FLAT OUT

(10)






 あれは通常のパンクではない。タイヤに傷がついていたり、或いはなにか異常な状態のままコーナリングで強力な負荷がかかった時に起こる、バーストだ。やはり彼は何か小さな破片を踏んでいたのか。それとも路面温度に合わないタイヤが、思ったよりも遥かに早く限界を超えていたのか。どちらもあり得ることだったが、前者ならばそれは明人にも起こり得る。
『明人君、セフティ・カーが入るから、ピットインして。作戦は変えずにいくわよ』
「了解、ピットインする」
 その周、ピットインした明人はオランがどうなったのかまだ分らないでいた。彼の事故現場はちょうどピットロードの隣で、壁に阻まれて見えなかったのだ。
「彼は大丈夫なのかい。アルは」
『いま、マーシャルが救出に向かってるわ』
 エリナもモニターに映っている分しか知らないだろうことは分っていたが、それでも聞かずにはいられなかった。他のドライバーがどうか分らないが、明人はどうしてもこうした事故に対して過敏に反応してしまうと、自分で気付いていた。それは、過去の記憶があったからである。


 ピットアウトしてコースを半周もすると、時速100キロほどでゆっくりと走るセフティ・カーに追いついた。オランがいなくなったいま、明人がレース・リーダーとなる。コースが片付くまで、セフティ・カーは全てのマシンを先導するのだ。

 そして最終コーナーに差し掛かったとき、明人は恐れていた光景を目の当たりにした。
 コース脇の壁を見ても、彼がどこにぶつかったのかその痕跡は見分けがつかない。しかしそのマシンの破壊ぶりを見て、彼が直線部分の、クッションのないコンクリート壁に激突したのだろうことは、容易に想像できた。
 左側のタイヤはもげて飛び、前と後ろのウィングもなかった。カウルも粉々に砕けて、エンジンとその両側にあるラジエターがつぶれてむき出しになっていた。コース上には黒いカーボンの破片が無数に飛び散っていて、彼が滑って行った跡には液体も見える。マーシャルがその上に石灰かなにかの白い粉を撒いているのが見えた。

 彼らが黄色の旗を振りながら指差す地面が、つまり破片の取り除かれた安全な部分なのだろう。そこをセフティ・カーの後について通りながら、明人は無残な姿になったC.7の横に差し掛かった。そこでまた、信じられないものを見たのだ。
 赤いボディが半分ほど砕けて無くなったマシンのコクピットには、まだオランのヘルメットが見えた。もうとっくに救出されて医務室に搬送されたと思っていた彼は、まだコクピットから出られずにいたのだ。そしてそのヘルメットはぴくりとも動かず、項垂れていた。

 猛烈な吐き気がして、明人はたまらずそれから視線を外した。心臓が破裂しそうなくらいに早鐘を打っている。
 事故の恐怖に怯えたからではない。明人自身、この世界に身を投じてから全く事故に遭わなかったわけではない。
「まだ――救出されてない」
 知らぬ間に無線の送信ボタンを押し、そう呟いていた。
 いつボタンを離したのかも、よく分らない。しかしそれを待っていたかのように、エリナの声がヘルメットの中に響いた。
『落ち着いて、明人君。彼は無事よ』
 彼女もまた、明人がオランの事故にショックを受けたと思っているのかも知れない。仕事中はめったに聞けない、感情のこもった声で彼女は言った。

(――違うんだ)

 明人は心の中で彼女に答えた。
 オランを心配していないわけではない。いや、もしかしたら誰よりも――少なくとも仕事を理由に彼とつき合っている人間たちよりは――彼を心配しているだろう。



 十二年前の光景が明人の脳裏に蘇った。何か途方もない出来事のようだった。その瞬間のことは白い閃光に遮られて思い出せず、その次に目に入ってきたところから明人は憶えている。

 ピットロード脇に設置された大型テレビモニターの中、もうもうとたちこめる白い煙の向こうに、大破したマシンがあった。どっちが前で、どっちが後ろかも分らない状態だ。火は出ていなかった。サーキットが全て言い様のない戦慄に支配され、ざわめいているのか静まり返っているのかさえも、明人には分らなかった。
 ピットロードは慌しく走り回る人間でごった返して、皆がレースを忘れてしまったかのようだった。そこに十歳だった明人は、ただ立ち尽くすことしかできなかったのだ。

 ガレージの中から悲鳴が聞こえた。母の声だった。彼女の目はモニターに釘付けだったが、何を見ていたのか明人は知らない。シャッター速度の追いつかない写真のように、すべてが形を失って流れているように見えた。
 消化剤の白い煙が風に飛ばされ、見えてきたのは担架の上に横たわる父親の姿だった。たくさんの人間が彼を取り囲み、ヘルメットを取っているのか、それとも被ったままなのか、それすらも分らない。レーシングスーツの上半身がはだけられ、その襟元には血の染みのようなものが見て取れた。

(おとうさん)

 そう実際に叫んだのか、或いは心の中での叫びだったのか、明人はいまだにわかないでいる。しかしその凄惨な光景だけは、いつになっても頭を離れることはなかった。成長とともに記憶は曖昧になっていったものの、とくに酷い事故――大破したマシンに、ぴくりとも動かないドライバー――には、明人は神経が張り詰めるのを抑えられなかったのだ。


 どのくらいそこに立ち尽くしていたのか、明人はやはり憶えていない。父が救急車に乗せられてどこかへ運ばれてゆくのも、ぐらぐらする視界ではよくわからなかった。辺りに響き渡ったヘリコプターの爆音が、明人を現実へと引き戻した。そして明人は見たのである。同じように立ち尽くして現場を見やる、赤い髪の後姿を。

 視線を感じたのかも知れない。いや、ただ振り返っただけだったのかも。しかしそんな仮説は、すぐさま打ち消された。彼女は明人を振り向いたわけではなかった。
 そのときの明人と同じように、彼女はただ一人ぽつんと大人たちが行き交うピットロードに立っていた。そしてその表情は――恐怖に彩られていたのだ。


(――北斗)

 唐突に明人は思い出した。
 あの時あの場所に、彼女もいたのだ。いまならばはっきりと分る。あの時、一人ぼっちでそこに取り残された少女が、どんな思いでいたか。なぜなら彼女もまた、事故の当事者たるドライバーの娘だったからだ。
 あのとき彼女は、自分と全く同じ思いでいたに違いない。胸の奥底から瞬く間に身体中を蝕んでゆく恐怖に、明人も、北斗も、身動きすらできなくなっていたのだ。

「北斗」

 今度ははっきりと口に出し、明人は右後ろを見た。なぜそちらを向いたのかは分らない。ただ、そこにまたあの時のように、彼女がいる気がしたのだ。

 果たして北斗は、明人のほとんど真横まで来て並走していた。抜けばペナルティになってしまう。それでも彼女は明人のマシンの真横を走り、じっと明人を見ていた。バイザー越しには彼女のとび色の瞳は見えない。しかしたしかに彼女は、明人の目をじっと見つめていた。
 そしてそれを感じたとたん、身体中の筋肉を強張らせていた緊張が、融けて流れていくのを明人は感じた。すべての疑問が解けたわけではなかったが、少なくともいま、明人の中では北斗という人物がより確固たるものになった。

 彼女は同じとき、同じ場所で、明人と思いを同じくしていたのだ。そしていままた、彼女は何かを思い明人の横にまでマシンを並べてきた。その思いがなんであるか、明人にその真意を知る術はまだない。しかし彼女が当時の現場を知らない人々と同じ程度の考えでそこまでしたとは、思えなかった。
 何も言葉はなかった。誰も気付かなかったろう。テレビはずっとオランの事故現場を映していたし、観客もそれに釘付けだったに違いない。明人と北斗がしばし視線を絡ませたまま並走していたことに気付いた者は、誰もいなかった。



 オランが無事かどうか、それはどうしても頭の中に引っかかってずきずきと疼く。だがまだレースは終わっていないのだ。レーサーにとってレースが終わるのは、チェッカー・フラッグが振られたときだけだ。どこかで聞いたことのあるそれを、明人は生まれた時からそうしていたかのように、信じた。

 セフティ・カーが隊列を先導し始めて2周目、やっとオランはコクピットから助け出されて救急ヘリコプターに乗せられた。明人にとって朗報は、この頃になってオランが意識を取り戻したらしいことだった。
 この間にすべてのチームがピットインし、最初の給油とタイヤ交換を終えている。
『セフティ・カーがピットに戻るわ。タイヤを暖めておいて』
 まだ少し明人の様子をうかがうような声色で、エリナが言った。しかし明人はもう、つい先ほどまで胸中を渦巻いていた感情を静めることに成功していた。そのあいだ何も言わなかったがずっと心配してくれていたのだろう、エリナは黙って返事を待っているように思えた。
「わかった。……ありがとう」
 明人はそう言って、再び前方を見つめた。セフティ・カーの屋根に備え付けられた黄色のランプは、もう消えている。この1周が終われば、レースが再開されるのだ。

 主役のいなくなってしまったレースだ。もう何が起きても、観客たちは驚かないだろう。だからこそ明人は、自分のもてるすべての力を出し切りたかった。オランだってそれを望むに違いない。どんなにプライドの高いFAレーサーであろうとも、彼らが尊ぶそれは自分という誇りであり、同時にフォーミュラ・アーツという世界の誇りであるからだ。
 それを証明するために、残されたドライバーは今こそ最高のレースを見せなければないと、明人は思った。最も輝くべきレースで戦列を去らざるを得なくなった一人のドライバーのために、例えここにいなくとも世界中でこのグランプリの中継を見ている幾千万の人々のために、明人たちは彼が誇りとする「フォーミュラ・アーツ」を見せなければならなかった。



 明人はじりじりと速度を落とし、タイミングを見計らった。駆引きは既に始まっている。セフティカー・ラン後の再スタートは停車状態からではなく、走行状態から始まるローリング・スタートだ。
 セフティ・カーがピットロードに入れば、もういつ加速してもいい。しかしそれは先頭車、つまり明人だけだ。レース周回が再開されるのはあくまで次のラップからであり、コントロール・ラインを越えるまで前のマシンを抜いてはならないからだ。これは、明人に有利な展開である。

 明人は注意深く北斗のエキゾースト・ノートを聞いていた。それまでうかがってきた限りでは、彼女のC.7と明人のNF211ではギヤ比が微妙に異なるらしく、シフトチェンジのタイミングが若干違っていた。それを明人は狙っていたのだ。
 セフティ・カーがピットロードに入った。しかしもう、明人は前を見ていなかった。いや、視線は前方にあったが、全ての神経は耳に注がれていた。

 北斗のエキゾースト・ノートが最も低くなったときだった。明人は思い切りアクセルを蹴飛ばした。そのとき、北斗はもっとも低い回転数で走っていたに違いない。対する明人は彼女より1千回転ほど上だろう。その差は、スタート・ダッシュに現れた。
 1200馬力が炸裂し、噛み付くように路面を捉えたリヤタイヤがひしゃげるのが明人にはわかった。瞬く間に身体はシートバックに押し付けられ、視界の隅が歪む。バイザー上の小さなスピードメーターは狂ったように桁を飛ばし、あっという間に時速300キロを超えた。
 それでも明人の目は、バックミラーに釘付けだった。スタートで出遅れた北斗だったが、彼女のカヴァーリC.7に搭載されたFA最強のエンジンは、明人のスリップストリームに入ってから本領を発揮した。
『テンカワが好スタート……その差を詰めているのはカヴァーリ、ホクト。コントロール・ラインを越えればレース再開です。第1コーナーをご覧下さい!』
 アナウンサーが興奮して叫んでいる。しかしそれはエンジン音や風切音に遮られ、明人には聞こえなかった。

 ぐいぐいと間隔を縮めてくる北斗の赤いマシン。このままでは、コントロール・ラインを越えた途端に抜かれてしまうのではないか。彼女がピットインでセッティングを最適化してくるだろうことは予想していたが、あまりの速さに明人は驚いた。

 コントロール・ラインまで約200メートル、時間にすれば2秒だ。北斗がさっとマシンを横にずらした。すかさず明人もラインを変え、その鼻先を押さえる。そのままずるずるとピット・ウォール際にまで寄った。
 さすがに行き場がなくなった北斗は、しかしそれも計算ずくだったに違いない。彼女はピット・ウォールにぶつかる寸前に、明人のマシン後部を掠めるようにしてラインを入れ替えた。観客がどっと沸いた。
 再び明人はそれをけん制しようとしたが、今度は距離が近い。すでに北斗の前輪は、明人の後輪と並んでいる。そしてコントロール・ラインを、越えた。

 時速360キロ。1秒間に100メートルを疾駆するマシンのコクピットで、それでも明人はアクセルを踏みつぶさんばかりに叱咤していた。
 じわじわと赤い鼻先が明人の横に伸びてきて、強烈なプレッシャーとなる。しかし明人は、ついに訪れたオーストラリア以来の彼女との直接対決に、体内に湧き上がるアドレナリンも最高潮に達していたのである。
 第1コーナーの手前145メートル、50センチと違わず、明人と北斗は同時にブレーキを蹴飛ばした。セフティカー・ランで温度の下がってしまったタイヤは、その距離が限界だ。じわりとハンドルを切り込み、時速155キロに減速しながらの進入。明人の前輪の隣に、真っ赤に焼けた北斗のブレーキ・ローターが見えた。しかしそれは数センチたりともひかず、真横を保っているのである。
 視界にある彼女の赤いマシンから、彼女の声が聞こえるようだった。いや、それはもはや声ではなかった。禍々しいほどの気魄である。明人も同じだ。互いの存在はまるでそこにないようで、自分の走行ラインしか見ていなかった。

 第2コーナーは北斗がイン側だ。明人はタイヤが擦り減るのを覚悟で、オーバースピードのまま北斗に並びかけた。第1コーナーでは北斗がそうしたことが、分っていたからだ。
 続く第3コーナーは奥へ行くほどカーブがきつくなっている。それでも明人と北斗はほとんど同じタイミングでブレーキを踏み、今度は北斗が少しだけ遅れたものの、サイド・バイ・サイドのままで走りぬけた。
「くっそ…、この……っ」
 どんなに上手く走っても、北斗のマシンはぴたりと真横につけたまま動かない。どちらも同条件ではあるが、レコード・ラインを辿れない苛立ちに明人は毒づいた。だが、その苛立ちすらもいまは楽しかったのである。



 インフィールドの直線でも決定的な差はつかなかった。アウト側からかぶせるようにやや強引な進入をして脅しをかけても、彼女は一向に怯まない。それどころか逆に明人を押し出すかのように、立ち上がりはぎりぎりまで寄せ返してくるのだ。
 コーナーの多いところではじりじりと明人が前に出るのだが、長いホームストレートで北斗をスリップストリームに入らせないほどには引き離せなかった。
『なんてこった、この二人はまだ並んでいる! どちらも譲らないまま一周して戻ってきた!』
 アナウンサーが叫んだ通りだった。グランド・スタンドでどっちが先に戻ってくるか待っていた観客たちが見たのは、横並びのまま最終コーナーの向こうから飛び出してきた赤と黒の2台である。彼らは総立ちになって、耳をつんざく甲高いエキゾースト・ノートとともにあっという間に第1コーナーへと消えていく2台を追った。


 こうした競り合いを続けていると、通常はラップタイムが落ちて後続に追いつかれるものだ。しかし明人と北斗は逆だった。どちらかがミスをすれば即座に共倒れの可能性もあるのに、剃刀の刃の上を走るかのような正確無比なドライビングで、2人はさらに後続との差を広げ始めていたのである。

 そして再スタートから3周目の『ターン7』だった。緊張の糸が途切れたわけではあるまい。どちらも自らの限界で走っていた。この時点でまだドライバーとして明人の方が髪の毛一本ほど勝っていたのかも知れないし、或いはそうでなくともマシンにそのくらいの差があったのかも知れない。ついに、北斗が小さなミスを犯した。
 インフィールドで一番長いストレートに出るコーナーである。直線でスピードを乗せるためには、定石どおりにコーナーを過ぎてからアクセルを踏んだのでは遅い。明人は進入時に左足でブレーキを蹴飛ばすとともにハンドルを切り、一気に速度を殺しながら鼻先を内側の縁石に向けた。
 タイヤ幅の半分まで乗せると跳ねてしまうが、三分の二までなら最速で抜けられる。北斗がアウトにいるぶん、ほんの少しだけ速度修正をして、明人は縁石に乗る直前にはもうアクセルを踏み込んでいた。

 ここで北斗のC.7がバランスを崩した。彼女も同じように明人の外側を加速したが、そのラインが先ほどまでよりも数センチほど膨らんでしまったのだ。後輪が外側の縁石に乗った瞬間、彼女のリヤは思いがけない勢いで横に飛んだ。
 それまで息を詰めて観ていたのだろう、観客がわっと叫ぶ。
 リヤタイヤのグリップが抜けたカヴァーリC.7は、まさしく暴れ馬のようだった。ドライバーを含めても600キロしかないマシンを瞬時に時速300キロに加速させる強大なパワーは、たった2本のタイヤによって路面に叩きつけられる。そのタイヤも子どもの肩幅ほどもある巨大なものだが、それが滑りだしてしまうことによって枷を外された1200馬力のパワーは、たちまちその赤い身体を左右に捩じらせて北斗を振るい落とそうとした。

 小さなミスではあったが、それによってもたらされた被害は甚大だった。加速の鈍った北斗は完全に出遅れ、一気に明人との差が開いた。しかし北斗はそれにも動じた気配すらなかった。狂ったように暴れるマシンをハンドルの操作だけで一瞬のうちにねじ伏せ、再び明人を追いかけて加速したのである。
『ホクトが出遅れた! テンカワがこの劇的なバトルを制してトップに返り咲きました!』
 アナウンサーは我を忘れて絶叫していた。観客はもう3周も総立ちのままだった。そして明人がトップになってグランドスタンドの前を走り抜けて行ったとたん、彼らは爆発したのである。その歓声はコース上の明人にすら届くほどで、ここにきて明人はやっと自分が観客の前でレースをしていることを思い出したのだった。





 二回目の給油が終わっても、明人と北斗の差は変わらなかった。1.8秒に開いた両者の差は、0.1秒ほど前後しながらずっと保たれたままだった。北斗ならばこのくらいの差はすぐに詰めて、また二人のバトルになるだろうと誰もが思った。しかし、それはいつになっても縮まらなかったのだ。

 そして最後の給油も終わり、レースが最終局面を迎えようとしている頃だった。燃料が軽くなり、二人ともさらにペースを上げている。チームスタッフも、観客も、レースの主催者も、このまま明人が逃げ切って優勝してしまうのだろうと確信していた。
 明人自身もそう思っていたのである。タイヤの磨耗具合も悪くはなく、北斗が急激に追いついてくる気配もない。あと数周、自分がミスせずに走りさえすれば優勝に手が届く。
 もし優勝したなら、アルフレッドにどう知らせようか。そう考えた。レース中に優勝後のことを考えるのは縁起が良くないと分っていたが、明人はいま、オランのために勝ちたかったのである。


 そして運命の瞬間は、まさに最終ラップのその周だった。『ターン6』に飛び込んだ途端、明人はとつぜんハンドルがグニャグニャになったのを感じた。まったく曲がらないわけではないが、タイヤのグリップ限界がガクンと落ちたようだった。明人が咄嗟にブレーキを踏んでハンドルを切り足していなければ、コースアウトしていたろう。
 即座にその原因に気付き、明人は愕然とした。右フロントタイヤのパンクだ。バーストではないが徐々にタイヤの空気が漏れ出てしまう、いわゆる「スローパンクチャー」である。
 波乱の多いレースだった。コースのどこかに、回収し切れなかったカーボンの破片が落ちていたに違いない。
『なんてこと。明人君、右フロントタイヤの内圧が下がってるわ』
「わかってるよ!」
 エリナの声も震えていた。彼女だって愕然としているに違いない。それでも明人は、荒い口調で返してしまった。

 あと半周なのである。距離にすれば二キロほどしかない。時間ならば40秒とかからないのに。

 コーナーで負担がかかるのは、外側のタイヤである。左タイヤは大丈夫だから、右コーナーはそれほど問題ではなかった。だが、左コーナーは既に勝負にならない。ゴールまでに左コーナーは二つである。たった二つだが、ほんの1.5秒後ろにいる北斗に対してその二つは大きかった。
 明人の不調に北斗が気付かないはずはない。インフィールド唯一のストレートで、やはり立ち上がりでアクセルを踏めなかった明人に、彼女は一気に迫ってきた。ストレート・エンドは中速度の左コーナーである。インディアナポリスで最も右フロントタイヤの負荷が大きいコーナーだった。

 万事休すだ。ブレーキを踏んだのは明人のほうが数メートルも早かった。パンクしたタイヤが潰れ、ブレーキが効かないとわかっていたからだ。
 たちまち北斗が明人の横に並んだが、なんとかそのコーナーは抜かれずに済んだ。続く右のヘアピンは、明人も遠慮せずにアクセルを踏む。空力の効かない小さなコーナーでは、内側の前輪はそもそもほとんどグリップしていないからだ。北斗と明人は同時に加速し、また同時に減速した。左のヘアピンである。
 パンクしたタイヤがぐにゃりとたわむのが、ハンドルを通してはっきりと分った。次の瞬間、それはずるっと滑った。それが明人の限界なのだ。これ以上は、どうやってもアクセルを踏むことはできない。無理に踏めば前輪は完全に横滑りし、北斗の横っ腹に突っ込んでしまう。だがもしかすると、その心配すら必要なかったのかも知れない。北斗のC.7は明人のアウト側を走っていたのに、遥かに速かった。
 勝負はついた。コーナーからの立ち上がりで存分にアクセルを踏むことのできる北斗は、最終ラップでの大逆転劇を現実のものとしてしまったのである。明人に為す術はなかった。

 自分でも何と言ったか分らない罵声を吐いて、明人はカーボン製のモノコックに怒りをぶつけた。いや、怒りよりもいまは言いようのない悔しさだけが、明人の胸の内で煮えくり返っていたのだ。
『明人君、やめて! バーストするわ!』
 悲鳴のようなエリナの声がヘルメットの中に響き、明人は思わずアクセルの上にあった足を緩めた。目の前はオランがクラッシュした最終コーナーだ。ヘアピンと違い、空力が強力に効くコーナーである。
 慌てて減速しなかったら、オランの二の舞になっていたかも知れない。優勝のためならば無理にでも全開でいったかも知れないが、いまそれはもはや蛮勇にしかならないだろう。北斗との差は詰めようがないところまで開いていたのだ。




 頭上でチェッカー・フラッグが振られているのさえ、明人には見えなかった。ピットウォールの前を惰性だけで走りぬけると、どっと疲れが身体中を支配して、もうそのまま寝てしまいたい気分になった。時速100キロほどで走っているマシンを止めるのさえ、億劫に感じたのである。
 傷ついたマシンにもう1周させて車検場まで持っていく気にもならない。ピットロード出口の空き地に明人はマシンを停めた。エンジンの声高なアイドリングの音が消えると、猛烈な眠気が明人を襲った。

 何も考えられなかった。結局優勝できずオランに悪いことをしたと思ったが、そもそもそれはレース中に自分が妄想したことが失敗に終わっただけの話で、北斗に抜かれた悔しさに比べれば微々たる感情だった。
 それに、チームメイトが優勝を飾ったんだから、アルだって喜ぶさ。そんな思いを最後に、明人の意識は遠のいた。

 再び明人が目を覚ましたのは、それから数十秒後だ。たったそれだけの間だったが、明人はもう数時間も眠ってしまっていたように感じた。マーシャルが駆け寄ってくるのが見える。
 ハンドルを取り外して、明人はコクピットの中に立ち上がった。外したままだとペナルティになってしまうから、ハンドルを再び装置に取り付ける。その手順ももう癖になっていた。

 コクピットから降り立った明人は、草地に足をついたとたんにふらりとよろめいた。マーシャルが慌てて支えてくれたので転ばずに済んだが、今日の疲労はことさら酷かったらしい。ヘルメットを脱ぐ気力もなく、彼の肩を借りなければ歩くことすらおぼつかなかったのだ。
 しかし明人はそのとき、ふと誰かが自分を呼んだような気がした。
「いま、誰か呼んだ?」
 尋ねると、マーシャルは怪訝そうな顔で明人を見た。
「何を言ってるんだ」
 そう彼が言うので、明人は自分の空耳だったのだろうと思った。カヴァーリの優勝を称える歓声でサーキットは割れんばかりだ。オランは勝てなかったけれども、彼の属するチームは勝てた。これは褒め称えるべき事柄に違いない。

 だが、マーシャルはそんな明人の内心までも見抜いてしまったのかも知れない。明人の倍以上は生きているだろう、白髪交じりの髭をたくわえた彼は、にっこりと微笑んで言ったのだ。
「みんなが、お前さんを呼んどるじゃないか。アキト」
 そういわれて、やっと明人は真っ直ぐ立つことができた。わんわんと頭に響く観客の声を確かめようとしたのだ。重い腕をあげてヘルメットを脱ぐと、ついにそれははっきりとした言葉になって明人の耳に届いた。

『アキト! アキト!』
『ホクト! ホクト!』

 信じられなかった。信じられなかったが、とたんに涙が溢れてきて、明人は俯いた。悲しい涙ではもちろんなかったが、嬉しい涙でもなかった。努力が報われたと感じたわけでもなかった。20万人の人の声に、圧倒されてしまったのかも知れない。彼らの心までもが伝わってくるようだった。優勝できなかった悔しさも、嘘のように吹き飛んでいたのである。
 マシンを止めたときこそ一番頭が混乱していたと思ったのに、いまはそれ以上にわけが分らなくて、ただただ泣きながら笑うことしかできなかった
「格好良かったよ、あんた」
 老齢のマーシャルは、明人の肩をぽんぽんと叩きながら言った。
「――どこが?」
 まだ涙は止まっていなかったが、構わずに明人は顔を上げて彼を見た。

 どこが格好よかったというのだろう。最後の最後でけつまずいて優勝をふいにしてしまった、そのどこが格好良いというのだろう。明人は彼の言わんとすることがさっぱり分らなかったが、それでもこみ上げる笑みを抑えることができなかった。

「格好良かったさ」
 彼はそう言って、前方を顎でしゃくって見せる。
 明人がその先を見ると、そこには黒山の人だかりがあった。しかし、黒いはずである。ネルガルのチームスタッフが、明人を出迎えにピットロード出口まで詰め掛けていたのである。その中には、もちろんエリナの姿もあった。プロスペクターは、同じようにレースを走り切った赤月のことも考えてか、そこには居ない。それでも30人近い彼らは、驚いた顔の明人を笑顔と拍手で出迎えたのだった。










to be continued...


勝てませんねぇ……(笑)

 

 

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代理人の感想

勝てないですねぇ(笑)。

いい話ではあるんだけど、空気の読めない記者が「それでも負けは負けですが」とか失言したりして(爆)。

それはともかく、今回は今までで一番緊迫する話でしたね。

やっぱりこれくらいギリギリの展開がないと勝負は面白くないですよ。