇跡は、期待しないで下さいよ」

自嘲のようなハーリーの言葉に、北辰はしかし嘲るだけだ

『ああ、構わぬさマキビハリ。奇跡というものは、どうにも待ちわびる人間の元には降らぬように出来ているようだしな』

錫杖を鳴らし、北辰が笑う

『だから、我は期待しよう、マキビハリ。貴様はするな。貴様はただ生き延びようとしろ、大切な物とやらを、死に物狂いで守ることだけを考えろ』

ウインドウの向こう、ゾッとするような狂気を孕んだ男は、そう言って、表情を引き締めた

『そうすればきっと、愉快なことになる』

そう言った、瞬間だった

「・・・・ええ」

それだけ言って、ハーリーは不意を突く様に加速した

真っ直ぐに、夜天光に向けて

その、余りに無謀としかいいようのない行為に、僅か、ホンの刹那、北辰の反応が遅れた

これが、先ほどまでの攻防の合間に行われたことならば、北辰は冷静に、そして少し残念に思いながら、目の前に馬鹿正直に突貫してくるエステバリスを切り刻んだろう

だが今は、先程とはホンの僅かだけ、状況が違った

錫杖を、捨てた直後だった。言葉を交わした直後だった。死に物狂いで戦えと、言った直後だった。そしてそれに、目の前の少年は、小さく頷いた直後だった

全ては、ほんの小さな事実の積み重ねだ。一つ一つならば取るに足らないような、気にも留めないような小さな事実の積み重ね。そしてそれを重ねたとて、取るに足らないようなつまらない事実にしか過ぎない

だがそこに、北辰は確かに、油断した

そしてそれこそが、ハーリーの唯一、たった一つの狙い目だった

エステバリスのウインドウ、そこに、真新しいウインドウが一つ、生まれた

警告や損傷を報告する真っ赤なウインドウの海の中、その青白いウインドウは、返って己の存在を主張していた

その文面を見て、ハーリーは笑う

視線を前に移す。僅かに挙動の遅れた夜天光が、回転する手首が繰り出す打撃を送り出してきていた

だが、怯むことなく踏み込む

IFSが、ハーリーの反射をトレースし、左腕を振り上げる

振り下ろされた夜天光の右腕と、交錯する

だが、それは夜天光の圧勝だった。かつて同じく規格外の装甲を誇るブラックサレナの装甲をもぶち抜いたその一撃は、まるで紙くずでも突き通すようにアッサリと、エステバリス左の二の腕を破砕した

いつもの北辰の反応と、夜天光の速度ならば、そのまま左腕を貫通した夜天光の右腕が、エステバリスの顔面から胸部をえぐり、アサルトピットにも達しただろう

だが、微かに遅れた今の反応では、それが叶うことは無かった

左腕を屠りそのまま伸びた右拳は、しかしエステバリスの顔面ではなく、背面部へと伸びた

爆発的な速度で、エステバリスは夜天光の懐に飛び込む





それを見たアララギは、息をのんだ

――― どうするつもりだ!?

夜天光の攻撃に左腕と背中を抉り取られるエステバリスを見たとき、思わず肝を冷やした

だが、ハーリーの操るエステバリスは想像を絶するような紙一重を見出し、それをかわし、夜天光の懐へともぐりこんだ

しかしアララギには、そこから先がわからなかった

確かに、万全の状態で相手の懐に潜り込めたならば、それは実質的な勝利と言っても過言ではなかった。後は拳を繰り出すなりナイフを繰り出すなり、至近距離からラピットライフルをぶちまけるなり、どうにでも攻撃の方法はある

だが今目の前で展開される光景の中、相手の懐にもぐりこんだエステバリスには、そのいずれの選択肢も無かった

すでに右腕も右足も失い、左腕も肘から先はひしゃげたように歪な形状を保っている

蹴りを繰り出したところで、無手による攻撃がたいした効果がもたらさないのは、先程直撃したハーリーの一撃が、なによりも雄弁に物語っている

腰にあるはずのイミディエットナイフすら、引き抜くことは出来ない。腕が無いのだから

攻撃手段は皆無。しかし、今の状態を引き剥がされれば、今度こそあの少年に勝機は無くなる

一体どうするのかと考えるアララギは、そのとき確かに見た。夜天光の懐に入り込んだエステバリスが、もはや無い左腕の肘を突き出し、夜天光の腰に喰らいつくのを

それを見たとき、アララギは思わず目を見開いた

ほとんど瞬間的に達した結論に、しかし疑問もなにも感じず、アララギは身を乗り出した

「中尉! やめろ!!」





情けないなあ、と、ハーリーは苦笑した

つい先程、自分は死ぬもんかと、誰にも命なんか賭けさせる物かと、確かに決意した

そう考えてから、まだ五分も経っていない。随分と脆弱な決意だ

耳に、アララギの怒鳴り声が響いてくる。なにを言っているのかはわからないが、その内容が自分を止めようとするものであることは、なんとなく予想がついた

――― お礼、言っておけば良かったかな

自分の考えを受け入れ、そして一番に手を貸してくれたのは、おそらく彼だろうと察しはついていた。そして自分の考えを代弁し、他の人間達を説得してくれたのも、きっと彼だろう

そう考えると、彼には払えきれない程の恩があることになる。そしてそれを払えぬままにこんな行動に出ている自分は、きっと最高の恩知らずだ

視界の中、赤の海に混じりながら、青白いウインドウが目を惹く

『パスワード認証しました。自爆準備完了』

その文に、ハーリーは口元を笑みにする

残念ながら、自分にはこの方法しか思い浮かばなかった

あの状況で正面からこの男に挑んでも、自分はおそらく数秒も持たず殺される。かといって逃げるなど論外だ

どの道死ぬのなら、せめて道連れに

それは、悲壮だが、臆病な選択だと、ハーリーは思う

おそらくルリや、サブロウタや、リョーコや、その他自分の知っているたくさんの大人達ならば、もっと素晴らしい、人間らしい方法を見つけるだろう

だが今のハーリーには、これしか方法が浮かばなかった。自爆という、命を捨てる愚かな覚悟しか、見つけることが出来なかった

――― アナタも、こんな気持ちだったんですか?

心に浮かぶのは、あのとき、第三刑務所で自分の命と引き換えに、自分を助けてくれた男の顔だ

きっとあの選択は、彼にとっても不本意だったのだろう。命を捨てるなど、きっと最悪の選択肢だ。だが彼はそれを、それしか思い浮かばない自分をきっちりと諌め、そして実行した

今だから思う。それはどんなに覚悟の必要なことだっただろうか。今この瞬間も、自分の選択肢に自信が持てず、震える両手を堪える自分と、どれほど違っただろう

歯を喰いしばる。視界が、いつの間にか揺らいでいた

溢れてきた、涙のせいだ

怖い。心底そう思う。怖い

死んだらどうなるのだろうかと、不意にそんなことを考えた

眠るように、ずっと意識が無いのだろうか。だとすれば、それは酷く安心できるようで、大層恐ろしいことだろう

今まで感じてきた物全て、それが失われるのだから

『・・・貴様』

呆然とした声が聞こえる

「・・・捕まえましたよ」

天国とか地獄とか、もしそういう物があるのなら、どんなに素敵だろうかと思う

残った人達は、悲しんでくれるだろうか。きっと悲しんでくれるだろう

その考えに謝罪の感情と、ありがとうという感謝を感じ、ハーリーは目を閉じる

悲しませることは、申し訳ないと思う。だが、その悲しむという事実すら、自分が命を張った結果の果てにあるのならば、自分はどんな罵倒も罵声も受けよう

『点火まで後二秒』

電子音が聞こえる。閉じた目をさらにきつく閉じる

残念だが、満足だ。自分一人の命くらいで、世界が救えるのだ

だが

そんなハーリーの考えも決意も、命すら嘲笑うかのように

笑みを含んだ、悪魔の声が聞こえた

それは、たった一言。たった二文字の言葉

それは

『跳躍』

直後、確かに捕らえていた手応えが消え失せ

ハーリーの視界を、暗転するように黒が満たした







爆音は、突き抜けるように通り抜けた

内臓していたエネルギーの全てを爆発へと転換したエステバリスの爆発は、遠目にも巨大な火炎の花を咲かせた

誰もが、余りに一瞬のことに、思考が追いつかなかった

「・・・おい・・・」

ナデシコCの格納庫。片手を吊り下げているサブロウタが、掠れた声で呟いた

「冗・・・・談だろ?」

無理に笑おうとして、しかしそれは失敗する。強張った、泣いているのか笑っているのかも曖昧な表情で、サブロウタは近くにいるヒカルやイズミ、リョーコの姿すら視界に入っていない状態で、目の前に展開するウインドウに一歩近づく

「はは・・・おい、馬鹿言ってんじゃねえよ。なにやってんだよ。お前」

一体なにを掴もうとしているのか、ぼんやりと差し出された手が、ウインドウをすり抜け、宙を掻く

「自爆で道連れなんて、きょうびはやんねえって、おい。ゲキガンガーじゃねんだからよ」

通り抜けた手を、再び向ける

だが、その手が、横から捕まれた

視線を向ける。そこには、睨みつけるような表情でサブロウタを見つめる。リョーコの姿があった

「・・・やめろ」

「はは、大尉も言ってやってくれよ。笑えねえ冗談は―――」

「やめろ!」

怒鳴り声に驚いたのか、それとも言葉それ自体に反応したのか、サブロウタの身がブルリと震える

「それ以上の侮辱は・・・許さねえぞ」

サブロウタの強張った表情が、徐々に溶け出す

その、普段の彼からは想像も出来ないような取り乱した様子に、リョーコはさらに口を開く

「アイツは、自分の義務を果たしたんだ」

言い聞かせるように、そう言った

「自分の筋を、きっちり通したんだ」

その言葉に、サブロウタの表情が、崩れる

項垂れたように、顔を俯ける

「・・・悪い・・・取り乱した」

「いや・・・誰だって、そうなる。軍人だって、人間なんだ」

歯を喰いしばり、サブロウタは手を握り締めた

「・・・ちくしょう」

そんなサブロウタから目を逸らし、リョーコは目の前のウインドウを見つめる

爆発は収まりつつあり、もはや火星の空は元の色を取り戻し始めていた

その後には、なにも残らない

「・・・馬鹿野郎」

誰にも聞こえないような、小さな呟きを漏らす

そして、息をついた

これで、終わったのだ。と

だが

『ククク・・・・ハーッハッハッハッハッ!』

狂ったような笑い声と共に、全ての人間の眼前に、悪魔が現れた

そして笑い声は、すぐに実体となって姿を現した

青い光と共に具現化した赤い機体は、その身を外気に晒しながら高笑いをあげる

現れたその場所は、ナデシコCの直上だった

『たいしたものだ・・・たいしたものだったぞ! マキビハリよ!』

大きく両手を広げ、満足しきったかのように声を張り上げる

「そんな・・・」

絶句するヒカルの声が、背後から聞こえる

だが、サブロウタにはそんな声など、聞こえていなかった

『しっかりと刻もう! 貴様の名を! お前は幼子の身で初めて我に死を感じさせた最初の男だ!』

ボソンジャンプだ。と、呆然としながらも理解した

組み付かれた瞬間、B級ジャンパーである北辰は一瞬の間にナデシコCを思い浮かべ、短距離のボソンジャンプを敢行したのだ

誰もが、この目の前の男の異常なまでの戦闘能力にばかり気を取られていた。B級ジャンパーである事実を、忘れていた

そして、あの爆発を北辰がかわしたということは、残った事実など一つしかない

怒りで視界が揺らぐのを、実感した

無駄死にだった、のだ

あの少年の、まだ年端もいかないあの子供の、この化物に一撃をいれられるくせに、自分の憧れのホシノルリには未だに自分の気持ちさえ伝えられていなかったあの子供の

そんな子供の取った、自爆という手段が

無駄だったと、いうのか

唇を、血が伝っていた

知らず噛み締めていた歯が、唇を破ったのだ

「ふっ・・・・ざけんなあ!!」

叫び、踵を返した

「サブ!」

背中にリョーコの声が当たる。だが、そんな物は聞こえない

格納庫を出て、一体自分はなにをしようとしているのか、それすらサブロウタは自覚していなかった

ただ、ジッとしていられなかった。なにかしなければ、怒りで頭がどうにかなってしまいそうだ

静止の声を振り切り、格納庫を出ようとした瞬間

『さて』

未だ事態についていけていない全ての人間を無視するように、夜天光は身を翻した

そして

『貴様は・・・・どう我を愉しませてくれる?』

走り出していた足が、思わず止まった

『テンカワアキト』







いつの間にか、だった

誰一人気付けず、しかしそれは、いつの間にか、しかし確かに存在していた

青い空の中、ポツンと浮かぶ赤い機体。その正面

それと対峙するように、黒い機動兵器が佇んでいた

『クク・・・どうした? テンカワアキト』

ウインドウの中、目に見えて分かるほど息を切らし、肩を揺らしているアキトに、北辰は告げた

『随分と疲労しているようではないか』

北辰の声に、今までとは違う感情の響きがこもる

それは、敵意でも殺意でもなかった。まるで気が遠くなるほど待ち焦がれていた、まるで親友に話し掛けるような、ある種の親しみすらこめられている

アキトは、答えない。切れる息をなんとか整えることで精一杯のように、バイザーに隠された視線は北辰に見向きすらしない

だが、そんなことなどまるで構わないとでも言うように、北辰は喋る

『どうだ? この舞台は、貴様と我が決着をつけるに相応しいだろう?』

徐々に整ってきた息を吐き、アキトはそれでも答えなかった

『貴様が来るまでの余興も、随分と楽しめた。全く、ラピスラズリといいマキビハリといいホシノルリといい、IFS強化体質者なる者は本当に我を驚かせてくれる』

溢れ出しそうな感情が、その言葉にはこもっていた

そして、そんな北辰を見つめ、アキトはゆっくりと頷いた

「ああ・・・そうだな」

『ククク。随分と大人しいな? 我はラピスラズリを殺し、つい今しがた、もう一人のマキビハリも殺したのだぞ? ああ・・・そうだったな。貴様とマキビハリには面識が無かったか』

「いや・・・・」

ゆっくりと首を振るアキト。と、不意にその視線を、目の前のウインドウに映る北辰ではなく、そのさらに下、自らの両手に降ろした

その手の中には

「面識はある・・・今、まさにな」







ハーリーは、ボンヤリと目を開いた

――― あれ?

その、自分の感覚や意思があることに、僅かに驚く。自分は確かに、あのとき自爆したはずなのに

視界は、相変わらず薄い。意識がすでに限界なのか、暗く閉じかけた、自分の目の前が微かに垣間見える程度だ

だが、その中に、一つの影を見つけた

自分の首と膝に、温もりを感じる。どうやらその影は人らしい。自分はその人物に抱きかかえられているようだ

「遅くなって、すまない」

声が、どこか遠くから聞こえてきた

初めて聞く声だ。そう思った瞬間、しかしそれが誤りであることに気づく

「良く・・・・頑張ってくれた」

自分は、何度かこの声を聞いたことがある。もう随分と遠くに感じる。あの火星の後継者事件のときだ

だが、あのときの声は、今自分に語りかけてくる声よりも、もっと冷たかった。まるで全てを拒絶するような、冷たい声だった

――― テンカワ・・・・アキトさん

その声の持ち主は、そういう名前だった

自分の憧れの存在であるホシノルリの家族であり、そして彼女が、もっとも大切にしている人間の中の一人

そうだった。それを知った自分は、負けたくないと思ったのだ

いつか、この人と肩を並べられるような男になりたい。そう思った。そうすればきっと彼女も、少しくらいは自分を見直してくれると、そう思ったのだ

だが

「後は・・・・任せて欲しい」

――― ズルイなあ

こんな状況で、こんなタイミングで現れるなど、まるでゲキガンガーの主人公だ

どこか適当な岩陰で、機をうかがっていたのではないのかとすら思う

だが、それが自分の子供っぽい疑惑だということは、暗い視界の中、それでも彼の額にハッキリと浮かんでいる大粒の汗と、忙しなく上下する肩が教えてくれている

――― ああ・・・

薄っすらと残された意識が、いよいよ暗くなる

悔しいなと、そう思いながらも、しかしハーリーの顔に浮かんでいるのは、苦笑とも微笑ともつかない、弱々しい笑みだった

――― 敵わないなあ

そう思った瞬間、今度こそハーリーの意識は、そこで途切れた





火星上空。ナデシコCを取り囲むように展開している大艦隊。その一隻の戦艦のブリッジ

ウインドウに映るブラックサレナを、半ば呆然と見つめるジュンの背後。艦長席に身を沈めるユリカは小さく笑った

その目が、不意にそれる。皆の注目が集まっているウインドウから、僅かに下。自分の正面に

直後、ユリカの見つめる正面の空間に、光が生まれた

青い光。もはや誰もが知っている。ボソンジャンプの光だ

周りの人間が、突然のことに身を固くする中、ユリカは相変わらず微笑んだまま

光が集まり現れた、テンカワアキトを見つめていた

その手には、眠っているマキビハリの姿がある

突然の不審者に身構える人間を無視し、アキトはそのバイザーに塞がれた視線を、ゆっくりとユリカに向け、歩き出した

その行動を止めようとした数名を、ジュンが片手で制する

ユリカの正面に立ったアキトが、その手に持っているハーリーを、ゆっくりと差し出した

ユリカもまた、眠るハーリーを無言のまま受け取る

衰弱した彼女の身体でも、子供の割には随分と軽いハーリーは簡単に抱きとめられた

その、眠るハーリーの頭に手を伸ばしながら、ユリカはアキトへと目を向ける

「凄いね・・・・この子は」

微笑んだままそういうユリカに、アキトもまたゆっくりと頷いた

「ああ」

それだけいうと、アキトは背を向ける

「ルリちゃんには・・・・会って行かないの?」

ハーリーを抱いたままのユリカの言葉が、その背中に当たる

「あの子も今・・・・戦っている。邪魔はしたくない」

「そっか・・・・」

僅かに残念そうに呟くユリカ。だが、それを振り切るように、アキトはまた一歩を踏み出した

途中、目が合ったジュンが力強く頷くのを見て、思わず苦笑する

そして、懐へと手を伸ばす。その先に触れるのは、硬い感触

CC―――チューリップクリスタル

それをゆっくりと抜き出し、握り締めるアキト

その背中に、再び言葉が届いた

それは、もう随分と昔に感じるほど、久しく聞いていなかった言葉

それは、かつてのアキトが、答えられなかった言葉

肯定も否定も出来ず、ただ無言を返すことしか、出来なかった言葉

「行ってらっしゃい」

CCを握り締める手が、強張った

光が集まる。イメージするのはブラックサレナのアサルトピット

誰もが息を呑み見つめる中、アキトは、その光の中ゆっくりと振り返った

視線の先には、相変わらず微笑んだまま、しかし微かに悲しそうな顔をしているユリカがいる

そのユリカに、アキトは小さく、呟いた

誰にも聞こえないほど小さな言葉を、小さく呟いた

だが、聞こえてなどいないはずなのに

ユリカの微笑みが深くなったように感じたのは、きっとアキトの気のせいではないだろう

掻き消える瞬間、アキトはもう一度呟いた

今度はハッキリと、声にして





「行ってくる」







一瞬眩んだ視界は、しかしすぐに光を取り戻した

目を移せば、自分はブラックサレナのアサルトピットにいる

そして目の前には、相変わらず佇む紅い機体

『最後の挨拶は、済んだか?』

「・・・・ああ」

『クク・・・本当に随分と素直になったものだな』

その言葉に、アキトは答えなかった

答えなど、出ていないのだから。自分がなにをするべきで、なにをしたいのか

だが、それでも今、目の前にある事態は、止めなければならない

答えとやらは、その後考えていけば良い

だがそれでも、一つだけ言えることは

「もう、消えるべきなんだ・・・・俺も・・・・お前も」

『ほう? 随分と殊勝な言葉だ。聖人にでもなったつもりか? テンカワアキト』

アキトの言葉を嘲笑うかのように、夜天光はゆっくりと高度を下げた

そして、火星の大地に突き立っている。先程捨て去った錫杖に手を掛ける

アキトもまた、その動きを止めようとはしなかった

先程、ハーリーをユリカに渡す間待っていてくれた礼だとでも言うように、ただ黙ってその動きを見つめている

『クク・・・まあよい』

大地から錫杖を引き抜いた夜天光が、それを確かめるようにふるった

金属の擦れる音が響き、静寂が満ちる

それを破るように、北辰は笑った

『どの道、これが最後の対峙だ。テンカワアキト。貴様のその言葉が皮か誠かは、すぐに知れよう』

答えるように、ブラックサレナもまた、高度を下げる

白い火星の大地に、赤と黒が対峙した

『さあ・・・』

全ての人間が固唾を飲んで見守る中、北辰の言葉が、響き渡った

『二度目の終わりを、始めよう』








あとがき



ようやく、ようやく出てきた・・・・



こんにちは、白鴉です



随分お久しぶりです。覚えてくださってる方がいたら物凄く嬉しかったりします

ストレスで胃に穴が開きそうになる生活もようやく終わり、頭から煙が出るくらい遊んでました

いや、実際はそこまで大変ではなかったんですけど

さて、エピローグ込みで後三話くらい。頑張ります。宜しかったらどうか最後までお付き合いください







それでは次回で