FLAT OUT

(7)






「勝つんだろ、明人」
 横に立ったジロが明人を見下ろしながら、言った。
「もちろんさ。ちゃんと見てろよ」
 彼の膝ほどしかない高さのコクピットから、明人は返す。
 奇妙な自信があった。マシンがこれ以上ないくらいの仕上がりを見せていることが、その原因かも知れない。普段なら少しくらいは頭の隅に置いている偶発的なアクシデントの可能性も、今は全く気にならなかった。視線の先には、ポディウムの頂点しかなかったのだ。

 不意にジロが跪いて、同じ高さからじっと明人を見た。
「おまえは誰だ、明人」
 唐突な言葉に、明人は驚いた。だがそれを言い出した親友の眼差しに、冗談は欠片も見受けられない。彼が何を言いたいのか、明人はすぐに察した。
「僕は、天河明人さ」
「それだけか?」
「それだけさ。今はね」
 今度はジロが少し驚いたようだった。彼のことだから、世界最高のFAドライバーとでも言って欲しかったのかも知れない。しかし明人にとって言うべきことは間違っていなかった。
 それが分ったのだろうか、ジロもすぐに笑顔に戻った。
「泣き虫明人が言うようになったじゃないか」
「誰が泣き虫だよ」
 彼の言うとおり、昔の明人は涙こそ流さなくても心で泣いていることがよくあった。しかし今はもうそうでないことを、二人とも知っている。
「グッド・ラックだ」
「ありがとう」
 右手同士をがっちりと組んで言うと、ジロはピットに戻っていった。




 今シーズン初のポールポジションである。明人は自分より前に誰も居ないグリッドで、スタートを待った。不具合はどこにもない。ラウンチ・コントロールも正常に作動し、背後では新型エンジンがうなり声を上げて解放されるのを待っている。

 レッド・シグナルが消えた瞬間、明人は抜群のスタートを切った。もし開幕戦オーストラリアのように3番グリッドからのスタートだったとしても、一気にトップに立てただろう。バックミラーに映っていた北斗のC.7が見る間に小さくなった。
 こんなに上手く決まったスタートは、後にも先にもないに違いない。しかしそれにも増して、序盤の明人のペースは凄まじかった。最初のピットストップに入るまでの18周、明人は1周ごとにレース中のベストラップを更新し、北斗との差をどんどん広げたのである。
 観客にとっては面白くなかったかも知れないが、チームにとってこれほど面白いことはない。誰もが今シーズンの初勝利をポール・トゥ・ウィンとファステスト・ラップの完璧な勝利で迎えるべく、明人のピットインを待った。

 他のチームのマシンも入ってくる中、明人も18周目にピットインした。一本のタイヤに三人のクルーがついて、5秒でタイヤ交換を終わらせる。一般的なサイズのバスタブならば13秒で満杯にできる給油ホースは、しかしそのバスタブほどもある燃料タンクを一杯にはしない。次のピットインまでに必要な量を給油するだけである。ジャッキが下ろされ、地面に着くと同時に明人はアクセルを踏み込んでいた。

 明人のペースは落ちなかった。第2スティントに入ってからも着実に二位の北斗との差を広げ、燃料の軽くなってきた頃にはまたしてもファステスト・ラップを更新し始めた。
 そして最後の給油を終えたとき、明人は北斗に35秒もの大差をつけて走っていた。後方集団はもちろん、トップチームの中でも彼に周回遅れにされていないのは、同じネルガルの赤月とカヴァーリの二人、合わせて3台だけとなっていたのである。

 余程のミスか不運がない限り、優勝は決まったようなものである。しかし明人はそれでも気がすまなかった。ファイナル・ラップが近づいて燃料が軽くなってくると、予選さながらのタイム・アタックを始めたのだ。
『ちょっと明人君、無理はしないで』
 エリナが慌てて言っても、明人は聞かなかった。
 レースは圧倒的にリードしているのに、何か物足りない。あとは力を抜き、堅実にゴールだけを目指せばいいはずなのに。それで勝てるのに。
 もっと、1000分の1秒でいいから、明人はファステスト・ラップを縮めたかった。それがなぜなのか、自分でも分らなかったが、そうせずにはいられなかったのだ。
「デグナー」の高い縁石に姿勢が崩れるのを覚悟でタイヤを乗せ、リヤタイヤが滑る前にカウンターをあてる。シケインでは縁石を飛び越えるようにして走ったし、第1区間の高速S字ではタイヤが一瞬コース脇のダートにまで落ち、砂煙を上げた。
『明人君! リタイヤしたら優勝も何もないわ!』
 悲鳴のようなエリナの声に、明人は我に帰った。いや、それまでも常人にはあり得ないほど冷静ではあったが、バイザーに映し出されたラップタイムを見たとたん、自分がいますべきことを思い出したのだ。
「ごめん。ペース指示をして」
『……いまのラップが1分24秒1。25秒0を維持すれば北斗との差は縮まらないわ』
「わかった。ありがとう」
 いつの間にか、予選を遥かに上回るラップタイムをたたき出していた。3周の予選と違い、52周の決勝レースを考えれば、あまりにリスキーなアタックだった。
 それから明人は、ファイナル・ラップまでの4周をまるでコンピューターが運転しているかのように、1分25秒0前後のタイムで走った。

 ファイナル・ラップになって明人が思い出したのは、これが今シーズン初の優勝であることである。シーズンが開幕してまだ一ヶ月半しか経っていないが、もう一年以上も勝っていない気がした。「勝つんだろ」と言ったジロの顔が思い出される。とにかく勝ちたいという思いが今になってむくむくとわき上がってきて、急にミスをすることが恐くなった。
 これほど緊張したファイナル・ラップは、FAで初優勝した昨年のモナコGP以来だったに違いない。ただでさえ鈴鹿のコーナーは肝を冷やすものが多いから、明人はファステスト・ラップよりも十秒くらい遅いのではないかと思えるくらい、慎重に走った。

 最終コーナーを立ち上がり、コントロールラインが見えた。その上に、チェッカーフラッグが待っている。
 二位以下で見るチェッカーフラッグは、どこかほっとするとともに気が抜けるだけだ。しかし、トップで受けるときは違う。白と黒のチェック模様のそれは、敗者にはレースの終りを告げるだけだが、勝者にはその偉業を何者よりも強く称える力を持っているからだ。『お前が勝ったのだ』と、その声無き声を聞けるのは、レーサーだけの特権である。

 力いっぱい振られるチェッカーフラッグの下で、明人は拳を突き上げた。同時に18万人の大観衆の声援が耳に戻ってきて、ついに勝てたという実感が胸の内を満たしてゆく。
 ネルガルの指揮所前には、たくさんのスタッフ達がピットウォールから身を乗り出して手を振っていた。その中にはエリナもいた。案外涙もろい彼女のことだから、もしかすると泣いていたかも知れない。その真下を、明人は彼らの一人一人と握手するように手を差し伸べながら走り抜けた。歓声は、サーキットを一周してピットロードに戻っても止まなかった。



 車検場で体重測定を終えて――規定違反がなかったかどうか調べるためだ――チームに戻った途端、明人は瓜畑に抱きついた。そしてプロスペクターにも、エリナにも。そのあとは三位に入賞した赤月ともどもスタッフの皆にもみくちゃにされ、何がなんだか分らなかった。

 明人がやっと一息ついたのは、表彰式とそれに続く記者会見のあと、モーターホームの個室に戻ってからである。全身がシャンパンでびしょ濡れだったが、レースで火照った身体を冷やすにはちょうど良かった。

 強烈なGに耐えねばならないFAドライバーであるのに、明人は体力が無い。二時間弱のレースを走りきると、いつもへとへとに疲れてしまうのである。レース中の心拍数が200を越えることもあるのだから無理もなかったが、最近はやっとトレーニングの成果が現れて、表彰式にポディウムでけつまずくこともなくなった。
「まったくお前の走りは相変わらず、見てるこっちが冷や汗をかくぜ」
 そう言ってジロは、勝手に冷蔵庫をあけてミネラルウォーターを取り出した。明人はどっとソファに倒れ込み、「うーん」と唸る。
「人のこと言えないくせに」
 明人の記憶が正しければ、観ている者をはらはらさせるのはジロの方だ。よく言えば情熱的、悪く言うと感情的な走り方だから、目が離せない。しかしジロに言わせると明人も同じであるらしく、さらに明人は執念にも似たものが加わるのだという。
「まあ、お前の性分は俺が知ってるからな。いまさら言うことはないさ」
「……ジロもずいぶん大人になったなぁ」
「お前が言うな、明人」
 ジロは明人用のクローゼットを物色して、中からチームの普段着を見つけたようだった。明人が疲れに目を閉じていたら、それが頭の上に降ってきたのだ。
「着替えろよ。もうシャンパンは浴びないだろ」
 なんだかんだと言って面倒見の良い彼である。明人は再び「んー」と唸った。

 気だるい身体に鞭打って、なんとかレーシングスーツを脱いだときだった。うっかり開けっ放しにしていたドアから、エリナがひょっこりと顔を現した。
「明人君、いるの…………あら、ごめんなさい」
 その口調は怒っているようではなかったが、遅かれ早かれ彼女に怒られるだろうことを、明人はわかっていた。レース中、彼女の指示を無視してしまったことを誤魔化すつもりはなかったし、素直に申し訳ない気持ちでいた。
 エリナはジロに気付いたが、少し驚いたような顔をしただけでとくに話はしなかった。

 一応は向こうを向いて着替えを待ってくれている彼女の背中を、明人は見た。
「レース中のこと、ごめん」
「どうしてあんなに攻めたの? もちろん貴方はレーサーだし、もっと速く走りたいと思うのは分るけれど……あれはやり過ぎだったと思うわ。レースを考えれば、ね」
 ジロは黙って二人の会話を聞いてくれている。
 勝ったのだからいいだろう、とは言えなかった。その言い逃れは記者たちを黙らせることはできるけれど、戦略を考えるチームにとってはただの我が侭にしか聞こえないだろう。
 明人は返答に困った。あの時の気持ちは、言葉では言い表しようがない。ジロの言うとおり自分の中にあるスピードへの執念であったようにも思えるし、或いは何かもっと大きなものに突き動かされるようにそうしたのだとも思えた。たとえ今ここでもうしないと誓っても、同じ状況になればまたするだろうと、明人にはわかった。
「……あんまりクルマの調子が良かったから。僕も調子に乗っちゃったんだよ。ごめん」
「……………………」
 エリナは振り返って明人をじっと見つめたが、問い詰めようとはしなかった。しばらくして彼女は、観念したように口元を緩めたのである。不思議なことに明人は、そんな彼女の笑みにどきりとした。
「プロスペクターに言われたわ。貴方を怒るなって」
「プロスペクターさんが?」
 意外な一言に、明人は上着に袖を通しながら聞き返した。ジロは横で「あのおっさん、まだ現役だったのか」などとぼやいている。
「ええ。ネルガルが貴方を雇ったのは、その何事にも満足しない貪欲さに惚れたから、ですって。もちろん、実力が大部分ではあるでしょうけどね」
「貪欲さ……ねぇ」
「その通りじゃない? 貴方は100パーセントでは飽き足らず、常に101パーセントを求め続けてる。それだけなら誰でもできるけど、そのプラス1パーセントを貴方は本当に手にしてしまうんだもの。速いはずよ」
 自信に満ちた口調で言うエリナは、しかし、なぜか寂しそうにも見えた。彼女の言ったことは、彼女にはできなかったことなのだろうか。明人はそう思ったが、口に出すことはできなかった。自分の雰囲気に気付いたエリナが、ことさら明るく笑ってみせたからである。
「彼がそう言うのなら、私もとくに何も言わないわ。そもそも怒ってはいなかったし……。勝ったのに怒るなんて、いくら私でもそこまで野暮じゃないもの。ただし、私の寿命を縮めた罪は償ってもらうわよ。今晩どこかでスシでも奢りなさい」
 彼女は明人にはそれを気付かれたくないようだった。明人もまた、それを知ってみたいような、でも知ってはならないような、奇妙な気分だった。それに、そう思った途端になぜか一人の人物を思い出したのである。

 鷹のように鋭いとび色の瞳を持った彼女は、そんな明人に関心すら示さないだろう。
 スピードを求めるその姿勢? そんな小難しいことを考えている暇があるなら、ハンドルを握れ。アクセルを踏め。
 面倒くさそうにそう吐き捨てて、彼女はさっさと先へ行ってしまうに違いなかった。


(――そうか)

 唐突に明人は気付いた。今日のレースで、なぜあんなことをしてしまったのか。あれだけ圧倒的なレースをしたのに、最後までなにか物足りない気分だったのはなぜか。
 それは、北斗がいなかったからだ。
 オーストラリアのレースが楽しかったのは、北斗との限りなく神経質な鍔迫り合いがあったからだ。それ以降の二戦は双方の力が拮抗せず勝負からは遠ざかっていたが、今回は明人も完璧な布陣で臨めた。それでも満足できなかったとは、いったい何を期待していたのだろう?
(僕は、彼女との勝負を期待していたんだ)
 即座に出てきた答えに、明人は我ながら驚いた。

 やはり北斗は、自分とよく似ているのだろう。そう明人は思った。雰囲気は正反対かも知れないが、レーサーとしての根本的な性質――誰よりも速く走りたいという思いは、口ではどうこう言ってみても、同じなのではないだろうか。誰よりも速く走りたいから、自分より速いと感じる者と闘いたいのだ。
 だからこそ彼女は、自分に期待を抱いてここへやって来たのだと、そう言ったのだ。

 明人は、急に嬉しさがこみ上げてきた。今回はネルガルが一歩先んじた格好になったが、ピットにはカヴァーリも次戦スペインGPからエンジンをアップグレードするという噂がある。それが本当だったら、次こそはもっと面白いレースができるかも知れない。明人は、もう二週間後が待ち遠しくて仕方が無くなっていた。


 急に笑みを零した明人に、エリナが怪訝そうな顔をした。ジロは、意外にも、「またか」と笑っている。
「……なによ、にやにやしちゃって。誤魔化そうっての?」
「ん? ああ、いや、ちがうよ。うん、奢るよ。なんでも。…………ところで、エリナ」
 明人が急に名前を呼んだからか、エリナは見た目にもわかるくらい緊張した面持ちを見せた。
「な、なによ」
 声も少しだけこわばっていたが、明人は気付かない。机の上に視線をやって考えて、また真剣な眼差しでエリナに向き直った。彼女の頬は、少しばかり赤みが差していた。
「スシって、あの白い四角いやつだっけ?」
「………あんた、ほんとに日本人なの?」
 明人の真剣な声とは裏腹に、気の抜けたエリナの声が空しく響いた。










to be continued...



いくら明人が欧州育ちでも、スシとトーフの区別くらいつくでしょう。両親は日本人なんだし。
問題は、あまり食に好評を頂けない某国に育って料理人魂が刺激されなかったかどうか……。
大丈夫です。ここの明人は料理に懸ける魂をレースに懸けちゃってますから(笑)


 

感想代理人プロフィール

戻る

 

 

 

 

代理人の感想

ソイ・カード(豆腐の英名)は欧米でもヘルシー食品として人気があるんだぞ、アキト?(笑)

と、言うことで最後の一行はエリナをからかうアキトのジョークだと解釈しましたが・・・マジだったのか(爆)。

まぁ、料理の変わりにレースに出会っちゃったのがここのアキとっぽいですしねぇ。