FLAT
OUT
(25)
次の日、明人と北斗はミナトと連れ立って件のカートコースを訪れていた。それは家から車で十分ほどの草原の真ん中にぽつんとあり、朝も早くから子供たちが集まっている。
昨晩、北斗をサーキットか空港まで送るつもりでいた明人は、しかし、深夜までかかって舞歌の愚痴を聞く羽目になった。結局北斗も白鳥宅に泊まることになり、その連絡を明人に押し付けたからだ。相手が受話器の向こうであることがせめてもの救いだったが、そのために少し寝不足気味である。それでも眠い目をこすり、慣れない早起きをしてそこに赴いたのだ。
「眠そうだな」
「舞歌さんに聞いたこと、あとで話すよ。一字一句漏らさず、全部。なんなら声色も真似ようか」
「遠慮する」
北斗はそれほど眠くなさそうだった。あれから、酒のせいか妙に饒舌な九十九と宴会になり、彼を酔い潰れさせたあと自分も寝てしまったのだそうだ。伝聞なのは、それより先に明人が電話に向かったからだ。明人は「ふぅ」とひとつ溜め息をついて、だるい身体に鞭を打った。
二人がコースに向かって歩いていると、すぐにそれを見つけて走り寄ってきた子供がいる。金髪に薄い緑色の瞳をした、十歳くらいの少年だった。
「明人、来てくれたんだ」
「やあ、ユカ、また来たよ」
ユカと呼ばれた少年は、明人に飛びついて喜んだ。ジュニアカートとは言え時速100キロもの速度が出るそれを操るのは、まだ子供である。
「今度はいつまでいられるの? 僕、毎日来るよ」
「うーん、水曜には上海に入らないといけないから、月曜日まで」
「短いなあ」
「ごめんな、冬になる前にまた来るから」
明人が頭を撫でながら言うと、ユカは「約束だよ」と念を押して、準備のためにコースへと戻って行った。
入れ替わりにコース脇の小屋から出てきたのは、はやくもレーシングスーツに着替えたミナトである。髪を後ろに丸く束ねてかぶったキャップには、『教官』の文字が刺繍されていた。
「はい、これ」
彼女は手にした二つの袋を、明人と北斗にそれぞれ手渡した。明人はそれを何も言わずに受け取るが、北斗はもちろんその意味がわからず、怪訝そうな顔で明人を見る。しかし押し付けられた袋の中を覗き込んで、彼女はその表情を面倒くさそうにゆがめた。
「……俺もやるのか?」
「何もしてなくちゃ、暇だろ」
いやそうな北斗に、明人は彼女がいつもするようにさらりと言って、更衣室に向かった。
FAドライバーは、現在のところそのほとんどがカート出身者である。免許証のいらない小型のカートは、しかし相当の速度も出るうえに操作がフォーミュラ・マシンに似ているので、子供の頃から英才教育を施すにはちょうどいいのだ。明人や北斗も、物心がつく前からカートのハンドルを握っていた。
子供たちの練習は、ミナトが簡単に明人と北斗の紹介を済ませてから、開始された。さすがに将来はFAドライバーという夢を持つ子供たちだから、二人は憧れの的である。その人物に教えを乞える喜びよりも、ただ面と向かって会えるだけで嬉しかったに違いない。ミナトが苦笑して言うには、練習が始まるまでにいつもの倍の時間がかかったそうだ。
午前9時過ぎ、小さなカートコースは、小振りながら甲高いエキゾーストノートに包まれる。長い直線でも100メートルほどしかないが、ドライバーを乗せても100キロに満たない軽い車体は、小さなコーナーをすいすいと機敏に駆け抜けていった。
しかし、その一方で走っていない子供もいる。ピットエリアで何やら自分のマシンを分解しているのは、ユカだった。
「ギヤの交換かい?」
明人が尋ねると、ユカは照れくさそうに頷いた。
「直線でどうしてもふけ切っちゃうから。少し高いギヤにするんだ」
子供でも覚えれば分解できる易しさが、カートの醍醐味でもある。何しろ構造自体は、街中を走っている小型のバイクよりも簡単なのだ。ユカも手馴れた様子で、さっさとギヤの交換作業を終えてしまった。
そのときである。明人の後ろから、声がかけられた。
「ハイギヤードはスロットルに対してマシンの挙動が鈍感になる。つまりそれだけ丁寧な操作が必要になるということだ。注意しろ」
驚いて振り返ったのは、明人である。ともかく明人の知っている北斗という女性は、物事に自分から口を出すということがほとんどないからだ。彼女が明人にするように話しかける人間は非常に稀で、知らない人物ならばまず無関心のままである。
ユカは戸惑ったような視線を明人に向けてから、彼女に向き直って「はい」と小さく答えた。FA界でもめったに笑顔を見せないことで有名な北斗がこともあろうに自分に声をかけたことが、彼にとっても不思議だったのだろう。
一方の北斗は、それ以上はとくに何も言わず、ヘルメットを被ってコースに出て行くユカを見送るだけだった。
三十分ほどが経った。ほとんどの子供たちは、練習が始まってから給油以外は走りっぱなしだ。明人は、彼らの気持ちがわかる。あのくらいの年代はとくに練習だのなんだのと言わなくても、走っているだけで嬉しいのだ。もっとも、そのうちに勝つ喜びを覚えるようにもなるが。
二人分の飲み物を手にインフィールド脇の草地へ赴くと、北斗はまだそこでじっとコース上を見ていた。彼女はいつも鋭い目付きをしているが、いまはそれに真剣な眼差しが加わって、凛々しく見えた。
もう少しその横顔を見ていたい気もしたが、どのみち隙のない彼女はすでに明人を視界の端に納めているに違いない。ここで不躾に顔を覗き込んで印象を悪くしても困るので、明人は片手に持っていたジュースの瓶を彼女に差し出した。
「だれか光る子はいるかい」
北斗は何も言わずに瓶を受け取り、一口飲んだ。
「……6番は荒削りだが度胸がある。2番はテクニックがあるが、セッティングができていないな。3番はいい、速いし安定している……ああ、さっきの坊主か。やるな」
十台近くが走っているコースを眺めながら、北斗はてきぱきと指摘してゆく。それを唖然と聞いていた明人は、しかし嬉しくなってきて、ついに吹き出してしまった。
彼女はとたんにむっとした表情になって、明人を睨む。なにが可笑しい、と射殺さんばかり目付きで尋ねてくる彼女に、明人は嬉しさをかみ殺しながら首を振った。
「きみ、教官に向いているんじゃないか」
そう言うと、北斗は一瞬目を丸くして明人を見つめ、次いで益々ふくれっ面になってコース上に視線を戻してしまった。
「笑わせるな」
「本当だよ。さっきもユカに教えていたろう。いい助言だったと思うよ」
北斗は何かを言いかけて明人を振り返ったが、すぐにその言葉を飲み込んだ。そのとき彼女の顔に浮かんだ表情を、明人は見逃さなかった。しかし、そうかと言ってそれを尋ねるほど無粋でもないつもりだ。無言のまま彼女の横に腰を下ろした。
数か月前には色鮮やかだった芝も、今は褪せて、秋の到来を知らせていた。それでも日向にいれば、ぽかぽかと暖かい陽気である。
「自分で気付かないようでは、FAまでは昇れん」
北斗が小さな声で呟いた。
「――俺に教えようなどという人間は、誰もいなかったがな」
それは悲しそうな、しかし哀れむような表情だった。
明人は知っている。彼女は悲しみこそすれ、自らを嘲ったりするような人物ではない。ましてや哀れむなどと。そもそもレーシングドライバーなどという人種はみな自信の塊のような人間ばかりであり、自分に絶対の自信を持っているものだ。普段の言動を思えばこそ、彼女はその典型であった。
すると彼女が悲しみ、哀れむのは、他人だということか。しかしそれはまた、多くの関係者よりは彼女のことを知っている明人ですら、俄かには信じがたいことであった。
「………聞いてもいいかな」
明人がぽつりと言った。北斗はそれに答えるでもなく、いまだコース上を眺めている。
「君は以前、僕が君のお父さんのことをどう思っているか、尋ねたよね。だから……もし良かったら、僕も聞きたい。君自身は、彼のことをどう思っているんだい」
北斗とその父親、北辰の関係を、明人はほとんど知らない。数あるモーター誌は当然、鮮烈なデビューを果たした彼女の人間関係も、不躾なまでに調べ上げて載せていた。しかし明人は、それを読もうとは思わなかった。
彼女が父親のことを好いていないのであろうことは、ふだんの言動からも明らかだった。それに、ホシノ・エレクトロンからの帰途で彼女が口にした、「決着をつけねばならない」との言葉。彼女の様子から察するに、その決着はまだついていないのだろう。昨晩の夕食で見せた儚い笑みが、明人にそれを悟らせた。
少なくとも彼女らは、自分と母親のような関係ではないのだ。明人はそう思った。
「それを聞いてどうする」
北斗がさして感情も篭らぬ口調で、聞き返した。だが、たった一言のそれに二の句が告げなかったのは、明人である。
たしかに、それを知ったところで明人にできることはない。たとえ彼女ら親子の関係が明人の想像通りだったとしても、それはやはり明人の口出しするところではなかったのだから。
「それは……」
明人がどもると、北斗はそれ見ろと言わんばかりに「フン」と鼻を鳴らした。それはまるでお前には関係の無いことだと言われているようで、明人は知らず顔を顰めた。だが、またすぐに驚くことになったのである。
「たしかに、明人、お前にも聞く権利があるかも知れんな。始まりがいつだったのか俺には見当もつかんが――あの男が変わった原因は、お前たち親子なのだからな」
そう言ってぎらりと光る目を向けた北斗に、明人はぎょっとした。
揶揄だの批評だの、そんなものはFAドライバーとなった時に覚悟していたし、その多くを明人は信じていなかった。言われなくても明人は冷静に自分を分析していたから、雑誌の記事やファンの野次に驚く事はなかったのだ。
ところが目の前のとび色の瞳は、そのどちらでもない。明人にとって思いもよらない言葉を、その唇から発したのである。
「どういう……ことだい」
かろうじて聞き返した明人は、心臓が気味悪いくらいに高鳴っているのを感じた。それはもちろん、期待に満ちたものではない。得体の知れない不安に、そうなっているのだった。
それが表情に出たのだろう。北斗はじっと明人を見つめたあと、不意に肩の力を抜いたようにコースへと視線を戻した。
「そんな顔をするな。何もお前たち親子が悪いと言っているのではない。悪いのは――あの男だ」
彼女はそう言ったが、明人の胸に渦巻くもやは取れなかった。
いったい何故なのか、たとえ自分や父親にその暗い感情が向けられていないことがわかっても、その原点が彼女である限り、明人は安堵することができなかった。
「……君も彼が悪いと? たった一人の父親なのに」
明人が言うと、北斗の表情は一気に険しくなった。
「その通りだ。誰がなんと言おうと、あれは俺の父親なのだ。残念なことにな」
「そんなに彼が嫌いなのかい? まるで君は、父親を憎んでいるようだ」
「そうかも知れんな。明人、お前があの男にどんな偶像を抱いているか知らんが、俺にとって奴はただの負け犬だ。生きることに負けた、廃人だよ」
そんな、と言いかけて明人は口をつぐんだ。憎々しげにそう吐き捨てた北斗の横顔が、どう見てもその言葉どおりではなかったからだ。それに、彼女の言った意味もわからない。
「彼は今、どうしているんだい。その……交通事故に遭われたという話は、聞いているけど」
あつかましい質問だとは思ったが、明人は尋ねた。すると北斗は、ちらりと明人を一瞥して、打って変わって小さな声で話し始めたのである。
「……車椅子の生活になって変わったと世間は言うが、そうではない。奴の人生は、あの事故を境に変わった」
それを言った北斗の顔は、明人がこれまでに見たことがないほど、苦渋に満ちていた。
コースを走っているのがFAだったら、そのすぐ脇にいる北斗は明人の耳元で怒鳴らなければ、言葉は伝わらなかったろう。しかしFAの10分の1にも満たない小さなエンジンの音は、極限のそれに慣らされている二人にとってはのどかなビージーエムである。
木漏れ日が、北斗の赤い髪をきらきらと照らした。
「元々、酒はあまり飲まなかったのだろう。俺も七、八歳の頃のことだからよく覚えてはいないがな。だから俺自身も気付かなかった。正直に言おうか。酒に酔うと、奴はいつも不気味だったよ。泥酔こそしないが、正気ではなくなった」
北斗にまるで男のように振舞うことを強要したのも、基本的に男社会の感を拭えないFAの世界を見据えてのことであったという。明人はまさかと思ったが、北斗の蔑んだような冷たい眼差しに何も言えなくなった。
「車椅子になって途絶えた自分の夢を俺に託すほど、奴は父親ではなかった。まぁ、いじめのようなものだろうな。俺は当時すでにカートを始めていたし、奴も根本的に意地の悪い性格だ。幼い俺が、見よう見まねでFAを目指すのが鬱陶しかったのだろう」
「……………………」
淡々と話す北斗を、明人は見つめるばかりである。彼女が自分の過去を話してくれたのは嬉しいとも思ったが、それにも増して彼女の口から語られるのは、想像もしていなかった事実だったのだ。
「だがな、明人」
何を思って北斗は、そう言ったのだろうか。彼女の表情は、明人がいまだ見たことのないものだった。明人に許しを請うかのような、普段の彼女からは想像もつかない弱さが、そこにはあった。
「事実がどうあれ、北辰はお前の父親を死なせた。それを一番わかっているのは他でもない、奴だ。俺はそう思って、何も言わなかった。今更言うのも馬鹿らしいが、一時はあんな奴を不憫だとも思ったのさ」
「……今は違うのかい」
「違う。明人も知っているだろう、奴はそれを認めはしなかった。クラッシュは不慮の事故であって、自分は天河治己とともに被害者の一人に過ぎない、と。あまつさえお前の父親の訃報にも顔色ひとつ変えず、不運の一言で済ませたのだ。あの男にとってライバルとは所詮その程度だと知って、俺は愛想をつかした」
北斗は現実主義者だったが、精神を大切にする。それは人として生きるにあたってとても大切なことだ。だから彼女は、時々乱暴ではあるものの、同じレーサーには対等に立ったし、そうでない人間には明確に一線を画した。それが彼女なりの敬意なのだ。
明人は、そんな彼女を尊敬していた。だが、まだ解せないところも残るのである。激昂しそうな彼女を宥めるように、口を開いた。
「でも、あの事故を境に酒を飲むようになったんだろう? 僕が言うのも変だけど、やっぱり事故が彼に重大な影響を与えたのは事実なんじゃないかな」
すると北斗は、ちらりと明人をうかがった。その表情は変わらず、冷たい眼差しのままである。
「あの頃は、奴への批判だけがメディアを渦巻いていた。気にせぬとは言え、四六時中追い掛け回されれば苛立ちもするだろう。俺は警察の一連の調査が終わるまで舞歌のところにいたから、それ以上に詳しいことは知らん。どのみち酒に逃げたんだ、知りたくもない」
そう言って彼女は、黙ったのだった。
明人は、まだ北辰という男の真意は掴めなかった。北斗の言葉を疑うつもりはないし、おそらく彼女の口にした言葉自体はどれも事実なのだろうけれども、違和感が拭えないのである。
これもエリナや赤月に言わせれば、明人の人の好さが為せる業だと呆れられるのだろう。だが明人は今までもそうしてきたし、人とはそうであるべきだと思ってきた。今回も、まずはそれを信じたかったのだ。
それに、と明人は北斗の鳶色の瞳を見つめた。
(――それは。少なくとも彼女自身の父親に対する感情は……憎しみなどでは、ない)
明人が悟ったことを、北斗は気付いたろうか。
「………君の考えは分かったけど」
彼女の機嫌を損ねるのを覚悟で、明人は言った。
「やっぱり、それだけじゃないと思うよ。少なくとも僕は……そう、思いたい」
彼女のことだから、いい加減にしろと怒るのではないか。明人はそう思ったが、それに対する北斗の反応は意外だった。
何か不思議な生き物でも見るかのように、僅かに目を見開いて明人を見つめていた北斗は、次の瞬間、笑みを浮かべたのである。それはどこか哀しそうな笑みだったが、明人はそれまで痛々しい表情だった彼女が少しでも笑ったことに、ほっとしてしまった。
「まったく…………お前は不思議な男だ、明人。だがもっと不思議なのは――」
ぼんやりと前を見つめて呟いた北斗は、今度はいつものような強い笑みを見せて、言う。それはいつもサーキットで見る彼女の決まった仕種だったのに、明人はとたんに心臓が高鳴った。
「いや、いい。――明人、ここには予備のカートがあるのだろう。俺はひとつ、実地で奴らを教えてやることにする。お前もやるか」
突然そう言い出して立ち上がった北斗を、明人はぽかんと口を開けて見上げた。コース上では、昼食を前にしてもまだ子供たちが飽くことなく腕を磨いている。北斗は明人の返事を待つでもなく、踵を返して歩きだした。その後姿がいつもの彼女である。明人は少し考えて、立ち上がった。
「ああ、やるよ」
そう言って彼女に追いつくと、やはり彼女は「フン」と笑って見せた。
世界のモータースポーツの頂点を争うドライバーとのランチを終えた子供たちは、午後になって再びコース上へと戻って行った。
彼らは、とくに決められた時間にそこへ来るわけではない。日程を決めて開かれているカートスクールに、自分の都合に合わせて学びに来るのである。
イングランドの片田舎では、それほど生徒は多くなかった。九十九と結婚するまで、海を渡ったDSTWで活躍していたミナトは、引退を惜しむ周囲の声もどこ吹く風といった様子で、今では子供たちを教える毎日である。
だがそのミナトも、今日は楽だったろう。何しろ、世界最高のドライバーが二人もいる。本当は明人と赤月の予定だったが、ファンそっちのけで女の尻を追いかけている気障なセカンド・ドライバーよりは、北斗のほうがよほど真面目である。
そもそも北斗の評判が明人ほど良くないのは、ひとえに彼女の父親の評判によるものだ。何しろあの男の娘である、それだけで人々の目には、色眼鏡がかかってしまうのだ。
実際はどうだろうか。
彼女の父親は現役当時、壊し屋とまで呼ばれた。たしかにレース中の他車との接触が多く、中には悪質ととれるものまであった。キャリア中に延べ百万単位の罰金を科されたドライバーは、彼以外にいまい。
しかしその娘である北斗は、FAデビューを果たした開幕戦から今まで全13戦、一回も接触事故を起こしたことがなかった。明人と互角の腕を持つ彼女は、それだけでも周囲より抜きん出て速かったが、他車とのバトルもベテラン以上に上手かったのである。
「子どもたちも懐いているしねぇ」
ミナトは嬉しそうに、そんなことを言う。
「ねぇ、明人君」
「はい」
コースを眺めていた明人はミナトに視線を移した。北斗はというと、再びハンドルを握ってコース上である。明人はそんな彼女が微笑ましくて、ぼんやりと目で追っていたのだ。
「いい子ね、彼女」
「………………」
「もう少しね……こう、やさぐれた感じかなと思ってたんだけど。貴方の目の方が正しかったみたい。九十九さんもそう言ってたわよ」
彼女がそう思っていたのも無理はないだろう。表向きはメディアも客観的な視点を保っているが、それでもかの父親との繋がりを示唆するような記事があとを絶たない。何かあれば、と目を光らせている者たちに囲まれて、健やかに育てと言うほうが無理な話である。
明人は少しばかり苦笑いを浮かべて、また北斗に目を戻した。さすがFAドライバーだけあって、彼女は子供たちより速く走りながらも始終視線を巡らせ、周りに気を配っている。
「やっぱり、彼女はインストラクターにも向いてますよ」
「…………そうね」
明人が言うと、ミナトも彼の視線を追って北斗を認め、くすりと笑った。
「そういえば明人君、どうして今回は赤月君から彼女に代わったの?」
「えっ? あ、ああ………それはまあ、彼が彼なりの目的を見出せなかったというか、彼女がマネージャーから逃げ出したというか………」
「なに、それ」
「………つまり、成り行きです」
そう、と答えたミナトは、何やらにやにやと意地の悪い笑みを浮かべて明人を見ていた。
「貴方はどうなの?」
「えっ?」
唐突な彼女の質問に、明人は驚いて聞き返した。
どう、とはどういうことか。それを口にしようとすると、ミナトは、まるで自分には全部お見通しだと言わんばかりに人差し指を振るのである。
「赤月君ではなく彼女と一緒に来たってことが、貴方にとってはどうだった?」
それはよくあるゴシップと同じ意味でのことだろうかと、明人は半分いぶかしみ、半分では早くも苦笑していた。だが、ミナトはそんな明人を思いのほか気にかけていたようである。言葉を探しているのか、少し困ったように微笑みながら、彼女は口を開いた。
「彼女と、何かお話をしたんでしょう。その内容は私には分らないけど、それも含めて貴方に前進はあったのかな、と思って」
相変わらず何か抱え込んできたんでしょう、とミナトは笑って言うのである。
明人は返答に困って俯いた。
まだ全てが解決したわけではない。だから、イエスと言ってしまうのは憚られた。だが、ノーでもない。明人にとって今回の休暇は、実りの多いものだったからである。
北斗は、本当に父親を憎んでいるわけではないと思う。それが明人の得た希望だった。案外頑固なところもあるらしい彼女は、もちろんそれを口にすれば怒り出すだろう。だから言わないが、明人は彼女の話を聞きながら、少しずつ不安が解けていくのを感じていたのだ。
そんなに難しいことはない。彼女は、かつて天河治己と世界の頂点を争った北辰を知っているのだ。それと比較してしまうから、酒に溺れてしまった今の彼がとても情けなく思え、人生を無駄にしているように思えるのだろう。だがそれは、彼への愛が変じた結果ではないだろうか。明人はそう思うのである。
こればかりは、同じレーサーであるということを理由に慮ることはできなかった。職業を抜きにして、つまり外面を剥ぎ取った生身の人間としての生き方ゆえに、明人には確信を得ることはできない。何故なら、明人はあまりにも北斗を知らないし、また北辰についても同様だからである。
(でも、僕が彼らに対してできることは――)
何一つ、ない。残念なことに、そうする義理すらも、明人には認められていないのである。
だが、自分がそう思ったことがまた、明人には驚きだった。明人は、彼らのために何かできることはないだろうかと、そう思ったのである。理屈ではなく、感情がそう言った。それまでは、ただ色々と因縁深い相手であると思っていただけなのに。
そして更に驚くことに、助けてやりたいなどと傲慢な思いではないけれども、せめて力になりたいと思うのが、とくにその内の一人について急激に強くなっていたからである。それは、ここ数日でさらに跳ね上がった。
その人は、美しい朱髪を気持ち良さそうになびかせ、いつも鷹のように鋭い目付きで世界を見つめている、女性だった。
明人はそれらを全てミナトに話すことはしなかった。だが、どうやら彼女の洞察力は明人が思っていた以上だったらしい。彼女はにやにやしながら肘で明人の脇をつつくのである。
「ふぅん。いつも話を聞くたびにもしやと思っていたんだけど、やっぱりねぇ」
明人は驚いた。たしかに今シーズン、白鳥家を訪ねるたびに何かと彼女は話題に上ったが、明人が今の想いを抱き始めたのは最近だ。ミナトが言うのはつまり、明人がライバルとして北斗に抱いていた思いなのだ。
「あ、あれはべつに、彼女をライバルとして意識していた頃の話で」
「あらそう。じゃあ今は別の意味で意識しているということね」
「………………………」
これまでの人生、クルマ一筋で来たのはまずかったろうか、と明人はいま切実に思った。何故なら今の明人は、彼女の言葉に返すことができないばかりか、動揺を隠したいのに頬は火が出そうなくらいに火照っていたのである。
「べつにいいじゃない、貴方が誰を好きになろうと、貴方の自由なんだから。それを許せないファンがいるのなら、そんなのファンじゃないわ」
「はぁ…………それは…………その………」
からかうのかと思えば、真剣に応援する。そんなミナトの話運びに、明人もまた赤くなったり真剣になったりして答える以外にないのだった。
明人が冷やかされながら、北斗がそんな明人を訝しげに見ながら、グレートヤーマスを後にしたのは、火曜日のことだった。
to be
continued...
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