機動武闘伝
ナデシコ 

 

 

 

 

 

 

 さあさあと、ネオホンコンに雨が降っていた。

 愛撫するように街を濡らし、細く優しい雨は絶え間なく天より滑り落ちる。

 ネオチャイナ・ナデシコファイトクルーが宿舎にする禅寺が立つ、小高い山の裏手。

 舞歌はただ一人、雨がその身を濡らすままに、

 その姿を雨のカーテンの内に霞ませるネオホンコンの街を眺めていた。

 

 いつからだろうか。

 舞歌は時折降りしきる雨にその身を任せるようになっていた。

 雨の中を無心に彷徨うときもあるし、

 目を閉じ、ただ雨に打たれるままに任せて立ち尽くす時もある。

 別段、雨に打たれてどうこうする訳ではない。

 ただ無性に雨の中に立っていたくなるのだ。

 

 心をただ空白におき、何十分も、時には何時間もの間、その身を雨になぶらせるままに置く。

 そして、いつも浮かぶのはあるひとの面影。

 いくら想いを封じようとも、決して忘れる事の出来ないひと。

 けして会えないと知っていながら会いたいと願わずにはおれぬひと。

 舞歌の兄にして先の少林寺大僧正、東八雲。

 それが、彼の人の名だ。

 

 今はこの世にいない、ただ一人の兄。

 誰よりも大切に思いながら死に目に会う事も出来ず、

 唯一の肉親でありながらその弔いに出る事も出来なかった兄。

 

 雨に打たれる事がそんな自らへの罰に思えるのかもしれない。

 雨が降る度に退屈して、兄にまとわりついていた幼い頃を思い出すのかもしれない。

 だが、本当の理由は流れ落ちる雨その物にあるのかもしれなかった。

 

 目を閉じて立ち尽くす舞歌の、白磁のような頬を水滴が伝う。

 兄の死を知ったあの時、もはや泣かぬと誓った舞歌である。

 少林寺再興の誓いを果たすまで、決して涙は見せまいと。

 だが。涙ではなく雨が頬を伝うならば、それを誰が責められるだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

第三十七話

真・流星胡蝶剣!

燃えよドラゴンナデシコ

 

 

 

 

 

 

 

 俯き、雨に打たれるまま立ち尽くしていた舞歌が顔を上げた。

 きびすを返し、宿舎の方へ歩き出す。

 だがその瞳にはいまだ生気はなく、足取りもどこか弱々しかった。

 

 「花旗少林」の額が掛けられた山門を潜り、境内を歩いてゆく。

 幸いというべきか、勤行の時間で寺の僧の姿はなかった。

 読経の声が聞こえてくる金堂を回り込み、

 寺の裏手、十数人が暮せる僧房丸々一つを

 ――もっとも少林寺と同じく禅宗の寺であるから作りは質素極まりない――間借りした宿舎の戸を開ける。

 いつも側に控えている二人・・・九十九と元一朗の姿がそこにないことを僅かにいぶかしむが

 そういえば二人とも所用があって出かけるとか言っていたな、と思いだし、

 余計な心配を掛けずにすんだことを少しだけ安堵しながら舞歌は自室に戻った。

 

 荷物を開き、大ぶりのバスタオルを引っ張り出す。

 髪を解き濡れた衣服を脱ぎ捨て、髪と体を大雑把に拭いた後、白い襦袢を羽織って適当に帯を締める。

 長い、艶のある黒髪を下ろし、物憂げな表情を浮かべた舞歌が純白の衣をまとったさまには、

 何とはなしにぞくり、と来る物があった。

 

 髪を整えようと、小物をまとめた荷物から手鏡と櫛を出そうとした舞歌の手が止まった。

 しばらく逡巡したのち、かすかに震える手が鏡でも櫛でもないあるものを漆塗りの小箱から取り出す。

 それは、古びた一通の封書であった。

 紙は色褪せ、ところどころ皺が寄っているが、奇妙な事に封が切られた様子はない。

 表書きはなく、裏に達者な筆跡で差出人の名が記してある。

 差出人の名は「八雲」とあった。

 

 舞歌は動かない。

 寝台の端に腰を下ろし、兄の筆跡をただじっと見つめて動かない。

 それは、八雲から舞歌への最後の贈り物であった。

 舞歌が修行を終えた時に開けて見る様にと託された少林寺の秘伝を記した書。

 病床で筆を取り、己の全てを舞歌に遺そうと残り少ない命を削って書き上げた、八雲の絶筆。

 封の中には、八雲のいまわの際の情念に綴られた字句が並んでいるのであろう。

 まだ少し、もう少し腕を上げたらと伸ばし伸ばしにしていた。

 コロニーでの修行をまっとうし、皆伝を受けても何かと理由をつけて開くのを拒んでいた。

 ナデシコを授かり、生き残りレースの予選十一ヶ月を戦いぬき、決勝の半ばまでを戦ってもなお、

 舞歌はそれを開いてはいなかった。

 

 色褪せた封書を胸に押し抱き、舞歌の体が震える。

 怖かったのだ。

 それを開いてしまえば兄を死者の列に加え、忘却することを認めてしまうような気がして。

 舞歌の中では今なお別れた時のまま微笑んでいる兄が、

 今度こそ舞歌の心の中でまで本当に死んでしまうような気がして。

 だが、もう逃げる事は出来ない。

 今や優勝候補筆頭であり、東方不敗マスターホウメイを除けば彼女の知る限り最強のファイター、

 テンカワ・アキトとのファイトはもう数日後に迫っている。

 命を賭ける覚悟なくては勝つ事は到底おぼつかない相手だ。

 だから、もう伸ばす事は出来ない。

 今見ておかなければ、永久に見れなくなるかもしれないのだから。

 自分の身を切る痛みに耐えるような、そんな表情をして、

 震える舞歌の手が八雲の絶筆の封を切った。

 

 

 

 

 

 普段なら軽やかな舞歌の足取りに合わせてぴょこぴょこと揺れている黒髪の尻尾が

 今日は静かにその背に流れていた。

 服もいつもの動きやすいものではなく、普段なら絶対に着ない少林寺の僧衣を纏っている。

 何より常日頃その顔に浮かべている楽しげな表情は消え、

 替わって真摯極まりないものがその瞳には浮かんでいた。

 

 その後ろにこちらはいつもの如く僧衣を身につけた九十九と元一朗を従え、

 舞歌がかしこまっているのはネオチャイナ大使館の大広間。

 そこを臨時に改装した謁見の間である。

 ネオチャイナの国家元首であり、最高権力者である総師が他国の使者や部下を引見する時に使う、

 いわば権威の演出の為の大掛かりな舞台装置であった。

 

 銅鑼が叩かれた。

 舞歌と九十九、元一朗、そして彼らの後ろに並ぶ謁見を許された者達が

 両手を合わせ礼を取ったまま一斉に頭を垂れる。

 そして舞歌が再び顔を上げたとき、

 部屋の中央奥の壇上に設えられた略式の玉座に一人の男が座っていた。

 僅かに白い物の混じる顎髭は形よく刈り整えられ、鷲の様に鋭い目は大広間全体を睥睨している。

 なによりその身に纏う黄色い龍袍と侵し難い威厳がその男の身分を雄弁に証立てていた。

 今や事実上の立憲君主制国家であるネオチャイナの現国家元首、

 普礼総師(色々あって、昔ながらの「皇帝」という名称は遂に復活しなかった)である。

 

 一通り広間を見渡した後、猛禽の鋭さを持つその目が正面の舞歌を見据えた。

 錆を含んだ、重みのある声がその唇から紡がれる。

 

「久しいな、東舞歌よ。出師の式以来か」

「は。総師さまも御健勝の事とお慶び申し上げます」

 

 礼を取り、かしこまったまま定型の答えを返す舞歌。

 僅かに頷き再び総師が口を開く。

 

「ナデシコファイトにおける戦績、実に見事である。

 ネオチャイナの国威を高めたその戦いぶり、賞賛に値するぞ」

「恐悦に存じます」

「白鳥九十九、月臣元一朗。そなたらの苦労も報われそうだな」

「「はっ、恐れ入ります」」

 

 鋭い眼差しと厳しい表情を僅かに和らげ、総師が二人の返事に頷いた。

 その視線が再び舞歌に移され、今度ははっきりとねぎらいの色を

 声にも表情にも出して舞歌に語り掛ける。

 

「東舞歌よ。儂は総師としてお前の働きに報いねばならぬ。何か望みでもあるか」

「ひとつ。ひとつだけお願いがございます」

「うむ。申してみよ」

「それは・・・・少林寺の再興でございます。

 今すぐ、とは申しません。ナデシコファイトに勝ちぬいたその時に」

 

 総師の視線と表情が再び鋭いものになった。

 その顔は先ほどまでの鷹揚な後援者ではなく、厳しい為政者のものになっている。

 

「少林寺の再興か……だが、そう言うからには優勝せねばならぬぞ?」

「この命に代えましても」

 

 しばし、言葉が途切れる。

 総師と舞歌の視線が虚空で火花を散らすかと思えるほどにぶつかり合う。

 ややあって、視線をそらさぬままに総師が重々しく口を開いた。

 

「よかろう。その言葉、聞き置くぞ」

「ありがとうございます」

 

 再び、舞歌が深く頭を垂れる。

 それで謁見は終わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 轟ッ。

 

 素人目には何気なく見える突き、極々普通の崩拳が繰り出された瞬間。

 巌が荒波を砕くかのごとき重い音を発して大気が裂けた。

 ズン、と大地を踏みしめた震脚がその場の人間全てに腹の底まで響くような震動を伝え、

 寺院の回廊に吊るされた灯篭がびりびりと震える。

 その一挙手ごとに巨砲の弾丸に引き裂かれたかの如く大気が唸りを上げ、

 その一投足ごとに巨人の足音の如く大地が揺らぐ。

 そして何より唸りを発して渦巻く舞歌の「気」が、

 巨大な存在感をもってその場の全員を圧倒し尽くしていた。

 

 数十人の人間がいるにもかかわらず、寂として声も無く、しわぶきの音の一つも漏れない。

 普段は境内で楽しげにさえずっている小鳥も、一挙一動ごとに大気を震わす

 舞歌の「気」に当てられたか、既に飛び散ってしまっていた。

 その、痛いほどの静寂の中に響くのは轟音を立てて空気を引き裂く拳と

 大地を踏みしめる震脚の唸り、

 そして、肉体と精神そのものを揺さぶるかのように圧倒的な舞歌の「気」。

 

 五時間にも及ぶ鍛練の締めくくりとして舞歌が行なっている演武。

 九十九と元一朗だけでなく、寺の僧達がほとんど総出で見つめる中、

 舞歌は無心に己の武を磨く。

 

 何気ない体重の移動、敵の攻撃を払う手の動きにすら

 大地が軋み、空気がゆるゆると渦を巻いて動く様が確かに感じられる。

 九十九と元一朗が感無量の面持ちでその様に見入っていた。

 拳祖達磨大師以来数千年、少林寺に脈々と受継がれた中華の武の血統。

 先代大僧正・八雲が少林寺再興の望みを託したその数千年の史上にも稀なる天賦の才。

 その精華が今、彼らの目の前において大輪の華と咲き誇っていた。

 

 

 唐突に、大地を揺るがしていた「気」の唸りが静まる。

 一瞬前までの巨大な存在感は嘘の様に消え、

 そこには透き通る空のような気配を放つ静かな舞歌がいた。

 

 合掌し、礼をとる舞歌に、臨席していた僧侶達が上は住職から下は小坊主まで一斉に答礼を返す。

 嵩山少林寺の流れを汲むこの花旗少林寺もまた、心技体を磨く拳の寺である。

 言わば本家の、その勢は衰えたりとは言え未だに他の追随を許さぬその技の精髄を

 しかも当代最高の使い手の一人の演武によって目の当たりにする事が出来たのである。

 一個の拳士として眼福というもおろかであろう。

 

 

 

 控えていた九十九からタオルを受け取り、取合えず顔の汗だけを拭って肩に掛ける。

 既に稽古着は数時間の修練によって全身の汗を吸い、重く湿っていた。

 動いている時は気にならなかったその匂いと感触に顔をわずかにしかめる舞歌に、

 九十九と元一朗が揃って頭を下げた。

 

「「舞歌どの・・・・我ら感服仕りました」」

「何が?」

 

 二人を見もせずにそっけないほどにあっさりした返事を返し、

 どことなく感情のこもらぬ瞳で舞歌が空を見上げる。

 その、かすかな違和感に気が付かず、九十九と元一朗が再び言葉を紡ぐ。

 

「かつてないほどの気の入りよう、仕上げられた技、気迫の大きさ」

「何から何まで非の打ち所がございません」

「「まさしく、テンカワアキトとの一戦にかける舞歌殿の覚悟を見た心地がしました」」

 

 空を見上げたまま、舞歌はしばし無言だった。

 ふと、その瞳が僅かに揺らぐ。

 

「そうね。自分の未熟さに気がついた・・・それだけよ」

 

 空を見上げながら、短く、それだけを言うと舞歌は返事を待たずに歩き出した。

 これから水を浴びるのであろう、ゆっくりと歩み去る舞歌の背を見送り

 九十九と元一朗が同時にほう、と息をつく。

 

「・・・・聞いたか元一朗」

「しかと聞いたとも九十九」

「『己の未熟を知るもの』と言ったぞ、あの舞歌殿が!」

「強敵との戦いを前にして、やはり思う所があったのか」

「「今の舞歌殿は、まぎれもなく拳法家として一段高い所に立っておられる・・・・!」」

 

 その声が聞こえていたかどうか。

 そんな舞歌の後ろ姿には露ほどの迷いもなく、微塵ほどの乱れもないように思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ♪……其實我心裡很清楚  那未來仍在那遙遠的千年之後

        所以我動手寫封信  寫封信給未來的自己……♪

 

 綺麗な声に載せて、歌と油のはぜる小気味いい音、そして食欲をくすぐる香りがダッシュのジャンクに流れる。

 アキトとガイとブロスとディアと毎度の如く押し掛けてきていたメティ、

 そして主であるダッシュがなんとも言えない顔で見守る中、舞歌は実に楽しそうに料理をしていた。

 

「心配しないでよ。別にファイトで手加減してくれとかいいに来たんじゃないから」

「・・・だったら何しに来たんだか」

 

 壁に寄りかかったまま、ガイがからかうような言葉を投げる。

 もっとも、口調には揶揄というより苦笑の色が濃い。

 

「ん〜、そぉねぇ。『敵に塩を送る』って感じ? アキト君にはベストの状態で戦いに臨んでもらいたいし、

 その為にはなにより美味しいものを食べてもらう事よね♪」

「ありがとうございます舞歌さん・・・・・この料理、仇やおろそかには食べません」

 

 アキトが真剣な顔で頭を下げる。

 うっ、と声を詰まらせ、紅くなりかけた頬を隠す様に舞歌が慌てて後ろを向いた。

 

「あ、あはははは。やだ、なに深刻になってるのよ。

 私だって手加減しないんだからお互いさまよ、お互い様。

 どっちが勝っても負けても恨みっこなし・・・・・・デビルホクシンの事はまたその後でね」

 

 皿の用意をしつつ、アキトに背を向けて話す舞歌の声に、ほんの一瞬だけひどく重いものが混じる。

 背を向けたその顔に浮かんでいるであろう表情は、当然ながらアキトからは読み取れない。

 そして、再びアキトに向き直った時、そこには既にいつもの屈託ない笑みを浮かべる舞歌がいた。

 

 

 

 食卓に並んだ料理を見てブロスとディアが歓声を上げる。

 余程の料理店でもなければお目にかかれない料理がずらり、と並んでいるのであるから無理もない。

 「いただきます」と綺麗に声が揃ってしばらくの間、箸と食器の触れ合う音だけが部屋に響く。

 

「ふう・・・さすがですね舞歌さん。とても美味しいです」

「お褒めに預かり恐悦至極」

 

 アキトの掛値無しの賛辞に芝居がかったお辞儀で答えた後、

 舞歌の口もとに例の悪戯っぽい笑みが浮かぶ。

 

「まぁ、これはこれでいいんだけど、相手はアキト君だしね。

 精をつけるなら料理じゃなくて私を食べてもらってもよかったんだけどなぁ」

 

 ぶっ。

 

 次の瞬間、食卓についていた全員が ――普段物事に動じないダッシュすら―― 一斉に吹いた。

 食事中であるのに何と言うかまぁ、非常に行儀が悪い。

 

 

「なななななななにもがねめりめつか!」

「冗談よ」

 

 アキトのもはや言語の形をなしていない問いかけをさらりと受け流し、

 そのまま何事もなかったかの様に再び料理に箸をつける舞歌。

 うん美味しい、などとわざとらしく呟きながらちらり、とアキトに流し目を向ける。

 

「もっとも〜、アキトくん次第では冗談じゃなくなってもいいけどぉ♪」

 

 一息つきかけたアキトが再び派手にむせる。

 一方それがショック療法になったか、最初のセリフで硬直したままになっていたメティが再起動した。

 ぷるぷると真っ赤に震えながらも仁王立ちし、箸を持ったままの右手でびしぃっ! と舞歌を指差す。

 勿論、行儀が悪いですよというダッシュの声なぞは聞こえていないし、

 左手に小皿を持ったままであることにも気が付いていない。

 

「こ、この馬鹿女! 人前で恥ずかしい事言ってるんじゃないわよっ!」

「メティちゃん、顔が真っ赤よぉ? 一体何を想像したのかしら。お姉さんに教えてくれない〜?」

「話を逸らさないでッ! お兄ちゃんを口説くにしたってやりかたってものがあるでしょ!

 TPOをわきまえなさいよこの下品女ッ!」 

「あらま、若いのにお堅いわねぇ。いいこと? 男女関係は一押し二押し三に押し。

 機会は勿論のこと色気も教養も悲惨な過去も、使える物はなんでも使わないと勝てる戦も勝てないのよ」

「ぬぬぬぬぬ・・・・そうやって強引に迫る所が下品だって言うの!」

「あらそう? まぁ確かにそもそも色気のないお子ちゃまには初手から無理な話かもねぇ?」

 

 ・・・・・・・・みき。

 

「ふ、ふん。婚期を逃してなりふり構わなくなった大年増はこれだから!」

 

 ・・・・・・・・・めき。

 

「だっ! ・・・ふ、ふふふ・・・薄っぺたな未来に期待を掛けるしかないお子ちゃまこそ惨めよね。

 現実から必死に目を逸らそうとする姿の痛々しい事」

 

 ・・・・・・・・・・みしり。

 

「「滑稽よね、自分の姿に気がつかない裸の王様は!」」

 

 

 びきっ。

 

 

 何か致命的な音がした後、数秒の間を置いて舞歌とメティが同時にニッコリと微笑む。

 

「あぁら、言うじゃないの、おちびちゃん

オバサンこそね」

 

「「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」」

 

 

「「んっふっふっふっふっふっふ・・」」

 

 

 

 

 その場にいた全員が、その低い笑い声と共に何かがガラガラと崩れてゆく音を聞いたような気がした。

 ただアキトのみがひとり、心の耳に栓をして必死で食事に集中しようとしている。

 

「お、おいアキト・・・・」

「知らん。何も知らん。俺は何も聞いてないし何も見てなかった」

「ん、んな無責任な・・・・」

「アキト兄・・・怖いよぉ」

 

 かちゃんっ。

 

食器と箸を置く音が二組、同時に響いた。

アキトにすがりついたままのディアがびくっ、と体を震わせる。

 

「表に出なさい。決着を着けてあげるわ!」

「面白いじゃないの!」

 

 二人の姿がジャンクの中から消えた直後、期せずしてその場の人間

 ――いまだに現実から逃避している一名を除く――から一斉にため息が漏れた。

 例えるなら、台風の通り過ぎた、澄み切った空を眺めている気分なのだろう。

 一同が口々に安堵の思いを吐き出す。

 

「・・・・あ〜、怖かった」

「家の中で暴れない程度の理性が残っていてくれて助かりました」

「ふ〜、やれやれ。結局の所どっちもガキってことだな」

「ガイ兄。そのセリフ二人の前で言ってみなよ」

 

 斜め下五十度からの冷たい視線を受け流すガイの、その後頭部には汗が一筋流れていたりする。

 

「うん、この東玻肉美味しいなぁ。さすがは舞歌さんだ」

 

 ちなみに、アキトはまだ食事に逃避していた。

 

 

 二人が、同時にジャンクの甲板に出た。

 無言のまま左右に別れ、西部劇でやるように背中合わせになって、後ろを見ないで歩く。

 一歩、二歩、三歩。

 四歩目を踏み出した瞬間、流星の如く二人が左右に散った。

 空中で体をひねり、互いの様子をうかがいつつそれぞれが別のジャンクに着地する。

 メティがとん、と向かって右隣の船に飛び移った。

 舞歌もそれに倣うように左隣のサンパンの舳先に飛び移る。

 とん、とん、とんとん、とんとんとん、と次第次第にそのスピードが早まり、遂には疾走の速度になる。

 互いに向き合ったまま、並行して舞歌とメティが飛ぶ。

 水に浮かぶジャンクの上という世にも不安定な足場でありながら

 その姿勢は平地を走っているかのようにまったく乱れがない。

 そしてトップスピードに乗って二秒後。二人の跳躍の軌道が交錯した。

 その一瞬に致命的な効果を持つ打撃が数合、二人の間で交わされる。

 火花を散らして二人の拳と蹴りが打ち合い、互いの防御に阻まれる。

 

 二人の唇に期せずして獰猛な笑みが浮かぶ。

 そこから先は、本場の雑技団もかくやという曲芸的な応酬の連続だった。

 サンパンの舳先で、ジャンクの屋根で、

 あるいはピーターパンとフック船長よろしく、ジャンクの帆桁の上で。

 足場とも呼べないようなスペースの上であるにもかかわらず拳を繰り出し、蹴りが交差する。

 双方共に、その体さばきにいささかの揺らぎもない。

 この戦いを偶然目撃した者はなんと思ったろうか。

 満月の光の中、宙を舞う様に拳を交わす見目麗しき乙女二人。

 ふわりふわりと飛ぶ彼女らははたして仙女か、はたまた美女の姿をした物の怪かと。

 

 

 無心に撃ち合う中、ふと舞歌の意識が透き通ってゆく。

 メティに対する集中を途切れさせないままに意識が大きく、遠く広がる。

 その舞歌の意識の中でひら、と舞うものがあった。

 それは、緑色の燐光を放つ・・・・

 

 

 舞歌と拳の応酬を繰り返していたメティが、その一瞬己の目を疑った。

 その目の前で、舞歌の体を無数の、蛍のような緑色の燐光が取り巻く。

 舞歌の周囲を舞い踊る様に、淡く儚げな光の粒子がその肢体を覆う様は

 天女の羽衣か、また翼を広げんとする天使か。

 それを美しい、と思ったその一瞬。

 メティは不覚にも戦いを忘れていた。

 

 もし舞歌がその隙を突いていたならば、おそらく一撃で勝負は決していたであろう。

 だが、メティが我に返るまでの永劫とも思える一瞬の間に、遂にその一撃はやってこなかった。

 メティが我に返ったその瞬間、舞歌もまた夢から醒めたような表情で大きく間合いをとり、

 数メートル先の船の舳先に着地する。

 既に、その全身にあの仄かな輝きは見えなかった。

 

 

 

 

 

 腰に手をあてて、う〜ん、と舞歌が大きく伸びをした。

 構えを取ったまま、メティが不審げに、というか不満げにその様子を見ている。

 

「・・・何よ、もう終わり?」

「ええ、終わり終わり。私も大人げなかったわ。こんな子供と対等に張り合うなんてねえ?」

「ああ〜、その言い方ってずるいよ!? 最後まで勝負しなさい!」

「何を言ってもだめよ。今夜はここでおしまい」

 

 なおも言い募ろうとした時、メティのおなかが可愛らしい音を立てて鳴った。

 真っ赤になった少女に今度はくすりと邪気のない笑みを浮かべる。

 

「ほら、行きましょう」

 

 ひょいっ、と言う感じで間合いを詰めた舞歌が今度はメティの手をひっぱり、

 ダッシュのジャンクの方へ歩き出す。

 ぶつくさいいながら意外にも逆らわず、舞歌についていくメティ。

 口ではぶーたれているが、その実それほど嫌がっている訳でもない。

 単に素直になれないだけだ。

 それよりも、むしろ今メティの頭に渦巻いているのは舞歌のまとったあの燐光であった。

 

 今思い返してみれば、舞歌があの燐光をまとったのはほんの一瞬、

 それこそ一流のファイターが辛うじて一撃を放てる程度の時間でしかなかったと思う。

 ただ、あの緑色の燐光が動き、なんらかの形を作ろうとしていたのははっきりと見えていた。

 しかと見定める前に消えてはしまったが、

 それは心を奪われそうなほどに儚げな燐光と共に今なおメティの目に焼き付いている。

 

「ちょっと、ひっぱらないでよ! 一人で行けるってば!」

「照れない照れない。たまにはこ〜ゆ〜のもいいでしょ?」

 

 右手から伝わる感覚がメティの物思いを中断させた。

 むすっとした表情のメティの文句に、舞歌が朗らかに答える。

 可愛い口を尖らせるメティの、そのほほがわずかに赤い。

 なんだかんだ言いつつも手を離さないのは、その感触を求めているからだろうか。

 彼女の手を握ってくれるものなど、この数年殆どいなかったのだから。

 

 

 

その二へ