FLAT OUT

(34)






 朝になっても、風雨は止まなかった。暗くたちこめた雲は、冬のイギリスの代名詞とも言えるどんよりとした雲ではない。雨を降らすことこそその使命であると誰の目にも明らかな、重たい黒雲だった。
 ところが、そんな外界の憂いもまったく気にかけずに惰眠を貪る人間というのは、案外どこにでもいるものだ。夜更かしをすれば朝が遅くなるのは、健康の証である。そして健康な明人は、やはり今日も寝坊をしでかしたのだった。
「明人! いい加減に起きないか!」
「ん……う………えっ? う、わッ!」
 目を覚ますなり眼前一杯に広がる憤怒の形相に、明人は思わず飛び退った。もっとも、背中が壁にぶつかったのは良かったのだが、どうやらその壁とベッドの間には人が落ちるのに十分な隙間があったらしい。気がついたら明人は、訳がわからないまま谷底から天井を見上げていた。
 そこに北斗の顔がひょっこりと現れたのである。
「起きたか」
「………おかげさまで」
 どうやらさっきの怒りの形相は、北斗のものだったようだ。明人はやっとのことで頭の中を整理して、もう一度彼女を見上げる。
「早く着替えろ」
「…………………」
 そう言って、彼女は消えた。




 宿を出たのは、午前十一時近くだった。明人が起きたのは、その三十分ほど前である。起こしてくれればよかったのに、とつい口にしたのもまずかった。「十五分もドアを叩き続けた!」と怒られたのだ。
 セットフォード郊外の宿からノーウィッチまではそう遠くなく、一時間ほども走れば市街に辿り着いた。イーストアングリアの丘陵は、ノーウィッチを境にするようにその東はなだらかな平野に変わる。風景はイギリスと言うより、オランダのそれに似ていて、風車までがその通りなのである。

 川を渡り丘を越え、と言えば絵本のようだが、実際にそうやって明人はいつも母の元を訪ねる。市街から数キロ離れた景色の良い土地に、それはあった。
「ここか?」
「そう。晴れていれば景色もいいんだけど」
 雨のせいで霞んでいる丘陵を背景に、二人は車を降りた。
 明人は、手紙を受け取った時に感じた疑問を思い出した。北辰がなぜこの場所を知っていたかということである。
 たしかに、探せば見つかるだろう。雪枝がごくふつうの一児の母だったとしたら困難かも知れないが、現実には彼女は天河治己の妻で、天河明人の母親だ。どんなところからそういった情報が漏れているか、考えればきりがない。
 だが、母が北辰との会談を受け入れたというのもまた、明人にとっては驚きだった。彼女が一人息子に、十二年前の事故に囚われることなく育って欲しいと願ったのは、その通りの考え方をするようになった明人自身も知っている。だが雪枝自身がそうであったのか、それは分からない。
 明人にとっての父親と、雪枝にとっての夫。それぞれの愛に差など見出すべくもないが、現実には明人の父親への思いと、北斗への思いは違う。それは、そこに居る者と居ない者の差などではなかった。

 それほど大きくはない建物の中に入って、最初に出会ったのは所長だった。ちょうど昼食時のはずだが、彼は慌しく部屋から出てきたのである。
「やあ、明人君。雪枝さんはテラスにいるよ」
「こんにちは。どうしたんです、忙しいんですか」
 入所者の数がそれほど多くないからか、いつもの療養所はゆったりとした雰囲気に包まれていて、所長も朗らかに笑ってばかりである。しかし明人は、彼の足元を見てすぐに気付いた。彼は、長靴を履いていた。
「いやぁ、なんでもこれから雨風が強くなるらしくてね。厩の板戸につっかえ棒をしないと、馬が怖がるんだ。ほら、ガタガタ鳴るだろう」
「ああ、あの大きい……」
 名前はなんだったか、と明人が思い出すよりも先に、彼は雨合羽を羽織って出て行ってしまった。
「妙な組み合わせだな。療養所に厩か」
 北斗が言う。その口調から、それほど緊張は感じ取れなかった。
「明人は乗馬はしなかったか」
「いや………学校で少しだけ、かな」
「そうか。俺は家に馬がいるが」
「ええっ!」
 彼女の意外な一面を意外なところで見て、驚きの声をあげる。しかしそれに返ってきたのは、彼女の声ではなかった。
「明人は高いところが苦手なのよ。だから馬の背も怖がったの」
 言うまいと思っていた秘密をいきなりばらされて、明人は赤くなって声のした方を振り返った。
 身体がなまるから電動の車椅子は使わないという雪枝は、まるで自転車を扱うように器用にブレーキをかけながら、ゆるやかなスロープを降りてきたのだ。
「初めまして、北斗さん。明人の母親の、雪枝です」
「あ……ああ…………北斗だ。――会えて嬉しい」
 驚くことの多い日だ、と明人は思った。
 北斗が人に相対して緊張した面持ちを見せるなど、想像だにしていなかった。明人でさえ、初対面での自己紹介は「北斗」の一言だけだった。だが、その違いが彼女なりの思いからくるものであることが分かっているだけに、明人も無言でそれを見守るしかなかったのである。
 雪枝は、ちらりと明人をうかがった。明人は、北斗をうかがった。そして北斗だけは、じっと雪枝を見つめたままだった。
 くすりと微笑んだのは、雪枝だ。彼女は妙に機嫌良く、無邪気な笑みで付け加えるのである。
「十五歳の時だったかしら。学校で落馬して、それから乗れなくなったのよね」
「か、母さん、そんな昔のことを……」
 いったいなんでこんな話になったのだろうかと、気が気でないのは明人だ。因縁深い北斗との対峙にも、雪枝が無理をしている様子はない。それどころか、待ち望んでいたと言わんばかりの歓迎振りである。
「北斗さんは、乗馬はよく?」
 明人にするように優しく微笑んで、雪枝が尋ねた。
「……時間があるときだけだ。月に一、二度だな」
 答えた北斗の声も、少し緊張が解けたのだろうか。相変わらずどぎまぎした受け答えだが、ちゃんと考えながら話している。明人にもやっと笑みが戻った。


 一階のテラスは、建物から張り出した温室のような構造をしている。壁はガラスで、天井はおそらくアクリルの透明な板だ。雨天といえどもその中は明るかった。見渡せるのは霞がかった広大な庭である。
「生憎の天気だったわね。晴れていたら、あの木の下なんかとても気持ちいいのだけど」
 そう言う雪枝の視線の先は、明人がここを訪れた時に彼女がよく居る場所のひとつだ。大きなネムの木は、今は雨の中ぼんやりと立っていた。
「母さん、その………彼は……」
 明人がおずおずと口を開く。隣で北斗の表情がぴくんと動いたような気がした。しかし雪枝は、いつものように顔色を変えるでもなく、ああ、と二人を振り返った。
「ほら、この空でしょう。飛行機が軒並み欠航になっちゃったから、陸路でいらっしゃるって。明日の午後になるみたいよ」
 まるで旧知の友人が夕食に遅れることを告げるかのように言う彼女に、思わず明人は北斗と顔を見合わせた。明人の知っている母は、いま話題の父娘の話になれば、どこか辛そうな表情をすることが多かったからだ。
 しかし、雪枝に対する疑念は不思議と湧いてこなかった。本心を言うならば、少しほっとしていたのだ。
「母さんは――連絡を取っていたのかい。彼と」
 雪枝は、明人が問うたその意味を悟ったろう。だが、それでも表情を変えなかった。彼女は北斗を見て、まるで子供を安心させるようににっこりと笑うと、頷いたのだ。
「五回ね。この十二年間で五回だけ、あの人と話したわ」
 その回数が多いのか少ないのか、明人にも分からない。ただ、母の表情は、優しかった。
「最初は、八年前。北辰さんから電話を掛けてきて、お会いした。そこでのお話は、たぶんこれから彼が話してくれるでしょうから、言わないわ。二回目はね、明人、貴方のユーロ・マスターズ参戦が決まった時。私から電話してお知らせしたの。三回目は私がここに移った時ね。連絡できなかったら、困るでしょう? 四回目が北斗さん、貴女よ。彼が電話をくれて、貴女が同じようにレーサーとして生きることを決めたようだと、教えてくださったわ」
 それを言う雪枝は、たしかに母親の顔をしていた。明人がいつも見てきた、母の顔である。口を開いてから言葉を切るまで、一切それは変わらなかった。
「そうだったんだ。知らなかった」
「この日が来たら言うつもりだったのよ。これまで隠していたのは、明人に自分の手で決着をつけて欲しかったから。お父さんの軌跡を探して、自分の生きる道を探して――そういうことは、自分でしないと何も分からないもの。たとえ私の言葉でもね」
 明人は無言で視線を落とした。
 もし話してくれたとしたら、明人は母の言葉を信じたろう。それで十二年前の件に決着はつき、めでたしめでたし、である。だが、それで良いだろうか。それに、自分は母の言うように、この足で父の軌跡を探していたのだろうか。

 レーサーの父を、明人はよく知らない。父親としての彼は知っているが、父はあまり家庭に仕事を持ち込まない人だった。だから明人は父の死後、まず多くの雑誌を――とくに父の記事を読み漁ったのだ。
 それからしたのは、生前の父の友人の話に、耳を傾けたこと。それには、ユーロ・マスターズに参戦してから知り合ったプロスペクターも含まれている。現在の最年長ドライバーであるフェリックス・バールは、父が死んだ前年のルーキードライバーだった。
 だが、進んでそれを探して回ったかというと、そうでもない。多くのレース関係者は、明人がレースの場に足を踏み入れてから話をする機会を得た。けがの巧妙とまでは言わないけれども、最初からそれが目的であったわけではないのは、事実なのである。
 すると雪枝は、明人の懸念を見抜いたらしく、優しげに微笑んだ。
「そんな顔をしなくていいのよ。明人、あなたは今、あの人と同じFAのレーサーなのでしょう。同じ世界を、その目で見てきたのでしょう。それならそれは、お父さんの足跡を辿ったことにはならないかしら?」
 彼女はそう言って、明人の隣にいた北斗にも目をやった。
「大丈夫。貴方はしっかりと世界を見て、同じように自分を見つめ続けているわ。そうでなければ今、あなたの隣に北斗さんは居なかったはずだもの」
 明人は思わず目を丸くして母を見た。
 なんということだろう、彼女はたったそれだけで――北斗がこうして一緒にいるというだけで、明人のこれまでを悟ってしまったのだ。もちろん、今までの明人の言葉の節々からそれを感じ取っていたのだろうけれども、彼女はたった一言で、明人すらも納得させてしまった。
 ときどき、過去の話をする折りには、彼女の方こそ複雑な思いを抱いているように見えたというのに。明人は母を気遣っているつもりだったが、実際には彼女が明人をじっと見守っていたのだ。
「………敵わないな、母さんには」
 ふぅ、と息を吐いて明人が苦笑すると、やはり雪枝はにっこりと笑ったのだった。
「五回目は?」
「五回目は一週間前よ。今回の話を持ちかけてきてくださったこと」
 それも回数に入っているのかと、明人は吹き出した。訝しげな表情をした雪枝だったが、明人は口元の笑みを隠すことができなかったのだった。




 明人たちの午後は、少なくとも明人と北斗にとっては、寛げる時間ではなかった。低気圧の中心が近付いているという予報が、どうやら的中しそうなのである。厩から戻ってきた所長と少し話をしたあとは、少ない職員と総出で嵐への備えに右往左往することになった。
 雨合羽を着て、納屋から引っ張り出してきた大きな板を一枚一枚、窓に釘で打ち付けてゆく。クロフォード女史はなかなか手馴れていて、北斗に釘打ち機の使い方を教えるのも楽しんでいるようである。当の北斗も、それほど嫌がるでもなく真剣な顔で見慣れぬ機械と格闘していた。もし彼女のマネージャーがエリナだったら、『そんな危険な機械を!』と即座に取り上げたかも知れない。もっとも明人も、今だけは彼女と同じ気分だった。
 明人自身は、まずは所長とともに板運びである。厩の隣にある納屋から、窓に張る板を運び出し、必要な窓の前に積み上げておくのがその仕事だ。
「すみません、大勢で押しかけるみたいで」
「いや、構わないよ。この天気だ、人手が欲しかったから、君と北斗君が手伝ってくれるのは助かる。まあ、明日来る彼がボディガードを百人も連れてくるのなら話は別だが」
「………まさか」
「大丈夫、彼も含めて二人だそうだ。雪枝さんが言っていた」
 馬好きの所長は、そう言って微笑んだ。彼はFAのファンではないが、雪枝と話すうちに十二年前の事故についてはある程度の見識を深めたようだ。とくに一方のドライバーを罵るでもなく、それよりも現在の天河親子を見守っている人間である。
「すみません、お騒がせして」
「そう謝りなさんな。それより世界的なレーサーが三人も集まるんだ、何にサインしてもうらおうか……。ああ、ちゃんと三人が一同に会したことが分かるように書いてくれたまえよ」
 板の後ろを所長が持ち、明人は前端を持って先頭だ。雨に濡れた手が滑るのを感じながらも、明人は思わず吹き出した。すると、それを確認するかのように、所長も小さく声を上げて笑ったのである。
「気にせんでよい。明日、何が起こるのか私には分からんが、明人君、君はもう答えを見つけているのだろうからね」
 明人はちらりと所長を振り返った。雨合羽のフードのせいでその表情はよく見えなかったが、彼がいつものようににこにこと笑っているだろうことは、分かった。

 半日たっぷりかかって板を打ち終えたのは、辺りがすでに薄暗くなった頃である。ずぶ濡れになった身体をシャワーで温めて、夕食の席についたのは午後九時だった。
 雨の中の作業は疲労も倍し、明人は早くも眠気と闘っていたので、その夕食のことをよく憶えていない。ただ、母の隣に座った北斗が、彼女と話しながら時おり小さな笑みを見せていたことが、印象的だった。
 そうして、慌しい一日が終わったのである。










to be continued...


誤字訂正しました。(06/03/21)


 

 

感想代理人プロフィール

戻る

 

 

 

 

代理人の感想

「なんてことない平凡な一日こそ、実は人生にとって重要な意味を持つ一日なのである」

ってのは誰の言葉だったかな。

正直なんてことなさすぎて感想のネタも思い浮かばない(爆死)。

まぁ、これはこれで意味のあるエピソードなんですが、感想つけろと言われると難しいなぁw