FLAT OUT

(14)






 午前十時過ぎ、明人はネルガルの仮設ピットにいた。今日はデモ走行があるため、そこには現役のマシンはもちろん、新旧のチャンピオンマシンが所狭しと出番を待っているのである。
 明人の出走までは、まだ時間がある。木陰からぼんやりと眺めていると、突然「バン!」という炸裂音が弾け、驚いた鳥が一斉に飛び立った。ターボエンジン独特の、ミスファイヤの音である。エキゾーストの唸り声も力強くコースに飛び出していったのは、つい数日前、世界最大の耐久レースで優勝を飾ったマシンだった。
 ふだんは物静かなアリサだが、レースとは違うこの雰囲気を彼女も楽しんでいるのだろう。思い切りホイルスピンをさせて、向こうが見えなくなるほどの白煙を残しながら飛び出していった。
「俺が先で、お前はすぐあとか」
 出走順が書かれたシートを見ながら、北斗が呟いた。昨日からなにやら不機嫌そうな顔をしていた彼女だが、いまもその名残が少しだけある。彼女の仏頂面がいまに始まったことではないにせよ、憂さ晴らしの矛先が自分に回ってきそうであることを感じて、明人はそっと身を引こうとした。
「逃げるな」
 が、素晴らしいタイミングで伸びてきた彼女の手が明人の襟首をむんずと掴む。明人が恐る恐る振り返ると、そこにはいつにも増して不敵な笑みを浮かべる北斗がいた。



 ラジエターの空気吸入口から温風器で高温の空気を流し込み、温度が一定まであがったところで、エンジンは息を吹き返した。声高なアイドリング音とともに微弱な振動が背中に伝わってくる。その心地よい鼓動と狭いコクピット、バイザーに仕切られた視界が、明人に全てを忘れさせた。
 目の前で準備を整えていた北斗のカヴァーリC.7が、こちらはFAマシン特有の悲鳴にも似たエキゾーストノートを弾けさせ、飛び出していった。

『ここにいる客は皆、レースを観に来たのではない』
 北斗の言葉だけが、思い出される。
『モータースポーツという文化を、人類の英知と情熱の結晶を目の当たりにし、それが我々人類のものであるという事実に酔いしれるために来たのだ』
 彼女にしては珍しく、皮肉るような口調だった。だが、それは彼女の本心ではなかったろう。そんな簡単なことも分らないほど、レーサーとしての彼女はエゴイストではない。もっとも、そうするとやはり彼女の目的は憂さ晴らしなのだろうが。
『昔日に思いを馳せるのもよかろう。旧式マシンのシルエットがそれを思い起こさせるのなら、ましてその目でそれを見てきた者にとっては、なおさらだろうからな。だが、俺たちはレーサーだ。違うか、明人』
 いったいなぜ彼女が不機嫌だったのか、明人にその理由を推し量るだけの材料はなかった。
 核心に触れそうで触れられない、そんな曖昧な言葉しか交わせなかったユリカも、今は父親とともに会場を回っているはずだ。

 コースのまわりには、老若男女を問わずたくさんの観客が詰め掛けて、次々に走っていく歴代スポーツカーたちに手を振っている。
 走行は、タイム・アタックか或いはデモンストレーション走行のどちらかを選ぶことになっている。ちょうど明人も北斗も、デモ走行を選んでいた。
(じゃあ、ここは彼女の言うとおりにしてみてもいいか)
 明人はくしゃくしゃにこんがらがった頭の中身に嫌気がさして、単純に導き出されたそれだけを思った。

『――そこで、だ。俺たちが鎬を削り、命を削っているレースというものがどういうものなのか、ここで見せてやるのもまた一興だとは思わないか』

 いい加減鬱憤が溜まっていたのか、彼女の口調はそれがもう決定済みの事項であるかのようだった。明人は苦笑して、でも異議を唱えようとはしなかった。
『狭くないかい』
『モナコだと思えばいい』
 そのときの北斗の表情と言ったら、心底楽しそうだった。もちろん本当のレースでのそれとは違ったが、彼女にとって闘うことこそがレースなのだ。



 目の前に垂れ下がっていたスタート旗が除けられ、明人はアクセルを踏み込んだ。
 木陰のピットから瞬く間に陽光の下へと踊りだした明人のNF211だが、闘う相手を見つけてすぐにその足を緩める。スタート地点から100メートルほど行った場所に、深紅のマシンが待っていた。
 その真横に停めた明人は、隣の北斗を見た。彼女もまた、明人をちらりと見やる。そのヘルメットの下では、いつものように不敵な笑みを浮かべているのだろう。明人はハンドルから手を放し、人差し指を水平にしてくるくると回してみせる。
(――どうせなら、派手にやろう)
 その意味が彼女は分ったろうか。明人はステアリング上についている「TC」、トラクション・コントロールのダイヤルを「0」に合わせた。これで、タイヤの空転防止装置は今に限って休業を宣告されたことになる。エンジンの出力は一切の枷を会さずにタイヤに伝えられ、1速ならば容易にホイルスピンを起すだろう。
『……明人君、何をする気なの?』
 たまりかねたのか、エリナが無線で問いかけてきた。
「なんでもないよ。ちょっとレースをするだけ」
 そう答えて、明人はアクセルを半分踏んだ。背後のエンジンは寸分違わずそれに反応し、咽び泣くような雄叫びをあげる。同じように北斗のC.7からもそれが伝わってきた。エリナが何かを言っているような気がしたが、明人はそれを無視した。

 風に飛ばされたのだろう、誰かの帽子が草原の上を転がり、明人たちの数十メートル先のコースを横切ろうとしていた。赤いリボンをつけた、クリーム色の帽子だ。
 明人はそれをじっと見つめていた。同じように北斗もそうしているのが分った。横を見て彼女の視線を確認したわけではないのに、それがはっきりとわかったのである。

 まるで本当のレースのようだ。明人は周囲の音がだんだん鳴りをひそめ、逆に自分の鼓動がどんどん大きくなってくるのを感じた。ステアリングを握る手のひらがじっとりと汗ばんでくる。
 そしてついには、明人の意識から周囲の喧騒は消えてしまった。
 ゆっくりと、スローモーションのように転がる帽子。それがコースの端を――越えた。

 見物客の中に目のいい人がいたら、2台のリヤタイヤが一瞬ひしゃげたのが見えたかもしれない。それは瞬く間に自らの巻き起こす白煙に包まれ、見えなくなった。
 近年のラウンチ・コントロールが効いたスタートでは見られない、真っ白いタイヤスモークの中から飛び出してゆく赤と黒の2台。灰色のアスファルトの上に、真っ黒いタイヤの跡だけが4本、残されていた。






 夕方になって、明人をはじめ多くのゲストたちがそこを発つ時間が近付いていた。明人と北斗の即興レースは人々の喝采を得て、ネルガルとカヴァーリのブースにはいつまでもサインをねだるファンが押しかけていた。
 明人がエリナに頼んで少しの時間をつくってもらったのは、出発を一時間後に控えた夕暮れ時のことだ。人を探すためだった。とは言え、広大なこの土地のどこに目的の人物がいるのか、いくらなんでもしらみつぶしに探すのは無理である。だが明人には、少しだけ心当たりがあった。

 会場から少し離れた、高台。そこから見渡せる全ての土地が――それには地平線まで含まれているが――私有地だという。しかし明人がいま会いたいのは、二人を再会させてくれた公爵閣下ではない。再会した、その人だった。
「ユリカ」
 見知ったその後姿を見つけ、明人は声をかけた。もしかすると彼女も、明人がここに来ることを分っていたのかもしれない。振り向いた彼女の表情は、オレンジ色の夕陽に照らされて輝いているように見えた。
「覚えていたんだ、去年のこと」
 ユリカが嬉しそうに言った。しかしその笑顔は、普段の彼女に比べてとても儚く、明人の胸を苦しめた。

 去年、この祭典で再会したとき、誰かが気を遣ってここを教えてくれた。誰だったか、覚えていない。
 可愛いというよりも綺麗になったそれを、それでも明人は心の隅に追いやって一年を過ごしてきた。――今年に入ってからはとくに、彼女を思い出さなくなっていた。

「明人って、本当にレースが好きなんだね。あれを言い出したのって、明人でしょう?」
 北斗さんに、手で合図していたものね。彼女はそう言った。デモ走行での即興レースのことだ。
 あれは、と言いかけて明人は口をつぐんだ。言い訳をしようとしていたことに気付いたからである。いや、言い訳にこそならないだろうが、だからといってそれを訂正したところでどうなるというのだろう。

 レースは、明人とユリカが離れた理由だ。原因そのものは明人にあったが、ユリカ自身もレースに出る明人を心配していたのだろう。好意を寄せる相手の身と、その志。どちらを優先すべきなのか、明人の知っているそういう人たちは、常に悩み続けている。いや、ユリカに至ってはそれ以上に、その世界で父を亡くした明人を思って、悩んだに違いない。
 それでもいま明人は、レースを離れることなど考えられなかった。あの頃と違い今はそれが生業であるし、たしかに他のドライバーに比べて少し斜に構えた見方をしてはいると自分でも思うけれども、マシンと一体になって己の限界に挑む生き方を明人は満喫していた。そしてそんな明人を、ユリカも分っていたのだろう。
「わたしね、」と彼女は口を開いた。幼少の頃を懐かしむかのように、彼女はかつての快活な口振りではなく、優しそうな瞳に似合ったおっとりとした口調で話し始めたのだ。
「やっぱり、明人に甘えていたんだと思う。明人って昔から口数少なくて、でも目はしっかり前を見て、格好良かったから。ごめんね」
 意外なことを告げられ、明人は戸惑った。離れた距離のことを、決して相手のせいにはしない。彼女がそういう性格であったことを知っている明人は、最後の謝罪の言葉に胸が苦しくなった。
「でもね、私も気付いてたんだ。たぶん明人は、本当に自分の道を見つけたら行ってしまうんだろうな、って。明人はいつも優しかったけど、私が恋したのはそんな優しい明人の目じゃなくて、先を見据えて離さない男の人の目だったんだもの。だからね、それに気付いたとき、私はもう失恋していたの」
 そこまで言った彼女は、もう一度「ごめんね」と謝った。彼女自身も、それ以上のことを口にしたくはなかったのだろう。先に謝りながらも堪え切れなかったのだろうその思いは、一筋の涙とともに彼女の口から語られた。
「好きだったんだよ………ほんとうに。最初は、そんなところも全部、好きになれると思ってたの。ううん、全部好きだった。でも小父さまが亡くなって……明人のお父様は、私にとってもお父様みたいで、だからあの日、私だって頭が真っ白になっちゃって」
 そうだ。治己の死に取り乱すほど悲しんだのもまた、彼女だった。柩にすがって大声をあげ泣く彼女を、明人が引き剥がした。
 さらにぽろぽろと、ユリカの瞳から涙がこぼれた。
「そうしたら、駄目になっちゃったんだ。明人がいつかああなるのかも知れないって思ったら、駄目になっちゃった。ごめんね、明人。私、どうしても明人に、レースを止めて欲しいって思ってた……!」
 明人は何も言えなかった。彼女に自分がかけてやる言葉は全て、彼女にとって悲しいものになってしまうことが分かっていたからだ。

 彼女がもし彼女でなくて北斗だったら、もっとはっきりと言えたろう。おそらく北斗は、目の前の事実を受け入れることに関して、まったく動じないに違いない。何事をも自分の糧にしてしまえるような人間だった。
 だがそれは、この世界に生きる者にしか通じない理である。自らの命を的にして求めているからこそ、そうする価値を知っている。それを、そうでない者に理解してもらおうというのは、我が侭だ。
 ユリカは、あくまで後者なのだ。他の誰より明人を気遣ってくれたけれど、他の何より明人との絆を大切にしてくれるけれど、明人はどうしても、彼女に罪悪感ばかりを感じるのだった。
――北斗に対しては感じない、それを。

(………北斗?)
 思わず明人は自問した。
 いったいなぜ、こんなときに彼女を思い出したのか。その答えを導き出したとたん、明人の胸が異常に高鳴った。
 昨日から妙に不機嫌だった、宿敵カヴァーリのエースドライバー。マシンの差こそあれ、いま完調の明人についてこられるのは彼女だけだ。そしてまた、完調の彼女についていけるのも、明人だけだ。それは事実であり、自負でもある。
 むろん自身がドライブそのものを楽しむ気持ちも同じくらいに大きいが、それにはライバルが必要だ。互いに競い合い、互いを目標と出来るだけの強力なライバルが。
 自分は、記録を樹立するための機械じゃない。技術がどんなに進歩しても、それはスピードを追い求める人の心を癒しはしない。人であるからこそ、必要なのは人なのだ。そしてその人物は、目の前にいてたぶん誰よりも自分を必要としてくれた、ミスマル・ユリカではないのだった。



 涙のように揺れて輝く夕日が、地平線に隠れようとしている。周囲の陰はいっそう濃く、涼しい風が日暮れを告げていた。
「今でも明人のこと、好きだよ。明人、昔とちっとも変わってないから。ううん、磨きをかけたって言ってもいいくらい。だからね、明人。ずっとそのままでいて」
 遠くから、終わらないお祭り騒ぎが聞こえている。しかしそれが一瞬にしてかき消えてしまうほど、静かなユリカの声は鈴のように軽やかな音色で響いた。
「酷いこと言ってるってわかってるの。でも、私の最後のお願い。明人、明人はいつまでも変わらないで。自分の見定めた道を信じて歩き続ける、そんな明人でいて。そうしたら私、いつまでも明人に憧れていられるから。テレビで見ても、泣いたりしないから」
 胸が潰れる思いで、明人はそれを聞いていた。そこまでの想いを彼女にさせていたことを、明人は今の今まで気付きもしなかったからだ。それは彼女が別れの瞬間までひた隠しにしていたからかも知れないが、明人は気付こうともしなかった。

 彼女だって、強い女性だ。いつまでも自分への憧れを抱き続けると言っても、それが決して彼女の人生を縛ることはないだろう。二度と交わることのないであろう道の岐路に立って、彼女は前を向いて道を選んだのだ。
「……僕は変わらないよ」
 やっとのことで明人は、それを口にした。口の中が乾いていた。

 歳には敵わないから、いつまでもレーサーでいられる訳じゃないだろうけども――死ぬまで、自分が正しいと思う道を行く。口にはできなかったが、明人は本心からそう思った。はったりではなかった。それがたとえ失うものの方が大きい選択であったとしても、そうしよう。
 自分に嘘をつけなかったから、彼女を悲しませた。しかし彼女のためを思っても、間違ったことはしていない。ならばこれからも、そうすべきなのだ。こうして一つの区切りがついてから、一方的にその理由を覆すことなどできない。互いが互いの歩むべき道を歩もう。それが一度でも心を寄り添わせた自分たちの、絆なのだ。
「ユリカ」
 明人がはっきりとその名を口にすると、ユリカもじっと明人の目を見つめ返した。翡翠の瞳が揺れる。いや、そもそも翡翠とは、つがいを象徴する言葉でもある。ならば、彼女の瞳をそれと称することは、もはや明人にはできなかった。それに明人が映っては、いけないからだ。
「……ありがとう、ユリカ」
 自分でも頬の筋肉が強張っているのがわかった。なんとか笑いかけたつもりだったが、ユリカの表情が変わらなかったのを見れば、やはり自分も同じような顔でいたのだろう。
「………ごめんな」
 自分に嘘をつけなかったことではなく、ただ彼女を悲しませたことを、謝った。他の意味はない。明人は、自分の手で得たこの世界にこそ、求めるものを見つけてしまっていたからである。

 ユリカは少しのあいだ黙っていたが、ふいにその整った口元を綻ばせた。
「ううん。私こそ、ごめんね」
 そう言って彼女は、明人の手をとった。明人よりも年上の彼女が、自分がお姉さんであることを誇示したくて昔よくやった仕草だった。
「頑張ってね、明人。私、応援してるから。私だけじゃない、みんなの王子様になって」
 夕日は地平線の向こうに消えていた。藍色の空の下でユリカの頬に流れ落ちたものに、明人は気付かない振りをした。それに気付き、そんな明人をユリカが認めれば、今度こそ自分も堪えられないと思ったのだった。

 先に手を放したのはユリカである。しかし彼女はすぐに、それまでとは違った形で右手だけを差し出した。
「また会おうね、明人」
 ユリカの中で何かが変わったのを、明人は感じた。
「うん――また、会おう」
 明人は初めて、自分から握ったことのないユリカの細い手に自分のそれを重ねる。するとユリカは、かつての彼女がよく浮かべたような、花の咲くような笑顔を浮かべたのだった。










to be continued...



な、なんて普通人なユリカ。
そんなユリカの涙を見ながら北斗のことを考えている明人。
なんてヤツだッ!(爆)

 

感想代理人プロフィール

戻る

 

 

 

 

代理人の感想

・・・・男って奴ぁよぉ(笑)。

まぁそれを正直に口に出すよりはさすがにマシですが・・・・

え?比較するなって?(爆)