機動武闘伝
ナデシコ 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぅおん。

 ぅおん。

 ぅおん。

 

 空気を鈍く断ち割る音がその場には響いていた。

 ネオホンコンの市街を見下ろす山中の、この国でも一級の別荘地である。

 森の中品良くこじんまりと建つ母屋の裏側、ちょっとした運動が出来そうな広場。

 そこに標的に見立てた丸太が二十本あまり、ランダムな間隔と高さで地面に打ち込まれている。

 音はその丸太の林の中から聞こえていた。

 

 丸太の林の中央、少女が立っている。

 実際は少女と呼ぶにはやや微妙な年齢であろうが、

 160に満たない小柄でしなやかな体格がその違和感を打ち消していた。

 ただその暗く、澱んだ色を湛えた瞳を除いては。

 

 丸太の林の中央で少女の持つ二丁の斧が虚空を旋回し、唸りを上げる。

 その少女の容姿と体格にそぐわない事おびただしい、両手に一丁ずつ構えた巨大な斧。

 ・・・・と言うより、下手をすれば鉞と言ってもいいくらいの分厚い刃が振るわれるたびに

 現実の丸太の幹にひびが入り、イメージの中で人ひとりの命が奪われる。

 あるいは頭蓋骨を断ち割られ、あるいは胴を両断され、あるいは顔面をザクロのように砕かれ、

 あるいは肩口からへそまで斧をめり込ませて絶命するのはいつも同じ人物だった。

 スバル・リョーコ。

 母の仇。

 航路監視ステーションに海賊船を激突させ、その死の原因を作った憎むべき敵。

 真実がなんであれ、事実がどうあれ。

 彼女・・・・ネオカナダのファイター、バン・ヒサミにとってはそれが全てであった。

 

 その唇に暗い笑みが浮かんだ。

 前回の戦いでは、最後の最後でチャンスを逃がした。

 だが、もうあんなヘマはしない。

 

 そしてまた、ヒサミの脳裏に浮かぶイメージの中で何十人、何百人、あるいは何万人目かのリョーコが絶命する。

 今度のリョーコは首の骨を折られて事切れていた。

 

 

 

 

 カツーン。

 カツーン。

 カツーン。

 

 足音が響く。

 無骨な建物の奥、牢獄のごとき厳重な警戒に守られた場所。そこに通じる唯一の廊下に、

 軍用ブーツの硬い靴底と彩りのかけらもないリノリウムの床がぶつかる音が反響する。

 いや、牢獄の如きというのは少々語弊がある。

 一見そうは見えなくとも、そこは事実上牢獄そのものだったからだ。

 

 薄暗い廊下は一枚のドアで終わっていた。

 扉の両脇に立ち、AK−94自動小銃を構える兵士二人が敬礼してくるのに軽く答礼し、ドアのノブを回す。

 鍵はかかってなかったのか、それは軽い音を立てて回り、ごく僅かに軋みつつ扉が開く。

 

 そこは20m四方ほどの広い部屋だった。

 壁にはバーベルやダンベル類が掛けられたハンガーがあり、また懸垂用の鉄棒などが設置されている。

 別の一角にはベンチ・腹筋台・ランニングマシンと言ったトレーニング器具が置かれ、

 中央の広い空間にはレスリングマットが敷かれてあった。

 まぁ、一般的なトレーニングルームと言っていいだろう。

 

 だが万が一にも一般人がこの部屋に入ったなら、

 まずそれ以外の物にぎょっと驚いて二三歩後ずさるに違いない。

 何しろ部屋の中央でさしわたし2mはあろうかと言う巨大な自然石が規則正しく上下運動を繰り返しているのだ。

 よく見れば岩の下部中央から突き出た二本の足が屈伸を繰り返している事に気がつくだろう。

 つまり、この足の主はスクワットを行なっているのだ。数トンの岩を支えながら。

 

 そんな異様な光景にも動じず、扉を閉めた男は数歩歩みを進め、

 上下運動を続ける自然石を改めて感心した態で眺める。

 この部屋に入ってから足音は殆ど立てていなかったが、

 気配で男・・・・ネオロシアナデシコファイト監督・タカスギサブロウタ・・・・が来たのはわかっているのだろう、

 トレーニングのペースを緩めないままにぶっきらぼうな声が尋ねる。

 

「何だ?」

「リョーコちゃんの顔が見たかった・・・・じゃダメかな?」

「帰れ」

 

 自分の方を振り向きもせず即答したリョーコに苦笑を洩らしつつ、サブロウタが再び口を開く。

 

「冗談だよ。次の対戦相手が決まったので知らせておこうと思ってね」

「テンカワじゃないのか」

「急な話だけどその前に一試合やることになったんだ」

 

 そこでまた一端言葉を切り、黙々とスクワットをこなすリョーコのほうを伺う。

 その沈黙を肯定と受け取り、サブロウタが言葉を続けた。

 

「次の相手はネオカナダのランバーナデシコ。ファイターは・・・・・・」

「バン・ヒサミか」

 

 サブロウタが言葉を切り、僅かに口調を変えて、リョーコがその続きを呟く。

 因縁の対決、と言っていいだろう。

 リョーコを母の仇と狙うこの少女と戦うのはこれが初めてではない。

 かつてのナデシコファイト予選に於いて、リョーコは死闘の末

 腕一本と引き換えに彼女から勝利をもぎ取っている。

 

 思う所はある。

 直接手を下したのではないにせよ、自分のせいで彼女の母は死んだのだと言われれば

 反論する事はできないし、しない。

 リョーコがいなければ、彼女の海賊船がヒサミたちの暮していた宇宙ステーションと

 接触事故を起こすこともなかったし、彼女の母も死ななかったのは事実である。

 謝れと言うなら詫びよう。

 土下座くらいはしたっていい。

 だが、だからと言って仇を討たれてやるつもりはさらさらない。

 

 

 自分はナデシコファイトに勝って仲間を助けねばならない。

 そして彼女の復讐を仲間の命に優先させる事はできない。

 だから、負けてやる訳にはいかない。

 

 至極単純な理屈だ。

 至極単純で、それゆえに妥協の余地は全くなかった。

 

 

 

 

 

「さて皆さん。本日のカードはゴッドナデシコ対ボルトナデシコ・・・・の予定でしたが、

 どうやらその前にもう一つファイトを行なわなければならない様です。

 相手は予選リーグからスバル・リョーコを母の仇と付け狙ってきたネオカナダのバン・ヒサミ。

 果たして、次に重要な試合を控えたリョーコは彼女の執念を制する事が出来るのか?

 また、バン・ヒサミに勝ったとしてかつて一度も打ち勝ったことの無いテンカワアキトに対し

 勝利を収める事が出来るのか!?

 

 それでは!

 ナデシコファイト・・・

 レディィィ!ゴォォォゥッ!」

 

 

 

 

 

第三十八話

炸裂ガイアクラッシャー! 

突撃ボルトナデシコ

 

 

 

 

 

 

「何ぃっ!?」

 

 

 昼飯時にそれは起った。

 アキト達が下宿しているダッシュのジャンク。

 そこに、ここ一ヶ月ほどお馴染みになりつつある爆音が轟いた。

 ただし珍しい事に今回騒音公害を引き起こしたのはガイではない。

 今回の発生源は「それ」をまともに食らって卓に伏せてしまったエリナの隣で

 半ば呆然と立ちすくみ、両目を大きく見開いていた。

 

「アキト・・・・お前な、もちっと加減しろや」

「ガイお兄ちゃんに言われたくないと思うよ」

 

 どうやら今回の爆音はガイのそれに慣れつつあった住民達をも打ち倒す程のものだったらしい。

 なにせ「あの」ガイが顔をしかめるのだから相当なものだ。

 メティはナオの影響を受けたのか妙におっさん臭い仕草でこめかみを揉みほぐし、

 ダッシュは顔面を手で覆って卓に肘を突き、ブロスとディアに至っては耳を押さえてうずくまってしまっている。

 ましてや、耐性のないエリナはひとたまりもなく卓に突っ伏してしまっていた。

 

「本当なのかそれは! 答えろエリナ! おい!」

 

 そして張本人のアキトは、そんな周囲の状況も目に入らずに(当然、耳にも入っていない)

 目を回しているエリナの両肩を鷲掴みにして無理矢理引きずり起こしていた。

 普段とは完全に目の色が違う。

 完全に我を忘れる一歩手前だと、付き合いの長いガイにはわかった。

 

「落ちつけって! こいつが気絶寸前なのはお前のせいだろうが!」

「う・・・・」

 

 ガイの一喝で漸くアキトはエリナの目の焦点が合ってない事に気がついたらしい。

 すかさずガイが力なく垂れたエリナの手を取り、手の平のツボを押す。

 手の平の一点を正確に圧迫すると筋や骨を傷つけずに激痛を与える事が出来る。

 つまりは手っ取り早い気付けだ。

 

「・・・あいたたたたたたた・・・・・・」

 

 果たして、寝ぼけた声を上げながらエリナの意識がぼんやりと覚醒し始めた。

 普段の強気なそれとは全く違う、寝起きの無防備な表情が妙に可愛らしい。

 もっとも、それを楽しむほど余裕のある人間は今この場にはいなかったが。

 

 しばらくぼうっと目の前のアキトの顔を見つめていたエリナが、

 鼻の頭が触れ合うほどに顔を密着させているのに気がつき真っ赤になる。

 慌てて離れようとするが、アキトの手が両肩をがっちりと挟み込んでいる上、

 その恐ろしく真剣な目が目の前にあるので顔を背ける事もできない。

 無論アキトはこの体勢の意味するところなど毛程も気にかけてはいないが。

 

「本当なのかエリナ!?」

「え、あ?」

「だから! ルリが冷凍刑を解除されると言うのは確実な話なのかと聞いているんだ!」

「ほ、本当よ。 デビルホクシンの残骸がギアナ高地から消えたでしょう?

 それと今までのデビルホクシンのデータを見て政府上層部の連中も考えなおしたみたい。

 奴に対抗するには専門家の力が不可欠だって」

 

 見る見るアキトの顔が明るくなる。

 エリナの両肩をつかんでいた手からすっと力が抜けた。

 そのままぺたん、と力が抜けた様に座り込み、船室の木の壁にもたれかかり天を仰ぐ。

 両目を覆った右手の下から、ぽろぽろと涙がこぼれ出した。

 

「そうか・・・・良かった。本当に良かった・・・・・・・・・・!」

 

 それだけを絞り出して、後はもう言葉にならない。

 ただ後ろの壁にもたれかかり、静かに泣いていた。

 

 ガイが鼻をすすり上げる。この男もルリとは子供の頃からの馴染みである。

 ましてやこの一年、アキトと苦しい戦いを勝ちぬいてきたのはまさにルリを助け出す為だ。

 胸に去来するものも一方ならずあろう。

 メティも目を潤ませている。彼女にとって引き離された肉親と再会できる喜びと言うのは他人事ではない。

 そしてもちろんダッシュ達も、優しい目でアキトを見守っていた。

 

 しばらくの間誰も動かず、誰も一言も言葉を発しなかった。

 ただ暖かい視線を壁際のアキトに投げかけている。

 

 

 

 

 沈黙を破ったのはエリナの咳払いだった。

 落ちついてきたアキトを見ながら水を差す様で悪いんだけど、と前置きして話し始める。

 

「冷凍刑の解除が決まったからと言っても、でもあくまで仮釈放なんですからね?

 無罪が証明されたわけじゃないし、しかもこれはデビルホクシンに対応する為の超法規的措置。

 アキトくんが優勝してデビルホクシンを回収できなければ最悪冷凍刑に逆戻りなんて事だってあるのよ」

「わかっている! 勝てばいいんだろう、勝てば!」

 

 ぐしっ、と拳にはめたグローブで涙を拭う。破顔一笑、一転して底抜けの明るい表情でアキトが言いきった。

 それを見たエリナがまぶしそうに目を細めている。

 ガイがアキトの肩を力一杯叩き、それを合図にしたかの様にメティやブロス達が周囲に群がった。

 

 

 だが、盛り上がるアキト達を微笑ましげに見ながらエリナの頭脳は全く別の事柄について思考していた。

 

(・・・・・・まぁ、政府の連中は連中で何か思惑もあるみたいだけどね。

 どうせロクなものじゃないでしょうけど)

 

 さすがに、こう言う思考は全く表情には出さないエリナである。

 こんな事をアキトに知らせても全く意味がないし、

 連中の思惑がアキトやルリにとって問題になるようであれば自分がそれを潰せば済む事だ。

 それくらいの政治力は持っていると自負している。

 

(って、なんで私はアキトくんの為に無償で何かしてあげようって気になっているのかしらねぇ?)

 

 こころもち楽しげに自問自答するエリナ。

 自分の感情に初めて気が付いたときこそ大いに戸惑ったものだが・・・・・今では開き直っている。

 心の揺らぎを楽しむ余裕すらあった。

 恋は人を変えるとはよくも言ったもので、アキトへの想いに気が付いてみて初めて

 今までの自分を客観的に見れるようにもなった。

 「ロクなものじゃない」政府の官僚どもと同類だった、

 権力を追い求めて政治と駆け引きと言う名の暗闘を続けた自分。

 それをつまらないと感じる様になったのは多分、もっと大切なものを見つけてしまったから。

 ダイヤの輝きを知ってしまった後ではおもちゃのガラス玉などもてあそぶ気にもなれない。

 今のエリナにとって、彼らは蹴落とすべきライバルではなく只の路傍の石だった。

 だが、アキト達に手を出す様であれば容赦はしない。

 権力に対する執着はなくなっても、権謀術数の世界で生き抜く為の牙まで失った訳ではないのだ。

 

 もっともこの朴念仁の木石格闘馬鹿に想いを伝える方法とか、この初めての感情が相互通行になる確率とか、

 そう言うことを考えると改めて頭が痛くなるのではあるが。

 

 

 

「そうそう。それともう一つ話があるわ」

「なんでぇ、めでたい話ならいくらでも大歓迎だけどよ」

 

 珍しく自分をからかうようなガイの軽口に肩をすくめるエリナ。

 よほど機嫌がいいのだろう、今まではこの男がエリナに対して打ち解ける事など殆どなかったことだ。

 無論それにエリナが付き合うのもかつてなかった事ではある。

 

「まぁ、めでたいと言えばめでたいかしらね。

 ホシノ・ルリは仮釈放された後ネオホンコンに降りて来る予定よ」

「本当か!?」

 

 再び喜色を浮かべるアキトとガイに対して、エリナの表情は真剣なものに変わる。

 

「はいはい、ちょっとタンマ。喜ぶのはいいけど、少し考えてみてくれるかしら?

 なんでわざわざドジでノロマな亀官僚どもが仮釈放中の彼女を

 ナデシコファイト中のネオホンコンに降ろす事を許可したのか。

 もちろん義理でも人情でもないわよ」

「・・・・あ」

「そうか、デビルホクシンか!」

「ご名答。ここにいるって証拠がある訳じゃないけど、マスターアジアの存在だけでもかなり臭いし、

 あの怪しいネオドイツのファイターの言ってることも無視できないわね」

「へ〜ぇ」

 

 からかうでなく、今度は本気で感心している態のガイをエリナが胡乱気な目で見る。

 

「なによ?」

「シュバルツの事信用してるのか。てっきり毛嫌いしてると思ってたぜ」

「あんなむやみやたらに態度がでかくて、怪しくて、説明の長い女なんか嫌いだし信頼もしてないけどね。

 彼女の情報には間違いなくある程度の実績があるもの。

 個人的な好き嫌いで判断を左右するほどバカじゃないわ」

 

 事も無げにエリナが答える。

 ガイは妙に感心しているが、そう言う世界で生きて来たエリナには常識以前の事である。

 こう言う連中が官僚達の「標的」にされたら・・・・考えただけでも改めて寒気がした。

 

「いやぁ、てっきりさぁ」

「てっきり何よ?」

「気に食わない人間の言うことなんか頭から無視する、権力濫用と公私混同が趣味の人かと」

「あ、俺もそんな感じだと思ってた」

「メティも」

「私も」

「僕も〜」

 

「・・・・・・・・・・・・・・・あのねぇ」

 

 

 

 

 

 

 

 シャッフル同士の連戦のラストカードであるボルトナデシコとゴッドナデシコのファイトまで後一週間ほど。

 ギラつく太陽のもと、廃墟と化した旧市街の中央でボルトナデシコとランバーナデシコが対峙していた。

 かたや頑丈無比のロシア製、鎖で繋がれた大鉄球グラヴィトンハンマーを操るボルトナデシコ。

 かたやカナダの荒らぶる旋風、大斧二丁を風車の如く振りまわすランバーナデシコ。

 ともに今大会でも一、二を争うパワーと耐久力を誇る重量級同士。

 あえて言うならパワーと重装甲が売りのボルトナデシコに対して、

 同じくパワーファイターながら装甲はむしろやや薄めにしてでも(それでも普通のナデシコよりは厚いが)

 組み合いでそのパワーを活かせる体の柔軟性を取ったランバーナデシコ、と言えようか。

 

 

 

 ヒサミのランバーナデシコが闘志・・・・いや、殺意を剥き出しにしてリョーコを睨む。

 リョーコもその視線を真っ向から受けとめ、押し返す。

 二人の間に火花・・・・いや、例えれば緩やかな渦のようなもっと静かで、

 だが恐るべき圧力を持ったものが生まれていた。

 例えゴングが鳴らなくともちょっとした切っ掛けさえあればファイトが始まってしまうのではないか。

 そう思わせるほどの息詰まるような、だがあくまでも静かな緊張がリングを支配している。

 無論その様を見ている観客にも、それは伝染していた。

 普段なら絶え間ない歓声が上がる周囲の観客席はざわざわと低い音を立ててうねっている。

 その観客の数も普段のファイトより格段に多い。

 特設された観客席に収まりきらなかった観客は周囲の廃ビルに溢れ、

 バリアぎりぎりまで近寄ってファイトを見ようとする無謀な者達と警備員達との小競り合いまで起っている。

 優勝候補同士の試合・・・例えば先日のゴッドナデシコ対ドラゴンナデシコのような・・・でも

 滅多に見れないような人出だった。

 

 今大会屈指のパワーファイター同士という派手な好カードという事もあるが、

 ファイターが片や元宇宙海賊、片や元賞金稼ぎと言う異色の経歴の持ち主である事、

 そして何より(ネオカナダ側は公式には否定しているが)ヒサミがリョーコを親の仇として狙い、

 ファイト中に殺す気でいると言うまことしやかな噂が流れている事がその理由だろう。

 

 今日の試合は只では終わらない。

 多くの観客の目にはそんな、ギラつくような期待の色があった。

 

 

 試合開始まで後二十分。

 いまだにボルトナデシコとランバーナデシコは息の詰まるような睨み合いを続けていた。

 例えるなら西部劇のガンマンの決闘。

 あるいは今にも溢れそうなコップの水。

 水が一滴落ちるだけで破れるような、危う過ぎる表面張力だけが爆発を防いでいるのだ。

 

 

 ランバーナデシコが両脇に垂らしていた両腕を極僅かに持ち上げる。

 応ずるかのようにボルトナデシコが右足の角度を僅かに開いた。

 ただそれだけで会場の緊張が高まる。

 観客も、両国のクルー達もただ固唾を飲んで見守る、息詰るような数瞬が過ぎ去る。

 そのまま、後に続く動きがないのを見て観客達が溜めていた息を吐きだし、額の汗を拭った。

 

 

 クルーデッキでセコンドについているサブロウタやネオカナダのクルーですら

 この緊張を押しとどめるすべを知らない。

 緊張感が極度まで高まった一触即発の雰囲気の中での対峙・・・乱暴に言えば高度なガンの飛ばし合い・・・

 は恐ろしく精神力を消耗させる。

 セコンドのサブロウタにしてみればファイトの前からこんな消耗戦をさせたくはなかったが、

 既に戦いは始まってしまっているのだ。

 

 一流のファイターによる対峙は只の睨み合いではない。

 野生の獣が群れの長を決め、あるいは雌を奪い合って決闘を行なう時はまず睨み合いから始める様に、

 相手を威圧し、そして技量を探り合う為の爪や牙を用いない戦いなのだ。

 一種の情報戦としての一面があると言ってもいい。

 眼力のぶつかり合いから相手の状態を読み取り、

 僅かに体を動かすだけのフェイントで反応を引き出して相手の情報を得、

 逆に自分の状態と能力について誤った情報を相手に与えて僅かでも戦いを優位に導こうとする。

 そんな、虚々実々の駆け引きがぶつかり合う場なのだ。

 彼を知り己を知れば百戦するとも危うからず。

 これは一対一の戦いにおいてもなんら変わる事無き真実である。

 

 もっとも、そんな理詰めの部分だけではない。

 それは極々単純で本能的な「気迫」の戦いでもある。

 威圧し、脅し、相手を呑んでかかる。

 相手を精神的にねじ伏せる為の、気合と気合の勝負。

 狼が唸れば犬は尻尾を巻いて敗北を認める。

 喧嘩慣れしていない人間がヤクザに睨まれればそれだけで腰が引ける。

 無論実力差を悟った、悟らされたと言うのはある。

 だがそれ以上に「勝てない相手」と体で認識してしまっている限りは絶対に勝てない。

 戦う前から既に負けているからだ。

 

 そんな状態で実際に戦うのはその事実を確認する為の作業でしかなくなってしまう。

 そうでなくても相手を呑めば実力以上の力を発揮することができるし、

 逆に呑まれてしまえば実力の半分も出す事はできない。

 喧嘩ってのはそんなもんだと、ナオあたりならそう言うだろう。

 

 言い替えるなら、ここで引けば実際の勝負でも引いてしまう。

 つまりは負けると言うことだ。

 理不尽かもしれないが戦いは時としてそう言う物であるという事を、

 見かけはどうあれ歴戦の猛者であるサブロウタは、そしてリョーコとヒサミも知っていた。

 

 

 

 試合開始まで後十五分。

 ボルトナデシコからランバーナデシコに通信回線が繋がった。

 目の前に開いた通信ウィンドウに一瞬眉を寄せた物の、

 すぐさま憎悪の表情を浮かべてヒサミが仇を睨みつける。

 しばし、両者は無言だった。

 

「まだ、俺が憎いか」

「当然よ。今度こそあなたを殺す。お母さんの仇を、ここで討つ」

「今更言い訳はしねえよ。だが、一つだけ言って置く・・・・・・・

 お前もファイターなら拳と拳で語って見な。見えてくる物がある筈だぜ」

「戯言を!」

 

 吐き捨て、ヒサミが再び憎悪の眼差しを向けた。リョーコもそれきり口をつぐみ、それを受けとめる。

 だが、再び続くかと思われたこの対峙は意外な形で終結した。

 ファイト開始までまだ十分以上あるにも関わらず、通常ファイト開始時にその合図を告げるはずの

 メグミ首相の巨大な立体映像が現れたのである。

 会場内の視線が一斉に空を向き、リョーコとヒサミも思わず立体映像を見上げる。

 にっこり、と微笑むとメグミは自慢の美声で会場に語りかけ始めた。

 

「こんにちわ皆さん。ネオホンコン首相メグミ・レイナードです。

 さて、予定ではファイト開始まであと十数分の待ち時間があるのですが

 どうやらファイターのお二人はそれまで待ち切れないご様子。

 それにこのままでは試合が始まる前に観客席のみなさんが参ってしまわないとも限りませんし、

 なにより私自身が後十分も待ち切れません」

 

 そう言いながらおどけた仕草をするメグミ。

 今までの緊張がほどけた反動か、観客席が笑いでどっと大きく揺れた。

 ネオホンコンでのメグミの人気は絶大なものがある。

 年若く美しい(可愛いと言った方が適切かもしれないが)女性で、しかも独身。

 勿論その有能さこそが最大の理由だが、こうしたさりげない人心掌握術に長けている事も大きな理由だ。

 

「そこで提案ですが、今回は予定を早め、たった今ゴングを鳴らそうかと思います。

 両国のファイター及びクルー、そして観客の方々、よろしいですか?」

 

 観客席から歓声が上がった。

 無論、二人のファイターはほぼ同時に頷いている。

 

「よろしい。では特例によりファイト開始時間を早め、たった今からファイトを開始いたします!

 ナデシコファイト・スタンバイ!」

 

「レディィィィッ!」

「ゴォッ!」

 

 リョーコの咆哮にヒサミが返す。

 その瞬間二人は同時に、互いを目掛けて突進していた。

 

 

 突進するリョーコの視界の中で、ランバーナデシコの姿が急速に大きくなってゆく。

 前回の戦いと、これまでのファイトの記録映像でヒサミの戦い方はある程度見切ったつもりだ。

 重量級の武器による白兵戦闘とレスリングを基本にした組み打ち術。

 それも道場やジムで習うような「武道」ではなく、あくまでも実戦の場、

 不特定多数を相手にして戦い生き延びるための戦場の格闘技であり、

 そして鎧を付けた武者を打ち倒す為の戦場の武芸。

 重い鎧を着込んだ敵を鎧ごと砕き、あるいは転がしてからとどめを刺す為の技とも呼べぬ荒っぽい戦い方。

 つまり、自分と同じと言うことだ。

 そして試合開始後1.2秒。二つの巨体が激突した。

 

 

 

 会場がさざなみの様に揺れた。

 まず間違いなく荒っぽいぶつかり合いになるかと思われた両者が

 正面からがっちりとレスリングの基本であるファンダメンタル・ポジション、

 柔道で言えば互いの襟首と袖をつかんだ状態で四つに組み合ったのである。

 

 意外と言えば余りにも意外な展開に観客が大きくどよめいている。

 例え因縁重なり流血の予感溢れる今回のカードでなくても、

 なんでもありの異種格闘技戦であるナデシコファイトにおいてこんな光景はまず見られない。

 しばらくただ組み合っていた(と、心得のない人間には見える)かと思った直後、

 ぶんっ、と空を裂くほどの勢いでランバーナデシコが投げ飛ばされ、宙に舞った。

 

 組み合いからヒサミの左腕を取ったリョーコが投げを打ち、

 それをかわせぬと見たヒサミが自ら跳んだ。

 ヒサミにとって誤算だったのは跳ぶ勢いで外す筈だった左腕が

 いまだにリョーコの右手によって掴まれたままであった事だろう。

 結果、ヒサミは一本背負いの如く背中に担がれて投げられるのではなく、

 腕一本で振り回されるように大地に叩きつけられた。

 恐るべきはヘビー級ナデシコの重量を片手だけで支えたリョーコとボルトナデシコの膂力である。

 どうやら、パワーではやはりリョーコに一日の長があるようであった。

 

 ヒサミも辛うじて受身は取ったものの、即座に起き上がろうとした所に

 いまだに掴まれたままの左腕を凄まじい力で捻られ、バランスを崩す。

 そこを、蹴った。

 一発がヒサミの顔にまともに入る。

 苦痛の呻きを洩らしながらも二発目以降を辛うじて右腕でブロックし、

 体をひねってリョーコの攻撃圏内から脱出しようとする。

 リョーコが再びその腕を捻り上げた。

 

 だが今度はヒサミも読んでいた。

 その右手の中に魔法のように斧が出現する。

 絶妙のタイミングで腕を引き、跳ねる様に体を起こす。

 傍からはボルトナデシコが手を貸してランバーナデシコを引き起こした様にも見えただろう。

 右手の振り下ろす力と左手の引く力とを合わせる事により、カウンターと同じ効果が生まれる。

 渾身の力を込め、ヒサミが斧を振り下ろす。

 

 火花が散った。

 斧の顎の部分に左腕を差しこみ、必殺の一撃をボルトナデシコが辛うじて防いでいた。

 自慢の重装甲越しであるにもかかわらず、一瞬感覚を失うほどに左腕が痺れる。

 まともに刃を受けていたら左腕ごと頭部を断ち割られていたかもしれない。

 

 ヒサミがリョーコのブロックに一瞬置いてその胴体に蹴りを放つ。

 連続してきた衝撃にさすがのリョーコがようやく右手を放し、彼女が体勢を立て直した頃には

 蹴りを繰り出して崩れた体勢のまま後方へ転がったランバーナデシコが、斧を構えて立ち上がっていた。

 

 ボルトナデシコの右肩に装備された巨大な鉄球が、がこん、と音を立てて外れる。

 右手に握った柄から延びるビームの鎖に捕らえられ、

 恐るべき質量兵器が唸り声を上げてボルトナデシコの頭上を旋回し始めた。

 

 

 

 再び両者の足が止まった。

 歌舞伎の大見得切りのように左手を体の前で構え、

 頭上で右手のグラヴィトンハンマーを回転させるボルトナデシコ。

 両腕に斧を構え、突進の構えから弓を引き絞るように力を矯めるランバーナデシコ。

 互いに構えた武器は一撃必殺。

 共に今大会屈指の耐久力を誇るナデシコ同士ではあるが、

 その頑強さを差し引いても互いの武器の威力が高過ぎた。

 頭部やコクピットに直撃すればそこで終わり、そうでなくても当たれば骨が砕け手足が飛ぶ。

 確かに斧や戦鎚といった鈍器は洗練された武器ではない。

 だが、それは単純過ぎるが故にかえって防ぎ様のない武器でもある。

 拳での打撃や実弾兵器、あるいは超高温の粒子ビームさえ防ぐナデシコニウム合金の装甲も、

 余りにも原始的なパワーと質量の前には絶対的なものではないのだ。

(無論、これらの゛原始的な゛質量兵器はナデシコニウム合金製の装甲に効果的にダメージを与える為の

 有効な手段の模索が繰り返された結果として生まれた物であるのだが)

 

 

 真剣を抜き放った侍同士が対峙するように、二人の動きが止まる。

 だが観客の多くがこれからの睨み合いを想像して息を呑んだ瞬間、

 唐突にランバーナデシコが動いた。

 

 両手の斧を十字に交差させ、一直線に突進する。

 あまりに無防備な特攻にきな臭いものを感じながらリョーコが敢えて誘いに乗った。

 その頭上の渦が唸り、凶悪な鉄球が弾かれたように飛ぶ。

 避けた。

 身を捻り、装甲と鉄球が火花を散らすくらいのぎりぎりの間合いで直撃だけを避けた。

 虚しく廃ビルに激突して動きを止めた鉄球を顧みる事もなく、

 猛然とランバーナデシコが突進する。

 

(かかったっ!)

 

 だがリョーコとサブロウタとは同時に心の中で快哉を叫んでいた。

 ボルトナデシコは鎖状のビームチェインを一瞬で収縮させる事により

 一度繰り出した鉄球をファーストアタックにも劣らぬ速度で引き戻す事が出来る。

 その余りの反動の為に、今までは実用にならなかったのだが

 ギアナ高地での修行により更に鍛え上げた手首の返しによる軌道のコントロール、

 そしてそれを支える足腰の強さとバランス感覚が、リョーコをしてそれを100%使いこなす事を可能たらしめた。

 真後ろから、それも一度外した攻撃が襲いかかってくるのだ。

 相手に見えるのは外したグラヴィトンハンマーの柄を横に振る、という動作だけ。

 モーションがたったそれだけでは回避はきわめて困難だろう。

 そして、当たれば最初の対決と同じく、勝負は九割がた決する。

 一発必中の唸りを上げて、再び鉄球が飛んだ。

 今度はヒサミの無防備な背中に向けて。

 

 その時。

 ゆらり、とヒサミの肩が僅かに動いた・・・・・ように見えた。

 だのに。

 ただそれだけでリョーコの、そして見ていたアキトの背筋にも底冷えのする悪寒が走る。

 

「逃げろ、リョーコちゃん!」

 

 アキトが叫ぶのと。

 

「ウォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!」

 

 自分を鼓舞する様にリョーコが吼えるのと。

 

 ヒサミが両手の斧から手を放し、

 その体が竜巻の様に渦を巻いたのがほぼ同時。

 

 そして、絶対の自信を持って繰り出した筈の死角からの攻撃は、次の瞬間リョーコ自身を直撃していた。

 

 

 

 肉体、そして精神双方の衝撃にリョーコがグラヴィトンハンマーの柄を取り落とす。

 彼女がそうであった様に、殆どの観客にはその瞬間何が起ったか理解できなかったろう。

 鎖の収縮と同時に腕を横に振る事によって僅かに軌道を変えられたグラヴィトンハンマーは

 リョーコに一直線に向かわず、間違いなくヒサミの背中を目掛けて飛んでいた。

 それがランバーナデシコをすり抜けて再び軌道を曲げ、リョーコを痛打した。

 そうとしか見えなかったはずだ。

 事実、リョーコ本人ですらこの時は一体何が起ったのか把握していなかった。

 

 アキトとマスターホウメイ、そしてナオ、ユリカ、舞歌達シャッフル同盟とカグヤ、メティ。

 はっきりと「見えて」いたのはヒサミ本人以外では会場全てを見渡してもそのくらいであったろう。

 そしてメグミ首相を初めとする大多数の「見えなかった」人間の呆然とした表情と、

 極々少数の「見えた」人間の絶句の表情はある意味好対照だった。

 

 あの瞬間。

 左後方から一直線に飛んで来る鉄球が見えていたかのようにヒサミは左に半回転し、半身になる。

 更に回転した上半身が真後ろを向いた所でその右手がグラヴィトンハンマーを「柔らかく」受けとめた。

 そして回転扉が通行人の手を受けとめて、自らは回転しつつ通行人を通してしまうように。

 あるいは水車が流れ落ちる大瀑布の力を回転エネルギーに変えて受け流すように。

 手を添えたまま、鉄球の速度に合わせて回転しつつ、鉄球が自分の位置を通過するその一瞬だけ、

 回転するコマが傾くように、回転を止めぬまま軸を斜めに傾けて直撃を外す。

 いつのまにか、左手も柔らかく鉄球に添えられていた。

 鉄球が自分の位置を通過した瞬間右手が離れ、

 残った左手がサイドスローでボールを投げる様にリョーコに向かって押し出す。

 回転軸の延長線上から見れば、ヒサミが広げた両手の軌跡はほぼ完璧な真円を描いていた。

 その流れるような円の動きがグラヴィトンハンマーの直線的な力を捌き、

 ランバーナデシコ自身の力すら加えてリョーコに叩き返したのである。

 

 改めて説明すれば長いが、実際にはこれが全て一刹那ほどの出来事。 

 言葉にしてしまえば簡単だがこんな事を実行出来る人間など世界中探しても数人といないだろう。

 マスターホウメイですら一瞬言葉を失うほどの、それは絶技であった。

 

 

 自らの必殺武器に痛打されてリョーコの息が詰まった。

 素手のまま間合いを詰めようとするヒサミにそれでも体が反応し、

 反射的に渾身の力を載せた右ストレートを放つ。

 一瞬前の崩れた体勢から繰り出されたとは思えないほど綺麗なフォームの、

 体重の乗ったパンチがその顔面に突き刺さる寸前。

 リョーコの視界からヒサミの姿が消えた。

 

 右腕。

 腰。

 右足。

 

 影のようにリョーコに密着したヒサミがその僅か三箇所に力を加えただけで

 リョーコの体が宙に浮き、ヒサミの腰を支点に鋭く一回転する。

 教科書に載せておきたいほどの綺麗な払い腰が弾け、

 受身を取る暇もなく、リョーコは脳天から大地に叩きつけられた。

 そのまま動きを止めず、ヒサミが組み付く。首を取ればそれで終わりだ。

 

 

 組み付いた、と思った瞬間ヒサミの体が宙に舞った。

 反射的に突き出されたリョーコの両手が、関節を取ろうと覆い被さったランバーナデシコを跳ね飛ばしたのだ。

 それは脳震盪で朦朧としている中の、殆ど脊髄反射に近い行動だったかもしれないが、

 ともかく危地は脱することに成功した。

 腕の力だけで数十メートル飛ばされたヒサミがくるり、とネコのように回転して着地するのと、

 脳震盪のダメージをこらえてリョーコが上半身を起こしたのがほぼ同時。

 いまだに揺れる己の体を叱咤しつつ、リョーコは目の前の敵を見据える。

 それは、明らかに試合が始まったときに対峙していたはずの敵ではなかった。

 

 弾丸の様に突進し敵を打ち砕く猪から、地を滑り影を走り獲物を絞め殺す大蛇に。

 構えはどっしりと正面を向いた自然体から腰を落とした半身の構えに。

 そして二丁斧を風車の如く振りまわすパワーファイターから

 流れる水の如く動き、「間」と「呼吸」を制し、人の動きその物を支配するテクニシャンへ。

 ランバーナデシコは鮮やかな転身を遂げていた。

 

 

 

 

「かぁ〜っ、参ったね。これほどの技量を・・・・リョーコちゃんを倒す為にだけ隠し通していたってのかい?」

 

 口調は普段通りながら、滅多に見せない真剣その物の表情でサブロウタがぼやく。

 本来なら一敗程度の遅れは十分取り戻して本決勝へ進める程度の勝ち点は確保している。

 このリーグ戦はあくまで足切りであって、要は最後のバトルロイヤルで優勝すればいい訳だから、

 ここで負けた所でさほど問題ではない。

 本来なら、だが。

 

 しかしこの試合、ヒサミは間違いなくリョーコを「殺しに」来ている。

 しかもこの決勝大会においてはファイターの殺傷が事実上認められているのだ。

 負けた場合、ネオロシアは間違いなく今回のナデシコファイトは棄権せざるを得ないだろうし、

 何よりリョーコが無事でいられる確率は限りなく低い。

 

 やっぱ、負ける訳にゃいかないよな。

 そう呟いてサブロウタがマイクに手を伸ばした。

 

 

 

 リョーコの動きが止まっていた。

 膝立ちになったまま、未だ遠い間合いにいるヒサミに目をやったままの姿勢で動こうともしない。

 立て続けに食らったダメージも確かにある。警戒も勿論ある。

 だが、本当にその動きを止めたのは恐怖だった。

 未知への恐怖。

 大袈裟に言えば今まで信じていた物が崩れ去るような恐怖。

 かつてマスターホウメイやデビルホクシンと対峙した時に感じた

 圧倒的な強さに対するそれとはまた別の、「知らない」と言うことによる恐怖。

 それが、今リョーコが感じているものだった。

 

 一方でヒサミの動きも止まっている。

 リョーコが軽い脳震盪を起こしているのは確実だった。

 だが、冷静にそれを好機と判断する自分と同時に本能的な恐怖からそれを引き留める自分がいる。

 腕力と言う、極々単純な脅威に対する動物的な、原始的な恐怖。

 改めて、ヒサミは目の前のファイターが掛値無しの怪物である事を認識していた。 

 

 

 かつては宇宙海賊として百戦錬磨であったリョーコである。

 マスターホウメイを除けば「実戦」の経験で彼女に勝るものは、おそらくこの決勝大会にもいるまい。

 貨物船の護衛や圧倒的な戦力を持つ宇宙軍の部隊と幾度となく戦い、

 それをことごとく切り抜けてきた彼女にとってすら

 この「未知」というプレッシャーは恐るべき物であった。

 ましてや、それが自分の想像もつかないほど高度な技量を兼ね備えているとなれば。

 リョーコは今、ナデシコファイターになって初めてファイトする事に恐怖を感じていた。

 

 

「棄権するかい?」

「!」

 

 その、内心を見透かしたかのようにサブロウタから通信が入った。

 リョーコが傍から見て明らかなほどに狼狽する。

 確かに棄権すれば敗北は敗北でもこれ以上傷つかずに済む。当然死ぬこともない。

 

 だが、確かに狼狽しながらも妙に冷静に叫ぶリョーコがいる。

 棄権してどうなる。

 テンカワと決着をつけるんじゃなかったのか。

 負けそうだからと言って、危険だからと言って勝負から無様に逃げておいて、奴の前に立てるか?

 胸を張って決着を着けようなどと言えるか?

 

 言えるわけがない!

 

「・・・・・・へっ」

 

 一瞬の動揺を収め、リョーコがニヤリと笑う。

 すとん、と収まるべき物が収まるべき所に落ち、安定した。そんな感じがあった。

 

「バァカ、寝惚けた事言ってんじゃねえよ。チョイと驚いちまっただけさ。

 こんなの、何て事ぁねぇよ!」

「OK、リョーコちゃん」

 

 ウインクしたサブロウタがサムアップサインを送る。

 もう、いつものリョーコに戻っているのがわかった。

 

「おいサブロウタ」

「なんだい?」

「ひとつ、借りとくぜ」

 

 照れ臭そうに笑い、リョーコが通信ウィンドウを脇にやる。

 サブロウタがなんとも言えない表情を浮かべて鼻の頭を掻いた。

 

 

 

 

 ボルトナデシコが立ち上がり、ファイティングポーズを取った。

 ほぼ同時。

 ヒサミの立っていた場所を起点に土煙が疾った。

 先ほどまでの大股の走りではなく、摺り足のままでヒサミが疾る。

 残像が疾る。そして土煙もまた大地を疾る。

 

 二十数歩、50m以上はあった間合いが瞬時に詰まった。

 ボルトナデシコまで六歩。殆ど姿勢を崩さずに疾っていたヒサミの体がぐん、と沈む。

 両手を胸の前に構えたタックルの構え。

 ボルトナデシコが拳を握る。

 その拳の間合いに飛びこむ寸前、ヒサミが左に跳ねる。

 次の瞬間、そのまま踏みこんでいればヒサミの顔面があった筈の空間を、

 音を立ててリョーコの膝が通り過ぎた。

 

「ちぃっ!」

 

 リョーコが舌打ちする。

 摺り足から一転、豹の様に俊敏なステップを踏んでヒサミが再びリョーコの側面からタックルを仕掛ける。

 膝蹴りの形に振り上げられた足が叩き付けるように大地を踏みしめた。

 大きく体をひねり、姿勢が崩れるのを覚悟でその目の前に拳を振り下ろす。

 

 その拳が空を切った。

 再び、ヒサミが影のようにリョーコに密着していた。

 そのまま振り下ろされた腕を取り、ボルトナデシコの脇から背中に滑り込んで。

 ひねった体が踏ん張り切れず、リョーコが背中から宙に浮いた。

 腕を取った変形の裏投げ、とでも表現するべきだろうか。

 激痛の中、リョーコは自らの右肩が外れる音を聞いた。

 

 

「・・・・・・・・・リョーコちゃん、ひょっとしたら負けたかもしれないな」

「危ないわね」

「やっぱり危ないの?」

 

 呟くアキトと舞歌に確認するように尋ねたのはユリカ。ナオやメティは無言のままで勝負に見入っている。

 修めた技術は打撃系のものが主とは言え柔法・・・・

 いわゆる組み技・寝技の心得も多少はある二人はこの先の展開を予測できるが、

 「ボクサー」のナオや本質的に「剣士」であるユリカは状況を追うだけで精一杯なのであろう。

 彼らが知っているのはあくまでも「組み技に対抗する技術」のみだ。

 そして、そんな『素人』である彼らの目から見てさえ状況は最悪だった。

 

 背中に回り込んだままのヒサミに首を締められるのを避けようとリョーコが仰向けになる。

 だが、それすらヒサミの読みの内だった。

 気づいた時は殆ど目の前に差し出された物を受け取るようにして、ヒサミがリョーコの左膝を極めている。

 リョーコとて関節技は素人ではない・・・・・・・ないが、レベルが違った。違いすぎた。

 極めた膝を瞬時に折り、更にリョーコの残った左腕を掴もうとするその手首を掴み返して極めようとした所が、

 相手の手はそれをすりぬけるように躱し、するすると腕にからみつく。

 次の瞬間には、それが最初から予定されていた動きであるかのようにアーム・ロックが極まっていた。

 力と力が数瞬拮抗した後、嫌な音を立ててその肘関節が有り得ない方向に曲がる。

 グラウンドでの展開は圧倒的だった。

 その差はまさに大人と子供。

 重装甲を追求したボルトナデシコと柔軟性を重視したランバーナデシコの機体特性の差、

 などと言う以前にファイターの技量そのものの差があり過ぎた。

 

 

 押し倒されるような体勢になったリョーコが無事な方の足でヒサミを蹴り剥がそうと必死に蹴りを繰り出す。

 筋肉の動きでそれを事前に察知していたのか、あっさりとヒサミが躱す。

 その隙に立ち上がろうとリョーコが腹筋の力だけで上体を跳ね起こす。

 シュルルルルルル、と鱗のこすれる音が聞こえたような気がした。

 リョーコの蹴り足を避けた姿勢から、蛇が体を遡る様にしてヒサミがリョーコの死角に滑り込んだ。

 まさしく獲物を絞め殺すヘビの様に、ランバーナデシコがするりとボルトナデシコのボディに絡みつく。

 次の瞬間、ヘビはボルトナデシコの背中に回り込み、その首にしっかりと巻き付いた。

 

 とどめのチョークスリーパー。

 誰もがそう思った。

 だが、頚動脈ないし気管を締めつける筈の右腕がその僅かに上、下顎を極め、

 さらに頭蓋骨全体をロックしたのを見た瞬間。

 アキト達ファイターとサブロウタの表情が劇的に変化した。

 

「「リョーコちゃん!」」

 

 アキトとサブロウタの声が重なる。

 それは頚動脈、ないし気管を攻める「締め技」ではなく、頚骨を折る「関節技」。

 殺しに来た。

 即座にセコンドからのギブアップを宣言しようとしたサブの、その動きが途中で止まる。

 先ほどから繋いだままだった通信画面の中で、リョーコがこちらを見ていた。

 一瞬、状況も忘れてサブロウタがその目に見入る。

 ギラギラ光る、シベリア狼の目だった。

 

(・・・・・・・・・・。)

 

 一瞬の逡巡の後、投げようとしたタオルを放り捨てる。

 リョーコは死ぬかもしれなかった。

 自分の選択が正しいとは思えなかった。

 それでもサブロウタは投げるべきタオルを、棄権という選択肢を、捨てた。

 

 

 

 

 

 何度も繰り返してきた動きだった。

 何年も何年も、実際に使うそのときを夢見ながら技に磨きをかけた。

 イメージの中で、数え切れないほどの回数憎い仇の首を折り、その度に相手は血を吐いて崩折れた。

 夢の中でまで修練を続けた。

 そして今、遂にそれを使う時がやってきた。

 リョーコの頭蓋骨は完全にロックした。

 後はそれをひねり折り、最後の一手を極めるのみ。

 今のボルトナデシコは両腕片足を失った達磨。

 いかに無双の剛力を誇るボルトナデシコと言えど、首だけで両腕の力に勝つ事は出来ようはずはない。

 出来ようはずはないのだ。

 絶対に。

 

 

 だが。

 

 

 現実にそれはヒサミの目の前で起っていた。

 全力を込めて折ろうとしている首が、まるで鋼の彫像であるかのようにびくともしない。

 渾身の力を、全体重を掛けていると言うのに。

 

 外から力を加えられる事なく、外した筈のボルトナデシコの右肩が鈍い音を立てて嵌った。

 全力をかけても首を折れないというこの異常事態に焦っていたヒサミが、

 この更なる異常事態に一瞬反応を遅らせた。

 その一瞬の間に、未だにリョーコの首に力を掛け続けているヒサミの右腕をその手が掴む。

 瞬間、骨が軋んだ。

 ボルトナデシコの右手の五本の指がランバーナデシコの右腕装甲を歪ませ、軋ませてめりこんで行く。

 ナデシコニウム製の装甲板が、粘土の様に指の形に陥没していく。

 ゆっくり、ゆっくりと掴まれた右腕が――そこには左腕の力も加わっているにも関わらず――リョーコの首から離れていく。

 

 

 

「ンな、無茶な・・・・・」

 

 誰かが呻いた。

 確かに無茶だった。何から何まで。

 だが、その無茶が今目の前で起こっている。

 

 

 ヒサミの右腕の感覚がなくなると同時、遂にボルトナデシコの首からそれが引き剥がされた。

 既に、ランバーナデシコの右腕は装甲どころかフレームまでが歪んでいる。

 片腕になった首のロックをどうにか勝利につなげようと、

 ヒサミが片腕での裸締めに移行して気管を攻めにかかった。

 その顔面を、リョーコの右手が捉える。

 万力のような五本の指に挟み込まれ、ヒサミの頭蓋骨が無言の悲鳴を上げた。

 

 リョーコがヒサミの顔面を鷲掴みにしたまま、腕を捻る。

 その暴力的な膂力に、今度はヒサミの頚骨が悲鳴を上げた。

 そのままリョーコの腕に付いていくように自分から思いきって体を投げ出し、

 辛うじて首の骨が折れるのを免れる。

 そこで漸く、万力が外れた。

 朦朧とする意識の中で必死に転がり、リョーコから距離を取る。

 

 

 ビリビリ、と大気が震えていた。

 殺気のせいではなかった。

 物理的に世界が震えている。

 大地が、周囲を取り囲む廃墟が、そしてランバーナデシコのボディが震え、揺れている。

 その中心にいるボルトナデシコが、うっすらと光を放っているように見えた。

 いや、錯覚ではない。

 ボルトナデシコを覆う輝きが徐々に強まる。

 それと共に、緩やかに震動が大きくなって行く。

 

「・・・・・あの時・・・・・」

 

 ただ、聞こえてきたその声だけでヒサミが息を呑む。

 

「あの時、俺の首を締めてりゃあ、お前の勝ちだった」

「!」

「だが殺すことにこだわってお前は勝機を逃した」

 

 そしてゆっくりと。

 黄金の巨人が立ちあがった。

 片方の足を折られていながら無理矢理に立った。

 右拳を握り、ゆっくりと持ち上げる。

 震動が、止まり。

 次の瞬間弾けた。 

 

「炸ぁく裂! ガイアクラッシャー!」

 

 振りかぶった右の拳を、ボルトナデシコが渾身の力を込めて足元に叩き付ける。

 大地が跳ねた。

 拳を打ちつけられた地点を中心として地面がひび割れ、突き上げるような縦揺れを起こす。

 ヒサミの足場も波打ち、割れる。

 最大級の危険信号を感じ、ヒサミがランバーナデシコのスラスターを吹かしてジャンプしようとする。

 

 だが一瞬遅かった。

 大地がまるで意志あるものの様に動き、うねる。

 獲物を一息に噛み砕く巨大な肉食獣の大顎の様に、大地の牙がランバーナデシコに食らい付いた。

 土色をした巨大な柱や尖塔が数十本、大地から隆起し前後左右からそのボディを押しつぶす。

 ランバーナデシコを咀嚼しながらも、大地の顎の隆起は留まる事を知らない。

 互いを飲みこみ食らい合い絡まりあいながらそれは試合場全体をその影で覆うような、

 100m近い巨大な岩の尖塔へと成長して行く。

 ヒサミの肺の中の空気が無理矢理押し出される。

 半ば生き埋めになり、その肉体は両腕から胴体、下半身からつま先に至るまでが土色のくびきに捕らえられていた。

 全身の筋肉と骨格に、すり潰されるような鈍く重い苦痛が走る。

 全てのナデシコの中でも屈指の頑強さを誇るはずのランバーナデシコのボディが

 大地の万力によって締め上げられ、悲鳴を上げているのだ。

 いまやランバーナデシコは肩から上、殆ど首だけを残して岩山に呑み込まれていた。

 

 もはや指一本動かせず、それでもなお唯一自由になるその視線に憎悪を込めて

 ヒサミがリョーコを見下ろす。

 

「言ったろう。殺すことにこだわった時、おめぇは自分から勝ちを捨てたんだ」

「殺さないで・・・・・・・・・・貴方を殺さないで何の意味があるって言うのっ!」

「・・・・・・・執念、ってのは確かにヒトを強くしてくれる」

「そうよ! だから私はここまで強くなった! なれた!」

「けどな。余計なことを考えながら勝てるほど、戦いは甘いもんじゃねぇんだよ」

「それでも! それでも私は・・・・・・・・・私は貴方を殺す!」

 

 血を吐くようなその叫びと同時に飛来したグラヴィトンハンマーがランバーナデシコの頭部を押し潰し、

 ヒサミの意識は暗転した。

 

 

 

その二へ