FLAT
OUT
(5)
日本グランプリは、FAが発足してからずっと鈴鹿サーキットで開催されていた。一時期ほかのサーキットに変更する案も出されたが、世界にも珍しい立体交差を持ち、真のドライバーズ・サーキットと呼ばれる難易度の高さで、現場のみならずファンの声がそれを無期限延期という最終決定に導いた。
ここに来ても、明人は一般人の通れる道を歩くたびに人だかりをつくっていた。何しろ明人は、育ちこそ違えど日本国籍を持っている日本人でもあるので、詰め掛けた日本のファンにとってみれば凱旋レースにも映るのだろう。
「たいした人気だな」
やっとのことで明人がパドックに辿りつくと、声をかけてきたのは遠目にそれを眺めていたらしい北斗である。
「まあ、僕も半分は日本人だからね。血は生粋のはずだけど」
「どういう意味だ?」
「両親は日本人だよ。でも母はイギリスで生まれ育って結局そっちに帰化したから、僕は日本とイギリス、両方の国籍を持ってるんだ。僕自身は生れも育ちもイギリスだから、日本はどちらかというと……遠いもう一つの母国って感じかな」
明人がそれを説明すると、北斗はふむと言って黙った。
「君は? 君も日系人だろ」
「まあな。曾祖母だったか……スラブの血が流れているらしい。だがもう随分前から国籍はイタリアだ。俺にはどうでもいいことだがね」
「へぇ………なるほど、どうりで綺麗なわけだ」
「ふん」
明人の言ったことを信じているのかいないのか、北斗は嘲笑うように鼻を鳴らしただけだった。当の明人も、いくらおどけて見せたとは言えなぜ自分がそんな台詞をさらりと言ってのけたのか、不思議に思っていたのである。言ってから頬を染める始末だ。
「それより、やっとカードが揃ったそうじゃないか。今度こそ俺を楽しませてくれるんだろうな」
北斗の本題はそこだったのだろう。彼女は睨み上げるようにして、不敵な笑みとともに言った。とび色の瞳は闘争心もあらわにぎらりと光り、明人を魅了するのである。
だが、そこは明人も黙ってはいなかった。わざと腰に手を当ててみせて、微笑み返した。
「楽しむのは僕だよ。みんなはエース一枚と思ってるかも知れないけど」
「なんだと?」
目利きのジャーナリストはともかく、各チームの関係者ですら瓜畑の「お土産」は知らないに違いない。北斗も怪訝そうな顔をして明人を見た。
「エースの他に絵札も一枚貰ったのさ。つまり――」
「つまり、なんだ」
思わせぶりな明人に、そもそも気が長くはないらしい北斗は苛立ったように先を促した。明人は笑みを漏らしつつ、自分のパドックを振り返る。二人が振り向いた先には、烏の濡れ羽根のような純黒をその身にまとったネルガルNF211がいた。
明人は彼女がいつもするように強気な笑みをつくって、向き直った。
「つまり、ブラック・ジャックだよ」
そう言って明人は、さらに表情を険しくして睨む北斗を残して、自分のガレージへと入ったのだった。
土曜の予選一回目、前戦をリタイヤしている明人は、最後の出走である。他のメンバーはアタックを終え、トップタイムは赤月の1分25秒880だ。三番手の北斗は、赤月よりも前に0.2秒落ちの26秒1を出していた。
鈴鹿のホームストレートは下り坂で、その長さのわりにスピードが伸びる。明人は時速330キロからブレーキを軽く蹴飛ばすようにして第1コーナーに飛び込んだ。
第1コーナーの途中から本格的なブレーキングに入り、3速で抜ける第2コーナー。そして迫り来るのは鈴鹿でもっともフットワークが要求されるS字、さらに『逆バンク』から『ダンロップ』、『デグナー』と続く七つのコーナー群である。
ここではマシンのセッティングが完璧に決まっていないと、アクセルを踏むこともブレーキを踏むこともできない。ただ、だらりと抜けるだけになってしまう。
明人は一瞬アクセルを緩めて最初の左コーナーに入った。マシンの向きが変わったら即座にアクセルを蹴飛ばし、さらに曲がろうとするマシンを真っ直ぐに立て直す。そして息を継ぐ間もなく続く右コーナーは、縁石に前輪を半分だけ乗せた。それだけでNF211は、ステアリングを切り足さなくてもリヤタイヤをほんの少しだけ横滑りさせながら完璧なラインでそこを曲がってゆくのである。明人はすぐに左に切り返し、それまで走ったドライバー達よりも一段ギヤを使って3つ目の左コーナーを抜けた。
まったく鈴鹿の前半セクションは休みどころがなく、第一区間は全てがひとつのコーナーのようだった。『逆バンク』は少し我慢が必要な右コーナーで、それが終わって走行ラインを整える間もなく飛び込む『ダンロップ』は長く、しかも高速だ。頭はヘルメット共々5倍の重さになってコーナーの外側に引っこ抜かれそうになるが、アクセルを緩めるわけにはいかない。
時速300キロを更にシフトアップしながらやっとそこを抜ければ、すぐさま『デグナー・カーブ』である。強烈な横Gに耐えつつ上乗せした速度を一気に殺し、ブレーキとアクセルを駆使して「足で」曲がる。『デグナー』の縁石は、タイヤを乗せてはいけない縁石だ。
2つのコーナーからなるそれをあっという間に過ぎ、第1区間のタイム計測ラインを越えた。そしてやっと明人は、忘れていた呼吸を再開したのである。
それから、わずか一分後のことである。
『1分24秒7! 素晴らしいわ、明人君』
再びコントロールラインを越えたとたんにエリナの興奮した声が無線を通して聞こえた。明人は、二位を一秒以上も引き離して圧倒的なトップ・タイムをマークしたのだった。
ネルガル・レーシング・チームにとって第2予選は、どちらかといえば不運な出だしだった。予想されていたよりも雲が多く、路面の温度が上がらないのだ。大切なのは決勝レースだが、それには予選順位も重要である。
『北斗が走り終わったわ。タイムは27秒5。決勝用の燃料を積んでるはずなのに、たいしたものね』
アウトラップを半分ほど終えたところで、エリナから無線が入った。
『なにか作戦でもある?』
「ないよ。全開でいく」
明人だって、無防備にライバルの成長を見守っていたわけではない。メルボルンで北斗が見せた強烈な速さを分析するため、ビデオでその走りを何度も見て、研究したのだ。しかしその度に驚かされるのは、彼女の操作が極めて滑らかであることだった。
だいたいフォーミュラ・アーツのマシンにしても一般の乗用車にしても、技量の上達にはある程度の順番というものがある。最初から荒っぽく攻撃的な操作をするドライバーは、なかなか伸びない。まずは全ての操作に対して流れ落ちる一筋の水のような滑らかさを身につけ、そこから個々の攻め方を確立していくのだ。
自分や北斗が速いと言われるのは、最初の基礎となる滑らかさを徹底的に磨いた末のものだろう。明人はそう思っていた。
北斗の走りは、綺麗だった。一見すると攻撃的でマシンをねじ伏せるような操作だが、明人はそれが実際にはそうでないことを見抜いていた。彼女は常に、マシンの限界性能からさらに上を引き出そうかと言うほどの走りをしているのだ。それがアグレッシブな操作に見えるのである。現に彼女は一切ミスをしなかったし、多少は自分のドライビングを「丁寧派」だと思っている明人が見ても、彼女のそれは慎重で、綺麗だった。
そして不思議なことに明人は、それを見るといつも、相反した二つの気持ちが生れたのである。
ひとつは、自分だって彼女のように走れる、いや、走っているという自信だ。マシンの違いこそあれ、それはラップタイムに証明されている。もうひとつは、それでも彼女のように走りたいという羨望なのだ。いったい何故なのかわからないが、明人はいつもそんな矛盾した思いを自分の中に感じるのだった。
バック・ストレッチは、アタック・ラップに向けて既に全開の態勢に入っている。最高速度は時速320キロを超えた。
『Good-luck』
その言葉を最後に、エリナはもう何も言わない。いや、これからの二分間に彼女が何か言ったとしても、明人には聞こえないだろう。明人の感覚はすべて、マシンとトラックに集中されるからである。
「I will」
短く答え、明人は迫り来る最終シケイン――『カシオ・トライアングル』を睨みつけた。
マシンは全てにおいて絶妙のバランスを保っている。これまでの三戦でどんなに上手くセッティングしても拭いきれなかった小さな不和感さえ、いまは微塵も感じられなかった。コース上のどこにいても、踏みたい時に踏みたい分、ペダルを踏むことができる。
明人には、この日本グランプリこそシーズンの開幕であるように思えた。
最初のコーナーに向かってブレーキを蹴飛ばした瞬間から、明人の感覚はかつてないほどに研ぎ澄まされていた。アスファルトに張り付いているタイヤゴムの厚みさえ、はっきりとわかったのだ。
第1区間はいつにも増して速かった。S字では完全に息を詰め、『ダンロップ』でやっと一呼吸した。だが、それも『デグナー』でまた止めてしまう。息をするよりも、タイヤのグリップを感じることだけに全神経を注いだからだ。
ヘアピンカーブを立ち上がり、『200R』を走り抜ける時、昨日よりもさらに5キロは速度が上がっているように思えた。
理想の走行ラインを、まさしく理想的に辿り、バックストレートのスピード・トラップは時速331キロ。文句なしのトップである。アタックを終えた北斗のC.7が燃費をセーブしながら走っていたが、それでも時速100キロは出ているだろう彼女が停まっているように見えた。
『130R』は一瞬の減速から、瞬間7Gにも達する遠心力に首を軋ませながら駆け抜ける。そして『カシオ・トライアングル』を抜け、最終コーナー。予選日にも関わらずつめかけた10万人の歓声は、明人の耳に届いてはいなかった。
「アキト、素晴らしいラップでしたね」
記者会見で言われると、明人も自然と笑顔が浮かんだ。
「そうだね。僕たちのマシンはもともと空力がいいから、コーナーは心配していなかった。新エンジンが効いたと思う。とてもパワフルだ。こういうのを日本では『オニニ……カマボコ』って言うんだっけ?」
隣にいた――こちらは生粋の日本人である――赤月に尋ねると、彼が答えるよりも先に日本の記者から笑みが漏れた。
「『カナボウ』です。『鬼に金棒』」
「そう、それ」
どこかの女性記者が教えると、明人はにっこりと笑い返した。
たぶんそういうところが、明人が記者受けの良いその理由だ。エリナあたりは、それもわかっているに違いない。彼女は、レーサーとしての明人を最もよく知る人間だからだ。
北斗のように自我の強いドライバーは、記者も好き勝手に書けないので嫌われる。その点で明人は、あまり難しいことを言わず記者たちの求めることのみを狙ったように言ってくれるので、書き立てやすいのだろう。もっとも、明人がわざとそれをしていることに気付いている記者はほとんどいない。
「鈴鹿のコースは難易度が高くて面白いと多くのドライバーがおっしゃいますが、アキトもそうですか」
問い掛けられた質問に明人は少し考えた。
「そりゃまぁ、誰でもそう答えるんじゃないかな。僕だって、実は怖くてしょうがないです、なんて言えないし」
再び笑いが起こる。
しかし明人は、部屋の後ろのほうに立って黙っている記者を見つけた。毒舌で有名な、宗丈である。彼はいつも、記者会見の場ではとくに質問することもなく、黙って見ているだけだった。
彼も日本のメディアの人間である。その割には、面白く無さそうな顔をしていた。
「それはともかく、僕もやっぱり好きだよ。リズムが気持ち良くて、緊張感があるコースだからね。ただ、最後のシケインだけがちょっと……驚きかな。それまでリズムに乗って気持ち良く走ってきたところであれはねぇ。『えぇーっ、なんでここで』って思うんだよ」
ドライバーならではの答えだったからだろう、記者達はなるほどといった表情で明人を見ていた。ただ、相変わらず不機嫌そうな顔をした宗丈だけを除いては。
20分ほどの会見が終わって明人が部屋を出ると、待っていたエリナが呆れたような笑みを見せた。
「上手いわね」
「なにが?」
「あしらい方よ。どこで練習したのかしら」
「練習も何も、僕は思ったことを言ったまでだよ」
でも、どこまで言うべきかの区別はしっかりしてるのでしょう――ちらりと明人を窺ったエリナの目は、そう言っていた。
「……貴方って、けっこうずる賢い性格よね」
「失敬だな。僕はいまのこのモチベーションを維持したいだけだよ。それなのに自分からプレッシャーを増やすこともないだろう?」
それは明人にとって本音であり、小さな悩みでもあった。
レース界にデビューしてこれまで、同じようなシチュエーションは何度もあった。明人が有名になればなるほど、取り巻く記者はずる賢くなってゆく。
レースに集中することと、自分という偶像(それは多くのファンにとってむしろ実像なのかも知れないが)を牛耳る記者たちの機嫌をとること。これを秤にかけるのは、いつも難しい。むろんどちらに重きを置くのかは、とっくに決まっているのだが。
エリナは苦笑を浮かべて、肩を竦めた。
「図太いのか神経質なのか、分らないわ」
「人はそんなに単純じゃないよ。目的がある限り」
明人はさらりとそれに答える。
「それより、まだ少しアンダーステアが強いんだ。空力のバランスは良いから、できれば足回りの方で調節して欲しいんだけど」
「まだ速くなるつもり?」
「もちろんさ。速すぎる、なんてことはあり得ないだろ?」
明人は頭を切り替えて、明日の決勝レースに集中する。
エリナは、そんな時の自分の目が綺麗だと言ってくれた。たった一つ、自分にとって大切なものの為に輝ける瞳は誰のものでも美しい、と。
自分の目が実際にそれほど輝いているのか、いちいち鏡を見たことはないので知らない。だが、レースのことを考えれば明人はいつも不思議な躍動感に包まれた。希望ばかりではないのだが、不安すらも楽しめるのである。そしてやはり彼女の言う通り、レースが自分の全てであると実感するのだった。
記者会見が終わってパドックに戻ってきた明人は、一旦そこを通り抜けてモーターホームに入るところだった。決勝レースはどちらかと言えば体力勝負だが、予選はそれよりも遥かに強い精神力が求められる。それによって昂ぶった心を落ち着けるために明人が求めるのは、コップ一杯のミネラルウォーターと静寂だ。
パドックの裏に出れば、そこは巨大なトレーラーに挟まれた谷間である。しかし明人がそこに入る直前に、若い男の声がそれを呼び止めた。
「おい、明人!」
驚いて声のしたほうを振り返った明人は、さらに目を丸くした。
「ジロ!」
再会の喜びに明人も彼の名を呼ぶが、それを聞いたとたんに相手はぎょっとしたように目を見開き、次いで怒ったように怒鳴る。
「ジロって言うな! 俺は『ガイ』だと、七年も前から言ってるだろう!」
今度は明人がきょとんとして彼を見る。そうこうするうちにガイと名乗った浅黒い肌の東洋人は、明人の前までつかつかと歩いてきた。
「だって変じゃないか、本名はジロだろ?」
「本名はジロじゃなくて『ジロウ』だ! いや、そうじゃなくて――」
「まあ、いいや。久し振り、ジロ」
「………ああ」
お前のデビュー以来か、と『ジロ』は少しばかり不貞腐れながら言った。もちろん明人も、彼の本名が『ヤマダ・ジロウ』だということは知っている。なぜ彼が自らをわざわざ『ガイ』と名乗るのか、それは不明だ。たしかそれは日本語で被害とか災害とかあまり良い意味ではないのではないかと、明人は不思議に思うばかりである。
モーターホームに招き入れると、ジロは驚いたようにそのラウンジを見回して、ソファに座った。
「FAチームってのは贅沢だなぁ。俺なんかエースドライバーなのにパドックの隅で寝袋広げてるんだぜ。羨ましいね」
あまり遠慮した風ではないその口調に、明人も笑みを漏らす。
「それは君がわざわざそうしているからじゃないか。ちゃんとベッドがあるのに、マシンの傍でないといやだなんて――昔とちっとも変わってない。メカニックが困ってるだろ?」
明人がそう言うと、ジロはわざとらしく舌を鳴らして人差し指を振った。
「男ってのはな、信頼する相棒に背を任せてこそ安息を得るのさ」
「………失礼、語彙だけは増えてる」
明人とジロは、いわば幼馴染である。とは言え、言葉を覚えたての幼年来というわけではない。明人が彼と出会ったのは今から七年程前である。
「お前も変わってなさそうだぜ、明人。相変わらず物思いに耽ってるんだろ」
「物思いって……あの頃の僕って、そんなに考えてばかりだったかなぁ」
「おう、そりゃもう酷かったぞ。俺がお前の足を引っ掛けて転ばせても、気付かずに歩いて行っちまった」
「それは、ない」
がっはっは、と笑うジロはちっとも変わっていないと、明人は思った。明人の知っている彼はいつも豪放磊落である。人が落ち込んでいても、平気で背中をバンバンと叩く男だった。ただ、それに咽て吐き出されたものも大きい。明人もまた、そんな彼に救われたのだ。
ジロこと山田二郎は、明人と同じ道を歩く人間だ。レーサーである。イギリスは明人の生まれ故郷となるコヴェントリで出会った二人は、幼くして意気投合し、ジロが明人の家に居候していた頃もある。途中から明人はフォーミュラ・カテゴリーへ、そしてジロはツーリングカーへと歩みを進めたので、以前ほど頻繁には会っていないが、それまでは明人にとって唯一と言っていい親友だった。
もちろん今は親友が増えて唯一ではなくなったが、当のジロもそれを喜んでいるようだった。
「しかしまぁ、FAは忙しそうだなぁ。人一倍体力のないお前が、よく頑張ってるよ」
「ちゃんとトレーニングはしてるさ。筋肉がつきにくい体質なんだ、きっと」
「なんだそりゃ。朝飯、ちゃんと食ってんのか」
「…………まぁ、食べられる時は」
七年前に友達になってから、ジロはあまり活発でない明人に世話を焼いた。周りを見ず突っ走っているように見えても、彼は案外目ざとい。明人にとって親友であり、頼れる兄でもあった。もっとも、彼の夢の話になると今度は明人が兄役になるのだが。
ヒーロー願望が人一倍強くて、それに支えられているらしい彼の言動は、今になってみればずいぶんと明人を明るくさせた。その頃の記憶が、明人よりもはっきりとあるのだろう。明人の答えに、いまは兄役のジロが深い溜息をついた。
「相変わらずの寝坊魔か」
「『魔』って言うなよ。そんなにはしてない…………と、思う」
「まぁいいさ。ヒーローたるもの一つや二つの欠点は必要だ」
ジロの中にあるヒーロー観は、明人には到底理解できそうにない。そもそもヒーローになりたくてこの道を選んだ訳ではなかったし、ましてや誰かの為にとは口が裂けても言えなかった。それは、明人の意地だ。
だからなのか、明人が心のどこかでジロに憧れを抱くのは、分っていながらそれを歯牙にもかけず突き進む彼の姿ゆえであろう。
「それにしたって、去年のル・マン以来じゃないか。招待状、毎回出してるのに」
「いや、こっちも忙しくてなぁ。二股かけてる身だと、あっち行ったりこっち行ったり、一年の四分の三は外泊なんだ」
「ああ……たしかにISPCとEARCの二股なんて聞いたことないな。と言うか、君がそんなに多忙な日々を過ごしているのが信じられない」
「……どういう意味だ」
国際スポーツ・プロトタイプカー選手権――ISPCと、ユーロ・アトランティック・ラリー選手権――EARC。前者にメーカー系ワークス・チームのエースドライバーとして、後者にプライベーターとして参戦している親友は、もしかすると明人よりも多忙だ。もちろん本業であるISPCを優先して、それがバッティングしなければEARCにも出場する。何とも多感なドライバーである。
明人が面白いと思うのは、それぞれが全く違ったカテゴリーだということだ。ISPCは、その名の通りプロトタイプと呼ばれるFAに似たマシンを使って、同じくサーキットを走るレース。一方のEARCは、一般車を改造したマシンで砂利道や雪道を一台ずつ突っ走り、タイムを競うというカテゴリーである。車を運転するということは変わらないが、まさか溝の全くないスリック・タイヤで雪上を走るわけにもいくまい。
「プロトタイプは一度テストで乗ったことがあるけど……ラリーカーはないな。今度乗せてよ」
生来の朗らかさを取り戻した明人。母が言うには、旺盛な好奇心まで戻ってきたのがちょっと心配だそうだ。それをよく知っているジロは、そんな明人の願いに笑みを零した。
「危険なことに首を突っ込むなって、あの怖いマネージャーに怒られるぜ」
「……彼女には内緒で」
「ユーロ・マスターズ時代にそれでバレたろ?」
窓の外を眺めながら明人にそう笑い返していたジロは、不意に黙り込んで視線を落とした。モーターホームの二階から見下ろすそこには、『パドック通り』を行き交う大勢の関係者たちでごったがえしている。
彼とテーブルを挟んで反対側の明人は、彼が何を見ているのかまでは分らなかった。しかし次に彼が口にした言葉によって、気付くのである。
「そういえば、明人。今年からFAに………あいつが、いるんだって?」
ふと真剣な口調になった彼に、明人はすぐに悟った。彼と出会い、ステップアップ時代の同居生活(彼が勝手に押しかけてきて居候しただけだが)を経て今まで、ジロがそんな顔をして明人に話すのは、そのことだけだった。
「ああ、うん。速いよ」
「そうか」
いつも饒舌なジロも、このときばかりは多く語ろうとしない。彼は明人を見定めるかのようにじっと見つめたあと、腕を組んで俯いた。
しかし、それにむっとした顔をしたのは明人である。
「あのねぇ、君までそんな顔しないでくれないかな」
「……ああん?」
予想外だと言わんばかりに、ジロは片眉を吊り上げて明人を見た。
「もう十二年も前の話なんだからさ。みんな腫れ物でも触るみたいに、その話題になると急に顔色を変えるけど。ジロだって、七年間も僕を見てきたろう」
「……七年経っても、お前は相変わらずジロ、ジロ、だからな」
真剣な表情のジロに、明人は窓から見える日本の空に目をやった。
「僕はべつに、彼女に対して変な意識はもってない。彼女の父親に対してもね。それよりも彼女――北斗は、待ちに待った最高のライバルだと思うんだ。自惚れだけどさ、彼女なら僕をさらに速くしてくれる気がする」
そうして明人は、胸に浮かんできた感情を口元に表した。それは、笑みである。
告げたのが普段もっとも親しいエリナや赤月でないのが、明人には不思議だった。しかし、あまり連絡を取り合っていないとはいえ、もはや兄弟とも思えるジロだから言えたのかも知れない。飄々とした赤月はともかく、責任感の強いエリナにはやはりそれを言うべきではないだろうと、明人は心のどこかで思っていたのだ。
一方、ジロはそんな明人の言葉に目を丸くして驚いていた。彼は再び無言で考え込んだが、自分には答えを出せないと言うように「ふん」と息を吐いた。
「……まぁ、お前がそう言うなら俺の口出しするところじゃないな」
「そうそう」
あまり深く考えないで、と笑う明人を、ジロは再び窺うようにして見た。
少しばかり二人の間を沈黙が支配したが、すぐにいつもどおりに戻ったのはジロだった。彼は出されたカップの中身を味わいもせずに飲み干すと、勢いよくテーブルに戻した。
「美味いな。これは静岡かな、そうだろ」
「……………シズオカのお茶は飲んだことないけど、それ、紅茶だよ」
ジロは「なんだ、そうか」とでも言いたげに、コップの底に残ったものを覗き込んだだけだった。
to be
continued...
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