FLAT OUT

(32)






 決勝後の記者会見が終わった後、明人は折りしも強くなり始めていた雨の中をパドックに戻った。ピットロードには、作業の邪魔になるからか、傘はない。クルーたちはみなチームカラーの合羽を着て、撤収作業に追われていた。
 モーターホームの個室に入った明人は、テレビをつけてニュースのチャンネルに合わせる。これから戻るイギリスの天気予報を見るためだ。ちょうど、その時間である。
「………嵐になりそうだな」
 中南部の天気図を見て、明人は呟いた。
 だてにパイロットとして操縦桿を握っているわけではない。アイルランドの南西に陣取っている大きな低気圧は、まるで台風並みだ。それが偏西風に引きずられて流され、数日中にはイギリス中北部を横断するというのである。しかも折り悪くその進路の先は高気圧で、二つがぶつかれば雨も風も強くなるのは目に見えていた。
「明人君、いる?」
「ああ、うん。ちょっと待って」
 扉がノックされて、聞こえてきたエリナの声に明人は返した。そしてドアを開けるのとほとんど同時に明人の手元に飛び込んできたのは、一束の書類である。
「サン・マリノでのスケジュール表よ。穴が開くほど読んでおいて」
「……そうします」
 相変わらず彼女らしい、無駄のないスケジュール表である。明人はちらりと彼女をうかがいながら、肩をすくめた。
「木曜の九時にモーターホーム。わかった、覚えたよ」
「覚えるんじゃなくて、それを肌身離さず持って毎晩読み返しなさい。なんなら私が読んであげましょうか?」
「……毎晩?」
「馬鹿」
 驚いて明人が問い返してしまうと、エリナは怒ったように言った。
 明人は慌てて言葉を探し視線を彷徨わせたが、エリナはすぐにいつもの表情に戻った。そして彼女は、明人の身支度が終わっていることを確認して、ドアの前から退いたのである。
「外で北斗さんが待ってるけど。デートの約束でもしたのかしら?」
「えっ?」
 とっさに明人が振り向くのと、エリナがその視線を階下へとやったのは、同時だった。




 果たして北斗は、今さっき優勝杯を掲げたとは思えないほどに不機嫌そうな顔をして、明人を待っていた。帰り支度は済んでいるのか、私服に中くらいのバッグを足元に置いて、明人に気付いても顔色ひとつ変えなかった。
「不運だったな」
 明人がレースでアクシデントに巻き込まれたことだろう。彼女はそう言って、荷物を背負う。まるで待ち合わせをしていたかのようなその仕草に、明人はやっとのことで思い出した。レースの前、彼女に手渡された手紙だ。
「読んだか」
「あー……いや、まだだよ」
「ではすぐに読め」
「………はい」
 バッグのポケットを探しながら、明人はちらりと北斗を見る。彼女はその視線に気付くと、さっさと読めとばかりにぷいと顔を逸らしてしまった。
「なんでそんなに急かすんだい」
 事務用とも思える白い封筒を見つけて、手に取った。それは手紙と言うには薄っぺらく、やはりイタリアのピットで見たあの男がつらつらと字を綴るような性格ではなさそうであることを、裏付けているようだった。
「……あの男の考えることはわからん。なぜ今更手紙など――」
 明人に答えてのものなのか、北斗は忌々しげに呟いた。
 案の定、封筒の中身はたった一枚の便箋だった。最初にあったのは事務的な宛名で、もちろん「dear」などと書かれているはずがない。本文と思われる部分は、さすが元レーサーなのかと明人を唸らせるほど、スピードに満ちて難解な文字だった。
「あー…………うん……? んー………」
「何を唸っているんだ」
「いや………なかなかに独創的な達筆だよね、君のお父さんは」
「……あれを父などと呼ぶな」
 機嫌悪そうに吐き捨てた北斗を横目で見て、明人は苦笑を浮かべた。
 手紙の内容は、要するに、話をしたいということらしい。明人はどきりとして、これまでの自分を思い返した。
 いずれ話さねばならないとは思っていたのである。十二年前のあの瞬間、あの場所でいったい何が起こったのか、知っているのは彼だけだ。明人はそれを聞きたいと思ったし、聞く権利もあった。
 だが、明人の後ろ髪を引っ張って二の足を踏み出させなかったのは、北斗の存在だった。

 去年だったら、何の感慨もなく北辰に詰め寄ることもできたろう。明人にとって彼は事故の真相を知る唯一の人物で、少なくともそれ以上ではなかった。だから、ただ話を聞くためだけに彼を訪ねることもできた。
 だが実際には、フォーミュラ・アーツでの一年目は、プライベートな時間など皆無に等しかったのだ。
 そして、今年はどうだろう。
 たしかに、時間はできたかも知れない。それというのも、やっとシーズンの段取りに慣れた明人に、エリナが上手くスケジュールを組んでくれたおかげだ。でも、今度は違う懸念が明人の胸の内に湧き起こっていた。
 明人にとって父は父、自分は自分だという考え方は、個を尊重する上でも揺るぎ得ない信条である。それは他人に対してでも――たとえば北斗と北辰の親子に関してでも、同じだ。
 だから、北辰に訊こうと思えば訊けた。それによって明人が彼に対する見解を180度変えることになったとしても、北斗は北斗で、自分と彼女の関係は変わらない、と。
 しかし、本当にそうだろうかと思い始めてしまったのである。それは北斗に対する感情を自覚してしまってから、とくに強くなっていた。北斗が父親を愛しているのは間違いないのであって、それならもし明人が再び北辰を恨むことになった時、彼女はそんな自分を受け入れてくれるだろうか、と。
 父をとるか、目の前のライバルをとるか、それは二人とも同じだが、明人は彼女にそんな苦悩をして欲しくなかった。

 彼女への想いを自覚する前に、或いは去年、無理にでも時間をつくって、決着をつけておくべきだった。明人が自嘲とともにぼんやりと手紙の文字を眺めていると、横から北斗が苛立ったように声をかけた。
「で、なんと言っているんだ、あれは」
「えっ? ああ、ちょっと待って……」
 慌てて明人は楔形文字のようなそれを追う。
 話すべきことがある、その為に会おう――つまり、そういう内容である。そして最後に場所らしき地名も書かれていた。
「三日――あ、明日だ………会いたい……………ん……? 北斗、これ、読める?」
 独創的なのはいいが、内容が伝わらないのはいかがなものか。明人は内心で苦笑しながら、地名と思しきそれを北斗に見せる。
 当の北斗も、見慣れないその文字に一瞬目を細めたようだった。だが、明人よりは彼女のほうが分かる可能性はある。何しろ彼女は、彼の一人娘なのだから。
「ノー…ウィッチ。イタリアではないな。イギリスじゃないか」
「ノーウィッチ?」
 思わず明人は聞き返し、北斗と一緒になって手紙を覗き込む。VだかWだかよく分らない最初の大文字は、なんとNだったらしい。
 驚いたのは、北斗も同じだったようだ。もっとも彼女は、明人が即座に反応したことに驚いたようだが。
「知っているのか?」
 訝しげな彼女の声に、明人は呆然としつつも小さく頷いた。
「……僕の母さんが療養している町だ」
 それを聞いて、にわかに北斗の顔が険しくなったのである。




 北斗の運転は、一言で表すなら、サーキットを走っているかのようだった。空港に着くまでの三十分間、明人はずっとフロアに足を踏ん張って、両手とも肘掛を握り締めていなければならなかった。警察に見つからなかったのは、不幸中の幸いである。
「北斗、自分では運転しないって言ってたよね」
「ああ、そういえばそうだな」
 空港について、早足で出発ロビーに向かう北斗を追いかけながら、明人は胸の鼓動を抑えるのに必死だった。もっとも今度ばかりは、彼女と一緒にいることがその動悸の原因ではなかったが。
「誓うよ。今度から君と二人で車に乗るときは、僕が運転する」
 言うと、当の北斗は不思議そうに明人を一瞥する。
「そうしたければ、そうしろ」
 こともなげに言って、彼女はさっさと受付カウンターに行ってしまった。

 手紙の内容を知り、即座にノーウィッチ行きを決めたのは北斗である。その決断の速さに明人は驚いたが、なぜ彼女がそう判断したのか分からなかった。そしてまた、北辰が自分の母親の療養施設を知っていたことも。
 明人の父については多くの人々がその人柄や生涯について知っているが、母についてはそうでもない。むしろ、ごく親しい関係者に限られるだろう。その中に北辰がいた覚えは、明人にはなかった。
(どうして彼が?)
 十二年間の疑問が一気に押し寄せてきたかのようである。しかし、その源となる最初の疑問はいつも一つだった。
(いったい十二年前のあの瞬間に、何があったんだ?)
 なぜ北辰が雪枝に会うのか。何を自分に話したいというのか。そもそも、なぜ今まで話せなかったのだろう? そして一人娘であるところの北斗が、父親を忌み嫌うわけ。
 立ち尽くしていて答えが出るはずもないのに、明人の頭の中ではそれらが堂々巡りを繰り返し、整理することができなかったのだ。

 見上げると、本来なら微かな星空を望めるのであろう、天井全体を覆うガラスには、ぽつりぽつりと雨の小粒が落ち始めているのが見えた。
 明人は、苛立った北斗が戻ってくるまで、そこに立ち尽くしていた。
「聞いているのか、明人」
「えっ……あ、ごめん」
 こんなに不機嫌そうな北斗も珍しいと、明人は思った。眉間に皺を寄せて、唇も薄く引き結ばれたその表情は、グッドウッドの祭典で始終不機嫌そうにしていた彼女を思い出させた。
「嵐だ。かろうじてヒースローまでは行ける。それより北はどれも欠航だ」
 明人の予感は的中してしまったらしい。いや、予想よりもずっと早かったが、嵐はすでにイギリス中部一帯を覆っていた。
「……じゃあヒースローから車で行こう」
「そう考えた奴が山ほどいる。明日の午後まで満席だそうだ。飛行機ってのは、予約がいるのか」
 なんだか奇妙な言葉を彼女は発したが、明人は聞かなかったことにした。
「違うよ。僕のチャーター機で、ってことさ。エリナが用意してくれてるはずだ」
 明人が言うと、北斗はなるほどと眉を持ち上げて見せた。

 二人が機上の人となったのは、それから一時間半ほどが経った頃である。一年に一回しか訪れない空港だから勝手が分からず、迎えに来ているはずの副機長を探すこと三十分。北斗の方向感覚が案外あてにならないことに、明人は笑いをかみ殺していた。
 それからコヴェントリ行きをヒースロー行きに変更する手続きを経て、夕闇迫る中、リヤジェットはベルギーの大地に別れを告げたのである。
「午後八時にはヒースローに着くよ。そこからノーウィッチまでは車で三時間くらいだ。夜中になっちゃうな」
「奴は明日と言っていたのだろう。先に着いたほうがいい」
 離陸してからと言うもの、北斗は一切無駄に口を開かなかった。明人がいつか同じようにリヤジェットの中で見た、思いつめたような顔をして、シートに座っていたのである。
 明人は、北斗がそんな顔をするのを見るのが辛いと思った。
 彼女は何も言わない。だが、それは何も考えていないからではないのだ。むしろ人一倍考えているであろう彼女が口を開かないのは、自分の中に溜め込んでしまっているのではないだろうか。明人はそう思い、じっと北斗を見つめていた。
 少しでも力になりたい。それは、明人の本心である。でも、ことは彼女だけの問題ではない。それは北辰と、今は亡き天河治己に代わってその息子である明人の、二人の問題が根源なのだ。だから明人は、不用意に言葉をかけることを躊躇っていたのだった。





 ベルギーからイギリスへは、それほど遠くない。ドーヴァー海峡の端っこを斜めに横断するだけだから、空の旅は一時間もかからないくらいだった。
 車はコヴェントリに用意してもらっていたから、明人たちが降り立ったそこにはない。無理を言って借りたレンタカーは、もちろん、明人の運転だ。
「……お前はいつもこんな運転なのか? アリに抜かれたぞ」
「そりゃまた俊足のアリだね」
 ジョークを言えるくらいには心の整理もついたのだろうか。明人は北斗の横顔をちらりと見たが、思いつめたような眼差しは変わっていなかった。すると今の冗談は、彼女が自身を紛らわせるために発したものだったのだろう。
 雨は強くなっている。フロントガラスについた水滴をワイパーが拭き取るが、すぐにまた雨粒だらけになって、対向車のライトをいくつにも増やした。屋根を叩く雨音も、だんだん激しくなっていた。
「ねえ、北斗」
 明人は意を決して口を開いた。
「君のお父さんはたぶん、僕たちに何か話したいことがあるんだよ。僕と、母さんに。でももしかしたらそれは、君も聞いておいた方がいいことなのかも知れない」
「……なぜそう思う」
「それが君も知らない、彼だけがずっと心のうちに抱き続けてきたものかも知れないからさ」
 北斗は訝しげな表情をさらに歪め、責めるように明人を見る。
「面白いことを言うな。いったいなんだ、それは」
 ちらりと彼女を一瞥して、明人は告げた。
「あの事故の真相」
 助手席の彼女から殺気にも似た激情が吹き出したのを、明人は悟った。いま彼女を見たら、おそらくその顔に浮かんでいるだろう彼女の思いに囚われて、運転どころではなくなってしまう。明人は意識的に視線を前方の濡れた道路に向けて、先を続けた。
「たしかに僕は、彼のことをよく知らない。写真で見て顔は知っているけれどね。とくに引退後のことは、何も知らないといってもいい。それは僕が彼を知ろうとしなかったことも悪いけど、彼もまた僕たちに何も教えようとしなかったからだ」
 これだけは、明人が唯一、北辰に疑問を抱き続けている部分であった。彼が父を殺したのか、そんなことはどうでもいい。ただ、どちらにしろ全てを知っている彼は、どうして教えてもくれなかったのか。――皆が言うように、彼が犯人であるからか。
「あいつはそういう男だ」
「そうかい?」
 北斗は吐き捨てるように言って、前方に向き直る。だが、明人はそれに取り合わなかった。
「その彼が今、十二年の沈黙を破ってこうして言ってきてくれてるんだ。それがあの事故に関わること以外に、いったい何がある? それこそ彼は僕に話すつもりなんかないだろう」
 たぶん、それは彼女も予想しているに違いない。北斗にしてみても、北辰と天河一家の繋がりがそれしかないことくらい、分かっているはずだ。
 明人がいま彼女に問いたいのは、そこだった。
「教えてくれないか、北斗。君の本当の気持ちを」
「なんだと?」
 北斗が怒ったように振り向いたのと、明人がミラーを確かめるために視線を移したのは、同時だった。

 

 ケンブリッジを過ぎてからは、国道は再び暗い平坦な場所を走り続けていた。道の両端はアスファルトの切れ目から膝ほどもない生垣まで、砂利の歩道がおざなりにあるだけである。明人がそこに車を寄せると、雨で水たまりのようになったそこから水飛沫があがった。
 北斗は苛立ったように明人を見ていた。雨粒が屋根を叩く音、ワイパーが作動する音、そしてウィンカーランプの点滅するカチカチいう音だけが、車内の全てだった。二人とも、息を詰めんばかりににらみ合っていたのである。
 先に沈黙を破ったのは、明人だった。
「北斗、これは僕の憶測だけど」
 北斗は目を細め、諦めたように視線を前に戻した。だがその表情は、険しい。明人は構わず告げた。
「君は、本当はお父さんの無実を信じている」
 さらに北斗の顔が歪んだ。
「事故が起きたのは事実だ。その当事者が僕と君の、それぞれの父親だったことも。そして僕の父は死に、君のお父さんは生きている。生き残った方が、加害者――君のお父さんはそう言われ続けた。でも君はそれを信じなかった。そうだろう?」
 北斗は振り向こうともしなかった。険しい表情のまま、どこを見るともなく暗い道の先に視線を彷徨わせていたのである。時折走りすぎる対向車のライトやブレーキランプが、彼女の瞳に映った。
「事故調査委員会の報告書も、裁判の結果も、僕は知ってる。君もたぶんそうだろう。でもそこには、大切なことが記されていなかった。それはね、彼の本心だよ」
 北辰は事情聴取で多くの事実を語った。明人がそれを人伝に聞く機会を得たのは、裁判で全て決着がついてからのことである。しかしそこにあったのは事実ばかりで、真実ではないように思えた。

――レースがスタートし、コースを1周して戻ってきた天河車と北辰車は、前後位置において前者の後尾から後者の前端まで約2メートル、左右位置としてはほぼ同走行ライン上における位置関係で、コントロール・ラインを通過した。このときの両者の速度差は、コントロール・ラインに設けられた速度計測器で計測したところ、時速2.7キロの差であった。
――コントロール・ラインから第1コーナーまでの距離は722メートルであり、両者が接触した地点までは681メートルであった。北辰車は天河車の後方気流の助けを受け速度を上げ、コントロール・ラインから100メートルほどの地点で天河車を追い抜くために走行ラインを左にずらした。これは、第1コーナーにおいて天河車よりも内側を走行し追い抜く為の手段である。
――各車のデータ・ロガーによると、衝突する2秒前の彼らの速度は天河車が時速331.8キロ、北辰車が時速333.1キロであった。位置関係は天河車が2メートルほど先行する形であり、天河車の左側ミラーの取付け及び調整角度からすると、北辰車は治己にとって十分に視認可能な場所にいたと言える。
――フォーミュラ・アーツ各ドライバーの証言によれば、カーブ部分への進入において前走車が追走車の走行進路を安全にできうる限りの範囲で妨害することは、国際モータースポーツ法典において罪とは認められていない。しかしこのレース直前にドライバー同士で締結された紳士協定によって、ブレーキを踏んでから加速に移るまでの間、走行ラインについては変えないとしていた。これについて、治己のとった操作は妥当だったと判断できる。
――他方、北辰のとった操作について、治己がハンドルを左に切る1秒前から彼も断続的にハンドルを切っているが、衝突の0.7秒前に大きく切り足しており、同時にアクセルを放しブレーキを踏んでいる。これは通常当該カーブを走るにあたって、他ドライバーの操作と比較した場合、不適当に過剰な操作であり、衝突回避のための操作と判断できる。
――また北辰本人の精神状態については、過去のレースにおいて統計的に接触事故を起こしがちであることは事実であるが、これはかかる競技の特殊性と合わせて提出された証拠(調査報告)等により、本件事故との関連性は薄いと言える。治己との人間関係においてもとくに際立った対立または衝突は認められず、怨恨も認められない。
――以上の理由から、北辰の故意を否定するものである。

 判決の要点は、そんなところだ。だがそれにはもちろん、北辰が警察や検察官、それに弁護士に対して話した言葉は含まれていない。法廷では、北辰本人よりも弁護士が多く弁舌を振るったのだろう。
 明人が知りたいのは彼の言葉だったし、彼の声こそ聞きたかったのだ。
「北斗、君はどう思っているんだ? まさか彼が僕の母を殺そうとしているとでも言うわけじゃないだろう」
 明人が問うと、北斗はその視線から逃れるように窓の外に顔を向けた。外側に雨粒の流れる窓には、少しだけ険の薄れた彼女の顔が映っていた。
「……そうは言わん。だが――やつの考えていることが、俺にも分からないんだ。やつは自分が無実だと知っているかのように、余裕綽々としているよ。その証拠があるとでも言わんばかりにな。だが、ならばなぜそれを言わない。俺には、やつが十二年間、何も知らない世間を嘲笑って楽しんでいたようにしか思えん」
 そう言う北斗の声は、いつもの覇気が薄れているように感じられた。
「じゃあ今度は、わざわざ僕を呼び出してその続きをする気なのかい」
「知らん。だから、分からないと言っているんだ!」
 北斗は語気に任せて振り向いた。その表情を見て、明人は思ったのである。
 彼女は怒っているようだった。誰に対してかといえば、それは明人ではあるまい。北辰でもないだろう。彼女は、自分に対して怒っているのだ。親子でありながら何も分からない、自分に。
 明人は、自分の勘が正しかったことを悟った。

 午後十一時を過ぎていた。車もめっきり減って、対向車の眩いばかりのライトが時折車内を照らしては、また暗闇に戻った。雨とともに風も強くなっているのだろう。フロントガラスを落ちる雫は、斜めに飛ぶようにして流れてゆく。
「北斗」
 存外優しい声が出たことに、明人自身が驚いた。しかし次の驚きは、それどころではなかった。
 それは注意深く見ていないとわからないくらいのものだったが、北斗の顔が初めて、泣き出しそうに歪んだのである。
「北斗……」
 思わず明人は、その名を呼んだ。意外だったからではない。彼女は特別だった。家族以外で明人が初めて、彼女のために誠心誠意尽くしたいと思った女性だったのである。その声は、明人の心が発した彼女への想いであった。
「……お前がそんな顔をしてどうする」
 唐突に北斗が言ったので、明人はびっくりして視線を逸らした。しかしその彼女の声も、いつもの力強さがないように思える。
 ドアミラーを見た。雨水が筋をつくって流れ落ちる窓ガラスの向こうに映った自分は、どんな顔をしているのだろう。水滴に阻まれ、それは見えなかった。
「……どんな顔をしてた?」
「泣き出しそうだった」
 たしかにそうかも知れないと、明人は思った。かつて見ない彼女の表情に明人の胸を覆いつくしたのは、おそらく彼女と同じ想いであったろうからである。
 隣からふっと息を吐く声が聞こえて、明人が振り向く。北斗の表情から、それまでの険しさは消えていた。変わりに悲痛のみが、彼女のとび色の瞳を縁取っていた。
「――まったく、思ったとおりだ。お前は………不思議な男だ」
 以前にも、彼女の口から明人はそれを聞いた。インディアナポリスでのことだ。だがその時と違うのは、彼女がより自分に信頼をおいてくれていることではないだろうか。そうでなければ、誰よりも寡黙な彼女がその本音を明人に語ってくれるようなことはなかったろう。
 だがいまの彼女は、あの時よりもずっと思いつめたような眼差しで、虚空をじっと見つめていたのである。
「北斗………北斗、頼むよ。そんなに――」
 言葉は喉に絡んで出てこなかった。いったいどれほどの思いが彼女にそんな顔をさせるのか、見当もつかないほど彼女を知らない自分が憎らしい。
 言いよどむ明人を見て、北斗は小さな笑みを浮かべた。しかしそれは、明人がこれまでに見たことのないほど、弱々しいものだった。
「この辺に宿はあるか」
「えっ………?」
「お前の言うとおりだ。いくら奴でも、今さらお前の母親に危害を加えるような真似はすまい。………それに、こんな時分に療養施設に押しかけるわけにもいかん」
 助手席の上でたたずまいを直すように腕を組み、北斗はそう言った。明人にできたのは、彼女をうかがいながらも車を発進させることだけだったのである。










to be continued...


 

 

感想代理人プロフィール

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代理人の感想

むう、盛り上げてくれますねぇ。(笑)

できればこういう展開は一気にガーッと読んでしまいたい所なのですが、じらされるのもまぁそれはそれで。