FLAT
OUT
(21)
スカンジナビアの仕事から二週間。あと一週間ほどで、八月が終わる。新学期を前に子供達が、学用品などを揃えるのだろう、親に連れられて街を歩く姿が見かけられた。同じような買い出しから家に戻る車の中で、明人はそれを見ている。
「休暇も終わり、か」
そう呟くも、憂鬱な気分ではなかった。
レーサーは、ましてFAという世界の頂点となるカテゴリーのレーサーならば、まるで貴族のように優雅な生活をしているかのように思われがちだ。しかし実際には、そんなに優雅ではない。休みの日は優雅というより怠けているだけで、そんな休みも世間が思うほど長くない。
レースは基本的に隔週だが、連戦もある。テストも連戦の週以外はほとんどの週の火曜から金曜。時にはテストを終えてその足でレース開催国へ飛ぶ。
それだけでも休みがないのに、やっていることは常に限界への挑戦だ。タイムアタックをする時は脈拍が230にも達するし、テストではレースの倍程の距離を走ることもしばしばである。
だから、たまの長い休みは身体を休めるだけで終えてしまうことが多いのである。
一方で、そんなドライバーを支えるチームスタッフたちの疲労も並大抵ではない。とくに現場スタッフは、レースの週の火曜には現地入りしているから、連戦ともなれば二週間は家に帰れなくなる。もちろんその間中、寝る間も惜しんでピットの設営からレース運営、撤収等全てを人力で行う。それこそ「過労死か家庭崩壊」は眼前まで迫っているのだ。
そんな現場のために、FAの主宰者である世界自動車連盟は、夏休みを設けることにした。とは言え、FAの競技規則書に「夏休みをとらなければいけない」と書いてあるわけではない。そうではなくて、八月の三週間をテスト禁止期間としたのである。同時にレースもこの期間は開催されず、現場の人間は、少なくともその間は家に帰れる日々が続くという寸法である。
実際には休みの前と明けにレースが入るから、実質的な休みは二週間と少し。それが終わろうとしている今、明人の心はシーズンが始まる前の平静を完全に取り戻していた。
休みの前、北斗と舞歌に本心を打ち明けたのは、数日して思い返してみても間違ったことではないと思えた。誰かに知って欲しいという気持ちは、全く無かったといえば嘘になる。北斗がそれを受け入れてくれたことは、むしろ明人を元気付けてくれたのだった。
休暇の序盤はほとんど毎日フライトクラブに通って、一気に飛行時間を伸ばせたのは良かった。自分で実感はなくとも、グラシスに言わせれば目を見張るばかりの上達ぶりだという。クラブの仲間はおろかグラシスまでが自分用に一機買ってはどうかと勧めるし、しかもなまじ小さなプロペラ機くらいなら買えるくらいの報酬も
ネルガルから貰っているものだから、衝動と戦うのは大変だった。
しかし、もともとお金の勘定に臆病だから、契約や財務のほとんどをエリナ任せにしてしまっているのである。加えて、フライトクラブに通っていることはネルガルチームには秘密だ。現在の契約条項には入っていないものの、いつ怪我をするとも知れないそんな趣味を彼らが知れば、禁止されかねないからである。明人の本業はあくまでネルガルのファースト・ドライバーであって、明人もそれを望んでいるのだ。
明人自身もカタログを捲るのは楽しかったが、「いつか」という夢が広がっただけで、今回はよしとしたのだった。
また、後半は雪枝が家に帰ってきたので、家族の時間を過ごすことにそれを費やした。施設でいつも母が頼りにしているというフィリス・クロフォード女史が一緒に来てくれて、下半身が少し動かせるようになってきた母の介護法を教えてくれたりした。
休暇も最後の週になれば、毎晩のようにパーティである。まずナオとミリアの夫妻が押しかけてきて――彼らはひと月に一回はそうしている――、次の日はナオに呼ばれてハリが来た。明人の休暇を知っていたジロも夕食前には着いたし、それに赤月とエリナまで訪れ、ハーテッド一家が加われば天河宅は人で溢れかえる。
それでも明人にとってどこか小さな隙間を感じるのは、一番招いてみたい人物を結局招くことができなかったことだろう。ナオも彼女を毛嫌いしているし、母のこともある。晩餐の卓に、鮮やかな朱髪は見られなかった。
明人が半年振りに二週間以上続けて使ったベッドを出たのは、八月最後の水曜だった。翌日からは再びフォーミュラ・アーツのドライバーとしての生活が始まる。残すところ6戦、クライマックスを後に控えた夏休みは、今年に限って言えば嵐の前の静けさだろう。
必要なものを揃えに出たコヴェントリの街中で、期待と不安の入り交じった表情の子供たちをずいぶんと見かけた。おそらく今秋入学の一年生だろう。
明人はいま、FAの二年生である。子どもたちの通う学校と違って、FAのカレンダーは一月一日に始まって、大晦日に終わる。明人のFAデビューが決まったのは、ちょうど二年前のこの時期だった。ユーロ・マスターズで一回リタイヤを喫しながらも他は全て圧勝、誰もがFA昇格を確信していた。
FAドライバーとしてネルガル・チームと契約した時、明人にはそれが、いよいよ迫ってきた自分の運命であるような気がした。なぜならFAは、父が生きたその世界であったからだ。
FAデビュー戦の三日前、自分はいまそうやって街を歩いている子どもたちのような気持ちであったろうか。
(そして、北斗は?)
たぶんそれはあり得なかったろうと、明人は思う。
FAは小学校とは違う。明人もお小遣いと呼ぶには巨額すぎる報酬を貰うことになったし、否応なしに巻き込まれるチームやメーカー間の政治的な駆引きは小学生の口喧嘩とはわけが違った。そして明人にとって、FAは手放しに全てを受け入れられるほど単純な存在ではなかったのが大きかった。
北斗にとっても、自分の存在は少なくともそう単純ではないと、明人は思った。
彼女が何度か口にしたように、たしかに彼女の父親は明人にとって本来なら憎むべき存在であったかも知れない。明人自身はそんな感情を克服していたが、彼女にとってどうであるか、そこまでは分らなかった。ただ思うには、これはもはや自分と彼女だけの問題ではないのだろう。彼女の父である北辰と、いまは亡き治己をも巻き込み、世代を超えた戦いの火蓋は既に切られていたのだ。
金曜の空は、綿飴のような雲がぽかりぽかりと浮かぶ気持ちのよい晴天だった。だが、明人が寝坊をせずに済んだのはそのせいではない。むしろ明人はそういう日こそよく寝坊をした。
サーキットの近くにはSクラスのホテルがなく、チームのスタッフが手配したホテルはLクラスである。それが関係するとは思えないが、何故かモーニング・コールだけが特大で、凄まじい音量のそれに明人は脳みそを引っ叩かれたのだった。
「寒い」
窓を開けて、最初の明人の言葉はそれだった。吐く息が一瞬白く見えたのは気のせいだろうか。昨年もここを訪れているはずなのだが、デビューイヤーということもあってトラック以外はあまり憶えていなかった。
空を見上げれば、美しい青空である。季節は、夏だ。
「……夏だよね?」
誰ともなく呟いてみても、答えは返ってこなかった。
都市圏を少し離れたそこは一言で表すならだだっ広く、風を遮るものがない。夏だというのに肌寒いモスクワの郊外、ジュコウスキーの朝である。
明人が寝坊せずにロビーに降りてきたことに、エリナは目を丸くして驚いていた。いつもは一分でも遅刻すれば怒るのに、いざ時間より早く着けば驚かれる。明人は苦笑いを浮かべて彼女に挨拶をした。
「おはよう。聞きしに勝る強烈なモーニング・コールだったよ」
「良かったじゃない、遅刻せずに済んで。………寒くないの?」
エリナは明人の格好を見て言った。彼女はネルガルの制服の上からしっかりとジャケットを羽織っている。
「……向こうに着いてから着るよ。バッグの一番下に入ってるんだ」
「風邪をひいたりしないでよ。それはそうと、音量を小さくすれば良かったのよ」
「なにが?」
「目覚まし時計。『мак』が最大で、『мин』が最小」
「……有能な君と違って、僕はロシア語が読めないの」
「英語表記があったけど」
「………そう?」
「そうよ。まあ、読めようと読めまいと貴方は「最大」にしておくべきだわ」
分って言っているのだろう。案の定エリナは肩をすくめて悪戯っぽく笑って見せた。
モスクワ郊外の飛行場に敷設されたサーキットには、朝霧を乗せたひんやりとした空気が漂っていた。グラスノスチに始まって鉄のカーテンが取り払われたジュコウスキー飛行場は、現在その半分を公開してFAを招致するまでになった。
そしてFA全グランプリ中もっとも緯度の高い『アエラドゥロームスカヤ・ツェピ・ジュコウスキー』の夏は、長袖のTシャツ一枚だった明人にはかなり肌寒い、摂氏8度から始まったのである。
「去年もこんなに寒かったっけ」
「どうだったかしらね」
エリナの言葉に棘があるのかどうか判断しかねて、明人はちらりと彼女の横顔を窺った。だいたい彼女がとくに忙しくなるのは、この時期からだ。誰のせいかといえばそれは明人のせいだから、明人もとくにこの頃からは彼女に気を遣う。
「忙しくなってきたわ。貴方の来季契約が山積みよ」
「感謝してます」
「そう思うのならリベート上げて」
「……………………」
彼女がいまのリベートにそれほど不満がないことを、明人は知っている。ネルガル・チームはもちろんパーソナル・スポンサーからも、今年一年だけで明人は一生遊んで暮らせるだけの報酬を得るが、その13パーセントを受け取るエリナもチーム内ではドライバーに次いで高給取りに違いない。
「……言ってみただけよ」
単純なお喋りを楽しんでいるだけなのだろう、すぐに彼女は笑って、手元の書類に視線を戻した。それはこのモスクワGPから搭載される新型エアロ・ダイナミクスの所見書だった。
ネルガルNF211は、日本GPで新エンジンを搭載してから第7戦カナダで新型の空力パッケージを導入、その後一回のエンジン・アップデートを挟んで、このモスクワGPで再びエアロ・ダイナミクスの一新をした。細かいパーツの進化は、毎戦のことである。
カヴァーリがいなければ、そうしたアップデートなしにも今シーズンを制することができたかも知れない。逆を言えばそれだけ間断のない進化が必要だったのは、ひとえにカヴァーリと、そして北斗の存在があったからである。
「ずいぶん変わったね」
「これを見て『ずいぶん』なんて言えるドライバーは少ないでしょうね」
ガレージに佇むマシンを見回しながら明人が言うと、エリナは苦笑気味に答えた。
大々的な変化ではなかったが、よく見ればボディのくびれが大きくなり、それに伴ってか、リヤエンドの空力装置も一新されている。その結果得られるダウンフォース係数と空気抵抗係数にしか興味がないなら、確かに分からないかも知れない。
明人は、「どうかな」と肩をすくめた。
「あの娘も頑張ったみたいね。忙しくて死にそうだって言ってたわ」
「誰?」
「レイナ」
「ああ……」
レイナはエリナの妹だ。ネルガルの空力部門チーフ・エンジニアである。NF211がカヴァーリにエンジンで負けてもラップタイムで勝てるのは、彼女の設計するエアロ・パッケージのおかげだろう。もっとも、エンジン部門が悪いわけではなく、カヴァーリのそれが更に上を行っているのだ。
「風洞は二十四時間稼動だし、レイナもCFD解析で朝から晩までモニターと睨めっこ。過労死か家庭崩壊、なんてよく言ったものだわ」
「……シーズンが終わったら何かプレゼントでもしないとね。あと、他の皆にも」
「そうしてあげるといいわ。ただ、貴方の用意できる最高のプレゼントが、チャンピオンであることを忘れないでね」
「言われるまでもないさ」
明人が笑うと、エリナもあまり仕事中には見せない優しい笑みを浮かべた。
アエラドゥロームスカヤ・ツェピ・ジュコウスキー、『ジュコウスキー飛行場サーキット』を明人が走るのは、これで二度目である。初走行は、去年のフォーミュラ・アーツ第9戦だった。飛行場の滑走路と誘導路、本来なら飛行機が使うそこにサーキットが敷設され、このグランプリは開催される。
予選日の朝、今度はしっかりとネルガルの黒いジャケットを羽織って、明人はピットウォールにもたれ掛かっていた。
「相変わらず長いね」
『ランウェイ(滑走路)』とそのままの名称で呼ばれるホームストレートは、シーズン中もっとも長い1550メートルである。直線に強いカヴァーリの得意とするサーキットだ。
ただ、明人が驚いているのはその直線部分の長さではなく、さらに奥へと長く伸びている滑走路の方だった。何しろコースを歩いていると、同じ滑走路の反対の端を使って飛行機がエキシビションに飛び立っていくのだ。
「何キロあるんだろうね」
「6キロだそうよ。なんでも旧ソ連製スペースシャトル運用を見越してとか……」
そう答えるのに、エリナは明人を見向きもしなかった。この時間、明人はそれほどやることもないので暇だが、スタッフはそうではないのだ。明人はエリナの手元を覗き込んで口を挟めるようなものではないことを確認すると、また無言で壁に寄りかかった。
ピットウォールの壁にもたれ掛かって奥の霞むストレートを見やっているのは、明人だけではない。隣ではハリも同じように唖然とした表情で滑走路の反対側を見つめている。
明人はその滑走路の上に浮かび上がった物体を見つけて、両耳に指で栓をした。それを見てエリナが困ったように自分もヘッドセットをつけ、明人の視線の先を睨む。次の瞬間、FAマシンのエキゾーストノートすらもかき消す轟音が大地を揺るがせた。
「ひぇー……」
思わず明人が呟いたが、それを自分で聞き取ることすらもできなかった。エリナの手元にあったコップの水面が波立ち、彼女は忌々しそうにそれを押える。
爆音の発生源は、さらに雷鳴のようなそれを轟かせながら明人たちの上を飛び越えていったかと思うと、その鋭利にとがった機首をぐいと引き起こした。翼の両端から白い雲の筋を引き、それが陽光を映してきらきらと光る。そして赤い星をつけた戦闘機は、天頂目指してまっしぐらに駆け上っていってしまったのである。
「あの雲の筋ってさ、僕らのマシンのウィングから出るのと同じだよね」
雷鳴が遠のくのを待って、明人はエリナに言った。しかしそのすぐあとに自分が彼女らに隠し事をしていることを思い出し、慌てて口を噤む。だが、エリナはそれに気付いた素振りはなかった。
「そうね。原理は同じだもの」
なんだかんだと言いながら、エリナも明人と同じく眩しそうに天空を振り仰いでそれを見送っていたらしい。少し恥ずかしそうに明人に答えた。
「流速の遅い空気流と速い空気流が絡まってできる渦流……翼端渦が、水蒸気を帯びて白く見える――だったかしら? 私はエンジニアではないから、詳しくは知らないけど」
「うん、そう……だったかな」
「以前、貴方に教わったのよ。……妙なところで博識な、明人君」
「あ、……ははは…………そうだっけ?」
胡散臭げな目でじろりと見るエリナに、明人は作り笑いを浮かべて返すだけだった。
午後の練習走行が終わって、明人はいつもどおり北斗とトップタイムを分け合っていた。ラップ中の最高速度ではやはりカヴァーリの北斗が明人を上回ったが、誘導路や駐機場に設けられたインフィールド区間はネルガルに分があった。
滑走路は路面が平坦であるものの、インフィールドはそうでもなかったのがカヴァーリを苦しめたのだろうか。ネルガルに比べて、彼らはそこでのタイムアップ幅があまり大きくなかったのだ。
しかし翌日の予選でフロントローを独占したのはカヴァーリだった。北斗の叩き出した最高速度は時速387.8キロで、今シーズンの他のサーキットに比べても飛び抜けて高い。しかもその分だけ落ちると思われていたインフィールド区間のタイムは、ネルガルが予想していたよりも遥かに良かったのである。2位につけたハリですら、最高速度は明人を2キロも上回った。
明人は彼がデビューした時に掲げた目標を思い出した。天河明人さんに勝つことです、そう彼は言ったのだ。後で詳しく聞いてみれば、それはまた男の意地でもある、と。そしていま彼は、少なくとも予選でそれを成し遂げたのである。
不思議な感情が明人の胸に湧いた。
たとえ予選だけとはいえ、自分を打ち負かしたハリを明人は賞賛したいと思った。一方で、彼に勝てなかったことが悔しくてならない。それはもちろん北斗に対しても同じなのだが、それらの全く正反対の感情が、いつの間にかひとつになって言いようのない高揚感と武者震いに変わっているのである。
グランプリの意義は、もちろんレースにある。そして明人は、ハリにも、そして北斗にも勝たせる気など毛頭なかった。
記者会見が終わってパドックに戻ってきた明人は、ガレージの前に見慣れない女性を見つけた。少し乱れたブロンドを総髪に結わえ、顔立ちはどこか北斗を思い出させる。瞳は薄いグリーンのようだった。
しかし何より明人が不思議に思ったのは、彼女の服装だった。メカニックスーツとも少し違うオーバーオールの上半身を脱いで、袖を腰に巻いている。暑いときに明人もよくやる格好だ。ネルガルと同じような黒いスーツだった。
彼女は明人に気付くと、振り返ってにっこりと笑った。
「こんにちは」
「あ、はい……こんにちは」
彼女の胸にさげられたクレデンシャル・パスには、なんだか見慣れない順序の、しかしれっきとした英字のアルファベットが並んでいる。それをどう発音するのか、明人は一瞬迷った。
「タチヤナ・ペトローヴナ・クヴィンカ少佐です。テンカワ・アキトさんね」
「は、はい」
少佐というからには軍人なのだろうが、いったい誰だろうと思いながら明人が返事をすると、彼女は恥ずかしそうに笑って、被っていたキャップを差し出したのである。
「その、サインを頂けないかしら」
流暢な英語で、彼女は「息子に」と付け加えた。
「あ……ええ、もちろん」
明人が近くの棚からペンを取ってきてサインを書いている間、彼女はじっと明人の手元を見つめていた。
「失礼、えーと……クヴィンカ……少佐は、スポンサー関係か何かで?」
明人が尋ねると、彼女ははっと気付いたように顔を上げると、「いいえ」と答えながら恥ずかしそうに微笑む。
「ごめんなさい、癖で……階級は言わなければ良かったわね。スポンサーではないわ。言うなれば、ここの住人。テスト・パイロットなの。お昼のエアショーは気に入ってもらえたかしら」
今度は明人が驚く番だった。彼女は微笑んで、手のひらを飛行機に模してひらひらと動かしてみせた。それは、明人たちドライバーが手をマシンに見立ててエンジニアに説明するときの仕草によく似ていた。
明人も思わず笑みをこぼし、ペンの蓋を閉じようとしていた手を止めた。
「名前は?」
「えっ? ……ああ、『トーリャへ』と。――ありがとう」
明人が書き終えてキャップを渡すと、彼女は嬉しそうにそれを眺めてから丁寧に被りなおした。
「すごいね、あんな大きな飛行機を操縦できるなんて」
プロペラとジェットの違いはあれど、明人もパイロットである。だが、それは言わなかった。ただでさえチームにも内緒の趣味だからだ。
タチヤナ――ターニャは再び照れ笑いを浮かべて、母親とは思えないような雰囲気を見せた。明人よりも随分年上だろうけども、おそらくはスラヴ系が持つのであろう鋭くも柔らかい美しさは、その笑顔に十分見て取れる。明人はどきりとして、視線を彼女から彼女の見ている先へと移した。
「貴方たちほどではないと思うわ」と彼女は言ったが、エアロ・ダイナミクスの最先端である航空技術者だけに、どうやら興味はFAマシンの空力パーツにあるようだった。
「どのくらいの……その、空気の力が……?」
手振りを加えたその言葉で、彼女がダウンフォースのことを言いたいのだと明人はすぐに分った。飛行機ならばそれは機体を浮かび上がらせるために上向きに働く力だ。FAマシンについているウィングも、要するに飛行機の翼を逆さにしたのと同じものである。
そんなFAの空力は、ひどく限定的な目的ではあるが同じように最先端技術の結晶でもある。彼女はそれに興味を引かれたに違いない。
「正確な値は機密だけど……平均して1.6トンくらい。でもここは高速コースだから、もっと小さいよ。抵抗を減らして最高速度を伸ばすんだ」
ターニャは目を丸くした。
FAマシンの重量は、ドライバーを含めて600キロになるよう、調整されている。その軽いマシンに1.6トンのダウンフォースというのは、つまり、理論上FAマシンは天井を走ることさえ可能なのだ。
「すごいわね、あの小さな翼で1.6トンも? 空気抵抗も相当のものでしょう」
「ウィングだけじゃないけれどね。そのぶん抵抗はダンプ・トラック以上だよ」
音速の2倍で飛ぶことを目標につくられる飛行機とは違って、FAの空力は最高速度よりもむしろいかにしてダウンフォースを得るかのみが追求される。それが彼女に理解されるかどうかは分らなかったが、ともかくも明人が苦笑気味に返すと、彼女はふふっと小さな笑みを浮かべた。彼女の、マシンを見つめる子どものような目の輝きは変わらなかった。
「綺麗なマシンだわ。こんなに複雑な形をしているのに、滞りなく流れる空気が見えるみたい。機能美ね」
「ネルガルの空力エンジニアはFAでも屈指だからね。もっとも――この空力のおかげで毎年マシンは速くなって、それを危険視する声が内外から増えてきているんだ」
明人が答えると、彼女は「やっぱり」とでも言いたげに小さく頷いた。
「貴方はどう? 速くなりすぎるのは危険だと思う?」
不思議な会話だと明人は思った。彼女はFAをよく知らない素人で、明人たちにしてみれば一般人と同じである。明人は、そういう会話をするのはFAの内情をよく知る関係者だけだと思っていた。
もっとも、ファンは色々なことを――ときには明人たち当事者よりも、FAのことをよく知っている。自分のマシンはともかく、他チームのマシンについてはジャーナリストやそれをつぶさにチェックしているマニアの方が詳しいことの方が多い。だが、彼らが本当のFAの速さというものを知っているだろうか。
頭が5倍の重さになって真横に引っこ抜かれそうになるコーナリングや、周囲が全て線になってしまう時速380キロの世界。ハンドル操作を数ミリ誤れば、即座に死の壁に叩きつけられる。空気の力でヘルメットは常に引っ張り上げられ、尻のほんの数センチ下は猛烈な勢いで流れるヤスリのようなアスファルトだ。背中の後ろにはガソリンタンクがあって、そのすぐ後ろは熱く焼けたエンジン。――その世界は、身の回りの全てが凶器なのである。
それを知りもせずに、とは思わないけれど、彼らが想像するよりもずっと、明人たちは実感としてそれを知っている。彼らはデータとしてそれを知っているだろうけども、実際に体験したことはないし、体験する予定もない。そしてたいていは、それらの人々によって明人たちの安全は保障されている。
「うん、まあ………限度はあると思うよ。現状としてドライバーズ・エイド――ドライバーの操作を補助してくれる電子デバイスなんだけど――それがないと危険な場面もあるからね」
それを言うと、ターニャは驚いたように明人を見た。もしかすると、そんな補助装置は全く無いものと思っていたのかも知れない。
たしかに数年前までは禁止されていたが、現在では全チームがその電子デバイスを装備している。タイヤの空転を抑えるトラクション・コントロールや、ブレーキング時のホイール・ロックを防止するABSシステムがそれである。
「驚いた。FAもそこまできているのね……」
「FA『も』?」
「私たちも同じ。現代の飛行機は電子デバイス無しには飛べないわ。飛行機そのものが複雑になっているのもあるし、それにパイロットの人為ミスによる事故を減らすためにね。理屈は分るんだけど……ときどき、自分が飛行機を飛ばしているのか、それとも機械が飛ばしているのか、疑問に思う時があるわ。私たちは、テレビゲームをしているわけではないもの」
それを聞いて、明人は自分の操縦する飛行機を思い出した。そして雑誌で読んだことのある、彼女が操縦する最先端の飛行機とそれを比べる。
グラシスの『マシン』には、オートパイロットなどという機能はついていなかった。デジタル計器は一つもないし、ABSも存在しない。唯一の自動装置はエンジン冷却用のカウル開閉器くらいだが、それもスロットルレバーと機械的に連動しているだけの簡素な構造である。
それに比べて彼女の飛行機は、或いはFAマシンは、全てが自動だと言っても過言ではない。スロットル一つとったって、明人の右足の動きはワイヤーで直接スロットル・バルブに繋がっているわけではなく、光ファイバーを使って電気的にスロットル・アクチュエーターを動かしているのである。その間にはさらにトラクション・コントロールが介在し、そのときの路面状況にあったパワーを出す分だけ、バルブは開くのである。
他にもブレーキバランスはコーナー毎に切り替わって最適なそれを維持し続け、ABS装置も一般車のそれとは比べ物にならないくらい精巧に働く。エンジンの各気筒に空気を導入するエア・ファンネルは、回転数に応じてその長さを変える始末だ。
これほど全てが自動化されたマシンに乗って、明人がするのは専らアクセルを踏むこと、ブレーキを踏むこと、それにハンドルを回すことの三点だけであった。それは、遥かに複雑な構造しているだろうターニャの飛行機が、それでも両手と両脚だけで操作できてしまうことに、似ている。
明人は、彼女に通ずるものを感じた。彼女が何を求めて操縦桿を握るのかは分らないが、明人がFAならずともハンドルを握れば感じるそれを、彼女も感じているに違いないと思った。
「誰かが気付いていれば……変わることはできると思うけどね」
もちろん必要だと思われたから採用されたのであって、まずはそれが本当に必要か、検討することが第一だろう。明人が言うと、ターニャは少し驚いたように明人を見て、少し考え込んだ。
「貴方は?」
「僕?」
訊かれて、明人は苦笑いを漏らす。彼女にしてみれば、気付いているはずの明人がそれを変えることはできないのかと、そう問いたいのだろう。だが、それに対する明人の答えは既に決まっていた。
「それは僕がすべきことじゃないよ。「危険だ」と言うことはできても、アクセルを離すことはできないんだ。僕はスピードを求める側の人種だからね。でも僕は、ロボットになってまでFAに乗りたいとは思わない。そうなるのなら、僕はFAを降りて他の道を探すかも知れないし、もし可能なら、FAを元に戻す為に行動を起こすかも知れない」
ターニャは空を振り仰いで考えているようだった。
「そうかも知れないわね。私もあと百年早く生まれていたら、空を飛ぶことだけに明け暮れることができたかも知れないわ。武器を持たない飛行機で、ね」
そういう彼女の微笑は、寂しそうだった。
FAという世界は、奇妙な力が作用しあって毎年速くなってゆく。ひとつはドライバーという人種の「もっと速く」という渇望で、もう一つは勝利を至上命令とされたメーカーの競争だ。それは決して同義ではないはずなのに、外見上は手を取り合って未知の世界へと踏み込む。
空に生きる人々の世界も、似ているのだろう。高く、そして速く。それを地上で成すか、空で成すかの違いだ。だが空でのそれもまた、グラシスやターニャが示している通り、国家とか民族とかいった建前がなければ成し遂げられない世界となってしまっている。
いったいどれが正しいのか、いや、少なくとも間違っているのは何なのか、誰も知らない。
「難しいわね、人の夢って」
「思惑が絡むとね」
夢を実現するのは、いつの時代も現実である。それは何より速く飛べる飛行機を産んだ東西冷戦で、また企業広告のためにFAに参戦する、巨大メーカーでもあった。一人の思い描く夢が大きすぎたのがいけないのか、或いはそんな野心を抱かせた何かが悪いのか、区別はつかないままである。
ただ分っているのは、人がどうしても夢を抱く生き物だということだ。
ふいに明人は、自分達の間にある空気に気付いた。
たった五分前に知り合っただけなのに、妙に打ち解けている。それに込み入った会話をしているものだと、可笑しくなって笑みを浮かべた。彼女もそうだったのだろう、二人で少しだけ笑いあった。
「レース、頑張ってね。うちの子が貴方の大ファンだから。応援しているわ」
「ありがとう」
ほんの数分、会話を楽しんで、彼女は去って行った。
彼女の後姿を見送っていた明人は、ちょうどガレージから出てきたエリナに気付いた。エリナはそれよりも先に気付いていたらしく、ターニャを見やりながら明人に「誰?」と尋ねる。
「この飛行場のパイロット。昼のエキシビションをやってくれた人だよ」
「ああ………おかげ様で気が散って仕事がはかどらなかったわ」
たしかにあの爆音は気が散るだろうと、明人も苦笑した。FAマシンもうるさいが、二基で20万馬力のエンジンの咆哮はそれどころではなかった。だが、大空を揺るがすかのようなそれが妙に心地よかったのも明人にとっては事実である。
思わぬところで共感を抱いたパイロットのフォローをしておこうかとエリナに視線を戻した明人は、どきりとした。エリナが横目で明人を睨んでいたのである。
「ええ、と…………なに?」
明人が尋ねると、エリナはぷいとそっぽを向いてガレージに戻ってしまったのだった。
to be
continued...
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