FLAT
OUT
(3)
路面温度がもっとも上がる午後二時過ぎ、再びアルバート・パークに甲高いエキゾースト・ノートが響き渡り始めた。1200馬力を誇るエンジンはシフトアップの度に野太い息継ぎ音を炸裂させ、観るもの全ての腹に響かせる。
明人は既にヘルメットを被ってコクピットに納まっており、ガレージの中で出番を待っていた。その状態で明人と会話できるのは担当のレースマネージャーだけだ。エリナである。
「アウトラップの最中でいいから、アルのタイムを教えて」
明人が言うと、既にピットウォールのチーム指揮所にいたエリナが振り返った。アルとは、カヴァーリのエース・ドライバー、アルフレッド・オランのことだ。北斗のチームメイトである。もっともタイムでは、去年の赤月と同じようにはやくもセカンド・ドライバーに負けてしまっているのだが。
『なぜ?』
エリナが怪訝そうな顔をしているのが、ガレージの中からも見て取れた。
「ちょっとした賭けだよ。ポールはたぶん北斗だろう?」
『弱気ね』
「強気と言って欲しいな」
『……わかったわ』
それだけ言うと、エリナは彼が何を目論んでいるのか気付いたらしい。一言だけ了解の言葉を伝えて、モニター群に向き直った。
それから少し後、オランのカヴァーリC.7が時速300キロでホームストレートを駆け抜けていくのが、音だけでわかった。同時にエリナがもう一度明人を振り返り、頷く。今度は真剣な目だ。明人はそんなエリナの真剣な表情が好きである。彼女の負けん気に満ちた野心的な目は、自分で持ち上げていた緊張感を更に引き締めてくれるからだ。
ほんの少し右足の親指に力を入れた程度で、背後のエンジンは鋭く吼える。すぐに自動式のクラッチが作動して、ドンと背中を押されたようにNF211は発進した。
ピットロードに出るとき、明人はちらりとカヴァーリのガレージを見た。そこでは明人のすぐ後に走る北斗が、同じように真紅のマシンに収まっていた。
一瞬、視線が交錯したように思えた。それが確かであるならば、彼女は明人を見てにやりと笑ったのだ。エールを送るつもりか、それとも勝ち目のないマシンを嘲笑うつもりか、明人には判断しかねた。
アウトラップを走り、マシンはちょうどいい具合に仕上がっていることが分った。僅かな時間での最終調整が、うまく働いたのだ。あとは、コントロール・ラインを超えてから一周して再びそれを超えるまでの一分半弱に、全神経を集中するだけである。
『シューマッハ・カーブ』から、再びアタックは始まった。時速350キロから飛び込む第1コーナーは、第一予選と同じように少しだけリヤを滑らせるが、今度はマシンが安定しているのでその速度も速い。あっという間にそこを過ぎ、第3コーナーは再び340キロから100キロまで減速した。その後の第4コーナーで前輪を内側の縁石に乗せると、マシンは挙動を乱すどころかさらに鋭くコーナーを曲がってゆく。
第1区間のタイムがバイザーに表示されたとき、明人は内心でほくそ笑んだ。
第2区間は直線ばかりだから、いくら明人が頑張っても削れるタイムは少ない。問題は第3区間である。
第3区間は5速全開の高速S字から始まり、4速の中速コーナーが2つ、そして『シューマッハ』、最終コーナーと続く。
明人は、第2区間のタイムを確認する暇はなかった。時速230キロを超える高速S字では、ステアリングを切るタイミングを0.1秒、切る角度を1度間違えばたちまちコースアウトしてしまう。世界最高峰のFAドライバーをして息もつかせぬ操作を要求するコーナーはシーズン中でも少ないが、ここはそのひとつだった。
「オーケー、ここからだ」
屈指の高速コーナーを一切のミス無しに駆け抜けた明人は、迫り来る『アスカリ』コーナーを睨みながら呟いた。
ここから右、右と中速コーナーが続き、『シューマッハ・カーブ』は左の低速。最終コーナーは右だが、アクセルは抜かない。
『アスカリ』まで100メートルの看板を通り過ぎた瞬間、明人は左足でブレーキペダルを踏みしめた。ハンドル左側のシフトダウンパドルを二回弾く。すると背後で自動的に2つシフトダウンする音がドドン、と響くのである。次の瞬間には再びアクセルを一番奥まで踏み込んでいた。
『アスカリ』を何事もなく綺麗に抜けた。いや、それは予選でやるには丁寧すぎる走り方だった。続く右コーナーも同じように丁寧に抜け、更には『シューマッハ・カーブ』も。観客たちは、それが明人の走り方だと信じて疑わなかったろう。最終コーナーを立ち上がり、コントロールラインを駆け抜けた瞬間、誰もがアナウンサーの一声を待った。
『1分22秒882! 惜しい、オランの前には出られなかった! 現在テンカワが二番手、このままホクトがポール・ポジションをとれば、カヴァーリはフロント・ローを独占します』
タイムアタックを終え、ゆっくりと深呼吸しながら明人はそれを聞いていた。最初の目論見が成功したことにほっとし、一方でどこか純粋に喜べないことに苛立ちを覚える。本当なら、全部の区間で持てる力の全てを出し切って走りたかった。
「明日だよ。レースは、明日なんだ」
誰に言うでもなく、明人は言った。エリナもそんな明人の気持ちは察していたのかもしれない。タイムと現時点でのポジションを告げてきた以外は、何も言わなかった。
一周してピットインし、車両保管所にマシンを入れ終わったときである。カヴァーリ・エンジン独特の少しだけくぐもったエキゾースト・ノートがウォールの向こうで弾けるのが聞こえ、次いで歓声が上がった。北斗が、デビュー戦にしていきなりポール・ポジションを獲得したのだった。
予選後の記者会見に向かう途中、明人は同じように会見場に出向く北斗に会った。彼女はまだ走り終えたばかりで、襟に留められるようになっているらしい髪留めをはずし、鮮やかな朱髪を後ろに戻すところだった。
「……そうやっていたんだ」
思わず明人が口に出すと、北斗は明人に気付き、胡散臭そうな顔で睨んだ。
「ごめん、髪だよ。コクピットの中でどうやっているのかなと思ってた」
「俺の髪よりも自分の心配をしたらどうだ。記者どもがうるさいぞ」
彼女の言うとおり、開幕戦どころか今シーズンの注目人物として最右翼と目されていた明人が思ったより奮わなかったことは、メディアにとって恰好の餌になるだろう。だが明人は、くすりと笑っただけだった。
「大丈夫だよ。僕より注目を集めそうな人が目の前にいるから」
そう言うと、FAにデビューしていきなりポール・ポジションを奪って見せた脅威の新人は、面倒くさそうに表情を顰めたのである。
メディアが話題になりそうな人物に飛びつくのは、どんな分野でも変わらない。15分の会見のうち北斗は10分ものあいだ質問攻めにあった。
たいていのレーサーは、それでもメディアとの関係を悪化させるのは不利益であると、いい顔をしてみせるものである。しかし彼女は、最後の方になると不機嫌も露に記者の質問をあしらう始末だった。
「ユーロ・マスターズから昇格されてこのFAに参戦されたわけですが、オフシーズンのテストは十分でしたか」
「ああ」
素っ気無い彼女の答えに、場内がしんとなる。慌てて次の記者が立ち上がった。
「カヴァーリは半世紀以上もこのカテゴリーに参戦し続けている名門ですが、その一員となったことで責任を感じますか」
「いや」
「――感慨、などは」
「ない」
「………勝つ自信はおありで?」
「つまらんことを聞くな」
当たり前だろうと言わんばかりに尊大な態度で吐き捨てる北斗を、明人は隣で必死に笑いをかみ殺しながら見ていた。彼女を挟んで反対側のオランは、呆れた顔でそっぽを向いている。
やっと最後になった質問に立った記者は、ちらりと明人を見てから、北斗に向き直った。
「……貴方のお父上もレーシング・ドライバーでしたが、それは貴方の選択に影響を及ぼしましたか」
この質問に、明人の顔からも笑みが消えた。いや、その場にいた全ての人間が真剣な眼差しで北斗を注視している。その北斗は、逆に無言でいま質問した記者をじっと睨んでいた。その眼光は辛辣そのもので、先に耐え切れなくなったのは、どうやら彼女と同じ新人らしいその記者のほうだった。
「そ、そのぅ………失礼、しました」
彼は小さな声でそう言い、座った。おそらく彼は、後で編集長の大目玉を食らうに違いない。しかし北斗は張りつめた空気を解かぬまま、動かなかった。その気迫に当てられて、記者たちも動けないでいる。明人はその話題を切り上げて欲しいと思う一方で北斗の答えを聞きたくもあり、やはり口を出せずにいた。
そして、北斗がやっと口を開いたのだ。
「その答えは、NOだ」
今度は明人が北斗を見た。
彼女の言ったことが本当なら、こうして明人と北斗が再び出会ったのは、まさしく奇縁である。だが、明人には彼女が真実を語っているようには思えなかった。かといって嘘を言っているようでもない。彼女の真意は、まだ分らないままだった。
「父が一人のレーサーであったように、私もまた一人のレーサーだ。近親者にそういった特殊な人間がいることは、私の視野に影響を及ぼしはしたろう。だが、それも含めて私の選択は私の判断によるものだ。他人の指図は受けん」
彼女のそれが記者に対しての言葉なのか、それとも自分に対しての言葉なのか、明人はわからなかった。しかし、それを聞いて少しほっとしたのも事実である。何にしろ、レースはレースだ。僅かな迷いはラップタイムに必ず現れ、時として命を奪う。彼女の言葉がその本心の通りであるのなら、明人もまた、彼女のようにしようと思った。
さすがに記者たちも紡ぐ言葉がないらしく、以降は彼女には触れずにオランへの質問を始めた。
オランはとくに横の北斗を気にするでもなく、淡々と予選を語った。昨年のチャンピオンという彼の肩書きに逐一反応しているのは、むしろ記者達の方であろう。そして、予選3番手を獲得した明人に質問が回って来たのは、記者会見も残り五分となった頃である。
「アキト、今日の予選はいかがでしたか」
彼らは、明人が北斗のように生意気を言わない、謙虚で誠実な人間だと思っているのだろう。それを進んで覆すつもりはなかったが、もしあったとしても今は十分に気が済んでいた。ときどき明人が言ってしまいたくなるようなことを、北斗はあっさり言ってくれたからだ。
「うん、悪くはなかったよ。満点とは言いがたいけど……僕もミスをしたからね」
明人は、嘘を言った。だがそれに気付いた者が、その会場に何人いたろうか。いや、一人だけは確実に分っていたに違いない。彼女はちらりと横目で明人を見ると、ふんと鼻で笑ったのだ。
「ミスをしたのですか?」
「ああ、第3区間でね。小さなミスだったけど………おかげでアルを抜けなかった」
それ以上はあまり喋りたくなかった。誰でもそうに違いないが、明人もまた人前で堂々と嘘をつきたいとは思わなかった。それに加えて明人は、なんとなく彼女の前でそれを強く感じたのである。
「ですが、三番手なら明日はレコード・ライン上からのスタートですね。偶数列に比べれば路面が綺麗で、スタートには有利です。上手くすれば第1コーナーまでにアルフレッドを抜き返せるのでは?」
まさにそれを狙ったんだよ、とは言わない。
「だといいけど、アルもそう簡単には譲ってくれないでしょ?」
「その通りだよ」
横からオランがおどけた口調で口を挟み、笑った。記者たちもそれまでのぴりぴりとした空気が解けたことにほっとしたのか、あちらこちらに笑みが見える。しかし北斗は、退屈そうにミネラルウォーターを口に運んだだけだった。
決勝レースを二時間後に控えた日曜の昼、明人はスタッフの行き交うピットロードの真ん中に立って、その出口のほうを睨んでいた。周囲の喧騒を頭の中から追い出し、目に映る人々すらも透かして、第1コーナーを見つめている。
おそらく、スタートから第1コーナーまでが最初の勝負だ。ネルガルのラウンチコントロール・システムは出来がいいと評判である。スタート専用のそれは、リヤタイヤの空転を最小限に抑えつつ、最大限の馬力でもってゼロからの加速を約束してくれるだろう。あとはタイミングさえ合わせれば、北斗は無理でもアルは抜ける。明人はそう確信していた。
「イメージトレーニングか?」
不意に声がして、明人は振り返った。そこには、その髪と同じ真っ赤なレーシング・スーツに身を包んだ北斗が、挑戦的な笑みを浮かべて立っていた。
「まあ、そんなところ」
明人が返すと、彼女は彼の横に立って同じように第1コーナーを見つめる。拳ひとつほど背の高い明人は、凛々しい彼女の横顔を少しばかり頬が火照るのを感じながら見下ろした。
しかし北斗は、明人の真似をするつもりは毛頭なかったようである。彼の方を見向きもせず、独り言でもいうように口を開いた。
「最近のユーロ・マスターズは退屈だな。そうは思わなかったか」
突然言われ、明人は返答に困った。ユーロ・マスターズはFAの次席カテゴリーとして有名だが、たしかにそこを全勝で駆け抜けた彼女にとってみれば、退屈だったのだろう。しかし現実には、FAよりもマシンに自由度のないそこで退屈するほど速く走るのは、至難の業である。
明人もまた、1回のリタイヤを除き同じように常勝無敗だったが、退屈だったかと言われるとすぐには頷けなかった。
すると北斗は、彼の答えを待つでもなく先を続ける。
「俺はこのフォーミュラ・アーツに一縷の希望を持ってやってきた。俺は誰よりも速く走りたいわけじゃない。ましてや記者どもの注目を集めたいわけでもない。俺が期待しているのはおまえだ、明人」
「……僕?」
北斗が何故そんなことを自分に話すのか不思議だったが、期待されていると聞いて余計にわけがわからなかった。だいたいレーサーというものは誰よりも速く走りたい人種だし、明人自身もそうであると思っていたからだ。
「おまえは速いドライバーだ、明人。自分でそう思っていないわけではあるまい」
「どうかな」
明人が言葉少なに答えると、北斗はやっと明人を見た。しかし彼女は、面倒くさそうに顔をしかめているのである。
「お前は馬鹿か。それとも死にたがりか」
自分の力量も把握できないのか、という意味で言ったのだろう。だが、その言い草に明人は腹が立った。まだとくにそれらしい会話もしていない相手に馬鹿呼ばわりされる筋合いはない。
死にたがりというのも、まったく見当違いだった。限界を超えても速く走りたいと思ったが、それは死んでもいいということではなく、その区別は自分なりにはっきりとつけていたからだ。
「馬鹿でもなければ死にたがりでもないよ。ただ、僕は君がそうであるほどに自分を信じていないだけだ。僕の才能はこの程度のものか、ってね」
皮肉をこめて言うと、北斗は驚いたように少しだけそのとび色の瞳を見開いて、明人を見た。そして、また笑ったのである。しかし今度はどこか楽しそうだった。
「それでこそ俺の見込んだ男だ。期待を裏切るなよ」
そう言って、彼女は自分のガレージへと戻って行ってしまった。後には、直前まで彼女への憤りで顔を顰めていたのに、今となってはぽかんとしてそれを見送る明人だけが残されたのである。
二時間はすぐだった。明人はオランの駆る真っ赤なマシンの後ろで、フォーメーション・ラップを走っている。この一周を終えてスターティング・グリッドにつけば、残るはレース本番のみだ。
カヴァーリの二台はさかんにマシンを左右に振って、タイヤを暖めている。時折タイヤのトラクション・コントロール(空転防止装置)も切ってわざと空転させているようだった。その度に耳をつんざく甲高いエキゾースト・ノートを炸裂させ、青白い煙と路面に黒いタイヤ跡を残しながら弾かれたように飛び出してゆく。
スターティング・グリッドについたのは午後二時三分頃だった。最後尾のマシンが位置につき、ひとつ目のレッド・シグナルが点灯する。それが5個点灯し、消えた瞬間がスタートである。
明人はステアリング上の黄色いボタン―ラウンチ・コントロールのボタンを押してブレーキを踏み、さらにアクセルを一番奥まで踏み込んだ。とたんに背後でエンジンが金切り声をあげ、同じように発進の準備を整えた20台のマシンの嘶きに、アルバート・パークが震えた。観客は逆にしんとなって、もっとも緊張感の高まるその光景を見守っている。そして5つのレッド・シグナルが点灯――。
シグナルが消えたのと、明人がブレーキを放したのは同時だった。その瞬間、背後でスタート時の最良回転数に保たれていたエンジンのパワーがタイヤへと接続され、NF211は飛び出した。
強烈な加速で視界の隅がぼやける中、スタートの僅かなタイミングの違いを明人は正確に計っていた。オランは抜ける。普段あまり使われていないこのサーキットは、やはりレコード・ラインを外すと埃っぽく、偶数列からスタートしたマシンはタイヤが滑って加速が鈍った。
第1コーナーまでのほんの数百メートルで、明人のNF211は時速300キロに達していた。そこからブレーキを蹴飛ばすようにして減速し、視界の片隅で内側にオランがいないことを確認する。明人は、スタートダッシュで完全に彼を出し抜いた。予選からの目論みは成功したのだ。
右、左と続く最初のコーナーを抜けると、隊列は少し整った。トップは北斗が維持し、二番手が明人である。オランは少し後退し、明人と同じようにスタートで順位を上げた赤月と三番手争いを始めている。
『明人君、いま二番手よ。できるだけプッシュして、給油は予定通り行うわ』
「了解」
プッシュしろと言われても、いまのエンジンでは第2区間でできることがない。タイヤが磨り減るのを覚悟で、第1・3区間で頑張るしかないということだ。
北斗は思ったより燃料を積んでいるようだった。それでも圧倒的なペースを維持しているのだから恐れ入るが、やはりマシンの動きはどこか鈍く見える。
それなら、と明人は一気に北斗の真後ろに迫った。北斗のC.7が掻き分けた空気の影――スリップ・ストリームに入り込んで、直線では最高速を稼ぎながら、コーナー区間では常に彼女のバックミラーに自分を映して焦りを誘う作戦だ。もっとも、彼女がそんな小手先の誘いに乗るとも思えなかったが。
コーナーからの立ち上がりでC.7はぐっと明人との差を広げるが、ブレーキングでまたその差は縮まる。そのうちに明人は、とくに直線の前のコーナーで少し無理をしてでも速度を維持するコーナリングに切り替えた。いかにパワー不足のエンジンでも、ぎりぎりまでスリップ・ストリームに入って速度を稼げば、横に並びかけるぐらいはできるかもしれないと思ったからだ。
そのチャンスは、9周目に訪れた。
エリナをはじめとするチームスタッフたちは、テレビ中継で二人のバトルを見守るしか方法はない。そして彼らはその画面上で、明人が第2区間の真ん中にある低速コーナーの縁石を飛び越えるようにして加速していったのを見たろう。
北斗のC.7と明人のNF211との差は、もはや一車身程しかない。明人には、スリップ・ストリームのおかげで風の音が消え、エンジンとトランスミッションが猛烈な勢いで回転する音だけが聞こえた。空気抵抗が減ってさらに速度があがり、C.7の後尾がじわりと近づく。リヤ・ウィングの端から猛烈な勢いで後方に流れる空気の渦が、白い筋になって暴れているのが見えた。
さらに近づく。残りは1メートルもない。そこが、勝負だった。
スリップ・ストリームから抜け出した瞬間、風圧が蘇った。同時に加速も鈍るが、明人の前輪はすでに北斗の後輪を越えている。景色は全て線になって後方へと流れ、北斗のマシンだけが止まっているように見えた。しかしエンジンの金切り声とどうどうと唸る風の音が、時速340キロという別次元の世界にいることを教えてくれる。
バン、とブレーキを蹴飛ばした。同時に襲い掛かる強烈な減速Gの中で明人は、それでも全く位置を変えない北斗のC.7に、一瞬にして辿るべきラインを見出した。
二台は、どちらも全く譲ることなく、アルバートパーク最大の難所とも言える高速S字に飛び込んだ。
オープン・ホイールと呼ばれるタイヤむき出しの構造は、タイヤとタイヤがぶつかると双方が弾かれ、大事故に至ることが多い。それでも明人と北斗は、それぞれの間にタイヤがもうひとつ入らないほどの間隔だけを保ったまま、時速230キロの左コーナーを駆け抜けた。
二つ目の右コーナーは、本来のレコード・ラインに乗っていれば全開で抜けられるコーナーだ。しかしいまは内側に北斗がいる。また彼女にとっても、外側に明人がいるから強引にレコード・ラインを辿ることはできない。条件は同じだ。2秒とかからない直線でラインを整えながら、速度は時速260キロまで上がっている。
次の瞬間、明人はアクセルを一番奥まで踏み込んだままコーナーに飛び込んでいた。北斗もそうしたに違いない。どちらのマシンからも、アクセルを抜く音は一切聞こえなかった。
『信じられない!』
アナウンスの声が場内に響いた。
『なんてことだ! あのS字コーナーを並んで駆け抜けるドライバーがこの世にいるなんて、私は考えたことも無かった』
その声にやっと息を吐いたかのように、観客席がどっと沸いた。
昨年のデビューから、皆が明人の腕前に舌を巻いていたが、ここでもまたそれを見せ付けられた。そして、それに対抗する唯一のドライバーが現れたことにアルバート・パークが沸きあがったのだ。
S字コーナーを、そこに飛び込んだときと同じように横並びで駆け抜けた二台は、そのまま『アスカリ』へ向かって加速する。幸いなことに、明人はこの直線で北斗に前を押えられるほどには後退しなかった。
こうなれば、NF211に有利だった。第3区間はコーナーも多く、燃料を積んで重いC.7は低速コーナーが苦手だ。ここで明人はついにブレーキングで北斗の頭を押え、抜き去った。
『オーケー、明人君。いいわよ、そのペースを維持して』
トップになってホームストレートを駆け抜ける最中、エリナの声がイヤホンから聞こえてきた。
(このペースって、結構大変なんだけど)
心の内で思いながら、視線はバックミラーに釘付けである。今度は北斗の真っ赤なカヴァーリC.7がそれを占め、立場が逆転してしまった。しかもC.7は直線が速いから、コーナーで差を広げてもあっという間にそれは縮められてしまう。そしてその差を縮めるために、彼女はタイヤを浪費していないのだ。
(不利だなあ、まったく)
口調ほどに楽観もしていないが、半ば自棄であるのは事実だった。燃料がなくなって軽くなってくれば、明人もペースを上げられる。そのおかげで差は少しだけ開いたのだが、それでも彼女が明人よりも給油が一回少ない二回給油作戦だとしたら、まさしく万事休すだ。
そして、その悪夢は現実になってしまったのだった。
明人が三度目の給油を終えてコースに戻ったとき、再び逆転された北斗との差は10秒に開いていた。明人が最後の給油をしている最中に、既にそれを終えた北斗のC.7は悠々とホームストレートを駆け抜けていったのだ。
残りは14周である。一周あたり一秒ほど速く走ればいいだけのことだが、それができるなら最初からそうしていたろう。
明人は、カヴァーリのマシンがフォーメーション・ラップ中にやたらとタイヤを暖めていたのを思い出した。彼らが温まり難くても耐久性のあるハード・コンパウンドのタイヤを選んだのは知っていたが、それは通常やるように路面の温度に合わせての選択だと思っていた。
しかし、違った。彼らの選択は、給油から給油までの長いスティントを走りきるだけの耐久性を考えてのものだったのだ。ネルガルの読みは、外れた。
少し以前のFAならば、そこから先はドライバー同士のぶつかり合いだった。マシンに少々の差があっても、ドライバーの技術が時にそれを埋めて余りあった。だが、今は違う。あまりにマシンが進歩しすぎて、ドライバーの腕で埋められない部分がその多くを占め始めていたのだ。
もうエンジンが壊れてもいい。なんとかして追いつき、抜きたかった。明人にとって、二位以下はみな同じだ。勝たなければ意味がない。
だが、どうしようもなかった。いくらアクセルを踏んでもエンジンは一定以上のパワーは出さない。最後の七周は、壊れるのを覚悟でずっと燃料を濃くし、なんとかパワーを稼ごうとしてみた。しかし、結局その差はほとんど縮まらなかった。ファイナル・ラップの最終コーナーを立ち上がったとき、明人は数百メートル向こうで北斗がチェッカー・フラッグを受けるのを見たのである。
to be
continued...
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