FLAT
OUT
(2)
オーストラリア、メルボルンの郊外にあるアルバート・パークは、中心に小さな沼をもつ静かな公園だ。休日には家族連れも多く訪れるであろう、都会の脇にそっと佇む憩いの場である。運動不足だがフィットネスクラブに通うのは気が引ける中年たちも、ここならば他の者と一緒にジョギングをすることができるに違いない。
だが、今日その閑静な公園の風景が一風違ったのは、まず第一に、そこをジョギングとは思えない勢いで疾走する男がいたことである。第二には、彼の向かう先に普段そこには見られない大きな建物が見られたことだ。それは即席の観覧席のようだった。そして強いてあげるなら第三に、いつもの金曜の十倍くらいは、人がいたことであろうか。
彼は、わき目も振らずに走っていた。道行く人も何事かと彼を見るが、その正体に気付いた人はいないようだった。たしかに、シャツのボタンを掛け違えているのにも気付かず必死の形相で突っ走るその男が、今週このアルバート・パークで開催されるフォーミュラ・アーツ開幕戦の優勝候補者だとは思いたくないだろう。
途中で電話がかかってきて、彼は走りながらそれをとった。
「もしもしっ?」
『明人君、いまどこにいるのッ!』
案の定、スピーカーの向こうから聞こえてきたのはエリナの怒声だった。その声の大きさに明人は思わず携帯電話を取り落としそうになり、なんとかそれを空中で捕まえる。はずみに通話終了のボタンを押してしまったが。
こめかみをひくつかせるエリナを思い浮かべ、ますます青くなりながら明人は走るペースを上げた。
パドックへ移ると、明人の周りにはいつでも人だかりができていた。その多くはジャーナリストで、時折他チームの人間が立ち話をしていく。何しろ明人は昨年のルーキー・オブ・ザ・イヤーだし、ランキング二位という新人としては前代未聞の実績がそれを物語っている。今年こそはと応援しているファンも多かった。
だが当の明人は、ジャーナリスト達の質問攻めにほとんど答えなかったし、答えても言葉少なに収めていた。そしてついには、彼らをかき分けるようにしてチームパドックへと逃げ込んでしまったのだ。
「人気者だねえ、チャンピオン候補君は」
「それは君だって同じじゃないか。まだ開幕戦だよ」
明人が着替えてピットへ入ると、赤月が待っていた。いつも飄々とした態度の彼は、それでも一昨年の世界チャンピオンである。しかし昨年の年間ポイントで明人に負けてからは、はやくもセカンド・ドライバーになってしまっていた。
「どうかな。少なくとも序盤三戦は、厳しいと思うよ」
「………………」
赤月が言うと、明人も難しい顔をして押し黙った。
ネルガルのニューマシン、「NF211」は、シャシーこそ完全な新車であるものの、エンジンは昨年型である。新型エンジンの開発は一年半前から始まっていたが、途中で変更された規則に翻弄され、間に合わなかったのだ。
間に合わせたチームとそうでなかったチームは、半々である。ネルガルはそれでも、新型エンジンを搭載したチームに負けないよう、昨年型エンジンにぎりぎりのバージョンアップを図ってきたのだが、所詮は付け焼刃だった。新シャシーは新エンジンのために作られているため、バランスが悪くなってテストでは思うような結果が出ていないのだった。
「ここオーストラリアといい、第2戦のマレーシアといい、屈指のエンジン・サーキットだ。バーレーンもきついかも」
エンジンパワーが物を言う、序盤3戦。赤月が肩をすくめて言う。
「だろうね」
思うように加速してくれないマシンを思い出しながら、明人は答えた。どうやら赤月もこのエンジン開発の遅さには苛立っているらしいが、ないものはどうしようもない。
少ないパワーをフットワークで補うのは、自分たちドライバーのストレスを考えても最後の手段だろう。強力なGに耐えマシンの限界と戦うよりも、アクセルを踏むだけの方が楽だし、確実だ。だが今のネルガルは、それでは勝てないのである。
知らずのうちに、明人の眉間にも小さな皺が寄った。
「お母さんは、元気かい」
突然の問い掛けに、明人は驚いて赤月を見た。
「ああ……まあ、ね。なんだよ、突然」
「いや、べつに。イギリスはまだ寒いだろう」
「確かに寒いけど……施設は大丈夫だよ。それに南部だから」
妙なことを思い出させると、明人は内心で苦笑した。
しかしそれが赤月なりの気配りなのであると、明人は最近気付き始めていた。もしかすると彼は、こうした重圧にあまり強くない自分に気付いているのかも知れない。現に今も、赤月は満足したように口元を緩めているのだ。
「まぁ、お互い頑張ろうか」
「そうだね」
明人の返事を確かめると、赤月はふっと笑ってガレージへと戻って行った。
残された明人は、晩秋となるオーストラリアの空を見上げた。
「次に行けるのは……金曜、か」
明人はぼんやりと呟いた。
これからまた、家に帰れない生活が続く。それは同時に、明人を心配して自ら施設に入った母を見舞う機会が減ることにもなるのだ。
ふうと溜息をついて、明人はピットロードに出た。横を見れば、他のチームも同じように練習走行の準備をしている。隣は、FA発足時からずっと参戦し続けているイタリアの名門、カルボ・カヴァーリだ。真紅のマシンを駆り、昨年は彼らのエース・ドライバーがタイトルを飾った。漆黒のマシン、ネルガルの宿敵である。
振り向きざま、明人はそこにいた人物と目があった。彼女もちょうど振り向いたところだったのだろう、目を細めて明人を見る。
「や、やあ」
明人が挨拶をすると、真っ赤なレーシングスーツに身を包んだ彼女は無言で明人に向き直った。とび色の瞳は、鷹のように鋭い眼光を放ちながら明人を見据えていた。
「ええと……天河明人です。よろしく」
「――北斗」
明人が手を差し出すと、北斗はぶっきら棒に名乗っただけで握手を返そうとはしなかった。だが明人に興味を失ったわけではないようで、彼とネルガルのマシンをちらりと見比べた。
もっとも明人は、自信に満ちた彼女の瞳に宿る深い輝きに、目を奪われていたのである。
「いいマシンか」
「は……え…?」
北斗が唐突に尋ねたので、じっと彼女を見つめていた明人は思わずどもって返した。それから彼女の言葉を頭の中で反芻して、やっと自分のマシンを振り返った。
「空力でこいつの右に出るものはいないだろうな。違うか」
「ああ……まあ、走りやすいよ」
彼女なりに勉強したに違いない。ならばこそ今年序盤戦でのこのマシンの弱点もわかっているのだろう、そう思って、明人は少し悔しくなった。いまのNF211は、少なくとも直線では、カヴァーリのニューマシンC.7に勝てる見込みがないのだ。
「問題は、エンジンか?」
「――企業秘密」
ポケットに手を突っ込んで答えると、北斗は初めて笑った。口の端を吊り上げる程度だったが、明人はなぜか驚いた。自分でも、なぜかわからなかった。
「天河明人、お前は史上最年少のワールド・チャンピオンになるのだろう」
「………ああ、もちろん」
「では俺はお前よりも先に、お前が二度と塗り替えられない記録をつくるとしよう」
それはつまり、彼女の宣戦布告ということだろう。まだFAのデビュー戦だというのに、たいした度胸だと明人は思った。自分がいま、彼女に答えて言った言葉ですら、半ばはったりであったというのに。
北斗は意気揚々と自分のピットに戻って行ってしまったが、明人はなんとなく憂鬱な気分のままだった。
金曜の練習走行を終え、明人は7番手タイムをたたき出すのがやっとだった。1レースにつき一基しかエンジンを使えない現在のルールでは、金曜の練習走行を全開で走るドライバーはいない。ある程度エンジンを労わっているからだ。そこが弱点であるネルガルは言うまでもなく、トップを独占したカヴァーリの二台から1秒も離された。
トップタイムは、北斗である。鳴物入りでデビューした彼女は、練習走行でさっそくその片鱗を見せ付けたというわけだ。
予選の一回目は、土曜日の午後一時から開始される。出走順は前戦の順位が高い者からで、速い者が埃っぽい路面を走るというハンディを負わされる形だ。そしてその結果を逆にして、今度は第一予選で遅かった者から走るのが、第二予選である。そしてその結果が、決勝レースのスタート順となるのだ。
一回目の予選、明人は昨年のランキングもあって二番目の出走だった。一番目のマシンがタイムアタックに入って第1コーナーを抜けていったとき、明人もコースに入った。
『アウトラップは速めに。ブレーキの温度が少し低いわ』
「了解」
エリナの声も少し緊張しているだろうか。だが、明人も久し振りの本番である。いつもよりも少しだけはっきりと、鼓動が喉の奥に伝わってくるような気がした。
タイヤとブレーキを暖めながら走っている間に、一番目に出走したカヴァーリのエースドライバー、アルフレッド・オランが走行を終えたと無線連絡があった。タイムは1分23秒022である。
最終コーナー手前の小さな『シューマッハ・カーブ』を立ち上がったところから、タイムアタックは始まる。アクセルを一番奥まで踏み込み、最終コーナーは減速せずに全開のままホームストレートへ向けて加速した。
少しマシンがナーバスな感覚だが、既に本番は始まっている。構わず行くことにした。
第1コーナーをほんの少しだけリヤを滑らせながら通過し、2コーナーはフラット・アウト(全開)。頭が外側に折れ曲がりそうになるのを堪えながら駆け抜けるが、やはりリヤが落ち着かない。
4コーナーで前輪を縁石に乗せたとたん、背中がすっと浮いたような気がした。しかし考えるよりもはやく腕は的確なカウンター・ステア――逆ハンドルを切って、破綻しそうになるマシンをねじ伏せる。
正面から見えない壁に押しつぶされそうになる加速は、次の瞬間には目玉が飛び出すかと思うほどの減速に変わって、さらに猛烈なコーナリングGが横から加わった。それが弱まったと思ったら、またシートバックに張り付けられて、あっという間に時速300キロの世界である。
全て自分がやっていることだ。しかしそれが、身体中にアドレナリンを充満させてゆく。走るほどに、強力なGに耐えてコーナーをひとつ抜けるごとに、頭が冴えていくのである。もうこれ以上冴えようがないとさえ思えるのに、頭と、そこから運動神経で接続されている両の手足は、ますます鋭く動いた。否が上にも鼓動を早まり、喉の奥を息苦しくさせたが、それでもこれ以上の高揚を、明人は知らないのだった。
だが、それでも直線は厳しい。ヘルメット・バイザーに透過して映し出される区間タイムは、カーブが多い区間は先に走ったカヴァーリより若干速く、逆に直線が多い区間では明らかに遅い。パワー不足がはっきりと現れていた。
『テンカワ、1分22秒998、22秒998。22秒台に入れて、はやくも昨年のチャンピオンを破りました』
コントロール・ラインを超えて再び第1コーナーを抜ける途中、場内アナウンスが叫んでいるのが聞こえた。しかし明人は嬉しくもなく、時折思い出したようにコース脇の観客席に向かって手を振るだけで、ガレージに戻った。
「だめだよ、パワーがない」
開口一番、明人はエリナに向かって言った。
「でもコーナー区間は速いわ」
「無理して攻めたからさ。レースであのペースを維持したら、3周でタイヤがなくなるよ」
予選並みの速さでレースをすることは通常ではあり得ないが、近年の規則ではエンジンやタイヤの「予選専用」が禁止されているため、両者のタイムは限りなく近づいている。ときにはレースのラップタイムが予選タイムを上回ってしまうことさえあった。
明人はいったんマシンを降り、ヘルメットも脱いだが、難しい表情は変わらなかった。コース上では赤月がアタック・ラップに入っている。第1区間のタイムは、明人の0.2秒落ち。ほとんど直線しかない第2区間は同じだ。コーナーの多い第3区間では、0.3秒遅かった。
『アカツキは1分23秒453。元ワールド・チャンピオンも形無しか』
場内アナウンスが流れ、明人は表情をしかめた。明日、いや早ければ一時間後の予選二回目で、自分が同じことを言われるかもしれないと思った。
『ねぇ、いまなにか僕、酷いことを言われなかったかい』
無線を通して聞こえてきた赤月の声に、明人は少しだけ苦笑いを浮かべた。だがそれは、難しい顔をしている瓜畑を目にしてすぐに引っ込める。
現状ではエンジンのパフォーマンスに問題があるのは明らかで、チーム首脳陣もそれを理解している。だがプロスペクターがそこに言及しないところを見れば、彼は瓜畑の仕事を信じているのだろう。それがあるから、明人もまだ希望を持っているのだ。瓜畑の言った新エンジンのシェイクダウンまでは、3戦である。
そのときだった。突然、外の観客がわっとざわめいた。次いで、興奮した場内アナウンスの声が聞こえてくる。
『1分22秒021! 唯一の22秒台だったテンカワを1秒近く上回ったのはカヴァーリの………新人! ルーキーだ!』
その声にはっとなったのは、明人だけではなかったろう。練習走行では各チームが独自の走り方をするから比較ができないが、予選は別だ。とくに第一予選は第二予選の順位を決定するだけだから、天候さえ問題なければ皆が全開でくる。つまり第一予選の結果は、路面の差こそあれ、マシンとドライバーの差をはっきりと表すものだった。
ラップタイム・モニターの一番上にあった自分の名を押し下げて、北斗の名が燦然と輝いている。
しかしそれを目の当たりにした瞬間、明人は深い既視感を覚えた。いや、既視感などではない。明人はたしかに、遠い昔これと同じような状況を見ていたのだ。
あの時はルーキー同士ではなかった。初秋の北イタリアでのことである。二人のベテランドライバーが、ポールポジションを争っていた。その二人のドライバーを、明人ははっきりと憶えていた。
なんとも言えない気分になって地面に視線を落とした明人を現実へと引き戻したのは、プロスペクターの声だった。
「参りましたな。出走順の違いこそあれ、ここまでとは」
「…………………」
プロスペクターも横で同じようにラップモニターを見ていた。直線の多い第2区間はもちろん、北斗は第1、第3区間ですらも明人と同等のタイムを叩き出している。
「パワーの差はどうしようもないですね」
明人が思ったままを言うと、プロスペクターは小さく苦笑いを浮かべる。明人は、もちろんいやみを言ったつもりはなかった。しかしプロスペクターにはそうとれたのかもしれない。彼は諭すように言った。
「我慢ですよ、明人君。たった3戦です。残り15戦もある。十分巻き返しは可能でしょう」
それを聞いて明人は、苦笑いを浮かべようとしたができなかった。その3戦たりとも、明人は落としたくなかったのだ。どんなにハンデを背負っていても、負けたくはない。ネルガルは名実ともにトップチームだから、年間タイトルを見据えてそう言えるのだろう。だが明人は、一戦一戦をともかく勝ちたかった。それは、表に出さない感情の声だったのである。
「新しいエンジン次第ですよ」
瓜畑を信じていないわけではないが、彼は神様ではない。実際にエンジンだけで見ればカヴァーリの方が優れているのだ。しかしプロスペクターは、明人の自棄ともとれるその言葉にも動じた様子はなかった。それどころか、不敵な笑みまで浮かべて明人の顔を覗き込むのである。
「大丈夫です。彼を信じてください。瓜畑君が日本グランプリに間に合わせると言ったのだから、そうするはずです」
そう言って、彼はピットウォールへと戻って行った。
第一予選が終り、第二予選が始まるまでの休息は、しかしチームにとってはマシンに最後の調整を施す機会である。第二予選終了時から決勝スタートまではマシンが車両保管所に移され、スタッフでも触ることを許されなくなるため、レース用のガソリンもこの間に補給する。
明人は第一予選で感じたマシンの神経質な挙動をエリナに伝え、それをメカニックに伝えた彼女とともに今はデータを洗いなおしていた。
「相変わらず貴方のチャートは綺麗ね。スロットルもブレーキもステアリングも、とがった操作がどこにもない。赤月君との違いはやっぱりそこかしら」
「ありがと。あと欲しいのはお馬さんだよ。20頭ほど欲しいね」
「何度も聞いたわ」
要するに、あと20馬力欲しい、そういうことである。明人がユーロ・マスターズに参戦する前からの付き合いであるエリナは、こういうときに明人がとる行動をよく知っていた。明人がよく、心のうちの不満をそうして少しだけ茶化して紛らわしたからだ。
「ねぇ、エリナ」
「なに?」
エリナはとくに仕事中、他のスタッフに自分をファースト・ネームでは呼ばせなかった。それはなにかと男の多いこの業界での彼女なりの意地なのだろうと明人は思っていたが、自分もまた、そんな彼女に合わせることが未だにできないでいる。エリナも、明人に関しては諦めているようでもあった。
もっとも、今の明人はそれもすっかり忘れていたのである。気になることが、他にあったからだ。
それは最近、明人の瞼の裏にちらちらと踊るもので、おそらくは二週間前のテストでその姿を目にした時から燻っていた。そして今、明人の心の奥でもやもやと渦巻いているそれは、色がついているとするなら、「赤」だった。
明人がエリナを見ると、彼女もまたどこか惚けた表情で明人を見ていた。しかし目が合うと、彼女は慌てたようにその表情を取り繕った。
「皮肉……なのかな。それとも、因縁とか」
「……えっ?」
もちろんエンジンの話ではない。マシンの話をするとき、自分はいつも目がきらきらしていると、明人はエリナに聞いたことがある。だからたぶん今は、それほどに自分の目は輝いていないだろうと思った。
「僕がこの世界に入って……今年、彼女が来た。偶然ではないだろう?」
その言葉に、エリナもぴんときたのだろう。
明人の言った彼女とは、北斗のことに他ならない。エリナでなくとも、明人と北斗のことを少し詳しく知っている者ならば、誰もがそう思うだろう。ふだん、過ぎたことにこだわらない明人でさえ、そう思っている。
エリナは有能なレース・マネージャーだ。そしてまた、頼りになるパーソナル・マネージャーでもある。初めて出会った頃はともかく、今では明人も彼女に自分のレース生活の全てを任せていると言っても過言ではない。
「ごめん」
明人が言うと、エリナは何かを言いたそうに明人を睨んだ。だが、結局なにも言わずにデータ・ロガーの紙の束を集めて整える。その仕草は、ふだんてきぱきとした彼女にしては、ぎこちない動作だった。
明人も、それ以上北斗の話題に触れるのはやめた。
to be
continued...
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