FLAT OUT

(17)






 オランの代役としてカヴァーリがセカンド・ドライバーのシートを任せたのは、少なくともサード・ドライバーが昇格するのだろうと考えていた人間にとっては、意外な人物だった。
 彼らの想像どおり、レギュラー・ドライバーが怪我などで欠場する場合、ふつうはサード・ドライバーを兼ねたテスト・ドライバーが昇格するものである。もちろん例外はあるが、トップチームともなればサード・ドライバーといえども相当の腕前を持った人物を配し、磐石の体制を敷くからである。
 しかしカヴァーリが白羽の矢を立てたのは、彼らのドライバーズ・アカデミーを卒業したばかり、ようやくFAの一年目をセカンド・テストドライバーとして歩み始めた若者だった。
「それでは、ミスター・ハリ・マキビに質問します。ハリ、突然レギュラー・ドライバーに抜擢された感想は?」
 木曜の記者会見で、記者が尋ねた。ハリと呼ばれた青年は、緊張に顔を赤らめながら一人で壇上の席に座っている。
「はい、えー………とても、驚きました」
「嬉しいですか」
「それは、もちろん。………できれば代役でなく、正式にフルシーズン・レギュラーとしてデビューしたかったですけど」
 おっかなびっくり、という表現が一番似合っていた。今季最年少でデビューした北斗よりもさらに一歳若い彼は、まるでハイスクール生のようなあどけない表情を緊張に強張らせ、自分に向けてカメラのフラッシュが焚かれる度にびくりとしているようだった。
「アルフレッド・オランの療養が長引けば、今季後半戦のすべてを貴方が走る可能性もありますが、それについてはどう思いますか」
「……………………」
 ハリは答えに窮しているようだった。彼はまだFAの政治的な駆引き――その一歩である言葉の選択というものに、慣れていないのだろう。アルフレッドには早く良くなってもらいたい、僕は与えられたチャンスを最大限に生かせるよう努力するよ。そんな曖昧な言い方が、まだ彼にはできないらしかった。
「では、当面の自己課題として何を挙げますか」
 記者が質問を変えると、ハリは少し俯いて考え込んだ。少し間が開いたが、記者たちはじっと彼が口を開くのを待っていた。そしてやっとハリは顔を上げると、それまでのおどおどした雰囲気から打って変わって凛々しい表情で、言ったのである。
「それは、天河明人さんに勝つことです」
 場内がしんとなった。どこからかは苦笑も聞かれたのかも知れない。しかし彼のあまりに真剣なその眼差しに、記者たちも笑い出すことができなかった。





 フランスはヌヴェールに位置するサーキット・ド・マニクールの朝は、ぶどう畑の甘酸っぱい草いきれと言うよりは、どこからか漂ってくる堆肥の匂いで始まった。
 明人は先日のことを思い出していた。自分に勝つことが課題であり、目標であると豪語した青年。明人はその場にいなかったが、北斗もさることながらカヴァーリというのはとんでもない自信家ばかり雇うチームなのかと、妙なところで感心したものである。
 しかし、それだけならばまだ明人も戸惑いはしなかった。人に目標とされて嫌な気分はしないし、また新しいライバルが増えてわくわくしていたところである。
 問題は、そんな彼の自信がどうやら全ての方向に発せられているわけではないということだった。
 ハリ青年は、金曜のフリー走行が始まる前に明人を訪ねてきた。ちょうどそのとき、明人は北斗と彼について話していたところである。噂をすれば影であった。
「ハリ・マキビです。天河明人さんですね」
「あぁ……はい。よろしく」
 先にハリが手を出したので、明人はそれを握り返して挨拶をした。しかし当のハリはどことなくつんとした態度である。エリナから聞いていた気弱そうな雰囲気には、程遠かった。
 どういうことだろうと明人はちらりと同じカヴァーリの北斗を見たが、彼女は俺に聞くなとばかりにそっぽを向いてしまった。

 咳払いが聞こえて明人が慌てて視線を戻すと、ハリは瞬きひとつせずにじっと明人を見据えている。きゅっと引き結ばれたその口から次にどんな言葉が飛び出してくるのか、明人はいつでも後ずさりできるよう身構えて待った。そして、その口が開かれたのである。
「負けませんから」
 睨み付けるような眼差しでハリは言うと、もう用はないのかさっさと踵を返して行ってしまった。残された明人は、唖然としてその後姿を見送るばかりである。
「あー……、なにか嫌われるようなこと、したかな……?」
「知るか」
 困って北斗に問いかけるも、彼女の答えは相変わらずだった。




 そんなハリ青年の実力が如何程のものか、それは土曜の予選でその片鱗を垣間見せたと言えるだろう。マニクール・サーキットはスピードコントロールの微妙な複合コーナーが多いが、そこで彼ははやくも5番手につけてきたのだ。ポール・ポジションはスペインGP以来、久し振りに北斗が奪って見せた。
 明人の前では虚勢を張っていたハリだったが、そうでない時はやはりデビューしたての新人らしかった。グリッドでマシンに乗り込むときも、カチコチになっているようで動きがぎくしゃくしている。そしてその緊張は、スタートの瞬間に最高潮に達してしまったらしかった。
 ハリは、スタートで出遅れた。一方フロント・ローの明人と北斗は、危なげないスタートで順位を変えぬまま第1コーナーに飛び込んだ。一度レースが始まってしまえば、いかに明人とて数台も後ろのマシンを気遣うことは不可能である。それに明人自身も、すでに精神は北斗とのバトルに集中していた。

 しかし、このレースで意外な不調に見舞われたのが北斗だった。コーナリングは悪くなかったのだが、カヴァーリの持ち味であるはずの最高速度が伸びなかった。3周目、時速230キロで抜ける高速『エストリル』コーナーのあと、長いストレートの最後にある『アデレード』ヘアピンで、あっさりと明人に抜かれてしまったのである。さすがの彼女もブロックのしようがないほど、速度に差がついてしまっていた。
 その症状はハリも同じようだった。スタートで9番手まで後退してしまった彼は、その後もうまくペースを上げられず順位も変わらなかった。8番手を走るクロトフ・フォーミュラのバールが彼の行く手を塞ぎ、それを攻略しようと四苦八苦している状態だった。



 第2スティントからは北斗が盛り返したが、ハリはそれほど変わらなかった。レースも終盤に近づいた42周目のことである。すでに後方集団を周回遅れにしていた明人は、ついにハリの真後ろまで迫っていた。彼はなんとかバールを抜いたらしいが、今度は1秒ほどの間隔で逆に追い掛け回されている状態だった。

 それにしても、FAドライバーになって初のオーバーテイクというのは、感慨深いものである。明人も一年ほど前にそれを経験したが、それを機にやっと自分がフォーミュラ・アーツを走っているのだという実感を得るようになった。それまで雲上人の集まりであるかのように思っていたFAの中で、自分がやっていけそうだという自信が得られたのだ。――もちろんそれを人に言うのは癪だったので、言わなかったが。
 ハリもまた同じような感動を得ただろうかと、明人は少しだけ賞賛を送りたくなった。しかし今はまだレース中である。周回遅れにしようというマシンと、されるマシンでは、前者に優先権がある。そろそろハリには後続が近づいていることを知らせる青旗が振られ、道を譲る指示が出されるはずだ。

 ハリの前方に、青い旗が振られるのがちらりと見えた。だが、ハリの赤いマシンはどく気配がないのである。明人はおかしいなと思い、同時に彼がレース前に自分に対して言い放った言葉を思い出した。
『負けませんから』、彼はそう言った。
――まさか。明人は思った。
 いくら負けたくないという思いが強くたって、今はレース中だ。バック・マーカーはレース・リーダーに道を譲る義務がある。いつまでも譲らないと、ペナルティ対象になるはずだ。
 もしかしたら、緊張しすぎて青旗が見えていないのか。それも考えにくいことだ。たしかに時速280キロで走行中にコース脇の小さなそれを確認するのは難しいが、チームからその旨の無線連絡はあるはずだし、これが生まれて初めてのレースという訳でもあるまい。屈辱の青旗は、どんなカテゴリーでも存在する。
「どうなっているんだ? 譲ってくれない」
『ちょっと待って。抗議を出しに行っているわ』
 たまらず無線で言うと、エリナも苛立っているようだった。
 そのとき、ふっとハリのマシンがラインから外れたように見えた。やっと譲ってくれる気になったらしい、明人はそう思い、最終シケイン手前の右コーナーでブレーキを遅らせたのである。
 とたんにC.7が寄って来た。明人がそこに居ないと信じきっているような切込み方だった。明人はその気配を感じた瞬間、とっさにブレーキを最大まで強く蹴飛ばした。アンチ・ロック装置が働いても内輪は浮き気味になって回転が止まり、タイヤとアスファルトが擦れる嫌な音とともに青白い煙が上がった。
 そのときになって、やっとハリは明人に気付いたらしい。ぱっとラインを変えて、コースアウトするのではないかと思うくらい一杯に外側まで寄せた。
 なんとか接触は免れ、明人はハリを抜くことができたが、ハンドルに細かい振動が出始めた。タイヤの接地面の一部が擦れて削り取られ、フラット・スポットをつくってしまったらしかった。
 丸いタイヤの一部だけが平面になってしまっているのだから、その振動はタイヤを替えない限り続く。残るスティントが2周だったことが幸いしたが、明人は心の中でこういうとき特有のいやな苛立ちが渦巻いていた。




 レースは明人の圧勝、さらに赤月が2位に入り、ネルガルがモナコに続いて今季二度目のワンツー・フィニッシュを決めた。
 明人や北斗を見慣れている人々は、おそらくこのFAでの新人という人種がどういうものか、忘れてしまっていただろう。明人はデビュー戦でオランとデッドヒートを繰り広げて見せたし、北斗にいたってはポール・トゥ・ウィンを飾った。
 基本的には年契約であるFAのドライバーは、常にパフォーマンスを発揮しなければ来季への道は開けない。とくに新人は、期待されていればなお更で、人々が目を見張る活躍をして見せなければスカウトはさっさと他の候補者探しに行ってしまう。だから、並居る強敵を抑えてまずはシートを得ることに成功した新人は、今度は実戦で是が非でも自分を印象付けなければならないから大変である。
 ハリのデビュー戦は、そういう意味では地味であるどころか惨憺たる有様だった。スターティング・グリッドよりも後退してノーポイントに終わった挙句、レースリーダーでありチャンピオン候補でもある明人をもう少しでリタイヤにするところだった。

 レースが終わってそれを一番実感しているのはハリ自身だったろう。夕闇が迫る頃、明人のところへ謝りに来た彼は、傍から見てもわかるくらいに落ち込んでとぼとぼとやって来たのである。
「……すみませんでした、天河さん」
 先日の威勢とは正反対の弱々しいその声に、どちらかと言えば優勝の嬉しさのほうが勝っていた明人の苛立ちは、すっかり萎えてしまった。それに自我の強いこのFAでわざわざ自分から謝りに来たのだ。
 怒る気も失せてしまった明人は、それより彼がどうして自分を目の仇にするようにして宣戦布告してきたのか、それを聞こうとした。しかしそのときである。明人は視界の端に、つかつかとこちらに歩いてくる北斗を見つけた。

 北斗は二人の前まで歩いてきて、まず明人をちらりと見た。インディアナポリスの件もあったので、明人はその目配せが何を意味するのか、早合点しないよう注意深く彼女をうかがっていた。すると彼女はハリに向き直り、いきなり拳を振り上げたのである。
 バシッという音がして、頬を殴られたハリが吹っ飛んで尻餅をついた。
「ちょ、ちょっと北斗、ストップ!」
 ぎょっとした明人は、慌てて彼女の腕を押さえた。もっとも、彼女もさらに殴りかかるつもりはなかったらしい。冷たい眼差しでハリを見下ろしているだけだ。
 明人がハリを振り返ると、彼は頬を手で押さえて二人を見上げていた。子どものようなあどけなさの残るその目に涙を浮かべて、今にも泣き出しそうだった。
「いったい、どうしたんだ?」
「おまえも同じ目に遭ったろう。こいつは、バックミラーには何も映らないと思っているらしいからな」
 明人が尋ねると、北斗は憤然とした様子でハリを睨みながら言った。どうやらハリは、彼女をも妨害してしまったようだ。明人もこれには弁護のしようがなかった。一度ならまだしも続けて二度とは、両方とも接触なしに済んだのは奇跡だろう。
「周回遅れなら周回遅れらしく、道を開けろ」
 北斗が罵るようにして言うと、ハリはびくりと肩を震わせて俯いた。
 これはさらに自分が彼を責めるのは酷だと、明人は思った。ハリ自身も、北斗の強烈なパンチを手荒い歓迎だとは思っていないだろう。もっとも、そう思っていたとしたら相当図太い神経の持ち主だとも思ったが――。
「……いい加減に放せ、明人」
「えっ? あ、ご、ごめん」
 うんざりした北斗の声で明人は我に帰り、彼女の腕を放した。北斗はふんと鼻を鳴らすと、さっさとモーターホームに戻って行ってしまった。
「大丈夫かい」
 明人が言うと、ハリは小さな声で「はい」と答えて立ち上がった。頬が少し赤くなって腫れている。北斗を本気で怒らせないようにしよう、と明人は思った。





 カヴァーリはやたらと自信家のドライバーが好きなのだろうという明人の予想は、外れた。その後、ハリの傷心を癒すために食事へと誘った明人は、彼がまったく正反対の性格であることを知ったのである。
「……スタートしたら、少しは落ち着いたんです。でも、これがテストじゃなくて実戦なんだって思ったら、周りには他のマシンがたくさんいるんだって思ったら、走ることだけで頭が一杯になっちゃって……誰がどこにいるのか、全然わからなくなっちゃったんです」
 実戦経験が少ないのは、英才教育プログラム出身のドライバーにはありがちなことだ。明人や北斗は幼い頃からカートに馴染み、各種のカテゴリーを経てFAにまで昇格した、いわば叩き上げのドライバーである。そういった経験の差は、とくにデビューしたての頃に現れやすいのだろうかと、明人は思った。
「ハリ、レースにはどのくらい出場したんだい」
「……カートの草レースはいくつか。フォーミュラはユーロF3.3で一年走っただけで、マネージャーがカヴァーリのスクールに推薦してくれて……それ以降はスクールの傍ら、FAのテストに従事してました。公認レースは16戦しか――」
「レースを始めたのはいつ?」
「16歳です」
 明人はほうと息を吐いた。
「そりゃあ、すごいよ。大したものだ。16歳でレースを始めて、もうFAドライバーなんて。素晴らしい才能じゃないか」
 ふつうは僕たちみたいに5歳とか6歳から始めている人が多いのだけど、と笑いながら言う明人に、ハリの緊張も少し解けたようだった。「そうなんですか」と少しだけ顔色を取り戻して明人に聞き返した。
「そうさ、今日は最初だから少し戸惑っただけだ。予選ではあれだけ速かったしね。要するに、予選とそう変わらないんだよ、決勝も。もちろんライバルがたくさんいるけど、最初はあまり意識しない方がいい。動く障害物だとでも思ったほうが、ね」
 そう言って励ますものの、ハリはまだ不安そうな顔である。明人にも彼の気持ちはわかった。何しろデビュー戦である。カヴァーリは比較的長期的な契約をすることで知られるチームだが、遅いドライバーを引き留めようとはしないだろう。とくに新人にとっては、一戦一戦が評価の対象である。
「でも僕、次戦で乗せてもらえるのかどうかも、分からないんですよ。スタッフの人たちは気にするなって言ってくれたけど、あんな酷いレースで……」
 そうしてハリは、またその青い瞳に涙を溜めてしまうのである。

 こんなに弱気なFAドライバーは初めてだ。明人は困って、腕を組んだ。しかしその仕草すらも悲観的にとってしまったのか、ますますハリは小さくなって俯くばかりだった。
「いいかい、ハリ」
 やっとのことで明人は口を開いた。
「この世界で大切なことは、信じることだ。それは自分も他人も同じ。彼らが気にするなと言ったのなら、まずはそれを信じるんだ。彼らだって博打に君を起用したわけじゃないはずだ。この世界に、そんな余裕はないからね。それなら今君ができることは、何がある? 次のグランプリまで一週間、彼らの言葉の真意を探って時間を潰すかい? そうじゃないだろう。君は、彼らが目を付けてくれた自分を信じ、さらに気を遣ってくれた彼らに報いようと、努力すべきだ。確かに裏切られることもある。こういう世界だからね。でも今それを疑っても、答えを出せるわけじゃない。それなら悶々とする分だけ、君が損をしてしまうよ。だから元気を出して。余計なことは考えずに、次の戦いに備えるだけでいいんだ」
 明人自身、FAでの戦歴は一年と少しである。他のベテランドライバーからすればルーキーの範疇だろう。それで大きなことを言うのは気が引けたが、目の前の青年はいま、縋るような顔を明人に向けているのだった。
「ハリ、君はF3.3で走っていたんだろう。そこで君は、いったい何と戦っていたんだい」
 明人が尋ねると、それまでの言葉を必死に聞いていたらしいハリは、青い瞳をぱちくりとさせて明人を見た。そしてまた、考え込む。
「何、と……」
 それで答えが返ってこなくても、明人は彼を責めるつもりはなかった。間違った答えが返ってくるよりは、その方がいいからだ。
「……よく、分かりません。とにかく必死で……」
「それだよ、ハリ」
 明人が遮ったので、ハリは再びきょとんとした顔つきになった。
「必死になるってことは、つまり自分と戦っているっていうことだよ。確かにコース上にはライバルがいる。彼らと戦うのがレースだけれど、僕達だって何も四六時中レースをしているわけじゃない。ほんの一時間かのレースの為に、日々戦っているんだ。他でもない、自分と」
 強大なGに耐える為のトレーニング。空気を流れを感じるかのような鋭敏な感覚も養わねばならない。それにハリの言う通り、常にさらされている不安が、FAにはある。それはFA特有の政治劇であり、どす黒い感情の渦巻く舞台裏だ。
 ドライバーの契約は実力一つによると、建前はそうである。しかし現実に、資金難のチームはドライバーよりもそれにくっついてくるスポンサーを欲しがっているし、逆にトップチームは欲しいドライバーを手に入れる為には手段を選ばない。新たなドライバーとの契約を発表した後で、思い出したようにそれまでのドライバーを解雇するなど、FAでは日常茶飯事だった。
 そんな世界にいきなり放り込まれれば、誰でも戸惑いはするだろう。ハリだってレースをする以上、それは分っているはずである。自分と戦うことができないのなら、レースを戦うこともできない。しかしハリは戦って、自分と戦い続けることによって、カヴァーリの心を射止めたのだ。
「……僕は、FAでやっていけるんでしょうか」
 ハリが言った。それまでの消沈した雰囲気ではない。不安までが払拭されたわけではなさそうだったが、少なくとも彼の瞳にはいま、自分の未来を見つけようとする光が見て取れた。
「それを決めるのは君だよ、ハリ。まだ一戦しか走ってないんだ。自信を持つのは早いかも知れないけど、喪失するのも早い。やれることを全てやってから判断したって、遅くないさ」
 もし万が一、カヴァーリがドライバーの再交代を決断したとしても――。そこまでは明人も口に出さなかった。一度降ろされたドライバーが再び返り咲いて今度こそチャンピオンになるという夢が現実に叶えられるのも、またFAという世界だからである。
「まあ僕もまだ二年目のルーキーだからさ、大きなことは言えないんだけどね」
 そう言って笑うと、ハリもほっとしたように少しだけ笑みを見せた。

 ハリがある程度元気を取り戻したらしいことを確かめた明人は、しかし、やっと思い出したのである。なぜ彼がとりわけ自分を強くライバル視していたのか。それを聞きたいと思っていたのだ。
 どうやって切り出そうかと思っていると、それまでじっと明人を見つめていたハリが、ふいに口を開いた。
「天河さんって、いい人ですね」
「へっ? あ……ありがとう」
 ぽそりと呟くようにして言ったハリは、しかし明人の返事も聞こえていないようだった。何かを決意したような表情で、今度はテーブルの上を見つめているのである。そして彼は、明人をちらりと見てから、言った。

「僕は、ルリさんのことが好きです」

「……は?」
 突然の告白に面食らったのは明人である。何を言い出すのかと思えばいきなり想い人の話とは、明人にしても手助けのしようがない分野だ。そもそもFAに限らずこうした求道的な職人の道を歩く者は、そういった色恋沙汰に疎いことが多い。
「彼女は天河さんのファンなんです。だからこそ僕は貴方に勝って、彼女に認めてもらわなければならないんです」
「はぁ、それは………頑張って…」
 あり得ない話ではないと、明人はなんとか思おうとした。つまり彼は想い人を振り向かせたいらしい、それくらいは分る。しかしだからと言って明人が自分のファンに対して『彼のためにも、僕のファンをやめてください』なんて言えるだろうか。
 どうしようもなくただ生返事だけを返す明人に、ハリは構っているようではなかった。しかし彼がばっと顔を上げて告げた言葉に、明人はまたも驚かされたのである。
「だから、天河さん――男と男の勝負、受けてください!」
「お、男と男の……?」
 ハリの眼差しは真剣そのものだ。言っていることにも、嘘はないに違いない。だから余計に明人は混乱した。そしてやっと、彼が大変な勘違いをしているのではないかという結論に達したのである。
「ええと………勝負って言っても、それってつまり君の勝負であって、僕はあまり関係ないと思うんだけど」
 そう言うと、ハリは急に胡散臭そうな顔をして、テーブルの上にまで身を乗り出し明人の目を覗き込んだ。その勢いに明人は思わず上体を反らして逃げる。ハリは、さっきまでの消沈ぶりが嘘のようだった。
「なぜ僕の勝負なんです? 貴方にとってもこれは勝負になるはずです」
 明人は自分の予想が現実になりそうなことに溜息をつきたくなった。
「だって、ねぇ………その、ルリさんって、誰?」
「………………えっ?」
 今度はハリが間の抜けた声をあげた。

 夕食時のせいか、遅れに遅れた料理が運ばれてこなければ、二人はずっとそうして黙っていたかも知れない。目の前に突き出された皿に明人がびっくりして見上げると、ウェイターがなにやら不審者を見るような目つきで二人を見比べていた。
「ルリさんは、ルリさんです。ホシノ・エレクトロンの星野博士のご令嬢の――天河さん、仲良さそうに話してました」
「……ああ!」
 拗ねたようにむすっとしたハリに言われて、明人はやっと思い出した。
 ホシノ・エレクトロンと言えば、ネルガル・チームのスポンサーである。現在FAに参戦している全てのチームが、エンジンなどの電子制御にかのメーカーのシステムを使っているのだ。
 チームの広報活動で、明人も一度その会社も訪れたことがある。そう言えばそこに、あれが瑠璃色なのかどうか知らないが珍しい髪の色をした、人形のように可愛い女性がいた。挨拶をして、少しばかり言葉を交わしたような記憶も、あると言えばある。
 そうだ、星野博士がそのシステムに娘の名をつけたのだと、自慢していたじゃないか。
「ルリ・システムの…?」
「そうです」
 やっと合点がいって頷いた明人だったが、ハリは逆にますます胡散臭そうな表情をしていた。それを見て、明人はそれまでの疑問が解けたのである。
「なるほど、そういうことだったのか」
 明人が言うと、ハリは眉根を寄せて明人を睨んだ。
「そういうことなら、やっぱり君だけの勝負だよ。頑張って僕を打ち負かして、彼女に認めてもらうんだね。もっとも、僕も手は抜かないけど」
 その言葉に、やっとハリも感づいたらしい。しかしまだ不安そうな顔で明人を見るその表情に、明人も苦笑した。
「君は、好きな子のためにFAドライバーを目指したのかい?」
 尋ねると、ハリは驚いた顔をしてすぐさま首を横に振った。
「いいえ――僕が初めてルリさんと会ったのは、カヴァーリの養成スクールに入ってからのことですから」
 それを聞いて、明人はほっとした。それが表情に出たのかも知れない、ハリもまた明人をうかがうように愛想笑いを浮かべた。
「それなら話は簡単だ。君は徹底的に腕を磨いて僕に挑み、僕はそれを迎えうつ。それだけのことだよ」
 そう言って明人は、やっとのことでフォークを手にしたのだった。










to be continued...


やっぱりハリはハリだったのか……。
でもそんなハーリー君が好きです。(爆)

ちなみに、さらりと書いてますが、ハリ君の年齢は原作とだ〜いぶ違います。


 

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代理人の感想

劇場版ルリくらいですかね、イメージとしては。

でもまぁ、やっぱりハーリー君はハーリー君だと(笑)。

さすがにFAマシンでハーリーダッシュはやらないでしょうが(爆)。