FLAT
OUT
(16)
三人は、施設内の個室に戻っていた。雪枝の部屋は、コヴェントリの自宅に残してある彼女の自室と同じ雰囲気がある。ここに入って明人はすぐ、自分の家のそれを思い出したものだ。
「相変わらず綺麗にしてるね」
明人が部屋の中を見回し、言う。看護士の話では、車椅子に座りながらの部屋掃除はもはや雪枝の日課となっているようだ。病床に伏せる前から綺麗好きだった母らしいと、明人は部屋の隅に立てかけてある箒と塵取りを見て思った。
「誰かさんが掃除の「そ」の字も知らないから、癖になったのよ。リハビリが終わっても、家に帰るのが怖いわ」
何年か前までのことをしっかり覚えていて言う彼女に、明人は少しだけ頬を染めてグラシスを見やった。その事実を知っているのは、ハーテッド家の人々とユリカ、それにジロくらいのものだ。
「今はそんなに汚してないよ……。あまり家にも居られないから、汚す暇もないしね」
家は人が住まないとすぐに荒れる。明人が居ない時はハーテッド夫人が家の世話をしてくれているが、それに加えて明人自身も、母がいつでも帰ってこられるようにとなるべく汚さないようにはしていた。
雪枝はふと本棚に目をやった。そこにはやはり、フォーミュラ・アーツの雑誌が並んでいる。他の雑誌や書籍もたくさんあったが、息子の世界を伝えるそれだけは、ベッドからでもすぐ手の届く場所にあった。
「相変わらず忙しいの?」
「まあ、ね。家に戻れるのは一、二週間に一度くらいなんだ。明後日にはまたフランスに戻るよ。今度はマニ・クールへ」
「また、って?」
「ああ、うん。このあいだル・マンにも行ってきたから。ジロとアリサたちの応援に」
アリサがついに初優勝を成し遂げ、ジロも僅差の二番手。明人はその足でグッドウッドに飛んだので知らないが、ハーテッド家の祝勝会は大変な盛り上がりだったらしい。
それを聞くと、雪枝の表情はさらに綻んだ。ハーテッド家との交流は深いし、山田二郎なる明人の親友も、三年も一緒に暮らしていたのだ。家族は増えれば増えるほど楽しいと、彼女も喜んでいた。
「おめでとうございます、グラシスさん。素晴らしいお孫さんだわ」
「なに、今回は運が良かったのでしょう。これからも常勝街道を走ってもらわねば、実力を証明したことにはなりますまい」
グラシスはイギリスの紳士らしく、女性を気遣い礼節を弁え、そして嘘を言わない。孫に甘いのも、決して盲目的なそれではなかった。優しく厳しい、「校長先生」であった。
「もらえるといいわね――『スピード・スター』」
雪枝は明人を見やって、微笑む。明人は口を開こうとして押し止まった。そして少し考え、照れくさそうに、一方で困ったように笑う。
「そう簡単に貰えるものじゃないよ。父さんだって………」
「毎年、ノミネートはされていたのよ?」
本心を言うなら、賞はどうでもいいのだ。貰えれば嬉しいだろうけども、貰えなかったとしても落胆はしない。そのために走るわけではないからだ。ただ、そんな些細なことでも母親を喜ばせることができるのなら、願ってもいいとは思うのだった。
「それで母さんが喜んでくれるなら、とるよ。それよりもまず総合チャンピオンだけどね」
明人にとって今は、その方が重要だった。『スピード・スター』は受賞者が居るのかどうかも分からない賞だが、総合チャンピオンは必ず年に一人、その座につくことができる。それは、その年もっとも大きな栄光なのだ。
「そうね。たくさんのライバルの人たちが、いるのでしょう?」
そう言った雪枝の言葉に、明人はそっと彼女の瞳を見る。それはどこか懐かしそうな、寂しそうな光をもって、膝の上に置いた彼女自身の手を見つめていた。
「いるよ………みんな強い。とくに彼女はね」
明人が静かに答えると、隣でグラシスが気遣うように明人に視線を送ったのがわかった。それも仕方のないことだろう。何しろ明人が口にした『彼女』は、明人の父、そして雪枝の夫を死に追いやった、そのドライバーの娘なのだ。
だが明人は、それについて雪枝がどう思おうとしているか、知っている。いつ頃から取り沙汰されるようになっていたのか、明人と北斗の因縁は明人がFAにデビューする前から彼女の知るところだった。元凶となった北斗の父親の名とともに、それを耳にした雪枝が気丈に振舞うのを、明人はずっと見てきたのだ。
明人は治己とは違う。北斗もまた。それが雪枝の弁だ。かつて幼すぎた明人は、父親としての治己はともかく、レーサーとしての治己を直接は知らなかった。だからそれは母の口から聞くしかなかったのだが、その彼女がそう言うのである。それが正であれ負であれ、親の感情を子供が受け継ぐ必要はない、と。
ただ、それでも治己と明人を重ねてしまうところはあったようだ。それは北斗の出現によって助長された。彼女は、明人が父親と同じ結末を辿ることを心の底から心配していた。
「大丈夫だよ。今のマシンは昔より遥かに安全だから。アルも、あれだけ酷い事故からピンピンして帰ってきたよ」
明人にはそのくらいしか、母の不安に対する言葉を見つけられない。
ピンピン、というのは大げさだが、アメリカGPでのオランの事故は近年稀に見る大事故だった。時速300キロを超える速度でコンクリートの壁にぶつかったのだ。事故時の速度だけを比べるなら、それは治己の事故よりも高かった。
いま治己と同じ規模の事故が起きても、ドライバーは死なずに済むだろう――それがFAメディカル部会の一般論となっている。それは図らずともオランの事故に証明されたが、それほどまでにマシンの安全性能は向上した。しかし明人は、それが絶対に自分に起こり得ないことだと、言い切ることはできなかった。
どんなに安全性が向上しても、それを土台にさらなるスピードを求めるのがFAである。例え完璧といえる状況ができたとしても、それは一瞬のことなのだ。次の瞬間にはまた、それ以上の安全性が求められるようになる。
結局は、ドライバーに委ねられるのだろう。強靭なマシンや有能なメディカルスタッフが彼らを助けてくれるのは、事故が起きてからの話だ。マシントラブルはともかくとしても、事故の寸前にそれを回避することができるかどうか、それはただ一人ドライバーに掛かっているのだ。
母を安心させるために、明人は思い出したことを口にした。
「――彼女は、とてもフェアなドライバーだよ。どんな時でも、バトルの相手に逃げ場を残してる。余裕があるからそうしているんじゃないと思う。本当に、どんな時でも彼女はそうするんだよ」
明人の説明に、雪枝は少しだけ驚いたようだった。それは父の仇の娘を擁護する明人の言葉になのか、或いは自分の中に思い描いていた北斗像との差異にであろうか。いや、それはおそらく、彼女の話をしながら自然に顔が綻んでいく明人に対してであろう。
「……彼女とのレースが楽しいのね、明人は」
明人は驚いて雪枝を見た。そんなに自分は楽しそうに話していたのかと、それなら母を心配させないためには少々不謹慎ではなかったかと、そう思ったのだ。しかし次に雪枝が笑みをこぼして言った言葉に、明人はさらに驚かされた。
「それとも明人は、北斗さんに惹かれているのかしら? レーサーとしてではなく」
ただ、息子の恋愛譚を見守る母親の顔で、彼女は言ったのだ。
「………どうだろう。彼女は確かに――他の人とは違うけど」
明人はそう答えた。
北斗と自分には、他のFAドライバーとの間には決して生じ得ない「絆」がある。それに気付いたのがアメリカGPだ。それ以前は、ともかく彼女こそ求めていたライバルであるという思いだけだった。しかしだからと言って今、いきなり彼女に惚れましたなどとは言えようはずもない。そんな想いを即座に抱き合えるほど、自分たちの間柄は背景が白くはないのである。
「単純に考えれば、魅力的な女性だけれどね」
ここで説明するには複雑すぎると明人が苦笑いして言った言葉は、雪枝に何を思わせたのだろうか。彼女は小さく微笑んだ。
「………今は、さ。自分の道を歩くことで精一杯だから。レースが恋人だって言われたら、返す言葉もないよ。それにグラシスさんにだって飛行機の操縦を教わっているし……時間が足りなくて足りなくて、しようがないんだ」
「……貴方は昔から、好奇心旺盛だったものね」
「そう?」
「そうよ。あれはなに、これはなぜ、って……私が答えても答えても、一向に質問は尽きなかったわ。今はいったいいくつ趣味を持ってるのかしら」
「うーん………そんなこともあったかも、知れないな」
苦笑いとともに言う雪枝に、明人も同じような苦笑で返すしかない。
雪枝の言う通りである。カートにのめり込んで一時はその癖も収まったが、エリナというマネージャーが事務を担当してくれることになってまたぶり返していた。趣味を増やしているという意識はないのだが、興味のあることに手を出していることは事実だ。その結果がまずグラシスとの飛行訓練というわけである。
数え上げればキリがない。エリナには身体を壊すと怒られそうなので内緒にしているが、親しいドライバー仲間は明人のそんな癖をよく知っていた。何しろ明人は、他チームの機密事項だと分っていてもつい尋ねてしまうのだから。
「なぜそんなに手を出したがるのかね」
不意にグラシスが口を挟んだ。彼は決してそれに否定的ではないものの、疑問であることには変わりないのだろう。明人は少し考えこんだ。
「……根本的には、本当にただの好奇心なんですが。たぶん、自由が欲しいんです」
「自由、かね」
それは、最近になってやっと自分でも分かりかけてきたことである。
「好きでレーサーをやってますけど、正直なところこれだけ知名度が上がっちゃうと、やっぱりプライベートもほとんど無くなりますから」
そう言って明人は、先ほどの雑誌を見た。
レースウィークはもちろん、明人が休日をどういう風に過ごすのか、素顔と言うには程遠いにせよ一般人なら他人に知られるようなことではない部分まで、明人は知られている。それは明人がデビューと同時にいきなりタイトル争いに加わって、その才能を知らしめてしまったからだ。
それを考えれば、北斗も同じような状況に置かれ始めているだろう。彼女の性格から察するに、そんな不躾な視線は不機嫌そうに一蹴するか、気にも留めないのだろうけれども。
街を歩いて道行く人々に一切振り返られることもないままFAマシンに乗れたら、言うことはない。だがそれは、明人が一番大切にしたいファンという存在が、許さないのだ。
「つまりストレス解消の一環だと?」
「うーん………ストレス解消のために始めたわけじゃあ、ありません。面白そうだから始めてみたら、ストレス解消の効果もあったらしい、ってところです。やるからにはちゃんとやらないと、その世界の人たちに失礼でしょうし」
「ふむ――君のその言葉は信用できそうだ」
レーサーではなく、パイロットとしての明人も知っているからだろうか。グラシスはさほど疑る様子もなく、頷いた。
「それで、自由は得られたのかしら?」
少し悪戯っぽく、雪枝が尋ねる。明人もおどけて、わざとらしく「う〜ん」と唸って見せれば、彼女はやっぱりとでも言う風に笑った。
「なんていうかね、『自由』の意味が変わったよ」
「自由の意味?」
「そう、意味」
これには雪枝も、グラシスも怪訝そうな顔をした。いきなりのそれを理解しろと言っても無理な話だろうと、言いだした明人でさえも苦笑を浮かべるだけである。
「例えば、FAマシンはトラックしか走れない。サーキットの中だけだ。あれで一般道を走るのは、法的にもマズいし、倫理的にもできない。あんまりうるさすぎるだろうからね。まあ、物理的にもほぼ不可能なんだけど」
「でしょうね」
息子が、まるで先生にでもなったように話し始めたので、雪枝は意外そうな顔をしながらも頷いた。
「だからと言って自分の車で一般道を走っていても、反対車線を走ることはできないし、制限速度もある。飛行機に乗っていても、まあ障害物はほとんどないけど、やっぱり飛行ルートや航空管制があって、思ったほどに自由じゃないんだ」
「ふむ……まあ、一人だけが空にいるわけではないからな」
グラシスもまた、雪枝と同じように頷くばかりである。明人はちらと二人を窺って、小さく息を吸い込んだ。
「そうでしょう。それらは全て、当然のことです。この世に僕だけが独りでいるわけではないですからね。でも僕は、その決められたルートを真っ直ぐ飛ぶだけで、自由を感じたんです。狭いサーキットを、決められたとおりに走るだけで。好きなときにハンドルを切れるわけでもない。飛行機だって、好きなときに加速して、好きなときに宙返りをできるわけでもない。それでもあの時、僕は自由だった」
グラシスはもちろん、母親の雪枝でさえ、明人の言っていることを理解できているようではなかった。しかし、明人の口は止まらない。他人に言わせれば口数の多くはないらしい明人が、それでも時折饒舌になるのは、思えばそれを心の底からそう信じているからなのだろう。知らないうちに、口が動いているのである。
「実行に移すことはできなくても、それを実現する可能性が、自由なんです。ここでハンドルを切れば、マシンは自分の手足のようにそちらに曲がる――コースアウトしてしまうかも知れないけれど。ここで操縦桿をひきつければ、これまでで一番綺麗な宙返りを打つことができるかも知れない――万が一上空に他の機がいたら危険だから、やらないけど。理由があるからやらないけれど、それは可能性としてできる。それだけで十分だったんです」
そこで明人は少し言葉を切った。
「現実には、やりたくてもやれないことの方が多いですよね。母さんも言ったように、僕はやりたいことがたくさんある。だから時々、もし自分がレーサーじゃなかったらって考えることもあるんだ。FAレーサーじゃなかったら、あれはできた、これもできたに違いない、って。でも、レーサーをやめようとは決して思わない。やっぱり、それが一番やりたいことだから」
明人は、我が物顔に自分の自由を満喫するつもりはない。時折の休暇をフライトクラブで過ごしているのも、他のプライベート――親友の応援にル・マンを訪れたことなどだ――に比べれば知っている人間はかなり少なくなるだろう。それは、一つにはそんなところまで詮索されたくないという思いもあったが、そうしたくてもできない人々に対する罪悪感にも似たものを感じるからである。
これは自分が努力して得た自由なのだから、と開き直ってもいいのかも知れない。しかし明人は、自分がそうすることのできる人間ではないと、知っていた。
初夏の程よく湿った風が、瑞々しい草の匂いを運んでくる。カーテンが時々はらりとあおられると、それは一層部屋の中を満たした。話の途中にしては長い沈黙だったが、それさえも不安を掻き立てないほど、暖かな空気だった。
筋道が見え始めたのか、グラシスは腕を組んで一緒に考え込んでいるようだった。雪枝はまだ驚きに満ちた顔で、自分の息子を見つめていた。
「色々試したいと思うこと、色々なものに興味を持つこと、それ自体が僕の自由なんだ。それは単純に好奇心と言ってもいいんだけど、僕にとってそれは可能性で、希望だった。僕の小さな希望が、僕の自由の灯火になったんだ」
もちろんそれは、世界中の全ての人が持ち合わせているべきものであるはずなのだけれど。明人はそう加えたが、それだけは少し儚い口調とともに言った。
「実現したいとは思わないのかね」
「現実に自らの自由を貫くってことは、とても難しいですよ。少なくとも僕には、そうです。自分の自由の為に他人の自由を侵すのはただの我が侭だし、だから僕が自分の意思を貫けば貫くほど、僕は孤独になってしまうでしょう。人は皆、違いますから。でも僕が我慢することで誰かの為になるのなら、僕の小さな自由の一つや二つ、どうってことないとも思えるんです」
「しかし、誰かの為と言い始めたらキリがないのではないか?」
「もちろん、それが価値ある意思なのか我が侭なのか、分からなければ譲り様もないですよ。それを判断するのは自分だし、その為には僕自身も正しい道を探し続けなければならない。それに僕だって、僕自身にとって大切なものは譲れない。それは誰しもそうでしょう。だから譲れるものを譲りあって、大切なものを守りあって生きたいんです」
半生を空に捧げた男を前にして、明人は彼を窺うこともなく、はっきりと告げた。しかし視線はすぐに、先ほどからじっと明人を見つめるままの母親へと向けられる。
沈黙が三人の間を支配した。グラシスは考え込むばかりで視線を落としているし、雪枝も明人を見つめてはいるが、その視線はどこか明人の中の違うものを見ているようだった。
「……正しい道とは、なんだと思うね」
グラシスが俯き、目を瞑って、尋ねた。
「人の道。人が人として生きられる道。人が自然に生まれて、自然に生きて、自然に死んでいける道………そこに何が含まれるべきかは、僕もまだ答えを出してないですけどね」
少なくとも自由は含まれるべきであろう。だが、明人のように自分の欲を達成することは、自然だろうか。自分の生きざまを否定されるのは怖いから、できれば含まれて欲しいのだけれども、成功者の影に失敗した人々が大勢いることは事実である。彼らのそれもまた、自然なのだろうか。
雪枝がふいに視線を逸らしたのは、すぐのことだった。表情を隠すかのように、という仕草ではなかった。涙を堪えるように、明人が見たこともない笑みを浮かべたのだ。
「母さん? どうし……」
明人は最後まで言い終えることができなかった。ベッドの上から手を伸ばした母に、抱き締められていたからだ。
とつぜんのことに明人も面食らったが、彼女が悲しんでそうしたのではなさそうだということが分かって、少しほっとした。
「明人――」
少しばかり涙交じりのその声が、明人の耳元に届く。自分の言葉はそれほどに彼女を感動させたのだろうかと、明人は怪訝に思うばかりだ。先ほど言葉にしたそれを自分が悟ったとき、得られたのは感動ではなく安堵感だけだったからだ。
どのくらいそうしていたろうか。やっと雪枝は明人を解放したが、自分の手の届かないところにはやりたくないようだった。病床に伏せってずっと細くなった手は、見た目よりもずっと強い力で明人の両腕を抱いていた。
「本当に明人は、あの人の子ね」
そう言う彼女は、やはり少し涙を滲ませた瞳で明人を見上げた。
「貴方のお父さんもそうだったわ。あの人は言葉にしなかったけれど――」
それを聞いて明人が思ったのは、ああ父もそう考えていたのか、ということだけだった。
最近になってやっと小さなコンプレックスを抱けるくらいには分かってきた、自分の父親である。いま明人は彼と同じフォーミュラ・アーツの舞台に立っているが、自分の姿に父を重ねて喜ぶ母親のために、明人は再び父のようになろうという思いが強くなった気がした。
――明人はそれを口にして聞かせてくれた。それが明人なのよ。
そんな雪枝の思いを、明人はまだ知ることはない。
雪枝は明人を放すと、それでも名残惜しそうに、明人の手をもう一度とった。
「あの人はね、本当にレース一筋だったから。心配していたのよ、引退後のこと」
「………父さん?」
明人が尋ねると、雪枝はにっこりと笑って頷くのである。
「今はどうか知らないけれど、あの頃のFAはどうやっても40歳くらいが体力の限界だったでしょう。あの人も三十五歳を過ぎてからは、時々心配してたの。レース以外に、明人に何を教えてやればいいんだろう、ってね」
父にとっては、引退後をどうやって暮らすかよりも、息子をどうやって育てるかということの方が心配事だった。それは以前にも雪枝の口から聞いて、明人は知っている。
子供との時間を多くとることが良い父親の条件であるとしたら、治己はあまり良い父親ではなかったろう。世界中を転戦するFAドライバーは、週の三分の二を留守にすることも珍しくはない。治己はそのことを心配していたのだという。
「……僕は、色々なことを父さんに教わったよ」
明人が言うと、雪枝はくすりと笑った。
「親が子供に教えたいと思うことって、どうやっても尽きないのよ」
ねぇグラシスさん、と彼女が言えば、グラシスも苦笑いして頷く。
「教えるべきことを口にせず、子に気付かせるのもまた親の役目だ。君の父親は偉大だぞ、明人」
それまで黙っていたグラシスだったが、何か思うところがあったのだろう。地上と空という二つの世界を行き来する男は、存外優しげな目で明人を見ていた。雪枝は彼の思惑を察したようではなかったが、黙っていた。
グラシスはふいに窓辺を見やり、椅子を立った。
「自らを認め、他を認め、そして護るべきものを護る。その全てを、本質を違えることなく遂げるのは、そうそう容易いことではあるまい」
自らを認めるというのは、FAのことだろう。他を認めることはつまり、明人がFAに限らずなんでも興味を持つことで証明されている。そして護るべきものとは――母のことだろうか。
「……グラシスさん?」
明人にはまだ、彼が父のことを言っているのか、明人自身のことを言っているのか、わからなかった。
「私も君と同じような若者を多く見てきた。彼らの目指した世界はサーキットではなく、この空だったが」
窓際に寄ったグラシスは、そこから空を仰いだ。
しかしその瞬間、明人には彼が、フライトスーツに身を包んだ往年の名パイロットのように見えたのである。いや、それに違いはないだろう。彼は実際にパイロットとして人生を過ごし、これからもまたその世界に生きていくに違いない。明人が見たのは、まるで現役時代に戻ったかのようにぴしりと背筋を伸ばして立つ、男の背だった。
見てきたものの数に比例して、その人の背中は大きく見える――そういえば父が、そんなことを言っていたような気がする。十歳に満たない明人がそれを理解するのは到底不可能だったが、いま、なんとなくわかった。
やがてグラシスは振り返り、すまなそうに笑った。
「大層な理屈をあつらえても、本心は皆同じだ。この空を飛びたい、とな。英雄願望など下らぬ。何かを欲して目指したのではない。他の何もいらないからと目指した童心のごとき純粋な思いこそが、彼らを羽ばたかせたのだよ」
「そう……ですね」
明人が考えながら小さく頷くと、グラシスは「ふむ」と微笑を浮かべた。それはもしかすると、彼がここに来る前に立ち寄った場所で――手塩にかけて育てた子が眠るその場所で、つくりたかった表情だったのかも知れない。明人はそう思った。
襟元にのぞく白い絹のマフラーが、きらりと光る。窓際に立つ男の背は、明人が昔見た父のそれに似て、広かった。
「どうも軍のパイロットというのは生真面目な人間が多くてな。いや、それで良いのだが……如何に技術が進歩したとはいえ、そもそも翼を持たずに生まれた人間がつくり上げた代物だ。生半可な気持ちで操縦桿を握れば、たちまち天罰が下る」
天罰というのは事故のことだろう。不時着で済むならいいが、墜落すれば助からないのが飛行機事故である。それはグラシスから何度も聞いていた。そしてそれはおそらく、現在のフォーミュラ・アーツにも通ずる。先ほど明人が操縦していたプロペラ機が離陸して、自在に飛びまわれる速度で、FAは狭いコースを走るのだ。
だからだろうか、少なくとも明人の知るFAドライバーは、根本的に真面目な性格の人間が多い。一番砕けているように見えるナオでさえ、サーキットに入ったとたんに雰囲気を変えた。
それは、求道者に共通する性質のようなものなのだろうか。明人はそう思い、グラシスを見る。しかし彼の表情は、苦々しいものに変わっていた。
「しかしな、どんなに人間的に優れているように見えても、落とし穴はあるのだよ。とくにそういった生真面目な人間ほど……自分が求めて止まなかったものを、突然奪われてしまったときに、な」
それをグラシスは目の当たりにしてきたに違いない。明人はそう思った。
「私の教え子でね。飛行時間も六千時間を超える大ベテランだった。空軍のトップ・ガンに輝いたこともある。三年前から開発局でテストパイロットをしていたのだが――設計上の欠陥から事故が相次いで、責任を取らされたのだ」
「設計上の欠陥で責任を?」
「それは後からわかったことだ。軍というのは、ともかく体面を気にする組織なのでね」
「………でも、分かったのなら濡れ衣じゃないですか」
「その通りだ。だが遅すぎた。軍を追われ、翼をもがれた彼は、一週間後に自殺した」
「………………」
「濡れ衣へのあてつけなどではない。まして引責などでもな。それは私が一番良く知っている。そんな馬鹿をする男ではなかった」
グラシスは少しだけ視線を戻して、言葉を失っている明人を見た。その表情がどこか悲しげで、また不安そうであったことに、明人は気付かなかった。明人は、人の死を表すその言葉に、思わず母の顔色を窺っていたのだ。しかし雪枝は、動じた様子ではなかった。
「誰が彼を自殺に追い込んだのか、それはこの際よろしい。問題は、彼が死を選んでしまったことだ」
続けるグラシスの声は、まるでそうして死んでしまった男に語りかけるかのような、恨みがましい声だった。明人には、グラシスがどれだけその男に目をかけていたのか、痛いほどに分かった。
「妻も、子供もいた。しかし彼にとって、空しかなかったのだろう。他に何も見えてはいなかった。翼を奪われた時が、彼の世界の終りだったのだ」
その話を、明人は無意識に自分と父に置き換えていた。もちろん、母親も。その状況が、とてもよく似ているように思える。結果として、明人と雪枝は残されたのだ。
そんな明人の心境を察したのだろうか、グラシスはふっと微笑んだ。
「君はそうはなるまい。そうだろう?」
「でも、いつかそうなるかも知れないという思いは胸にありますよ。僕も……母も」
「それはパイロットも同じだ。極限に挑戦しようとすれば、常に代償はつきまとう。こういう言い方は酷だが……幸せなのは、本望に命を散らしたその当人だけなのかも知れん。この歳でまだ操縦桿を放せない老いぼれの言うことではないが」
珍しく自嘲気味なグラシスに、明人は「いえ」と小さく微笑んだ。なぜならそれは、明人が胸の奥に仕舞っていた思いでもあったからだ。
自分がいま、レーサーとしての生命を絶たれるような事態に陥ったら――明人はそれを考えることはできなかった。今、明人はレーサーである。それは、恐怖でしかなかった。
だからと言って、レースの最中に死ぬことが本望だとも思えない。もちろん、コクピットに納まってしまうとそんな思いは消し飛んでしまうのだが、少なくとも冷静ないま考えれば、レースの他に興味を引かれることは山ほどあった。グラシスに師事して空を飛ぶのも、それだ。
今、レーサーを辞めるわけにはいかない。雪枝の療養費はもちろんだし、いくら去年一年間に一般的なサラリーマンの生涯収入を稼いでしまったとしても、貯金を切り崩して生きていくには若過ぎるだろう。それに、そんな現実を差し引いたところで、レーサーでなくなった自分など想像がつかなかった。
「……僕って、欲張りですね」
明人が苦笑して言うと、グラシスは呆れたように笑った。
「やっと気付いたかね」
「あっ、酷い」
雪枝も笑うが、すぐに真剣な眼差しに戻ったグラシスを見て、声は引っ込めた。もっとも、グラシス自身も含めて、そこにいた三人の表情から笑みが消えることはなかったのだが。
「……そんな君を育てたのが、君の両親なのだ。君は欲張りと言うが、正しい欲張りは人を育てる。明人、君はいまここにいる。母上の下に。君は自らの欲を満たしながらも、母上を忘れたことはあるまい。自分を見失ったことはあるまい。それは君が自分の欲の是非を正しく見極められたからだ」
少しだけ言葉を切ったグラシスは、雪枝をちらりと見やって、自信ありげに言った。
「それだけの判断をできる君を、ご両親は育てられたのだ。感謝しなくてはな」
彼の言うとおりなのである。自分が欲張りだと思うのは結局自嘲の範囲を超えなくて、本音はそれが間違っていないと信じている。だがそれは、やはり自分以外の人間に言えることではなかった。誰かが代弁しなかったら、一生明人の心の中にしかなかったろう。もっとも明人自身、それを誰かが代弁してくれることを望んでいたわけではなかったが。
満足そうなグラシスの言葉に、明人も笑みを浮かべて応えたのだった。
to be
continued...
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