FLAT OUT

(31)






 人は多くの事柄を、それに直接は関係ない場所や風景とともに、記憶に残してゆく。それらは時に肝心の本題を思い起こすきっかけにもなって、記憶のページに貼っておく付箋としてはちょうどいいだろう。
 そして明人にとって、モンツァはまさにそんな場所となった。
 ウィークエンドのたった三日の間に起きた出来事は、明人を変えはしなかった。親友の死に心惑わされなかったと言えば嘘になるが、それでも明人は自分の歩むべき道を見失うことはなかったのである。
 日本での葬儀に、明人ももちろん参列した。ジロの両親は明人を見て、息子に再び会ったかのような涙を見せた。そして明人を、親類縁者の席へと案内してくれたのである。
 サラやアリサなど、チーム関係者も多く見られた。赤月も、ジロには一回会っただけだというのに、来てくれた。たぶん、明人を気遣ったのだろう。告別式が終わってヨーロッパへの帰途につく明人を、珍しく彼がハンドルを握って、空港まで送ってくれたのだ。
 自分の周りには優しい人間ばかりいると、明人は思ったのだった。




 それから一週間が経って、明人の心も少しは晴れていた。帰ってすぐのテストは気を紛らわす為のもので、週末のフライトクラブもそうだった。グラシスも察してくれたのか、とくにステップアップを望もうとはせず、遊覧飛行のようなフライトだけだった。ただ、単独飛行はさせてくれなかったけれども――。
 そしていま、明人は再び喧騒の中に戻ってきている。もう少し時間があれば、もっと万全な状態に戻れただろう。しかしファンはそれを待ってはくれない。明人もまた、ファンを待たせたくなかった。
 ジロがそうであったように、明人もまた、挑戦者なのだ。
「貴方の株、上がってるわね」
「………なんで?」
 エリナに言われ、明人は少し彼女をうかがってから聞き返した。
 あれからエリナは、ヘリコプターの中で起こったことを一切顔色にも表さなかった。まるで忘れたい事故のように、何も言わないのである。もちろん明人は、彼女の口付けが揺れによるものでないことにも気付いていた。だからこそ、明人としても何も言えなかったのだ。
 一週間のうち八日は雨が降っているとさえ言われるアルデンヌの森を、今日もどんよりとした雨雲が覆っている。しとしとと降り止まない雨にやっと持ち直した明人が影響されないかと、エリナはそれを心配しているようだ。それは、いつもの彼女のようでもあった。
「色々、よ。私達が載るような雑誌に、脚色されない記事はないもの」
 ああ、と明人は思った。
 最近、ジャーナリスト達の間でも明人の評価は二分され始めている。一方は、観客を第一とし義理堅く涙もろく、如何なることにも人間臭い明人を称賛し。もう一方は、たかだかFA二年生のルーキーがわかったような口を、と蔑む。
 明人は、どちらも気に留めていなかった。それらは結局、視点が変わっただけで同じ事実であることには変わらないからだ。
「まあ………書きたいように書いてくれればいいよ」
 そう言って明人は立ち上がる。エリナは、明人の淡々とした態度がいつものそれなのか、それとも親友の死を振り切れないでのものなのか、判断に困っているようだった。
 大丈夫だよ、と小さく微笑んで見せて、明人はガレージを出た。
 ベルギーの山深く、スパ・フランコルシャンの週末は、一日目が始まったばかりである。

 いったんモーターホームの個室に戻り、明人はジャケットを探した。さすがにエリナが管理しているだけあって、クローゼットの中は整頓されている。すぐに見つかったそれを羽織って、再び外に出た時である。パドック裏でひそひそと話す声が聞こえてきて、明人は思わず足を止めた。
「たしかに悪くない案ではありますがねぇ。高くつきますよ」
 プロスペクターの声だ。高くつく、と言ったその口調が見た目に会計士のような風貌の彼にことさら似合っていると、明人は思った。
「僕らの目的はなんだい。レースに勝つことだろう」
 どちらかと言えば彼に答えて言ったその声に、明人は驚いた。それは間違いなくチームメイトの声だったからだ。
「貴方は、それでいいんですか?」
「ふむ…僕個人の意見はこの際どうでもいいんだ。チーム代表は君だしね。勝つためにはなんでもする。それがこの世界だし、あちらさんもまんざらではないんだろう?」
 赤月の言葉に、プロスペクターが小さく苦笑するのが聞こえた。
 明人は顔を顰めた。ドライバーがチームの渉外戦略に口を出すことは、通常ではあり得ない。プライベートな話――たとえばチームとの契約についてなら、マネージャーを通すはずだ。それが最初に疑問を抱いた部分だったが、赤月の言葉に明人は反感を持ったのである。
(勝つためにはなんでもする、だって?)
 そういう考え方が、明人は嫌いである。善悪の問題ではなくて、生理的に受け付けないのだ。だから契約に関してはエリナに任せっきりだったし、多分に政治的なFAの内情もそういう意味ではついていけなかった。
 子どもの喧嘩ではない。殺し合いをしているわけでもない。ルールに乗っ取って、スポーツをしているのだから。綺麗事の通用する世界でないことは百も承知だが、せめてそれを視野の外に置きたいというのは、明人の本音であった。
 モンツァでそれに希望が見えたと思ったのに、同じチーム内で、しかもよく知った人間の声であることが、明人を悲しませた。
「私としては、貴方個人を随分と高く評価しているのですがねぇ」
「それはどうも」
 プロスペクターの言った言葉の意味はわからなかったが、赤月がそれに答えたのをきっかけに、明人は物陰から出た。二人はすぐに気付いたが、プロスペクターはともかく赤月も動揺すら見せなかったのはずいぶんと肝が据わっていると明人は思った。
「やぁ、おはよう。寒いね」
 赤月が言ったが、明人は答えなかった。
 彼が間違ったことを言っていないのは、わかる。勝つためには手段を選ばないのがFAという世界だ。もちろんそれはルールを破ってまでというわけではないが、しかしその手段にルールそのものを変えさせてしまうことも含まれていたとしたら?
 そこまでして得る勝利は、本当の勝利だろうか。そうは思えなかった。自分の土俵に相手を誘い込むのは勝負事の常套手段だが、ルールを自分に有利に変えてしまうのはインチキじゃないか。
 赤月がそう言ったわけではないものの、そういう勝てば良いという考え方が多くのスポーツを廃れさせる。競争というのは体のいい言葉で、結果だけを求める能力主義は、肝心の能力を育てることをしない。敗者を消し去り、勝者が勝者のための世界をつくり、拮抗した中でさらにどす黒い闘いが始まる。そして、そうやって出来上がった世界は醜く、脆いものだ。無駄と称された余裕を排除し、罪悪に張り詰めた風船は、触れただけでも割れてしまうだろう。世界は崩壊するのである。
 明人がちらりと赤月を睨むと、彼は少しだけ居心地悪そうに視線を泳がせた。
「コースの下見に行くのかい。そこにスクーターがあるから、それを使うといい」
 赤月が言った。
「――自転車でいくよ。ガソリン代も高くつくだろうからね」
 明人がそう答えると、赤月はおやといった風にプロスペクターと顔を見合わせる。そしてすぐに明人を見た。飄々とした態度は変わらない。それがまた明人を苛立たせた。
「盗み聞きとは感心しないな」
「君たちの密談も、あまり感心できるような内容ではなかったみたいだ」
 赤月は言ったが、別段明人を咎めている風でもなかった。彼が何かを隠していることは明人にも分ったが、その仕草は明人にそれを知るべきではないと忠告しているようでもあり、むしろ明人を気遣っているようにも見えた。
「密談はFAの十八番さ。まだ慣れていないのかい?」
「慣れたさ。でも君はそうではないと思ってた」
 明人はそう言った。なぜなら、赤月もまたレーサーだからだ。
「ドライバーだって色々いるよ」
 赤月は口でそう言っても、痛いところをつかれたという表情だった。
 明人自身は、レーサーたるものそういった政治的な駆け引きよりも、走ることに情熱を注ぐべきだと考えている。だが現実には、全体として見れば小国の国家予算にも匹敵せんばかりの金が動くこの世界で、ドライバーだけがその惨禍を被らずに済むことはできなかった。
「あまり深刻に考えない方が君のためだと思うよ」
 そう言って赤月はプロスペクターに目配せをすると、仕事があるからと去っていってしまった。

 しばらく彼の後姿を見つめていたが、やがて明人はプロスペクターに向き直った。
 明人はドライバーとして彼のチームに招かれ、彼のチームの為に働いている。そういう意味では彼は紛れもなく明人のボスであったのだし、その彼を真っ向から非難することは明人にもできなかった。
 プロスペクターは苦笑いを浮かべて赤月を見送っていたものの、明人の視線に気付いて振り向いた。
「ふむ………まあ、あなたのご不満ももっともでしょうな」
「…………………」
 所詮は違う世界の人間だと、そういう考えは良くない。明人は彼の言葉を聞きながら、自分を戒めようとした。たしかに彼はレーサーとは違うけれども、同じFAに参加する同志である。FAの根幹は、世界最高峰のモータースポーツであり、スピードへの飽くなき挑戦だ。ネルガルのイメージ増進だとか、そういった企業的な目的も彼は持っているのだろうが、そんなFAの意義を考えれば、明人とプロスペクターは同じ挑戦者なのだ。なぜなら彼もまた、現場の人間に違いないのだから。
 明人の考えていることが分かったのだろうか、プロスペクターは少し言葉を選ぶようにして、口を開いた。
「ですが明人君、彼には彼の考えがあってのことですよ。貴方が彼のことをとても大切に思っているように、彼もまた貴方を尊敬しています。人それぞれと言ってしまえば言葉は簡単ですがね」
「それはわかってますよ。でも、彼の本心は――」
 そんな表に出てこないような駆引きを、本当に赤月が望んでいるのだろうか。結果はともかくとして、それが本当に彼の望むことなのだろうか?
 赤月の消えて行った角を見つめる明人の表情に、プロスペクターは気付いたようだった。彼は少しだけ驚いたように明人を見ると、何か遠い昔を思い出すかのように目を細めたのだ。
 プロスペクターは俯いて、眼鏡を押し戻した。そうして上げられた彼の顔には、明人があまり見たくない微笑が、あったのである。
「――貴方は本当に、お父上に似てらっしゃる」
 彼の口から唐突に告げられたそれに、明人はどきりとした。
「……父に?」
 ええ、とプロスペクターは答えると、裏のガレージを見やった。午前十時からの練習走行に向けて、パドックを行き交う人もだんだん増えている。その光景を眩しそうに眺めるプロスペクターを、明人はちらりと横目で盗み見た。
 彼がネルガルのチーム代表になったのは、八年前のこと。明人の父であり、ネルガルのエースだった治己が事故死した、四年後のことである。それ以前もチームに関係していたのだろう彼が父を知っていても、明人は不思議に思わなかった。それに、彼がそんな表情をする理由もだいたい想像がついた。当時を知っている人間は、皆同じような顔をしてそれを回想するからだ。それは例えプロスペクターであっても、そうなのだった。
 やがて彼は明人を振り返り、にっこりと笑って見せた。
「分ってあげて下さい。赤月君は貴方の知っている通りの人間ですよ」
「……でも僕は、彼が知っている僕ではないかも知れませんよ」
 憤りも薄れて明人が呟くと、プロスペクターの笑みは自信有りげなそれに変わった。彼は明人の目の前に人差し指を立てて、言うのである。
「いいえ、彼も私も、貴方のことをよく知っていますよ。――いつも思慮深い貴方が、時々すこし早とちりであることもね」
 明人が驚きにプロスペクターを見つめると、チーム代表は普段あまり見せない柔和な笑みを浮かべて、小さく頷いた。そうしてガレージ内へ戻ってゆく彼を、明人は少しばかりの罪悪感とともに見送ったのだった。






 V字の第1コーナーから全開で加速して、時速330キロに達する頃にこのサーキットの名物はあった。
 コースは少し左に反れ、そこから右、左と続く高速S字コーナーである。それだけなら世界にいくつか例はあるが、その二つのコーナーの間が急な上り坂であるのは、ここスパ・フランコルシャンだけだろう。多くのドライバーが度胸試しのようだと称する、『オー・ルージュ』がそれである。
 一つ目の右コーナーは道が上り始めるところで、マシンが急激に地面に押し付けられるため姿勢を崩しやすい。一方で二つ目の左は、それが上り坂の頂上になっているものだから、カーブの向こうが何も見えないのだ。コースアウトするかのようにインに飛び込まなければ、全開のまま走り抜けることができない。そしてここを全開で抜けられなければ、次の長い直線で最高速度が得られず、あっさりと抜かれてしまうことになるのである。
 ハリは、世界がひっくり返ったようだと言っていた。
 とくに二つ目のコーナーで、普通の車が同じ速度でそこを走ったら数十メートルはジャンプしてしまうような上り坂の頂上を、FAマシンは強力なダウンフォースで地面にへばり付いたまま走り抜ける。その瞬間、ドライバーの身体はそれまで昇っていた勢いを、マシンによって強引に殺されるのである。シートに座っている感覚がなくなり、まるで逆さまになってしまったかのように、シートベルトが肩と腰に食い込むのだった。
 明人が初めてスパを走ったのはFAのレースでのことで、思わずアクセルを緩めてしまった。だが、2周目からは全開で行った。
(ハリも数周で慣れたろうか)
 パドックを歩きながら、明人はほんの一年前の自分を思い出してくすりと微笑んだ。
 そのときである。
「明人」
 後ろからかけられた声を、明人が聞き間違うはずもなかった。思えばジロの訃報を聞いてから彼女と話した記憶がなく、いつの間にか二週間が経っている。だが、心のどこかで彼女と話をしたいとは思っていた。
「やあ」
 明人が振り返って答えると、北斗は一瞬驚いたような顔をした。それが何を意味してのものか明人にはわからなかったが、彼女はすぐにいつもの仏頂面に戻って、明人に何かを差し出したのである。
「お前宛だ」
「僕に? ………誰が?」
 それは飾り気も何もない白い封筒で、宛名すらも書かれていなかった。予想はされたが、裏にも差出人の名はない。つまり北斗と親しい者が彼女に託したということだろう。
 いったい誰が、と思った明人は、北斗の表情に気付いた。彼女はこれ以上それに触っているのも嫌だという風に明人に押し付け、そっぽを向いてしまったのだ。
「もしかして………彼、から……?」
「そうだ。返事はいらんらしい」
 北斗に手紙などを託す人間がいるとして、明人ですらも知っているその人物といえば、一人しか思い当たらなかった。モンツァでひと目見たとき、手紙を書くような人物には見えなかったが。
「すぐ読むべきなのかな」
「レースが終わったら渡せと、奴は言っていたがな。あいにく俺は、人の言うことを素直に聞くような性格ではないのだ」
 だからいつ読むかは勝手にしろ、と彼女はちらと明人をうかがいながら言う。
 いったい彼が自分に伝えたいこととはどんな内容なのだろうと明人は思った。それが自分と父、そして北斗と彼――北辰に関係しないものであるはずがない。何故なら明人と北辰の接点とは、いまのところそれしかないからである。
 明人は封を切ろうとして、止めた。
「……レースが終わってから、読むよ。彼もそれでいいと言ったんだろう」
「………好きにしろ」
 彼女の表情は、本当にいいのかと問いかけているようにも見えた。しかし明人は、彼を信じることにしたのである。
 何があるにせよ彼の言ったことを信じなければ、自分の人生の転機となったあの事故の全てが、信じられなくなってしまいそうに感じられたのだ。



 第1コーナーは曇り空だが、反対側の第9コーナーでは雨が降っている。30分前までは、それが逆だった。典型的なスパ・ウェザーの中、午後2時きっかりに、レースはスタートされた。
 そして10秒後、誰もが今日の明人のレースはこれで終りだと思ったのである。同時に、北斗という史上最年少の世界チャンピオンが次の最終戦で誕生するであろうことを、複雑な気持ちとともに確信した。
 第1コーナー、『ラ・ソース』はV字の狭いコーナーだ。そこにスタート直後の密集した20台が殺到するのである。前方グリッドでスタートすれば混乱を避けられる可能性は高いが、今回の明人はそうではなかった。
 予選直前にエンジンが不調を来し、大事をとってエンジンを交換していた。1レース1エンジンの規則に触れ、決勝のスターティング・グリッドが10番手降格してのスタートだったのだ。
『ラ・ソース』への進入で、隣を走っていたマシンに後続マシンが追突したところからそれは始まった。隣のマシンがドンと突き飛ばされたように前にのめり、姿勢を崩して明人の前に塞がりかけた。コンクリートの壁際を走っていた明人に、それを避ける術はなかった。
 タイヤとタイヤがぶつかったが、低速だったので弾かれずにすんだ。しかし、自分のフロントウィングが砕けて飛んだのがわかった。
 順位は、リタイヤしたマシンを除けば最下位である。しかもそこからウィングを失った状態で長いスパのコースを1周し、ピットインしなければならないのである。ともすれば1周目で周回遅れかとも思われた。
 せっかく、モンツァでポイントを逆転したのに。泣きたい気分とは、まさにこのことだ。
『明人君、ともかくピットに戻ってきて。ウィング以外に問題はある?』
「問題? あったって関係ないよ。これでお終いじゃないか」
 ここでもし北斗が優勝し、明人がノーポイントに終われば、2ポイントだけ引き離している彼女は一気に10ポイントを手に入れ、圧倒的優位に立ってしまう。それは、最終戦において明人が優勝しても、彼女が7位以下にならなければチャンピオンにはなれないということなのだ。
 しかし返ってきたエリナの声は、冷静だった。
『落ち着いて、明人君。まだレースは1周目よ。脱落したウィング以外に、マシンに異常はあるの?』
 勝機は消えていないと言わんばかりのその声に、明人の頭も素早く回転する。そうだ、こんなところで諦めている暇はないのだ、と。
「……たぶん、ない。でもウィングの破片を轢いてるんだ。タイヤを交換したい」
 エリナの言葉だけを頼りに、明人はマシンを慎重に走らせた。フロントのダウンフォースがないマシンは、ハンドルを切ってもちっとも曲がらないし、ブレーキを踏めばすぐにタイヤがロックする。トップを快走する北斗にどれほどの差がつけられてしまうのか、見当もつかなかった。 
『了解。それと、貴方はウェットが得意よね?』
「そう言われてるね」
『じゃあ作戦をW1に変更するわ。この周のピットインで給油もします』
 W1、と言われて明人はどきりとした。それはある意味で、マシンの限界に挑戦することになるからである。しかし明人はすぐに決心して、無線のボタンを押す。
「わかった。フロント・ウィングを1ターン寝かせて」
『わかったわ。そうセッティングしておく』
 明人は小さな希望に縋りつく思いで、ピットに入ったのだった。

 レースは、コースを覆うその空模様とともに、荒れた展開だった。1周目の波乱でリタイヤしたのが二台。それだけで済むかと思いきや、加えてトップチームと中堅チームのそれぞれ一台が、8周目頃から強くなり始めた雨の餌食になった。
 重いマシンを操って、明人は毎周に渡って渾身の走りをした。北斗とのギャップは、およそ3分の2周である。だが明人は、諦めていなかった。今年のマシンでなければできなかっただろう、その作戦ならば、光明は決して途絶えてはいないのである。現に明人はピットアウトした次の周から早くも北斗に次ぐラップタイムを連発し、ついにはそれを上回るファステスト・ラップを叩き出した。
 他のチームが最初のピットインをし始めたのが、13周目あたりからである。カヴァーリの二台はそれぞれ16周目と、17周目だった。これで差は一気に詰まり、この機会に明人はピットインしているマシンを何台か抜き去ったのである。
 ネルガルの様子がおかしいことに他チームが気付き始めたのは、19周頃だ。彼らはすでに一回目のピットインを終えており、第2スティントに入っている。通常なら2回のピットインを必要とするはずのコースだから、これ以上第1スティントを長くしてもメリットは少ないのである。
 だが、明人だけはまだピットインしていないのだった。

――おい、あいつは一体いつになったらピットインするんだ?
――まさか、1ストップだけでレースを乗り切る気じゃないだろうな。
――ばかな、そんな巨大な燃料タンク、遅くなるのが分かってて使うもんか。現に、あれだけ速いじゃないか……。

 皆が不思議がっているだろうことは、明人にも予想がついた。それもそのはずである。ネルガルのNF211が、レーシングスピードのままレースの半分を走りきってしまうほど巨大な燃料タンクを備えていることを、誰も知らないのだから。
 もっとも、これには天候が味方していた。アクセルの全開率が高いスパは、いくらNF211といえども乾いた路面ならば1ストップ作戦で走りとおすには懸念が残った。均等に割ったとしても、ガス欠を起こす可能性が捨て切れなかったのである。
 だが、天気は雨。濡れた滑りやすい路面では、トラクション・コントロールの介在が多くなり、結果的にスロットルの開度は低くなる。つまり、そのぶん燃費は良くなるのだ。今回のW1作戦は、それを見越した作戦だった。

 皆は、明人が2回ピットインすると思い込んでいる。最初の緊急ピットインは除くとしても、とにかく明人が自分たちと同じ回数のピットインをしたとき、前に居られればそれで良いのだ、と。そうすれば、少なくとも明人よりは上位でフィニッシュすることができる、と。
 だが、実際には違った。明人は1回の給油とタイヤ交換だけで、レースの全てを走りきってしまう作戦なのだ。フルタンクの燃料で、たしかにマシンが重くなり運転は難しい。しかし明人はウェット・レースに自信があった。そしてまた、重くても速く走れるNF211にも、自信をもっていたのだ。
 彼らは、自分たちが明人よりも1回多くピットインしなければならないという不利な立場にいることに、やっと気付いたのだった。

 これほどたくさんのマシンをオーバーテイクしたのは、明人のFA戦歴の中でもなかった。昨年とあわせて三十数戦を闘ってきたが、これほどまでに自分のドライビング・スタイルとマシンの性能が一致したことはなかったのである。周りを走っているマシンが、まるで違うクラスのそれに見えた。
『明人君、いま、3位よ。残りは4周。2位のハリまで1.8秒、北斗までは10.4秒よ』
「了解。ハリは抜ける」
 雨は小康状態である。ところどころで少し強くバイザーに当たったが、他は霧雨で、マシンの周りを流れる空気に散らされてバイザーを掠りもしなかった。
 1周前までは前方に白い水煙が見えるだけだったが、今はもうその水煙の中を走っている。コーナーの直前だけ、看板を確認するためにそこを抜け出た。もちろん、ハリにプレッシャーを与えるためでもある。
 そして明人は、『オー・ルージュ』の一つ目の右コーナーで、アウト側からハリを抜き去ったのである。スタンドが真っ赤に染まっていたモンツァとは違い、コースの両脇から歓声が上がった。

 残る2周で9秒もの差を縮めるのは、いくら明人でも不可能だった。それがほんの2秒か3秒なら、最後の意地を見せることもできたかも知れない。だがいま二人の間隔は、長いストレートでやっと彼女の後姿を見ることができる程度なのだ。
 チェッカーフラッグをくぐり、明人が最初に感じたのは軽い悔しさだった。軽い、というのは、それが感情的なものではなく、どこか理屈っぽい悔しさだったのである。
(――もし第1コーナーのアクシデントに巻き込まれなければ、優勝できた)
 しかし、レースに『もし』がないのは明人たちドライバーが一番良く知っている。アクシデントが起きて、優勝候補の筆頭だった明人がそれに巻き込まれてしまったのも、またレースなのだ。
『よく頑張ったわ、明人君。悪くない結果よ』
 エリナが常ほどに感情的でないのも、それが原因なのだろう。明人は彼女もまた自分と同じような気持ちであることを察して、笑みを漏らした。
「そうだね。悪くないよ」
 これで明人と北斗は、再びドライバーズ・ポイントにおいて同点に並んだ。残すレースは一戦、最終戦サン・マリノGPのみである。二人の中でそれを制した方が、今年のフォーミュラ・アーツを制する。一対一の真っ向勝負だけが、最後に残されたのだ。
「悪くない」
 無線の送信ボタンを押さず、熱を冷ましながら走るマシンの中で、明人は独り呟いたのだった。










to be continued...


……ほんとに勝てないままここまで来てしまった。(爆)


 

 

感想代理人プロフィール

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代理人の感想

最高の大舞台、ってとこですな。こりゃ楽しみだ。>最終戦

後は謎の行動を見せるアカツキですが・・・やっぱりこの話でもあれなんだろうというのは当初から思ってましたが、

これはどことどう言う風に繋がるのかなぁ。

北辰の手紙とか北斗との関係も含めてこれまた色々楽しみです。