再び・時の流れに
〜〜〜私が私であるために〜〜〜
第18話 水の音は『嵐』の音……そのとき、歴史は動いたのです……その10
その機会は、向こうから飛び込んできた。
準備を整え、相手の様子を偵察に――と思っていたところに、当のターゲットが、単身で飛び出してきたのだ。しかもご丁寧なことに、あまり人気のない廊下から、どうやらトイレへと向かっているようである。
普段ならもっと人通りが多いであろうこの場所も、表の警備のためその数は無に等しい。現に私も、ここに来るまで定期的に存在している警備員以外の人間とは出会わなかった。その彼らも私がスタッフであるパスを見せれば無警戒に通してくれる。そう簡単に偽造できるものでもないし、明確に所属組織の認証も入っている。当たり前だ。これは本物なのだから。
ある意味これは私に対する信頼の証とも言っていいだろう。万一これを所持したまま私が拘束されるなり返り討ちに遭うなりすれば、発行者としてなにがしかの疑いの目で見られることは否定できない。まあ実際そんなことになれば白を切り通すであろうし、それが通るであろう事は想像に難くない。
それでも、私は確信している。このパスを手渡した私の使い手は、私が捕まることなぞ無いと確信していることを。それは私の誇りであり、存在意義である。
そんな私の仕事は暗殺。殺人。人殺し。
私に名前はない。使い手は知る必要がないし、それ以外の人間は知ったところで覚えておく意味がない。誰にも伝えることも出来ないし、その名で私を呼ぶことも出来ないのだから。
私はトイレに駆け込んだターゲットに少し遅れてそこに入る。用を足すのではなく、備え付けの鏡に向かい、化粧を直し始める。ターゲットに合わせて女性の姿を選んだのは正解であった。男性の姿で来ていたなら、さすがにここに入るのはためらわれるところだった。
程なくターゲットは個室から姿を現し、私の隣で手を洗う。交わす会話もなく、私の背後を通り過ぎていく。当然だ。そのために私は、ドアから一番近い鏡の前に立ったのだ。彼女がドアに手を掛ける寸前、私は動いた。するりと彼女の背後に回り、右手で口を押さえる。左手にはすでに細く薄い刃が握られている。刃渡り20センチ近いそれを、左の肩口から心臓へ向けて突き刺す。この間1秒以下。よほどの達人でもそう簡単には反応できない。刃が心臓に突き刺さった手応えを左手に感じた私は、彼女の瞳をのぞき込む。
意識が飛んでいることを確認した私は、彼女の体を個室へ運び込んだ。椅子状の便器に、物体になり掛かっている彼女の体を座らせる。血の飛び散る角度を慎重に計って、私はナイフを引き抜いた。
派手に血が飛び散り、個室の内部を真紅に染めていく中、私はそれに汚されることなくその様子を眺めていた。無言のままターゲットがターゲットから物体へと変じていくのを確認した私は、扉に少し細工をし、内側から鍵が掛かるようにした後、そっとその扉を閉めた。
仕掛けの紐を引いて、鍵が掛かったのを確認した私は、紐を回収して扉に向かって歩き出した。
その瞬間であった。
「本当に鮮やかなもんだわ。最初っから気ぃ張ってないかぎり絶対防げないよ。現にこのあたしともあろうものが、こうも見事に殺されるなんて」
かちゃり、という個室の鍵を外す音と共に、ターゲットの声が響いた。
反射的にナイフを構えて振り向く私。その瞬間さすがの私も隙を見せそうになった。
肩口から血を吹き出したままのターゲットが、幽鬼のような姿のままそこに立っていた。
「でも惜しかったね。このくらいじゃあたしは殺せない。っていうか、ナイフや銃弾じゃあたしは死なないよ。ほら」
ターゲットがそういった瞬間、その姿に異変が生じた。きわめて淡い青色をしていた髪が、見る間に漆黒に染まっていく。同時に全身に、奇矯なパターンの光が走る。虹色の光はすぐに消えたが、そのときそこに立っていた人物には、先ほどの傷はおろか、飛び散ったはずの血痕すら見あたらなかった。
さしもの私も開いた口がふさがらなかった。傷が消滅したのは、百歩譲ってそういう特異能力の持ち主だった、と納得できる。しかし、服に飛び散った血痕を瞬時に消し去るのは不可能である。それをやってのけたこの人物……いや、『存在』は、私の理解の範疇を超えた『何か』だった。
「しかし、思ったより凄腕だったね。カズシさんを殺したときの人なら、こんなに凄いわけないし。それにあっちは男の人だったし……あ、変装かな? まあいいや」
ターゲットは意味不明の言葉を口にした。だがそんなことはどうでもいい。私は言うことを聞かない足を動かすのに必死であった。
だがターゲットは言う。
「じゃ、さよなら。あなたはここにいちゃいけない人なの。消えて」
ターゲットはただ私に向かって手を突き出す。次の瞬間、私の周囲に光学デバイスの反射光のような、虹色の光が発生した。
それが私が最後に知覚したものだった。
>KAZUSHI
「今頃何を話しているんでしょうね、みんな」
「さあな。でも、ま、悪い話じゃないだろうさ」
サラの疑問に、俺はそう相槌を打つ。
会議の間、俺たちは控えの間で待機していることになっていた。立場上遊びに出るわけにも行かず、かといってあまり近くにもいられない。結果こういうところでしばらくのんびりする羽目になった。
まあ、休暇だと思えばそんなに悪い話でもない。サラやアリサはのんびりと地元の雑誌に目を通しているし、ジュンはずっと窓の外を虚ろな目で見つめている。なんかあったみたいだが、どうも聞き出せる雰囲気じゃねぇ。ナオはドアの側でコーヒーなんぞすすっているし、ハルナはさっきトイレに行った。
と、ドアが開く。きっちりナオが反応するが、それはすぐに収まった。当然といえば当然だが、ハルナが帰ってきただけだからだ。
彼女はそのまま大きな窓の側に向かい、眼下に広がる景色を眺めながら言った。
「今日も凄い人だね〜。どうやら西欧、すっかり平和になったみたいじゃない。頑張った甲斐あったね」
「そうだな」
俺も立ち上がって、窓から下を眺めながら答える。まあ、眼下といってもここには高層建築はない。せいぜい5階分程度の高さなのだが、周りに高い建物がないので結構いい眺めになる。
そのときだった。
(……?)
俺は全身に微かだが、確かに奇妙な揺れを感じた。
「地震?」
ジュンがつぶやくが、ここは極東じゃねぇ。この辺りは地盤が安定しているから、ここ数百年、地震なんて起きた試しはねえんだぞ?
ふと思いついてもう一度眼下を眺める。視界に映る人たちも、なんだかざわざわしてやがる。てことはこりゃこの建物だけじゃないな。
うーむ、何かよくないことが起こる兆しじゃないだろうなあ、と思っていたら、いきなりハルナの奴が部屋の外へ駆け出していった。
「おい、どこへ行く!」
「屋上!」
間髪を入れない答え。俺たちもそれに引きずられるかのように、部屋から駆け出て行った。
ハルナに一足遅れて屋上に着いた俺たちに、彼女は黙ってある方向を指さした。
俺たちがそちらに向かって注目したのに合わせるように、ハルナの声がかぶる。
「まずいよ、あれ。偶然……じゃないよね。だとすると……ああっ! あの可能性があった!」
俺が彼女の指先に見ていたものは、微かな砂煙。いや、微かと言うにはちとでかいかもしれない。この距離だから『微か』なんて言っているが、あそこには確か、欧州でも最大クラスの『スリーパー』……そう、休眠中のチューリップが眠っている。
よりによってこのタイミングで目ぇ覚ますかよ!
「ね、ハルナ」
と、アリサがハルナにツッコんだ。
「アレが目覚めたわけ、心当たりあるの?」
「うん、推測だけど」
アリサの反応は疑問7分疑惑3分って言うところか。何かとあるからな、彼女には。
もっとも答えを聞けば何てことはなかった。
「正確なところは木連の人……舞歌さんか八雲さんにでも聞かなきゃわかんないと思うけど、今までぐーすか寝ていたチューリップが目を覚ます条件って、なんだと思う?」
ツッコミ返されたアリサが、少し思案顔になる。上を向き、あごに人差し指を当てるという古典的ポーズのまま30秒ほど考え、おもむろに答えた。
「攻撃されたときか、攻撃対象を見つけたとき」
「うん、私もそう思う」
ハルナはそう答える。
「でさ、ここのチューリップって、前MoonNightで回ってきたときも反応しなかったよね」
「ですわね」
サラも肯定する。俺も覚えていたが、間違いはない。ピースランドにこそ寄らなかったが、近くの基地には来ているのだ。
「で、ここが推測なんだけど……チューリップって、対人か対熱センサー、持ってるかな? 持ってるんなら大当たりだと思うんだよね。あれって結構賢いから、人も少ない、大量の熱源もない、っていう状況じゃあんまり稼働しない。でもさ、『自分の周りに急速に超大量の人間が集まって来ている』って言う状況になったのを感知したとしたら、どういう行動取ると思う? チューリップに民間人と軍人の区別が付かないのは確実だよ」
「あり得ますね……」
「私たちが回ってきたときは、少人数・小部隊でしたし」
「おまけにこの辺はピースランドを初めとする小国がらみの問題があったから、大規模な軍隊が駐屯したこともない」
アリサ、サラ、ナオ、それぞれの意見も聞いた俺は、ため息を一つついて言った。
「――ビンゴ、かもしれないな。だとして、止められるか?」
それと同時に、ピースランド城下に、久々の警戒警報が鳴り響いていた。
>RURI
本日は父も母もアキトさんも会議なので、私は弟たちと過ごしていました。弟たちは私がナデシコで体験したことに強い興味を持っているようでした。といっても、政治や軍事とは関係なし、宇宙戦艦という存在そのものに対するあこがれが強かったみたいです。そして私はそのメインオペレーター。はっきり言って年頃の男の子に興味を持つなという方が難しいかもしれません。
とりあえず私は実体験の中から、あまり悲惨ではなく、かといって男の子達が特に好みそうなものも除去して、いくつか話しました。それでも彼らの好奇心を満たすには一応足りたようです。もっとも彼らのそういう気持ちは無尽蔵も同然ですから、すぐに話すネタもなくなりそうです。
そんなときでした。お城の中に、ナデシコでも何度か聞いたような、緊急警報を思わせる音が鳴り響きました。
「うそっ!」
「警戒警報?」
「なんで今更!」
「すぐ避難しないと!」
「お姉様、こちらです!」
5人の弟たちは、ちょっと頼りなさげな外見とは裏腹に、実にきびきびとした動きで、私を避難場所へと案内してくれようとしています。
ですが……。
弟の手を優しく払い、私は言いました。
「私の行くべき場所は、そちらではありません」
「「「「「お姉様!」」」」」
きれいな五重奏に対して、私は首を軽く横に振って答えます。
「私はナデシコの仲間の所へ行きます。それが今、私のいるべき場所ですから」
そういった瞬間、弟たちの動きが止まりました。何となく見捨てられたような子犬みたいな瞳をして、しかし同時にそれ以外の何かを含んだ目で、じっとこちらを見つめながら。
「お姉様」
弟の一人が言いました。ごめんなさい、まだ誰が誰だか区別がつかない姉で。名前は聞いても顔形が一緒なせいか、まだ見分けがつかないのです。
「お姉様は……お姉様である以前に、ナデシコの一員なのですね」
「はい」
短い返事ですが、私はそこに、力と誇りを込めて答えました。
弟たちは、お互い頷くと、先ほどとは違う扉に向かいました。
「お姉様はまだ不慣れでしょうから、僕たちが案内します」
私は小さく頷きました。
「ありがとう、弟たち」
彼らの案内で、私は程なく待機中のみんながいる部屋にたどり着きました。弟たちがあらためて避難ルームへと向かうのと入れ替わりに、部屋の中にいたはずの人たちが階段を下りてくるのが見えました。
「あ、ルリちゃん」
私をめざとく見つけたハルナさんが手招きをしています。
「何が起こったのですか?」
答えは思ったより大事でした。
「どうもね、近くに落ちてたあのでっかいチューリップ、目を覚ましちゃったみたいなの」
「そんな……なぜ今このときに」
「陰謀とかじゃないと思う。たぶんだけど……ここに人が集まりすぎたせい。ぐーすか寝てたチューリップがびっくりするくらいにね」
私はその言葉を元に、少し想像してみました。わずか一日にして人がぞろぞろ集まってくる。その人が三日も居座っている……チューリップの立場からしたら、軍隊が集結して攻撃準備をしているようにも思えます。
「……何となく、判りました」
「でしょ?」
ハルナさんがそう返してきます。
「けどなあ、事は一刻を争う」
そんな私たちに、カズシさんが緊張した声で言います。
「あのでかさだ。出てくるまでにあと10分以上は掛かるだろう。だがな、あそこからバッタやらジョロやらがはき出されたらもうヤバい。近くの軍隊が緊急展開しても、殲滅なんか無理だ。極端な話、一匹でもこっちの市街地に飛び込んできたら、せっかくの和平会談も無茶苦茶なことになる。それに……」
ここでカズシさんは、思いっきり声を落としました。私たちだけに聞こえるように。
「西欧方面地上軍は、宇宙方面の戦力増強に呼応して、削減傾向にあったはずだ。ヘタすりゃあ、手駒が足りねぇかもしれない」
私は一瞬硬直してしまいました。バッタ一匹でも逃したら危ない状況で、もし手が足りなかったら、今ここにいるお客さん達は。
もちろん、ピースランドが待避シェルターを作っていないわけはありません。ですが、ここ数日の来客数はおそらくその想定数を大幅に上回っているはずです。というか、自国民数の100倍近く、来客込みでもピーク時の3倍以上の人出なのです。こんな状況、予測する方がそもそも無理です。
「……30分」
私の硬直を解いたのは、その声でした。
「ハルナ」「ハルナさん」「ハルナ」
カズシさんと、私と、ナオさんの声が重なります。
「30分止められれば、何とかなるかもしれない」
「おい、そりゃおまえさんがいろいろ隠しコマンド持ってるのは判るが、何でまた中途半端なんだ?」
ナオさんがちょっと皮肉げにツッコみます。
「いくらあたしがいろいろ出来たって、無茶って言うものはあるわ。いくら何でも1対1万で相手を全滅させろっていわれたら無理って言うしかないし。燃料持たないしね。第一そのときに一兵たりとも相手を背後に回しちゃいけないなんて条件付けられたら、さすがにあたしだってさじ投げるわ。でもね、それを可能とする条件を整えるんなら何とかなる」
「具体的には」
ナオさんの合いの手に私も乗ります。
「ないないづくしのこの状況で、何をする気なんですか?」
ハルナさんはなぜか私の方を見て、少し意地悪そうな目をしながら言いました。
「ここは正念場だもの。切り札を一枚切るしかないわ……ナデシコをここに持ってくる」
「「「「「なんだって〜〜〜〜!!」」」」」
>AKITO
地震から緊急通報。会場が緊迫した一瞬に、その知らせは飛び込んできた。
「大変です!」
室内にポップする緊急通信。ナデシコのコミュニケほどの自由度はないが、全員から見えるようなマルチ画面でそれは伝える。
「こ、郊外で休眠中だったチューリップが、活動を再開した模様です!」
その瞬間、大多数の視線が一点に集中した。もちろん、木連代表、東舞歌女史の元へ。
俺はあえて彼女たちからは視線を外した。ぐるりと場内を一瞥する。
彼女に視線を向けていなかったのは、国王夫妻とガトル大将、後ロバート・クリムゾンだけだった。ミスマル提督とグラシス中将は、一瞬そちらを見たが、すぐに視線を外した。
「き、き、貴様ら、騙したな!」
そこにうわずった声が割り込んできた。見ると、連合政府大使が、目を見開き、歯をむき出しにした形相で彼女たちの方に向かって指を突きつけている。
「何が和平だ、最初からこちらに要人を集めて、まとめて抹殺する気だったんだろ、ええっ」
「見苦しいな」
舞歌さんは対照的なまでに落ち着いた様子で答えた。
「おぬしは馬鹿か? 我々は皆現役の軍人だぞ。そういうことをするつもりなら、そんな無駄なことをするまでもない。我らがその気になっていたら、そうだな……アキト殿が守るつもりになっていた人物……3名か。後アキト殿本人。それを除いて全員とうに命はない。我々も含めてな。アキト殿が如何に超人的に強くとも、一人では守れる人数にも限度というものがある」
俺は内心さすがだと思った。実のところ、昨日目覚めたあの力を使えば全員守りきることも出来るだろうが、それ抜きならほぼ彼女の言ったとおりになることは俺の予想と一致していた。
大使はそういわれてさらにムキになって何かを言おうとしていたが、次の瞬間ものも言わずに崩れ落ちていた。さすがにあれ? と思っていたら、いつの間にか王妃が彼の背後に回っていて、手に重そうな灰皿を抱えていた。
「全く見苦しい。少しは品位というものをわきまえなさい」
「こらこら、おまえがそれでは説得力がないぞ」
国王が笑いをこらえながら王妃をたしなめる。その瞬間、確かに空気が和み、会議は元の落ち着きを取り戻していた。が、
「それはともかく、木連代表、何か釈明はありますかな」
アメリカ代表が話を蒸し返した。
「むろんある」
さすがに今度はちゃかさずまじめに答える舞歌さん。
「まず言っておくが、これは我々の意図とは関係のない、純然たる『事故』だ」
さすがにその瞬間、全員に緊張が走る。が、それをあえて無視するかのように彼女は言葉を続けた。
「むろん、あの地に跳躍門……そちらの言葉で言うチューリップが落ちたこと、及びそこから出現する蟲型兵器によって被害が生じることについては、こちらの落ち度といえよう。その点に関してはこちらも謝罪しなければなるまい。だが、今このときに、あれが目覚めて攻撃をしようとしている、という点については、まさに『事故』としか言いようがない。少なくとも我々には現時点で地球に対して攻撃を仕掛ける意志もなければ利点もない。そもそも兄上があの宣言をした後で地上本土を攻撃して、いったいどんな利があるというのだ? どんな利もそれによって失う民の信用を考えたら全く割に合わん」
さすがに全員が押し黙った。彼女の言葉には見事なまでに筋が通っている。
決して詭弁ではない。
と、そこに場の空気を全く読まない声が乱入した。
「はいはいはい、議長さん、発言よろしいですか!」
ユリカだった。俺は意志の力で痛んだ頭を押さえつけた。
「どうぞ、ミスマルユリカ艦長」
国王も苦笑いを浮かべながら許可を出す。ユリカはそれを聞いて大きく首を縦に一度振ると、舞歌さんに向かって発言した。
「えと、舞歌さん、あのチューリップ、木連さんの方から電波か何かで止められないんですか?」
一瞬、ガトル大将からオオサキ提督から、国王、アカツキ、ロバート、俺に至るまで止まってしまった。あまりにも当たり前すぎる質問、そして盲点だった。
「残念だかミスマル嬢、それは出来ない」
対する舞歌さんの答えは非情であった。
「私もそんなことが出来るのなら、即座に手を打っている。だが申し訳ないが、この地に落ちているのはそちらが我々を木星蜥蜴と呼んでいた頃に落ちたものであろう? 国王陛下」
「うむ、その通りじゃ」
頷く国王を確認した彼女は、やや悲痛な表情を浮かべて答えた。
「この場でこういうことを言わねばならないのは断腸の思いだが、だとするとあれは我々にも止められない。最初期に送り込まれた跳躍門は攻撃から戦力の転送まで完全自動化されている。一定の判断能力は組み込まれているものの、外部からの干渉では破壊以外の方法で止める術はない。あれはある意味特攻兵器だからな。せめて後一期後の中小型なら何とかなったのだが。一応起動と停止の命令くらいは受け付けるからな」
「そうですか……だとするとグラシス中将閣下、すぐに手を打たないと」
「確かに。皆様、申し訳ないが、私はこんなところでのんびりしている場合では無さそうですな。ただ問題なのは、手が足りるかどうか……」
俺は少し不審に思った。中将がここで判断を間違えるとは思えない。それに今の欧州軍は手前味噌だが俺たちが鍛え直しているから極東と並んで実践慣れしているはずである。
と、そんな俺の様子に気づいたのか、中将はこちらを見ながら言った。
「ああ、テンカワ君、何があったのかと聞きたそうだね。もちろん君たちが鍛え直してくれた欧州方面軍は今でも精鋭だ。だがな、それが今かえって仇となっている面があるのだよ」
「……? どういう事です」
「精鋭なだけに、より多くの部隊が宇宙へと引き抜かれてしまった、ということだ」
答えたのはガトル大将だった。
「今更こんなことを言っても始まらないが、君たちMoonNightが活躍してくれたおかげで欧州圏の活性化していたチューリップ群はあらかたが片付いた。残るいくつかのスリープも、残った軍隊でほぼ片がついていた。今の欧州に残っているスリープ状態のチューリップはわずか5つ、しかもその大半が地中奥深くまでめり込んでしまっていて、そう簡単には出てこられず、また目覚めても十分対処可能と思われていたものだったのだよ。だから我々は欧州圏からかなりの部隊を宇宙に上げてしまっていたのだ。現に今目覚め掛けているチューリップも、普段ならば国民や客達が避難している間に部隊の展開が間に合っただろう……だが……」
そう、今のピースランドには普段の10倍以上、おそらくピーク時と比較しても3倍以上の観客が詰めかけている。となると避難シェルターが間違いなくパンクする。市民が避難していれば、軍も多少の無茶は効く。だが、後背に市民をむき出しにしたまま、それを守って戦えと言うのは無理を通り越して無謀だ。ほんのわずかな、いや、ただ一機の取りこぼしが間違いなく多大な被害をもたらす。
そしてもしここで被害が出たら……おそらく世論は一気に決戦に傾く。今ここで民間人に対する攻撃をすることは、理由の如何を問わず木連側にとって大失点となる。
そうなったら和平など夢のまた夢だ。
だが現実に、その平和が潰えようとしている。何か、手段は――
「お兄ちゃん! お姉ちゃん借りてくよ!」
皆にあきれ顔をさせて、『手段』がやってきた。
>SHUN
乱入してきたのは、やっぱりというかなんというか、ハルナだった。どう考えても手詰まりのこの状況、テクニックや知恵ではどうやったってひっくり返すのは無理だ。
となると無理矢理、つまりは力業しかない。そして彼女が動く以上は、何か抜け道があるんだろう、と、俺は割り切ることにした。
はっきり言ってあんまりいい傾向じゃない。彼女の持つ謎の『力』に頼るのはある意味神頼みみたいなものだ。彼女の『能力』、つまり知恵や技術力、状況判断力、といったものは大いに使い倒すべきだし、またこちらとしても使い出があるものだが、この手の『裏技』みたいなものには極力頼りたくはない。また頼るにしても、今までの彼女なら、こちらには気がつかれないように『こっそり』とその力を行使したはずである。
その彼女が動いた。ついに山が動いたのだ。だとするとこの場はとんでもない正念場――少なくともアキト達にとっては――ということになる。
そんな俺の思惑に気づいてか否か、こちらには目もくれずに彼女はまず艦長の元に駆け寄った。そして彼女の手を取ると同時に、ハルナはグラシス中将の方へ向かって言った。
「グラシス中将、お願いします。30分、30分持たせてください。出来ればあれを浮上させずに。そうしていただければ私たちが『切り札』を用意します」
「……確約は出来んが、当然のこととして努力しよう」
中将はそう答える。それだけ言うと、「な、なんなの?」とうろたえている艦長を引きずるように連れ出す。そして部屋を出て行く間際、一瞬こちらを向くと、小さく声を掛けた。
「お兄ちゃん、アカツキさん、オオサキ提督……ごめんね」
なんのことだ、と聞き返すまもなく、二人はあっという間に会議場から遠ざかっていった。
妖精が通り過ぎる瞬間、とでも言うべき一瞬の空白の後、ガトル大将やオニキリマルグループ代表といった、こちらとはあまり縁の無かったメンバーが一斉に質問の声を上げた。
どうしたもんかと思ったが、グラシス中将やアキトとの一瞬の目配せの後、とりあえず俺が答えることにした。
「彼女は元MoonNightのメンバーの一人ですよ。ある理由により一切表には出ていなかった極秘メンバーです。そして……」
俺はアキトの方をちらりと見ていった。
「かの部隊においてテンカワアキトが
>YURIKA
「ちょ、ちょっと、ハルナちゃん、下ろして、恥ずかしいから」
彼女はなんとあたしを負ぶったまま、ものすごい勢いで人気のない廊下を駆けていた。そんな彼女が駆け込み、足を止めたのは、なぜか女子トイレ。
「ごめん、ここが一番近くで監視カメラのないとこだから。監視マイクならともかく、カメラはちょっとまだまずいんだ」
「へ〜 って、ちょっと、ここ、マイクはあるの!」
思わずびっくりして聞いちゃったけど、ハルナちゃんは笑って言った。
「無いよ、いくら何でも。今のは言葉の綾。もしあったらこんな話だって出来ないって。でね、今は時間がもったいないから、行くよ」
「行くってどこへ?」
「すぐ判る。そうそう、そろそろ教えてあげるね」
? なんだろう。この言い方だと、行き先とは別の事よね。
そう思っていたら、いきなりハルナちゃんの全身に、あの光の紋様が浮かび上がってきた。同時に辺りを、何度か見た虹色の光が包む。
「これ……」
そう、アキトが新しいエステバリス……プロトBに乗っていたときに何度か見た光。
「そう、ボソンジャンプ。あたしやお兄ちゃんが出来るのは知ってるでしょ?」
「うん、まあ」
あたしが頷くと、彼女はなんとも微妙な笑みを浮かべて言った。
「実を言うとね、これ、ある一定の条件――資質って言ってもいいかな、それがないと死にかねないんだけどね、ナデシコにはあたしとお兄ちゃんの他に、後二人いるの、これを使いこなせる人が」
アキトと、ハルナちゃんと、後二人――!
あたしの脳裏に、かつて火星から一気に八ヶ月の時間と地球までの距離を飛び越えた、あのときの光景が蘇った。
「あたしと、イネスさん?」
「正解」
そして次の瞬間、光が完全に視界を覆ったかと思うと、それは瞬く間に晴れていた。
そしてあたしの目に飛び込んできたのは、ナデシコのブリッジ、艦長席からの景色だった。
>HARI
それは僕がナデシコのブリッジで、タケミカヅチとのコンタクトプラグラムをブラッシュアップしているときのことでした。
現在ナデシコは艦長も会長もいないため、マスターキーが『休息』モードになっています。内部の生活系と、整備に必要な機能は生きていますが、航行及び戦闘は一切不可能になっているモードです。どちらかが戻ってこない限り、ナデシコはオモイカネが『緊急避難』を認めない限り一切動けません。
でもそれは逆に言えば航行及び戦闘のために必要なリソースが解放されているということ。これ幸いとばかりに、僕は普段は容量不足で動かしづらい大規模シミュレーターを展開して、Yユニットとタケミカヅチの接続による新しいナデシコの運用オペレーションを、シミュレーションモードでいろいろ試していました。ちなみにラピスはイネスさんと、アキトさん用の機体の、最終調整に掛かりきりです。後一点クリアすれば完璧らしいんですけど、そこにここ3日ほどハマっています。
初期プログラムをシミュレーターに掛けて問題点やバグを浮き上がらせ、あるものは潰し、あるものは作り直して、だいぶきれいにオペレーションが出来るようになってきました。これを見れば艦……もとい、ルリさんもきっと僕をほめてくれると思います。
そんなよこしまなことを考えたのがいけなかったのでしょうか。
突然上の方から、強い光が発生しました。
「わっ!」
あわててそちらを振り返ると、ブリッジの上に、ある意味散々見慣れた光が出現していました。ジャンプ時のボソン光。これは誰かがここにジャンプアウトしてくるということです。
「あ……艦長! ハ」
ハルナさん、と言いかけたところで、僕の口は硬直してしまいました。昨日、ラピスの方を手伝っているときに、ラピスのリンク経由でもたらされたあの情報……
ハルナさんは僕の、実の母親。
精神的にはどちらかというと前世界の(そしてこちらでも)マキビの両親こそが親だ、としか思えないけど、少なくともこちらでは、物理的・肉体的には、僕は彼女の実の息子な訳です。
その辺が何か僕の心の中で引っかかって、上手く言葉が出てきません。
「あ、ハーリー君、ちょうどよかった」
……母は全然気にしてないみたいです。最初に会ったときのままの声音で、僕に話しかけてきました。
「わ、ほんとにナデシコのブリッジだ。びっくり」
そこにかぶる艦長の声を聞いて、やっと僕の硬直は解けました。
「どうしたんですかお二人とも。ジャンプまでしてここに来るなんて」
「あ、そうだった。話は後ね! お姉ちゃん、マスターキーよろしく。ハーリー君、全員、ナデシコに大急ぎで呼び戻して。緊急出撃よ! 目的地はピースランド、制限時間は、後30……いえ、27分!」
「えええええっ!」
驚きながらも僕のIFSはオモイカネに指令を伝えていました。緊急集合命令を全コミュニケに。僕と艦長とハルナさんのものは除いて。着信許可はイネスさんとウリバタケさんとリョーコさんのみ。後は一時遮断。
そして数秒後に、許可したイネスさんとウリバタケさんとリョーコさん、そして許可していないはずなのにラピスのウィンドウが立ち上がりました。
『ハーリー君、いったい何事?』
『ん、なんだぁ? 何があった!』
『おいハリ、なんだなんだ!』
『こらぁ! あたしを閉め出すとは何よ、ハーリーの癖して!』
同時に降ってくる声。しかしそれも、ここに本来ならいないはずの艦長とハルナさんがいることに気がついたみんなは、思わず口をつぐんでしまいました。
『……どうやら、何かとんでもない緊急事態みたいね』
代表するように、イネスさんが言います。
「うん、マジ大急ぎ。一分一秒に、木連との和平が掛かってるって言ってもいい。大至急ナデシコに乗って! 積めるものは出来るだけ積んで。イネスさん、ウリバタケさん、みんなのエステと、お兄ちゃんの機体、ナデシコに積める?」
『おう、リョーコ達の機体はナデシコに載ってるぞ! さっきまで整備実習してたから、固定するだけだ』
『ついてたわね。待機中、プログラミングにオモイカネ使ってたから、載ってるわよ』
「ラッキー! じゃ、とにかく人が乗ればオーケーなのね!」
そういうとハルナさんは、僕の隣……メインオペレーター席に座ると、いつもルリさんがやっているみたいに、両手をパネルの上にのせました。
「ウリバタケさん、ナデシコの整備は完璧ね?」
『あたぼうよ! いい機会だから初日にオーバーホールもどきまで磨いてらぁ』
「よし、信じた! ハーリー君、急ぐから点検手順、ちょっとすっ飛ばすわよ!」
操舵手であるミナトさんがまだ来ていないのに、ナデシコの相転移エンジンと核パルスエンジンが急速に目を覚ましはじめます。その他の航行用システムや通信用システムが、オペレーター無しに、次々と立ち上がっていきます。
「まさか……これ、ナデシコCの」
僕の口からこぼれた言葉を、ハルナさんが拾いました。
「声が大きいぞ。そ、ちょっと強引だけど、ナデシコCのワンマンオペレーションシステムもどきを一時的にマウントしたわ。今この時点で飛ぼうと思えば飛べるけど、さすがにそれはまずいしね」
と、そこに押っ取り刀でミナトさんとメグミさんが駆け込んできました。すっぴんに近いミナトさんは初めてです。
「あれ? なんでハルナと艦長が……あ、例のアレで跳んできたの?」
「うん、ちょっと訳ありで。準備できてます。搭乗可能な人が全員乗り込んだら、緊急発進の予定」
「いったい何事なのよ、全く」
「ピースランド近くで墜落していたチューリップが起動しちゃったの。お客さん多すぎて、ヘタすると避難シェルターがパンクしかねない状態で」
その瞬間、ミナトさんもメグミさんも、そして多分僕も目つきが変わりました。
「現在搭乗率72%、整備班員が全員載っていたのが大きいですね」
「発進準備99%完了。搭乗ハッチが閉まればすぐにでもあがれるわ」
二人の報告を聞いて、艦長とハルナさんは、逆に少し緊張を解きました。
「ふう、ここは待つしかないわね」
ハルナさんがそう言ったのに合わせて、メグミさんがハルナさんと艦長、二人を交互に見ながら聞きました。
「ですけど……間に合うんですか? 大体ここ、月ですよ? 地球まで行ったって、その頃にはもう遅いんじゃ……」
「でも、間に合うんでしょ? ハルナちゃん」
艦長の言葉に、ハルナさんはまたちょっと緊張した様子になって答えました。
「あと18分……でも、ちょっと遅れそう。まずいな……」
「「18ぷん〜〜〜〜!!」」
……やっぱりそうなりますよね。今の様子だと、ナデシコが月ドックを出航して、宇宙空間に出る頃には、残り10分を切っているはずです。
「いいいくら何でも間に合いっこないわよ!」
「何も地球まで行く訳じゃないわ。ここから一番近いチューリップまでいければいいの」
その言葉に、メグミさんは軍の広報を調べます。
「そういえば確かにあったわよね。航路監視チューリップ。一昨日までは」
「えっ?」
なぜかその言葉に驚いたのがハルナさんでした。
「うそっ、八雲さん、アレ引っ込めちゃったの!」
といいつつ、軍報や各種観測データなどをあわててサルベージしています。
「やば! あそこにまだおいたままだから30分で間に合うと思ったのに! あそこが使えないとヘタするともう30分かかる! それじゃいくら何でも持たない!」
「ハルナちゃん?」
心配そうにその様子をのぞき込むミナトさん。しかしハルナさんはデータの海に潜ったままです。おそらく一番近いチューリップの最新位置情報を検索しているのでしょう。それも多分、木連側のデータリンクにまで探りを入れて。
「ああ、そっか。あっちには『ある』んだもんね。それなら間に合ったのか〜」
突然頭上から降る声。僕、ミナトさん、メグミさんは、頭上……艦長の方に思わず注目します。
「どういう事? 艦長」
船を操縦するという立場もあるのか、少しまじめな表情を浮かべて、ミナトさんは艦長に聞きます。
「あのね、アレをやるつもりだったみたいなの、ハルナちゃん」
「アレ?」
「そ。火星大脱出。つまりね、ナデシコでチューリップに突入して、ピースランド側へ一気に跳ぶ気なのよ」
その瞬間。
「「「なんだって〜〜〜〜!」」」
爆発するかのように巨大化するウィンドウ……イネスさんやウリバタケさん、今までのやりとりを、コミュニケで聞いていたみたいです。回線、切ってませんでしたしね。
あの大きさということは、よっぽど大きな声を出したんですね。
「おい、あんときゃ八ヶ月時間が跳んだんだぞ!」
「それにどこに出るかだって……まさか!」
心配そうなウリバタケさんとイネスさんの声……ですが、イネスさんの声が突然、驚きになぜか知らないけど喜びっぽいものが混じった感じに裏返りました。
「うん」
そしてそれに応えるかのように頷くハルナさん。
「前はなんにもしなかった……ある理由があって、あのときはやってもうまくいくかはちょっと怪しかったし。でもね、今回はそんなこと言ってられない。あたしもとっておきの切り札を切るわ……イネスさん、見せてあげる。大規模ボソンジャンプの制御方法。そして、あなたにも手伝ってもらう」
「へっ?」
あっけにとられるイネスさん。
「前渡した資料にあったでしょう。ボソンジャンプは【特定の資質を持つものでなければ制御できない】って。で、現時点で今この船内には、その有資格者が3人いる。前は具体的に教えなかったけど、あたしとお兄ちゃんの他に、ナデシコには有資格者が2人いるの。一人はお姉ちゃん、そしてもう一人が……イネスさん、あなたなの」
「!!」
イネスさんが思わず息を呑んでいました。無理もないと思います。それこそ生涯のテーマに近いレベルで研究していたボソンジャンプ。喉から手が出るほど欲しかった研究対象。それを「実行できる」人物。まさか自分自身がその一人だったと知らされれば。
そして、今度は一転して少しおびえるような口調で、彼女はつぶやく。
「出来る……の? あたしに」
「うん。ていうか、やってもらわないと困る。さっきいった、前の時やらなかった理由っていうのはね、複数の有資格者が別の出現地点をイメージすると、行き先が混乱して思わぬ事故につながるからなの。だからピースランドに飛ぶには、あたしと、お姉ちゃんと、イネスさんが同じ所を思い浮かべなきゃならない。だけどあたしがこうして切り札を切る以上、失敗なんかさせないよ。チューリップにさえたどり着ければ、お仕着せの転送プログラムなんかブッチして、あたしがどんぴしゃりの位置に付けてみせる。でもそのとき、お姉ちゃんとイネスさんの意識があらぬ方向に向いてるとうまくいかないのよ」
「判ったわ。やるしかないのね。でも、これはとんでもないデータが手に入りそうね」
微妙にマッドっぽさが復活したイネスさんは、何かとんでもなく恐ろしげでした。
>MEGUMI
「搭乗率95%、残りもあと2分足らずで乗艦可能です」
あたしの報告を受けて、艦長がハルナさんに聞いてます。
「ね、ハルナちゃん、間に合いそう?」
「ん〜、まずいなあ、このままだと20分のロスが出る。しかたない。ちょっとへそくりがないか調べてみる」
へそくり? なんのことでしょう。と、ハルナさんがどこか外部に回線を繋ぎました。そして開いたウィンドウに映ったのは……
「やあ、そちらは大変なようだね。連絡してきた理由はアレかな?」
クラウド……八雲さん!
「アレ、ひょっとして舞歌さんから連絡行った?」
「いや、地球のグローバルニュースで話題になってますよ」
「早っ!」
グローバルニュースですか……と、私が検索しようとするより早く、八雲さんの隣にニュースのウィンドウが開きました。やること無いですね。
「あ、そういえばルリちゃんの帰還に対する取材で、マスコミ一杯来てたっけ」
「彼らがこんなおいしいネタを見逃すはずありませんからね。それはそうと、アレが起動してしまった理由は、おそらくあの膨大な人出のせいと思われます。脅威度が限界を超えてしまったみたいですね」
「やっぱり〜。そうじゃないかと思ったんだけど」
「申し訳ありません。あの型はこちらからの操作では停止できませんので」
「でさ、申し訳ないんだけど、アレ止めたかったら、こっちへ向けてチューリップ一個動かしてくれない? 壊しちゃうと思うけど」
「いやだといったら?」
「アレが原因で人がたくさん死んで、和平の可能性が潰える」
「断れませんね」
打てば響くように、八雲さんが答えます。話が早いですね。
少しして、一連のデータが送られてきました。私はそれをメインの卓に転送します。
「ん、これで10分のロスで済む」
「おや、まだ足りませんか」
「うん、ぶっちゃけ。でも10分までなら多分取り返しは効く」
「では、私も和平が潰えるのはいやですから、10分お貸ししましょう。その代わり、後で返してくださいね」
「???」
さすがにハルナさんも不可解な顔をしています。
「なに、災い転じて福となす、です。では、こちらも急ぎますので」
そのとき、私の手元に、最後の一人がナデシコに乗り込んだという報告が入りました。
「艦長! 搭乗率100%、いつでもいけます!」
「了解! 独立機動艦隊旗艦・宇宙戦艦ナデシコ、発進!」
「ナデシコ、発進します!」
その声と共に、ここしばらく感じなかった、相転移エンジンの作動振動の共鳴が生み出す、微かなうなりのようなものが私を貫いていきました。
開放されるゲート、ほんの少し揺らぐ艦内重力。
ナデシコは今、長い眠りから覚め、再び戦場へと向けて旅立ちました。