「ナデシコ出航の二年前ですか」 明滅するディスプレイを前に、 深刻そうな口調で、しかしどこか緩んだ顔で呟くのは、 ホシノ・ルリ(魂の名はテンカワ・ルリ)、肉体年齢9歳の少女である。 光に包まれ、意識を失い、気がついてみれば、昔いた研究所。 オモイカネほどではないけれど、高性能のスパコンの前。 本人が調べようと思う前に、 無意識にナノマシンが調査を始めるあたりはさすが電子の妖精である。 えっと・・・ どうやら、過去に戻った、ということらしいですね。 なぜ、このようなことになったのでしょう。 光に包まれる直前の記憶がはっきりしません。 死に向かうアキトさんを、ひとりでナデシコCに乗って追いかけたような気が、 しないでもないような気がしますが・・・。 などと呆然としていたが、それから数十分、すっかり現状を把握した様子。 どこかのくよくよ、うじうじと悩む黒い男とは違い、 彼女は即断。 やり直そう、と。 そうです、これはチャンスです。 あのような未来は絶対にごめんですから。 アキトさんが、ユリカさんと結婚するなんて! しかもイネスさんやエリナさんと、関係してしまうなんて!! 過去に、しかもこの時期に戻ってきたのは好都合。 いろいろと準備できそうですし、 なによりアキトさんへのアドバンテージを作れそうです(邪笑)。 デメリットといえば、折角、少しは育った胸がもとの真っ平らに戻ってしまったことくらいですが、 これからしっかり育てれば、 前よりも早く努力を始めた分、大きくなりそうな気がしますし、結果オーライ。 とりあえず、この研究所を脱走してしまいましょう。 いろいろと手を回して、ネルガルに引き取ってもらえるようにするのもイイですが、 束縛されそうですし、ネルガルに行くのはいつでもできそう。 それよりも当面の問題はアキトである。 アキトさんも戻ってきているのかどうかはわかりませんが、 戻ってきていたとしても、どうやってナデシコに乗り込むか考えていなさそうですし、 あの人、行き当たりばったり、感情優先で猛進しますし、 なにかと不安です。 早いうちに接触しておく方が良いでしょう。 などと考えて、さっさと脱走準備を整えるのであった。 なんだかんだと理由はつけているが、要は自分も感情優先。 少しでも早くアキトに会いたいだけである。 研究所を脱走し、火星に渡り、ひとりの男を見つけ出す。 9歳の少女にそんなことが可能なのかどうか、なんとも疑問なのだが、 艦長職はユリカさんには遠く及びませんが、 後の被害を考えず、傍若無人に突き進むことに関しては負けません! とのことである。 アキトさん、あなたのルリが今行きます、 と両手を胸の前で組み、乙女チックなポーズで、ニヤソと笑うルリは、 周りの白衣の大人たちが、気味悪げに一歩下がっていることになど、 まったく気づいていなかった。 そんなことがあってから一ヶ月、 かの黒きテロリストといえば・・・・・・ 『鉄人』 「牛肉の鮮度は脂身のところで見るんだ。長い時間経っている奴ほど、 赤身の肉汁が脂肪部分に浸透し、脂身が赤くなる」 「へえ〜」 ヒヨコのアキトの買い物に憑いてきていた。 何をしているのだ、こいつは、などと言われても困るのだが、 正直に言ってしまえば、何もしていないのである。 劇的というか、ホラーな邂逅から一ヶ月、 協力の要請失敗、説得失敗、体の乗っ取りも失敗。 毎日のように口論しているのだが、進歩なし。 ヒヨコアキトも自分の意志を頑として曲げず、今に至っている。 「頼む、俺たちの未来のために協力してくれ」 「ヤダ」 「せめて、武術か何かを・・・」 「オレはコックになるんだ!」 「絶対に必要な時が来るんだ!」 「ンなもん知るか!!」 「オレと融合してくれ」 「男と一つになる趣味はない」 「じゃあ・・・」 「起こるかどうかもわからんことに、なんで協力しないとダメなんだよ!」 平行線である。 所詮、行き当たりばったりで生きてきた男、 説得する糸口も、解決の鍵も見つけることはできず、 すでに背後霊歴一ヶ月。 どうやら、ヒヨコアキトからあまり離れられないようで、 ずっと後を憑けているわけである。 幸い、他の人には姿は見えず、声も聞こえないらしい。 それを良いことに、ヒヨコアキトから無視される日々が続いている。 メリットと言えば、普通に五感が働いているような感じで生活できることと、 食費がかからないことであろうか、まあ幽霊がモノ食べるなんて聞いたことないが。 ヒヨコが幽霊アキトに使った費用と言えば、 嫌がらせに買ってきた線香代くらいのものである。 言うことは聞いてくれないし、 体は乗っ取らせてくれないし、 未来の話も信じようともしない様子にさすがに怒りが湧き、 第一次アキト対アキト大戦なるものも開催されたのだが、 「喰らえっ、木連流柔術」 と殴りかかった拳は、スカッと空振り、というか当たることなくすりぬけ、 「成仏しやがれ!」 と繰り出されたヒヨコのパンチだけは、なぜか黒アキトに当たる。 結果、当然のごとく一方的な展開で、 宇宙最強だった男は過去の自分に沈められたのだった。 それ以来、口論以外のケンカはしていない。 こんな二人の共同生活も、一週間も経つ頃には落ち着いてきた。 ヒヨコは、幽霊などいないかのように普通に過ごし、 その後ろをグチグチと恨み言を吐きつつ黒アキトが憑いていく。 ナデシコや、未来の話になれば口喧嘩に発展するが、 それ以外の話題なら、そこはそれ、年の差はあるものの同一人物である。 共有の知識はあるし、興味あることは似通っているし、 黒アキトの方が長く生きている分、知識を与えたり、調理のアドバイスをしたりして、 一定の信頼は得つつあるのかも知れない。 最も、近所の人に、最近独り言が増えているとか、 ちょっとおかしくなってるんじゃないかとか噂されていることを知れば、 その信頼も消えてしまう気がしないではないが。 そんな頃である、彼女が現れたのは。 「アキトさん!!」 商店街に響く少女の声。 振り向くと、蒼銀の髪をした少女が駆けてくる。 小さな胸に、邪悪をいっぱい詰め込んだ妖精である。 「・・・ルリちゃん!?」 呆然と呟く背後霊に、ヒヨコは、 「ペド野郎」 さげずみに満ちた視線を浴びせるのであった。 彼女はひどく怒っていた。 烈火のごとく、赫怒していた。 それは理不尽であったかも知れないが、 彼女にとっては、命を賭けても良いとさえ思う男のための怒りであった。 「始めまして、テンカワ・アキトです」 そうあいさつするアキトに、ルリはショックを受けなかった。 なぜならば、その背後でぷかぷか浮かぶ凛々しくも間抜けな幽霊が見えていたから。 幽霊になってもバイザーをかけているんですね、アキトさん。 それでも、ルリは再会に涙したのであった。 アキトの家にお邪魔し、というか他に行くところも現在ないのだが、 ヒヨコアキトとも、友好的に親交を深めていた。 しかし、それはアキトがアキトに協力してくれないことを知るまでであったが。 なんで協力してくれないのだ、という恨み言から始まった。 あんなアキトさんは見たくない、だから頼むから共に戦ってくれと、 このままアキトさんを罪深い亡霊のまま終わらさないでくれと泣き落としに続き、 さすがに少女の涙にひるんだものの、依然として譲らないアキトに、 今度は顔を真っ赤にして怒り出した。 「火星の人たちも、実験台に使われたりするんですよ、どうなってもイイって言うんですか! アキトさんだけなんです、なんとかできるのは!!」 身を震わせて興奮していたが、 逆にヒヨコの方は段々と冷めていった。 「未来から逃げないで下さい! 戦う気がないって言うなら、 アキトさんにその体を譲って下さい!!」 自分が何を言っているかを理解しているのかいないのか、 そんなルリを、 よくしゃべるようになったな、ルリちゃん・・・ などと当の黒アキトは、こわごわと見つめていたりした。 まるっきり他人事である。 「自分の夢のために、他の大勢の人の未来を見捨ててもイイって言うんですか!」 理不尽に暴走していたルリを、 「じゃあ、君の言う未来のためにオレの意志は踏みにじってもイイって言うんだね?」 ひやりとした声が止めた。 冷たい声だった。 よく知る青年の、しかしどこまでも冷たい視線に、ルリは震える。 まるで他人を見る眼に、いや事実彼とは他人なのだが、 それでも、ゾクリと背筋が震え、 「そんな眼で見ないで下さい・・・」 小さく呟くその姿は、捨てられた仔猫のようだった。 「はぁ・・・ごめんね?」 「いえ、私こそ・・・勝手なことばかり言って・・・」 すっかり怒気を潜め、小さくなってしまった少女の頭を撫で、 そして震える身を抱き寄せて、背を撫でてやる。 そもそも少女に対して怒るなんてことさえ希有なのに、 こんな様子の少女に怒りを持続できるタイプではない。 優しいと言うべきか意志薄弱と言うべきか迷うところだが。 この娘は、大事な人を失いそうな状況にパニックになっていたんだと、 アキトは自分の静かな怒りを抑えた。 ルリもまた、相手のことをまったく考えていなかったと反省するのだった。 神聖にも見えるそんな二人のそばで、 ひとり捨て置かれた黒アキトだけが妙に寂しそうに拗ねていた。 ダメダメである。 「確かにね・・・その君が言う未来のためにどうにかしたいっていう気持ちもあるよ。 そんな知らない人たちのために命を張るのも良いけどね、 でも、身近な人や、自分の料理を食べに来てくれる人たちに、 うまい料理喰わせて、幸せな空間を作るのも、大事だと思うんだ」 「・・・」 自分を抱いたまま、静かに語るアキト。 伝わってくる鼓動が、ぬくかった。 「そういう未来の可能性を知ったのに戦わないことを卑怯って言うかも知れないし、 見捨てたなって恨まれるかも知れないけれど、 それでも、料理を作り続けるのが、オレの選んだ道なんだ」 結局、私は未来のためとか言いながら、自分のために怒ってたんですよね。 そしてこのアキトさんだって、自分のためなんですよね。 何が正しいのかわからなくなりそうです。 「未来を知っている以上、戦うべきなんじゃないんですか?」 もう押し付ける気はありません。 でも、アキトさんの考え方は知っておきたい。 「ルリちゃんが言ったのも未来の予想図だけどね、 ほぼ確かな未来の予測っていうのはそれだけじゃないよ。 例えば、このまま木星蜥蜴を放っておいたら、たくさんの人が死ぬっていう予想は、 たぶん正しいでしょ?」 「・・・そうですね」 「それはほとんどの人が、予測できる未来だけど、 でも全員が、バッタと戦ってるわけじゃないよね? むしろ、戦闘していない人の方が多い。それっていけないこと?」 「そんなこと・・・ないと思います」 昔のアキトさんよりも、なんだか、ちゃんと考えている気がします。 戦争しているからといって、みんなが戦うわけじゃないし、 戦う人だけが正しいわけでもないし・・・、 なんだか、木星蜥蜴の正体を知ってしまった時のナデシコの葛藤みたいですね。 あのときアキトさんは、メグミさんを振りきって戦うことを選んだけれど、 このアキトさんは、戦わないことを選んだってことですか・・・。 説得が難しい・・・。 っていうか、うじうじしていたアキトさんよりも、真っ直ぐで強い気がしてきました。 「じゃあ、自分の料理を食べてくれる人たちのために今は戦って、 戦いが終わってから、もう一度、コックを目指すっていうのはどうですか?」 「う〜ん、そう言われると・・・」 お、脈あり? すかさず、心のメモにチェック。 「ほら、こっちのアキトさんも、ナデシコに乗っている時に、 パイロットも始めたわけですし」 さらに決心を促すため、現在幽霊のアキトさんを指さして言ってみましたが、 しかし、ここで詰め方を誤りました。 こちらのアキトさんの意志を固めることになり、 そして私のアキトさんを撃沈する結果になったのです。 「ん? こっちの幽霊さんのは戦ったって言わないでしょ?」 「? どういうことです?」 「そいつは、何もできない自分がイヤで、 戦う手段を持っているのに戦わないことを責められるのがイヤで、 エステとかいうのに乗って戦うことに、逃げ込んだだけじゃない」 戦うことを決意して戦ったわけでなく、現状から逃げただけ。 まあ言ってみれば、駄々っ子である。 そんな指摘に、ビクッと、反応する黒アキト。 ルリはといえば、 さすが若いだけあります、真っ直ぐですね、と感心していた。 「そんな後ろ向きな選択はイヤだよ。 何を言われようが、料理を続けることを貫き通すべきだったのに、 そうじゃなきゃ、他のコックさんへの侮辱だよ?」 「確かに・・・あの頃のアキトさんって軟弱者でしたね」 ぷかぷか浮いていたはずの黒いアキトさんは、見事に地に沈んでしまいました。 時折、ぴくぴくと痙攣するのみ。 グサッと鋭い一突きで急所を貫く、見事な理論です。 いや、もしかしたらトドメは私かも知れませんけど。 「やっぱりオレは、コックの道を貫く」 拳を握って立ちあがるアキトさん。 こうして彼は、意志を固めてしまったのです。 私、一体何しに来たのでしょう。 でも、キラキラ目を輝かしちゃって・・・なかなか格好いいじゃないですか。うふ♪
あとがき 男の子はこうでなくっちゃ。 アキトに言いたいこと言ってやって良い気分。 でも、まだプロローグだな。 煩わしいけど書いておいた方が良さげなことを詰め込みすぎで、 ちょっと重たい感じ。 次は余分な要素をバサッと切り捨てて進みたい。
代理人の感想
面白いなぁ(笑)。
ただ、冒頭の部分は地の文とルリの独白が分かる様に気をつけたほうがいいんじゃないかと思いました。