FLAT OUT

(29)






 俺が崖から落ちたくらいで死ぬか、と笑っていたジロの声が思い出された。それは、電話越しだった。
「そんな馬鹿な」
 明人の第一声はそれだった。
「……エリナ、たちの悪い冗談だよ。それは……この間の事故のことだろう? 彼は無事だったって――」
 言いながらも明人は、自分の声が震えているのがわかった。
 だってそうだろう、彼とはほんの数日前に電話で話をしたばかりなのだから。
「違うのよ」
 エリナの重い声が、一層明人の胸に突き刺さった。
「一週間前の事故から、山田君は生還を果たしたわ。それとは別。ラウジッツリンクでの、プロトタイプのテスト中よ」
 もう、明人の頭からこれまでの会議はなくなっていた。いや、何もないと言ったほうが正しい。頭の中は真っ白になっていた。
「そんな………いつ……?」
「事故は今日の午前中。病院に運ばれたんだけど……すぐに、死亡が確認されたそうよ」
 死亡、という言葉が再び耳に響いたとたん、明人は目の前が真っ暗になったような気がした。
 そんな馬鹿な、と明人はもう一度思った。
 だが、エリナは決して嘘を言わない。もし一度でも彼女が嘘をついたことがあったなら、明人は彼女にマネージャーを頼みはしなかったろう。そして明人は、いつかこんなことが起こるかも知れないということを、常に覚悟してはいたのだ。――ただ、それがあまりに衝撃的な訪れ方をしただけで。
「山田君は、いつものテスト走行手順どおり、タイムアタックをしていたというの。姿勢を乱したのは、一番速いコーナーだったそうよ。マシンのモノコックは彼を守って、外傷はなかったというわ」
「なら………なら、どうして」
「直接の死因は、脳挫傷と頚椎骨折。身体は守られたけど、頭だけはどうしようもないわ。………ほぼ即死、と」
 彼女はそう言って、辛そうに目を伏せたのである。

(あのジロが――?) 

 俺が死ぬわけないだろう、と何とも無根拠な自信で、しかしその言葉を常に実践していたジロ。崖から落ちたって、ぴんぴんしながら電話を掛けてきてくれた。
 だから明人も、心のどこかで安心していた。彼が死ぬはずはない、と。誰か知り合いのレーサーが不幸に見舞われることになったとしても、それは彼ではない、と。
 それが今、打ち破られたというのだろうか。
「そんな…………そんな」
 身体が震え、明人は壁に両手をついた。腕の間に頭を垂れ、見えるもの全てが空虚に包まれている。たまらず目を瞑った。とたんに、涙が溢れてきたのだった。
「明人君……」
 小さな声に明人が振り返ると、エリナもまた瞳に涙を溜めていた。あまり親しくはなかったが、明人の親友である彼を、彼女もよく知っていたのである。
 明人にとっては、そんなエリナが意外だった。彼女なら、どんなに悲しくても意地で涙は見せないだろうと思っていた。たぶん出会ってすぐの頃の彼女だったら、本当にそうだったに違いない。
 そっと腕を回したのは、明人が先だったろう。それは今、悲しみを少しでも分って欲しいという思いが、明人のほうが強かったからである。
 エリナはそれを受け入れてくれた。彼女は姉か母親のように、涙を流す明人の背を優しく撫でてくれたのだ。明人は肩が震えるのを止められず、一瞬衝立の向こうの会議を思い出しはしたのだけれど、すぐにそれを振り払った。もうそんな議論は、どうでも良かったのである。


「…………エリナ、お願いがある」
 自分よりも小柄な彼女を抱き締めたまま、明人は言った。その口調に、エリナは全てを悟ったに違いない。彼女はそっと明人の胸を押し戻すと、いつものマネージャーの顔を少しだけ取り戻して、明人を見つめた。
「明人君」
 彼女が言いたいことを、明人は分っていた。そしてまた、彼女がそれを口に出来ないことも。
 明人はネルガルのファースト・ドライバーである。レースがある以上は、明人はネルガルの為にそれに出走する義務がある。その義務は、唯一妻子の大事においてのみ解除されるが、それの居ない明人にとって例え肉親の不幸があったのだとしても覆ることはなかった。
 エリナは優しいから、それを口にはしない。しかし明人の契約の一切を取り仕切る立場の彼女は、今後のためにも今ここで契約違反をする訳にはいけないということを、無言で言っているのだ。
「お願いだよ、エリナ。明日の朝までには必ず戻る」
「…………………」
 なぜ明人がそこまで懇願するのか、もちろん彼女だって分ってくれてはいるのだ。それは、我慢していたのだろう涙の筋が彼女の頬を伝い落ちたことで、明人にもわかった。
 どうしたらいいのか、明人にはさっぱり分らない。そういう契約ごとは、エリナ任せであるからだ。それは他の誰よりも彼女を信頼しているからだが、しかし彼女はあくまでチームと明人の仲介役なのである。彼女の一存で決められる問題でないことは、明白だった。
 だからそのとき、衝立の脇からかけられた言葉は、二人にとってみれば救いの声にも等しかった。
「どうかしましたか」
 そこには、チームの全ての権限を握るプロスペクターがいたからである。


 事の次第を話すと、彼はエリナほどに感情を露わにはしなかったが、それでも同じくらい明人を気遣ってくれているようだった。珍しく感情どおりの表情で、聞きにくそうに明人を見たのである。
「明人君、明日の朝七時半までに戻って来れますか」
「はい」
「タイヤの問題も、明朝までには決着がつくでしょう。今回ばかりは、寝坊して頂くわけにはいきませんよ」
「わかっています」
 プロスペクターの碧眼は、じっと明人を見据えていた。明人の友人であるとともに、ネルガルのチーム代表としてのその眼差しに、明人は強くうなずいた。
「……わかりました。タイヤ問題に関しては、全て現在の会議に委任して頂くということで構いませんね」
「はい」
「では、行っておあげなさい。貴方以外にも、多くの人が悲しみに暮れていることでしょう。彼らと悲しみを分かち合うことができるなら、こんな馬鹿馬鹿しい議論は時間の無駄です」
 そう言ってくれたプロスペクターに、明人は奇妙な懐かしさを感じた。その寂とした態度の奥に見える芯の強さに、明人は少しだけ父親を思い出したのである。
「ありがとうございます、プロスペクターさん」
 明人はそう言って、彼とも抱き合った。

 ネルガルが会議とは別の事案で騒がしいことに、周りのチームも苛々しているようだった。何しろ席についているネルガルの人間は赤月だけなのだから、彼は冷や汗をかいて鋭い視線の矢面に立たされていた。
 衝立の脇から三人が姿を現すと、やっとのことで視線はそちらに向けられた。しかしすぐにそれは、訝しげなものに変わるのである。
「プロスペクター君、いったいどうしたんだ」
 問いかけたのは、連盟寄りの立場をとっていた中堅チームの代表である。
「いえ、べつに。ただ天河君に早急の用ができたため、一旦席を外させて頂くということです」
 プロスペクターが事も無げに言い切るものだから、周りのチーム代表たちは驚いたように明人とエリナを見た。その視線を明人はざっと見回したが、そのほとんどは訝しげなものばかりである。胸の内に異様な怒りがこみ上げてきて、明人は視線を逸らした。
「だが、天河君は……。この会議が解決を得るためには、全てのドライバーの署名が必要になるだろう」
「委任状を書きます。それで良いでしょう。それとも……ご兄弟の不幸をこのまま彼に見過ごせと、強要されますか」
「……いや………それは……」
 驚いた表情とともに口ごもるチーム代表を、明人は見ることすらできなかった。
 なぜこうも判断力がないのだろう。いや、彼らは彼らなりにたくさんの情報を分析して精一杯の仕事しているのだ。何しろ彼らは、明人には逆立ちしたってできそうにない、チームの運営というものをやり遂げてきたのだから。しかし、それにしたって今しているその議論は、どうにも下らないものにしか見えなかった。
 このタイヤ問題の解決策など、明人にとっては一つしかないのだ。それはチーム側が一致団結して連盟会長を説得することである。このままでは、一番の被害者は観客になってしまうじゃないか。それだけは避けなければならないのに。
 たしかにFAは莫大な金がかかるスポーツだけど、あくまでスポーツなのだ。それを応援してくれる人々がいなければ、全く話にならないのである。そのためには、FAは常にそれらの人々が応援したくなるような存在でなければならない。チーム間の政治的駆引きがイベントを台無しにするなど、あってはならないことなのだ。

 プロスペクターの目配せを機に、明人はそれらの群集を尻目に扉へ向かった。
 扉を開けると、どこから嗅ぎつけてきたのか、廊下には記者の人だかりができていた。彼らは、明人が泣きはらしたような顔で出てきたことに驚いたのだろう。しばらく黙って明人を見つめていたが、その中の一人がおずおずとマイクを差し出した。
「あの……聞いてもいいですか。中では、何が……?」
 その問いに、明人は再び怒りがこみ上げる。それはもちろん、目の前の記者たちに対するものではない。扉を開けたときから、明人の背には彼が不用意な発言をしないだろうかという視線が、いくつも感じられたのだ。
「何が起きているか、かい」
 明人はにこりともせずに聞き返した。すると即座に、いくつものマイクが明人の顔の前に伸びてきた。
「分らないよ、僕にもさっぱり」
 それらに向かって言った明人は、ちらりと背後を見た。たぶん今の自分は、怒りを露わにしているに違いない。しかしその怒りは、悲しみが転化したものだ。
 その悲しみは、もちろん一つには親友を喪った悲しみだった。しかしもう一つは、これだけ優秀な人間がたくさんいるのに、いつになっても正しい道が選ばれないことへの悲しみだった。
 それに気付いた途端、明人の表情からそれまでの険しさは消えていた。本来の感情だけが、怒りを覆いつくして消してしまったのだった。
「皆の中に知っている人がいたら教えてくれ」
 記者たちはぎょっとしたように明人を見つめ、一言も発さなかった。そして明人は、そこにいる全ての人に聞こえるようにはっきりと、言ったのである。
「――僕たちはいったいここで、何をしているんだ?」
 チーム関係者も含め、誰もがしんとなって扉の人だかりを見つめる中、明人とエリナはそこを後にしたのだった。






 ドレスデンの空港からレンタカーに乗った明人とエリナは、そのまま大学病院へと入った。事故後、ラウジッツリンクに程近いクレットヴィッツの病院では手に負えないかも知れないとの判断で、彼はドレスデンの病院までヘリコプターで搬送されたのだ。
 そこに着くと、たくさんの人々がハンカチで目元を拭っていた。大半はチーム関係者なのだろう、オイルに汚れたままのメカニックスーツの男が、声を押し殺すようにして泣いているのも見えた。
 明人に気付いたのは、サラだった。アリサもいる。言わば明人の幼馴染でもある彼女らにとって、明人の家に三年間居候していたジロは、兄妹のようなものだったのだろう。サラは泣きはらした様子で瞼を腫らし、アリサはいつもの冷静な顔つきをさらに固くしていた。
「明人……」
 気付くなり駆け寄ってきたサラを、明人は抱きとめる。こういうところは、アリサよりもサラの方が感情を素直に表に出した。
「週明けには、日本に戻られるそうです。……明日の朝には、ご両親が到着される、と」 
 アリサが小さな声で言った。司法解剖が終わり次第、彼の遺体は日本に帰されるのだろう。明人はジロの両親を思い出そうとしたが、できなかった。それはどこかで、怖かったからかも知れない。
 アリサの口調は、まだチームメイトの死が信じられないようでもあった。

 今のプロトタイプは『グループC』の教訓が生きていない危険なマシンだと、ジロが言っていたのを思い出した。最高速度は時速400キロを誇るが、路面の変化に弱く、空気の流れにも神経質なマシン。それがジロを殺したのだと思えば、夥しいばかりの怒りも生まれるだろう。
 しかし、明人が心の奥底に芽生えた業火のような感情を収めることができたのは、そこにいる人々の顔だった。
 チーム関係者の多くは、明人の顔を覚えていてくれたらしい。一人一人が声をかけてくれて、レーサーの山田二郎が成し遂げた偉業を讃えていった。それは史上最年少のル・マン制覇であったり、プライベーターながら健闘したラリーの話であったりしたが、そのうちに明人は彼らの本心に気付いたのである。
 中には、そこまで彼を知らない人もいた。最近チームに加わったばかりのスタッフだったが、それでも涙を流して彼の死を悲しんでいるのである。それが意味するのは、彼らを惹きつけたのがジロの能力ではなく、その人柄だったということだろう。
 掛けられてゆく言葉のひとつひとつが、明人には嬉しかった。ジロは人好きのする性格であったから、多くのスタッフ達とも上手くやっていたろうとは思っている。だが、チームの代表も含めてそこに集まっている彼ら全員のその表情に、それを改めて感じたのである。
 彼らにとっても戦友の死は耐えがたく辛いものであろうに、未だ着替えてもいないメカニックもチーム幹部も、口々に明人を慰めてくれさえした。
「彼は君のことを、本当の弟のように自慢していたよ――」
 そう言ったのは、チーム代表だった。それを聞いて、明人の涙は止まらなくなってしまったのである。
「何が起きたのか、我々も分らない。今季、残る全てのレースは棄権するだろう」
「………では、いつかまた、復帰してください。彼のためにも」
 父親よりも歳の離れた彼は、明人の倍ほども幅のある、大柄の男だった。人の良さそうな小さな目に涙を光らせて、まるで我が子を抱くように、明人を抱き締めた。
「ありがとう、テンカワ君。――君は、強い人だ」
 そう言って彼は、足を引きずるようにして病院を出て行った。


 病院を離れ、近くの閑散とした小さなビアホールのテーブルを囲むようにして、明人たちは座っていた。病院のすぐ近くだからか、そこはそういう客が珍しくないらしく、わざわざ空いている一角を貸し切りにしてくれた。
 日はとうに暮れ、明人がイタリアへ戻る時間が近付いている。それをハーテッド姉妹にはまだ知らせていなかったが、明人もその時まで自分から口にすることはできそうになく、黙っていたのだ。
 時間だけは、滞ることなく流れていた。

 椅子の背にもたれかかり、星の瞬いている夜空を明人はぼんやりと見上げていた。中庭のようなそこから見上げる空は、まるで壁掛け用に四角く切り取られたかのようだった。額は、重厚なバロック建築だろうか。
 いまこうして明人が夜空を眺めている間にも、モンツァでは寸暇を惜しんで問題への対策が練られているはずだ。たった三日間のレース週末ではあるけれど、息をつく暇もないほどのそれが途切れて静かに過ごしている今を、明人は不思議な感覚とともに受け止めていた。

(スピードって、なんだ?)

 明人は心の中で、自問した。今さっき、チーム代表には体のいいことを言ったのに、考えてみれば、自分はまだそれに答えを出していなかったのである。

 スピードは、いつも明人から大切な何かを奪ってゆく。最初に父を失い、そしていま親友を失った。明人がこの世界にいたからではない。この世界が、彼らを死に至らしめた。
(先駆者の罪、か)
 明人はグラシスの話を思い出す。
 航空黎明期、幾人もの先駆者が翼を得んとしてその命を散らせた。人が翼を得る代償として差し出したたくさんの犠牲がそれであるなら、いつそれは途絶えるのだろうか。
 レーサーも同じだ。パイロットたちがまず地から足を離すことを夢に見、次はさらなる高みへ、そして音の壁を越えてゆくように、レーサーもまたスピードの限界へと挑戦し続けている。それこそが、自分たちの存在意義だからだ。
 グラシスの言ったとおり、実際にはそれらの挑戦者たちにとって、たとえ志半ばであろうとも前のめりに倒れたのは本望なのかも知れない。それなら遺された者はそれを悲しむのではなく、讃えなければならないのだろう。
 だが、悲しまずにはいられないのだ。どんなにレーサーだの夢だのと理由を見つけても、それはあくまで美学でしかなかった。ほんの一週間前に電話で談笑した、兄弟とも慕う人間が二度と会えない存在となって、それを讃えることなどできようはずもなかったのである。


 明人の脳裏には、ジロを送る言葉が一言も思い浮かばなかった。
 彼の偉業を讃えるというのも、今のその悲しみに比べれば建前のように思える。かと言って、戻ってきて欲しいという本心をそのままにぶつけては、天に昇る彼が困るだろう。そしていまの明人にとって、本心が本心であることはもちろんのことだが、題目のような建前もまた、本心から理解できるものであったのだ。
 それは決して矛盾ではなくて、至極在りがちな、現実と理想のそれぞれだったのである。
「……ジロは無事に天国に着けたかな」
 明人はぼんやりと、そう呟いた。もちろん悪気はなかったが、視界の隅でサラがぽろぽろと涙をこぼしたのを見て、しまったと思った。
 彼女の肩を抱いてあやすようにしながら、明人は残る二人も確かめる。アリサは明人と同じで、もしや明日は我が身という覚悟がどこかにあるのか、悲しんではいるけれども冷静だ。エリナは明人を気遣ってくれているようで、さっきから何も言わずに黙っていた。
 そのときである。二つ離れたテーブルから、ろれつの回らない怒鳴り声が聞こえた。
「なんで、棄権なんだよ!」
 明人達が視線を向けると、それはチームのスタッフだった。年齢は、ジロと同じくらいだろうか。彼は立上がって、同じ席にいた年輩の男を睨み付けているのである。
 今年の残るレースを棄権することに納得がいかないのだろうと、明人は思った。レースと事故は、切っても切れない関係である。父が死んだ時も、即座にレースは再開されたのだ。今回だって、どんなに不幸な事故だったとはいえ、レースチームである以上はレースをすることを最優先とすべきだ――彼はそう言いたいのだろうと思った。
 だが、明人はすぐに後悔した。そして彼に心の内で懺悔したのである。
「まだ原因が分っていないんだ。今走ったら、同じことがまた起きるかも知れないんだぞ」
 座っていた男が慰めるようにして言った。それを聞いて若者は、にわかに声を落とした。最後の力が抜けたようにすとんと椅子に座ると、嗚咽とともに言うのである。
「わかってるよ。でも、あいつは俺たちの為に走ってたんじゃないか。みんなで勝とうぜって、走ったじゃねぇか。それなのに今、俺たちが立ち止まっちまったら、どうやってあいつに報いりゃいいんだよ。畜生、なんだって俺は、ドライバーじゃないんだ」
 年輩の男はアリサに気付いたらしく、立ち上がれない彼に肩を貸して、出て行った。
 明人は、唇を噛み締めてそれを聞いていた。袖を掴むサラの手が、震えている。彼女は必死で、声を上げて泣き出すのを我慢していた。
「明人さん」
 アリサが言った。
 彼女もまた、ジロに報いる為にも走りたいだろう。チームは皆、同じ思いでいるはずだ。明人はふと思った。スピードとは、そういうものなのかも知れない、と。
 アリサは少し考えるようにしてから、顔をあげた。
「実は私、FAのあるチームから来年のオファーを受けているんです。テストドライバーですけど」
 明人は驚いたが、彼女の実力を考えればそれも当然だろうと思った。サラもしばし泣き止んで、アリサを見つめる。最近はマネージャーも兼ねていると言っていたサラだから、もしかするとその話は彼女も知っていたのだろう。
 アリサはどうするのだろうかと、明人は先を促した。すると彼女は、小さく微笑んで、言うのである。
「今回は、断ることにしました。来年、このチームにタイトルをプレゼントしてからにします」
 今度こそ明人は驚いた。しかし彼女の朗らかな笑みにそれも薄れ、むしろ嬉しくなってくる。
 アリサは強い。チームメイトとして、またライバルとして闘ったジロの為に何ができるかを、すぐさま自分の中から導き出した。そしてその為に、自らのチャンスをも捨てると言うのだ。明人には、彼女の笑顔がとても眩しく思えた。
「FAは厳しい世界だよ。一度チャンスを逃すと、二度と巡ってこないかも知れない」
 それは半分本当で、半分ははったりだった。明人自身、彼女にそんなチャンスが巡って来るのがこれ一度切りだなどとは、思っていなかった。
「大丈夫です。来年はもっと速くなりますから」
 目標さえあれば、悲しみは乗りこえられる。それは明人が父の死を乗り越え、ジロとともに再びハンドルを握った時に感じたことだった。
(じゃあ、僕の目標は……?)
 それは、タイトルを奪ることとも違う。それだけならば、これまでも目標にしていた。
 では、再び訪れた近しい者の死は、自分に何を与えたのだろうか。失ったものはもはや取り戻せない。そこから、何を得たのだろうか。それを明人は、考えていた。


 また少し時間が経った。遅くまで残っていたスタッフたちも、三々五々、散っていって、今は数人が残っているだけである。弔い酒だと、正体を無くすほどに酔いながら泣いているメカニックを、仲間が肩を貸しながら帰っていった。
 明人の隣の席は空いていて、そのテーブルにはビールが一杯、コップについで置いてある。ジロの分だ。明人は明日があるから飲めないけれども、それは酒にあまり強くないらしいサラたちも同じようだった。
「そういえば僕が初めてお酒を飲んだのも、彼にビールを飲まされたからだったな」
「知ってますよ。時々、雪枝さんに内緒で彼が持ち込んでいるのを見ました」
 明人がジロのコップを眺めながら言うと、アリサがそれに返した。
 当時、明人が口にしたのは、いまテーブルにおいてある黒い地ビールではなかったが、思えば明人が極端にアルコールに弱いのが分ったのも、あの時だ。
「明人さんがベロベロになって、二人して怒られてましたよね」
「あー…………そうだっけ?」
 ははは、と明人は弱々しい苦笑いを浮かべる。

「そうだ、エリナは知らないと思うけど………サラとアリサには、話したかな」
 ぽつりと呟くようにして口を開いた明人に、エリナが顔を上げた。
「僕の日本語って、半分は両親に教わったんだけど、もう半分はジロなんだよ」
 明人を英語で育てたのは両親だ。もちろん生粋の日本人である彼らは、故郷の言葉も同様に明人に教えた。それでも、とくに日本人学校に通うこともなく、ふつうにコヴェントリ市内の学校に通っていた明人は、普段暮らす分には英語が九割を占めていたのである。
「ジロと初めて会った時のことなんだけどね。彼は元々日本で生まれ育ったんだけど、親の転勤でイギリスに来たんだ。でもそれが十歳くらいのことで、英語はそれほど得意ではなかったらしくてね」
「そう……かも知れませんね。その年齢だと」
 悲しみを隠すようにして話す明人に、アリサがやはり小さく相槌をうった。サラは明人に肩を抱かれたまま、じっとしている。
「彼の両親は、敢えて日本人学校には行かせなかったらしい。身をもって異文化に触れろ、って。すごいご両親だよね」
「……でも、山田さんなら何とかしてしまいそうですよね」
 この中で明人の次にジロの性格を知っているのは、アリサなのだろうか。或いは、サラか。同じドライバーとしてわかる部分と、一歩離れたチームスタッフとしてわかる部分と。だが、それらは同じではあるまい。アリサの知っているジロと、サラの知っているジロもまた、違うのだろう。
「何とかしてみせたよ、ジロは。但し、僕をかなり巻き込んだけど」
「………………」
 腕の中でサラが身じろぎをしたので明人が覗き込むと、彼女は「やっぱり」という風に小さく笑っていた。その頬には、涙が筋をつくったままだ。
「でも、それで良かった。当時は僕自身も、父の事故を引きずっていたからね。光の遠い、井戸の底から僕を引っ張りあげてくれたのは、ジロだったんだ。彼は、半ば強引に僕をカートコースに誘ってくれた」
 なんでもジロは、明人の父、天河治己にずっと憧れていたらしい。父が事故死して彼も大きなショックを受けたそうだが、その後そうして明人と出会ったのも何かの縁だと、妙に彼は世話を焼いたのである。
「僕にとってモータースポーツは、あの事故以来どうしても正視できるものではなかったんだ。まして自分がそれに携わるなんてね。でもジロはああだから、『親父さんが何をしていたのか、知ってからでも遅くはねぇだろ』ってあっさり言ってくれたよ」
 そういえば明人の日本語にジロ曰く『エド弁』が混ざり始めたのは、この頃かららしい。
 だいたい自分の母国語を、それを知らない友人に教える時、最初は卑猥な単語を覚えさせてからかうものだ。根が真面目だった明人はそんなことはしなかったが、ジロはそうではなかったらしい。明人がジロに教わった言葉を母に尋ねたら、彼女はその場で皿を落として割ってしまった。
「何を教わったの?」
「えっ? それは………まぁ、その、美意識に関する表現の一種というか」
 悪気はないのだろう、涙に少しかすれた声で尋ねてくるサラに、明人は苦笑いを浮かべて返す。その向こうではアリサが何かに気付いたのか、僅かに頬を染め、後ろからはエリナが小さく笑うのが聞こえた。

 明人に笑顔を取り戻させたのも、やはりジロだった。そんなからかい合いから、ときおり無茶をしたりもしながら、どこか訛りの強い英語で同級生の皆を巻き込んで馬鹿騒ぎをした。フェンシングの授業にわざわざ日本の実家から取り寄せたらしい『剣道着』を着て現れたのも、騎士道を重んじる先生を激怒させたものの、明人を笑わせることには成功した。
 そして明人が彼に心を許すようになった頃のことである。ジロは、彼がモータースポーツの盛んなイギリスで手を出してみたいと思っていたというカートコースへ、あろうことか通訳として明人を誘ったのだった。
「――僕にとって、ブランクはその何年かかな。あの事故から、ジロに会うまで。何年か振りにハンドルを握ったとき、気付いたよ。父さんのことはあるけど、やっぱり僕はそうやってハンドルを握っていたかったんだ、ってね」
「じゃあ、明人君の今は彼のおかげでもあるのね」
「うん、正にその通りだよ」
 エリナの言葉に、明人は微笑んで返した。
「僕がエリナと会った頃……ジュニア・フォーミュラに上がったとき、またジロのお父さんが転勤することになった。ええと……トルコだって言ってたかな。でも当時、彼は僕と一緒にモータースポーツにのめり込んでいて、それが最も盛んだったのはイギリスとドイツだったんだ。ある日いきなり家に押しかけてきて、『悪い、泊めてくれ』って言われた。まさか三年も泊めることになるとは思わなかったけど」
 そこから同居生活が始まり、明人がユーロ・マスターズに参戦するまで続いた。明人がヨーロッパ中を転戦するようになって、家に帰れない日が多くなってくると、頃合を見計うようにジロはツーリングカーへと移り、家族の下へと戻ったのである。
 今思えばそれは、彼なりに明人の全快を見届けてから離れようと思っていたのかもしれない。
「本当に、ジロにはどんなに感謝しても足りないんだよ。なのにね」
 そう言って明人は、言葉を切る。
「――悲しいよ。彼の親友としての僕はこんなに色々思い出して言えるのに、レーサーとしての僕は、何一つ彼に送る言葉もない」

 閉店を告げる鈴の音が、チリンチリン、と流れて消えた。










to be continued...


……………後書きに添える言葉もない。(爆)


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代理人の感想

合掌。

ガイの魂よ、今はただ安らかなれ。