FLAT
OUT
(27)
再び二週間が経ち、明人たちはヨーロッパに戻っていた。迎えるのはイタリアGP、モンツァ・サーキットでの高速戦である。ここもカヴァーリが強く、もし明人がここで優勝できなければ残りは2戦、チャンピオンは一気に遠ざかることになる。
このイタリアGPと最終戦サン・マリノGPは、ともにイタリア国内で開催されるグランプリだ。その意味するところは、つまりどちらもイタリアの誇る名門カルボ・カヴァーリのお膝元で、周囲を取り囲むのは真っ赤なティフォシたちなのである。
「敵陣真っ只中って感じだよね」
「まぁ、そうね」
明人が言うと、エリナも苦笑いして答えた。
だいたいカヴァーリ以外の全てのチームが、そんな肩身の狭い思いを苦笑とともに受け入れている。どのチーム、どのドライバーにも母国グランプリはあるが、このイタリアで歓迎される彼らは、その喜びも一入といったところだろう。これほどまでに熱狂的に迎えてくれるグランプリは、そうないからだ。
情熱の国というのは素晴らしいね、と明人がピットロードに目を戻した瞬間だった。明人の目は釘付けになっていた。
――ここは、イタリアなのだ。
――北斗がイタリア国籍でそこに在住しているのだから、その父親が同じくそこに居ることも、もちろん考えられるじゃないか。
明人の視線の先に、エリナも気付いたようだった。だがさすがの彼女をしても、今の明人に声をかけられはしなかった。何を言っていいのか、わからなかったのだろう。
車椅子を押しているのは、舞歌だった。だがいつもからりとした笑顔を絶やさない彼女が、今はそれほど笑っていない。そしてそれは、車椅子に座っている男も同じだった。
「北辰………さん」
思わず呟いた声が聞こえたわけではないだろう。だが彼は、ふと何かを感じたように明人を振り返ったのだ。
目が、合った。
十一年前――明人の父が死んで一年後のその年、ひとつの記事がFA界を揺るがせた。それは、当代のFAを代表するドライバーが、交通事故で再起不能になったというものだった。シーズンが終わって直後のことであったから、それは各誌の誌面を賑わせた。
そして、その規模と裏腹に人々が悲しみに暮れなかった理由もあった。その事故で命運を断たれたドライバーは、彼らの記憶にもまだ新しい天才レーサー、天河治己を死に至らしめた、その男だったからである。
その事故のせいで片方が義眼だということは、明人も知っている。もしそれを気にしているのなら、サングラスのひとつもかけるのかも知れないが、彼はそうしていなかった。
世界中で活躍したレーサーが不慮の事故で命を落とすというのは、不思議なことに昔からよく聞かれる。引退後の交通事故であったり、中にはスズメバチに刺されて命を落としたレーサーもいた。それは、ちょうど記事の少なくなる正月頃によく騒がれた。
北辰がどういう経緯で事故に遭ったのか、明人は知らない。知ろうと思わなかったからだ。
それは今もそう変わらない。だが、いま目の前にいる彼が本当に北斗の言ったとおりの人物なのか――事実から目を逸らし、酒に逃げただけの人間なのか、明人は知りたいのと、知りたくないのと、半々の気持ちだった。
北辰もまた明人を見つめたまま、黙っていた。舞歌も気づいたらしく、エリナと同じように言葉を探す風にして明人と北辰を見比べている。
どこからかカメラのフラッシュが焚かれて、一瞬二人の影が強く浮き出た。それにはっとして、明人は周りを見渡す。するとそこは、レースウィークのピットロードとは思えないほどしんとして、多くの人々が自分たちの対峙を見守っていたのである。
さらに間が悪いとは、このことだろう。そんな静まり返ったピットロードに、北斗が現れたのだ。
「おい明人、機密は分っているが、訊きたい。タイヤのことだ」
「あ………ああ」
明人がはっきりと返事をしないでいると、北斗もその場の異様な雰囲気に気付いたようだった。何事かと辺りを見回した彼女は、すぐさまその視線を一点に止めた。
周りにいた人間たちにしてみれば、奇妙な対峙だったろう。北斗と北辰が親子であることを知らない人間はいない。本来なら、その親子と明人の対峙こそ一番容易に想像されたに違いない。
だが今、北斗は明人と並んで、険しい眼差しを自分の父親に向けていたのである。
「北斗」
明人が声をかけると、彼女は一瞬だけ明人に注意を向けたようだった。
周囲の誰もが、三人を見守っている。理屈としては、十二年前の不幸な事故を誰もが忘れたかっただろう。しかしその一番の当事者が、今ここでこうして交錯しようとしているのである。
カメラのシャッター音が増えているように、明人には思えた。
ふん、という声とともに最初にその緊張を解いたのは、北斗だった。彼女は何も見なかったかのように明人を振り返ると、ネルガルのガレージを一瞥して言った。
「機密だということは分っている。だが、どうも俺たちのタイヤに妙なことが起きていてな。明人、お前たちの方は何も問題ないか」
明人は彼女の言葉を聞きながらちらりと北辰を見たが、彼もまた北斗の態度をどうとも思っていないようだった。舞歌がこちらに向かい、彼は他の人間に車椅子を押させてガレージに入ってゆくところだった。
「妙、というと?」
明人が聞き返すと、北斗はふっと笑って肩を竦める。機密の漏洩は最小限にとどめるということだろう。彼女らしくて、明人は苦笑した。
タイヤは、現在のところ2メーカーがそれぞれのチームに供給している。ネルガルとカヴァーリは同じメーカーのそれを使っているので、セッティングの違いによるトラブルなのかそれともタイヤそのものの欠陥なのか、彼女は尋ねてきたのだ。
明人はしばし答えに詰まったが、代わりに口を開いたのは隣にいたエリナだった。
「妙なことは、確かに起きているわ。もうメーカーに伝えてあるし、もしかしたら他のチームとも相談することになるかも知れないわね。私個人の考えでは、今すぐにでもそうしたいところだけれど」
この問題は、もちろん明人も知っていた。タイヤは、マシンと大地を繋ぐ唯一のパーツである。その不調は、それに命を預けている明人たちドライバーが、一番敏感に感じ取っていたのだ。
イタリアGPの開催されるモンツァ・サーキットは、モスクワGPのジュコウスキー飛行場サーキットがカレンダーに加わるまで、シーズン中最も平均速度の高いサーキットだった。直線と高速コーナー、そして小さなシケインを結んだバナナのような形のこのコースは、最高速度はモスクワに次ぐ時速380キロを誇っている。
そのコースが舗装の補修を受けたのが冬のことで、それから半年ほどが経った今、すでにいくつかのレースも開催されていた。しかしいつの時代も、FAという存在は突出していたのだろう。
『だめよ明人君、やっぱりタイヤの温度が上がりすぎてるわ』
「いったいどういうことなんだ? 『スティーブ』なんだろう?」
『……スタンディング・ウェーブ現象』
「なんだっていいよ」
北辰との十二年振りの再会から一日が経ち、土曜の午前のことである。最終のフリー走行でもタイヤの奇妙な不調は変わらなかった。昨日エリナが言ったように、話は既に同じメーカーのタイヤを使う全てのチームに波及していたのだ。
明人は、苛立ってはいなかった。それ以上に不安の方が大きい。何しろ今のタイヤでは、しっかりとスティントを走りきれるかどうか、定かではなかったのである。
だが、それ以上にもうひとつのメーカーは深刻だった。
「Scheisse(ばかを言え)!」
明人がガレージに戻って来ると、そんな声が聞こえた。半分呆れたような、そんなドイツ語の罵り声を発するのは、ナオだけだ。同じように、あちらこちらでチームスタッフとタイヤメーカーのスタッフが言い合っている。それはもはや、口論にすら見えた。
「原因はタイヤが合わないことでしょう? この新しい舗装のトラックに」
「そうです」
明人はマシンを降り、プロスペクターに言った。赤月やエリナも一緒になって、騒然としているピットロードの脇にいた。もちろん今さっきまで、プロスペクターもその喧騒の中にいたのだ。
「登録されたタイヤ以外使ってはならない――それはいいよ。ルールなんだから」
「ええ」
明人が言い、エリナが諦めたように頷く。続けたのは赤月だ。
「でもねぇ、僕たち参加している全チームが登録変更に賛成しているんだ。不公平はない。それなのにどうして世界自動車連盟の会長殿は、それを許可しようとしないんだい」
明人が言いたいことも同じだった。タイヤがこのままでは、レースを走れるかどうかすら分らない。たとえ出走しても、いつもよりも遥かに弱いタイヤで同じ距離を走るという、重大なリスクを冒さなくてはならなくなるのだ。
明人たちは、最悪の場合としていつもの3倍以上も多くピットインし、こまめにタイヤ交換をするという選択肢もある。しかしナオたちのタイヤは、チームによっては3周も走れないことが、既に分っていた。
「彼は、自らの権威を侵されるのが我慢ならないんですよ。このままではこのイベントそのものが、本来のオーガナイザーである世界自動車連盟を差し置いて、チームによって動かされることになる。連盟が絶対的権力者ではないという前例をつくることになります。それを彼は恐れているのでしょう」
「ばかばかしい!」
プロスペクターの言葉に、明人は思わず吐き捨てた。先程のナオの罵声も、思い出された。
FAは政治劇の場であると、よく言われる。世界のモータースポーツの頂点であり、最も優れたドライバーはもちろん、時代の最先端をさらに先取りした技術の結晶が、そこには居並んでいるのだ。参戦する全てのメーカーが、威信を懸けてそれに取り組んでいる。
だからだろう、この世界には、綺麗事が通用しない。それどころか、トップに立つ人間が率先して心にも無い事を言い、壮大な下心を満たす為に背後に隠した手の上でありとあらゆる手段を画策する。そこにあるのは打算と取引だけで、見返りのない計画に彼らは一切見向きもしないのだ。
「だが、このままでは彼らは走れないよ。3周ももたないタイヤじゃあ、危なくて走れない。8台だけでレースをするかい」
赤月が言ったことは、またも正しかった。
ネルガルとカヴァーリ、クロトフ、そして下位チームのクラウザー。この4チームは同じタイヤメーカーで、これらを除く6チームが、今回タイヤに手を焼いているという状態だ。仮に彼らが出走できないという事態になれば、レースは本来の半分以下、たった8台で争うことになってしまう。そのうちの6台がトップチームであることが幸いだとは、もはや言えまい。
「私たちだって、このままいけばいつもの倍以上はピットインしないといけないわ。トラックよりもピットロードを走ってるほうが長くなっちゃうわよ」
エリナは苛立ったように言ったが、おそらく今いるチームのほとんどが、同じ気持ちだろう。雨のレースでもあるまいし、明人もそんなレースは聞いたことがない。
たった一人の人間が意固地になっているだけで、たとえライバルのファンとはいえサーキットに集まった13万のティフォシを落胆させることになるかも知れない。それを思うと、苛立ちが募らないはずはなかった。
「予選は? 燃料を積むのか、積まないのか、仮にしっかり1スティント分積むとして、いったい何周走れるんだ?」
明人が問うと、エリナも困ったように顔を顰めた。
「まだ決められないのよ。全チームが賛同しているのだから、連盟も無視はできないはず。動く可能性はあるのよ」
「でも、予選はあと二時間後だ。今からタイヤを変えたって、セッティングし直す暇なんてないじゃないか」
「わかってるわよ!」
ふだん、明人の寝坊を除けばヒステリックになったりしないエリナが、声を荒げて答えた。その声に明人もはっとして、自分も随分と焦っていたことに気付く。いつも温厚なプロスペクターも、難しい表情で騒然としたピットロードを睨むばかりである。
事態は、混沌としていた。
結局、ぎりぎりまで待っても世界自動車連盟が腰を上げることはなかった。少なくとも予選に関しては、木曜の車両検査で登録したタイヤが使用されることになった。そしてその予選は、イギリスGPで起きた故意のタイム調整よりも酷い結果になってしまったのだ。
明人たち4チームは通常通りにファースト・スティント分の燃料を積み、走った。とはいえタイヤがどれくらいもつのか定かでないため、かなりのマージンをとってのことである。中でもネルガルは燃料を少なめに、つまりタイヤへの負担をできるだけ小さくする作戦をとっていたのだろう、ポール・ポジションを奪ったのは明人だった。
だが、残る6チームは惨憺たる結果だった。その6チームの中ではトップであるナオたちローランは、大事をとってアタックを取りやめ、ラップモニターには『No
Time』の文字が浮かび上がった。
彼らを含めてアタックをしなかったチームは2つあったが、アタックをしたチームもそのタイムは明人から4秒以上も離されてしまったのだった。
予選後の記者会見でも、北斗はもちろんのこと明人と赤月にも笑顔は欠片もなかった。簡単な受け答えでそれを済ませ、全チームの代表とドライバーが一同に会する緊急会議に出席するため、ホテルへと向かったのである。
「つまり、どういうことなんでしょうか」
道すがら、小声で明人に尋ねてきたのはハリだ。
「つまり、タイヤの登録変更を何とか連盟に認めてもらおうということだよ。それさえ通れば、あとはいつもの週末になるはずなんだ」
もう十分にいつも通りではないけれど、と明人は付け加えた。
「認められなかった場合は、どうなるんです?」
「さあ………とりあえず、史上最悪のレースになることは間違いないだろうけど」
3周も走れないタイヤでレースなど、自殺行為である。明人たちにしても、ともかくいつもよりももたないということが分かっているだけで、いったい何周までなら確実に走りきれるのか、定かでないのだ。
(もし、認められないのなら……)
明人がそう心の中にひとつの結論を導き出そうとしたときだった。横でプロスペクターが苦笑いを浮かべた。
「ハリ君、貴方もこの世界にいるのだからある程度ご存知かとは思いますが、FAにはテクニカル・レギュレーションとスポーティング・レギュレーションという、二つの規則があります。前者はその名の通り技術規定で、タイヤの寸法やエンジンの形式などを定めます。後者は競技規則。レースがどのように運営されるかを規定しています」
「はい。一応……教わりました」
「今回の問題は、その両方に発端がありましてね。まずタイヤそのものに関して、『最低限、何キロ走れなくてはならない』と定めた条項は、技術規則にはありません。作戦上、必要なタイヤのライフというのは、タイヤメーカーも各チームも知っていますがね。一方、レースで使用するタイヤは、週末初日にタイヤメーカーが連盟に申請した中から、各チームが1日のフリー走行でテストをして決めなければなりません。これは競技規則に明文化された規定です。そしてタイヤメーカーが契約しているのは、決して連盟ではなく、我々チームなのです」
ハリはきょとんとした顔をして、ライバルチームの代表を見ていた。たぶん自分も去年はこんな風だったのだろうと、そんなハリの様子を見ながら明人は思った。
「つまり、走れないタイヤを持ち込んだタイヤメーカーは、悪くない。悪いのは走れないチームだ、ということになる」
明人が付け加え、プロスペクターは頷いた。ハリもやっと頭が追いついたらしく、驚いた顔をして明人を見た。
「そんな、危険を承知で走らなければならないなんて………」
「危険を冒して走れという規則はありませんがね、危険を回避しつつ走れという規則はあるんですよ」
「第151条C項だ」
明人が呟いた。
「その通り。国際モータースポーツ法典にそういう規定がありましてね。連盟の切り札にして常套句ですよ。要するに、フォーミュラ・アーツの権威を失墜せしめたる者は罰せられる――そういうことです」
それはいわゆるスポーツマンシップに関する条項で、レース中に危険なブロックをしたと見なされたドライバーにも適用される。その場合はペナルティが課せられるが、今回も同じだろう。もしこれから行われるレースが史上最悪のものになったら、それはチームの責任にされてしまうのだ。チームに課される罰は、ドライバーへのそれに比べてことさら重い。
明人は溜息をついた。
規範というものは、往々にして正しいものだ。少なくともそれが創られたとき、その精神や目的は、正しいものであったはずだ。しかし人は、たった一行か二行のそれを数限りない現実に当てはめようと四苦八苦するうちに、故意か否かにかかわらず、色々な思惑によって捻じ曲げられた道を行ってしまうのである。
「プロスペクターさん」
明人はちらりとハリをうかがってから、プロスペクターに向き直った。
「もし僕たちの要望を連盟が受け入れないのなら、彼らは――6チームの皆は、走れないんでしょう?」
「でしょうな。大雨の日に、紙でできた靴を履いて出掛けるようなものです。もっともドライバーにとっては、足が濡れるどころの話ではありませんが」
雨の中を裸足で歩いても直ちに死ぬようなことはないだろうけども、時速400キロでタイヤが吹き飛べば、いかに安全性の向上した現代のFAマシンでも無傷では済むまい。インディアナポリスでのオランの事故が、再びここモンツァで起こる。
明人は、先ほど決心しかけていた自分の選択肢を、いまはっきりと見極めた。
「プロスペクターさん、もし連盟があくまで譲歩しないというのなら、僕は、僕たち4チーム側のドライバーとも話し合いますよ」
ハリは再びきょとんとした表情だった。FAでの経験の短さと、その前の経歴のせいもあるのだろう。やはり彼はこうした裏の多い会話にはついていけないようだった。だが、できることならこれからもずっとその方がいいと、明人は心の中でハリに言った。
プロスペクターは明人の言いたいことがわかったようで、難しい顔をしていた。
「だから、我々は皆この案に同意しているんだ。それなのに何故許可できないんだ?」
『今年の規則にそう書いてあるからだよ。登録されていないタイヤを使ってはならない、とね。だが、その新たなタイヤというのがそこにあるのなら、使っても構わんよ。もちろん失格となるが』
苛立ったチーム代表の声が会議室内に響き、ほとんど間断をおかずにスピーカーからの声が答える。
会議と言っても、電話会議だった。世界自動車連盟の会長はいま、モンツァには居ないのだ。連盟の本拠地となるイギリスと、このホテルの一室が電話で繋がれているのである。
次に口を開いたのは、プロスペクターだった。
「いま我々は、他の6チームに比べて幾許かは有利にあります。もちろん、満足にレースをするには双方ともパフォーマンス不足は否めませんがね。しかし、その有利を捨てても彼らに同意すると言っているのですよ。それに、我々の両方が新たなタイヤを用意することで、仮に我々全てが同じペナルティを受けることになったとして、誰が喜ぶんです? 観客が求めているのは、公正で且つ興奮を駆り立てるレースでしょう」
ネルガル、カヴァーリをはじめとする4チームは、本調子でないにせよなんとかレースを走りきることだけはできるだろう。だがそれはタイヤを労わりながら走っての事で、無理な戦いなど望むべくもない。
FAはモータースポーツであって、競い合うことにこそ意義がある。観客が望むのもまた、それなのだ。
『ペナルティは常に悲しむべき措置だよ、プロスペクター君。私はかつて、誰かを喜ばせるためにペナルティを課したことはない』
電話の向こうで、FAを牛耳る連盟の会長は言った。
『残念なのは、双方のタイヤメーカーがこのイベントに対応し得るタイヤを用意できなかったことだ。我々連盟はこのFAを公正でエキサイティングなものにするためにルールをつくり、君達もそれに賛同した。それが例え君達全員の合意の上とはいえレースの度に変わってしまうのなら、いったい何のためにつくられたんだ?』
彼の言い分もまた正しいと、明人は思った。ルールは守られなければならない。だが同時に、ルールが常に正しいということはあり得ないのだ。
「我々は」
口を開いたのはバールである。今、FAで最年長のドライバーであり、また最も経歴の長いドライバーだった。彼は、明人の父が事故死する一年前、この世界に足を踏み入れたのだった。
「我々ドライバーの意見がどれだけ反映されるのか、私も知らない。しかし我々ドライバーの誰もが、君の寛大な判断を願っているだろう。誰も欠けることなくレースをしてこそ、このイベントは最も盛り上がるはずだ。それに、安全が確保されないのなら我々だって走ることはできない」
彼はそう言って周りを見回したが、集まっていた全てのドライバーから異論は出なかった。明人も黙って、彼の言葉を支持した。
『君達の言い分は理解できる。だがもし、天河治己がここに居たとしたら――』
突然出てきたその名に、明人はかっとなった。
「貴方が父の話をするなら、僕もそうする。父なら、まず何をおいても観客を第一に考えたはずだ」
『…………………………』
明人が噛み付くように言い返したものだから、電話の向こうの声は黙り、会議に出席していた人間達もしんとなった。
しばらく沈黙が続き、それを遮ったのは連盟会長だった。
『……すまないが、これからオーシャン・ファンドとの会合がある。知っているだろう、我々世界自動車連盟は、何もフォーミュラ・アーツだけを主催しているわけではないからね。君たちの見解が変わったときは、教えてくれたまえ』
そう言って彼は、電話を切ってしまったのだった。
to be
continued...
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