FLAT
OUT
(33)
小さな民宿の部屋に入った途端、疲れがどっと吹き出したように明人は感じた。ほんの数時間前にベルギーでレースを終え、また今週末にサン・マリノで最終戦を迎えようとしているなど、とても信じられない。もっと大きな重圧を背負い続けているような錯覚に囚われた。
荷物は全て車の中である。身一つで転がり込んだ宿の老夫婦は、日付も変わろうかという時間にもかかわらず快く受け入れてくれた。なお良いことには、彼らは目の前の明人と北斗を、最近スポーツ番組を賑わせている二人だと気付かないでいてくれたのだ。
部屋は、思ったほど古びた雰囲気でもなく、質素なたたずまいだった。角部屋だからか、窓は二つ。ひとつは足元まである大きな窓で、ベランダに出られるらしい。もうひとつの出窓の下にベッドがあって、小さな古びた目覚まし時計がサイドテーブルの上に乗っかっていた。
誰もいないキッチンから客用と思われるコップとミネラルウォーターの瓶を拝借して、明人は部屋に戻った。
外の雨は、一向に弱まる気配を見せない。風もまた強くなったり弱くなったりで、まだ嵐というほどではないけれども、時折ヒュウと音を立てて吹いている。
そう間を置かずに明人の部屋を訪れた北斗は、今はソファに座り、何を見るでもなく窓の外を眺めていた。そして明人がミネラルウォーターをコップに注ぎ終わった頃、彼女は口を開いたのである。
「――俺が初めてハンドルを握ったのは、三歳の時らしい」
明人はどきりとして、彼女の後姿を見た。
「家の車で、親父の膝の上に乗ってな。信じられるか」
そう言って北斗は、自嘲気味に笑う。明人は何とも答えられず、小さく微笑んで見せただけだ。だがそれは、彼女の言ったような光景が想像できなかったからではない。
きっかけは、誰しも似たようなものだろう。子は親を見て育つものだし、親がやることを自分も真似てみたいと思うものだ。親もまた、そんな子供を可愛いと思い、その願いを叶えてやりたいと思う。
明人が初めてハンドルを握ったのも、彼女と同じくらいの頃である。郊外へドライブに行くと、父は空き地を見つけては明人を膝の上に乗せてくれた。
「あれも昔はもう少し表情豊かだったのだがな。母が生きていた頃は――まぁ、それはいい。ともかく、当時は奴も現役のレーサーだったし、家に戻ることも少なかった。今ほど忙しくはなかったが、奴はあの性格でテストには案外率先して赴いていたからな。だが俺は寂しいとは思わず、父親とはそういうものなのだと信じていた。なぜだかわかるか」
どうしてここまで似た境遇なのかと、明人も苦笑を禁じ得ない。それはやはり、父親が同じFAのレーサーであることが大きな要因なのだろう。北斗はふっと笑うと、明人には「笑うなよ」と釘をさして、先を続けた。
「今どんなに奴を憎んでいようとも、あの頃の俺にとって奴は憧れだった。子が親に抱くそれもそうだが、レーサーとしてのあの男に俺は憧れ、同時に畏怖を抱いていた。だがそれでも父親だ、奴が家に帰ってくるのを、俺は心待ちにしていた」
北斗はどんな思いでそれを言葉にするのだろうと、明人は胸が苦しむのを感じた。彼女はいま、父親を父親と言えないくらいに嫌っているのだ。しかし過去においては、憧れの眼差しでその父を見ていた彼女がいる。
そしてその過渡が、いま彼女の口から語られようとしているのだ。
「カートコースへは、奴だけが連れて行ってくれた。母は、何も言わなかったが、俺がコースに出ることには反対だったからな。だがその母が、実際には奴を動かしていたんだ。俺には、当時の奴にカートコースへ連れて行ってくれなどとは言えなかった。憧れであったし、父親でもあったが、たしかに偏屈でもあった。いつも仏頂面で、目だけがぎらぎら光っている。それが単純に怖かったのかも知れん。俺は、コースに連れて行って欲しい時はいつも、部屋のドアからソファに座っている奴を見つめていた。すると次の朝、俺を起こしに来た奴が言うのだ。コースへ行くぞ、支度をしろ、とな。今思えば、母が夜のうちに俺が行きたがっていることを奴に言ったのだと思う。母はいつも笑顔で見送ってくれた。当の俺は、またハンドルが握れる喜びだけで、それに気付かなかったが」
明人は黙ってそれを聞いていた。口を挟むつもりはない。彼女の言葉と、それに含まれている感情のひとつひとつを聞き取りたくて、じっと彼女を見つめていた。
そしてまた、彼女のとび色の瞳に映った部屋の明かりが、揺らめいた。
「明人、お前の初優勝はカートだろう。いつだ?」
「八歳……かな」
「お前のことだ、デビュー戦で優勝してしまったのではないか?」
「まあ……でも地方選手権だよ」
「父親はその場にいたのか?」
「………ああ、いた。母さんもね」
明人が少し考えて答えると、北斗はまたふっと笑った。その笑みに、明人はどきりとする。今までに見たことのない、柔らかな笑みだった。
「俺もまあ、そんなところだ。今思えば、あれも母が引っ張ってきたのかも知れん。娘のデビュー戦なのだから、と。子供がレースをして最高の喜びを感じるのは、トップでゴールしたその瞬間だ。表彰式などどうでもいい。だが俺は、表彰台の上に立って辺りを見回したとき、ゴールしたその瞬間と同じ喜びを二度感じたんだ。人垣の後ろで、奴が笑っていた。あの面だ、どう見ても意地の悪い笑みにしか見えなかったが、母と一緒に、表彰台の上に居る俺に向かって、笑っていた」
それらの全ての記憶が、彼女が父親を愛して止まない理由に違いない。そしてまた、彼を憎んでしまう源となったのだろう。それを思うと明人は奇妙に胸が痛んだが、今はそれを押し止めた。ここからが北辰と、そして彼女の心の変遷を知る、その本題であろうと分かったからだ。
ふと時計を見ると、日付は変わって午前0時半を指していた。雨は弱まっているのか、風だけが強くなって屋根の上を通り過ぎてゆくのが聞こえる。
明人は、北斗の言った言葉が気に掛かっていた。彼女の心の変化と北辰の変貌はもちろんだが、何より彼女の母親のことである。名前すら知らないその女性は、もう既に他界したらしい。それに驚いた。
「それから、たった一年後だ」
北斗は言って、視線を落とした。悲しそうな、悔しそうな眼差しである。
明人にとっては、ジュニア・カートにデビューして二年目の秋だった。
「俺はピットロードにいた。モンツァとイモラは、家からそう遠くない。当時の俺は、できることならFAがヨーロッパにいるうちは、その全てについて行きたいものだと思っていたがね。母は……まァ、なんだ、教育熱心なところがあって、日帰りで行けないレースには行かせてくれなかった」
「ああ……それは僕も同じだ。学校に通いながらだったからね」
明人が相槌を打ち、北斗は「ふん」と鼻で笑う。少しだけいつもの彼女に戻ったような気がして、明人も笑みを浮かべた。
「あの日の奴は、朝から機嫌が悪かったな。決勝前はいつもそうだが、俺は声をかけることもできずにガレージの隅から奴を見ていた。性根は腐っていようとも、スピードに命を懸けた男だ。コクピットでグローブをはめる姿は、悔しいが、格好良かったよ。それを見て、俺がいっそう奴への憧れを深めたのも、事実だ」
再び北斗の口元から、笑みが消える。
「オープニング・ラップを終え――二台がトップを争いながらスタンドに戻ってきた時、俺はピットウォールに張り付いてそれを見つめていた。俺の目の前で、奴がラインを変え、天河治己に並びかけようとした。やった、抜いた――子供心に、そう思ったのさ。だいたい奴も天河治己も、そうして並びかけたらまず間違いなくエンドの進入で相手を差したからな。横並びに駆け抜けていった二台を、俺はいつまでも見送っていた。そして二つの影が『タンブレロ』に消えた瞬間だ。サーキットに戦慄が走り、しんとなった」
胸の痛みを感じ、明人は顔を顰めた。
どんなに年月を重ねても、それを思い出すのは辛い。どんなに客観視してそれを捉えようとも、父を失ったその事故を感情抜きに語るなど、明人にはできようはずもなかった。
震える心を抑えるように息を吐き出して、顔を上げる。するとそこには、北斗の青ざめた横顔があった。
(なぜ君までもがそんな顔をする?)
明人の言葉は、胸の中でのみ彼女に問いかけられた。
あの瞬間を思い出したというのなら、それも頷ける。明人だって、今でもその光景を脳裏に思い浮かべるだけで、目を瞑りたくなるのだ。
北斗は思慮深く、また優しい人だ。自分の父親は生き残り、明人の父親だけが死んだと知っていて、その決定的な違いに傷を舐めあうような真似はしないだろう。だったらなぜ、彼女がそんなにも思いつめた表情をしなければならないのか。
ひとつの仮説に思い当たった明人は、まさかと思った。
「俺が我に帰ったのは、レースが終わって帰る車の中だった。まだ天河治己の容態は定かではなかった。北辰の周りがざわめき始めたのを察して、母が俺を連れ出したんだ。奴は聴取を受けるとかで、俺たちと一緒ではなかった」
治己が事故にあったことで、既に明人と雪枝のレースは終わっていた。ヘリコプターを追いかけて、病院に着いたときには既に父は手術室の中。できることは何一つなく、冷たい蛍光灯の光が照らす廊下に立ち尽くしていたのだ。
手術中を示すランプが消え、医師が苦しげな表情で出てきたのを、明人は憶えている。搬送用ベッドの上に静かに横たわった父親に母が縋りつき、泣き崩れた。
しばらくの沈黙のあと、北斗は白い息を吐き出すかのように、小さな声で言った。
「正直に言おう、明人。俺はあのとき何が起きたのか、分からなかった」
「――それは僕も同じだよ」
明人が答えると、北斗は儚げに苦しそうな微笑を浮かべた。
「そうではない。あの事故がいったいどういう意味を持つものだったのか……あの事故が俺たちにいったい何を与え、そして奪ったのか、それが俺には分からなかったんだ」
少女は、自分の父親が生きていたことを喜ぶだけで精一杯だったろう。事故にあったもう一人のドライバーは、不運にもその命を落とした。しかしそのドライバーがどれほど人望厚い人物であっても、或いはその妻子が比類のない悲嘆にうちひしがれていようとも、それを弱冠九歳の少女に理解せよと言うのは無体である。
「奴が交通事故で半身不随になったのが、それから一年ほど後のことだ。同時に母の死を知った。以前に言ったか、俺は舞歌のところにいて、母は週に一度は訪ねてきてくれていた。舞歌は従姉妹だよ。その一年、俺はなぜ両親とともに暮らせないのか分からなかったし、ジュニア・カートには相変わらず参戦し続けたが、そこにやつの姿はなかった。事故の詳細も知らん。脊椎損傷とかだったが、医者はリハビリをすれば歩けるくらいにはなると言っていた。もちろん俺もそれを望んださ。だが北辰はそうしようとはしなかった。ぎらぎらとたぎるようだった奴の勢いは、憑き物が落ちてしまったかのように、忽然と失せていた。医者の勧めも断り、車椅子のまま家に戻ったんだ。同時に俺も、俺たちを手伝ってくれると言った舞歌とともに、戻った」
明人は、自分の母のことを思い出した。
雪枝が倒れたのは、明人が十九歳のときだったろうか。いや、ユーロ・マスターズ参戦の年だから、そうである。出張先から飛んで帰った明人は、もしかすると一生車椅子から離れられないかも知れないという医者の言葉に、愕然としたのだ。
それでも明人は、母の強さに驚かされた。暇さえあれば訪れた、母の入院していたバーミンガムの病院では、その度にリハビリ中の彼女が迎えてくれた。母として息子の前でそんな姿を晒すのは恥ずかしいから、あまり頻繁に来なくてもいいと彼女は笑っていたけれど。
「俺は、初めて奴の豹変ぶりを知った。相変わらずの仏頂面だったが、それにどす黒い何かが加わっていた。始終酒を飲んで、舞歌にまで無茶を言った。正気の沙汰ではなかったよ。これが本当にあの父かと、まるで別人を見たようだった」
そう言う北斗の表情は、北辰がどれだけ変わってしまったのかを明人に思い知らせた。それは、北斗が父親に対して抱く愛ゆえの、悲痛なのだった。
彼女は、変わる前の父親を知っている。再会を願っていたのに、一年ぶりに目の当たりにしたその姿に、いったいどれだけの衝撃を受けたことだろう。
「俺はカートにのめり込むようになった。週末は朝早くからコースに出かけ、帰るのは夜遅くだった。舞歌も一緒だ。どんなに別人のようでも、あれは俺の親父だ。それが子供よりも酷い我が侭を言い、醜態を晒しているのを、俺は見ていられなかったんだ。カートはそんな俺の逃げ場でもあったが、同時に親父と俺を繋ぐ絆でもあり………それがまた、憎かった」
北斗はぼんやりと部屋の床を見つめたまま、続けた。
「それでも俺は、奴を信じ続けた。週に一度は記者が待ち伏せていて、門を出たところで通せんぼだ。奴らは、本人だろうが家族だろうが関係ない。俺たちの言葉をどうにかして悪役のそれに変え、批判の材料にしたかったのさ。だから俺も、一言も喋らなかった。俺にとっては、奴らこそ悪だったんだ。父を悪役に仕立て上げ、それに踊らされた聴衆の後ろにのうのうとのさばる奴らこそ悪なのだと、俺は信じていた」
北斗は言葉を切り、立ち上がった。
いつの間にか、雨が止んでいる。だが風は強いままだった。北斗が少しだけ窓を開けると、そこから生温く湿った風が吹き込んできた。それに乗せられてくる匂いは、都会の排気ガス臭でもなく、またパドックの鉄が焼ける臭いでもない。水と土の匂いが、明人の鼻先をくすぐった。
もともとが都会育ちだからそう感じるのか、その仄かな匂いに奇妙な懐かしさを覚える。人いきれにうんざりするほど歳を重ねてはいないけれども、見知らぬ人に囲まれるくらいなら独りでいる方が、明人は好きである。
だから、一年前の明人ならこうも真剣に彼女の話を聞こうとはしなかったかも知れない。北辰の娘が同じFAに来ようと来るまいと、それまでの自分の考えだけを信じて、自分の中でピリオドを打っていたかも知れない。
だが北斗は、それを許してはくれなかった。十二年前の事故に決着をつけられず悩んでいたのは、彼女もまた同じだったのだ。
明人も立ち上がり、北斗の隣に立って窓の奥に広がる暗い風景に目をやる。生垣が風にあおられて暴れているのが見えた。しかしすぐに明人の視線は、窓ガラスに映った自分たちに注がれた。北斗がちらりと明人の横顔をうかがったのが見えたからだ。
彼女はジーパンのポケットに手を突っ込んで、小さく息を吐いた。眉根を寄せ、彼女のとび色の瞳は、やはり外の闇を映していた。こんな時だというのにそれはどうにも様になっていて、明人は思わず見惚れてしまうのである。
しかしそれも、彼女が口を開くまでだった。
「なァ、明人」
まるで旧知の親友にでも言うように、それは北斗の口から流れるように出てきた。
「俺は、親父がどのような人間であろうと、今更どうとも思わん」
それにはたぶん、酒に逃げてしまうような人間でも、という意味が込められているのだろう。だが明人には、それがおそらく彼女の本心ではないだろうことも、わかった。
「だが、お前の父親が死んだことは事実だ。これは俺や北辰がどう持論を変えようと、決して変わりはしない。――お前たち親子を襲った悲しみも」
「……その通りだよ、北斗。でもそれは僕たちの気持ちであって、君たちのものじゃない。僕は、あの事故が故意であったなんて思っていないんだ。何度も言っているだろう? 僕の父も君のお父さんも、あの瞬間、レーサーだったんだ。もしかしたらどちらかは、譲るべきだと思っていたのかもしれないよ。でも譲れないのが僕たちレーサーだ。そうだろう」
彼女は今も昔も、変わっていないに違いない。どうとも思わない人間を、親愛をこめた「親父」なんて呼び方をするだろうか。彼女は今でも父親を愛しているのだ。愛しているから許せない、その気持ちは明人にも少しわかった。何故なら明人も、目の前の辛そうな表情の彼女に対して、そんな想いを抱き始めていたからである。
「北斗、君はお父さんの背負っているものを、自分で背負おうとしているんじゃないか」
この一言は、的を射ていたのだろう。北斗の表情が明らかに変わり、怒ったように明人を睨んだ。しかしそれも明人にしてみれば、明々白々とした反応だったのだ。
「君は、あの事故の発端は北辰さんだと思っている」
「それが事実だ」
「たしかにそうかも知れない。でも、あの時あの場所で何が起きたのか、それを知っているのは彼だけだ。彼はそう言ったかい」
北斗は押し黙って、悔しそうに視線を逸らせた。それは明人に反論できなかったからではないだろう。彼女のそんな表情は、彼女が父親を思っている時にのみ、見られた。
そして北斗は、勢いよく明人を振り向いたのだ。
「そうだ。奴は頑として認めようとはしなかった。誰が見ても明らかだったじゃないか。人が死んだのに。死んだのは、おまえの父親なんだぞ、明人!」
彼女が取り乱すのを、明人は初めて見た。とび色の瞳も今は黒く見え、そこに映った部屋の灯りは、小さく揺らめいていたのだ。
それだけ彼女の想いが深いのかと思うと、少しばかり北辰に嫉妬もしたくなる。しかし同時に、わかった。
(君は、いったいなんて大きなものを背負おうとしているんだ)
誰も、明人や雪枝ですらそれを望まないだろうに、それを甘んじて受け入れようとする彼女の覚悟があまりにもありありと分かって、明人は居てもたってもいられなかった。
気が付くと明人は、自分よりも一回り小柄な北斗を、その胸に抱き締めていたのである。
また、雨粒が窓を叩き始めている。数刻前よりも少し大粒になったろうか。それはツッと窓を伝い落ちると、ペンキのはげた木枠に吸い込まれ、消えていった。
明人は驚いたことがあった。北斗の身体が、思っていたよりもずっと細いことだ。FAドライバーとして少なからず鍛えているはずだが、エリナやユリカと同じくらいしかないように思えた。
こんなに細い腕に、細い背中に、あまりに重いであろうそれを背負わせてなるものか。例え彼女がそれを望むのだとしても、なぜ彼女が背負わなければならないのだ。他にそうすべき人がいるというのではない。ただ、なぜ彼女がそうせねばならないのだ。
明人は久し振りに、北辰を恨んだ。しかしその思いもすぐに薄れ、もどかしさと疑問だけが残る。
彼には、実の娘にさえ言えない理由があったというのだろうか。どんな父親の姿を見てもなお彼を信じようとする一人娘にさえ言えないような、理由が。
「……もういい、明人」
何も言わず、明人に抱き締められるままだった北斗が、小さく言う。しかし明人は、抱擁を解きはしたのだが、思わず彼女の肩を捕まえていた。
「全てを聞こう、北斗。僕と一緒に。彼から――君のお父さんから、あの時なにがあったのか、彼が12年間ひた隠しにして護り続けたのはなんだったのか、ぜんぶ聞こう」
畳み掛けるような勢いに、北斗も驚いたようだった。その唇が小さく「明人」と動いたような気がした。しかし、明人ももう止まらなかったのである。
「僕には、君の決して口には出せない覚悟が分かる。僕だって、狂ってしまいそうになるくらい、考えたんだから。でも、なぜ君なんだ。なぜ君までが十二年前の事故に囚われなければならないんだ。それが仮に君の望むことだとしても、僕は堪えられない。僕は君の覚悟を挫く資格もないし、立場にもいないけれど――僕が、堪えられないんだ」
身勝手を押し付けているとは思えても、言葉は口をついて出てきた。
思えば、今までも北斗はそれを背負い続けてきたのである。父親が人を殺したというのが彼女の思い込みかどうかは別にして、少なくとも彼女は、天河一家に対して筆舌に尽くしがたい覚悟を抱いて生きてきたのだ。
もしや彼女は、天河の人間が死ねとせっつけば、本当にそうしたのではないだろうか。恐ろしい仮説に、明人は吐き気すら覚えた。自分でも呆れたことに、死んだ父さえも恨んだのだ。彼が死にさえしなければ、彼女はこんなにも苦しまずに済んだのに、と。
北斗はぼんやりと明人の瞳を見つめていた。驚いたのか、それとも呆れているのか、明人には分からない。ただ、今の彼女の表情には、先ほどまでの思いつめた雰囲気が感じられなかった。
互いに目を離さぬまま、どのくらいの時間が過ぎたのだろうか。きっかけは、窓の外をどうとひときわ強く吹いた、風の音だった。明人は自分でも分からぬまま、ぎくりとして北斗の肩を放した。
手のひらにはまだ、北斗の体温が残っている。今になってそれが気恥ずかしくなり、しかしポケットに突っ込むわけにもいかず、手持ち無沙汰に下ろすばかりである。すると、くすりという笑い声が聞こえた。
明人は顔をあげ、今度こそ胸が高鳴った。そこにあった北斗の微笑は、見たことのないほどに美しく、そして儚いものだった。
「わかったよ、明人」
明人が見惚れたままでいると、北斗は視線を逸らし、再び窓の外に目をやった。そして笑顔を引っ込め、言うのである。
「わかった。明日は話を聞こう。お前に免じて、な」
「…………そう」
「なんだ、嬉しそうでもないな」
「僕を喜ばせる為に話を聞くわけじゃないだろう」
「それはそうだ」
北斗はまたふっと笑う。
「天河治己という人物を、俺は雑誌の記事程度にしか知らないが――明人、お前はまったく父親似のようだな」
いったいそれを、何人に言われたろう。明人は、しかし、どうにも彼女の微笑に見惚れてしまって、本気でむくれることもできないのだった。
時計は、午前一時。すっかり忘れてはいたが、レースの疲れも全く拭えていない。北斗もそれは分かっているのだろう、今日の話はこれまでだと言うふうに、踵を返した。
部屋のドアを開けようというところで北斗が振り返ったのは、なぜだろうか。明人はベッドに入って睡魔に負けるまで、そればかりを考えていた。
「俺はたしかに、親父に憧れていたよ。だが――」
先ほどの会話と違って、今度はとくに苦々しい表情をつくることもなく、彼女は言う。だが明人は、唐突なそれに首を傾げた。
「ちょうどいいから、教えてやる。俺が憧れていたドライバーは、もう一人いた」
ちょうどいいというのは、何のことか。明人はきょとんとして彼女を見つめるばかりだ。その反応が楽しいのか、北斗はさらに笑みを深くした。
「それは、天河治己。――おまえの父親だ、明人」
そう言って彼女は、部屋を出て行ったのである。
to be
continued...
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