会場内は秘密を守れる限られた招待客たちの熱気で満たされていた。
観客たちの興奮は当然だと言える。
こんな試合は地上波で見ることなどできない。
総合格闘技の試合はあくまで『異種格闘技戦ではなく総合格闘技用ルール』。
この出資をめぐる非正規ファイトは戦闘不能になるまで戦うというルールで、
だからこそホシノアキトの本領が発揮されたのだと思う。
今回の5試合すべてジャイアントキリングの連続。
それほどまでにホシノアキトという人間が規格外のファイターだった。
確かに、私も一定以上の満足感を得ることが出来る試合ばかり。
だけど、こんな結末は望んでいない!
ホシノアキトは多数の青あざこそ負っているけど、
普通に立っていられるくらいのダメージしかない。
それどころか、最後のユン以外のファイターから頭部に直撃を受けなかった。
凡人なら彼を『100年に1人の逸材』と評するでしょうけど、
これは才能だけで何とか出来るものではない。
彼には経験がある。
それも10年以上にわたる実戦でしか手に入らないような濃密な経験がある。
自分で打撃を受け続けて覚えた、戦いの本質を覚えるかのような…。
そんな鍛え方をしてきたように思える。
けど、不自然ね。
そんなことをしていたらパンチドランカー症状に苦しむはずだし、生傷がない。
少ないのではなく、まったくない。
まるで赤子のようなきれいな柔肌。
筋肉量もボクサーでも総合でも、プロレスラーでも居ないほど細身。
それに彼の年齢から言えば『攻め方が若くない』。
10代の選手というのは自分主体の試合運びをして、相手にスキを作るのが定石。
宇田川選手のやりかたもそうだった。
逆に、彼は相手の攻撃を良く見て、それに合わせたり対応したりするのが主体。
どちらかと言えば体力がない30代後半以降の選手が良くやるやり方なんだけど…。
ホシノアキトはあくまでクールにこの試合全体を見ていた。
いえ…この試合程度は、通過点に過ぎないのかもしれないわね…。
何はともあれ…敗軍の将は潔く…。
「…これまでね。
アキト君、マリア、あんた達の勝ち──」
「ちょーーーーっと待った!」
私の声を遮ってリングに降り立った男がいた。
あの男は…!
「俺はヤガミナオ!
ホシノアキト、俺と戦ってもらうぜ!」
伝説のファイター、ヤガミナオ…!
あなたなら…!
俺は久しぶりの自由を満喫していた。
とはいっても後ろ向きな理由だが。
一つ前のボディーガードの仕事で、それなりに良い線いってたんだが、
護衛対象をほっぽらかして暗殺者の一番の手練れと長いこと戦ってしまった事で首になった。
本当は暗殺者は暗殺がしづらいと気づけばひとまず引いてくれるんだが、
つい強そうな相手を見ると深追いしてでもちょっかいを出したくなっちまうんだな。悪い癖だ。
護衛対象は俺が暗殺者全体を引き付けたので無事だったものの、
俺以外のボディーガードの練度が低すぎるので俺が抜けるのは論外、という評価が下っていた。
この点については俺も理解はしていた。
首になるほど酷評されるとは想像が及ばなかったのはまずかったが。
まあ、元々ちょっとお堅いところのボディーガードの仕事で、
不満はなかったが堅苦しいのは苦手で辞めてもいいか、
とあきらめがつくまではよかったんだが…ただ次の仕事に明るい展望がない。
何しろボディーガード関係では『腕は立つが独断専行が目立つ』という評判が広まっているし、
かといって海外で傭兵家業というのも性に合わない。
シークレットサービスのスカウトはクリムゾンからいくつか来ていたが…あそこは評判が悪い。
最後の手段にしておきたい。
そんなわけで、俺はそれなりに高給だった前職の貯金と退職金を食いつぶしながら、放浪していた。
何度かこうした期間は過ごした事がある。転職までの間、俺はこうして放浪旅行をしつつ、
アマチュアのストリートファイトを観戦したり参加したりするのが好きだった。
彼らには負い目がない。
ただ自分の強くありたいと思う気持ちを、ありたいと思う方法で貫いている。
通常の格闘家であればルールや時期、ランク付けなどに左右され続けることになる。
だから俺はこんなに格闘好きなのに格闘業界には行かなかったんだよなぁ…。
公園でストリートファイトを眺めていたら、端末にメールが届いた。
倉石ジムからだ。
俺はここでの非正規試合に何度か出させてもらったことがある。
ルールがやや緩く、また本物の格闘家とも戦える機会が多いので、良い場所だと思っていた。
なので非正規試合があるときは選手じゃなく観客としてでもいいので呼んでおいてほしいと頼んだ。
実際、満足できる試合ばかり見れる。
だが…今回は、見ているだけじゃ満足できなかった。
ホシノアキト。
あいつは、ホンモノだ。
表現しづらいが、若者独特の粋がりも、こなれてきたファイターの諦めも、ロートルの強がりも感じない…。
本当の意味で「自分を守るため」に強くあろうとしているのが分かる。
何より、明らかに不利な体格の相手にもクリーンファイトで臨んでいるのがいい。
実際それを押し通すだけの実力を持っているが、過度に技におごっている感じもない。
それに…間違いなくまだ何か隠し持っている。
このホシノアキトという男は底が知れない。
見せてもらうぜ!
参ったな。
満身創痍とはいかないが、それなりに限界が近くなってきている。
ここからあと一人、行けるだろうか。
…だが、このヤガミナオという男はごまかしが効かない。
恐らく先ほどのユンという男より数段上の強さだ。
ただ構えたヤガミナオの構え、身のこなしは軍人格闘技の類から派生した我流のようだ。
つまり必殺技のようなものはあまり持ってないようなので、見た目より堅実に戦ってくるタイプ。
死ぬ可能性は低いが、ユンと互角の俺には少し荷が重いな…。
とはいえ、逃がしてくれる雰囲気ではない…。
「どうした?怖気づいたかい?」
「ふ…ちょっとだけな」
──挑発なのになんだか憎めないな、この男。
素直に答えてしまう自分に笑ってしまう。
『ホシノアキト!
そのヤガミナオに勝てたら10億の出資をしてもいいわよ!』
ヨーコさんがマイクで俺に呼びかける。
…やはり、この男の実力は既に知っているのか。
だが10億か…。
勝てれば大きな前進が可能だが、それでも危険は大きいかもしれない。
「おい、ナオだぜ!?」
「あいつも5人抜きしたんだろ!?」
「いい勝負になるんじゃねぇの?」
「アキト様ー!あんなグラサン男たたんじゃってー!!」
観客にもかなり有名な人のようだ。
この非正規ファイトを勝ち抜くのはなかなかないことなんだろう。
「アキト君、もういいわ!
これくらい稼げば十分じゃない!」
「まだ行けます。
…3回ダウンしたら、タオル投げて下さい」
3ダウンKOはこの試合にはない。
それを基準にして戦うなら、比較的不安はない。
なによりこのヤガミナオは殺気を放っていない。
あくまでスポーツのように格闘試合を楽しみたいだけのようだ。
そうなると、危険度はぐっと下がる。
と考えたところで、俺に別の考えが浮かんだ。
「あ…。
すみませーん、ヨーコさん1時間ほど休憩もらっていいですか?」
『構わないわ。
ナオも準備が必要だし、
さすがのアキト君も疲れたでしょうから』
「それもなんですが…」
「…は、腹減っちゃって」
会場内がずっこける音を聞いた気がした。
さすがに俺も腹の音を聞かれてしまって恥ずかしい。
「あ…アキト君ったら…。
私、何か買ってくるわよ」
「待ちナ」
眼上さんの後ろに、先ほど対戦したレスラー、イワン選手がぬっとあらわれた。
「セコンドは次の試合に備えて選手の治療ヤ、
アイシングで体調を整えるもんだゼ?
俺がパシってやるから良いファイトを見せてくれよナ」
「イワンさん…」
モヒカン頭の強面が、にこやかに笑って、
俺の食事を買ってきてくれることになった。
私は一度アキト君をリングから降ろして、治療を開始した。
両手両足の青あざの数は常軌を逸している。
倉石ジムが貸し出してくれた医療箱から筋肉痛の塗り薬と、
冷却スプレーを取り出し、疲れが集中している場所にかけた。
「気休めにしかならないでしょうけど、
少しくらいは治療をしておきましょう」
「ありがとう、眼上さん」
上目づかいで微笑んで私を見つめるアキト君が、
先ほどの玄人の戦いに反して年相応に弱気に見えて、少しよろめいた。
「そ、そんな目で見ないでよ…ドキッとしちゃうじゃない」
「やだなぁ、お世辞言わないで下さいよ」
ここまで売れてて無自覚なのはちょっと問題だけど…。
売れていようが関係ない態度で居られるのは、美点と言わざるをえないわね。
それにしても親と子ほども年齢が離れててもその笑顔って通じるのね…ほとんど凶器だわ。
「腹の切り傷は大丈夫?」
「こっちは皮一枚ですからばんそうこうもいらないくらいですね。
ちょっと消毒して軟膏塗ればいいっす」
「はいはい」
アキト君は治療が終了すると、
軽く柔軟体操をしながら対面のヤガミを見つめていた。
「…勝てるの?」
「…多分勝てないと思います。
でも、なんかあの人とは戦ってみたい…戦いたいって思わせてくれるから。
それに正統派の戦い方をするみたいで、いい試合ができそうです」
アキト君はなんというか、友達を見つけたかのような表情でヤガミを見つめていた。
男同士じゃないと分からないような…そんな、奇妙な縁というか結びつきを感じているのね。
そうなると、私では止めるにも役者不足というものね。
「オイ、アキト。買ってきてやったゾ」
「ああ、ありがとうございます。
おいくらですか?」
「…合計8000円ダ。
お前、本当に試合前にこんなに喰うのカ?」
「それじゃこれで。
…ええ、これくらい食べないと戦えそうにないです」
イワン選手は両手に抱えた大量のビニール袋を簡易テーブルに置いた。
アキト君はイワン選手に代金を渡すと、早速ビニールの中身を取り出した。
中身は牛丼の並盛だった。
「…ねえ、イワン選手。
牛丼何杯買ったの?」
「20杯だナ」
「…ほかに何か買ったの?」
「1.5リッターのコーラ2本だナ」
「ちょ!?アキトくん本当に大丈夫なの?!」
「ふぁい?」
アキト君は私が目を離したすきに既に牛丼を3杯平らげていた。
次は喉の脂を流し込むためなのか、コーラを手にして半分近くを一気飲みした。
「オイオイオイオイオイオイオイ」
「死ぬわアイツ」
「死ぬな」
「死んだな」
「あなた死ぬわよ」
「あっという間に死ぬぞ」
…セコンドの私も、こんなことしてたら死ぬと思う。
本当に危険だと思う。
試合そのものより危険だと思う。
私達の思惑をよそに、アキト君は20杯の牛丼並盛と、
コーラ2本を胃に収め…いつも思うけど、あの体のどこにあの量が入ってるのかしら。
食べ終わると同時に急にリング下のマットに横になって眠ってしまう。
…子供じゃないんだから、もう…。
「ホシノアキトってキン肉星出身なのか?」
「あんなん見ると腹減るよな」
「これ終わったらなんか食うか?」
宇田川選手と加藤選手がアキト君の様子を見て雑談している。
「ズンドゥブ食いに行かんか?」
「それよりボルシチだロ」
「…フン」
「ユンさんは愛想がないねぇ~まったく」
「気安く呼ぶな」
「なんだよっ!!」
「やる気か、ザコめッ!」
加藤選手がなれなれしくユンに話しかけたのがきっかけか、
二人は勝手にリングに上りこんで、前座試合気味に戦い始めた。
…血の気が多いこと。
「くうっ…大量に喰えないのがボクサーの辛いところだぜ…」
宇田川選手、苦悩の日々を送っているのね…。
あ、加藤選手がユン選手に吹っ飛ばされてる…。
俺もさすがに食べてすぐ動く事はできないので、眠って十分に体を休めている。
会場内の喧騒は聞こえているし、呼ばれればすぐ起きられるだろうが、
それにしても結構無防備に無謀な策をとっているとは思う。
(アキト…勝てるの…?)
ラピスの声が聞こえる。
喧騒に混じっている割に、はっきりと彼女の声が聞こえる…。
やはりリンクは切れていないのか?
(そんなこと、後でいいよ。
…大丈夫なの?)
死にはしないよ、大丈夫。
(うん、アキトを信じる。
元気で会おうね、アキト)
ああ、ありがとうラピス。
「さて…行くか」
俺は目を覚まして、もう一度柔軟を始めた。
俺は柔軟体操をしながら、眠っているアキトのほうを見る。
生で見るホシノアキトの大食いは、テレビで見た通りの非常識さだった。
もっとも、このマンガみたいな暴飲暴食がなければ戦えないと本人は言うんだろうが…。
横になっているアキトは体からもうもうと湯気を立てて、
腹の中身をエネルギーに変換しているようだ。
俺もちょっとくらい何か腹に入れとくべきだったか。
まあ、仮にもプロだ。
コンディションは常に悪くはしていないので大丈夫だろうが。
「ヤガミナオ、ちょっと」
「はい?」
倉石さんが俺に話しかけてきた。
少し内密な話らしく、一度リングを降りた。
倉石さんはリングから少し離れた場所で、神妙な面持ちで俺に話しかけた。
「…試合中にホシノアキトを殺して欲しいの」
「バカ言わないで下さいよ。
これはただの野試合なんですよ」
倉石さんは、いつになく血走った眼をしている。
…こんな人ではなかったと思うんだがな。
確かに残虐な試合を好むが、
格闘家本人のやり方まで捻じ曲げるような人ではなかったのに。
「ファイトマネーは弾むわ」
「いくら積まれてもダメです。
俺はこの試合を楽しみに来ているんです。
殺し屋の真似事をしに来ているわけじゃないんで」
俺自身の信念というわけではないが、無益な殺生は好まない。
俺も仕事上、何人か殺しているのは事実だが、
相手が殺しに来ているからそうせざるをえないのであって、
非正規試合にも関わらず…特に戦わせてもらっている恩義があるにしても、
格闘で相手を殺せとは非常識なことだ。
それほどまでに負けが込んでるのが癪に障るのか?
「…じゃあ言い換えるわ。
必ず勝ちなさい」
「…なるほど。
意地の悪いおっしゃりようで」
そう言われると、俺も本気にならないわけにはいかない。
ホシノアキトは一筋縄ではいかない。
俺も腕の一本くらい差し出すつもりでなければ、
泥仕合になる可能性はある。
そうなると強烈な一撃を出すしかない。
…だが、それは『死ぬ可能性のある一撃』を出すしかなくなる。
死なせるつもりはなくても、うまくいかない場合もある…。
まあ、そんときゃ恨むなよ。
俺も死ぬ覚悟くらいははしといてやるから、な。
飛行機の遅れで先ほどようやく東京に戻ってきましたが、
やはり遅れは否めません。
アキトさんが急な仕事が入ってしまったので、
帰りに迎えに来てほしいと眼上さんから言われて空港へ車を止めて来たものの、
なんだかあまり良い予感がしていません。
急いでいたとはいえ眼上さんが仕事の内容を言わなかったのが気になりますし、
終了時間が伸びるようなこともあまりないので、
あやふやな時間指定で呼びつけるのも不自然極まりないです。
実を言うと、それでも眼上さんの事は心配していません。
この迎えにくるという行動すらも、何かしらの意図があるはず。
ただ、アキトさんは嘘をつく可能性があります。
この間のキャバレーの一件でも、それが分かっています。
アキトさんは「傷つくのが自分一人」であるなら躊躇なく不合理な嘘をつく。
現実的に傷つくのはアキトさん一人じゃないのに、
最終的に帳尻が合っていればいいっていう投げやりな結果論を選ぶ。
それが本当にアキトさんの気持ちなら、良いと思います。
でも…アキトさんは自分の気持ちを押し殺して、理屈で不合理な嘘を押し通す。
そんな不器用なところは変わらないんだから…。
…これがただの取り越し苦労であれば問題はありません。
でも、きっとそうじゃないって…妙に強く、確信しています。
端末が着信したので、ハンズフリーに切り替えて応答します。
「はい、ホシノです」
『ユリさん!?至急倉石ジムまで来てくれる?
あなたが必要なのよ!』
「分かりました。急いで行きます」
眼上さんの着信…嫌な予感が的中しそうです。
いえ、まだそうと決まった訳ではありません…。
ジムというのが気になりますが、
まずは確かめなければ、ならないでしょう。
──もう何分ぐらいこうしている?
俺の手足には、先ほどのユンとの打ち合いで刻まれたあざが、
すさまじい速さで上書きされてしまっている。
このヤガミナオという男、本当に隙がない。
全盛期の俺であれば比較的苦戦せずに倒すのは可能だろう。
だが、なまじ見える攻撃に体がついていかないのは歯がゆい。
自分の目がだんだんと格闘のスピードに慣れてきたのは良いが、
それをなお上回ってくるほどの重い攻撃に耐えるのは大変だった。
何しろ、こちらからの反撃が全くできない弾幕のごときラッシュが続いている。
「おらぁっ!」
ナオのパンチを正面から受け止めて、吹き飛ばされてコーナーポストにたたきつけられてしまう。
「ぐ…」
「まだ上がありそうな割に、息が絶え絶えだな」
ナオは俺を待つように構えを解いて、反対側のコーナーポストに寄りかかった。
この試合はラウンド制ではない。プロレス式の無制限一本勝負だ。
俺の方が体力には不安がある…連戦の消耗も、さすがに完全には回復していない。
条件は整っているとは思うが…相手が悪いな…。
「…アキトさんッ!!」
ユリちゃんが来てしまったか…。
こりゃぁ、お説教をもらわないのは無理か…。
「言い訳はちゃんと聞きますから、もういいです!
ギブアップして下さい!」
「そうはいかないよ…」
俺はユリちゃんがタオルを投げようとするのを制止する。
この程度の戦いでくじけていては、いろいろおぼつかないからな…。
「立ち上がれたか?
ことのほかタフだな」
「あいにく、こういう時に黙って寝られるほど根性なしでもないんだ」
「美人の嫁さんの目の前で頑張ってるワケか。
うらやましいね全く」
「御託はいい。
続きだ」
「はいよっと!」
俺はファイティングポーズをしっかり構えたが、
ナオは少しステップを踏んで身軽そうに蹴りを連打してきた。
一見すると手を使わないハンディキャップをつけたように見えるだろうが、
この場合リーチで劣る俺が蹴りのみで責められると厳しいところがある。
俺の腕では重さが受けきれず、ナオの蹴りに骨がきしむ。
しかし、それを強制的にアドレナリンでごまかし、
逆にナオの軸足を狙って足払いをする。
ユンとの試合まではアドレナリンの制御がうまくいかなかったが、
ナオの優れた技術に、俺の感性まで磨かれて、勘を取り戻しつつあった。
ナオはダウンこそしなかったが、さすがに揺らいで体制を整え始めた。
「どこでこんな裏の格闘技を身につけたんだか知らないが、
お前さんのその身体じゃ、勝てっこないだろうに!!」
分かっちゃいるが…ッ!
再びナオの強烈なラッシュが襲い来る。
既に防戦一方だ。
ナオは俺の戦闘技術が通常の格闘者と違うと看破している。
痛みを押さえての反撃は、無意識に出来るようになるものだが、
コントロールするところまで持って行くのは達人レベルか、
諜報戦などを得意とする裏の人間のレベルにならないとできない。
とはいえ、俺の今の筋力は良いところ駆け出しの格闘家に毛が生えたレベルだ。
俺は焦りを押さえきれない。
ナオが指摘した通り、俺の筋力ではナオの筋肉を撃ちぬけない。
ナオはイワン選手よりずっと筋肉量は低いが筋肉の密度と柔らかさがけた違いで、
生半可な攻撃では貫通できない。
頼みの綱の木連式柔は、
ナオの攻撃が質・量ともに俺に数段勝っているため技を選ばないとかけられない。
そうなってくるとナオの攻撃をうまくさばいて機会を待つしかないが…。
あと何分持つだろうか。
諜報戦だったらヒット&アウェイや地形利用で時間を稼ぐのもアリだが、
ここはリングだ。ごまかしがきくような相手ではない。
そうなると普通は頭部への打撃を狙うべきだろうが──
護衛を専門とする男が頭の防御を怠るわけがない。
この点は俺も同様だが、体力体格の差で崩される可能性がある。
「どうしたどうしたぁ!」
「くそっ…!」
─そろそろ勝負にでなければ体力切れでギブアップせざるをえなくなる。
だがナオには油断が見えない。
優位に立てば油断の一つもしていいが、こいつはファイターとしては超一流だ。
きっと俺がダウンするまで、呼吸を乱すようなヘマはやらかさないだろう。
ワンツーパンチからのハイキックで、俺は体ごと吹き飛ばされる。
すべてしっかり防いでいるにも関わらず、体の芯まで威力が伝わってくる。
見た目以上にこの体格差はことのほか深刻だった。
リーチで負けている状態で、さらにこちらの行動をかなり制限できる。
正統派のクリーンファイトが、かえって隙のない完璧なファイトを作っていた。
「おらぁっ!」
「遅いッ!」
だが、ついにナオは決めの一手を打ち込んできた。
カウンター気味のフック。
その威力は、おそらく受けていれば一撃KOもあり得るほどだ。
横からのフックは面と向かって戦う相手には、
不意打ちのような効果があり防御が遅れやすい。
しかし、反面空振りしやすい。
俺は頭部を狙ったナオの左フックを腰を沈めて避けつつ、
全体重を乗せた肘鉄でナオの顎を打ち抜いた。
「あの野郎、またやりやがった!」
宇田川選手の叫び声が聞こえる。
さきほどの宇田川選手に対して打ち込んだカウンターの頭突き同様、
相手の振りが大きい技を見抜いて打ち込むカウンターは、木連式柔の基本戦術と言っていい。
木連式柔は、一見すれば一人二人まとめて投げ飛ばすような派手な技が目立つが、
本来は空手・柔道や合気道の発展形で、それを柔術として体系化・実践的に仕上げたものだ。
このカウンター技術は、
男児が必修する木連式柔・硬式、
女児が必修する木連式柔・軟式、どちらにも共通する技術だ。
全身のバネを効かせたカウンターは、まさに一撃必倒。
体格差を覆すには、正確無比な『後の先』が要求される。
それを忠実に守った俺の肘鉄が、ナオをノックアウトしてくれると確信していた。
だが…。
ナオは崩れ落ちはしなかった!
にいぃっと笑ったナオが、俺の頭をつかんでナックルアローの体勢をとった。
「しまッ…」
こめかみを直撃され、意識が遠のく。
逃げ場のない状態での一撃に、俺はなすすべもなく吹き飛ばされた。
重い。
膝に力が入らない…。
立てるか…!?
「やめとけ。もう一発喰らったら死ぬぜ」
ナオの警句はもっともだ。
だが、どうにも…負けたくないという気持ちが先行しているのか、
俺は立ち上がってしまった。
「バカだな、お前」
「バカじゃなきゃこんなところにいないよ」
ファイティングポーズが震えているのがわかる。
すでにナオの姿をとらえるのも、一苦労だ。
「アキトさん、もういいです!
もう頑張らないで下さい!」
ユリちゃん、ごめん。
もうそんなことを考える余裕すらないんだ。
俺には前に進む気力しかない…!
「決めるぜ!」
「こい…!」
だが、俺は踏み出したとき、悟った。
俺の肉体はすでに限界だった。
構えた拳が力なく落ちると同時に──。
足を踏み外すように転びそうになりつつ──。
俺の意識は、闇に落ちていた。
これで決着──そう思ってはいた。
しかしあまりに想定外の事が起こってしまった。
「アキト君!」
「アキトさん!」
やばいッ!!
このタイミングでアキトが意識を失うってのは考えていなかった。
だが、このタイミングはまずい!
俺の拳が、運悪くアキトのこめかみをとらえようとしている。
最悪なことに、アキトの体重のかかり方が俺の拳の威力をすべて受けるような角度で向かっている。
このままじゃ死ぬ── それでも止められない…!
ぐらっと、膝から崩れ落ちるホシノアキトが見える。
そして、このタイミングで気絶するとは思っていなかったナオも、
最高の一撃を放った。
もう、逃れるすべはない。
そう…それでいいのよ…。
最高の条件だわ。
若い最高のファイターが、想い人の前で華々しく命を散らす。
なんと美しい最後。有終の美。
それでこそ…闘いじゃない。
そして…私と同じになってしまえばいい。
すべてを失くしてしまったと思うほど打ちひしがれてしまえばいい。
人生なんて…そううまくいくようなものじゃないんだから…。
どれくらいたっただろう──闇の中で、俺はまどろんでいた。
もう、試合は終わってしまっただろうか?
俺は負けたんだな…。
何とも情けないことだ。
腕試しついでのように挑んで、こんなにあっけなく負けるなんて…。
(アキト!)
ラピス?
何を焦って…。
(起きて!死んじゃうよ!)
え?
──目覚めると、
俺の戸惑いとはほぼ無関係に──ナオの拳は、俺を捉えようとしていた。
ユリちゃんの声が聞こえる。
そうだ、こんなところで……。
俺は目覚めるとほとんど無意識のまま、体を後ろに下げ、ナオの拳を両手で受けていた。
ナオも驚きを禁じ得ない様子だった。
会場も、そして俺達二人も、完全に止まってしまう。
俺は驚きの中、呼吸を浅く繰り返すだけだった。
そして俺は受け止めるだけではなく、ナオに木連式柔の技をしかけていた。
「ぐああああぁぁあぁっ!?」
木連式柔"禁じ手"─矛砕き。
正拳突きは両手によるもろ手突きでない限り、どうやっても片手で仕掛けるしかない。
理屈でしかないが、両手であれば完全に対抗することは可能だ。
伸びきったインパクトの瞬間、両手で押し込み返すことで、
まるで巨大な岩を叩いたように、強烈なダメージを相手の腕に返すことが出来る。
拳の先端にはダメージがないが、音からしてナオの筋肉がズタズタに痛めつけられ、
骨もどこかにひびが入るか、脱臼の一つはしている状態になっているはずだ。
この技が禁じ手なのは、
通常は相手に重篤な怪我を与えるのを根本的に好まない木連式柔の性質故だ。
あくまで木連式柔は、相手の戦意を奪うことに重点が置かれている。
この点は通常の武道と同様だ。
だが、禁じ手だろうと使わないと生き残れない環境だった経験から、
俺は無意識にこの技を繰り出していたのだろう。
とはいえ──これは好機!今しかない!
腕を押さえるナオに、とどめを刺すならこの局面だけだ!
だが俺も、もう体力はない。
ナオはダメージはともかく体力はまだかなり残っている。
組み技であれば返される可能性は高い。
となれば──できる技はこれしかない!
俺は雄たけびとともに、ロープを3本まとめて踏みつけ、高く舞い上がった。
高く舞い上がったまま、全身を回転させ、
自由落下とともにカカト落としをナオの脳天にお見舞いした。
「がはぁっ!?」
ナオは即座に昏倒する。
さすがに全体重を乗せたカカト落としには耐えられなかったらしい。
動かなくなったナオ。
そして俺も、ひざが震えている。
もう立ち上がっているのも辛い。
観客たちは、好き勝手に騒いでいる。
それでも、ようやく──ヨーコさんが俺に対して言葉をかけてくれた。
『…今度こそ、あなたたちの勝ちよ。
アキト君、そしてマリア!』
「薄氷を踏むような…勝ち方だったけどな…」
ようやく、安心して休めそうだ。
体力を早く戻さなくちゃなぁ…。
だが、俺もこんなボロボロでもまだやらなきゃいけないことがある。
ユリちゃんに言い訳しないといけないわけだが…。
自業自得だなこれは。
ユリちゃんはボロボロの俺に抱き付いて来た。
俺も、もう立っている気力もないので、
ほとんどタックル気味に押し倒しにかかってるな…。
だからそういうところまでユリカに似なくていいって…。
「バカ…無茶ばっかりして…バカ…」
「ごめんね…」
…でも、やっぱり言葉の端々にはユリちゃんの元々の性格が出る。
この後の事を考えると気が滅入るが…。
まあ…うまくいったからいっか…。
アキト君とホシノユリ…。
あの二人の姿を見て、私は涙が止まらなかった。
そう…私は間違っていた…本当に見たかったのは…。
「ヨーコ、あなた…」
「……あの二人を放っといていいのかしら?」
あのマリアがわざわざ私の顔を見に来た?
笑えないわよ、ホント…。
「…色々と聞きたい事があるの」
「30億、出すわ」
私の答えにならない答えを聞いて、マリアは驚いた様子だった。
「え?でもその額って…」
そう、30億という額は私隠し財産の全額。
この非合法のファイトを行うために余分に積み立ててきた資金。
マリアは、うすうす勘付いているはず。
「こんなにいいものを見れたんだもの…持って行って」
「…約束通りの額でいいわよ。15億でいいわ。
まだ、返さなきゃいけないところがあるんでしょ?
ちゃんと、話してくれるわよね?
あの時の事…」
私は、少し答えをためらった。
30年以上、断然した私達の仲──それを再開しても、いいものだろうか。
あの人は、それを許してくれるだろうか…。
いえ…愚問ね。
あの時も、今も、心を開かなかったのは私だけ。
そうしなければならない。そうしたい。
「ええ…必ず」
マリアは、小さく笑って、アキト君たちの元に歩き出した。
あの時──。
私はマリアの兄…有望なボクサーとして売り出していた、
眼上ケンのセコンドとして闘っていた。
私はマリアとはセコンド仲間だった。
だけどある時、マリアが高熱を出して倒れて私が代わりにセコンドについた。
凶暴な相手選手がケンを、3ラウンドの中盤で強烈なラッシュを打ち込み、
ゴングが鳴るまで打ちこみ続けた。
──その後、事切れたケンを送るテンカウントゴングを、
ただ聞いていることしか私はできなかった。
思えば、有望なボクサーを潰すためだったのかもしれないし、
冷静に見ることができれば、ロープダウンだったと主張できたかもしれない。
私はその時、ただ凍り付いて動くことが出来なかった。
もしかしたら、タオルを投げ込めば助かったかもしれない。
もしかしたら、声をあげるだけでもケンは意識を回復したかもしれない。
もしかしたら──マリアがセコンドだったらこんなことは防げたのかもしれなかった。
だけどすべては仮定の話──。
私は初恋を抱いていたケンを、救うこともできずに立ち尽くして、見殺しにした。
それだけが残った事実だった。
マリアは、その後何年も口を聞いてはくれなかった。
責めてさえ、くれはしなかった。
私はといえば、血に飢えたフリをして自分を誤魔化したかっただけだった。
数十年も、ずっと…。
『あの時の事は仕方がなかった、誰でもそうなってしまうものなんだ』と…。
きっとそれを証明したかっただけなのに…。
だけど、あの二人は──ホシノユリは、絶体絶命の闘っている男の意識を呼び起こした。
そしておそらくは勝てない相手に、ホシノアキトは勝って見せた。
何て子たちなの…。
心底、うらやましかった。
そして、きっと私はどんなに人を想ってもああはなれないのだと、悔しかった。
それでも……本当に私が見たかった答えを、あの二人は見せた。
あの日見たかった、希望がそこにあった…。
「ありがとう…」
私達は、しばらく無言でしたがようやく気分が落ち着いて…いえ、高ぶったのかもしれませんが。
アキトさんに今回の件について問うことを始めました。
眼上さんはアキトさんの代わりに謝ろうとしていましたが、
こういうことをちゃんと叱らないと後で苦労するのは私です。
少なくとも、アキトさんが変な基準で行動しているのは確信があったので、
この際ちゃんと話し合っておくべきなので、二人きりで帰ることにしました。
車を走らせながら、少しずつアキトさんに問います。
「…今回の事は、資金が十分集まったからチャラにしたいところはあります。
でも、そうするとアキトさんまた無理を一人でしますから、
ちゃんと話し合っておきたいんです。いいですか?」
「う…うん…」
気まずそうに、アキトさんは返事をします。
…なんだか本当に怒られている子供みたいな声ですね。
「危ないことがちょっとでもあるなら、一声相談くらいして下さい。
…本当に心配したんですから」
「けど…ユリちゃん、反対するでしょ?」
さすがにその言い方はムッと来ますね。
「ええ!反対しますよ!
反対しますけど…。
反対されるからって相談しないなんてひどすぎます!
嫌ですよ死に目に会えもせずに死なれるなんて!」
実際、今回はアキトさんも死にかかっていました。
自分の声援で意識を取り戻した、なんてうぬぼれるつもりはありませんが。
死ぬ可能性があったのに何にも相談なしというのは、さすがに堪えました。
「だ、だから死なないって確信があったから…」
「死なない確信があるならそう言ってください!
なんで後から後からそういう言い訳するんです!?」
「いやー…あのー…そのー…」
私は後ろを確認して、すぐに路肩に車を止めました。
冷静さを欠いてしまいつつあるようですが、どうしても問いたい事がありました。
「…また、置いてけぼりですか?」
アキトさんは、びくりと肩を震わせました。
「またなにも言わないで、
死ぬかもしれない所に消えちゃうんですか…?」
「あっ、いや…そんなことはしないから…」
これだけは、してほしくない…。
どんなに有益なことだって、危険が伴うなら知らないと私は…。
アキトさんに頼られもせず、ただ居なくなってしまったらと考えると、
どれだけ怖いか…。
アキトさんが居なくなった後起こった出来事が、
かなり深いトラウマになっているので…。
想像しただけでも、私は涙が出てきてしまいます…。
「信じます…信じますけど…必ず一言でも、言ってください…。
一所懸命止めますけど、出来ないならついていきますから…。
私達は夫婦なんですよ…生きるも死ぬも一緒です…」
「…うん、ごめん」
「危ない事をしたのは怒ってません。
でも危ないことをするのに、何も言わなかったのは怒ってます」
「…うん」
「今回は、目的が果たせなくてもいいです。
まだ命を賭ける場所じゃないですよ…」
「そう…だね…。
ごめんなさい…ユリさん…」
不意に出てきた、アキトさんの…いえホシノアキトの、謝罪の言葉。
アキトさんも気づいて顔を真っ赤にしています。
…この世界の私達の話になると、ちょっと気負ってしまいます。
私達の間に、沈黙が漂っています。
「…これからはちゃんと相談するね…」
「はい…」
──アキトさんが結論付ける言葉を発してくれたので、安心して置くことにして、話を中断しました。
ちょっとまだ話し足りないところはありますが、これ以上話すのはいたたまれません。
大事な事は話しましたし、良いでしょう…。
明日からまた忙しくなりますし…。
改めて、私は後方を確認して車を走らせました。
翌日、俺達は眼上さんに呼び出され、人気の少ない小さな喫茶店に集まった。
「──というわけで、資金が集まったわよ!」
と、宣言しつつ自ら小さく拍手する眼上さん。
かなり綱渡りをすることにはなったものの、結果が出たのはいいことだ。
予定より三週間近く早めに資金繰りがクリアできたのは大きい。
眼上さんは俺がファイトで資金を得たことに引け目があったらしく、もう15億円を準備しようとしたが、断った。
内容的にはどうあれ、協力はしてもらっているし、集まったならそれでよい。
眼上さんは内訳を見せてくれた。
・眼上関係者…25億円
・テレビ関係企業出資…6億円
・倉石ジム出資…15億円
・ホシノアキトファンクラブ…3億円
・ソフトウェア会社…1億円
…ファンクラブから3億も出たのか…。
なにか埋め合わせる方法くらいは考えないと、後が怖いな。
「あ、あの…このソフトウェア会社って…」
「ホシノユリ宛に、手紙が添えられてきてるわよ」
ユリちゃんは思い当たることがあったのか、驚いているな。
ユリちゃんは手渡された手紙の、詳細な内容を読んだ。
俺も少しのぞき見した。
『前略
ホシノユリ 様
この度は、わが社の危機を何度も救い、
今後の会社の成長につながる仕組みをたくさん残してくれてありがとうございます。
ホシノさんの退社後、社長が会計上の不正を働いている事が発覚し、
追徴課税の手続きを行う中、かなりの隠し財産が発見されました。
様々な清算が終わり、可能な限り出資でユリさんへの手助けをしたいと、
社長以外のすべての社員が願い出てくれました。
今回の出資は、私達の気持ちです。お役立て下さい。
残念ながら社長はまだ在任しておりますが、
事後処理に追われて苦しんでいるのでひとまず、
今後は不正をさせない方針で残留することになりました。
お互いに、これからの会社の成長を目指して頑張りましょう』
「みんな…」
ユリちゃんは、万感の思いをはせているのか、少し涙ぐんでいた。
頑張ってたもんなぁ、ユリちゃんも…。
「なにはともあれ、後はオフィスの準備と、人集めと、
エステバリスの入手が必要でしょ?
ユリさん、感動するのはいいけど、
忙しいのはこれからじゃなくて?」
「は…はい!」
眼上さんの言う通りだ。
俺達はまだかろうじてスタートラインに立ったに過ぎない。
これからは芸能活動は宣伝以外の露出をだんだん減らしていく必要がある。
…それに人集めというのが最もネックだ。
他は資金があれば何とかなる範疇だが、パイロットは見つかりづらいからな…。
「ひとまず、佐世保でオフィスを整えようと思います。
受け入れ体制だけでもできていないと仕事になりませんし」
「そうね。
エステバリスの発注は整備員が確保されてなければ、
あってないようなものだし」
「細かい内装については、追々ですね。
ひとまず事務所機能をなんとかします」
俺達は、眼上さんと別れて一路佐世保へと向かった。
「少し古いけど、しっかりしてていいところだね」
「木星トカゲに襲われなければ現役の倉庫ですから」
細かいいきさつは聞いているが、なんともやりきれない話だ。
俺達だって、下手をすれば全滅してしまう可能性だってある。
これからが大変だ。
生き残るには、まだ必要な事がたくさんある。
だが…。
「ここまで大変だったけど、なんとかこぎつけたね」
「ええ。
ここが私達のスタート地点です」
「…こういうのを門出っていうのかな」
「…その言い方は…いえ、適切ですね。
準備が整ったら、祝杯の一つもあげましょう」
さすがに、結構こみあげてくるものがあるな。
屋台を引いていた頃とは、また違った…このためだけに頑張ってきた数か月だもんな…。
本当に夫婦のように支え合ってこれた…。
それはなんだか、とても自分の中に大きなものになっているように思えてきた。
だから…。
「あ、あのさユリちゃ──」
「ごめんなさい、ちょっと着信です」
言いかけた所で、強制的に中断されてしまい、肩透かしを食った形になる。
俺もさすがに落ち込んだが…ユリちゃんの表情が凍り付いたのをみて、
俺は彼女に近づいた。
通話の声が聞こえる。
『ちょっと?聞いているの?
あんた、ホシノルリなんでしょう?』
エリナの声…。
それも、恐らく俺達と同じく過去に戻ってきた事を示す内容──。
俺は、ユリちゃんから端末をひったくって、応答した。
「代わった。アキトだ。
……『あの』エリナなのか?」
『どのエリナだと思ってるかは分からないけど、
ホシノルリの前で撃たれたエリナよ』
間違いない。
エリナは逆行してきた人間だ。
…そうなると、俺達の行動も少し間が抜けていたと言わざるを得ないが、
色々と確認しなければならないことも多い。
「直接話した方がよさそうだな。
そちらに行こう」
『助かるわ。
場所は…』
エリナが指定したのはアトモ社のボソンジャンプ研究所だ。
もう一度東京から横須賀に向かう必要があるか…。
「ユリちゃん、また東京に戻る──」
「…アキトさん…私、わたし…」
ユリちゃんはかなり取り乱している。
…エリナが戻っている、それは草壁やヤマサキの逆行を示すものだ。
そうなれば、彼らが何を目論んでいるか、想像がついてしまうのだろう。
「落ち着いて……。
卑怯な言い方になるけど、俺達は静かにしてさえいれば、
あいつらからは狙われないんだ。
あいつらは、最初にテンカワアキトとホシノルリを狙う。
まずは安心して…」
無論、この時代のアキトとルリが危険になるというなら助けに行く必要はあると思うが、
まずは心を落ち着かせないと、パニックになりかけているユリちゃんはさらに取り乱すだろう。
「は…はい…」
ユリちゃんは深呼吸を繰り返して、何とか気分を落ち着けていた。
「…どのみち、この時代のアキトとルリが無事なのは分かっているし…。
まだ、何も起こっていないと思うから、警戒は必要だけど助けに行く必要はない。
木連との物理的な距離は、まだ埋めようがないんだ」
「そう、ですね…。
ごめんなさい、取り乱して…」
「とりあえず、エリナから話を聞いてくるよ。
ユリちゃんは少し休んでいた方がいいと思う。
ここんとこ忙しかったし…ちょっと俺が心配をかけ過ぎたんだ。
今日くらいは休んでいてもいいと思うよ」
「…すみません」
「はい、ホシノです…。
ミスマル提督ですか?
はい…はい…分かりました、出頭させていただきます」
ユリちゃんは端末を切ると、俺に向き返った。
「…どうやらミスマル提督からPMCマルスの運営について、
相談があるので来てほしいと」
「え?ミスマル義父さんから直に?」
「ええ、直にです…。
軍にもメンツとかありますし、なにか注意点があるのかもしれないですね。
ちょっと気になりますし、行ってきます」
「うん。
…どっちの相談も避けられなさそうだし、
二手に分かれて情報を集める意味でも行ってこようか」
ユリちゃんには休んでいてほしかったが、仕方ない。
この手の出来事は避けれないからな。
しかし、思いもよらぬことばかり聞くことになるとは、この時は思いもしなかったが…。
私はミスマル提督に呼び出されて、連合軍の日本支部まで出頭しています。
PMCマルスはその業務内容が連合軍とかぶってしまう都合上、
何かしら衝突があるとは考えていましたが、
まさかミスマル提督直々にお話があるというのは想定していませんでした。
下位の提督に嫌味を言われるくらいは覚悟していたのですが…。
「初めまして、ミスマル提督。
ホシノユリと申します。
この度はPMCマルスの件で、お話があるということで、
お忙しい中、お時間をありがとうございます」
「ああ、構わんよ。
いくつか聞かなければならんこともある。
長い話になる、リラックスしてくれて構わんよ」
久々に見たミスマル提督──。
お元気そうでよかった。
元気そうな顔を見られただけでも、だいぶホッとしている自分に気が付きます。
「お気遣いありがとうございます」
「PMCマルスについてのことだが…どうしても、始めるのかね?」
「…ごめんなさい、私たちも譲れないことがたくさんありますので…」
──どうも、何か別の意味を含んでいるようにも思えてきますが、
ミスマル提督の胸中は計りかねます。
初対面の、こんな小娘に直接話に来るなんて想定外です。
「…連合軍では頼りないかね」
「連合軍がなければ日本はすでに占領下です。
頼る必要があるのは分かっています。
でも…まだ足りないところが…」
…想像以上に長くなりそうですね。
あ、このケーキはユリカさんが好きなフタバヤさんのショートケーキ…。
エリナに呼び出された俺は、指定された場所であるアトモ社に向かった。
…ここにはいい思い出がない。
ここはイツキカザマが死に、木星トカゲが人間であると知り、
そして俺が生体ボソンジャンプをしてしまった場所だ。
思えば、あの時逃げ出していれば「あの世界」では長生きできたのかもしれない。
…だが、いろんな後悔もすることになったんだろう。
今回は、どうなる?
「待たせたわね、アキト君」
「すまない、エリナ」
エリナとは浅からぬ仲だ。
支えてもらった恩も…そして負い目も、ある。
復讐者に堕ちた日々で俺は彼女なしに生き伸びれなかった…。
だが、俺達は万感の想いをはせてはいないようだった。
お互いが「この世界」に訪れて何かが変わってしまっていた事を悟らせた。
それに、安堵していた。
少なくとも不幸せな顔をしないで済むくらいにはなっていたのだから…。
「こんなところでごめんなさい。
ここが一番セキュリティ的に安心できるの」
「構わない。
気を使わないで良い場所なら好都合だ」
「ラピスについて、聞いていいか」
「…そうね。
あなたは聞く必要があるわ」
俺達の状態についての説明もする必要があるが、
ひとまずラピスについて聞きたかった。
エリナはラピスの状態について、詳しく語った。
その内容にいささか驚きを禁じ得なかった。
ラピスは既に11歳当時の肉体のままこちらにきたのだという。
それだけではなく、俺──ホシノアキトとラピスの生まれた研究所は一緒なのだという。
エリナも調査が難航していたのでようやく最近知り得た事が多いという。
「アキト君、落ち着いて聞いてほしいの」
だが、俺は自分の考えが浅かったことを気付かされた。
「あなたもラピスも、
この世界ではクローンなの。
あなたはテンカワアキトのクローン…」
俺は歯噛みした。
分からないでもないことだ。
俺はアキトにあまりに似ているからな…。
嫌な想像が脳裏によぎる。
ヤマサキと草壁はこの時代より早く、
既に地球にボソンジャンプしていたのではないか。
そしてテンカワアキトとホシノルリのクローンを作る下準備をしているのではないかと。
「…考えている事は分かるわ。
私もあの時、かろうじて意識があったから話は聞いてたの。
でも、研究所の人間にはヤマサキ博士のデータがなかった。
これだけの禁忌を行うのに、重要な責務についていない可能性は低い」
「…そうか」
「あなたの出身の研究所では、マシンチャイルドの量産をするために、
実験台の生産の為にクローンを作っているみたいなのよ…。
おかしいのは、この研究所、前の世界にはなかったの」
「…どういうことだ?」
「ホシノアキトという存在そのものが、なかった。
ホシノユリもそう。
そのすべてにホシノという姓のついた、
マシンチャイルドの研究をするために迎え入れられた、ネルガルチルドレン…。
前回はホシノルリ一人きりだった。
だけど今回は合わせて四人。
ホシノアキト、ホシノユリ、ホシノルリ、
そしてまだ名前がないことになっているラピス。
…まるで、あなた達がボソンジャンプで戻ってくるための、
あつらえられた器のように存在している人間だって事よ」
俺は息を飲んだ。
このボソンジャンプが、誰かの意図によるものであるという事だ。
もしくは俺達がボソンジャンプする時に、何か無意識に干渉していたのか?
確かにボソングレネードを使った時、イメージングが不十分になっていたことは確かだが…。
別の誰かの意図だった場合、おそろしい事が起こるかもしれない…。
何しろ、「なかった研究所がある」ということは世界そのものに干渉するレベルの、
世界改変すら可能なボソンジャンプナビゲーターが居るかもしれないということだ。
だが…。
「…イネスに聞かないと分かりそうにないな」
「そのイネス博士も行方不明なのよ」
「なんだと?」
「火星の研究所のリストに名前がなかったわ。
…直接火星に行くしか、確かめる方法がない」
「…分かった」
分からないことがあまりに多いのは変わりがなかったようだ。
とにかく、ナデシコに乗り込むしかないということだろう。
「…あなたがクローンの中に戻ってきたように、
イネス博士の身にも何かあったのかもしれない。
それとラピスの事なんだけど…」
「なんだ?」
「ラピスはクローン…そういったわよね?」
「ああ」
「誰のクローンだと思う?」
「ルリちゃん…か?」
考えられるのはそれくらいだ。
IFS強化体質の実験がうまくいった人間をベースにすれば、成功率が上がるのは間違いないだろう。
「…ミスマルユリカよ」
「!?」
全く予期しない人物の名前が出てきた。
俺の血液が沸騰したように思えた。
この世界でも、俺達は食い物にされているという可能性。
…このままでは、この世界の俺達すらも、無事ではいられないかもしれない…。
「落ち着いて。
…どうやらその研究所は、火星で生まれた子の健康調査用の血液を、
秘密裏に入手してクローンを作ったそうなの。
ただ、成功率があまりにも低くて1万人分の血液を使っても成功例は、
ホシノアキトとラピスだけだったそう」
「…今のラピスは、ユリカに似ているのか?」
「いえ…少なくとも私達の知るラピスラズリそのものよ」
俺達は、それきりしばらく黙り込んだ。
世界の改変が、大きすぎる。
もしかしたら俺達はもう歴史を知るアドバンテージは失っているかもしれない。
敵である草壁やヤマサキが逆行している確率も高い…。
まだ確定してはいないが、すでに詰んでいる状態なのかもしれないが…。
「ユリちゃん…ルリちゃんのことについては、何かわかることがあるか?」
俺はもう一つの疑問をぶつけた。
俺とラピスがクローンであるなら、ユリちゃんも何かしら特殊な生い立ちを持っている可能性がある。
できる限り情報を知っておきたかった。
「彼女は…何とも言いづらい立場にあるわ」
「なんだと?」
その先の言葉に、俺はあっけにとられることになった。
「──分かった。君たちの決意は固いようだな。
私たちも一部協力することも考えよう。
作戦行動時、同行することを認める。
むろん、君たちは命令系統に組み込まれるわけではないから、安心してほしい」
「ありがとうございます」
交渉は難航しつつも、おおむね理想的な形でまとまりました。
ひとまず安心しても大丈夫です。
「それでは、私はこれで」
「あ、すまない。
最後に、個人的な事で、話したいことがあるんだが」
「はあ…個人的ですか?」
ミスマル提督が引き留めるとは想定していませんでしたが…なんでしょう。
「私には一人娘が居るんだが──。
実はその前に、不妊治療をしていたんだ。
試験管ベイビーが一人…。
だがその受精卵は、テロリストに奪われてしまい…。
行方知れずになっていたんだが…」
──どこかで聞いたような話ですね…。
「君がテレビに出ていた時、もしかしたら、と思って遺伝子データバンクを調べてもらった。
去年の10月に、頭を強く打った時の精密検査をした病院での血液からも、明らかになった。
…君は、私の実の娘なんだ。
頼む…帰ってきてはくれまいか?」
「え…。
あ、あなたがお父さん!?」
「そうだよ…ユリ…お父さんだよ…」
ミスマル提督からの衝撃の事実。
しかし、直後に自分で発した声から、それが真実だと確信せざるを得ませんでした。
まさか…ユリカさんに似ているとは思ったけど、本当にミスマル提督の実子だなんて…。
………どうしましょう。
どうもこんばんわ、武説草です。
風邪で寝込んでしまったので思ったより書き溜められなかったのは手痛いですが、
7話、何とか完成しました。
ナオとの激闘もそこそこに、次の展開へと移ってまいります。
PMCマルスの前途多難っぷりもさることながら、
衝撃に衝撃が重なる事態になりつつありますが、どうぞご期待下さいませ。
そんなわけで次回へ~~~ッ!
>ナオさんの登場で色々ブッ飛んだwww
ナオさんの登場はもっと後の予定だったんですが、
祭りと聞いて駆けつけてくるタイプかなーとか考えてたら乱入者としての参戦が思いついたので、
ここらでアキトの最初の強敵として登場させてみました。
うちのアキト、テレビ版に近くしているとはいえ弱いなぁ…。(時ナデ比)
>満身創痍だの転戦だの、芸能界は戦場だなあw
不慣れな二人にはとても堪えたようですね。
自分の存在を保証するものなど何もない!
かつてルリが自分の存在を不安に思ったのと同様に、
アキトは自分の存在を問い直す。
根無し草であることは受け入れていた。だが振り返れば何もない。
あるのは霧散した過去の記憶だけ。描く未来に、走れるかアキト!
そんな苦悩の彼をああ、君は見たか!
必殺技がちょっと地味になりすぎてないかちょっと不安な作者が送る、
重いんだか軽いんだかわかりづらいナデシコ二次創作、
をみんなで見よう!
感想代理人プロフィール
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代理人の感想
無茶な設定ぶっ込んでくるなあw
不妊治療で試験管ベビー作るとか。
精子は誰のだ、アキトかw
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