ナデシコが分離する。
 三基のエンジンブロックに見えた装甲板が後方に向けて移動を開始すると、隠されていた全容が剥き出しになった。
 そこには20メートル級小型艦が三隻、アームで固定されて収納されていたのだ。
 アームが開放され、踊っていたケーブル類が収容されると、三隻の小型艦はナデシコから完全に分離された。
 ワンマンオペレートフリート、スレイブ・シップ<ユーチャリス>。
 それがこの三隻の艦の名前だった。
「にゅ。分離成功。微速前進でアマテラスより離脱開始」
「ゲートの管理中枢を掌握。ゲート開放開始。3……6……9。ゲート全開放。ユーチャリス一番艦から三番艦まで離脱よし」
 二つのウィンドウボールの中に、それぞれミライとラピスがいた。どちらもマシンチャイルドの能力を開放し、ナノマシンの紋様を浮かび上がらせている。
「トチるんじゃないわよぉ、ミライ――」
 ひとり落ち着かない様子でうろうろと歩き回るカナタは、動物園の檻の中でストレスを溜めこんでいる山猿のようだ。
「落ち着きなさい。ミライくんなら大丈夫。上手くやるわよ」
 アイの言葉通り、ミライのオペレートは完璧だった。三隻のユーチャリスが、まるで踊るかのように漆黒の宇宙を背景に飛び出していく。三本の螺旋が一息でそれぞれの方角に広がっていった。
「交戦宙域まであと300秒。敵第四艦隊に続き、第一、第二艦隊のターミナル通過を確認。アマテラスに向け侵攻を開始しています」
「敵さんもホンキだねえ。全艦隊を投入してきたみたいだよ。一気にアマテラスを取り戻して、そのまま火星にボソンジャンプするつもりなんだろうね」
 ラピスの報告にアカツキは楽しそうな声を出した。
「そうね。ボソンジャンプという瞬間移動の技術がある限り、戦力の一点集中は常道ともいえるわ。移動にかかる時間や、補給の問題がほとんど解決されるのだもの、全力をもっての一撃殲滅。それが戦略としては唯一無二の選択なのでしょうね」
「ねえ、アイさん。ホントにたった三隻であんな凄い数を相手にできるの? 第二相転移炉、だっけ。そんなに凄いエンジンなのかな」
 アイは静かな笑みを浮かべている。
「出力は理論上、従来型の二十三倍強。その八割をディストーションフィールドにまわすことで、従来のどんな兵器でも突破不可能な壁になるわ。そして、二十メートル級の小型艦が大推力を手にすることで、通常ではありえない機動力を発揮する。ボソンジャンプによるフィールド突破もとても難しいでしょうね。あれに対抗するには、同じ第二相転移炉を搭載した戦艦の、最大出力のグラビティブラストしかないのよ。そしてその技術は当面のところ、わたしたちの手にしかない。相転移炉を地球ではじめて搭載した初代ナデシコがそうであったように、第二相転移炉を搭載したこの新ナデシコとユーチャリスに敵はいないわ。安心しなさい、カナタ」
「それもこれも、ちゃんと第二相転移炉が起動してくれればなんだけどね――げふっ!」
 よけいなことを言うな! とエリナの制裁を喰らうアカツキ。
「そうなの?」
「まあ、そうなんだけどね。第二相転移炉は通常は第一相転移炉として動いているの。そして相転移の効率がある一点を超えた時、ようやく第二相転移が起動するのよ。この起動条件が厳しくてね。わたしが設計にかかわっていた頃は、起動確率は10のマイナス4乗ぐらいだったかしら。ねえ、アカツキくん」
「っく……ふう……そう、そのくらいだったと思うよ。その後も改良を続けて、今では、確率は半々ぐらいかな」
「あら、ずいぶんマシになったじゃない。もっと低いと思ってた」
「もっと低いって……50%だよ、アイさん……」
 もう呆れるしかない。それではほとんど博打だ。
「平気、平気。三隻もあるのだもの。どれか一隻ぐらいは起動するわよ。そうなれば時間稼ぎには十分だからね」
「それに、起動に失敗したって、なんとかなるものだしね。ナデシコはいつもそうやってきたんだから」
 エリナがポンポンとカナタの頭を叩いた。
 自分が苦労性すぎるのか、大人たちが呑気すぎるのか――
「…………。もしかして……バカばっか……?」
 五歳にして胃の痛みを感じてしまうカナタだった。
「――交戦に突入」
 ラピスの声と同時に、黒い宇宙の一点に、火球が広がった。ひとつ……ふたつ。それが平行線上に次々と広がっていく。
「おっと、始まったみたいだねえ。どんな感じだい、艦長」
「まだ様子見だな。敵もまさかこちらが三隻だけとは思っていないらしい。本格的に仕掛けてくるのは、もうしばらく先になるだろう。こちらはそれまでにセカンドフェーズシフトを起動させなければならない」
 艦長席のアキトが指示を出し、ミライが艦隊を操舵、ラピスは全体の統括とサポートという即席のチームではあったが、傍目には上手く機能しているように映る。カナタは胸を撫で下ろした。
「避難民の収容状況はどうなっている」
 とアキト。
「収容作業はほぼ完了。いまは避難しそこねた人を捜索しているみたい。あと三十分だけ待って欲しいって」
「よし。ラピスもその作業をサポートしてやれ。アマテラスの管理システムは掌握済みなんだろう」
「うん。わかった。――システム権限を救助チームに譲渡。アマテラス内に設置されたすべての監視機器のデータをこちらで処理する。ターゲット数116。スキャン」
 ラピスを包み込むウィンドウの映像が一気に切り替わった。
 防犯カメラの映像や、赤外線カメラの不明瞭な画像、音声だけの波形データが次々と表示されては、切り替わっていく。
 そのうちに一部のウィンドウが離脱して空中に並び始めた。ターゲットロックされた人物の静止画像や、声紋照合された波形。それぞれにアマテラス内のブロック番号と、発見された人の名前が付け加えられている。
「あの人スゴイ……」
 カナタはその様子を呆然と見つめた。自分には到底真似できない処理速度。ミライと同等か、それ以上のマシンチャイルドという存在は、カナタにとって新鮮な驚きだった。
「――救助チームへ情報提供開始。残ターゲット数18――スキャンレベルAに移行」
 その声と同時だった。ブリッジのすべてのスクリーンがある映像に切り替わったのだ。
 魚眼を通したようなラピスの顔――きょろきょろとこちらを覗き込むようにすると、唐突に消えて元の映像に戻った。
 いきなりのことに、ブリッジクルーの間に悲鳴すらあがっている。
「び……びっくりした……」
 ラピスを見ると、ウィンドウの影に隠れて、ナノマシンの紋様を全開に輝かせている。
「まさか今のを、アマテラス全体でやるつもりなわけ……?」
 パニックだな、とカナタが思っていると、案の定、足元のほうから悲鳴のような声が響いてくる。
「スゴイけど、程度ってもんを知らないんじゃあ……」
 どうしようもなく不安になる。本当にこんな大人たちに任せていていいのだろうか。
「大丈夫よ、カナタ。このナデシコのクルーは、最高の人材を集めているんだから」
「……能力的には最高でも、人格に問題あるよ。絶対」
 それともそう感じているのはカナタだけなのか。カナタの不安をよそに、なぜかナデシコはスムーズに機能していた。
「第四艦隊が侵攻を開始したな。ミライ、セカンドフェーズシフトの起動シーケンスを実行しろ」
「うにゅ。一番艦から三番艦までリミッター開放。出力上昇中。臨界点突破まで、あと5……2……突破。イグニションライン、オールクリア」
 メインスクリーンの映像が切り替わった。三隻のユーチャリスの情報なのだろう。ほとんどのメーターが振り切って、レッドラインに飛び込んでいる。
「――へえ。ここまで出力を安定して引っ張るなんて、どんな調整をしたのかしら。興味あるわ」
 スクリーンを見つめるアイの瞳が、濡れたように光っている。その後ろでアカツキが自慢げに胸を反らしていた。
「あとで実物をご覧に入れますよ。――さあて、起動は成功するや否や、楽しみだねえ」
「起動」「起動!」
 アキトの指示にミライが復唱した。
 スクリーン上で三分割されていたメーター類のうち、左右の二つに変化があった。ほとんどのメーターが一気に減少したのだ。
「あら……。失敗……かしらね」
「あ……違う……。あれって、スケールが切り替わったんだよ」
 そのことに気づいたのはカナタが最初だった。
 メーターの値が減少したのではない。その目盛りの最大値が一気に増えたため、全体として減少したように見えたのだ。その目盛りの最大値は従来の二十倍強。つまり――
「一番艦、三番艦のセカンドフェーズシフト、起動を確認」
 その報告にアイの顔がほころんだ。自分の手がけた作品に生命が吹き込まれた瞬間。アイにとっては我が子の晴れ舞台のようなものだろう。
 二つのメーターがぐんぐんと上昇していく。一杯に振り切りレッドゾーンへ。そこでもう一度減少し、安定した。
「イネスさん。二番艦は起動に失敗したようだ。どうする」
 アキトのその声に、アイが答えた。
「出力をあと3%だけ引っ張ってから再起動してみて。それでダメならモノフェーズシフトで戦うしかないわね」
 イネス? とカナタは首を捻る。アイはほとんど違和感なくその呼びかけに応えていた。どういうことなのか訊きたかったが、アイの真剣な表情にためらわれてしまう。
「――だそうだ、ミライ。マニュアルになるが、できるか」
「にゅ。もうわかったから平気。出力再上昇。臨界点突破を確認。さらに上昇中。0……1……3……再起動」
 そのとたん、宇宙が凄まじい輝きに包み込まれた。船外スクリーンに対閃光防御のフィルタがかけられる。そうしてようやくカナタは眼を開くことができた。
「なに、いまの……」
 涙が滲んで、視力が完全に回復しない。
 ミライの言い難そうな報告だけが聞こえた。
「うにゅにゅ……その……二番艦……自沈」
 ユーチャリス二番艦が爆発したのだった。
 アイが信じられないというように首を振る。
「まさか、そんな。これぐらいのことで暴走するなんて――」
 そこではっと気がついた。
「アカツキくん……どういうことかしらね、これは」
 怖い声。アカツキは怯えるように後ずさった。
「いや……はは……なんでしょうね。炉にクラックでも入ってたんじゃないかな……」
 しかしアイはそんな言い訳など聞いてはいなかった。
「……ふーん、そう。安全マージンを無視して調整したってわけね。どうりで、あんなに出力が上がるわけだわ。大体おかしいと思ったのよ。わたしがいない間に、そんなに研究が進むはずがないんだから」
「あはは……バレバレのようで……。でもねぇ、しかたないでしょう。今日、この日に間にあわせるためには、こうでもしなけりゃ」
「このナデシコの相転移炉は、どんな調整にしたの」
「三基のうち二基がスペシャルチューン。残りの一基はイネスさんバージョンに少し手を加えたやつです。そっちの起動確率は10%以下ってとこですかねえ」
 アイは溜息を吐き出した。
「……まあ、しかたがないわね。確かに必要な措置だったことは認めます。ただし、この艦の相転移炉はモノフェーズシフトのまま運用すること。民間人の命を賭けの対象にはできないからね。いい?」
 アカツキはしぶしぶうなずく。
 そうしている間にも戦闘は継続していた。鉄壁の防御と機動兵器並みの運動性能を有した二隻のユーチャリスが、いいように敵艦隊を翻弄している。
 それは絶対に戦艦ではあり得ない動きだった。
 敵艦の隙間を疾り抜け、風のように舞う。高空から獲物をめがけダイブする鷹を思わせる戦術は、アキトが指示したものだ。
 グラビティブラストが命中することもあったが、ディストーションフィールドが漆黒の光条を正面から切り裂いてしまう。
 すでにそれは戦艦とは別の何か――機動戦艦とでも呼ぶべき存在だったかもしれない。この二匹の鷹に抗する術など、敵艦隊にはありはしなかった。
 約半時間、そのような攻防が繰り返され、ナデシコの誰もが勝利を疑わなくなったその時、異変が起きた。
「高重力反応接近! ――これって、グラビティブラストっ!?」
 ブリッジクルーが発したその声は、悲鳴に近かった。同時に船外スクリーンのほとんどを埋め尽くすような黒い閃光。
 ナデシコが――いや、アマテラスが震えた。
 カナタはブリッジの対角まで飛ばされ、背を打ち付けていた。声にならない悲鳴。呼気のすべてが体外へと吐き出され、酸素を求める肺がごろごろと異音を洩らす。
「カナタ!」
 アイの声に正気に戻った。痛覚を脳の外に追い出し、空気を吸い込む。膨らみすぎた風船にさらに空気を送り込むような感覚のあと、ひゅう、と一度に息を吸い込むことができた。
 痛覚が回復する。
 痛い。痛いが、無事だ。
 焼けるような脳をフルドライブし、立ち上がる。
 手足が細かく震えていた。ただのショック状態だと見極め、周りの状態を確認する。
「なんだったの……いまの」
 クルーの多くが床に倒れ伏していた。流血している者もいる。立ち上がっているのはカナタを入れても数人に過ぎない。その中にアイも含まれていた。
「いまのは……グラビティブラストだったの? なんて出力の……あれじゃあ、まるで……」
「にゅうっ! ユーチャリス一番艦ロスト!」
 シートに固定されていたミライは、いまの衝撃を無事に乗り切ったらしい。しかしその報告は、別の衝撃をもたらした。
「っつう……。まいったね、何が起こったんだい。ユーチャリスがロストだって? そんなはずないだろう」
「……いえ、ありえるわ。いまのがグラビティブラストだとしたら、ユーチャリスのディストーションフィールドでも突き破れる。だってあれはまるで……」
 アカツキが信じられないというようにアイを見た。第二相転移炉を搭載した戦艦のディストーションフィールドを破ることは従来の兵器では不可能、そう言い切ったのはアイなのだ。
「――あの攻撃力は、第二相転移炉よ。地球も第二相転移炉を搭載した戦艦を建造していたんだわ」
『ご明察、さすがですわね』
 いつの間にかメインスクリーンの映像が切り替わっていた。
 そこに映し出されていたのは、蒼みがかった頭髪の美女。
「アクア・クリムゾン……!」
 生の感情を表に出そうとしないアカツキが、いまは本心から驚愕していた。
 アクアの背後にはどこかのブリッジらしき光景が映し出されている。そしてその服装は、地球統合軍の将校服だった。
 アカツキはそれだけの情報で、すべての事情を察した。
「そうか……クリムゾンも、第二相転移炉の開発に着手していたんだな」
『そうです。そしてこの艦こそが、その実働試験一番艦<サクヤ>ですわ。――そんなに驚くことはないではありませんか。だって発明というものはいつだって、世界の別の場所で同じようなことを考えている誰かがいるものなのですから。そうですわよね。イネス・フレサンジュ様』
「……そうね。科学なんてものは、たいがいは平行進化するもの。突出した発明が戦局に影響を及ぼすなんてことは、そうそう起きはしないのだったわね」
『そうです、さすがにわかっていらっしゃる。前回はクリムゾンが煮え湯を飲まされましたが、今度ばかりは追いつくことができたようです。お爺様もとてもお喜びになるでしょう』
 前回、とは初代ナデシコのことだろう。相転移炉搭載艦の開発に遅れをとったクリムゾンがどれほどネルガルを敵対視したかは、歴史に刻み込まれているのだ。
 どこか皮肉めいた口調でアカツキが言った。
「しかしまた、ずいぶんと早いご登場ですね、アクア嬢。しばらくは見物している予定ではなかったのですか」
『わたくしもそうしていたかったのですけれど……お爺様がどうしてもと仰るもので、ご挨拶に伺いましたの。いかがです、気に入っていただけましたかしら』
「なかなかです。意表を突かれましたよ」
『それはよかった』
 ニコリと香るような笑みを浮かべる。
『ところで、すこしボソン通信の反応がよろしくありませんわね。どうしてでしょう。どう思われます、アカツキ様』
 あまりに唐突な話題の転換だった。しかもそれはアカツキたちにとっては秘中の秘とでもいうべき内容に関わる。
 アクアが知っていて惚けているのか、それともただの偶然なのか。アカツキには判断することができなかった。
「どうでしょうか。とにかく舞台の幕は上がったばかり。これから幾つもの大仕掛けで楽しんでいただこうと考えています。アクア嬢もとくとご覧ください」
 アクアはころころと笑っていた。笑いながらも、その眼はまったく笑ってなどおらず、氷点下の視線であらゆるものを観察していた。
『ええ、ええ、楽しみにしています。――そうですわ。舞台をより楽しいものにするために、ひとつだけ、良いことを教えて差し上げます。じつはね、この艦のセカンドフェーズシフトはとても不安定ですの。いま撃った主砲のおかげで出力は大幅ダウン。あと10分は身動きもできませんのよ』
 クリムゾン特務大使! という制止の声が、アクアの背景に聞こえた。
『でもそれはそちらも同じかしら。小型艦の一隻が自爆したようですわね。これで条件は五分と五分、次に会う時は本当に敵同士です。まるでモンタギューとキャピュレット家のよう。とても胸がときめきますわ。それでは、アカツキ様。ごきげんよう』
 アクアの姿が消えると同時に、アカツキは呟いた。
「……ボクはキミと心中する気はないよ」
 モンタギュー家とキャピュレット家とはつまり、ロミオとジュリエットのことだ。その結末は両家の若き男女の死。アクアはその物語にアカツキと自分の関係を例えたわけだった。
「まったくわけがわからないわ。結局あの娘はなにがしたいわけ? 引っ掻き回しているだけじゃないの」
 不機嫌そうなエリナにアカツキが答えた。
「その通り、引っ掻き回しているのさ。彼女は自分が楽しければそれでいい、そういう人なんだ。ボクにも身に覚えがあるからね、なんとなく理解できる」
「へぇ……。ずいぶんとあの娘のこと、わかっているみたいじゃないの。似たもの同士、幸せになれるんじゃなくて?」
「似たもの同士だからこそ、近寄りたくはない。近親憎悪だろうな、これって」
 頼りなく笑うアカツキは、どこか別人のように見えた。
「そのことはもういいさ。それよりも、いまはこの窮地を脱出する方法を考えなきゃね。残された時間はあと10分。もう一度あの砲撃を受ければ、ナデシコだって危ないからね」
 ラピスが報告する。
「さっきの衝撃で負傷者多数。避難していた人たちが不安がってるって。それと行方不明者の捜索は終了。救助チームも帰還を始めたらしいよ」
「そうか。それならもう出発できるな。どうだい、艦長」
「まだ早すぎる。大途絶の兆候は見られるが、ボソンジャンプはまだ可能だろう。このままアマテラスのジャンプゲートから火星に侵攻されれば、すべて終わりだ。もうすこし、時間を稼がねばならない」
「でもねえ、10分もすれば、さっきのがまた“ドカン!”だよ? ナデシコのセカンドフェーズシフトは起動させられないし、戦うわけにもいかないじゃない」
「ひとつだけ方法がある――」
 アキトは感情を感じさせない声で告げた。
「ナデシコはこのまま火星にボソンジャンプで帰還すればいい。代わりに、誰かがここに残り、ユーチャリスで時間稼ぐんだ。アマテラスを破壊する以外にはこの方法しかない」
 エリナが驚愕の声をあげた。
「ちょっとまって! それだと、ここに残る人は……」
「そうだ。大途絶が始まるまで時間を稼ぐのだから、火星には戻ってはこれない。敵の只中で取り残されることになるだろう」
「だめよ、そんなの!」
「――俺が残る。適任だからな」
 はっきりとアキトは言い切っていた。
「それに、やらなければならないことを思い出したからな。反対したところで無駄だ。もう決めたんだ」
「……ルリちゃんのメッセージを観たのね」
 アイが静かに問うた。
「……ああ、観た。イネスさんの説教も効いたよ。だから俺が残る。それでいいよな、みんな――」
 アキトは漆黒のバイザーを外していた。全員の顔を素顔のまま見下ろす。その眼に迷いは存在していなかった。
 アイはその眼を確かめるように覗き込み、そして言った。
「まったく……そんなんじゃ反対できないじゃないの。行ってきなさい。もう後悔はしちゃだめよ」
「ああ。――アカツキ。おまえのエウカリスを借りていくぞ」
「ありゃ、なんだ知ってたのかい。人が悪いねぇ、キミも」
「何の話?」
 不思議そうに問うエリナに、アキトが答えていた。
「あの会長専用艦もユーチャリスだ」
「なっ! ちょっと、どういうこと会長! そんな予算、わたしは聞いてないわよ!」
「いやぁ、だって言っても許してくれないじゃない。欲しかったから、作っちゃった」
「欲しかったって、アンタ……なに考えてんの、このトウヘンボク!」
 騒がしい外野を無視して、アキトに駆け寄ったのはラピスだった。
「アキト。わたしも行く」
 すがりつくような表情。アキトに置いていかれることに、恐怖すら感じているのではないか。そんなラピスを見下ろし、アキトは僅かに微笑んだ。
「連れて行くよ。もう後悔はしないって、決めたからな。おまえも、そしてこれから迎えに行く二人も、最後まで連れて行く。それでいいな」
「うん!」
 その笑顔は物語の中だけに存在が許される、妖精のほほえみだった。
「あまり時間がない。俺たちはもう行く。あとは任せたぞ、アカツキ」
 ラピスの肩に手を置いたアキトは、マントの隠懐からCC(チューリップクリスタル)を取り出した。蒼い結晶が輝きを増す。それはボソンの輝きだった。
「ああ、任せたまえ。ふたりによろしくな」
 アキトが手を上げた。それが最後の別れの挨拶だったのだろう、ボソンの輝きが消えると、アキトとラピスの姿はブリッジから消えていた。
「……がんばれよ」
 照れくさいのか、アカツキの最後の言葉は誰にも聞こえないような囁きだった。
 それから五分も経たず、ドックに駐留しているナデシコの脇を掠めるように飛びすぎたのは会長専用艦<エウカリス>こと、ユーチャリスの艦影。それは小型艦ならではの旋回性と加速性能を発揮し、一気に飛び去っていった。
「……さてと。行ってしまったね。あとはもう彼を信じるほかはない。ボクたちは火星に帰ろう」
「そうね。彼もわたしたちも、まだやらなければならないことが残っている。いまは道を違えてしまったけれど、いつかきっともう一度、一緒に歩ける時が来るわ。それまではわたしたちも頑張らないと」
 アイはゆっくりとカナタに歩み寄った。
「カナタ。これからナデシコをナビゲートして、火星にボソンジャンプします。わたしを手伝ってちょうだい」
「え……でも、あたし、ナビゲートなんてしたことないよ」
「あなたはね、わたしなんかよりずっと優秀なジャンパーなの。A級ジャンパーを両親に持った、本当の生まれながらのジャンパー。火星のナノマシンで、後天的にジャンパー体質になったわたしとは違うのよ。ゆっくりと落ち着いて、火星をイメージなさい。細かいイメージはわたしがサポートするから。ナデシコに乗っているたくさんの火星の人たちを、故郷に送り届けてあげて」
「両親……あたし知りたいよ。あたしのこと、アイさんのこと全部知りたい」
「教えてあげるわ。火星に戻ったら、全部教えてあげる」
 アイは、カナタの額に自分の額を近づけた。アイの低い体温をひんやりと感じる。まるでアイの存在が染み込んでくるような――
「ジャンプフィールドを展開して!」
 ラピスの代わりにオペレーターシートについていたエリナが、コンソールに指を走らせる。ナデシコのボソンジャンプシステムが起動した。
「思い浮かべなさい。火星の躍動する空。火星の遠い大地。火星の乾いた匂い。そこで風を受けて走っている自分の姿を」
 アマテラスで生まれ育ったカナタに火星の記憶があるはずはない。しかしそれでも、カナタはそのイメージをはっきりと思い浮かべることができた。
 風の感触がわかる。
 空気の味がする。
 踏みしめる砂の音が聞こえる。
 空は高くて、地平はどこまでも広がっていて、そして――
 そして――――

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