風が、私を撫ぜていました…。
火星の砂埃が混じった風ではなく、冷たいけど、とても優しい風が…。
草のにおいがする…。
「…あれ?」
満月の光が、私を照らしていました。
私はアキトさんのジャンプでどこかに移動したはず…と思ったのですが…。
アキトさんは行先をイメージし忘れてしまったんでしょうか。
見覚えのある街並み…佐世保が見えます。
無意識に、ナデシコに乗った佐世保に来てしまうなんて、
アキトさんらしいですね。
いけない、抱きしめたままのアキトさん…いや、ラピスを手放さないと…。
私が抱きしめていたのはラピスの姿をしたアキトさんではなく、
アキトさん本人でした。
驚いて、私はアキトさんを離してしまいました。
あ、頭を打っていないかな…芝生だから大事には至っていないと思いますが…。
なぜ抱きしめていたのはラピスのはずなのに、アキトさんを…?
…でも、生き残れて良かった…。
私は命の危険を、アキトさんに助けてもらえました。
もう草壁の野望も再起できないでしょう。
…とはいえ、失ったものが、多すぎます。
生きている嬉しさと、喪失感で、涙がこぼれてしまいます…。
「…あれ?」
俯いた私の目に、黒い髪が映り込みました。
なんで私の髪が黒く…?
プラチナブロンドの髪が、どこかに行ってしまいました。
ボソンジャンプの時に、なにかあったんでしょうか。
いえ、そんなことより…。
「アキトさん、起きて下さい。
私、変なんです、聞いてください…」
アキトをゆすってみると、起きないというか反応がほぼありません。
ただ深く小さく呼吸を繰り返しています…。
これは…。
ラピスが居なくなって、失った五感をカバーできなくなった…!?
もっと泣きなくなってきました…。
どうしましょう…。
私はどうしようもないので何とか警察に立ち寄ってきました。
「二人で倒れてしまったのか記憶喪失で彼も起きないんです」という、
なんとも間が抜けた説明をして、救急車を呼んで、状況を整理しました。
「えーっと…DNAから戸籍を調べてよろしいですか?」
警官さんが、私たちの持ち物から身元を割り出そうとしましたが、
それもできず…無論、銃器、凶器の類は一度隠しておきました。
だけど記憶喪失といえば、DNAの検査を受けるのが普通です。
しかし、過去のアキトさんと私が合致する可能性が高いです。
問題はありますが、不審に思われても問題です。
仕方なく腕を差し出しました。
「えー…ホシノ・ユリさんですね。
こっちはホシノ・アキトさん」
「え…?」
私は当然、驚きました。
ないはずの戸籍が、ないはずの名前で登録されていたのですから。
しかし二人とも、ホシノ…ですか…。
兄妹として登録されているようです。
「資産カードもなくしてますね?
再発行しますので、交番にどうぞ」
「あ、あの私…」
「救急車も来ましたし、
旦那さんの事はひとまず任せて大丈夫でしょう」
私の顔は真っ赤になりました。
アキトさんと夫婦…?
どういうこと…?
ぼんやりとしながらも、私はかろうじて交番に向かいました。
私はロビーで沈み込んでしまいました。
私も軽く頭を打っているかもしれないので診察をうけたのですが、
異常がないことを確認され、アキトさんの精密検査をの結果を待っていました。
この状況、謎が多すぎます。
IDで確認した時、私の顔がユリカさんと私の中間に近い顔で…。
そもそもなぜIDが登録されていたのか、分かりません。
それにロビーのテレビで流れている内容が木星戦争の報道です。
…過去にボソンジャンプしたんでしょうか?
ボソンジャンプが時間移動であることを差し引いても、
アキトさんは姿が変わらず、私は姿が変わってしまったのかというが分からずにいました。
「…やっぱり、顔が…」
お手洗いに行って、顔を確認してみました。
IDで確認した時と同じく、やっぱりユリカさんによく似ています。
…あ。
胸が…ユリカさんほどじゃないけど結構おっきい…。
ちょっと嬉しい誤算でした。
「でも…アキトさんが起きてくれなければ…」
とぼけている場合ではありません。
私の思考は、再び沈み込み始めました。
…ラピス、せめてあなたが居てくれれば…。
それからしばらくして、
アキトさんの精密検査が終わると、お医者さんは説明をしてくれました。
「軽い昏睡状態で、
神経系がひどく痛んでいるが、
不治ではないよ」
と伝えられ、ホッとします。
…アキトさんにも、少しくらいいいことがあっていいはずです。
私の体が変わったように、アキトさんも普通の体になってくれていれば、
アキトさんも…昔のように、笑ってくれるかもしれません。
そんなことを考えていると、お医者さんは続けて説明してくれました。
「んーただ、意識が戻らないのは神経が傷ついているせいなので、
長いリハビリは必要だ」
「どうすればいいんですか」
「ちゃんと体を触れ合って声をかけて下さい、戻ってくるように伝えて下さい」
「…それだけですか?」
私はキョトンとしてしまいました。
あまりに簡単な方法すぎて…。
「毎日きてあげなさい、旦那さんなんでしょう?」
「は…はひ」
看護婦さんの一言で、声が裏返ってしまいました。
「君も記憶障害のようだが、
一度家に帰って落ち着いた方がいいんじゃないか?」
私は頷いて、帰ることにしました。
私が部屋に戻ると、そこは小さな六畳一間でした。
私が買いそうな消耗品、服、テレビと、ゲキガンガーのグッズが少し置いてあるだけ…。
生活感があまりない、片付いた部屋…。
私はさらにぼうっと考え込んでしまいます。
…そしてアキトが夫であるといわれた事を思い出して、
顔が真っ赤になってしまいました。
ただ、別の不安と…罪悪感が、忍び寄ってきます。
気付くと、涙があふれてきました。
私がそうしたくてそうしたわけではないけど…。
私はユリカさんを撃ってしまった。
そして、アキトさんを奪ってしまった…。
「ユリカさん…あなたの命を奪って…ごめんなさい…。
…アキトさんを取ってしまって…ごめんなさい…」
今の私には、ただ懺悔の言葉を口にすることしかできません。
遡行してきた今、私の罪を知る者は誰もいない。
こんなこと…アキトさんが目覚めたとして、正直に言えるか分かりません。
いえ、言わなければいけません。
そうしなければ、私はアキトさんのそばに居る資格がない…。
許してくれないかもしれない。
それでも、言わなければいけないんです。
私が膝を抱えていると、寒気がし始めました。
…もう、冬です。
ナデシコが出向する、一年前…。
この際、今の私が何者でも構いません。
未来のアキトさんとユリカさんの…あんな悲しい結末を、認めるわけにはいきません。
なんとかする方法を考えなければ…。
助けたい…。
あの時、助けられなかった、
イネスさん…。
アカツキさん…。
エリナさん…。
いえ、アキトさんが助けたい人と思う人がまだたくさんいます。
木星戦争で亡くなった、
ヤマダさんも、イツキさんも、九十九さんも…。
嫌な人でしたけど、ムネタケ提督も死ぬ事はなかったと思います。
事情が事情なので、複雑な気持ちもありますが…。
そしてラピスを早く見つけなければ…。
「…ッ」
ラピスの事を思い出した事で、あの二人を同時に思い出してしまいました。
私の心を、ドス黒い感情が支配しました。
そう──あの二人が居る限り、同じことは起こるかもしれないんです。
草壁とヤマサキ…。
彼らを殺せば、すべて丸く収まるのでしょうか?
…でも…それでいいのか、私には、分かりません。
それでいいなら…ボソンジャンプでの奇襲と暗殺を…。
私は首を横に振りました。
ダメです。そんなやり方を通したら、
私達はきっと草壁やヤマサキと同じ人間に堕ちる。
草壁とヤマサキが目指した方法…やってはいけない…。
「でも…」
アキトさんが目覚めなければ…奪われてしまったと思ったら…。
きっと私はそちらに堕ちても、
彼らを…滅ぼそうとしてしまう。
だから…。
「だから…早く起きて、アキトさん…」
この過去で、私とのつながりを持つのはアキトさんとラピスしかいないのですから…。
その後、私は先んじて行動を起こすことにしました。
既に火星での開戦は報じられた後のようですが、
ニュースでは地球へのチューリップ接近を示しています。
つまり、余裕はそんなにありません。
ぼうっとしてると危ないです。
アキトさんがいつ目覚めるか分からない以上、
できるだけ状況を整えなければ、最悪の未来は回避できません。
…しかし、私がマシンチャイルドでなくなっていることで問題が起こってます。
まあ、あったとしても性能の良い端末がなければ無意味ですが…。
マシンチャイルド用端末なしでもプログラミング、ハッキングはできますが、
キーボードでやるのは久々で、少し慣れるのに時間を要します。
オモイカネレベルのコンピューターなしの私は、ハッカーとしてはやや非力です。
とはいえ、カードの貯金もアキトさんの治療費を考えればあと半年もすれば尽きてしまいます。
…働かなければ。
幸い、ホシノユリとしての私の経歴は、可もなく不可もない感じで、
二週間ほど基本をおさらいして、
ソフトウェアの会社に入り、勘を取り戻す事にしました。
しかし、その業務は思いもかけない大変さを持っていました…。
入社3週間もせずに、おそろしいことに気が付きました…。
出社直後、いつものように自分の席に座って、メールチェックをする間もなく、
私は同僚、上司に囲まれていました。
「ホシノさん、これお願い」
「ホシノさーん、このコード読める?」
「ホシノさん、この機材なんだけど…」
…このソフト会社、ソフトが作れていません!!
ソフトウェア会社と聞いたので、
それなりにスキルがある人が居るのかと思いましたが、
外注しすぎてノウハウが残ってなさすぎます。
…ソフトウェア会社なのに属人化しずぎています。
そのせいで、それなりに経験のある私に業務が過剰に集中しました。
結局、勘を取り戻すよりも、業務を減らすためのプログラムの作成と、
その場しのぎを繰り返して、
給与をかろうじてもらうだけの生活がしばらく続いてしまいました。
…ただ、その忙しさは、私にとっては少しありがたかったところもあります。
正直、アキトさんが目覚めない状態は、辛くて仕方がない状態です。
忙しすぎて、悲しんでいる暇があまりありませんから…。
今日は定時を3時間ほどオーバーして、仕事を終わりました。
「ホシノさんおつかれー」
「お疲れ様です」
………はぁ。
気苦労が多すぎます。
今日はお昼も食べ損ねてしまいました…御惣菜、買って帰りましょう…。
一人暮らしだと食生活がいい加減になりがちなのは、昔からですが…。
いつもと同じ道が、疲れのせいか長く感じていました。
…ぼうっとして、スーパーを通り過ぎてしまったことに気が付きました。
引き返そうとして、目に入った食堂に──私は釘付けになってしまいました。
アキトさんの、地球での最初の一歩。
ボソンジャンプで訪れた地球の、最初の「コックとしての始まりの地」
私も一度来たことがあります。
…ここには、きっとこの時代のアキトさんが居る。
入って、みようかな…。
「お嬢さん、ラストオーダーぎりぎりだけど、食べてくのかい?」
不器用そうな、だけど人がよさそうなおじさんが、私を出迎えてくれました。
気付くと私は──とんでもない量の料理を注文してしまっていました。
「オイオイ、お嬢さん…美人が台無しだぜ…。
ゆっくり食っていいんだぞ?
お嬢さんがそれ食べ終わったら閉めるから」
サイゾウさんは、暴飲暴食を繰り返す私を見て呆れていますが、
久しぶりに食べたアキトさんの味…のルーツの味。
それは、私の心が、体が、求めた味でした。
アキトさんは、サイゾウさんと明日の仕込みをしながら私を見つめていました。
「すごいっすね…」
「おい、テンカワ。
このお嬢さんどれくらい食べたと思う?」
「えーと…。
チキンライスと、ラーメンと…餃子と、卵スープ…でしたっけ」
「コーラとシウマイと天津飯が抜けてんだろうが」
「あ、すんません」
「会計もできねえのか、バカッ」
二人の会話を聞いて、アキトさんが厳しくも優しく、修行をしてきたのが感じられます。
なにより、この味がアキトさんに継承されてすべてが始まったんだと、分かります。
私の愛した、あの味が──。
「うぅ……」
無くしたくない。
私のアキトさんじゃなくても、
アキトさんの味を──。
アキトさんの夢を──。
アキトさんの人生を──。
絶対に、無くしたくない。
そう思うと、涙がこぼれてしまいました。
「お、おい大丈夫か?食べ過ぎたか?」
「い、いえ…ちょっと、仕事で疲れてしまってたもので…おいしくて…。
すみません、ごちうそうさまです」
誤魔化した私を見て、サイゾウさんは少し焦っている様子でしたが、
お代を払って、帰る事にしました。
「…おい、テンカワ」
「なんすか?」
「お嬢さんを、そこまで送ってやんな」
「え?でも仕込みが…」
「は、はいーーーー!!」
…サイゾウさんに、アキトさんに視線を向けていたのが、バレていたようです。
私ってばホント、バカ…。
私とアキトさんは、他愛ない話をしていました。
他人行儀なのは少し寂しいですが、
なんだかアキトさんにこういう風に話されるのは新鮮です。
「へえ、ホシノさんはソフトウェアの会社で働いているんだ」
「ええ…。
人手不足で、私みたいな新入社員でも頑張らないと行けなくて」
「すごいね…俺も、早くメインの調理に行きたいなぁ」
「テンカワさんもまだ下積みなんですね」
「…うん。
コックになって、うまい料理で人を感動させて見たいんだ」
「…サイゾウさんみたいに、ですね」
先ほど泣いてしまった私が言うのも、少しおかしい気がしますけど…。
でも、サイゾウさんに憧れる気持ち、わかります。
とても気遣いが上手で、料理も上手です。
「…うん、そうなりたい」
「テンカワさん」
私はアキトさんの手を取って、強く握りしめました。
「お互いに、頑張りましょうね」
「あ…は、はいっ!!」
アキトさんの顔が、赤くなってしまいました。
…ちょっとやりすぎました?
でも、アキトさんは鈍感な方だから大丈夫です…よね?
そんなことを考えながら、私はアキトさんとお別れしました。
アキトさんとサイゾウさんのおかげで、けっこう元気になりました。
…頑張ろうっと。
「……アキトとルリ君の足取りはまだつかめないんだね?」
「ええ。ラピスは意識不明だし、なんとも…」
「…不可解な事が多いが、これもボソンジャンプなんだろうね」
「…せめてイネス博士が居なければ…」
「イネスさんもこちらに来ている可能性が高い…が、
彼女の名前はどの名簿にもなかった……」
「でも、ナデシコの設計は完璧だったんでしょう?」
「そう、それが問題だ。
確かにイリス・フレサンジュ博士は優秀だ。
しかし、ナデシコの基本設計はイネスさんがやっていたはずだ」
「分からないことだらけだわ…」
「引き続き、情報収集に当たらせよう。
…それとシークレットサービスは、ちゃんと動いているかい?」
「そちらは問題ないわ。
彼らに、借りを返してもらわなければね」
「ああ。
利子をとれるだけとってやろう」
「…アキトさん、まだ起きませんか?」
「ええ…おかしいってみんな首を傾げてます」
私が何度もアキトさんの病室に訪れても、病状は良くならなかった。
医師たちも神経系の回復が見られないのを不思議に思っていました。
「アキトさん、起きて下さい…。
私、寂しいんですよ…」
──今日で、私達が過去に戻ってから、2ヶ月が経過しています。
私は毎日アキトさんの手を握り、
自分の近況を少しずつ話し始めていました。
人が居ないのを見計らって、過去に居ることを話したり、
いろんなことを話したり…そんな事を繰り返しています。
でも、何の変化も起こりませんでした。
…でも、泣いてはいけないと思いながらも、時々、泣いてしまいます。
意識がないので聞こえていないのが分かっていますから、
そういう時は割り切って泣いてしまいます。
そうしないと、心がくじけてしまいそうで…。
私は諦めずにアキトさんに呼びかける毎日を送りました。
いつも一時間ほど滞在し、30分ほど返事のない会話を続け、
話題が尽きると、アキトさんを呼び、戻ってきてほしいと話しかけます。
ラピスが見つかれば、きっと解決する話です。
…しかし、今の私はハッキングスキルが少しあるだけの常人。
逆に相手に察知されてお縄になるかもしれないです。
それに見つかったとして、救出できるかは怪しいです。
おそらく…ネルガルの研究所のどこかのはずですが…。
「アキトさん、起きて下さい…」
…私の心をだんだんと闇が蝕むのが分かりました。
なぜ、回復しないのか。
なぜ、アキトさんは戻ってきてくれないのか。
「私ではダメなんですか…」
私の問いかけに、アキトさんは答えてくれません。
思い当たる節はたくさんあります。
そもそもランダムジャンプをしても、普通は体が変化したりはしません。
それに元々のアキトさんの状態は、不治の病と言っても過言じゃありません。
治らなくても不思議はないんです。
私の体が変化したからといって、アキトさんも変化するとは限りません。
精神面についても問題は多いです。
アキトさんが求めているのは、ユリカさんです。
未来のユリカさんは、私が…。
過去には、過去のユリカさんしかいない。
連れてくればなんとかなる…?
でも面識もないユリカさんを連れてきても、
そもそも声が届いていないのに…。
八方ふさがりです…。
「アキトさん、アキトさん…」
私は小さくアキトさんをゆすった。
こんなことで、起きてくれるとは思えなかったけど…。
「…どうせ聞こえていないなら」
私は諦めない。
諦めない、けどアキトさんは二度と目覚めないかもしれない。
二度と目覚めない覚悟をしなければ、いけないと思い始めました。
…その覚悟ができなければ、木星に対抗する準備も滞る。
一人きりの戦いを続けるには、そういう覚悟が必要です。
私は言えなかった気持ちを吐き出して、けじめとしようと決意をした。
私は涙をぬぐって、息を整え、はっきりと口に出しました。
「…アキトさん、好きでした。
ずっとずっと」
聞こえていないなら、いくらだって勇気が出た。
「ユリカさんがうらやましかった」
正直な嫉妬を吐きだせた。
「妹でいいからそばに居たいと思ってた。
…あれは妥協だったんです」
そんな形でもあなたのそばに居たかった…!
「アキトさんが死んでしまって、
初恋は叶わないってあきらめようとしました」
それでも…。
「でも生きてるって聞いて…なんとか助けたいって…」
私は…。
「もう一度ユリカさんと笑っている姿を見たいって…」
あなたと…。
「…あなたともう一度話したい」
もう一度だけでも…声を聞きたいんです。
「…だめですか?」
私は最後にはあえて感情がこもらないように、問いかけました。
これ以上感情をさらけ出せば、
永遠に泣き続けることになると思いました。
それでも…。
「ひぐっ…ひぐっ…」
感情を押し殺そうとすれば押し殺そうとするほど、
私の感情は逆流してきた。
「だめっ、だめ…っ」
私は…分からなかった。
泣いてはいけないと自分の言い聞かせているのか、
アキトさんが二度と目覚めないことを受け入れようとしている自分を否定しているのか。
どうしていいのかも、分からなかった。
「お願い…帰ってきて…。
アキトさん…!」
「ぐ…」
「!」
私は、この時代に来て初めてアキトさんが動く姿を見た。
医師によれば寝返りも打っていないという、アキトさんが。
私の心に、歓喜の感情があふれてきた。
「アキ…」
私がアキトさんを呼ぼうとしたとき、それは起きた。
アキトさんの絶叫が病院中に響き渡る。
アキトさんの声を聞きたがっていた私が、耳をふさぐほどの咆哮。
同時に、アキトさんの体にふたたびナノマシンの紋様が走り出す。
火星生まれ独特の、ナノマシンが体内にある者の持つ、光。
それは髪の毛をも白く光らせていた。
「アキトさん!?アキトさんッ!!」
私は真っ先にナノマシンの暴走を疑った。
アキトさんがどのような人体実験を行われたかは分からないけど、
脳に関する部分…。
つまりボソンジャンプに関わるイメージの部分が特に重かったのは知っていた。
私の脳裏に脳の神経系が痛んでいるという話がよぎる。
「まさか…脳の神経がすべてナノマシンに?!」
アキトさんの脳神経にナノマシンが擬態している可能性を考えた。
私が取り乱しているうちに、
医師が駆けつけて、アキトさんに呼吸器などを付けた。
咆哮が一段落したが、悶えるアキトさんの姿は異常だった。
涙、よだれ、汗…考えられる体液がすべて流れ出ており、
何とかベルトでベッドに拘束され、鎮静剤を打たれる。
しかし、直後驚くべきことが起こりました。
注射された鎮静剤が、針を刺した場所から逆流しました。
医師たちの困惑をよそに、
急激にアキトさんは暴れるのをやめ、深く呼吸をし始めた。
「あ…あ…いき…てる…のか…」
かろうじてかすれた声が、アキトさんの声が聞こえる…。
目覚めてくれた…!
ルリは医師たちを退けて、アキトさんの顔をのぞき込む。
「アキ…ト…さん…私が見えます…?
声、聞こえてます…?」
「ユリ…カ…じゃなくて、ルリちゃん…だよね…」
「はいぃ…っ…!」
私は、アキトさんを抱きしめた。
アキトさんが、生きている…声をかけてくれる…。
それだけでどれだけうれしいか…!
「…体が治ってる…なんで…」
「あ、あの」
「すみません、ひとまず検査しないと体がどうなっているか分かりませんよ」
私はアキトさんの事をもっと抱きしめたかった。
…でも、体の事が分からない以上、再検査しないと、危険とも思えた。
名残惜しい中、私は退いた。
医師は、私に帰宅を勧めるが、
私は検査後に十分でいいので時間を下さいと食い下がりました。
医師は私が取り乱しそうになっていると思ったのか、時間をくれました。
…一時間ほど経ったでしょうか。
私は病室の前で、アキトさんが全快してくれている事を祈りました。
アキトさんが元気で居てくれさえすれば、私は…。
「ホシノユリさん、どうぞ」
検査が終わったのか、私を引き入れてくれた。
医師たちは、アキトさんの状態について話す。
ナノマシンの専門家が居ないので何とも説明しがたいものの、
レントゲンを取ろうにも光が体内に充満していてとれないみたいです。
脈拍、脳波、呼吸、すべて正常。
しかし、髪は白になり、金色の瞳に変わってしまいました。
アキトさんは、マシンチャイルドになってしまったようです…。
「大丈夫…なんですか?」
「…人間なら大丈夫ではないはずだよ」
私はむっとしますが、
医師は人間の致死量は明らかに超えるナノマシンが体にあるため、と説明をします。
とにかく、詳細は不明なのでナノマシンの専門家に見てもらうことが先決とも言われました。
「ほかに注意するべき点はありますか」
「とくにない…が、
専門家に見てもらうまではなにも油断ができない」
私は黙り込みました。
ナノマシンが活発だからこそアキトさんが生存しているというのは事実…。
ナノマシンが黙り込めば、あっさり動けなくなるということです。
医師たちは説明を終えると、10分だけですよ、と席を外してくれた。
アキトさんが、起きている。
私を、見つめてくれている。
それだけで涙が滲んできます…。
なんて、言いましょう…何を、つたえましょう…。
「あ、あのアキトさん…」
「ルリちゃん」
「は、はい」
私はアキトさんが言葉を遮ると思っていなかったので驚きました。
「…迷惑かけたね。ごめん」
「そ、そんな…当たり前じゃないですか…」
私は目をそらす。
告白を聞かれただろうか。
あまりにタイミング良く目覚めたアキトさんに、問おうとした。
「あのアキトさん、私…その…」
「…いいんだ。
全部、聞こえてたから」
全部?
聞こえないつもりで言っていた全部を…?
「ぜ、全部ってどこから…」
「さっきのこともなんだけど、
今まで、動けなかっただけで実は聞こえていたんだ。全部」
「え…?」
「交番でIDを確認してもらっていたころからね」
言葉にできない…。
私の戸惑いも、涙も、弱音も…すべて聞かれていた。
アキトさんは、私の呼びかけを知っていた。
「えっ、えっ…?」
私は思考が全く追いつかない。
嬉しい気持ち…告白を聞かれた驚き…。
そしてアキトさんが追い打ちをかけ続けて思考が止まっている。
「…たぶんその髪も、顔も…自分で変えたものじゃないでしょ?
ボソンジャンプがこんなことを引き起こすなんて、
どういう運命のいたずらなのか、分からないね」
「あ、あの…私は…」
私は思った。
何か言わなければならない。
否定する?
何を?
伝えたい?
もう気持ちを聞かれてしまった。
私の脳髄は、ただ戸惑いしか発せなくなる。
そんな中──
アキトさんは、照れくさそうに、でも、まっすぐに私を見てくれて…。
「…ルリちゃん、ただいま」
私が聞きたかった言葉を言ってくれました。
混乱した頭の中がすべて吹き飛んでいました。
私の中で張り詰めていた感情が爆発した。
「おか、えりなさい…うぐっ…。
アキトさんは私を抱きしめてくれた。
ずっとずっと会いたかった…。
ただ、生きていてほしかった…。
自分の事より、アキトさんが、大事だった…。
アキトさんは…私の最後の希望…だったから…。
俺は、ルリちゃんの背中をさすった。
ルリちゃんは俺の事を愛してくれていた。
─どうして、気がつかなかったんだろう?
いや、気づいては居た。
妹として、以上のものを感じていた。
ルリちゃんはどれだけ俺を想ってくれただろう。
毎日の言葉、温かさ…そして涙。
ルリちゃんに答えたい。声をかけてあげたい。
ルリちゃんの事しか考えようがない、二ヶ月。
ルリちゃんが届け続けた真心。
それは後悔を、未来に進ませる原動力に変えつつあった…。
──俺はあの後、再び闇に意識を落としていた。
走馬燈のような空間に、幽閉されていた。
今、どれくらいの時間が経ち、どういう場所に居るのか、まったくわからない世界。
死後というものがあるなら、こういうものだろうか、と思った。
苦しいとは思わなかったが、退屈ではあった。
ここには未来がない─。
永久に繰り返される、人生のすべて。
「…さん」
そこに─
「アキトさん、起きて下さい!」
ルリちゃんの声が、届き始めた。
毎日、ルリちゃんの呼びかけが届く。
今、過去に居る事…。
自分の姿が少し変わってしまったという事…。
ボソンジャンプの影響があったのかもしれないという事…。
今仕事で何をしているのか…。
でも…あの時何があったのかは、教えてくれない…。
聞かなければならないのに…。
しかし─。
ルリちゃんがこんなに感情的に語り掛けてくるなんて…。
俺は、墓場でルリちゃんの成長を知った。それでも、こんなに…。
声から伝わる、俺への愛情を…知って…。
放っておけなくなった…。
でも動くことはできなくて─ゴーストになった気分だった。
だからこそルリちゃんに言わなければならない。
俺がずっと思っていた事を、伝えたい。
「俺も、君に声を掛けたかった。
ずっと…」
「…ッ」
ルリちゃんは言葉もなく、俺をまっすぐ見つめていた。
──ああ、なんて顔をするんだ。
ルリちゃんはどれだけ俺の声を聞きたがっていたんだろう…?
「…大丈夫、どこにもいかないよ」
「っぐ…はぃ…」
「いろいろ話したいことも、
話さなきゃいけないこともある。
また明日、来てくれる?」
「はい…」
ルリちゃんは強く握っていた手を、ようやく離した。
寂しそうに、自分の手を握っている。
「…ルリちゃん、ボソンジャンプする前に言ったこと覚えてる?」
「…はい」
「もう離れない。
命が尽きるまで、君を守る」
ルリちゃんは、またポロポロと涙を流している。
俺も、目の前が滲んで見えている。
「だから…安心して帰ってね」
「は…い…」
ルリちゃんは、小さく頷くとゆっくりと歩いて、出ていった。
…少しは安心できたろうか?
──俺は、その後しばらく物思いにふけった。
体が治った事を差し引いても、
多くの代えがたいものを失ってしまったと思う。
あの時に起こった出来事は、過去に戻った事で、すべて霧散してしまった…。
ラピスはどうなったろうか…せめて生きていて欲しい。
もしラピスが自分のように昏睡に陥り続けたとしても、
ルリちゃんがそうしてくれたように、看続けたい。
自らを犠牲にして、ルリちゃんを助ける手伝いをしてくれた彼女に、
できる限りの事をしたいと思っていた。
そしてユリカの事だ…。
ユリカが死んだことは、ルリちゃんが語ってくれた。
詳しいことはわからなったが、霧散した未来のことを考えても仕方がなかった。
…俺は二か月、身動きできないまま居た。
体の神経がほぼ動かず、聴覚だけが鋭敏になっていた。
悲しんでも胸が苦しくなることも、涙を流すようなこともなかった。
その間にも、ユリカの事をずっと考え続けていた。
気が狂うような思い出の世界で、彼女が光を放ち続けていた。
ユリカ…。
俺はユリカを幸せにしたかったが…もうどうしようもない。
彼女が生きていたとして、戻ることは許されないと思っていた。
そんな俺が…ユリカを想うなど、おこがましいか…。
踏ん切りはとうについていた。
永遠のように感じた永い二ヶ月は、
俺に、ユリカを胸の奥にしまい込むことを許した。
…それでも体が自由になった今、
もう二度と自分の前に時間を共にしたユリカは現れはしないのだと、
そう思うと、とめどなく涙が流れた…。
俺は、ただ、一晩だけ泣いた。
明日からはこの時代での生き方をもう一度選ぶ必要がある。
そうしなければ、仮にユリカがこの場を見ていたらどれだけ悲しむか分かっていた。
ユリカもそう思ってくれるだろうと、ユリカを信じた。
「さよなら。
そしてありがとう。
…ユリカ」
俺の復讐は、この時、完全に終わりを遂げていた。
ルリちゃんは仕事を午前休にして、
俺をナノマシンの専門家の居る軍属病院に付き添ってくれた。
俺は一人でも行けるよ、と言ったが、
二ヶ月も動けなかった俺を放っておいてはくれなかった。
ルリちゃんは、やはり眠れなかったようだ。
腫れぼったい瞼と涙の痕が、まだ残っている。
そういう俺もひどい顔だったが…。
「アキトさん、帰りはタクシーを呼んで下さいね…。
それと帰る前に必ず電話を下さいね…」
「うん、わかった」
ルリちゃんは、連絡先と住所のメモと、カードと保険証を手渡すと、
心配と、名残惜しいのが分かる表情で、俺と別れた。
あの頃に比べればずっと調子がいいし…なんとかなるだろう。
軍属病院のナノマシン専門家を訪ね、検査入院まで必要かと思った。
しかし、あまりに詳細がわからなすぎてその専門家ですらさじをなげてしまい、
しばらく研究検査のため通院する必要はあるが、
入院しても仕方ないということで帰宅を勧められた。
帰る前に電話しなきゃな…。
ルリちゃんに、なんて言おう。
「支払いはこのカードで」
「はい、確かに。
それじゃお客さん、お大事に」
タクシーで、この世界の住処のアパートに戻ってきた。
少し古いが、俺が昔住んでいた場所よりはずっと整っていた。
…少し、怖いとすら思う。
誰が、この家を準備したのか、分からない。
この体、この戸籍、この家。
怪しくないところを探すほうが難しい状況だった。
「ルリちゃん、ただいま」
「あ、アキトさん!」
ドアを開けると、ルリちゃんが抱き付いてきた。
…そんな心配すら、こうなると少しどうでもいいとすら、思える。
俺は、変わったんだろうか…?
強く抱きしめるルリちゃんの頭を撫でる。
「まいったな、そんなに毎回感激されちゃうと」
「ご、ごめんなさい」
「…いいよ」
俺は、ルリちゃんを責めるつもりはなかった。
彼女がどれだけ俺を待っていてくれたのか、分かっているから…。
その後、ルリちゃんに体の事を説明すると、彼女は黙り込んでしまった。
…不安は分かるが、変えようがないことだ。
だが、ルリちゃんは首を横に振ると、
話題を変えたいのか、不意に俺に尋ねた。
「お腹空いてませんか?
朝からなにも食べていないんでしょう…?」
「…うん、なんでもいいから食べたい…ね…」
俺の口の中が唾液でいっぱいになっているのを感じる。
俺は、久しぶりの生の五感に、胸がいっぱいだった。
目が覚めた時から、ずっとだ。
病院の薬臭さ。
この部屋の畳のにおい。
そして抱き付かれた時のルリちゃんのにおい。
久しぶりに感じた嗅覚のうれしさ。
不自由なく立って歩ける。
前が見える。
音が聞こえる。
ああ、畜生。
頭がおかしくなりそうだ。
こんなに五感が気持ちよかったなんて、忘れそうになっていた。
幸せだ。
これで食べ物を食べれるなんて…どうなるんだ…。
白米のにおいがした。
海苔のにおいがした。
ポットから、お湯が注がれるような音がした。
味噌のにおいがした。
「…ごめんなさい。
仕事帰りであまり時間がなくて…急いで準備はしておいたんですけど、
早炊きのごはんで作ったおにぎりと、
インスタントのお味噌汁くらいしか…」
ルリちゃんが、持ってきたその質素極まりない食事。
俺は奪い取るように、口に入れた。
ほとんど夢中になって咀嚼した。
おにぎりに喰いついた。
舌と口の中を何度も噛みながら、血を出しながら、米粒の一つ一つを噛みしめた。
このおにぎりは塩と海苔しか付いておらず、具は入っていない。
それにも関わらず俺の嗅覚を、味覚を、刺激する!
ワカメとネギしか浮いていないインスタントの味噌汁を一度に飲み干した。
熱い!舌、口の中、いや、喉すら火傷を免れない。
むせながら、飲むのをやめられない!
味噌の味わいが、香りが、俺を離してくれない!!
このおにぎりは早炊きのせいで外は柔らかすぎ、芯が残っていた。
料理人としてインスタントの味噌汁など、認めるわけにはいかないはずだった。
俺が今、口にしているのは…。
食べ物の形をした幸せそのものなんだ!!
俺は、無我夢中で食べ続けた。
そして、5個もあったおにぎりがなくなるのを確認して、
口の中の染みる痛みと、焼けるような熱を持って、食事を終えた。
ああ…。
味覚を失って、砂を噛むような食事をしていた頃には味わえなかった歓喜!!
俺はこの食事を、きっと死ぬまで忘れない…。
幸せだ…。
涙が、止まらない。
ルリちゃんも、もらい泣きしているようだった。
俺はただ、静かにこの幸せを享受してうずくまって泣いていた。
…少し、落ち着いてきた。
「ごちそうさま…おいしかったよ…」
「…すみません。
こんなものしかなくて…。
せめて御惣菜とか、買おうと思ったんですけど…」
俺は首を横に振った。
この『質素な食事』でよかったんだ。
今の、何を食べてもみっともない食べ方しかできない俺には、
『質素な食事』が、どんなフルコースより幸せだった。
「…どんな食事を食べてもこうなっちゃうから、
これで良かったんだよ」
「…はい」
「次は、俺が作るからさ」
ルリちゃんは、罪悪感すら感じていたのか、安心した様子だった。
そして味覚を取り戻したなら、料理だってしたい。
ああ…楽しみだ…。
「アキトさんの料理…食べたいです」
「…ルリちゃん」
ルリちゃんが期待してくれたのは嬉しかったが…。
それでも、俺のことで先送りし過ぎていた話をしなければ。
「…事情はどうあれ、過去にもどっているんだね、俺たちは」
「…はい」
ルリちゃんは、あの時の顛末を話す。
ユリカが、クローンと脳をすり替えられていた事…。
北斗という襲撃者…。
草壁によって撃たれた、イネス・アカツキ・エリナ…。
草壁とヤマサキのたくらんだアキトとルリのクローン軍構想…。
ナデシコCの敗北。
すべて…俺のつまらないプライドが招いた悲劇だった。
「ユリカは…助けられてなかったんだね…」
「…」
ルリちゃんは視線を外して下を向いてしまう。
彼女だけでなく、俺もやりきれない気持ちだった。
どうしようもなかったんだ。
だが…。
「…俺、なにやってたんだろ」
「アキトさんのせいじゃ…」
「…大丈夫、ヤマサキを撃った時に完全に気はすんだんだ」
これは俺の偽らざる本音だった。
俺の復讐は終わった。
ヤマサキを撃つ事で、草壁の野望は潰えた。
どの代わり、ユリカも失われた。
それだけが結果だった。
ただ…。
「…このジャンプ事故は、たぶん、俺達三人だけの問題だ。
アカツキ達と草壁達は、ジャンパーじゃないから事故とはいえ無事じゃないだろう。
イネスさんもいるかもしれないが、
死んでいたと思うから一度除外してもいい。
それに生きていたとしても今は火星に居るはずだ。
…現状だとラピスの方が不安だ」
「ラピスは…ごめんなさい、
私がマシンチャイルドでなくなってしまって、見つけられないんです」
「仕方ないよ。地道に探そう。
もしかしたらまだこちらに来ていないのかもしれないし」
「やっぱりリンクが感じられないんですか?」
「うん。
…でも、この世界にいれば必ずつながるはずだから」
俺はラピスの事を考えたが、探す方法も、助ける方法も、今はないと思えた。
ただ、昏睡が長すぎたせいか、
このアパートの階段を上りきるにも、息が切れそうだった。
鍛えるにも、時間がかかりそうだ。
「…ただ、いくつか不安もあるんです」
「なに?」
「私達のこの姿、このIDが何を示しているのか分からないことです。
マシンチャイルドでなくなり、ユリカさんによく似た私、
マシンチャイルドの容姿に近い、五感の回復したアキトさん、
そしてホシノ姓の私達。
なんか出来過ぎてる気がするんです」
「…そうなんだよな」
俺は頬を掻きながら思案した。
ルリちゃん曰く、
マシンチャイルドの中でも「ホシノ」という姓はルリちゃんしかいなかったらしい。
成功例が極めて少なかったということもあるだろうが…。
さらにルリちゃんの現在の名前は「ホシノユリ」。旧姓も「ホシノユリ」。
俺の名前が「アキト」っていうのもおかしい。
ルリちゃんは既にこの時代のテンカワアキトに出会っているらしい。
同じ見た目で、同じ名前になるようなことが、あるだろうか?
しかも、「ホシノユリ」はマシンチャイルドではない。
作為的なものを感じが、それを裏付ける情報がない。
何故だ…?
「もっと言えば姿かたちが変化したりするということは、あり得ない。
ランダムジャンプで地球に来たり、月に行ったりはしたことがあるが…」
「…でも、これを解明するのには、少し時間がかかりすぎます」
「…そうだね」
イネスさんが、この時代に居れば何か分かりそうだが、
きっとナデシコに乗り込まなければ彼女の安否は分からないだろう。
乗り越えるべき課題は、
ラピスを見つけ、ナデシコに乗り込む、ということだ。
ひとしきり話したところで、俺は心地よい眠気を覚えた。
…既に深夜の一時半だ。
「…久しぶりに現実に戻れて、お腹もいっぱいになったし、
いろいろ話して、疲れちゃったよ。
もう、寝ようか?」
「あっ…」
ルリちゃんは、就寝を促すと、身体を硬直させた。
話を打ち切ってはいけない、なにか言わなければいけない事があるように見えた。
…彼女の次の言葉を待った。
「…言わなければならないことがあります」
「…なんだい?」
「…あのっ…そのっ…」
ルリちゃんは、気が動転していた。
怒られる事を恐れる、子供のような迷いを感じた。
「ユリカさんが…脳をクローンとすり替えられた事は…そうなんですが…。
そのクローンの脳を破壊して…ユリカさんの体と共に殺したのは、
私なんです…」
「…」
ルリちゃんの告白は、俺にとっても衝撃は小さくなかった。
だが、ルリちゃんは自分の命を差し出してでも─
ユリカ殺しを俺に伝えなければならないことだと、思っているようだった。
「ユリカさんのオリジナルの脳がどこにあるのか分かれば、
きっと何とか出来たんですが、でき、なくて─。
ごめん、なさい…。
私、これを伝えないと、アキトさんと一緒には…」
ルリちゃんは、きっと自分がユリカを止めないといけないと思ったのだろう。
彼女の懺悔の言葉は、俺が巻き込んだすべての人に言うべき言葉だ。
俺は、本来生きていてはいけない人間のはずだ。
未来がリセットされたとしても、罪がリセットされるとは考えたくない──。
「…俺があの場に残って居たら、俺がそうしたさ。
責められるべきは俺なんだ」
「で、でも!」
「…ルリちゃんは何も悪くない。
いいんだよ、ルリちゃん。
君は、俺の隣に居てくれ。
そうでないと、俺も…」
俺は、ただルリちゃんを抱きしめた。
俺は人殺しの罪を、共有したかったのだろうか…。
火星の後継者だって、人間だ。
あの地獄を作った奴らでさえ、俺達と同じ人間だった。
それを数百と奪い、コロニー住民を難民にしてしまった。
…比較のしようなどないはずだ。
「ぐすっ…ごめんなさい、ごめんなさい…」
ルリちゃんは俺に許してほしいとも言わず、懺悔を続けていた。
「大丈夫…きっとユリカも、
君が居てくれて良かったと思っていたさ」
これは、確信を持っていることだ。
本来俺がやるべきことだった。
みじめな生から、ユリカを解放するべきだった。
「ルリちゃん、聞いてくれ」
そして俺も、ルリちゃんが自分の罪を告白した今。
言わなければならないだろう。
そうでなければ、ルリちゃんと一緒に居ることも、生きることも叶わない。
「俺は、火星の後継者を、感情のままに殺し、踏みにじった。
…実験台にされた人の復讐でも、ユリカを奪ったことへの復讐でもなく、
奴らが許せなかっただけで、火星の後継者の実験施設を襲い、
抵抗できない人間を、嬲り殺しにしたんだ。
…君とは違う。
君は、ユリカを救ったんだ。
みじめな翻訳機ではなく、人として死なせてあげたんだ。
だから、そんな顔をしないでいい…。
俺は、そういうこともできない、最低の人間だから…」
「アキトさん…」
俺が、ルリちゃんに引き金を引かせたんだ。
その事実は変わりようがない。
「…私は、アキトさんの気持ちが分かりません。
ユリカさん以外の人を、
直に手を掛けた事もありませんから。
分かりようが、ありません。
でも…」
ルリちゃんは、俺を抱きしめ返した。
「…きっと、私が同じ立場になって居たら、
ナデシコCで火星の後継者の艦隊を電子制圧をした時…。
私はすべての艦の生存に関わる機能を停止させ、
彼らの顔も見ずに、皆殺しにしてしまったと思います…」
ルリちゃんの言葉に、嘘はなかった。
人は、相手の姿が見えなければ、意外とあっさり人を殺せる。
そうでなければ、戦闘機や機動兵器でここまでやり合えない。
「…もうやめましょう?
戦争がある限り、やめられないんです…。
結論なんて出せっこないです」
「だけど…」
「戦争の種を刈り取る方法以外は、取れないはずです。
私達はその過程でどんなに努力をしても、
手の届かない場所で人を死なせないのは不可能です。
確かに、先を読んで行動していけば…死んだ人の数を減らすことは出来ます。
アキトさんが殺した分だけ、助けることも出来ると思います。
でも、そんな罪の償い方、人を数字にするのと変わりません。
人を数字でとらえて、命を奪うのも、生かすのも、
同じ命の軽視に過ぎない…そうは思いませんか?」
「…」
俺は、反論できなかった。
確かに殺すよりは生かす方がずっといい。
これからは生かす方向で動きたい気持ちがあるし、そうするだろう。
ただ、それを突き詰め過ぎれば、シミュレーションゲームになる。
結果として、損害を減らせたという成果を、数字上で確認するだけ。
つまらない為政者と何も変わらないだろう。
…俺は無意識に数の議論に持って行こうとしていた。
だめだな、これじゃ。
「…ですからアキトさん。
もう誰も殺さないで下さい。
私も、殺しません」
「え…?」
間の抜けた声を出してしまった。
唐突に出てきた、結論のような、ルリちゃんの頼み事。
あっけにとられる俺の目を、ルリちゃんはじっと見ていた。
「…これだけ後悔しているんです。
もうアキトさんは、もうそんなことは絶対にしない」
「…どうかな、ルリちゃんを守るためなら…。
躊躇なく、殺すと思うよ」
ルリちゃんは、俺の発言を聞いても、
首を横に振った。
「しませんよ。
だって…。
「──」
──見抜かれていた。
俺は現金にも五感を取り戻した事で、
「生きたい」と心の底から、願うようになっていた。
我ながら独善と偽善に満ちていると思ったが、
こんなに生きているだけで幸せを感じられるようになっている。
既に死ぬという選択を、取れなくなっていた。
「アキトさんの顔は、あの時の死を望む顔ではありません。
今後、人を手に掛ければ、この幸せさえも失うと知っているから。
アキトさんは、『普通の人』に戻されてしまったんです」
「…うん」
ルリちゃんが言っていることのほうが、俺の認識より正しかった。
俺の意識だけがボソンジャンプで飛ばされ、別の肉体に宿った。
俺はもう「テンカワアキト」ですらない。
この時代の「ホシノアキト」でしかない。
罪状もなければ、死ぬ理由もない。
ただ、俺は「未来のテンカワアキトが起こす犯罪」を知っているだけだ。
…何とも卑劣、卑怯な屁理屈だ。
だが、この屁理屈にすがってでも生きたいと、願っている。
それでいい、とは言い切れなかったものの、
俺がその犯罪を起こさず、テンカワアキトにも起こさせなければ、まだマシだ。
少しマシな未来を作るために、生きていてもいいだろう…。
「お願いです。
私と居て下さい…そうじゃないと、
私、きっと早死にしちゃいます」
「…わかった。
ずっと、一緒に居てくれるかい?
ルリちゃん」
「はい…!」
俺は生きたい。
ルリちゃんと生きたい。
幸せに生きて、静かに一生を終えたい。
もはやその気持ちに、逆らうことなどできなかった。
かつて火星の後継者に奪われたものをすべてを取り戻していた。
─私達が自分たちの罪を告白しあって、
どれくらい経過したでしょうか。
私達は、しばらく抱き合っていました。
「…落ち着いた?」
「…はい。今日はもう寝ましょう」
すでに大分遅くなってしまいました。
布団を敷きこうと思って、私は気づきました。
「…忘れてました。
ここ、おおきな布団一枚しかないんです」
「そ、そうだね。
い、いいよルリちゃん、布団使って。
俺は我慢すれば眠れるから……」
アキトさんは、びっくりしたようでしたが、
これは譲ってはダメです。
だって…。
「ただでさえ、まだ体が良くないのに、
何かあったら、私…」
これで何かアキトさんにあったら、後悔しきれません。
せっかく、生きて戻れたのに…。
「ご、ごめん。でも、嫌だったらちゃんと出るから」
「嫌なんかじゃありません!
最初から聞いてたなら私の気持ちも分かっているはずです…。
なんでそんなひどいこと言うんですか!」
「…ごめん、ルリちゃん。
まだ早いと思うんだ」
アキトさんは、男女がひとつの布団で眠ることに、まだ抵抗があるようです。
…そんな事を気にするような関係でも、ないんですが…。
「…そういう問題じゃ、ないんです。
気にしないで下さい」
「…君の姿を見ると本当にユリカそっくりで、意識しちゃうんだ」
アキトさん、ずるいです。
そんなこと言われたら…何も言えないじゃないですか。
「…私は、代わりでも、良いです」
「ダメだよ。
自分を大切にしなきゃ」
アキトさん、ずるいことばっかり言ってます。
ずっと一緒に居てほしいなら、
肩書通りになるしかないんですよ?
「私はその…肩書だけじゃなくてちゃんと夫婦になっても…」
「…君の想いは受け取るよ」
意外でした。
アキトさんは、まだユリカさんを引きずっているとばかり…。
「そ、それって…」
「…ごめん、まだ結論が出ないんだ」
「どう、して─」
「俺は、君を女性としてはまだ見ていない」
「!」
さっきまでのアキトさんは、戸惑っているだけのようでした。
ただ、今度は私をまっすぐ見て、言いました。
アキトさんは、嘘や建前で話せない人です。
相手から逃げているときは視線が合いません。
でも、今は私の気持ちに、ちゃんと答えてくれている。
…それ自体はとっても嬉しい事なんですけどね。
「アキトさんのいじわる…」
「…何て言われてもダメだよ」
「…譲歩してくれているのも分かります。
アキトさんの性格だと、一生、ユリカさんだけを想ったっておかしくないです。
それどころか、妹としてしか見てくれなかったかも…」
「…うん」
「でも、体の事がありますから、一緒に寝て下さい」
「分かった、そうするよ」
ひとまず、妥協点を見出すことはできました。
…妥協点だけで終わるのは、悔しいところもありますが、
アキトさんに急激に迫っていいのはユリカさんだけです。
私はああいうことをしても不自然になるだけですし。
何より、ユリカさんの事を考えるとまだ胸は痛みます。
今は、これでいいんです。
「おやすみ」
「…おやすみなさい」
アキトさんと、一緒に眠れる。
嬉しい気持ちでいっぱいです。
本当は緊張して眠れなくなってもいいはずですが…。
いろんな話をしすぎて、一日中アキトさんの事でいっぱいで…。
アキトさんが、ずっと一緒に居てくれると言ってくれた安心感と、
この2ヶ月の蓄積された疲れで、
すごく…ねむ…く……………。
ルリちゃんは疲れ切っていたのか、深く眠っている。
俺は、自分のしてきた事について考えていた。
ヤマサキを撃った時点で決着を付けることが出来た、という気持ちに嘘はなかった。
晴れやかな気持ちや、達成感は得られなかったが、
復讐の完結として気持ちを落ち着けてくれた。
それが良かったのか、ルリちゃんを想う気持ちを育めた。
俺がルリちゃんに惹かれ始めているのは事実だ。
妹と思っていた子が、成長して俺を言い負かすくらい、強くなっていた。
そんなルリちゃんの想いを聞いてしまった。
あとは自分が答えられるかどうかで…。
今なら、ルリちゃんと男女の関係になって生きることも、きっと選べる。
それでも…まだ俺の心にはユリカが住んでいる。
ルリちゃんがもし、あの時のままの姿だったら、
もう少し、踏み込んだ答えも伝えられた。
でも、ユリカになまじ似ていると、抵抗があった。
結局、ルリちゃんをユリカの代わりとしか見ていないのでは、と自分を疑った。
ルリちゃんと生きること自体には、迷いはないんだが…。
とはいえ、今は…考えにふける余裕は、ない…。
なにしろ…。
戸惑いの中にあっても、五感の戻った俺には…。
布団の温かさと…。
ルリちゃんの温かさは…とてもとても心地よくて…。
ねむ………………。
どうもこんばんわ。武説草です。
新生テンカワアキト、新生ホシノルリ…。
ホシノ夫妻と名乗っての登場です。
それはそうと、もろもろ考えた結果、
今回は「時の流れに」の二次創作(ナデシコの三次創作)ではなく、
あえて「機動戦艦ナデシコ」の二次創作で行こうと考えました。
北斗もゲスト的に登場してますが、あくまでメインはナデシコです。
ちょっといろんな工夫を凝らしてみようかと思います。
どうぞお楽しみに。
そしてタイトルの「機動戦艦ナデシコD」のDとは何か!
それも想像しつつ(あるいはバレバレですが)、ご覧いただけると幸いです。
ベタに…ベタに行きます!(ホントか?)
それでは次回もまたお楽しみに!
PS:最近ルリちゃんがなんかすごくかわいいです。
過去にボソンジャンプしたアキトとルリ。
新しい体、新しい名前を手に入れ、
すべてをリセットされてしまった二人は、
まさにナデシコ世界に降り立ったアダムとイブ!
過去を乗り越え、戦争を乗り越え、幸せをつかみとれるのかッ!
そしてなぞの男女二人の意味深な会話はなんなのか!
禁断の果実に手を出さずにいられるのか!
完結できずに10年あまり、
『時の流れにRe:Make』の連載を心待ちにして5年の、武説草良雄が送る、
ラヴ&ピース&生活感全開&趣味全壊の新連載、
をみんなで見よう!
感想代理人プロフィール
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代理人の感想
ふーむ・・・何か凄く懐かしいノリだw
とはいえ、あいつらやあいつらが来てるならあいつらも来てるよなあ・・・
さてさて。
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