人間の心には空白の部分──損失した部分が存在する。
 その心の空白は『寂しい』という感情を生み出し、『不安』を『恐怖』を作り出す。
 人間はこの心の空白を埋めるために生き続けるが決してこの空白が埋まる事はない。
 だが。
 それでもこの心の空白を埋めようとした者達がいた。
 キール・ローレンツを中核とするゼーレと呼ばれる組織と特務機関ネルフの総司令──碇ゲンドウである。
 彼らは人間の欠落した部分を補い完璧な存在になるために人類補完計画という計画を立案した。
 ただ、ゼーレの考えとゲンドウの考えには大きな違いがあった。
 ゼーレはエヴァシリーズを使ってサードインパクトを起こし、不完全な群集の存在である人間を完全な単体の存在へと進化させようとしていた。
 ゲンドウも欠けた部分を補い完璧な存在になるために計画を進めてきたが、単体の存在に人間を進化させようとは考えていなかった。
 彼は自分の妻である碇ユイに逢いたかった──ただそれだけだった。
 そのために自分の右手に宿したアダムとリリスの魂を持つ綾波レイを使ってサードインパクトを起こそうとしていた。
 そして──。
 人類補完計画は実行された。
 人間を形作る心の壁──ATフィールドが失われ、人類は生命のスープ──LCLへと還った。
 世界はLCLの赤へと染まり人類は海という形で1つになった。
 ゲンドウの望んだものではなく、ゼーレの望んだ補完計画が遂行されたのである。
 しかしゼーレの補完計画は完全な形で成功したわけではなかった。
 LCLへと還らなかった者がいたのだ。
 いや。正確に言えばその者も一度LCLへと還り、全ての人間と1つになった。
 だがその者はその世界を拒絶し、他人と共に生きる世界を望み、帰ってきたのだ。
 その者の名は──碇シンジ。
 サードインパクトの依り代にされたエヴァンゲリオン初号機のパイロットである。










赤い世界から送られし者


プロローグ『赤い世界からのシ者』

「もう一度皆に会えると思ったのに……こんなのってないよ!?」











 波の打寄せる、心を落ち着かせる音が耳に届く。
 砂浜で横になって眠っていた少年──碇シンジは波の音に誘われる様にゆっくりと身を起こし……眼前に広がる光景を見て眼を見張った。
 視界いっぱいに広がった海。その海は……赤い。空の色を反射してそう見えるのではない事は空を見れば分かる。闇色の空で幾万の星が瞬き、真白い月が真円を描いている。海を赤く染める様な空ではない。海それ自体が赤色をしているのである。
 その海から鉄の錆びた様な──血に似た臭いが漂ってくる。
 シンジにとって、しかしそれは嗅ぎ慣れた臭いであった。エヴァのコックピットとも呼べるエントリープラグ、その中を満たすLCLと同じ臭い。
 ぼんやりとした頭でシンジは眼の前の海がLCLなのではないか──と、そう思った。
 血の臭いに頭がはっきりとしてきた。そうすると、血の海とでも表現すべき海の他にもこの異常な光景を作り出している要素が視界に入ってくる。
 エヴァンゲリオン量産機。
 かつて白かった装甲は錆び付いて黒ずみ、頭部はもぎ取られたかの様に無く、両手を広げて血の海で佇んでいる。
 そうして突き立つ9体のエヴァ量産機は磔にされた人間の様にも墓標の様にも見え、赤い海と相まって酷く気味が悪い。
 そして──。
 何よりも眼を引いたのは赤い海に横たわる巨大な少女の顔だった。
 ホワイトカラーの絵の具で塗りこんだ様な不自然な程に白い肌と髪。口元は笑みの形で歪められ、見開かれた瞳は血の様に赤い。彼女は何処とも知れない場所を眺めていた。たった1つの瞳で──。
 そう。少女の顔は半分しかなかった。正中線をなぞる様に綺麗に切り取られ、もう半分の顔はどこにも見当たらない。

「──綾波」

 オブジェと化した少女の顔を眺め、声を漏らす。
 綾波レイ。
 それがその少女の名前だった。
 シンジと同じエヴァ、その零号機のパイロットである。
 見知った少女の顔が山の如くに横たわる姿は現実味に欠いていた。
 もしかしたら自分は途方も無い夢を見ているのではないか──そんな事を思ってしまう程に。
 だが眼の前に広がるこの光景は現実だ。決して夢などではない。
 頬を撫でる風の冷たさが、鼻の奥を衝くLCLの臭いが、指先の触れる砂の感触が、言葉も無くシンジにそれを告げていた。

(……地獄だ……)

 声には出さず呟いて、シンジは片手で顔を覆って俯く。と──

「……?」

 視界の端。シンジの眼が何かを捕らえた。
 首だけを動かしてそちらを見れば、少女が倒れていた。
 一目見た印象は『赤』──その一言に限る。
 プラグスーツと呼ばれる赤いパイロットスーツと朱金の髪。白い砂浜で横になっているため、より『赤』という印象が際立つ。
 身体の其処彼処に巻かれた包帯が痛々しくはあるが、顔立ちの整った少女である。

「ア、アスカ……!」

 惣流・アスカ・ラングレー。
 エヴァ弐号機のパイロットである彼女は重傷を負った姿でシンジから少し離れた位置に倒れていた。
 慌てて立ち上がり彼女の傍に駆け寄る。
 抱き起こそうかとも思ったが身体の彼方此方に怪我をしている。一応包帯が巻かれているので応急処置ぐらいは受けているだろうが、動かして良いものか素人のシンジには判断がつかない。
 どうしようもなく、シンジはアスカの傍に手をついて彼女の名を呼び掛ける事しか出来なかった。

「アスカ。アスカ。アスカ。アスカ……!」

 掛ける声に嗚咽が交じる。
 呼び掛けながらシンジは自分を責め立てていた。

(僕のせいだ。僕がもっと早く出ていれば……アスカは……こんな目に遭わなかったかもしれないのに! 僕が僕が僕が……!)

 アスカが負った怪我の要因はエヴァでの戦闘によるものだった。
 エヴァの操縦は適性さえあれば決して難しいものではない──まともな戦闘をするにはそれなりの訓練は必要であろうが──事実、初めての搭乗でシンジはエヴァを動かす事が出来ている。
 シンクロシステムと呼ばれる操縦方法がそれを可能としていた。
 このシステムによってパイロットは操縦桿であるインダクション・レバーを握り、思考するだけでエヴァを動かす事が出来るようになっていた。
 歩けと念じればエヴァは歩き、物を掴めとイメージすればエヴァは物を掴むのである。
 ただ、このシンクロシステムには1つの欠点があった。
 パイロットとエヴァがシンクロしているが故に、エヴァの感覚をもパイロットは共有してしまうのである。
 つまり。
 エヴァが歩けば大地を踏みしめる感覚が、物を掴めばその感触がパイロットにも伝わってしまうのだ。
 それはエヴァの受けた衝撃──戦闘によって受けたダメージも例外ではない。
 シンジの脳裏にある情景が過ぎる。
 それはアスカの乗るエヴァ弐号機と9体のエヴァ量産機とが戦う姿。
 シンジはその戦いを直接見ていない。彼は戦いには参加せず、初号機の前で膝を抱えて蹲っていただけだ。それでもケージに備え付けられたスピーカーから──音声だけであるが──その様子は流れていた。
 彼が初号機で出撃したのは戦いがほとんど終わってから。その時に見た光景は鮮明に眼に焼きついている。
 白い翼を広げ、倒れ伏した弐号機の上空を円を描きながら悠々と飛ぶ量産機。その口には弐号機のパーツが咥えられていた。
 そう。咥えられていた。
 弐号機は量産機によって解体──捕食されたのである。
 腕を喰いちぎられ。首を喰いちぎられ。腹から内臓を晒し。4つあった眼球は3つに減っていた。
 アスカは生きながらにして捕食される激痛を味わったのだ。

「……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」

 いつからか、呼び掛ける声は謝罪へと変わっていた。
 涙と鼻水で顔を汚し、何度も何度も──それこそ壊れたレコードの様に「ごめんなさい」と繰り返していた。
 仮にシンジが初号機で出撃していても結果は変わらなかったかもしれない。
 アスカは幼少の頃からエヴァのパイロットとして訓練を積んできた。彼女本人も言っていた様に正にエリートパイロットである。
 それに対して、シンジは父に呼ばれ突然エヴァのパイロットとして戦う様に言われた。無論、アスカの様に訓練などしていない。何処にでもいる普通の少年だった。パイロットになってから当然訓練もさせられたが、到底アスカに及ぶものではない。
 前述した通り仮にシンジが出撃していたとしても、アスカの弐号機と同様にシンジの初号機までもが捕食されてしまう可能性の方が高いだろう。
 だがそれでも……シンジは考えてしまう。
 自分が早くに出撃していればこんな事にはならなかったのではないか──と。
 そうしてどれだけの間シンジは泣き続けていただろうか。
 不意に涙で濡れた彼の頬に包帯の巻かれた手が添えられた。
 ハッとして顔を上げると薄らとアスカの瞼が開かれ、碧眼の瞳が露になっていた。
 彼女はシンジの輪郭をなぞる様にその手を滑らせて、ゆっくりと口を開いた。

「キモチワルイ」

 それは息を吐き出す様な弱々しい声であった。

「え?」

 それは何に対しての言葉だったのだろうか。
 髪に絡まる砂の感触か。泣き顔で歪んだ自分の顔か。それとも鼻腔を衝く、辺りに満ちた血に似た臭いに対してか──シンジには分からなかった。
 ただ呆然と片側に眼帯をつけた彼女の瞳を見つめる事しか出来なかった。
 そして……それは突然の出来事だった。
 バシャ、という水の弾ける様な音が耳に届いたかと思うと、それまで感じていたアスカの手の感触が消えた。
 代わりに感じたのは、自分の涙とは違う別の何かが頬を伝う感触。
 それはゆっくりとシンジの頬をなぞりながら彼の口の中へと入っていく。
 不意に血の味が口の中で広がった──。

「あああぁあああぁあああああっ!?」

 眼の前で起こった現象にシンジは悲鳴じみた声を上げた。
 先程まで、確かにいたはずの彼女の姿が消えていた。
 眼の前に在るのは液体を吸った赤いプラグスーツと同じく液体を吸って赤く染まった包帯と眼帯だけだ。
 アスカの身体は何の前触れもなく液体へと姿を変えてしまった。
 血とは違う赤い液体へと。
 彼女はLCLへと姿を変えてしまった。

「…………」

 シンジはLCLで汚れた顔を拭おうともせず、赤い海へと眼を向ける。
 相変わらず、何の変化も無く、ただ寄せては返し、柔らかな音を響かせている。
 この海はLCLで出来た海なのではないか──眼を覚ました時に思った突飛も無い考え。
 しかしその非現実的な考えは、今、彼の前で起こった現象がその可能性が決して在り得ない事ではないと告げている。
 ふらふらとした様子で立ち上がり、シンジは歩を進める。
 何処へ行くでもない。首を巡らしながらとにかく歩き、探し続ける。

「誰か。誰か。誰か。誰か。誰か……いないの!?」

 絶望の色を声に滲ませて誰に向けるでもなく叫ぶ。
 それに返す声は、ない。彼の鼓膜を震わせるのは赤い海から発せられる波の音だけである。
 それでも、シンジは歩く。
 自分以外の誰かを求めて。自分が1人ではない事の証明を求めて。人間でなくても良い。犬でも猫でも鳥でも……虫ですら構わない。とにかく自分以外の生物を求めて歩み続ける。
 どれだけ歩き続けたか分からない。
 唯一距離を示すのは赤い海に横たわる綾波レイの顔と墓標の如くに突き立つエヴァ量産機だけだ。
 相変わらず彼女の顔ははっきりと見えるが、量産機の方は随分と小さく見える。かなりの距離を歩いたのだと気づく。
 しかし──。
 人間の姿はない。それ所か人間以外の生物すら見当たらない。

「…………」

 もしかしたら、世界の何処かには自分以外の誰かがいるのかもしれない。
 だがその事に一体どれだけの意味があるのだろうか。
 今この瞬間、自分の周りには誰もいない。
 仮に世界の何処かに誰かがいたとしても、自分が1人である事に、孤独である事に変わりない。

「ハ、ハハ。ハハハハ……」

 膝をつき。夜空を見上げ。虚ろな表情で。壊れた様に笑い声を上げるシンジ。
 彼はぼんやりとした様子で星と月を眺める。しかしそれは視線の先にそれらが在るというだけで、『星と月を見ている』という意識は彼にはなかった。
 彼の意識はただ1つ。
 自分以外に誰もいないという現実──それに対する拒絶だけが頭の中で渦巻いていた。

「嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ……1人は嫌だ……1人は嫌だ……」

 いつしかシンジは笑うのを止め、現状に対する否定の言葉を吐き出し続けていた。
 人間と触れ合うのが恐かった。父親に捨てられた時の様に、裏切られてしまうかもしれないから恐かった。
 でも。決して1人でいる事が好きだったというわけではない。
 拒絶される事を恐れながら、何よりも孤独である事を彼は恐れていた。

「……1人は嫌だ……1人は嫌だよ……1人になるぐらいなら……死んだ方がいい!」

 その言葉が引き金になったのかもしれない。
 碇シンジと波の動きぐらいしか変化のなかった世界に明確な変化が起こった。
 突如としてシンジの足元を中心に黒い影が広がったのだ。

「……あ……あ……あぁぁ……!?」

 影に飲み込まれる様に自分の身体が沈んでいく。
 バタバタと無様に手を動かしてシンジは身体を動かそうとするが、影は喰らいついた様に彼の身体を放そうとはしない。
 そうしている間にも彼の身体は胴の中程まで飲み込まれていた。
 シンジはただ間抜けな声を上げる事しか出来ない。
 彼は知っていた──この影が一体何であるのか。
 その身を以って理解していた──自分はこの影から逃れる事が出来ない事を。
 影の名は『ディラックの海』──第12使徒『レリエル』が初号機を取り込んだ空間である。
 エヴァ初号機ですら逃れる事が出来なかったそれにただの子供でしかない彼が逃れ得るはずがない。
 碇シンジは黒い影に完全に飲み込まれ、その瞬間、彼の意識は暗い闇の底へと落ちこんでいった……。











 『それ』が生まれたのは自己防衛のためだった。
 サードインパクト──それによって『彼』に起こった事象は普通の人間には到底耐え得る事の出来ないものだった。
 流れ込んでくる大量の記憶。その中には『彼』の知る者達のものも含まれていたが、殆どが『彼』とは何の関わり合いのない者達の記憶であった──或いは、それらの記憶はその星全ての人間の記憶であったのかもしれない──。到底、1人の人間の脳に収まりきるものではなかった。
 そう。人間であったならば──。
 サードインパクトは『彼』を純粋な人間ではなくしてしまっていた。
 『彼』は人間でありながらも、かつての人類の敵──使徒と呼ばれる存在でもあったのである。
 人間でなくなった『彼』の脳はその膨大な知識を収めきる事を可能としていた。
 しかし。人間でもあるが故に、『彼』はその記憶を収める事が出来ないでいた。
 耐えられなかったのだ。その記憶を収める事が。
 楽しい記憶もあれば、思わず頬が緩んでしまいそうになるほのぼのとした記憶もあった。
 それらを仮に『正』の記憶と呼称したとする。
 しかし。人間の記憶には、それとは反対の『負』の記憶とでも称するべきものが圧倒的に多かったのである。
 嫉妬、殺意、悪意、怒り、悲しみ、憎しみ……等々。数え上げたらきりがない。
 『彼』の人間としての意識がそれらの記憶を許容する事が出来なかった。
 それを許容したら、人間としての『彼』は壊れてしまう──いや、事実『彼』は一度壊れかけた。
 それらの『負』の記憶、感情に流されるまま、『彼』は傍らに横たわる少女を……殺そうとしてしまった。

「……」

 『それ』の手には、その時の感触が残っていた。
 彼女の首に手を添えて、力の限りに締め上げた感触が、はっきりと──。
 『彼』が彼女を殺さず、踏み止まったのはほとんど奇跡だった。彼女が『彼』のよく知る者でなければ、『彼』は何の躊躇いもなく殺してしまっていたかもしれない。
 とにかく。それが1つのきっかけであった。
 『彼』は膨大な記憶よりも彼女を殺そうとしてしまった事実に耐える事が出来なかった。
 その結果、『彼』は自分にとって都合の悪い記憶を封じ込める事にした──無論、意識しての事ではなかったが──。
 普通の人間であれば『多重人格』とでも言うべき状態に陥っていたかもしれない。
 しかし。『彼』は前述した通り普通の人間ではなかった。
 『彼』にとって都合の悪い記憶を押し付けられた『それ』は身体を与えられ、『彼』から切り捨てられた。
 いつの日か『彼』がそれらの記憶に耐え得るだけの、精神的な強さを身に付けるまで。
 『それ』は『彼』からも、『彼』のいる世界からも切り捨てられたのである……。











 気がつけば、碇シンジは黄昏の色に染まる電車の中にいた。
 彼以外、車内の中に人の姿はない。
 電車は彼1人を乗せて、延々と線路の上を走り続けていた。

「……僕は、死んだのかな……」

 ディラックの海に飲み込まれた事は覚えている。
 前回はエヴァに乗っていて、延命装置のついたプラグスーツも着ていたが、今回はそうではない。ただの学生服だ。
 そんな格好でディラックの海に入れば──それがどういったものかシンジにはよく分からないが──死んでしまうという事は理解していた。

『君は死んでなんかいないよ』

 誰に言うでもなく漏らした言葉に返答があった。
 いつの間にか、シンジの正面の座席に小さな子供が腰掛けていた。
 夕日を背に座っているため、影になって子供の顔はよく見えない。それでも身体つきや声の感じから、小学生、もしくはそれに上がる前ぐらいの年齢である事は分かった。
 姿勢正しく座る子供の姿に、シンジは何処か見覚えがあった。
 夕暮れを走る電車。影になって顔の見えない、小さな子供。そしてそれに向かい合う自分──。
 以前にも、こうしてこの子供と逢った事がある様な気がしてならない。
 しかし。記憶を手繰り寄せようとしても、頭に何か薄らと膜の様な、靄の様な物が掛かっていて、思い出す事が出来ない。
 手の届きそうな所に手が届かない──そんなもどかしさをシンジは感じていた。

「……君は誰?」
『君は何もしないまま、このままで良いの?』

 子供はシンジの言葉には答えず、そんな事を訊ねてきた。
 二の句が継げず、シンジはただ、影になってよく見えない子供を見つめる事しか出来ない。
 このままで良い──とは一体何の事を指しているのか、まずシンジにはそれが理解出来なかった。
 恐らく、あの赤く染まった世界の事だろうとは思うが、それでは説明出来ない部分が出てくる。
 一体あの世界で自分に何をしろというのか。
 シンジとてあの世界が良いとは思わない。変えられるものなら変えたいとすら思う。
 しかし、所詮自分はただの中学生でしかない。
 エヴァンゲリオンのパイロットではあるが、それが何かの役に立つとは思えない。そもそも、そのエヴァが無いのだ。エヴァのパイロットですらない自分は、本当にただの子供でしかない。
 そんな想いを込めてシンジは言った。

「……僕に何をしろっていうんだよ……」
『君には出来る事があるのに……どうして何もしないの?』
「……僕に何が出来るっていうんだよ!」

 心底不思議そうに訊ねてくる子供に、シンジは思わず声を荒げた。
 子供はシンジの声に怯えた様子もなく、それが事実である様に、淀みなく、淡々とした調子で答えた。

『君には力があるよ。その気になれば、あの世界を変える事だって出来るはずだよ』
「そんな訳ない。僕にそんな力は……ない……」
『君は力の使い方を知らないだけだよ。知らないのなら学べば良い。本当に世界を変えたいのならね』

 電車はトンネルへと差し掛かった様だった。
 蛍光灯が点いていないため、トンネルを抜ける間、車内は真っ暗になった。
 何も見えない闇の中、子供の声がやけに大きくシンジの耳には届いた。

『君はもうすぐ夢から覚める。眼を覚ました時、そこには君に力の使い方を教えてくれるヒトがいる。そのヒトに教えを乞うかどうかは君自身が決める事だ。でも……後悔だけはしないようにね』

 子供の話が終わるのを待っていたかの様に、電車は唐突にトンネルを抜けた。
 再び車内を夕焼けの赤が照らし、その眩しさにシンジは腕で眼を覆った。
 それから数秒、眼が光りに慣れたのを見計らい、ゆっくり腕を退かす──と既にそこには子供の姿はなかった。

「……僕自身が決める……後悔しないように……」

 子供の言葉を噛み締める様にして言うシンジ。
 車内に霧の様なものが立ち込め、形を失い始めていた。子供の言う事を信じるならば、夢から覚める前兆なのだろう。
 だんだんとシンジの意識も混濁としていく。

(力の使い方を教えてくれるヒトって誰だ)

 赤い海の広がる、誰もいない世界。
 そんな世界で、一体誰が自分に力の使い方を教えてくれるというのか──それが気がかりだった。
 不思議な事に、いつの間にか、シンジは子供の言葉を信じていた。
 眼を覚ました時、そこに自分に力を教えてくれるヒトがいると。

(あの子は……誰だったんだろう……)

 最後にそんな事を思い、シンジは意識が遠くなるのを感じた……。











 碇シンジが倒れていたのは、巨大な空洞の最深部であった。
 岩肌に囲まれたそこはひんやりとした空気に満ち、常夏の日本で過ごしてきた彼からすれば肌寒い。服装が半袖のシャツに薄手のズボンであるため尚更だった。
 シンジはゆっくりとした動作で身体を起こし、見上げた。
 大きな穴から薄らとした光りが暗い空洞内を照らしている。周囲には岩壁があるだけで道はない。天に大きく開いたその穴が唯一の出入り口の様である。

「ここ、どこ……?」

 呆然とした様子で声を漏らすシンジ。
 首を廻らして辺りの様子を窺う。空洞の隅に倒れていた彼には全体を見渡す事が出来た。
 何もない、本当にただの空洞かと思われたが、空洞の中心部に銀色の大きな立方体──箱の様な物があった。明らかに人工物である。
 他には特に眼を引く様な物はない。
 シンジは恐る恐るといった様子でその箱の様な物へと近づき──

「……」

 箱の傍に何かがいる事に気がついた。
 それから十分な距離を取ってシンジは足を止める。
 空洞内が薄暗いためよくは見えないが、それは人間である様に見えた。
 カツンカツンと革靴を鳴らして、それは歩みを止めたシンジとの距離を詰めていく。
 そして──。
 近づいてくるそれを穴から注ぐ光りが照らし出した。
 特務機関ネルフ、その総司令の制服を着込み、手には白い手袋を嵌めている。その瞳を隠す様に掛けられたサングラスが印象的ではあった。

「父さん!?」

 その人物を見て──というよりその格好を見て──父を呼び、すぐに違う事に気づいた。
 彼の父、碇ゲンドウはかなりの上背がある。しかし、眼の前にいる人物はシンジよりも背が低い。加えて、それの髪は光りの加減によっては蒼にも見える銀髪──ゲンドウのそれはシンジと同じ黒髪──である。服装こそ碇ゲンドウのそれであるが、身体的特徴はとことんなまでにゲンドウのそれとはかけ離れている。
 むしろその身体的特徴は、彼の知る別の人物の特徴と一致していた。

「……あ、綾波……?」

 かなりの確信を持ってはいたが、その服装故にどうしても訊ねるそれは疑問系になってしまう。
 シンジの記憶にある綾波レイの服装は、白いプラグスーツか学校の制服のみで、司令服を着ている処は見たことがない。もっともシンジが知らない処でそういう服を着ていたという可能性も無くはない。しかし彼女の性格なりなんなりを鑑みればその可能性は極めて低い。
 そういう訳で……彼女がゲンドウのそれと同じ物を着ているというのは違和感があった。異常と言っても言い過ぎではないだろう。
 そんなシンジの様子に気がつく様子もなく──或いは意図的に無視しているのか──彼女は左手を腰に当て、右手をシンジへと伸ばしながら、その小さな唇を開いた。

「ようこそ。力を求めしパシリの使徒よ」

 ビシリ──音にすればそんな感じであろうか。
 碇シンジは世界が凍りついた音を確かに聞いた。
 レイは手を差し伸べた格好のまま動きを止めている──というより彼女のそれはシンジの反応を待っての事なのだろう。
 しかし。
 反応を返すべきシンジもまた──彼女の言葉に思わず右足を引いてしまった格好のまま──固まっている。彼女の言葉に反応を返す余裕はないようであった。

「………………」
「………………」

 空洞内に降りる何とも言い難い沈黙の帳。
 それを崩すべく先に動いたのは……この状況を作り出したレイであった。
 救いの手の如くに差し伸べていた手を下ろし、腰に当てていた手もまた下ろす。両肘を自然の重さで垂らした格好である。
 そうして自然体の体勢を作ると、彼女は下ろした右手を顔の前へゆっくりと持ち上げていき……クイッと中指でサングラスを押し上げた。

「あの赤く染まった世界を変えるための……そのために必要な力を碇君は私に教えて貰いたいのね?」

 先程の台詞は無かった事にして、いきなりそんな事を言ってくるレイ。
 その言葉の内容はシンジが事情を説明していないにも関わらず的確で驚くべきものではあったが、登場時の──およそ綾波レイとう人物像からかけ離れた──発言に比べればインパクトは薄い。先程の台詞を無かった事にするには至らなかった。

  「………………」

 呆然と──頬を引き攣らせていたシンジの顔が訝しげに歪められる。
 眼の前にいるこの少女は本当に綾波レイなのか──と、そんな意思が言葉にせずとも伝わってくる様である。
 それを見て取ったレイは嘆息し、舌打ち。
 面倒くさいという態度を隠そうともせずに言った。

「碇君が今の私に違和感を感じても仕方ないわね。今の私はあなたの知っている綾波レイとは違うから」
「それって……」
「質問は話を聞き終えてからにしてくれる」

 掌を翳してシンジの言葉を遮り、彼女は続ける。

「今の私はリリスの肉体に綾波レイの全記憶を宿した存在。確かに綾波レイではあるけれど、正確には綾波レイの記憶を持ったリリス……といった方が正しいわ。そうね。3代目の綾波レイの言葉を借りれば4人目私と言った処かしら」

 リリス。聖書に於いてアダムの最初の妻とされる女性である。
 しかし、彼女の言うリリスは聖書のそれではなく、ネルフ本部最下層ターミナルドグマで磔にされていた白い巨人の事をさしている。
 以前の彼女は碇ユイ──初号機からサルベージされた肉体とリリスの魂によって構成されていた。
 だが、今の彼女は肉体までもがリリス──つまり完全な使徒になったのだという。

「…………」

 レイの説明を聞いたシンジは無言。ただジッと彼女を見ている。
 綾波レイが完全な使徒になった……という事は何となくシンジにも理解出来た。
 そうして彼が思った事は──。
 嬉しい。純粋にそう思った。
 誰も彼もが居なくなってしまった世界だと思っていた。
 けれど今、眼の前に自分以外の誰かが──それも自分の知るヒトがいる。
 喜びこそすれ、拒絶的な感情など覚えるはずがなかった。突飛な登場の仕方で幾分感動は薄らいでしまったが。
 それはともかく。
 シンジが気にしているのは綾波レイがどの様な存在なのかではなく、彼女がここにいるという事実だ。
 夢の中男の子が、目覚めた場所に居るヒトが力の使い方を教えてくれると言っていたのをシンジは覚えている。
 視線を廻らしてみるが彼女の他に人の姿はない。
 つまりそれは綾波レイが力の使い方を教えてくれる人物という事になる。
 そもそも……彼女自身が登場時の台詞を誤魔化すために言っていたではないか──

「あの赤く染まった世界を変えるための……そのために必要な力を碇君は私に教えて貰いたいのね?」

 と。
 やはりあれはただの夢ではなかったのだ。
 シンジは意を決してレイに訊ねた。

「本当に……綾波は僕に力の使い方を教えてくれるの……?」
「ええ。あなたにその気があるのなら」

 レイは即答した。

「ちょっとそこで待っててくれる」

 言ってレイは背を向けて歩き出す。4、5m程の位置まで進むとシンジへと向き直った。
 サングラスを外して胸ポケットへと仕舞う。
 露になった鮮やかな瞳の赤がシンジを見据える。

「あなたに教えるのはATフィールドの使い方よ」
「……あっ……」

 シンジは思わず声を漏らした。
 オレンジ色の光を放つ壁──ATフィールド。
 エヴァのパイロットであり、使徒と戦ってきた彼にとっては見慣れたもの。
 絶対領域とまで謳われた障壁が2人の間に聳え立っていた。

「でも、ATフィールドなんてエヴァも無いのにどうやって……」

 第18使徒リリン──つまりヒトにもATフィールドは存在する。
 自分と他人とを分かつ心の壁、肉体の形を保つのにそれは使用されている。
 しかし、ヒトのATフィールドはその事にしか使用出来ず、他の使徒やエヴァの様に別の手段としては使えない。
 エヴァでもあればシンジにもATフィールドを使う事は出来るであろうが、ここにはそのエヴァがない。

「問題ないわ」

 展開していたATフィールドを消してレイが言った。
 空を見上げて空洞内を照らす光りに眼を細めて続ける。

「碇君ならエヴァが無くてもATフィールドを使えるわ。もうヒトじゃないもの。練習をする必要はあるでしょうけど」
「…………ぇ!?」

 然も当然といった様子で放たれたレイの言葉。
 余りにもそれが当たり前の様に言われて、シンジは最初、何を言われたのか分からなかった。
 だが、シンジの脳は次第に彼女の言葉の意味を理解していく。
 彼女は確かに言った。
 碇シンジはもう……ヒトではないと。

「こうやって防御手段として壁を展開するだけならそんなに時間は掛からないと思うわ。エヴァに乗っている時には出来ていたからイメージし易いだろうし。でもそれだけで満足して欲しくないの。碇君に覚えて貰いたいのはATフィールドの応用よ。ATフィールドはイメージによって実に様々な現象を起こす事が出来るわ」

 言って彼女はその応用とやらの実演を始める。
 腕を振るえば指先からオレンジ色の光りが走り、遠く離れた岩壁に爪の様な痕を作った。
 跳び上がればシンジの頭上を軽々と飛び越え、素手で地面を叩けば粘土か何かの様に地面が凹んだ。ヒトの身体はATフィールドで出来ているので、身体能力の強化もやろうと思えば可能なのだろう。
 シンジは呆然とした様子で、彼女が作り出す不思議な光景を眺めている。
 驚くべき光景が眼の前に広がっているのは確かだったが、シンジの中で渦巻いているのはその事ではない。

「綾波」

 彼の呼び掛けにレイはピタリと動きを止めた。
 シンジは搾り出す様な声音で自分を見つめる彼女に訊ねた。

「……僕は……人間じゃ、ないの……?」

 レイはシンジの言葉にすぐには答えなかった。
 彼に背を向けてレイはゆっくりと歩き出す。コツコツと革靴の立てる音が静かに、しかし大きく響いた。
 シンジはレイの姿を眼で追って、彼女が言葉を発するのを待つ。
 不意に足音が止んだ。
 足を止めたレイは頭だけで彼に振り返って、ようやく口を開いた。

「聞くのを忘れていたけれど……碇君はこの世界を変える覚悟がある?」

 だがそれは彼の求めた答えではなかった。

「誤魔化さないでよ綾な」
「答えて」

 露とも変わらぬ淡々とした口調。
 しかし彼の言葉を遮ったそれには強い意志が込められていた。

「も、勿論。あるよ」

 何処か冷たい光を宿した瞳に見据えられ、思わず眼を逸らしてしまった。
 それでもどうにか覚悟がある事は答えた。

「本当に覚悟があるのね?」
「う、うん」
「例え力を手に入れたとしても全てが上手くいくとは限らない」
「……分かってるよ……」
「助けられなかった人を助けられるかもしれない。でもその逆の可能性だってある。もっと辛い目に逢うかもしれない」
「………………」
「それに……」

 言葉を切り、レイはシンジの方へと振り返る。
 シンジは完全に顔を俯かせていた。彼の右手は閉じたり開いたりと落ち着きがない。
 レイは一度忙しなく動き続ける右手に眼を遣って、告げた。

「あなたはもう……ヒトではないわ」
「……っ!?」
「正確に言えば純粋なヒトではない、ね。今のあなたにはS2機関の様な物が備わっているの」

 何も反応を返さないシンジにレイは眉を顰めたが、すぐに戻して説明を続けた。

「あなたのコレは私達使徒のコアと違って酷く中途半端な物なの。確かに普通の人間とは比べものにならないくらい──それこそ永遠に程近く生きていられる。けどそのためには……」

 食事や睡眠、酸素等等──とにかく人間に必要な物が挙げられていく。
 シンジの肉体には使徒の持つコアと酷似した物が備わっているが、それを動かすためには今挙げられた物が不可欠なのだという。無論、使徒のコアにはそれらの物は必要がない。レイのコアもそうだが、基本的にコアは破壊されない限りエネルギーを供給し続けるからだ。
 正直シンジのそれはS2機関とは言い難い。

「ヒトではあるけど決してヒトではない。また、使徒ではあるけどやはり使徒でもない。どちらにも属しどちらにも属さない。中途半端で矛盾した存在──それが今のあなたなのよ」

 自分の存在についての説明が終わって、シンジはようやく顔を上げた。
 レイの赤い瞳と眼が合う。どうしようもなく心臓が激しく脈を打ち、冷たい汗が背を伝った。彼女の方が背が低い筈なのに、見下ろされている様に感じてしまい、すぐにまた顔を伏せる。
 彼のそんな姿を眺める彼女は特に何か感じ入った様子もなく、

「碇シンジは純粋なヒトではない。それでも碇君は世界を変える覚悟があるのね?」

 念を押す様にして訊ねた。
 彼女の言葉に今度はシンジの方が押し黙る番だった。
 純粋な人間ではなく、自分が使徒にも属している存在であるという事がどういう事か……シンジには分かっていた。
 彼がエヴァのパイロットとして所属していた組織ネルフはサードインパクトを未然に防ぐ為に、使徒を調査、研究、殲滅する特務機関である。
 今の自分がどこまでヒトと違うのかは彼自身よく分からないが、彼が使徒にも属す存在である事がネルフに知られる可能性は0ではない。
 仮にそうなった場合、碇シンジは殺される。
 人類の敵──使徒として。
 人間の姿をしていようがそんな事は関係ない。事実、どこからどう見ても人間にしか見えなかった第17使徒『タブリス』──渚カヲルは殺された。

(……僕が、この手で殺したんだ……)

 手のひらに爪が食い込むのにも構わず、強く手を握り締める。
 渚カヲルをシンジは初号機の手で握り潰して殺した。無論、初号機とシンクロしていたシンジにはその感触が伝わっていた。
 その時の感触が蘇る。シンジはその感触から逃れるために握り拳を作る手に更に力を込めた。血が僅かに滲む。それでも力を緩める事はしなかった。
 ヒトでもあり、使徒でもあるという事はつまり──正体に気づかれた瞬間、それまで守ろうとしていた人達がシンジを排斥する存在へと変わってしまう、そういう事だ。
 レイが言いたい事、覚悟を問うその理由が彼には嫌でも理解出来てしまった。
 さっきは簡単に言えた肯定の言葉が出てこない。彼女に何て答えればいいのか直ぐには思いつけなかった。

『君は何もしないまま、このままで良いの?』

 夢の中で出逢った男の子の言葉が頭の中を過ぎった。
 その言葉にシンジは胸の内で首を横に振る。
 このままで良いはずがない。出来る事があるのに、何もしないままで良いはずがない。

「……僕自身が決める。後悔、しないように」

 夢の中でも呟いた言葉を、改めて、心に刻み付ける様にして口にする。
 そうして、一度大きく息を吸ってゆっくりと吐き出す。胸の内に溜まっていたモヤモヤとした物が息と一緒に出ていった様に感じる。
 自分の心を後押しする様に男の子の言葉を噛み締める様にして念じ、決意を固めて面を上げた。
 僅かにも揺れずに直立したレイの姿が眼に入る。再び彼女と眼が合ったが今度は顔を逸らさずにしっかりと見据えた。

「どうやら答えが出たようね。碇君の答えを聞かせて頂戴」

 レイの言葉に頷いて、シンジはゆっくりと口を開いた。

「綾波。正直に言うとそういう覚悟は……ない、んだ」

 そんな風に切り出したシンジにレイは眉を顰めるが、何も言わずに先を促す。

「人間じゃない僕は、もしかしたら父さん達に殺されるかもしれない。そう思うと、恐くて、何もしたくないって思ったんだ。でも……」
「でも?」
「それ以上にあの赤い世界が嫌なんだ。LCLの、血の臭いがするあの世界が、アスカや綾波やミサトさん、トウジやケンスケ、それに……父さんも。ヒトが、皆が居ない世界が嫌なんだ。だから、僕は世界を変えたい。綾波が言うように、全部が全部上手くいくとは限らないし、もっと酷い結果が待ってるかもしれない。覚悟なんて出来てないけど、それでも……もう何もしないで後悔はしたくないんだ!」

 今の正直な気持ちを言葉にしたシンジは父の制服を身に纏ったレイの言葉を静かに待った。
 レイは言葉もなくシンジの瞳をジッと見つめていた。瞳を通して心の中を見透かされている様な気分になる。更に、着ている服の事もあってその姿が何処か父と重なる。そのせいで緊張が更に高まった。
 そうしてどれだけの時間が経ったのか──シンジには正確な時間は判らなかった。時計なんて物はなかったし、高まった緊張感のおかげで時間感覚が狂っていた。月並みな表現で言えば、たった1分程度の時間が1時間以上にも感じられた。

「碇君の考えは分かったわ」

 沈黙に耐え切れず、声をかけようとしたシンジの声を遮る様にしてレイは言った。
 感心した様な、呆れた様な──シンジには後者の割合の方が多く感じられた──息を吐いて腕を組む。

「覚悟なんて無いのに適当な事を言われるよりはよっぽどマシだった。良いわ。碇君に力の使い方を教えてあげる」
「ほ、本当に?」

 戸惑いに喜びを含ませた様な声を上げるシンジに、レイは大仰に頷いた。

「ええ。まあ、本当は最初から教えるつもりだったけど」
「……そんな、じゃあもし僕が世界を変えなくても良いとか言ったらどうするつもりだったのさ?」
「そんな事をほざいていた場合は……」

 レイは口悪く言って、転がっていた拳大の石を拾い上げて高く放り投げた。
 投げられた石が落下を始めた。レイは少し下がって右腕を伸ばし、その中指を曲げてそれを親指で支えた──所謂デコピンの構えである。レイはカッと眼を見開き、中指を支えていた親指を離した。支えを失った中指が石に向かって撥ね上がる。中指は狙い違わず落下してきた石へと命中した。
 パン! と風船が割れた様な、石から発せられた音とは到底思えない破裂音がシンジの鼓膜を震わせた。

「私の世界最強のお兄さん指が炸裂していたでしょうね」

 フッと石を粉微塵に打ち砕いた中指に息を吹きかけ、レイはニヤリと笑った。
 自慢気に言い放たれた言葉にシンジの頬を冷たい汗が伝う。それはゆっくりと彼の顎までの輪郭をなぞると静かに地面へと吸い込まれていった。
 シンジの脳裏を1つの光景が過ぎる。
 ──吹き飛ばされる頭部、噴き上げる血潮、充満する鉄錆にも似た血の臭い。
  それは今とは違う答えを出していた場合に起こり得た未来。
 それは諦めてしまった場合に訪れたであろう結末。
 それはif──在り得たかもしれないもう1つの可能性。

「あ、あはは……」

 顔を引き攣らせ、乾いた声で笑う。ガクガクと彼の膝はどうしようもなく震えていた。
 レイはそんなシンジの姿を見て、笑みを深める。
 そして……全てを受け入れる様に大きく両手を広げた。

「碇君。今日からあなたにATフィールドの使い方を教えてあげる。私は師匠あなたは弟子。さあ、始めましょう。楽しい修行を……」

 彼女の紅い瞳が鈍く光った様に感じてシンジにはならなかった。











 空洞の中、2体の巨人が片膝をついて、騎士の様に跪いた格好で向かい合っている。
 碇シンジと綾波レイはそれぞれ別々の巨人の肩へと上り、片手を巨人の首へと添え、眼を瞑った。

(ATフィールド展開)

 声には出さずにシンジは呟いた。
 胸の奥で何かが脈動し、身体中を燃え滾る様な熱気が包み込んだ。しかしその熱は直ぐに引いていき、力が漲ってきた。
 シンジはATフィールドを巨人の全身へと流し込むイメージを頭に描く。

(シンクロ・スタート)

 自分の身体が大きくなっていく様な、自分が巨人になっていく様な不思議な感覚。エヴァンゲリオンに乗っている時と同じ感覚を覚える。
 巨人の瞳に光が灯り、ゆっくりとした動作で立ち上がった。
 全長はおよそ6メートル程。シンジの乗る巨人は紫色の装甲を身に纏い、頭部には角の様な物が生えている。シンジが乗っている巨人──ロボットはエヴァ初号機をそのまま小さくした様な姿をしていた。
 対してレイが乗っているロボットは、大きさはシンジのそれと変わらない。ただ、装甲は青く、紅い単眼が特徴的である。彼女が乗っているそれはエヴァ零号機の姿を模していた。

「シンクロ完了。いくよ、綾波!」
「かかって来なさい」
「……初号機っ!」

 シンジを乗せた紫色の巨人が青い巨人へと駆ける。
 シンジはロボットのイメージ通りの動きに満足し、レイを睨みつけた。青いロボットの左肩に乗った彼女はその顔に余裕の表情を浮かべ、悠々たる態度で佇んでいる。
 そんな自分の事など歯牙にもかけていない様子にシンジは悔しげに歯噛みする。彼は次の動きを頭に描いて初号機の走るスピードを上げる。
 初号機が右腕を振り上げた。そして、初号機は勢いに乗った拳を青いロボットの顔面へと突き出す。
 しかし、放たれた拳をレイの乗るロボットは軽く身を引くだけの動作で簡単に避けた。
 レイは拳によって生じた風のうねりに蒼銀の髪を揺らしながら、小さく口の端を歪めて囁いた。

「零」

 零と呼ばれたロボットの単眼に光が灯る。零は伸ばされたままの初号機の腕を掴んで引き込み、がら空きの胴体目掛けて膝を叩き込んだ。情け容赦ない、全力を込めた膝蹴りだ。
 初号機が身を折る。左肩に乗ったシンジが腹部に手を添えて顔を歪めているのがレイには見えた。エヴァと同様にシンクロする事で初号機を動かしているため、ダメージがシンジにも伝わっているのだ。
 レイは痛みに悶えるシンジから動きを止めた初号機へと視線を移す。決定的なまでに隙だらけだ。彼女は不機嫌そうに眼を細めて意識を集中させた。
 零の右腕。
 その肘から手の先にかけてがオレンジ色の光に包まれていく。

「しまっがあぁぁあ!?」

 シンジが言い終えるのを待たず、零の光り輝く右腕が初号機の頭部を掴み上げた。ギチギチと頭部の装甲が軋む音を立てる。
 無論、頭部を掴まれている感覚はシンジにも伝わっている。
 シンジは頭を握り潰されそうになる感覚に左手で頭を押さえる。奥歯を噛み締め、開いた口の端から獣が唸る様な苦しげな声を漏らす。
 激痛に耐えるシンジを眺めているレイは、初号機を掴み上げている零の手に更に力を込めた。零が掴んでいる辺りからとうとう亀裂が走り始めた。

「シ、シン、クロ……カット……」

 息も絶え絶えに言ってシンジは初号機とのシンクロをカットした。
 流れ込んできていた痛みがフッと消え──瞬間、零によって初号機の頭部は握り潰された。
 赤い、血なのかオイルなのかよく分からない液体がダクダクと溢れ出し、地面に溜りを作っていく。
 咄嗟に自身を覆う様にATフィールドを展開して、雨の様に降りかかって来たそれから身を守る。次いで、脚に意識を集中して跳躍力を高めた。液体の届いていない処に飛び降りる。上手く着地して、シンジは身体を覆っていたATフィールドと脚力の強化に使っていたATフィールドを消した。そうして初号機を振り返って……背筋が寒くなった。
 ひしゃげた頭部。全身を染める赤い液体。当分は肉を食べたくなくなる様な光景だ。
 もしもシンクロをカットするのが遅れていたら──。
 想像したくはないが、恐らく彼自身も同じ末路を辿っていただろう。
 シンジは零の上からこちらを見下ろしているレイを睨め上げる。

「鍛錬は終わったわ。食事にしましょう」

 レイは彼の恨めしげな視線にフンと鼻を鳴らして返した。
 零の上から、危なげなく、音も立てずに舞い降りてレイは空洞の隅に立てられた小屋へと歩いていく。シンジを振り返る様子はない。
 そんな彼女の後ろ姿にシンジは溜め息を1つ。諦念が多分に込められたそれは、空しく空洞の中に響いた。

「早くご飯作らないと。綾波の機嫌が悪くならない内に」

 だが、いつまでも気落ちしてなどいられない。
 気を取り直してシンジは小屋に向かって小走りに走り始めた。











「うっ……」

 眩暈がして、急に激しい疲労感が襲ってきた。
 ネギを刻む手を止めて、瞼の上から眼を揉む。疲労はすぐに引いていった。
 いつもの事である。ATフィールドの力を複数同時に使った時は……。
 碇シンジは純粋な人間ではない。かと言って使徒であるのかと言われればそれもまた違う。
 S2機関に似た何か──呼びにくいのでレイとシンジは『リリン』もしくは『L機関』と呼称している──をその身に宿し、ATフィールドを扱う事が出来る存在。
『半人半使徒』
 この言葉が碇シンジという存在を評するのに最も相応しいだろう。
 しかし、ATフィールドが使えるといってもシンジは純粋な使徒程にはそれを使いこなす事が出来ないでいる。
 それはシンジの持つL機関にこそ原因があった。
 L機関は人間にとって必要なものを最低限摂取していればエネルギーを供給し続ける。エネルギーの供給を受け続けている限り、シンジは永久に程近い時を生きる事が出来る。
 ただ、そのエネルギーは生き続けるのに必要なものであって、それ以上の──ATフィールドを使う際に必要なエネルギーは通常精製されていない。
 ではATフィールドの、使徒としての力を使う場合のエネルギーはどうしているのか?
 それは力を使っている間、L機関の働きが活発化して余剰エネルギーを作り上げているのである。
 そのためATフィールドを使っている間──L機関の働きが活発している間は問題はない。しかし、力を使わず、L機関の働きが落ち着いたものになると反動が襲ってくる。
 急激な疲労や眩暈、酷い時には身体中に激痛が走る。
 今日はATフィールドを壁状に展開したのと同時に、身体能力の強化にも力を使った。その反動だ。
 とはいっても、以前に比べれば随分とマシになった。今でこそ2つ以上の力を同時に使用すると反動が襲ってくるが、ATフィールドが使える様になった頃は、壁状に展開するだけで酷い疲労感と痛みが襲ったものだ。その事を思えば、随分と成長したと言えるだろう。

「鍛錬の後に食事の準備をするのはやっぱり辛いな。けど、綾波に文句を言った処でこれも修行の内だって言うだろうし……」

 愚痴を零してネギを刻んでいた物へと眼を遣る。
 刃渡り17cm程のそれは包丁ではない。それは得物ではあるが刃物ではなく、更に言えばそれは料理に使う物ですらない。
 シンジが包丁代わりに使っていた物は──木刀。ただ、それは普通の木刀ではなく、レイから貰った伸縮自在の如意棒が如き木刀である。
 とはいっても、それ以外はいたって普通の木刀である。当然そのまま使った処で食材は切れない。調理に使う際は刃の部分にATフィールドを纏わせて使う。
 力を使った反動を少しでも減少させるなら、普段から力を使って身体を慣らしておくのが良い──というのがレイの弁である。それもまあ尤もだとシンジは包丁代わりにこの木刀を使っている。使い始めた頃こそ大変だったが、これがまあ慣れてくると意外と使いやすい。刃こぼれはしないし、ATフィールドを刀身に纏わせているから臭いはつかない。今ではこの如意棒ならぬ如意木刀が手放せなくなっている。

「欲を言えば、この物騒な文字がなければもっと良いんだけどな」

 刀身の両面に眼を走らせれば『滅殺』『撃滅』『見敵必殺』『極楽往生』『南無阿弥陀仏』『頑駄無』等々の文字が見える。
 レイに渡された時既に刻み込まれていた事を考えれば、彼女がこれを造った際に入れた文字なのだろう。
 文字を入れるのは良いがもう少しまともな文字を入れられなかったのかと溜め息が漏れる。

(今更だけど……変わったよね、綾波は)

 調理を再開。淀みなく手を動かしながら、思考は以前の彼女と今の彼女とを比べている。
 以前の、共に使徒と戦っていた頃の彼女は、無口で感情表現に乏しく、悪く言えばよく分からない、良く言えば神秘的な少女……というのがシンジの印象だ。
 対して今の彼女はと言えば、以前に比べれば口数は増えて表情も豊かになったが、それは無茶苦茶な内容だったり、笑った時も何処か邪悪なものだったりで、意味不明、理解不能……という印象が強い。

(あれ?)

 どっちもよく分からないのは変わらないではないか、と首を傾げる。

(根本的には変わってない……のか?)

 そうやって頭の中で疑問符を浮かべている間に朝食の準備は終了した。
 食事は外でする事になっているので、2人分の朝食をトレーに載せる。
 見た目は小さな木小屋なのに中は異様に広いという不可思議な家の中を進んで外へと出る。
 眩しい光がシンジを照らした。朝の鍛錬の時より強い光を放つ物体を眼を細めて見上げる。

(今日も輝いてるな……アラエル)

 太陽の代わりにとレイが作り出した光球──それが『人工太陽アラエル』である。
 惣流・アスカ・ラングレーの心を犯した光が今日も燦々と輝いている。第15使徒『アラエル』程の力は無いとはいえ、正直な処かなり不快だ。
 しかしこれも修行の内だと納得している。少しでも反動を少なくするためには仕方が無い。

「……………」

 軽く息を吐いて意識を集中。
 降り注ぐ光の効果を遮断する様イメージしてATフィールドを身体全体に纏わせる。
 力の質は随分違うがこの光もATフィールドである事に変わりない。ATフィールドを上手く使えば心を読まれるのを防ぐ事が出来る。
 けれど、未だ力が未熟なシンジは完全に光の効果を遮断する事は出来ないし、余り長い時間力を使い続けていると後の反動が恐い。余りゆっくりと外で食事してはいられない。
 ちなみに──。
 ATフィールドの力を使った鍛錬は外で行われ、当然その間は人工太陽アラエルの光に晒されている。前述した通り複数の力を同時に使うと反動が凄い事になるため、修行で外に出ている間はこの光に対して何の防御手段も講じていない。そのためシンジの動きは逐一レイに読まれ続け、シンジは未だ模擬戦やら組み手やらで勝利した事がない。人工太陽アラエルとシンクロすればシンジもレイの思考を読む事が出来るのだが、彼は直接触れているものでなければシンクロ出来ない。黒星はたまる一方である。

「あー」

 別に自分が勝てないのは人工太陽アラエルのためではない。レイがシンジに比べて余りに強すぎるのだ。
 シンジ自身それは理解している。しているが、やはり一度も勝てないというのは気分良いものではない。
 呻く様な、溜め息の様な声を漏らし、プライバシーなど知った事かとばかりに輝き続ける人工太陽アラエルを睨みつけて、空洞の奥、畳みの敷かれた一画へと向かう。

「遅い」

 シンジの姿を認めたレイは卓袱台の上に湯飲みを置いて言った。

「あー……うん、ごめんなさい」

 彼女の後ろでディラックの海に飲み込まれていく初号機を極力見ない様にして答える。助けを求める様にして天に伸ばされた右腕が哀愁を漂わせている。
 その光景に、次こそはもっと上手く──廃棄処分されないぐらいには──動かせる様になるからと、シンジは密かに誓う。心の中でビシリと敬礼して初号機の最後を見送る。
 初号機を完全に飲み込んでディラックの海が消えた。シンジは靴を脱いで畳へと上がり、レイの前に朝食を載せたトレーを置く。そうして彼女の向かいに腰を下ろして手を合わせた。レイもシンジに倣う。

「いただきます」

 声を揃えて言って食事を始める。
 トレーに乗っているのはご飯、味噌汁、納豆、お新香──と純和風。シンジは可もなく不可もなくといった様子で箸を進めるレイを見遣り、味噌汁に口を付けた。満足そうな笑みを浮かべて頷く。今日も美味しく出来ている。
 レイ曰く『師匠の食事を用意するのは弟子の務め』という事で、如意木刀で食材を刻めるようになる前から食事の支度はシンジの役目である。1日3食。3年間1日も欠かさずに料理を作り続けてきた。レイが味にうるさい事もあって、彼の料理の腕前は家庭料理の域こそ出ないが、以前とは比べものにならない程に上達していた。サードインパクトを防ぐ事が出来たら本格的に料理の修業をしたいと彼は思っていた。

(自分のお店を構えられたら幸せだろうな……)

 レイと他愛ない話をしながらそんな事を思うシンジ。
 だからというわけでもないだろうが、次の彼女の言葉には思い切り不意をつかれた。

「あ、碇君。世界を変えに行ってもらうから。今日にでも」
「──ブハッ!?」

 思わずシンジは味噌汁を噴き出した。それは、とんでもない事を発表したにもかかわらず、変わらぬ様子で食事を続けていたレイの顔面へと噴きつけられる形となった。
 流石に彼女の箸の動きが止まる。箸の先端から、白い顎の先から、髪の毛先から……ポタポタと味噌汁の雫が零れて落ちる。
 シンジの顔から血の気が引いた。彼は青い顔をしてワタワタと手を振り、震える口から謝罪の言葉を──

「──ひっ!?」

 紡ぐ事が出来なかった。
 レイの顔から白い湯気がユラユラと立ち上る。味噌汁で濡れていた服が一瞬にして乾いて──彼女の身体を紅蓮の炎が包み込んだ。
 燃え盛る炎の熱気に腕で顔を覆い、お尻を畳みに付いたまま後退る。立ち上がる余裕など彼には無かった。
 ATフィールドの状態変化。シンジには未だ到達しえない力の領域。綾波レイは、その気になればATフィールで雷だって造り出せるだろう。

「殺気はおろか攻撃の意思すら感じられなかったから油断したわ。碇君、随分と舐めた真似するように──いえ、成長したじゃない」

 綺麗な、けれど酷薄な微笑を称えてシンジへと近づいていくレイ。
 卓袱台が燃える。一瞬にして灰へと変わった。

「でも、ダメよ。食べ物を粗末にしては……。なってない、なってないわ」

 全身に纏っていた炎が身体の一部へ──彼女の背中へと収束していく。

「躾のなってない奴は……私が叩き直してあげる」

 頭に鉢巻でも巻きそうな勢いで言った。
 瞬間、背中に収束していた炎が左右へと大きく広がり、彼女は紅い翼をその背に生やしていた。











「はいこれ」

 レイは新しい卓袱台の上に細長い、長方形の木箱を置いてシンジへと差し出した。
 彼は未だに痛む身体を擦っていた手を止めてそれを受け取る。不思議そうな顔をして木箱を開けた。
 中に入っていたのはロザリオで、紫色のクロスの中心に埋め込まれた紅玉が特徴的ではあった。
 チェーンを摘んで顔の前に持ってくる。
 ロザリオだ。至って普通のロザリオである。奇天烈な文字が刻まれているわけでも絵が描かれているわけでもない。如意木刀の事を思えば、何か変な細工がされているだろうと思ったのだが。

「失礼ね。真ん中の石を付けただけで別に碇君が思っているような細工はしてないわ」
「ご、ごめん。えと、じゃあこれは、何?」

 半眼で睨まれてシンジはおずおずとした様子で訊ねる。
 レイは肘をつき、口元を隠すようにして腕を組む。そうして肩を軽く竦めて応じた。

「お守りみたいなものね。これから世界を変えに行く碇君への」
「じゃあ、やっぱり本当に世界を変えに行くって事だよね」

 訊ねる声には些かの興奮と戸惑いが含まれていた。
 ここに来てからの3年間、そのために彼は修行を続けてきたのだから否が応でも興奮するだろう。ただ、何故今日突然に──という疑問も在った。
 そんなシンジの心情などレイには判っていた事だろう。そもそもアラエルがあるのだし。
 だが、彼女はその事について何も話そうとはしなかった。

  「それじゃあこれを首に」

 卓袱台の上にチョーカーを置いてシンジに着けるように彼女は言った。
 言われた通りにチョーカーを首に着けた。そうして喉元に手を当てる。冷たい、硬質な感触。青い石がチョーカーには付けられていた。
 シンジは何も言わずにレイを見遣った。彼女の事だから、このチョーカーには何か意味があるのではないかと思ったのだ。ロザリオと同じくただのお守りか何かなら、別に後から出す必要もない。
 レイは彼の言わんとする事が理解出来たようだった。ポーズを崩さぬまま静かに答えた。

「碇君にはその石とそこにあるアレを使って世界を変えに行って貰うわ」

 紅い瞳がシンジから逸らされて横に流れる。
 此処に来た時からずっと在った箱の様な物体へと彼女の視線は注がれていた。

「アレって何なの? ずっと此処に在ったよね? 今まで気になってはいたんだけど……」
「さあ、ね。ただ何かの演算装置の様な物だって事は分かっているわ」
「何かの演算装置……?」

 常日頃無駄に自信あり気なレイがあの箱の様な物体については明言しない。
 珍しいな、と思っていると今度は封筒が手渡された。
 糊付けがされて中に何やら紙が入っている。恐らく手紙か何かだろうと見当を付ける。

「これは向こうで開けて頂戴。今開けたら大変だわ」

 そう言って封筒を開けようとしていたシンジを止める。
 動きを止めてレイの様子を窺うシンジは、「大変って何が?」と訊ねたかったが、どうせ無駄だろうと口を噤んだ。
 そんなシンジを何処となく満足気に様子で眺めてレイは立ち上がった。
 シンジに手招きして箱の様な物体へと向かう。

「アレについては私もよく分かっていないの。何処の誰が一体何の目的で遺したのか」
「でも此処って火星だよね? もしかして、火星人とかが居たとかって事は……」

 イカだかタコだかよく分からない謎の生物を頭に浮かべながらシンジは言った。

 二人が住んでいるこの空洞は地球に在るものではない。実を言うと此処は火星である。
 シンジが火星にいる事を知ったのはディラックの海でレイに此処に連れてこられた次の日、自分のいる空洞が何処に在るものか気になって彼女に訊ねた時である。シンジに訊ねられたレイはやはり常と変わらぬ口調で「火星に在る空洞よ」と、さも当然といった様子で答えたのであった。
 それを聞いたシンジは当たり前であるが驚いた。彼の常識では火星に来る事は容易ではない。いや、むしろ不可能と言っても過言ではない。地球を襲った未曾有の災害──セカンドインパクト。これによる被害は凄まじく、その復興作業のため宇宙開発は全くといって進んでいなかったためだ。
 とはいうものの──。
 初めこそ驚いていたシンジだが、此処が地球だろうが火星だろうがどうでも良くなった。
 空洞の中では地球と火星の違いなど分からなかったというのもあるが、何よりも本格的な修行が始まったからだ。レイの修行はシンジの雑念を容易く吹き飛ばす程度にはスパルタがかっていた。
 まあ、本当の処どうでも良くなったというよりは考える余裕が無くなったといった方が正しいだろうが。


「さあ? だから言ったでしょう。私にも何も分からないって。そんな事より……始めましょう」

 肩を竦め、振り返って答えるレイ。
 シンジは緊張からか喉が渇くのを覚えた。言葉は紡がず、ただ一つ頷いて返す。
 そんなシンジの緊張を解す様にレイは彼の肩に左手を置き、もう一方の手でシンジの右手を取って箱の様な物体へと導き、彼の耳元に口を寄せた。

「手は添えたまま離さないで。ATフィールドを使ってそれと1つになるイメージをまず思い描いてみて」
「シンクロする時みたいに?」
「そうよ」

 指示された通りにイメージし、ATフィールドを展開する。
 身体の中、胸の辺りが熱を発しているの分かる。L機関の活動が活発化している。

「それで良いわ。それじゃあ、次はそれの一部を自分の中に取り込む様にイメージして」

 レイにはシンジの力の流れが見えているようである。
 上手く同調しているのを確認した彼女は新たな指示を出す。

「取り込む、様に……」

 しかし、そんな力の行使には慣れていないのか不安げな声を漏らすシンジ。
 レイはシンジの肩を掴む手に力を込めて、そんな彼の不安を取り除く様に優しく囁き掛ける。

「大丈夫、碇君なら出来るわ。だからしっかりとイメージを固めて。そうすればATフィールドはあなたの思い描く通りに動いてくれる」

 ATフィールドを使う上で最も重要な要素──それはイメージ。
 三年間の修行の中で毎日の様に言われ続けてきた言葉である。
 シンジは今一度その教えを心に刻み付ける様に念じ、箱の一部を自分の内に取り込むイメージを頭に描き上げる。

「……こいつの一部を、取り込む──っ!」

 声に出して叫んだ──その瞬間である。
 何かが身体の中に流れ込んでくるのをシンジははっきりと感じた。箱に触れた指の先から、腕を、体を、足先を、毛の一本一本までを何かが駆け巡る。
 シンジは眼を見開いた。
 形容のしようがない激痛が全身に走る。開いた口から堪えられずに声が漏れた。

「あ……」

 最後に擦れた様な声を残してシンジは音を立てて仰向けに倒れた。
 意識を失った彼を見下ろして、レイはその姿をつぶさに観察する。
 ピクピクと身体を痙攣させて、眼を開いたまま意味にならない呻き声を上げている。修行中にもよく見られる光景であった。
 問題はその容姿だ。さっきまでとは明らかに変わっている。
 全体的な印象は「白い」。肌などはいっそ病的と形容出来るほどである。髪も同様であるが、此方は光りの加減によって銀色にも見える。白銀髪といった様子だ。
まあ肌にしろ髪にしろまだ在り得る色合いではあった。
 しかし、見開かれ彼の瞳は金色に変化していた。通常在り得ない色である。その金色の瞳は彼の白い容姿の上で一際目立って見えた。

「ナノマシンが体内に入った事による変化かしら。まあ特に問題はないからいいけれど」

 ATフィールド使えば容姿ぐらい変えられるし、と顎に手を当てて頷く。
 実を言えばレイが教えたのは戦闘で役に立つぐらいのもので、容姿やらを変えられる事までは教えていないのだが。
 そんな事はすっかり彼女の頭から抜け落ちていた。
 レイは先程渡したロザリオやら手紙やらを落さないようしっかりと彼のポケットに押し込む。

「いきなり行かせてもちゃんと世界を変えられるかは分からないわよね」

 楽しそうに口元で笑ってシンジの傍に座り込む。彼の額に人差し指を当て、耳元に口を寄せて彼女は囁きかけた。

「碇君は別の世界へ行く。碇君は別の世界へ行く。碇君は別の世界へ行く。碇君は別の世界へ……」

 壊れたレコードの様に。住職のお経の様に。何度も何度も繰り返す。
 それはシンジの顔が苦悶の表情に歪み、彼女の言葉を寝言で一言一句違わずに復唱する様になるまで続けられた。

「始まったわね」

 箱が光りを放ち始め、チョーカーに嵌められた石もそれに呼応する様に輝き始める。
 それを見届けたレイは立ち上がるとシンジに向けて手を翳した。

「碇君には別の世界に行くように意識を向けさせたから……過去に行くのか未来に行くのかは分からないけれど、これで2015年には行かないはず。更にディラックの海を使えばその可能性は更に上がる……」

 初めて行うからであろう。そう言う彼女に明確な自信は無いようであった。
 ディラックの海がシンジを中心として広がる。影に飲み込まれていくシンジを眺め、レイは呟いた。

「あなたはどんな世界に行くのかしらね。まあどんな世界でも、滅多に死ぬ様な事は無いと思うけど」

 シンジを完全に飲み込んだディラックの海が姿を消していく。
 シンジはもうこの世界にはいない。だからこれ以上何を言っても彼には届かない。それでもレイは言葉を続けた。

「だって私の弟子なんだから」

 何処か誇らしげに言う彼女は綺麗に微笑んでいた。











 飲食店やら本屋などが立ち並ぶ商店街。
 時刻は既に深夜の2時を回っているため、アーケードの下に人の姿は無い。
 そんなどの街にもある様なありふれた商店街の中空に、何やら黒い影の様なものが突如として生まれた。
 その影からゆっくりと何かが吐き出される。
 人であった。夜の闇の中、疎らに並ぶ街灯の光に照らされてその人物の姿が露になる。白い肌に白銀髪──虚弱体質の様にも見えるその人は碇シンジであった。
 シンジを吐き出し、その役目を終えた影はその姿を消した。後に残るのはシンジただ1人。影の支えを失った彼は、当然アスファルト目掛けて落下した。

「ぎにゃっ!?」

 後頭部を強打。激痛と共に意識を取り戻したシンジは、後頭部を押させ奇声を上げながらのたうちまわる。
 秒針が1周りするだけの間転がり続けて立ち上がる。余程痛かったのだろう。眼の端にはちょっぴり涙が滲んでいた。
 痛みが引く。そうすると辺りに意識を向ける余裕が出てくる。
 近くに人の姿は見えないがそれは時刻によるものだろう。遠くから車やバイクの走る音やらが聞こえる。人のいる気配が在った。何より、LCLから漂う血の臭いがしない。

「戻ってこれたんだ──あ、そうだ手紙」

 此方に着いたら開ける様に言われていた。
 シンジはポケットから封筒を取り出して封を開け手紙を取り出した。

『碇君。あなたが今居る世界はあなたの知る世界とは縁もゆかりもない世界よ』

 最初の一行にいきなりそんな事が書かれていた。
 手紙を持つ手に力が篭る。グシャ、と音を立てて手紙に皺が出来る。
 破り捨てたい衝動を理性を総動員する事によって辛うじて抑え、続きを読み進めた。

『はっきり言っていきなり碇君を送っても上手く世界を変えられるとは思えないの。だから──』
「だから別の世界で更に修行に励みなさい──ってなんだよそれっ!?」

 真っ二つに手紙を引き裂く。それだけでは怒りは収まらず、ポケットに入れていた如意木刀にATフィールドを纏わせて切り刻む。
 丑三つ時。
 薄暗い商店街に、ブンブン、と木刀を振るう音が響く。縦に横に、何かに取り憑かれたかの如く木刀を振るうシンジの姿は恐怖以外の何ものでもない。
 ぜーぜーと肩で息するシンジ。これ以上無いまでに刻まれた紙片は風に乗って何処かへと消えた。

「……いよ……どいよ、綾波」

 俯いてボソボソと呟く声は呪詛の様で。その身体からは何か黒いオーラの様なものが立ち昇っている様な気さえした。
 そして、視線鋭くシンジは空を見上げる。その先に見えるのは商店街のアーケードばかりだが、彼の眼には確かに綾波レイの姿が映っていた。

「酷いよ綾波! 何で騙したりなんかしたのさ!? 幾らなんでも酷すぎる! 綾波は鬼だ、悪魔だ、タケシだ、貧にゅ──!?」

 思いついた罵詈雑言を片っ端から吐き出していたシンジは、背後から何かが迫ってくるのを感じて咄嗟に振り向いた。
 凄いスピードで迫ってくる黄金色をした金属製の物体。大型の洗面器といった様子のそれは余り見かける事こそないが、知らない物ではなかった。

(──何でタライが!?)

 それは正しくタライだった。
 それが何故か自分の顔面目掛けて飛来してくる。
 在り得ないというか訳の分からない出来事に思考が停止しかけるが、3年間レイと修行していただけの事はある。振り向き様に木刀を横薙ぎに払って攻撃を弾く。だが、シンジが初撃を避ける事は織り込み済みだったようである。タライの後ろに更にタライ。一回りサイズが小さい事もあってか全く気付かなかった。

「クッ、二段構え!?」

 木刀での防御が間に合わないと判断するや否やATフィールドを展開。オレンジ色の壁がシンジとタライの間に立ちはだかる。
 しかし──。
 シンジが展開した絶対領域をタライは容易く突き破り、勢いはそのままにシンジの顔面にクリーンヒット。
 その顔に驚愕の表情を、鼻からは血を噴き出しながらシンジは倒れた。

「あ、あやなみぃ」

 自分のATフィールドを軽々と打ち破り、タライなんて物を飛ばしてくる者など1人しかいない。
 ほくそ笑む少女の姿を頭に浮かべ、情けない声を上げてシンジの視界は暗くなった。



 こうして彼の別世界での暮らし初日は『タライKO』という結果で終わったのであった。








つづく
































あとがき



はじめまして、こんばんわ。今回Action様に初投稿しましたアンタレスです。
初めて書いたSSなのですが、少しでも楽しんでいただけたら嬉しい限りです。
まだ文章も下手で、読み辛い事があると思いますが、少しずつ上手になれるよう頑張っていきたいと思います。



あとがきver.2



 お久しぶりに過ぎるアンタレスです。半年以上も間が空いたにもかかわらず、投稿したのは改訂版です、すいません。
 随分前から改訂版に着手していたのですが全く進まず。PCのある部屋のクーラーが壊れたので進み具合は更に遅くなりました。
 今回の『赤い世界から送られし者』のプロローグですが、地の文を付け加えた結果今までで一番長くなってしまいましたが、大筋は変わっていません、多分。大きな変化といえば使徒の力がATフィールドで統一化(?)された事と、読みにくくなってしまったかもしれない処でしょうか。ちなみに以前のあとがきを残しているのは特に意味は在りませんです。
 恐らく──というか絶対次も改訂版ですが、恐らく──というか絶対また更新は遅いです。ごめんなさい。


 改訂版、それもプロローグで感想をいただこうとするのはおこがましいかもしれませんが、色々な方のご意見をお聞きしたいので……プロフェッサー圧縮様、感想よろしくお願いします。













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代理人の感想

それはひょっとしてギャグでやってるのか!?

(C)『魁!クロマティ高校』

 

 

・・・・・・・・・・いやだって、そんな感じですよ?(爆)

 

 

 

 

 

 


プロフェッサー圧縮inアミバー(レモン味)の「日曜劇場・SS解説」


ハイ、お久しぶりですね〜。プロフェッサー圧縮でございます(・・)

さて、今回はプロローグ&初期修行(非誤字)でした(゜゜)

このような「一見意味不明な修行を課す」と言えばベスト・キッドが著名ですが、元祖がなんであるかと言うと実は判然としないんですね。

恐らくは巨人の星系の「端から見ると謎過ぎる自主トレ」とアタックNo.1系の「過酷だけど内容は普通のしごきな鬼コーチ」が何処かで融合合体したと推測しますが、それが何時の何と言う作品であるかは寡聞にして存じません(゜゜)知っている方はご一報を。

・・・まあ、ここの綾波のばーい他に思いつかなかっただけーの気がしますが(爆)



さあ、次回作が楽しみになってまいりました(゜▽゜)機会があったら、またお逢いしましょう(・・)/

いやーSSって、ホント〜に良いものですねー。

それでは、さよなら、さよなら、さよなら(・・)/~~


                By 故・淀川長治氏を偲びつつ プロフェッサー圧縮