FLAT
OUT
(13)
伝統の耐久レースが終わって、明人が一晩だけコヴェントリの自宅へ戻ったのは、淡くも鮮やかな緑が街を彩る初夏のことである。
重工廠があったために大戦中の空襲でほとんど焼け野原になったコヴェントリは、それのせいで現在はイギリス国内でも真新しい街並を呈している。そういう街は少なくないが、翌日から明人が訪れるのは、それとは全く対照的な土地だった。
何年か前に動物保護の観点から禁止になった狐狩りは、意外な副産物をあとに残した。あまり広くない国土にいくつも点在する、広大な牧草地がそれである。帝国時代からの貴族領であることがほとんどだが、現在は大部分がそのまま本当の牧草地になったり或いは自然公園になったりして、新緑のこの季節、そこを訪れる多くの人の心を和ませている。
そんな旧領の多くを現在も擁するイギリスの、夏の風物詩。たいていのイギリス人は、例えばエプソム・ダービーやウィンブルドン・テニス、或いは全英オープンゴルフを思い浮かべるものである。車好きな人々は、それにイギリスGPを加えるだろう。
そこに生まれ育った明人にとっても、それは子どもの頃から変わらず季節とともに思い出される一大イベントだった。
そしてそれにもう一つが追加されたのは、今から十数年前のことだ。ロンドンを経由しないで行けば、明人の住むコヴェントリから車で三時間ほどの距離。ウェストサセックス、チチェスターの丘陵地帯に佇むグッドウッドの地で、世界に類を見ないそのお祭り騒ぎは始まった。
開けた丘の中腹、青空の下に響き渡るスピーチは、明人の右耳から入ってそのまま左耳へと抜けていた。声の主は十五分ほど前から明人のよく知らない政治家のものになっていて、その頃から話もよく覚えていない。少なくともそれまでは、明人を招いてくれたこの祭典の主宰でありモータースポーツのよき理解者でもあるリッチモンド公爵のスピーチを、しっかりと聴いていたのだが。
グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードといえば、世界一の車の祭典である。これが新車発表会を寄せ集めたモーターショーと違うのは、少なくともその前面に商談が浮上してこないことだろう。
半世紀も前のマシンから最新のFAマシンまで、およそモータースポーツの歴史と伝統を網羅するかのようなこの祭典に、契約書と小切手はいらない。それが招待されたメーカーや個人たちの間に結ばれる、暗黙の了解である。
「あれ、誰?」
「知らないわ。プログラムを読みなさい」
「ああ………うん、無理だね。いま文字を読んだら寝ちゃうから」
小声でエリナと会話をするも、でっぷりとした老獪そうな政治家の講談は終わらない。
明人は斜め前に座っているよく見知った人物を見やった。燃えるような赤い髪が特徴の彼女は、こんな場に出るからと言って大嫌いなドレスを纏う気はないようだ。ライトグレーのフォーマルスーツがこれほど似合う女性というのも、珍しいことだろう。
北斗は、会場で会ったときからどこか不機嫌だった。何に苛立っているのか、常日頃の素っ気無い言動がいよいよ顕著になっていた。舞歌と、何故か駆り出された明人までが、彼女のご機嫌取りをする始末だったのである。
その甲斐あったのか、いま彼女はいつものように腕を組んで、じっとスピーチを聴いている。表情は見えないものの、身じろぎもせずに退屈な話を聞いているのはたいしたものだ。その我慢強さは見習わねばなるまい――と明人が思っていたら、とつぜん彼女の頭がカクンと前に倒れた。同時に隣に座っていた彼女のマネージャー、舞歌の肘鉄が、彼女のわき腹に決まる。
(ね、寝てたのか………)
我慢強いというより、そのやたらと肝の据わったところを見習うべきか。必死に肩を震わせて笑いを堪える明人のわき腹に、今度はエリナの肘鉄が入った。
記念式典が終り、建物の外に出た明人は思い切り伸びをした。見知った生まれ故郷の風土にごく近い南イングランドの雰囲気は、暖かいお祭り騒ぎをより優しく包み込んでくれる。少なくとも明人にはそう感じられた。
ほかのレースイベントと違うのは、とにかく空気がゆったりとしていることだった。そこにいる人々は心からモータースポーツを愛している人で、マニアのような恐ろしく深い知識はなくとも、マシンやドライバーに向けられるその眼差しが明人を嬉しい気分にさせる。たとえそれが自分を向いていなくても、だ。
今日のところは、ネルガルのブースでファンサービスをするだけである。あと三〇分もしたら、レーシングスーツに着替えてそこに行けばいい。明日は件の私設コースを使って、観客たちのためにデモ走行をする。ほんの2キロ弱なのですぐに終わってしまうが、これだけの雰囲気の中でハンドルを握れるというだけでも、明人はわくわくした。
だだっ広い会場の中心から少し離れた、これも広い一角が、ネルガルのブースである。そこにはかつて栄光を我が物にしたネルガル製のマシンが一挙に展示され、その中には明人の父、天河治己が駆ったFAマシンもあった。
ふっ切ったというほどはっきりとした区切りを、明人は自分の中に見つけてはいなかったが、父を乗せて散ったそのマシンを見ても異様に気持ちが昂ることはない。むしろ遠征から帰宅して久し振りに見上げる桜の樹のように、白地に赤いストライプのマシンは存外ひっそりと佇んでいた。
ふとその光景に違和感を覚えたのは、明人の心の錯覚であったのだろうか。どこからか父がレーシングスーツを纏って出てくるのではと思ったのかも知れない。そんなはずはないと苦笑しながら、顔をあげた。
そして明人の目に飛び込んできたのは、往年の名ドライバーではなかった。いま、明人が最も心惹かれているライバルとは真逆の、紺碧の髪を流した幼馴染が、そこに立っていたのだ。
「久し振り、明人」
「ユリカ……」
御統由梨花。明人にとっては幼馴染みの、二つ歳上になる女性である。世界屈指の財閥、御統グループの令嬢で、彼女の父親が総帥に就く前、まだイギリスに住んでいた頃、明人とは隣近所だった。
三年ほど前、それまでの人生の大半を過ごしたイギリスを発って彼女が日本に帰る段になっても、明人は彼女の名を漢字で書けなかった。
「……エリナさんは? 元気?」
「ああ………うん」
挨拶もそこそこに尋ねる彼女の口調は、相変わらず天真爛漫として明るく朗らかなものだ。だがその温かさを享受するには明人の心が離れすぎていることを、たぶん彼女自身も分っていたに違いない。そのきっかけとなった女性の名を口にするとき、彼女は少しだけ躊躇した。
「明人も立派になったよね。私、いまでもレース観てるよ。テレビだけど――」
「……ありがとう」
言葉は喉に絡むばかりで、明人の口にまでは上ってこなかった。あの頃のことを弁解するには時間が経ちすぎているし、たとえそれが誤解だったにせよ、今の明人には弁解することの方が彼女に対する不義であるように思えた。彼女の誤解と知りつつ放っておいたのは、やはり自分なのだから。
ネルガルの簡易テントに招くと、ユリカはたくさん置かれた在庫の商品に目を輝かせた。女性を喜ばせるような品々ではないように明人は思っていたが、ネルガルのレーシングスーツを着たテディ・ベアが、彼女の目を引いたらしい。ひとつ欲しいという彼女に、明人はあとで代金を支払うことにして、中くらいのものを渡した。
「サインはくれないの?」
悪戯っぽく微笑む彼女に、明人の気持ちも少しだけ軽くなる。
「いるかい」
「もちろん! だって明人は有名人だもの」
「ユリカもいずれはそうなるだろ」
彼女の家柄を考えれば、一人娘の彼女が有名にならないはずはないだろう。工業系のネルガルとは対照的に、情報技術を中核とする御統グループは、部門別で見れば世界最大の財閥である。
かといって、三年前の明人は彼女の後ろにそびえるブランドに臆したわけではなかった。もしそうなら、同じくらいの名声を得たいま、彼女との再会を純粋に喜べただろう。だがそうではなかったのだ。
明人は彼女を選べなかった。そもそも初々しい告白であるとか、そういったプロセスを踏んでつき合っていたわけではない。気付くと彼女が横にいたし、また気付かないうちに居なくなってもいた。
それが悪かったのかも知れない。目の前に求めていた道が開けたとき、明人の視界にはもはやそれしか映っていなかったのだ。出たり入ったりを繰り返していたユリカは、霞のように消えてしまった。
今思えば、ひどいことをしたと思う。どんな想いにせよ、彼女が自分に話しかけ続けてくれたことは事実なのだ。王子様やら何やらと多少夢見がちな話があったような気もするが、自分に夢を重ねてくれる彼女の気持ちが純粋に暖かかった。
在学中からジロに誘われてよくカートコースを訪れていた明人は、ネルガルのサテライト・チームからのスカウトを受け、ブリティシュF3.3に参戦した。そこでの実績から退学を決めたのが17歳でのこと。翌年にはユーロ・マスターズに昇格されヨーロッパ中を転戦することになったのである。その頃、既にユリカとは距離がつき始めていた。
「今日、着いたのかい」
「うん。明日の夜には日本に帰るよ」
テディ・ベアのかぶっている帽子にペンを走らせながら明人が尋ねると、ユリカもそれをじっと見つめながら答えた。
「去年は惜しかったね。絶対、チャンピオンになれると思ってたんだよ。最初の年であんなに勝ったんだし――」
「仕方がないさ。去年のクルマは神経質で扱いにくかったし、僕も緊張しすぎてた」
頻繁に連絡を取り合っているわけではない彼女とは、去年のこのグッドウッドで二年振りに再会した。自動車メーカー以外にも世界中のグローバル企業が協賛するこの祭典に、彼女は父親とともに招待されたという。まさに、思わぬ再会だった。
しかしそのあと、再び日本に帰った彼女と、明人は連絡を取り合うことはしなかった。いまさら何を話せというのだろうかという思いが、明人の心の中から彼女を押し出そうとしていたのだ。
そして、今年。明人は、エリナからこの祭典への参加を打診された時に、こうして再びこの地で出会うかもしれないことを予想していた。心優しい彼女のことだから、一年分の記憶から差障りのないものを選んで自分を気遣ってくれるのだろうことも。
「今年の日本GPもね、ほんとはテレビじゃなくてちゃんと観に行きたかったんだ。でもお父様の仕事が忙しくて……。すごかったよね、明人。どんどん引き離して……私、テレビの前で踊りたくなっちゃったもの」
「踊る?」
相変わらず突拍子のない彼女の言葉に、明人も思わず聞き返した。すると彼女は幼い頃そうしたように、ぷうっと頬を膨らませるのである。
「あっ、明人ってば、知らないでしょ。私、これでもダンス上手いんだから」
それはそうかも知れないと、明人は彼女の立場を思い出しながら考えた。巨大企業の令嬢がどんな社交性を必要とするのか見当もつかないが、なんとなく、ダンスなども教養のうちなのだろう、と。
「へぇ………日本に戻ってから練習したのかい」
言ってから明人は、しまったと思った。ほんの一瞬、ユリカの瞳の中に揺らめいた光に気付いてしまったのだ。しかし彼女はそれに気付かなかったかのように、「えへっ」と笑ってみせた。
「うん。でもね、大変だったんだよ。純君ったらすごく厳しいんだから」
「誰?」
「日本に帰ってからできたお友達。大学で知り合ったんだけど、すごく物知りだよ」
彼の両親もまた、彼女の父親とは懇意であるという。それを聞いて明人は、心の奥底に少しだけ不安と、歯痒さを感じた。
だが、明人にそれを指摘する資格は、もうない。それに、ユリカの人を見る目は案外正確である。なぜか昔からそういうことに関しては鋭かった。
「………明人が期待してるような仲じゃないよ?」
ジュン君はとてもいい人だけど、と彼女は言ったが、明人は彼女の言葉に意識を削がれていた。
もしそういう男性が彼女に現れたのなら、どうか幸せになって欲しいと、明人は考えていたのだ。彼女の言葉に少しほっとし、同じくらいがっかりした自分を認めて、いつの間にか表情が消えていた。
自責の念と呼ぶには身勝手な明人の沈黙を、しかし彼女は責めようとはしなかった。
「そういえば、明人」
彼女はいっそう朗らかな声で明人に言った。
「私の名前、ちゃんと書けるようになりましたか?」
先生が生徒に質問するように、彼女はわざと声色まで変えて尋ねた。しかし明人は、とっさに答えることができなかったのである。こんなところで唐突にそれを尋ねる彼女にとって、それがどれ程に大きな意味をもつか、一瞬にして悟ってしまったのだった。
「………ごめん」
明人は小さな声でそれだけを言った。するとユリカはまだ先生のつもりなのか、「だめですねぇ、天河君」と言ったきり、くるりと向こうを向いてしまう。明人には、その後姿を見る勇気さえなかった。
その夜、近くのホテルの一室で、明人はベッドに入って暗い天井を見上げていた。
思い出せば、ユリカという少女はいつも明人の傍にいた。明人が進んで傍に行ったわけではない。多くの場合、彼女が明人に寄り添っていた。それは彼女の父親が天河家と同じくコヴェントリの住宅街に居を構えていた頃、明人が英国F3.3の門を叩くまでであった。
初めて出会ったのは、それこそおぼろげな記憶しかないほど、幼い頃であろう。明人もどうやって彼女と出会ったのか、もう憶えていない。
父親に勧められて手を出したカートにのめり込み、日中はガレージで部品を弄り、夜はベッドの上で遅くまでカート雑誌を読み漁っていた。そんな生活の中にも、暇を見つけては遊びに来るユリカの無邪気な笑顔がちらほらと、思い出された。
『明人、いつまでそれ弄ってるの? ユリカと遊ぼうよ』
『だぁめ。これ、今日のうちに組み上げないと。明日使うんだよ』
明人が見向きもせずに返すものだから、ユリカはいつもするようにぷぅっと頬を膨らませた。幼い明人ですら気配だけでそれを悟れるくらい、それはユリカの決まった仕草だった。
『そんなこと言って、終わったことないじゃない。明日だって、いつもみたいに起きてすぐ行っちゃうんでしょ』
『そうしないと最初の練習時間に間に合わないんだから、仕方ないじゃないか』
そんなやり取りばかりだったような気がする。少なくとも明人が彼女を遊びに誘ったという記憶は、片手で数えられるほどしかなかったのだ。
ユリカは、巨大企業グループの令嬢だということを除けばごく普通の少女であったし、それなら彼女が当時いちばん親しくしていた明人とも、年頃の少女が好むような遊びをしたかったのかも知れない。だが明人は、やはり彼女よりも、初めて父親に買ってもらったカートのエンジンやボディばかり見つめていたのである。
『じゃあ、わたしも一緒にいくもん。今日は明人のお家に泊めてもらって、明日いっしょに行く!』
『そんなの、小父さんが許してくれるはずないよ……』
『大丈夫だもん。お父様、ユリカがちゃんとお願いすれば許してくれるもの』
頑なにそう言う彼女は、早くもそのエメラルド色の瞳を涙に潤ませているのだ。いつもお姉さんだ年上だと胸を張って明人に世話を焼こうとする彼女の涙に、明人はやはりいつも困った顔で見上げるしかできないのだった。
そして明人の人生に転機が訪れたのも、彼女と一緒に通っていたパブリックスクールの在学中だった。明人が事故で父を亡くし、数年後のことである。前の年から参戦したジュニア・カート選手権での好成績に、ネルガルのサテライト・チームからスカウトの声がかかったのだった。
『明人、今週も?』
『ああ。シルバーストンでF3.3の開発テストに参加させてくれるんだ。本コースだよ。父さんも走った』
カートで走るのは、専らカート専用コースである。その頃、明人は父の事故を乗り越え、再びハンドルを握ってその世界に身を投じていた。そんな明人にとって、かつて父も駆ったフォーミュラ・アーツが走る本コースを走れるということは、それだけで嬉しかったのだ。
『エリナさんと?』
『えっ? うん………そりゃ、彼女も来るだろうね。僕のマネージャー…の補佐だし』
唐突にユリカの口から出た言葉に、明人は驚いた。
エリナは今でこそ明人のマネージャーだが、当時は補佐役だった。実際は当時のマネージャーが、まだレース界では幼い明人の話し相手にでもと連れてきたようだが、彼女はそれでは我慢できなかったらしい。そのせいで、彼女のマネージャーとしての敏腕ぶりも発揮されてしまったというわけだ。
正直なところ、結果重視でやることなすこと隙のない当時のエリナに、明人ははやくも不安を感じていたのである。ほんの二歳しか違わないというのに、何を話すにも畏まって身構えている始末だったから、ましてユリカと彼女を天秤にかけるようなことは考えたことすらなかったのだ。だから、ユリカが尋ねた言葉が純粋に不思議だったのである。
彼女の天真爛漫な笑顔がどこか儚くなり、朗らかな口調がいつも明人の様子を窺うような声色を持ち始めたのに、明人は気付き始めていた。それでも何も言えぬまま、瞬く間に二年が経ち、ついに明人はユーロ・マスターズへの切符を手にしたのである。
『明人、退学するってほんと?』
少なくとも関係者以外でそれを最初に知ったのは、ユリカだった。しかし先に問いかけたのは彼女である。明人が言う前に、彼女は関係者の誰かから――おそらくはエリナあたりから――それを知ってしまったのだろう。
『……うん、そうだよ』
明人は彼女から視線を逸らし、答えた。
その一年間で、明人も彼女の想いに薄々感付いてはいた。およそ物事を包み隠さない彼女が何も言えずに、その澄んだ瞳だけが語ろうとする。明人とて、気付かぬはずはなかった。
『どうして? 明人、17歳で「Aレベル」に合格したんだよ? 大学に行けるんだよ』
彼女の言葉は問いかけというよりも、切実な願いのようだった。
『行ったとしても、結局休学することになっちゃうよ。今は、打ち込みたいんだ』
『なんで? だって明人は…………明人のお父様は………っ』
明人は初めて、ユリカの本当の涙を見た気がした。自惚れることが許されるのなら、それはたしかに彼女が自分のために流した涙なのだと悟ったのである。しかしそれでも、明人の思いは変わらなかった。
ユリカがそれまで通っていたイギリスの名門大学を辞し、日本へと帰ったことを明人が知ったのは、それから随分経ってからだった。
to be
continued...
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