もし誰かが己の身の危険も顧みず、罪を犯してまで、
生命の危機から救ってくれたとしたら―――助け出された本人はどう思うかな。
自分のためにそこまでしてほしくなかった?
素直に感謝する?
私は半分半分だったかな。
私を助け出してくれた彼は、建物をいっぱい壊したし、人間もいっぱい殺した。
それが決して許されることじゃないのはわかってるけど、
私には彼を責めることはできない。
そもそも、責めようと思ったこともない。
私の中で私と彼は同罪。
だって、彼のおかげで、今もこうして生きていられるんだもん。
自分のために彼が手を汚したって思うのは傲慢かな?
でも、私が彼と同罪だと考える理由はそれだけじゃない。
彼の行為が自分のためであろうとなかろうと、
私は彼と一緒に罪を背負おうとしたはずだよ。
彼が苦しんでいる。
私が彼を支える理由はそれだけで十分。
どんな手を使ってでも、私は彼のそばにいる。
これだけは譲らない。
たとえ、さらに私が罪を重ねることになったとしても―――。
真っ暗だった視界がぼんやりと明るむ。
黒から灰色。
灰色から白へ。
ゆっくりと世界に色が戻ってくる。
それでも、目の前に広がる景色は相変わらずの白一色だった。
「ここは・・・?」
意識を取り戻したユリカは、とりあえず状況確認のために起き上がろうとした。
しかし、思うように身体を動かすことができない。
「んっ・・・!」
力を振り絞って上半身を起こそうとしても、
まるで自分の身体でなくなってしまったかのようにいうことをきかない。
仕方なく目だけを動かして辺りを見渡す。
どうやらどこかの病室に寝かされているようだ。
(確か、私・・・ルリちゃん達と別れてから・・・)
(アキトを追いかけて・・・)
(そっか・・・気を失ったんだ)
今に至る経緯をぼんやりと思い出していると、なにかが視界の端で動いた。
誰かが病室に入ってきたのだろう。
そして、その入室してきた誰かが、息をのむ気配が伝わってくる。
「ユ・・・ユリカッ!」
慌しい足音と一緒に、人影が視界に飛び込んできた。
だが、逆光のせいもあってぼんやりとした輪郭しか見えない。
声もよく聞き取れなかった。
にもかかわず、ユリカは迷わず彼の名前を呼んだ。
「アキト・・・」
「ユリカ!気が付いたか!」
「私・・・一体・・・」
「気を失ってから、一週間も眠っていたんだ」
「そんなに?」
「ああ。でも、よかった・・・本当に」
アキトは心底安堵して大きく息を吐いた。
その顔は眩いほどに光り輝いている。
一方のユリカは、表情一つ変えない。
頬の筋肉も弛緩してしまっているのか、焦点の合わない瞳でアキトを見上げていた。
「アキト・・・私は・・・」
「喋るな、ユリカ。今はゆっくり休むんだ」
アキトはユリカの髪を撫でるように、そっと額に手を置いた。
精一杯の優しさと労わりのこもった彼の仕草に、
ユリカは表情こそ変えなかったものの、大人しくまぶたを閉じた。
ほどなくして、彼女の口からは規則正しい寝息がもれ始める。
当初、彼女の身体に刺さっていた無数の管は、片腕の点滴一本にまで数を減らした。
かつての目を背けたくなるような痛々しい姿はないにしても、
記憶にある彼女よりは、かなり痩せ細ってしまっている。
それでも、アキトの安堵に変わりはなかった。
主治医の話では、一旦意識を取り戻せば安心、ということだった。
しばらく彼女の落ち着いた寝顔を眺めてから、ゆっくりと立ち上がる。
これで本当に思い残すことはなにもない。
踵を返し、最後にユリカのベッドを一瞥してから、アキトは静かに病室を後にした。
再びユリカが目を覚ましたとき、目の前にいたのはイネス・フレサンジュだった。
「あら、おはよう。調子はどうかしら?」
気楽な調子で顔を覗き込んでくるイネスに、ユリカは頬を緩めた。
今度は笑うことができた。
身体を起こすこともできそうだった。
両手をベッドにつき、ゆっくりと起き上がってみる。
「イネスさん・・・私は、また・・・?」
「そうね。意識を取り戻してから、三日ほど経過しているわ。
だいぶ体力は戻ってきているみたいね」
イネスはユリカの顔色を窺いながらうなずいた。
そんなイネス自身もまた病人のような青い顔をしている。
目の下にはくま。
なんでもないように振舞っているものの、相当疲労が溜まっているのは明らかだ。
原因は尋ねるまでもない。
食事や睡眠の時間を惜しまず、懸命にユリカを看病していたからである。
「ありがとうございます、イネスさん」
「お礼を言われるようなことはしていないわ。
医者が患者を治すのは義務よ。
それに―――」
イネスは悔しげに顔をしかめた。
「私はその義務さえ果たせていないのだから・・・」
「そんなことありません。
前よりもよく見えますし、イネスさんの声も聞こえます。
よくなってるのは間違いありませんよ」
他人のことを気にしている余裕はないはずだが、ユリカは至って明るい調子で言った。
彼女の顔には、とても自然な笑顔が浮かんでいる。
落ち込んだイネスに気を使っているのではなく、
本心から具合がよくなっていることを喜んでいるのがわかる。
裏表のない笑みを向けられたイネスは、余計にいたたまれない気持ちになった。
同時に、自分の無力さに腹が立つ。
元どおりとはいかなくても、普通の生活を難なく送れるようにしてあげたい。
そう思って、つきっきりで治療を続けてきたが、
いまだに彼女の健康状態は健常者のそれに達していないのだ。
だが、さじを投げるにはまだ早い。
アキトには完治とはいかないまでも回復の見込みがあるのだから、
ユリカの症状にも改善させる手立てがあるはず。
俯き加減になっていた心を奮い立たせ、イネスはぐっと拳を握った。
「もう少し時間をちょうだい。
必ず私がなんとかしてみせるわ」
「頼りにしてます」
「本業は科学者だけど、任せなさい。
アキト君のほうも着実によくなってはいるのだから、
あなたもきっと回復するはずよ」
そう言い切ってから、イネスは、しまった!と口を覆った。
ついうっかり禁句を口にしてしまったのだ。
「アキト?」
案の定、ユリカは敏感に反応を示した。
「そうだ。アキトはどうしているんですか?
どこにいるんですか?」
「彼は・・・別の部屋で養生してるわ。
まさか会いにいくとか言わないでしょうね?
残念だけど認めるわけにはいかないわよ。
あなたはまだ動き回れるような体調じゃないのだから」
「はい・・・」
ユリカは残念そうだったが、大人しくうなずいた。
いつもの力強さがないのは、自分でも自分の身体の調子を理解しているからだろう。
イネスはそんな彼女を慰めるように微笑んだ。
「大丈夫。そのうちアキト君のほうから来てくれるわよ」
「本当ですか?」
「え、ええ・・・本当よ。
そのときに少しでも元気な姿を見せてあげられるように、
あなたは身体を治すことだけに専念なさい」
「はい。そうします」
「じゃあ、注射をうたせてもらうわね。
リラックスしてて」
イネスはユリカの腕をとり、さっと消毒を終えると、淀みない動作で薬剤と注入した。
「なんだか・・・眠くなってきました・・・」
「大丈夫。薬が効いてきただけよ」
「そう・・・です、か」
ユリカは何度か重たそうに瞬きをしてから、睡魔に抗えずに目を閉じた。
すぐに、すうすうと静かに寝息を立て始める。
ゆっくりと安定した呼吸を繰り返しているのを確認してから、
イネスは空になった注射器を眺めた。
「まったく・・・損な役回りだわ」
一言ぼやいて、深い眠りに落ちているユリカを、申し訳なさそうに見下ろした。
(ごめんなさいね)
と心の中で謝罪する。
再度、ユリカが眠っているのを確認してから、イネスは部屋の入り口を振り返った。
「もう入っていいわよ」
扉に向かってそう言うと、静かに一人の男が入ってきた。
アキトである。
事情があって、イネスに頼みごとをしに来たのだが、
タイミング悪くユリカが目を覚ましそうだったので、慌てて部屋の外に出ていたのだ。
「これでよかったのね?」
イネスは先ほどユリカにうった注射器を、アキトに見せた。
「これまでいろいろとあなたの我儘を聞いてきたけど、今回のが一番気が重いわ」
「すまなかった」
「別にいいわよ。今さら憎まれ役の一つや二つ。
頼まれたとおり、彼女には薬で眠ってもらったわ。
少なくとも二日は目を覚まさないはずよ」
「ありがとう」
「・・・アキト君。きっと彼女は悲しむわよ。
もしかしたら、かんかんになって怒るかもしれないわね」
「わかっている。
でも、面と向かって言ったら、絶対ついて来るって言うに決まっているからな」
「まあ、それはそうでしょうけど、
後で説明しなくちゃいけないこっちの身にもなってほしいわ。
遅かれ早かれ、あなたがいないことには気付くんだから」
イネスは恨めしげにアキトを睨んだ。
刺すような視線で言外にいろいろと訴えられて、アキトは逃げるように目を伏せた。
「申し訳ないと思っているさ。
本当にありがとう」
「あなたの行動が彼女を思ってのことだということは理解しているつもりよ。
今さらなにを言っても無駄でしょう」
イネスは諦観混じりの溜息をついて、肩をすくめる。
アキトは深々と頭を下げた。
「こいつのこと、よろしく頼みます」
それだけ言い残して身をひるがえし、入ってきたときと同じように、静かに退室していく。
その背中に向かって、イネスは、ぽつりとつぶやいた。
「あなたの決断が、本当に彼女にとっていいことかどうかはわからないわよ」
もちろん、アキトの耳には届いていなかった。
一人病室に立ち竦み、閉じられた扉をしばらくほんやりと見つめる。
やがて、イネスは、やれやれとばかりに首を振った。
「どっちが意地っ張りなんだか・・・」
「あははは!」
私はお気に入りの洋服を身にまとい、花畑で軽やかにステップを踏む。
「アキト〜!
アキトはどこへ行きたいの〜!?」
そう呼びかけると、彼はいつものように振り向きざまに答えてくれた。
『火星極冠遺跡』
「ア〜キ〜ト〜!」
私は何度も何度も彼の名前を呼ぶ。
そして飽きもせずに、同じことを問いかけた。
「アキトはどこへ行きたいの〜!?」
彼のほうも、いつもどおりに答えてくれると思った。
だけど―――。
『・・・』
彼はこちらを向いて、悲しげに微笑むだけだった。
「ッ!?」
ユリカは、ぱちりとまぶたを開いた。
しばらく呆然と目を瞬かせる。
「今のは・・・夢?」
うわ言のようにつぶやいて、きょろきょろと辺りを見渡す。
以前となんら変わらぬ病室だった。
(なんだろう・・・この胸騒ぎ)
ユリカはどうにもじっとしていられなくなり、ベッドの上に身体を起こした。
なんとなく前より身体が軽くなっている気がしたが、それでもまだまだ全快にはほど遠い。
ベッドから降りようとして、もぞもぞと身じろぎしたところで、
タイミングよくイネスが入ってきた。
「あ、イネスさん」
ユリカと目が合った瞬間、イネスは驚いたように目を見開いた。
「あ、あなた・・・目が覚めたの?」
「え?ええ、まあ。
今度はどれくらい眠ってたんですか?」
「ええっと・・・い、一日も、経ってないんじゃないかしら?」
どうにも落ち着きのない口調で答えて、イネスは目を泳がせる。
その不自然な態度を目にしたユリカは、さらに胸をざわめかせた。
先ほどの夢のことが思い出される。
遺跡と繋がれていた頃に、ずっと見続けていた夢。
助け出されてからはすっかり見なくなっていた。
(それが今になってなんで?)
ユリカは言い知れない胸騒ぎに駆り立てられて、アキトの行方を尋ねた。
「アキトはどこにいるんですか?」
どうしてそれが気になるのか、自分でもよくわからなかったが、
今すぐ問いただすべきだと感じたのだ。
アキトの名前が出た途端に、イネスは表情を強張らせる。
「さ、さあ?・・・今日は見ていないわね」
あからさまなイネスの狼狽振りに、漠然としていたユリカの不安が、
徐々にはっきりとした形となって浮かび上がってきた。
彼は近くにいないようだ。
では、一体どこへ行ってしまったというのか。
(答えは・・・あの夢?)
根拠もないのに、ユリカは確信した。
「火星の遺跡ですね。
アキトは極冠遺跡に行ったんでしょう」
すっと目を細めて、抑揚のない静かな口調で尋ねるユリカ。
平素の朗らかな彼女とは別人と思えるほどの真剣な表情が、
締め付けられるような緊張感を感じさせる。
イネスは自分の迂闊だった反応を悔いた。
素知らぬ顔で受け流すこともできただろうに、
肝心なときに動揺を表に出してしまうとは。
しかし、ドライな性格の彼女が容易く揺さぶるほどに、
彼女の早い目覚めは想定外のできごとだった。
加えて、アキトの向かった先を言い当てたことも不思議でならない。
「アキトは火星の遺跡に行ってるんですね?」
ユリカは確認を求めるように繰り返した。
彼女の瞳には確信の色で満ちており、ごまかせる気がしない。
しばらくイネスはだんまりを決め込んでいたが、すぐに観念して口を割った。
「・・・そうよ。彼は一人で火星へ跳んだわ」
それを聞くや否や、ユリカはベッドから転げ落ちた。
いや、自分では飛び降りたつもりだったのだが、
まだ不自由な身体なので、思ったように動けなかったのだ。
イネスは驚いて、床をはうユリカに駆け寄った。
「なにをやっているの!?」
「アキトのところに行くんです・・・!」
ユリカは病室の出口を睨んだまま答えた。
震える足を両手で支えて立ち上がり、身体を引きずるようにして前に進む。
一歩足を踏み出すのもやっと、といった様子だ。
イネスは咄嗟にユリカの身体を支えた。
「馬鹿なことを言わないで!
今の状態で火星に行くなんて無茶だわ!
それに出発してからかなりの時間が経ってる!
今頃、彼は・・・」
「アキトは?」
「アキト君は・・・」
「どこにいるんですか?」
「わからない・・・」
「わからないって・・・どうしてわからないんですか!?
一緒になって企んだことでしょう!?
隠さないで教えてください!」
「確かに彼の考えは知っている。
だけど、私には彼が最終的にどこに向かったのかわからないのよ。
私だけじゃない。協力したネルガルの関係者も、
彼自身でさえも把握できていないと思うわ」
結局、イネスは自分の知りうる限りで彼に関することを打ち明けた。
まずは、身体機能のこと。
酷いのは肉体そのものではなく、中身の感覚器官だが、
まともに歩くことすらままならない状態だったようだ。
今は一人で動き回れるくらいにはなっているものの、
いまだ目隠しと耳栓をして生活しているよりも酷いものらしい。
次に、アキトもユリカも、今以上には身体機能が改善される見込みがあること。
正直に言えば、完全に元どおりにするのは不可能。
しかし、別段ユリカは落胆しなかった。
アキトに話をしたときもそうだったらしい。
今さらなんの未練もないのか、
「そうか。それはよかった」
と多少頬を緩めた程度で、感激するようなことはなかった。
確かによい知らせには違いなかったが、アキトは自分のことよりも、
ユリカが回復することを喜んだのかもしれない。
だからこそ、彼は当初からの自分の決意を覆すことはなかった。
そして、イネスはいよいよ彼の決意を告白する。
蓋を開けてみれば、彼の画策した内容は驚くほど単純だった。
“遺跡”と一緒に無作為にボソンジャンプを敢行―――以上。
“遺跡”とは、火星の極冠遺跡にある古代文明の遺産。
戦争の火種になりうる、ボソンジャンプのブラックボックス。
アキトはその“遺跡”を人類未踏の地にまで運び、
永久に人の手から遠ざけようと考えたのだろう。
それは昔、初代ナデシコに乗っていた頃のユリカ達が、
地球―木連間の争いを沈めるために立案した強硬策と同じだった。
しかし、彼の場合は、遺跡を強襲して、自爆テロに見せかけるという点と、
二度と回収されないように、自分の目で行き先を見届けるという点で異なる。
「そんな・・・」
ユリカは目の前が真っ暗になった。
身体から力が抜けて、崩れ落ちるように床に座り込んだ。
行き先次第では彼の命はない。
いや、むしろ彼は命を捨てる覚悟で臨んだに違いない。
せめてもの罪滅ぼしだと考えて。
ユリカの瞳から、ぽたぽたと涙がこぼれた。
「アキト・・・ひどいよ、アキト。
また置いてけぼりなんて・・・」
アキトの気持ちはわからないではない。
実験台にさせられた悲しみ、苦しみ、そして憎しみ。
それゆえに復讐に駆り立てられた衝動。
その後の苦悩の全てを推して知るのは困難だが、責任感の強い彼のことだ。
きっと罪悪感に苛まれない日はなかっただろう。
しかし、理解できても、納得はできない。
「・・・アキトはなにもわかってないよ」
どうして一人で抱え込もうとするのか。
どうして自分を連れて行ってくれなかったのか。
そんなことは今さら尋ねる必要もないことだが、
ユリカにしてみればこの上なく余計な気遣いだった。
「バカ・・・バカ、バカバカッ!
アキトのバカーーー!!!」
人目もはばからず、ユリカは泣き叫んだ。
うずくまり、涙混じりに彼の名前を繰り返し呼ぶ。
自分のエステバリスと母艦は乗り捨てていく手筈らしいので、
今度は彼がどこにいるのか見当もつかない。
ユリカは胸の中で嘆いた。
(知っていれば、止めることができたのに!)
(一緒についていくことだってできたはずなのに!)
(出発前に、アキトに会えたら・・・!)
そのとき、異変が起きた。
驚いたイネスは、二、三歩後ずさる。
「なっ!?なんなの、これは!?」
突然、ユリカにボソンジャンプの兆候が現れ、身体に光の模様が浮かび上がったのだ。
だが、それだけではない。
つま先から髪の先端まで、隅々を駆け巡る光は、通常ではありえない虹色の光芒だった。
また、全身から溢れ出したその輝きが、次第に彼女を包み込んでいく。
まるでオーロラを身にまとっているようにも見えた。
「ボソンジャンプ・・・じゃない!?
ち、ちょっと待ちなさい!一体どうしたっていうの!?」
イネスは急いで駆け寄ろうとした。
だが、意志に反して、その場から一歩も動くことができなかった。
目の前で起きている現象に本能的な恐怖を覚えて足がすくんだ。
なにが始まっているのかわからないが、一旦巻き込まれてしまったら、
自分はもうこの世界に戻ってこられないかもしれない。
そんな言いようのない恐怖が、イネスを縛りつける。
しかし、やはり現象の元となっている彼女への心配が勝った。
「落ち着いて!なにが起こるかわからな―――」
覚悟を決めて足を踏み出した瞬間。
幸か不幸か、イネスの接近を拒むように、ユリカから閃光が溢れた。
「うっ・・・!」
あまりの眩さに、思わずイネスは手のひらで目を覆った。
閃光はすぐに収まった。
しんと静まり返る室内。
目を開けると、案の定、ユリカの姿は跡形もなく消え去っていた。
ボソンジャンプと思しき兆候だっただけに、
いなくなったこと自体はそれほど驚くことではない。
驚きはしないが、“あれ”は明らかに普通のジャンプではなかった。
(一体、彼女はどこに?)
混乱と動揺のせいで頭の回転が鈍り、なかなか思考が働かない。
ようやく順調に動き始めてきたと思ったところで、
「ドクター!」
ビジネスウーマン風の女性が、血相を変えて部屋に飛び込んできた。
エリナ・キンジョウ・ウォンである。
「ど、どうしたの、いきなり?」
イネスは目を丸くして、ぜえぜえと肩で息をするエリナを見た。
呼吸を整える時間が惜しいとばかりに、エリナは大きく息を吸い込む。
「アキト君が計画を中止したって!」
その言葉で、イネスは完全に思考を停止させた。
エリナがイネスのところに駆け込む数時間前。
アキトは月のネルガル秘密ドックにいた。
最後のメンテナンスを終えた自分の分身―――ブラックサレナ。
それを格納し、出撃を待つ母艦―――ユーチャリス。
搭乗前に、アキトは艦の端から端までをゆっくりと眺めていた。
漆黒をまとった禍々しい自分の乗機とは違って、
この戦艦は汚れなど知らないかのように白く美しい。
(当たり前だな)
アキトは薄く笑った。
目の前の戦艦の主は、ラピス・ラズリ。
この船は彼女を守るための城である。
破壊と殺戮の限りを尽くした自分の機体と同じであるはずがない。
なんの罪もない少女のための船なのだ。
しかし、ここにその主である彼女は連れてきていない。
そして、自分が手を汚すのもこの出撃で最後だ。
結局は逃げているだけなのかもしれないが、それでもいい。
もう二度と同じことは繰り返させたくなかった。
大切な人達の思い出を壊すことなく、
ボソンジャンプの独占を防ぐには、この方法しかないと思った。
「行くか」
誰に言うともなくつぶやいて、アキトはユーチャリスに乗り込んだ。
勝手知ったる艦内を進み、ブラックサレナに搭乗するため、格納庫に向かう。
ユーチャリスはブラックサレナから遠隔操縦できるようにしてあった。
ボソンジャンプで火星に跳んだ後はコンピュータ任せなので、
わざわざブリッジで舵を取るような複雑な操作は必要とされない。
格納庫に辿り着いたアキトは、そこにたたずむ黒い機体に駆け上った。
開放されている外部装甲を足場にして、
本体のエステバリスのコックピットハッチを開ける。
ロックが外れる鈍い金属音とは裏腹に、軽快な動作でハッチが跳ね上がった。
コックピットに身体を滑り込ませようと中を覗き込んだところで―――。
「ッ!?」
アキトは凍りついた。
目の前には信じられない光景が広がっていた。
空っぽであるはずのシートに誰かがうずくまっている。
入院患者の白い着衣を身にまとった、長い黒髪の女性。
アキトは驚愕の表情で彼女の名を叫んだ。
「ユリカ!?」
彼女は泣いていた。
全身をきらきらと輝かせ、目からはぽろぽろと涙がこぼれている。
どこから見ても泣いているのは間違いない。
そして、なぜか相手のほうも驚いているようだった。
涙目をぱちぱちと瞬かせて、ユリカは不思議そうにつぶやいた。
「あれ?・・・ここは?
どうしてアキトがいるの?」
「は?」
「中止ってどういうこと!?」
イネスは声を荒げた。
「もう火星に跳んだんじゃなかったの!?」
「私もそう思ってたんだけど・・・」
「なにか問題が起こったの?
会長の命令?」
「いいえ。あの人も驚いていたわ。
全て予定どおりに進んでいたはずなんだけど、
問題・・・といえば、問題が起こったのかしら?」
「一体なにがあったの?」
「ええっと、驚かないで聞いてちょうだいね。
急いでいたみたいだから、私も詳しいことは聞けなかったんだけど・・・」
自分でも半信半疑といった様子でエリナは続ける。
「彼女が・・・・テンカワ・ユリカがいたんだって」
「はい?」
「だから、月のドックにあのテンカワ・ユリカがいたって言うのよ。
私も信じられないわ。
ここで安静にしているはずの彼女が月にいるはずが・・・」
ばかばかしいとばかりに、エリナはベッドを見やった。
そして、あんぐりと口を開ける。
「あれ?・・・いないじゃないの。
ま、まさか本当に月に?
ちゃんと薬で眠らせたんでしょ?」
「ええ。予定よりかなり早く目が覚めたけど、
間違いなくアキト君が火星に発った後よ」
「じゃあ、どうして彼女がアキト君の前に現れるわけ?」
「もしかして・・・」
「ドクター?」
「そう・・・あれはそういうことだったのね」
感心半分呆れ半分といった面持ちで、イネスは勝手に一人で納得していた。
どうやらアキトが出撃を中断した経緯に心当たりがあるようだが、
エリナには全く見えてこない。
ユリカの出現がアキトの決意を挫いたのは理解できるとしても、
常識的に考えて、彼女が彼と遭遇するのは不可能だ。
「ちょっと、一人で納得しないでちょうだい。
一体何が起こったっていうのよ?」
「ほんの数分前まで、彼女は確かにそこにいたわ」
イネスは布団が跳ね除けられたベッドに目を向ける。
「でも、あなたがここに来る直前に、ボソンジャンプしたのよ」
「ボソンジャンプですって!?
クリスタルもないのに!?」
「理屈はわからないけど、いなくなったのは事実ね」
「まあ、確かにジャンプしたというなら、一瞬で月にでも火星にでも行けるけど・・・」
「もちろん、それじゃあ手遅れね。
その頃には、アキト君は遺跡と消え去っていたはずだから」
「でしょう?
今から火星に跳ぶって連絡があってから、一時間以上経ってるもの。
彼が事を済ますには十分過ぎる時間だわ」
「そう、普通のボソンジャンプなら絶対に間に合わない。
だけど、彼女の場合は違ったのよ」
イネスは思い出すように、最後に彼女の姿があった場所を眺めた。
「あれは・・・私達が知っているボソンジャンプじゃなかったわ」
「どういうこと?」
「まだ推論の域を出ないのだけれど・・・こう考えれば、一応は筋が通る。
彼女はあのボソンジャンプで―――」
「本当にタイムスリップしたっていうのか?」
アキトはにわかには信じられずに聞き返した。
場所は医務室。
相手はユリカ。
コックピットで鉢合わせしてから、
今こうして落ち着いて話ができるようになるまでは大変だった。
予期せぬ再会を果たし、呆気に取られたのも束の間。
まずは、火のついたように泣き出したユリカをなだめた。
ようやく泣き止んだユリカに、今度はあれこれ文句を言われた。
途中でユリカが体調を崩して気を失い、
医務室に運び込まれるというハプニングも起きた。
おかげでアキトは、ネルガルへの作戦中断の報告は完全に忘れていたのだ。
結局、思い出して慌てて報告を入れたのは、ユリカが目を覚ました後である。
「私も信じられないけど・・・たぶんそうだと思う」
「まあ、確かに、な」
アキトはここに至るまでの経緯を思い出しながらうなずいた。
ネルガルに出発を告げるとき、確かにユリカが眠っていることは確認した。
彼女が自分に追いつくには時間を遡るくらいのことはしないと不可能である。
確かにボソンジャンプは時間跳躍を利用した瞬間移動だ。
それを考えれば、タイムスリップとて夢物語ではない。
しかし、あくまで理論上は可能というだけで、
当然、今までに成功させた人間などいるはずはなく、
そもそも実行しようとした人間すらいないだろう。
史上初の成功例は―――偶然には違いないが―――目の前にいる。
今さらながらに、アキトは安堵と呆れが混ざった表情を浮かべた。
「つくづく非常識な奴だな、お前は。
いつもいつも、無茶ばかりして・・・」
「アキトを追いかけるためなら、無茶でもなんでもするもん。
一人でどっかへ行っちゃうなんて許さないんだから」
「もう諦めたよ。
過去に戻ってまで追いかけてこられたら、逃げ切れるわけがない」
「そうだね。でも―――」
不意に、ユリカは沈痛な面持ちになり、首を振った。
「もう使わないよ・・・あんなの」
「ユリカ・・・」
「一人の人間が持っていていいものじゃない。
使っちゃ駄目なんだよ・・・絶対・・・」
ユリカはなにかに怯えるように震えていた。
瞳には涙と、胸の内に渦巻く感情がありありと浮かんでいる。
アキトには彼女の思いが手に取るようにわかっていた。
「ユリカ・・・今は少し眠ったほうがいい。
疲れているから、いろいろと悪いことを考えてしまうんだよ」
できる限り優しく声をかけて、アキトはそっとユリカをベッドに寝かしつけた。
「ほら、また気を失ったら大変だろう。
今は眠るんだ」
「うん。でも・・・」
「心配するな。言ったろ?
もうどこにも行かないって」
「じゃあ・・・」
ユリカは布団の隙間から片手を伸ばしてきた。
一瞬、アキトはきょとんとなったが、すぐにうなずいて、彼女の手を握った。
ユリカは不安げだった表情を一瞬で輝かせると、安心しきった表情で目をつむる。
すぐに穏やかな寝息が聞こえてきた。
(寝つきが早いのは相変わらずか)
アキトは失笑してしまいそうになった。
しかし、ユリカのことを思うと、笑ってなどいられない。
彼女の力は異常だ。
欲深い人間から標的にされるには十分すぎるほどの魅力と利用価値がある。
また、彼女自身も、その力を使いたくなる欲求と理性の狭間で苦しんでいるに違いない。
力に伴う責任という言葉は、かなりの重圧となって、彼女にのしかかっているはずだ。
我知らず、繋いだ手に力がこもる。
「んっ・・・」
ユリカの口から短い声がもれたので、アキトは慌てて握っていた手を離した。
(起こしたか・・・?)
どきどきしながら様子を見守る。
しかし、目を覚ます気配はなかったので、ほっと胸を撫で下ろした。
相変わらず、ユリカは安らかな寝顔をしている。
それを見て、アキトは改めて誓った。
もう誰にもボソンジャンプを、そして、彼女の力を悪用させない。
大切な人達を守るためならば、躊躇いなく引き金を引く。
血塗られた道をどこまで転げ堕ちようとも後悔はしまい。
アキトは誓いを心の奥深くに刻み込み、そっとユリカの手を握り直した。
「う・・・ん」
ユリカはゆっくりとまぶたを開けた。
ごしごしと目を擦りながら、起き上がる。
「あ・・・」
ユリカは短い声を上げた。
ベッドの横の椅子に腰かけている男を見つけたのだ。
腕を組み、こっくりこっくりと上半身を揺らしている。
「アキト」
ユリカは彼の名前を口にして、顔をほころばした。
言葉どおり、眠っていた自分にずっとついていてくれたのだろう。
そばに彼がいてくれるだけで、嬉しくてたまらなくなる。
しかし、こうしていられる理由を思い出してきて、ユリカは身体を小刻みに震わせた。
だんだんと震えは大きくなり、たまらず自分の身体を抱きしめる。
「駄目だよ・・・もう使わないって決めたんだから」
ユリカは自分自身に言い聞かすようにつぶやいた。
考えていたのは自分が行った特殊なボソンジャンプのこと。
偶然に発動した能力だったが、一度経験したユリカとっては、
もはや偶然で済ませられるものではなくなっていた。
どうすればその力を行使できるのか、感覚的に理解できてしまっているのだ。
まるで、初めから使い方を知っていたのでは、と錯覚するほど、
すんなりと自分の“もの”であると認識できる。
そんなとき、また頭の中で声がした。
―――これを使えば、新婚旅行の前日に戻ることだって・・・。
バチンッ!
ユリカは力任せに容赦なく自分の頬を張った。
口の中を切ったのか、じんわりと血の味が広がる。
それだけでは気が紛れなかったので、ユリカは自分で自分をかき抱いた。
時間を遡るなど、この上なく罪深い行為だ。
なんと傲慢で凶悪な力だろうか。
そして、それを使いたくなる自分が怖い。
理不尽な不幸を背負わされたのだから、
もう一度やり直せるならやり直したいと思うのは当然かもしれない。
でも、そんな思いをしているのは自分だけではないはずだ。
二度とやり直すことができないからこそ、
今を精一杯生きようとしている人が大勢いるはずなのだ。
他人の勝手で生を受け、他人の都合で育てられても、
ちゃんと自分と自分の居場所を築いた少女も知っている。
そんな人間を嘲笑うかのように、自分だけは望みどおりに人生を修正する。
この世にこれ以上卑劣な行いがあるだろうか。
アキトは自分を犯罪者だと罵った。
ならば、もはや自分は彼以上の犯罪者ではないか。
(でも・・・これなら・・・)
ふとユリカはあることを思いついた。
過去のためではない。
未来のために使うのなら―――と。
「あと一回・・・ううん、二回だけ・・・二回だけ使わせてください」
神に祈るように目を閉じて、ユリカは言った。
それから、眠っているアキトを熱い眼差しで見つめる。
感謝、愛しさ、申し訳ない気持ちと強い決意、そして罪悪感。
胸の内に溢れる様々な感情は、言葉では到底言い表せない。
ユリカは眠っているアキトを、じっと見つめて、ささやいた。
「今度は私の番だね」
その口調には迷いも躊躇いもない。
全ては仲間達の未来と、罪の意識に苦しみながらも戦い続けてくれた彼のため。
もうユリカの身体は震えていなかった。
<あとがき>
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
イメージしたのは『罪と償い』。
人の数だけ考え方があり、きっと正解はないのでしょう。
今回の話は、私個人の回答の一つ、と言えるかもしれません。
またお付き合いいだたけたら幸いです。
本当にありがとうございました。