FLAT OUT

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 世界三大レースの一として、また世界で最も有名な自動車レースとして、いまそれはスタートが切られようとしていた。ゴールは24時間先だ。速いだけでは勝てない、過酷な耐久レースは、その勇気を賞賛する歓声に見送られて始まる。
 明人は隊列の二番手にいるブリティシュ・グリーンのマシンに注目していた。それこそが親友ジロの駆る『スピード8』だからだ。
 ターボ・エンジン独特の少しくぐもったエキゾースト・ノートが唸りをあげ、最高速度だけに限ってはFAマシンをも超えるプロトタイプカーがまず加速した。

「明人、上から見てみる?」
 後ろからかけられた声に、明人が振り向く。そこには隣家の双子の一人がいた。
「やあ、サラ。アリサはスタート・ドライバー?」
「そう。山田さんのすぐ後ろ、6号車よ」
 同じ『スピード8』で親友と、そして仲の良い隣人が戦うというのは、とても面白い。そんなことを口にしたら両方からブーイングが出るのは必至だが、自分ならライバルは多ければ多いほど、そして仲が良ければ良いほどレースが楽しくなるのだから、二人には悪いと思いつつも明人はわくわくしていた。
「上って……屋上?」
「惜しい。もっと上」
 招待客の明人が観戦する場所は、VIPラウンジだ。明人が尋ねると、彼女は人差し指をぴんと立てて空を指す。アリサのパーソナル・マネージャーでチームでは広報を務めているというサラは、悪戯っぽい笑みを浮かべていた。



 もしや、と思った明人の予想は的中して、15分後、彼らはサルテ・サーキットの300メートル上空にいた。その少し上のほうを、テレビ中継用だろう、同じように2機ほどのヘリコプターが飛んでいる。
「大きいね」
「1周13.6キロあるからね」
 5月の予選日と、この決勝レースの週末だけ、サルテ・サーキットは現れる。そこに元々あるブガッティ・サーキットの施設を使い、コースを近隣の一般道にまで延ばして設置される、半市街地コース。それが、この伝統レースの舞台となるのだ。
「あ、ほら、あそこ。山田さんとアリサだわ」
 彼女の指した先を、ミニカーのような小さなマシンが二台、走っているのが明人にも見えた。件の一般道区間で、ずっと長く伸びた直線だ。途中にあるのは小さなシケインだけで、それが6キロもある直線を三分割している。
「昔はシケインがなかったんだろう? やっぱり速度が出過ぎたから?」
「そうね。昔は『テルトル・ルージュ』から『ミュルサンヌ』まで、本当にただの直線だったって。信じられる? 6キロのストレートよ。『グループC』の時代には時速460キロ近く出ていたもの」
 明人も「グループC」のカテゴリー自体は知っていた。現在のプロトタイプカーに近いマシンで、まだ規制が甘かった当時、1300馬力まで計れる計測器の針が振り切れるほどの出力を誇っていた。
 たしかに速く、FAと違ってエアロボディに覆われた流麗な姿は人気も集めたが、そのパワー故に大事故が何度も起き、現在のISPCが発足したと同時に消滅したのである。
「速すぎるのも考えもの、か」
「でも、今だってLMP1――アリサたちのクラスのクルマは、時速400キロを超えているのよ」
「……上からだと、そんなに出ているようには見えないな」
 明人の呟きなど無視するように、ブリティシュ・グリーンのマシンは同じくらいの間隔を保ったまま、長い直線をひたすら突っ走ってゆく。

 時速400キロという壁を破ること自体は、それほど難しくない。明人の駆るFAマシンも最高速度のみに特化したセッティングをすれば、理論的には時速500キロ近くまで出るだろう。
 しかし現実にはレースが開催されるサーキットにそこまで長い直線がないし、それよりFAマシンは驚異的な速度でコーナーを曲がり、時速360キロからでも150メートルで停止できなければならない。その性能を獲得する為に必要なのが、空力的にマシンを路面へと押さえ付けるダウンフォースだが、空気抵抗と表裏一体であるそれは、結局のところ時速400キロをひとつの壁とさせているのだった。
「心配かい、彼女が」
 訊くと、サラはちらりと明人を見て、困ったような笑みを浮かべた。
「心配と言えば心配だけど……気にしないようにしているわ。一応、あの子を信じているしね」
「じゃあ、なぜ?」
 なぜそんな顔をするのかと、明人は思った。サラの表情は、何かを憂いているようにしか見えなかったのだ。明人がそれに気付いたことに驚いたのか、サラは恥ずかしそうに笑みを漏らす。
「それは――ただ、どうして人はスピードを求めるのかな、と」
「ああ……それはまた根源的な質問だ」
「わかるの?」
「いや、わからない」
 明人がさらりと否定の言葉を述べると、サラは一瞬呆気にとられた顔をしたものの、再び眼下のレースに視線を戻した。
「最近、祖父が愚痴をこぼすのよ。世の中なんでもかんでも、はやいことはいいことだ、みたいな風潮だって。時間の無駄を省くというけれど、それが本当に無駄なのかどうか議論されたことはない、って」
「グラシスさんが、そう言ったのかい」
「ええ。あ、でもべつに明人やアリサを指して言ったわけではないわよ」
「だろうね」
 あの老人の孫に対する溺愛ぶりは、明人もよく知っている。今でもそれは変わらないようだが、アリサがレース界に入るのに一番反対したのも彼だった。それは単純に、危ないから、と。しかし同時に明人は、彼が非常に理性的な人間であることも知っていたのだ。

 サラは「ふぅん」と横目で明人を見ながら、やがてくすりと笑った。
「やっぱり知ってるじゃない」
「えっ?」
 明人は思わず聞き返した。そして、自分が彼女に何と言って返したか思い出す。
「まあ……ね。でもさ、僕たちレーサーが求めるスピードと、一般の人達が求めるスピードっていうのは、少し違うから」
「純粋なスピードと、そうでないものっていうこと?」
「まあ、そんなところかな。僕たちが求めるのはスピードそのもので、サーキットのラップタイムが全てなんだ。それに比べてふつうの人が求めるのは、スピードによって得られる利益。スピードは手段であって、目的ではない。些細なことだけど、グラシスさんはしっかり分かってると思うよ」
 実際には、レーサーもそれを求めることで食べているのだから、似たようなものだけど。明人はそう付け加えた。
 たぶんグラシス老人が言うのは、利益優先の世知辛い世の中への不満と、可愛い孫にいつ降りかかるか分らない事故の不安が一緒になったものだろう。もっとも、それについて明人がなんと言おうとも、それは気休めにしかならないのだが――。
「些細かしら」
「…………………」
 サラは、明人が本当はそう思っていないことに気付いたのだろうか。それとも、彼女自身がそれを感じたのか。明人は少し驚きつつも、何も言わずに小さな笑みを浮かべただけだった。



 四〇分ほどの空の旅を終えて地上に降り立つと、一気に熱気が戻ってきたようだった。空から見下ろすそこはまるでミニカーのレースのようで、そこに知人がたくさんいて忙しなく動き回っていることを知っていても、どこか醒めた目で見ていたものである。だがその只中に戻れば、やはり胸が高鳴るのを感じた。
「明人ってさ、けっこう抱え込んじゃうタイプじゃない?」
 唐突なサラの言葉に、明人は驚いて彼女を振り返った。双子の妹とは少し違った人懐っこさを持つ彼女は、「私の勘だけれど」と前置きをして言った。
「半分は祖父の受売りなんだけれどね。明人は、他の人が考えている以上にいろんなことを考えているもの。貴方と話すとそれをよく感じるの。でも貴方はあまり口数が多くないし、いつも相手を立ててしまうでしょう。だから思ったの。ストレス溜まらないのかなぁ、ってね」
 明るい言葉と裏腹に、彼女は明人の心配をしているようだった。
 ハーテッド一家が隣人となったのは、明人の父が事故死する二年ほど前のことである。サラ、アリサの姉妹とはその頃からの付き合いだったが、明人が国際選手権に参戦するようになってからは少し疎遠になっていた。彼女の言葉をとれば、たぶん彼女らはテレビでインタビューに答える明人を見てきたのだろう。
「そんなに無口かな」
「山田さんに比べればね」
 悪戯っぽく笑って言うサラに、明人も笑みを浮かべた。
 パドックはまだそれほど騒がしくはなかったが、そろそろ二回目の給油を始めるチームもある。それの邪魔をしないよう、二人はガレージには入らずトレーラーの脇にいた。
「まあ、ストレス解消の方法が無いってわけじゃないから。心配してくれてありがとう」
 明人が言うと、サラは少し照れくさそうに微笑む。
 コースを駆け抜けていくエキゾースト・ノートは、その音量の割りに心地よかった。少し汗ばむほどの暑さも、レースの熱気に比べれば涼しいくらいである。
 二人はしばらくそのままサーキットの喧騒に耳を傾けていたが、振り向いたのはサラだった。
「FAの方はどう? このあいだ、カヴァーリの人が事故を起こしたでしょう。大丈夫だったの?」
「ああ、両脚骨折はしたけど、ぴんぴんしてるよ。今季は絶望的でも、来季はまた乗るって。今ごろは義兄にこってり絞られてるはずさ」
 オランは思った以上に元気だった。あれからもう一度電話で話をしたが、義兄がわざと痛くすると泣きごとを言われたくらいだ。彼自身はもはやどうしようもないと割り切って、入院生活を楽しんでいるようである。
 しかし明人は、次に紡がれたサラの言葉にはっとなった。
「それは良かったわね。テレビで観ていたけど、とても酷い事故だったもの」

 ある程度この業界に詳しい彼女がそういうのだから、事故そのものはよほど酷かったのだろう。まるでそれを知らない人間のように明人がそう思うのは、実際に明人はその瞬間を見ていなかったからだ。
 オランのマシンが姿勢を崩したところまでは真後ろにいて知っているが、壁にぶつかった瞬間は録画テープでも見ようとは思わなかった。
「……レースをやっている以上はね。リスクは避けられないよ」
「そう、ね」
 マシンの安全技術が発達して、ドライバーが死亡したり重度の後遺症を負ったりといった事態は、年々減っている。それがあるからだろうか、サラの受け答えもそれほど沈痛なものではなかった。いや、どちらかといえば声色を落としたのは明人である。サラは、それに気付いた様子はなかった。





 レースが始まって二時間ほど経っている。ピットがにわかに慌しくなったのが二人の位置からも見て取れた。いつの間にかピットインの準備はできていたらしく、まずはジロの5号車が入ってきたのだ。
 10秒以内で終わってしまうFAと違って、補給するガソリンの量も多いプロトタイプは、ドライバーを交代して30秒弱で再び戦線に戻っていった。それから待つこと数分、清々しい顔でジロが二人のところにやってきた。
「まあまあのペースだな。アリサのやつもちゃんとセーブして走っているみたいだし。明人はラウンジで観てたのか」
「いや、サラと一緒にヘリコプターから観てたよ」
 ジロは全く疲れを見せていなかった。明人がFAで二時間も走ったら、へとへとになってしまうところである。いくら三人のドライバーで交代して運転するとはいえ、24時間という長丁場を走りきる彼らはたいしたものだと、明人は思った。
 それを言うと、ジロは当然の事のように笑う。
「そりゃあ、ダウンフォースの化物みたいなFAマシンに比べりゃあな。あいにく俺たちのマシンはコーナーで7Gもかかったりしねえし、ブレーキも300メートル手前から踏めばいいんだ。夜は眠くなるだろうけど、まだまだどうってことないさ」
 耐久レースというもの自体、昔はマシンに対してもっとシビアで、予選に比べて決勝はかなりセーブしていた。エンジン一つにしても、300馬力ほども落として使っていたそうである。それが最近はコンピュータでのシミュレーションが正確になり、機械の寿命も予測できるようになった。
 だからだろう、今は耐久レースと言えども、ドライバーはタイヤやエンジンをそれほどいたわることなく、毎周をタイムアタックでもするかのように走る。一人が二時間ずつ走るなら、24時間で12回のスプリントレースをしているようなものだ。
 技術の進歩は、そうやって目に見えない部分でドライバーの負担を増やしてゆく。サラの心配も、そこにあるのだろうことは明白だった。ジロにしろアリサにしろ、1レースを終えたら体重が5キロ落ちていることも珍しくないと言うのだから。
「あれでセーブしていたの? 貴方の性格なら、最初から全開かと思ったわ」
 しかし、そんな不安を表には出さず、サラはわざとらしく驚いてみせる。その横顔をちらとうかがってから、もっともだと明人も苦笑した。
「全開は予選だけだ。パワーもかなり落としているしな。燃費走行だよ。そうしないと24時間は走りきれないさ」
 ジロはレーシングスーツの上半分を脱ぎながら言った。7月のル・マンは、そろそろ長袖でいるには暑い。まして密閉されたコクピットで戦い続けている彼のインナースーツは、汗でびっしょりだった。
「でも、時速400キロだろ?」
「決勝じゃそこまで出さないよ。390くらいだ。FAと違って『殻』があるから、最高速は伸びるが………なにせ重いからな。まあ、それでも予選よりは楽だけど」
 その「楽だ」という言葉の中身は、ジロが一番よく知っているのだろう。明人は、それほど嬉しそうでもない彼の薄い笑みを、視界の隅に置くばかりだった。

 話しているうちに、再びピットがざわめいて、アリサの6号車が爆音を響かせながら戻ってきた。
 ドライバー交代とタイヤ交換、そして給油のピットワーク。役目を終えたタイヤは邪魔だとばかりに投げ飛ばされ、他のメカニックが受け取る。エア・ジャッキの圧搾空気を抜く音と同時に、『スピード8』は息を吹き返したようにひと唸りして、コースに戻って行った。
「あら、皆さんいらっしゃったんですか」
 結わえたプラチナ・ブロンドを解きながら現れたのは、サラの双子の妹、アリサだった。サラと違うのは、その髪の色もそうだが、北斗と似ていつも凛とした態度を崩さないところだろう。
「お疲れ様。次は――四時間後かな?」
 明人が声をかけると、アリサは少し考えてからふっと口元を緩めた。
「いえ、私は二時間後です。………作戦ですので、本当は部外秘ですが」
「あ、そうか。……失礼」
 言葉どおり、アリサとジロの役目はこれで終わったわけではない。何しろ24時間である。一人のドライバーが連続して4時間以上走行してはならないという規則にしたがって、各チームが作戦を練っているのだ。
「山田さん、もう少しペースを上げても良かったのではないですか?」
 アリサはジロを振り返ると、明人に向けた微笑はどこかへ捨て去って、淡々とした口調で言う。
「そうか? 後続はついてこなかったし、十分かと思ったんだが。ミーティングで決めたペースだったろ」
「そうですが………離せるうちに離しておいた方が、気が楽です」
 明人が知っている限り、アリサは冷静沈着に見えて意外に熱くなりやすいタイプだ。纏っている静かな雰囲気は、自由すぎるくらい自由な姉を見て育ったからかも知れない。
「じゃあ、次は飛ばすか」
「そうしましょう」
 あっさりと作戦を変えてしまうのもジロらしいと、明人は苦笑した。

 最近のジロは急に大人びて、戦略というものをしっかりと考慮するようになったのかと思っていた。彼が日本GPで明人の応援に駆けつけたときの会話で、少しだけそれを感じていた明人は、ここル・マンでもそれに感心していたのだ。
 だが、ジロはやはりジロだったらしい。一度火がつくと、何やら明人には理解できない根拠をもとに凄まじい熱意をもって突っ走る。それが明人の知っているジロなのだった。
「大丈夫なのかい、クルマは」
「安心しろ、明人。FAと違ってプロトタイプは頑丈だ。それにこの俺がステアリングを握る限り、壊れはしないさ」
「…………そう」
 半分呆れながら、明人も返す。すると今度はアリサが、やはり明人にだけ微笑を浮かべて言った。
「見ていてください、明人さん。5周で山田さんを抜いてみせますから」
「おい、そりゃ聞き捨てならねぇな」
「……二人とも、頑張ってよ」
 耐久レースには詳しくないが、まだ十分の一も終わっていないのにこれで大丈夫なのだろうかと、明人は思う。
 奇妙なコンビだよね、とサラに目配せをすると、彼女も常日頃からそう思っているに違いない、小さく肩を竦めてみせた。





 日が暮れ、24時間レースもナイト・セッションに入ると膠着状態になりつつあった。
 サルテ・サーキットが敷設される片田舎の国道に道路灯はない。あるのはコーナー部分だけだが、闇夜に浮かび上がるそれはドライバーの距離間隔をおかしくさせる。
 さらに悪いことには、夕暮れ時から降り始めた霧雨が、少しだけ雨足を強くしてサーキットを覆っていた。ヘッドライトで照らせる範囲などたかが知れている。前を行く車の巻き上げた水煙に乱反射して、視界は真っ白になってしまうそうだ。それでも彼らはアクセルを緩めることなく、時速400キロで走るというのである。
「よく怖くないね」
 レストランで遅めの夕食をとりながら、明人は呟いた。
「まぁ、意地だよ。意地で走ってるのさ。明人もそういうこと、あるだろ」
 ジロはそれほど気にかけた様子もなく、関係者のみが使えるそこで片っ端から料理をたいらげてゆく。フィジオ・セラピストが練りに練ったのだろう献立も、彼には意味がないようだった。

 この雨については、FAと同じように、ジロたちのチームも随分前から予想していたらしい。加えて、雨によって予想されるアクシデントにも対応できるよう、かなりの数の作戦を用意しているようだ。それをジロから聞いて、なるほど、FAよりも遥かに長丁場のレースに勝つには、たしかに速さだけではだめなのだと明人は思ったものだ。
 一方、さすがのジロも少しずつ疲れの色を見せ始めている。フェイスマスクの跡は赤くなって顔を縁取っているし、その内側も浅黒く汚れていた。

 意地で走ると言う彼の気持ちを、明人はよく分る。いや、たいていのレーサーは理解できるだろう。そんな経験無くしては、プロのレーサーにはなれないからだ。
 明人が黙っていると、ジロはちらりと周りを見やった。人は多いが、二人に注目している者はいないようだった。
「怖いさ、正直言うとな」
 小さな声で、彼はそう言うのである。
「ブレーキングの看板を見間違えていたらどうしようとか、俺の感覚と実際のコーナーが1メートルずれていたらどうしようとか……考えればきりがない。何も見えないからな。どうにもアクセルから足を離したくて仕方がなくなる時ってのは、あるよ」
 ジロの声は、明人が聞いたことがないほどに落ち着いていた。
 いつも高血圧気味な彼の口調は、時々そうやって静かになる。彼が本心を打ち明けるときだ。明人は不思議な気持ちでそれを聞いていた。

 明人はまだ、彼が言うほどの感覚に陥ったことはない。意地を突き通して走ったことはあっても、恐怖にアクセルを戻そうとしたことはなかったのだ。さすがに海の上や雲の中をFAマシンで走ろうとは思わないが、コースの上である限りコントロールしてみせる自信はあった。――少なくとも、コースが見えている限りは。
「そういえば明人、お前は雨のレースが得意だったな」
 ジロが言うので、明人は何のことかと思いながらも頷いた。
 濡れた路面は時速300キロにもなれば氷と同じで、暗闇ほどではないにせよ視界も悪い。それでも明人は怖いと思わなかった。むしろ雨のレースでこそ、明人は圧倒的に強かったのだ。だが、それは自分の腕と、そしてマシンに絶対の信頼を置いていたからでもある。
 しかしジロは、そんな全幅の信頼を今のマシンに置いている、という顔ではなかった。もちろん彼のことだから、100パーセントでないマシンを操るのもヒーローの宿命だと思っているのかも知れないが。
「パワーがありすぎるのか、シャシーがおっつかないのか………こう、水の膜が厚い部分に乗ったとたん、時速300キロでもホイルスピンしやがる。エアロもやたらと過敏で、変に姿勢を乱すと、あっという間にダウンフォースがなくなっちまうんだ。あとは運を天に任せるのみ、ってな」
 それを聞いて、明人は顔を顰めた。
「……『グループC』の教訓が生きてないね」
「そうさ。雨の日でなくたって、予選はいつもブレーキに左足を置いて走ってる。いつ吹っ飛ぶかわからないマシンさ」
 そこまで分っていてなお降りようとはしないジロの気持ちも、明人には想像がついた。

 FAも少し前から言われ始めている。速くなりすぎた、と。どんなにマシンの性能が向上して速くなっても、人間がそれについていけなければいつか破綻する。それは現実に『グループC』というカテゴリーでドライバーの命とともに証明されたはずなのに、いま、安全技術の発達を理由に再びマシンは速くなっていった。
「僕たちは損なのかな。それとも、得なのかな」
「なにが」
 明人がぽつりと呟き、ジロが怪訝そうな顔をする。
「世界最高の技術を、誰よりも早く自分のものにできる。速く走るために、我が侭を言い続けてる。一方で誰もが未知のそれを最初に試すことの危険。自分が耐えられるかどうかも分らないそれを、この身ひとつで証明しなければならない」
 明人が口を噤むと、二人とも黙りこくって窓の外を見つめた。
 窓の外に広がる薄暗がりの中を、時おり力強いエキゾーストの唸り声とともに、眩いばかりの青白いライトが通り過ぎてゆく。一台のときもあれば、何台かが連なって行くこともあった。ブレーキランプの赤い筋が幾重にも重なって、ぼんやりと窓に映った。
「……まぁ、それなりのサラリーは頂いてるけどな」
「………たしかに」
 ジロが茶化すように笑って言えば、明人もふっと笑みをこぼしてそれに返す。
 不思議なものだ。誰よりもそれを理解しているはずのドライバーが、実は結論を出せないままでいる。そしていつになってもそれは出せないままだろうと、明人は漠然と思うのだった。


 ちょうどそのときである。明人は目の前に立ち止まった子供に気付いた。赤毛で、褐色の瞳をした少年は、何かを言いたげに明人を見上げてそこに立っていたのだ。
「……なにかな?」
 言葉を和らげて尋ねても、少年が動く気配はない。明人はやっと、彼の手に握られているキャップに気付いた。
「サイン?」
 そう問い掛けると、やっと少年は頷いた。
 ここはル・マンだ。たぶんジロのサインが欲しいのだろうと思った明人は、少年の手からそれを受け取り、ジロに渡す。「『ガイ』はやめなよ」と耳打ちすると、山田二郎はふんと鼻を鳴らした。
「これでいいか、坊主」
 ジロが少年に笑いかけながらキャップを返すのを、明人は黙って見ていた。どこかに親はいるのだろうが、一人でこうして自分たちのもとを訪れている少年はどこか緊張した様子で、「ありがとう」という声も小さくて聞き取れないほどだ。だがその表情は、たしかに嬉しそうに綻んでいる。

 そんな少年の顔を見ながら、明人は、ついさっきまで胸の中に漂っていたもやもやしたものが霧散して消えていることに気付いた。
 少年はキャップを受け取り、立ち去るかに見えた。しかし彼は、再び明人の前に立ったのだ。そうしておずおずと差し出される同じキャップ。
「僕もかい?」
 明人は少し驚きながらそれを受け取った。明人はずっとフォーミュラ畑で、自分がツーリングカーのファンにはそれほど有名でないことをわかっていた。しかし少年は明人を知っていたらしく、問い掛けにこくんと頷いたのだった。 

 さらさらと動く明人の手を、少年は黙って見つめていた。それを横目でちらりと見て、明人はくすりと笑う。
「レーサーになりたい?」
 尋ねると、少年ははっと気付いたように明人を見上げた。でも何を答えるでもなく、少しだけ視線を彷徨わせながら考える。その表情の変化に、明人はさらに心が軽くなるのを感じた。――こういう子のためなら。そう思えたのだ。
「はい、どうぞ。失くさないようにね」
 二人ぶんのサインが日除けにひしめいているキャップを抱え、今度はちょっとだけ大きくなった「ありがとう」という言葉を最後に、少年は去って行った。
 その後姿をしばらく見送っていた明人は、ふとジロも同じように頬杖をついてそうしていたことに気付く。

 明人は父親が正にレーサーだったから、レーサーという人種そのものが雲上人というわけではなかった。ジロはそうでもなかったようだが、ヒーロー願望の強い彼は、サインを貰うというよりもむしろ将来の為にと自分のサインを練習するような少年だった。
 それでもやはり、最終的に自分たちをここまで導いたのは、子どもの頃から捨てることなく持ち続けた夢だったのだ。最初は小さな憧れだったのだろう、ついさっきサインを貰いにきた少年のように、ひとつの小さな興味が、いつの間にか人生を決めてしまったのだった。
「……まあ、いいか」
 ふいにジロが呟いた。明人もそれに小さく頷き、「うん」と言う。

 ジロの言うとおり、プロトタイプは相変わらず暴力的なまでに速い。FAもいずれその道を辿るのかも知れない。最高速度ではプロトタイプに軍配があがっても、実際に同じコースを走らせればFAマシンの方が遥かに速いのだ。
 安全性とスピードのジレンマは、未来永劫、消えることは無い。いや、消えてはならないものだ。ただ、根本的な解決策はいまだ見出されていないものの、明人はこれまでよりも少しだけはっきりと、その道筋が見えたような気がした。





 雨も止み、朝焼けに燃える空が本来の青さを取り戻してくる頃、長きに渡ったレースもクライマックスを迎えていた。トップは入れ替わり、アリサたちの6号車が先頭を快走している。ジロの5号車はナイト・セッション中にパンクを喫し、今は6号車から遅れること2分の差で、猛然と追撃していた。

 ジロは参戦三年目のISPCで、通算にして4回、優勝している。アリサはまだ優勝こそないものの、18歳という若さでトップチームに大抜擢された有望株だ。
 彼らのチームは一昨年のチャンピオンチーム、それが昨年V2を阻まれたとあって、今年はその雪辱を果たそうと誰もが固唾を呑んでレースを見守っていた。

 昨日の午前11時に始まったレースは、今日の同じ午前11時にゴールを迎える。どのマシンも真っ黒に汚れ、フロントガラスとライトだけが光沢を残しているばかりだ。中には他車との接触か、黒いタイヤ跡すらつけて走っているものもあった。そうして走り続けた距離は13.6キロのコースを実に430周、総延長にして5千キロ以上にも達する。


 それは情熱のたぎるサーキットに似つかわしくないほど、厳かな瞬間だった。太陽がアスファルトを白く照らし、そこを駆け抜けるマシンにもキラリ、キラリと映る。
 時計の針が11時を差そうとしている。ストップ・ウォッチの残りが最も速いマシンのラップタイムよりも少なくなった。
 ル・マンにおける勝敗の決し方は、他のレースと一風違う。最も速く走った者が勝つのは同じだが、それを決めるのはチェッカー・フラッグではなく、ストップ・ウォッチなのだ。二十四時間、時を刻み続けたそれがゼロを指した瞬間、勝敗は決する。

 トップを走るアリサの6号車と、二番手で猛追するジロの5号車。二台はちょうど三分ほど前に、5秒の間隔でホームストレートを駆け抜けていった。
 これはもしかすると、再びホームストレートに来た時にストップ・ウォッチがゼロを指すのかもしれない。その瞬間が、勝者の決まる瞬間だ。

 観客は皆、ミュルサンヌの森へ続く二重シケインの向こうを見つめていた。先に現れるのが6号車なのか、それとも5号車なのか、誰もが決着をその目で見ようとした。
 明人もそうである。VIPラウンジはあまりに上品過ぎて息苦しくなり、サラにねだって彼らのチームのガレージでその瞬間を待っていた。
 ストップ・ウォッチの残りは、20秒。遠くから聞こえてきた爆音は、確かに2台ぶんである。同じマシンだから、音も同じだ。どちらが先なのか、姿が見えるまでわからない。しかしそこにいる人々には、彼らの間隔がさらに狭まっていることが音だけでわかった。シフトアップのタイミングが、ずっと近付いているのだ。

 隣ではサラが、両手を合わせてじっとシケインを見つめている。
 どちらにも勝って欲しいと、明人は無茶なことを考えた。二人とも親友である。つき合いは同じくらい長い。ほんの少しの差があるとすれば、それはアリサにまだ優勝経験がないということだろう。

 5千キロを走りながらまだ一息の弱音も吐かない『スピード8』のエンジン音が、いよいよ大きくスタンドにまで響いてきた。観客は自然に立ち上がって、ピットの関係者ですらつま先で立つようにしてわれ先に勝負の行方を知ろうとしている。
 そしてついに、二台がその姿を現した。もとはブリティッシュ・グリーンのボディだが、汚れに汚れて前から見ると両方とも真っ黒だ。ゼッケンも汚れ、遠いそれはまだ見えない。
 横並びになるほどではなかった。彼らは縦に連なって、二つ目のシケイン、最後のコーナーに飛び込んだのである。

 残り、5秒。カーナンバー、6。明人にはそれがはっきりと見えた。二台の背後に熱い排気の陽炎が吹き上がり、エンジンがおそらくは最後の咆哮をあげる。ジロは最後の勝負と、最初からアリサの横へとラインを変えていた。そしてそのまま、明人たちの見守るピット前を駆け抜けていったのである。

 カチリ、とストップ・ウォッチが止まった。
「どっちだ、どっちが前だ」
 誰かが怒鳴った。ピットはしんとして、誰もがそれに対する返事を待っていた。指揮所とガレージ内のテレビに釘付けのまま、ストップ・ウォッチと一緒に時が止まってしまったかのような静寂が続く。
 サラも、そして明人までが、息を詰めるかのように言葉を待った。
「6号車! 6号車だ!」
 とたんにチームの半分が大歓声をあげた。アリサの担当スタッフである。
 悲鳴のようなサラの歓声が、明人の胸にこみ上げてきていたものに拍車をかけた。アリサの初優勝なのだ。ぴょんぴょんと飛び跳ねて喜ぶサラがそのまま飛びついてきても、明人は一緒になって喜びあう以外にその時の感情を表現する方法を思いつかなかった。

 トップの二台を追いかけるようにして、続々と後続車がホームストレートを駆け抜けてゆく。
 最後尾となったのは、明人の知らないプライベーターのマシンだった。こちらはいわゆるツーリングカー、市販車の改造レーシングカーで、いかにも手作りで作られたかのような外板が、リベットでとめられている。ジロたちのプロトタイプに比べるとたしかに遅そうだが、それでも二十四時間走り続けてゴールしたのだ。
「あのクルマ、ドアだけ違う色だ」
「ああ、あれ………レース中に他車との接触でドアがふっ飛んじゃったのよ。それでチームやスポンサー関係者の中から同じ車に乗っている人を探し出して、ドアを譲ってもらったんだって。一時間でどうにか取り付けて、またコースに戻ったの」
 そういう彼女の表情は優しい。明人も知らず口元が綻んだ。
「すごいね」
「私もそんな話を聞いたのは初めてだけどね」
 FAでは、そもそも一般の乗用車から流用できるような部品がないから、あり得ない話だ。それに、世界の頂点という自尊心に縛られた彼らは、あまりにスマートでないそんな対処はせず、少しはスマートなリタイヤを選んでしまうだろう。それを蔑む気はないけれども、明人はやはり、ル・マンを賞賛したいと思った。

 十分ほどして、ファイナル・ラップを走ってきたマシンたちが再びグランド・スタンドへと戻ってくる。スタートする前と同じように、二列の隊列を組んで、優勝者であるアリサがそれを従え――それはまるで儀式のようで、レースに参加した全てのドライバーが、このレースそのものを愛し、称えているのだということを、行動で表しているようだった。
 そして、コース脇までチーム関係者やマーシャルが出てきて祝う中、アリサのマシンが静かにチェッカー・フラッグの下を潜り抜けた。

 ふと明人が横を見ると、ちょうどサラが指で目元を拭ったところだった。彼女の気持ちがすぐに分ったが、だからこそ明人がかける言葉はない。
「いつもこう……涙が止まらなくて。去年も同じだったのに。前の年の夏から、この日に向けて頑張ってきたんだもの。勝っても、負けても……この二十四時間に、すべてが詰まっていたんだもの。ほっとしたら涙腺が緩んじゃった」
 そう言って彼女は、涙に潤んだ瞳を細めて、眩しいくらいに顔を綻ばせた。
「二人を迎えに行かないと」
 明人も微笑んでそれに返し、半歩下がって道を開ける。その仕草が意外だったのか、少し呆れたように笑みを浮かべたサラは、妹のいる車検場に向かってよろこび勇んで駆け出した。そして明人も、悔しがるジロを言葉だけでも励ますために、彼女のあとを追う。

 年間十八戦のFAと違って、年に一回のル・マン。ISPCは他にも転戦するが、二十世紀の初頭から続く伝統を持つル・マンは、これ一回きりだ。そのル・マンが、今年も暖かい拍手と歓声の中で、幕を閉じたのだった。










to be continued...



作中でのル・マンの勝敗の決し方は、ちょっぴり捏造です。
詳しくは、調べてみたんですが、分かりませんでした(あり?)
知ってる方、教えて下さい(笑)

ちなみに世界三大レースは、ル・マン、F1モナコGP、インディ500だそうです。

 

 

感想代理人プロフィール

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代理人の感想

おー。ガイが微妙に(ここ重要)格好いいなぁ。あとアキトも。

ところで読んでて気づきましたがレース場とそれ以外を行ったり来たりするこの展開、

ある意味仮想戦記とかに似てますね。

あれも戦場と政治や経済の世界を行ったり来たりするのが普通ですから。