FLAT OUT

(36)






 最初に聞こえたのは、どこかで紙がはらりと捲れる音だった。昨夜、寝しなに読みかけのまま枕元に置いた、本だろう。だが今の明人にそんなことはどうでもよく、すぐに意識は薄れていった。
 また、紙の捲れる音がした。今度は、きしりという木の軋む音もした。外の風雨はよほど強くなっているのか。そんなことをやはり夢うつつに考えた明人は、はたと気付いた。外の風が明人の寝ている部屋を吹き荒れるはずはないし、ましてここは病室なのである。隙間風もまた、あるはずがないのだ。
 薄らと開けた視界に入ってきたのは、どこかで見た天井だ。それはつまり、雪枝の部屋のそれと同じであった。
 そこを貸してくれたのは、所長である。仮眠室で十分だと言ったのに、どうせ余りすぎているからと、綺麗な病室に通された。北斗も同じく、隣の部屋をあてがわれている。それでもまだ数部屋空いているのだそうだ。
 部屋の中は、明るい。随分と寝た感じだった。頭も軽く、目もいつもよりは素直に開いた。しかし、一夜とはいえ居候の身でいつまでも惰眠を貪るわけにもいくまい。そう思って医療用ベッドの上に上半身を起こした明人は、次の瞬間、完全に目覚めた。
「起きたか」
 そんなことを言っただけで、再び手元の本に視線を戻してしまったのは、北斗である。部屋の真ん中に置かれたソファに座り、悠然と足を組んでくつろいでいるのである。そして彼女が没頭しているらしいそれは、やはり明人が昨夜読んでいた伝記だった。
「……おはよう」
 他に思い浮かぶ言葉もなく、明人が声をかける。すると北斗は、声にこそ出さなかったものの、ほんの少しだけ顎を上げた。たぶんそれが挨拶代わりなのだろう。
「――寝坊した?」
 枕元の小さなテーブルの上には、腕時計がのっている。明人が幾分慌ててそれを確認しようとすると、すぐに北斗の「いや」という声が聞こえてきた。
「もし寝坊なら、この本は今ごろお前の顔の上だ」
「…………はあ」
 つまり本で引っ叩かれていたということだろうか。起きてよかったと、明人は思った。それに下心を加えることが許されるなら、目覚めて早々、それほど機嫌の悪くない彼女とも話せたのだ。
「お前の母親に、起こしてきてくれと言われた。お前の寝坊癖は、どうやら随分年季が入っているようだな」
 やっと顔を上げて、北斗が言う。その表情は、昨日見せたよりはやはり落ち着いているように見えた。
「そんなことはないよ。ただ、早起きが苦手なんだ」
 言い返すと、北斗は「フン」と鼻で笑う。
「昨日遅くに連絡があって、奴が着くのは昼過ぎになるらしい。俺は午前中、彼女のリハビリとやらに付き合う。明人はどうする」
 思ってもみない彼女の言葉に、明人は驚いた。相変わらず父を父と呼ばないのはともかく、いつもその話題になる度に不機嫌だった彼女が、今はそれ程でもないのだ。それに、いつの間に彼女と自分の母親は、仲良くなっていたのだろうか。
「……なんだか昨夜から仲がいいね。母さんと」
 思わず明人が口に出すと、北斗は意外そうに明人の顔をうかがって、すぐに「ああ」と何かを思い出したようだった。少しだけ、眉根を寄せた。
「母親という存在は、久し振りなのでな」
 明人にできたのは、驚きに目を丸くすることだけである。だがすぐに、彼女が昨夜の宿で話してくれたことを思い出した。彼女の母親は、北辰が半身不随となったその事故で、命を落としたのだ。
 先ほどまでの少し浮かれた気分は、吹き飛んで消えていた。
「ごめん」
 小さく言うと、北斗は気にするなとでも言う風に微笑む。だがやはりその横顔は、どこかその頃に思いを馳せているように見えて、明人は胸が詰まった。
「……明人が謝ることはない。それより、そろそろ朝食だそうだ。着替えるなら早くした方がいいぞ」
 北斗は手短にそう言って、立ち上がった。明人が思い出して時計を見ると、時刻はもう午前8時を過ぎている。部屋を出て行こうとする北斗を見て、明人は慌てて口を開いた。
「北斗」
 しかし明人は、不機嫌な様子を見せるでもなく振り向いた彼女の表情に、それまで言おうと思っていたことを忘れてしまったのである。
「その………その本、気に入ったなら貸してあげるよ」
 北斗は一瞬きょとんとして、明人を見た。そしてテーブルの上に置かれた本に気付くと、口元に小さな笑みを浮かべた。
「お前が読んでいるのだろう。ならばその後でいい」
 そうして彼女は、踵を返して出て行った。明人は、何度も読み返しているその本をぼんやりと眺めながら、扉の閉まる音を聞いていた。






 午後は、あっという間にやってきた。風雨はそれほど強くならなかったが、明人はそわそわして落ち着けなかった。傍目には落ち着いているように見える北斗ですら、そうである。雪枝が所長と顔を見合わせては、苦笑いを浮かべていた。
 林の中から続く一本道に銀色のセダンが現れたのは、二時を少しまわった頃である。相変わらず太陽は厚い雲の向こうに隠れていたが、雪枝の部屋に掛けられている鳩時計が二回、刻を告げた直後のことだった。
 思わず窓辺に駆け寄った明人とは対照的に、それまで戦の趨勢を見守る総大将のようにどっしりと構えていた北斗は、ぴくりと眉を持ち上げただけだった。
 明人は部屋を出ようとして、立ち止まる。北斗を振り返ると、彼女は何も言わずに視線を逸らせた。彼女が立ち上がろうかどうか迷っていることが、明人には分かった。
 はるばる長旅をして辿り着いた父親を出迎えないのは、子としていささか冷たくもあろう。たぶん本心では――心の奥には、昔のように父親の帰りを待ちわびていた北斗がいるに違いない。しかしいま彼女は、確かに父親を嫌っているのである。いや、嫌おうとしていると言ったほうが正しいのだろうか。
 もう少し早く彼女と話していたら、声の掛けようもあったかも知れない。だが明人は、この十二年間の北斗を知らないのだ。十二年間も本心を押し殺し続けてきた彼女の思いを、ほんの少しの会話で理解できたと思うほど、明人も傲慢ではなかった。
 明人は黙って部屋を出た。父の死の真相を知る男を、出迎えるためである。

 小雨がしとしとと降り止まない中、セダンは入り口前ではなく、隣の駐車場につけた。運転席から降りた男は、玄関口の明人と所長に一礼して、トランクを開ける。そこから彼が取り出したものを見て、明人は慌てて傘をとり、雨の中に出た。
 ピラーの影から出てきたその男を、明人はただ黙って見つめていた。明人と同じくらいの背丈の運転手は、ドアの横に車椅子を置いて、上半身だけを使ってそこに乗り移る北辰を手助けした。明人にできることは、黙って二人を雨粒から護ることだけだったのだ。
 玄関から入ると、車椅子のタイヤも拭けるよう、少し大きめのマットが敷いてある。その上を通って、所長も加えた四人はゆっくりと雪枝の部屋を目指した。皆、無言である。明人がちらりと窺った北辰もまた、何も言わず、何も見ようともしないかのように、ただ前を見つめていた。
 そして、運命の邂逅は静かに訪れた。



 十二年前の事故が全ての始まり。だが、それは本当にそうなのだろうか。
 その事故で命を落としたレーサー、天河治己。稀代の天才ドライバーと謳われ、幾多の記録を遺した。天国にいる彼に捧げられたその年のドライバーズ・チャンピオンも、その一つである。
 その天河治己を殺したと名指され続けた、北辰。たった一年後に事故でレーサーとしての生命を絶たれ、その後はめっきり音沙汰もなくなった。リハビリもせず、車椅子での生活を望んだ彼の心配をする人間は、結局ひとりも現れなかった。
 それは彼の実の娘である、北斗も同じであった。圧倒的な強さでユーロ・マスターズを制し、世界の頂点たるフォーミュラ・アーツにポール・ポジションと優勝トロフィーでもってデビューした天才児である。だがそんな彼女に対する人々の希望は、彼女が北辰の娘であることを知った時、不穏な懸念に取って代わられた。
 一方で、最愛の夫を事故で亡くした天河雪枝は、気丈にも女手一つで息子を育てた。もともと体の強くない彼女は、夫の遺産は別にしても、必死で頑張ったのだ。そうでなければ、息子の独り立ちを見届けるように倒れたりはしなかったろう。
 そして、治己がレースよりも大切にし、雪枝が自分の身の自由と引き換えに育て上げた、明人。生きたいように生きよという父の言葉を信じ、しかし今となってはその父の軌跡を探すためだったのかも知れない、レーサーへの道を、明人は歩んできた。
 待ちに待った好敵手の出現、道を別った幼馴染との誓い、親友の死。その全てを、明人は父の助けを借りず、一人で向き合ってきた。
 この一年だけではない。これまでと同じように、明人の人生は今も止まることなく動き続けている。そしてその中で得てきたものを、明人は疑わなかったし、また固執もしなかった。過去の教訓と未来への希望を頼りに、新しい事実を受け入れようと懸命だった。
 そうして作り上げられてきた自分の人格を、明人は嫌いだとは思っていなかった。少なくともこれまで、間違った道を進んできたことはない。足を踏み入れそうになってしまったことはあるけれど、決して、自分の信ずる正しい道を忘れはしなかった。
 それはこれからも、変わりはしない。

 北辰は、ちらりと周囲の人間を窺った。ただ一人を除いて、誰もが彼を見ていた。そのただ一人に、彼はにやりと笑う。
「思わぬ飛入りが居るようだな」
 外見よりもずっと若い声に、明人は密かに驚いた。だがよく見れば、車椅子に座った彼は背筋もぴしりと伸び、上半身を支えるのに肘掛は到底必要なさそうである。まるで、今にもそこから立ち上がりそうなくらい、健康であるように見えた。
 一方、北斗はその言葉の意味を敏感に察知した。強い視線で父親を睨むと、蔑むように「フン」と鼻を鳴らしたのだ。
 北辰の脇に立っていた運転手が、小声で所長に尋ねた。
「給湯室はどこですか。お茶を入れます」
 こちらは低く、少し掠れた声だった。所長は我に帰ったように彼を見ると、案内すると言って、連れ立って出て行った。残ったのは、十二年の因縁で結ばれた、四人である。
 足音が去るのを待つかのように、しばらくの沈黙を破ったのは雪枝だった。
「北辰さん、すみませんね。こんな田舎まで――」
「いや、こちらこそ急の訪問、申し訳なかった」
 表情の変化が少ないのは北斗と同じなのだな、と明人は思った。気安く笑みを見せるでもなく、父が最も近しいライバルと称したその男は、母に向かって小さく頭を垂れた。
「大変でしたわね。飛行機が欠航になったと聞きましたわ」
「雨も風も、ただそれだけで人は立ち往生するより他に術を知らぬ。無力なものだ」
 突き放したような言葉尻も、父のそれとは違う。しかしその口調は、決してそれを蔑んでいるようには聞こえなかった。
「往生際悪く辿り着いた奴もいるようだがな」
 北斗が見向きもせずに吐き捨てる。北辰は何も答えなかった。
 明人はずっと、彼の顔を見つめていた。彼がどんな顔をして、どんなことを言うのか、それだけに今の明人の興味は絞られていたからだ。父と真っ向勝負を繰り広げた男はいったいどんな人物なのか、それが知りたかったのである。
 そんな視線に気付いたのだろうか。北辰が少しだけ顎を上げ、明人を見た。
「……久し振りだな、天河明人」
 その言葉に、明人は息が止まるかと思った。なぜかは分からない。
 彼とはモンツァで会ったはずだ。言葉は交わさなかったが、それにしてもそれからまだ三週間しか経っていないのに、久し振りと言うだろうか。普段頻繁に会う間柄ならわかるが、明人と北辰はそうではなかった。
 彼は、十二年振りだと言いたいのだ。それはつまり、その十二年前に起きた出来事を話しに来たということであった。
「北辰……さん」
 明人が声を絞り出すと、北辰はにいと口の端を持ち上げた。
「長いものだ、十二年とは。あの時のチビっ子が、おぬしか」
「それを言ったら、北斗さんも同じですわ。可愛い子だと思っていたけれど、こんなに綺麗になって」
 話は再び北辰と雪枝のものになって、明人が口を開く機会は失われてしまった。困って北斗を見ると、ちょうど自分を見た彼女と目が合う。しかし彼女はすぐ、怒ったように視線を背けてしまった。
 そのうちに運転手が戻ってきて、所長の気に入りだという紅茶が振舞われた。所長自身は、気を利かせてくれたのか、「仕事が残っているから」と事務室に戻ったそうだ。
 昼下がりの療養所というのは、静かである。雪枝のようにリハビリに励む者も、午後のそれを始めるまでのこの時間は、休憩しているからだ。逆に職員は、事務仕事に追われるそうだが。

 明人は、親どうしの会話をじっと聞いていた。どちらかと言うと雪枝が多く喋り、北辰は相槌を打つ程度だった。だが、最初の一言もそうだったが、彼の言葉は案外深慮を経たもので、成る程と思わせられることがよくあった。
 驚いたのは、雪枝もまた彼の言葉をよく理解しているということである。今までの彼女は、明人の行動を見守り、後押ししてくれるだけだった。明人にとっても、彼女には母親であって欲しいと思うだけで――もちろんそれが一番願うところでもあって、世間話や家庭らしい会話というのはあっても、議論がなかった。
 それに気付いたとき、明人は再び母親の偉大さを知ったのだった。
 本当はもっと言葉を発し、教えたかったのかも知れない。明人だって、我が侭を言った憶えくらいはある。怒られるべきときもあったろう。しかし彼女はそうせず、明人自身にそれを気付かせた。時に明人が悩んでも、一緒になって悩んでくれるだけで、答えを教えることはなかった。
 その時の彼女の気持ちが、明人には少しだけ分かる。我が子に対する想いではないけれど、それは少なくともいま明人にとって大切な人に抱く思いに、似ているからだ。

 そのうちに、運転手も出て行った。どうやら休み無しに走り続けてきたらしく、仮眠室を借りる許可を所長から貰ったようである。もちろん明人は、彼が例によって立派な病室の一つに案内されて戸惑うことを、知らないのである。
 部屋は、再び四人になった。
 どうやって切り出したらいいものかと、明人は迷った。こちらから訪ねて行ったのならまだしも、彼のほうから赴いてくれたのだ。あまり性急に求めるのも無礼であろう。
 もっとも、明人とて水曜の午後――つまり明日の午後には、最終戦に備えて発たなければならない。北斗もそれは同じだ。木曜のドライバーズ・ミーティングに遅れたら、最悪の場合、レースに出場できなくなる。
 できるなら今日か、或いは明日の午前にでも、話を聞きたい。そんなことを明人が思っていた矢先、北辰が口を開いた。
「さて」
 明人が顔をあげると、自分をじっと見る北辰と目が合った。彼は何かを確かめるようにしばらくそうしていたものの、やがてその目で北斗も窺った。そして、小さく笑みを浮かべる。
「わしが今日ここに来たわけは、一つだ。雪枝どのには既に話してある。天河明人、おぬしにはまだだったな」
「……はい」
 彼もまた、明人が察していることは分かっているのだろう。躊躇うこともなく、明人が聞きたかったことを告げた。
「事実はひとつ。十二年前、わしはおぬしの父を――天河治己を、死なせた」
 ざわりと空気が揺れたのを、明人は感じた。それは北斗の感情だったのだろうか。そう思って彼女を見たが、そうではなさそうである。その時の北斗の表情は、言葉に表現できるものではなかった。彼女はじっと、父親を見つめていた。
 では、母だろうか。それも違う。彼女は既に、真相を知っている。
 なるほど、そうか、と明人は思った。残ったのは、自分しかいなかったからだ。
「北辰さん、ひとつだけ、いいですか」
 明人は意を決して尋ねた。
「なんだ」
「北斗も一緒に――彼女にも、その話を聞かせてあげてください」
 北辰はじろりと明人を睨んだ。訝しむのだろうか。しかし彼は、その視線をすぐに自分の一人娘へとやった。明人は慌てて言葉を付け足す。
「僕と同じように彼女もまた、あの事故の真相を知りたいと思っています」
 北斗は、じっと父親の目を見据えて離さない。北辰もまたそうである。しかしそれは、見知らぬ者どうしの対峙ではなかった。北斗が父親を愛しているのは、心のそんなに奥の方ではない。北辰は、むしろ彼女よりもそれを表に出しているようにさえ見えた。それは、そんな対峙だったのだ。
 それなのになぜ、彼は娘に話さなかったのだろうか。その理由も、明人が知りたいことの一つに違いなかった。
「雑誌の記事は読みました。そこには、十二年前にあそこで起きた事実が書かれていました。でも、僕たちが知りたいのは――いいえ、知るべきなのは、それだけじゃない。僕と、北斗と、父さんと、貴方。同じ道を歩んだ人間として、僕は、僕たちの真実が知りたいんです」
 北辰はふと目を瞑った。明人の言葉を反芻しているのか、或いは治己が生きていたあの頃に思いを馳せているのか、定かではない。再び目を開いた時、彼の口元には小さな笑みがあった。
「………この話をそこの馬鹿娘に聞かせるのは、やぶさかではない。だが、それは天河明人、おぬしに聞かせた後だと決めておった。わしが命を奪った男の息子は、おぬしだからな。それに――うちのはどうも血の気が多い上に短気だ。つまらぬところばかりわしに似る」
 つられて、明人も笑みを浮かべた。隣にいた北斗に睨まれたのが分かったが、そんな彼女にも笑みを向ける。すると彼女は何かを言いかけて、怒ったようにぷいと視線を背けた。

 しばらく沈黙がおりたが、それを破ったのは雪枝だった。
「それじゃあ、私は行くわね」
「えっ?」
 一緒にいるものと思っていた母親があっさりとそう告げたことに、明人は驚いた。顔を上げると、彼女は「だって」と微笑む。
「そろそろ、午後のリハビリの時間ですもの」
 この療養所には、決まった時間割というものはない。それは所長の方針だが、だから彼女の言うリハビリの時間も、彼女が自分で決めているだけである。
 考えてみれば、雪枝はこれから北辰が話すであろうことを、既に聞いて知っているのである。すると彼女がそう言い出したのは、北辰のためでもあるのかも知れない。同じことを二度語る彼に、気を遣ったのだろう。
 明人は開きかけた口を閉じ、母を見送った。

 鳩時計のカチコチいう音が、静かな部屋の中にゆったりと流れていた。
 昨日の一日で少しは心を許していたのだろう、雪枝の姿がなくなると、北斗は不機嫌を隠そうとせず、北辰を睨む。だが、我慢しているようでもあった。
「……ソファに、掛けますか」
「いや、このままでよい」
 車椅子の薄い座張りでは辛かろうと明人が声をかけると、北辰はこともなげに返した。
「真実か」
 彼は天井を見上げ、目を細めた。
「天河明人」
「はい」
「真実とはどのようなものだと思う。おぬしがレースに勝つために、真実は必要か」
 いやに哲学的な問い掛けだと、明人は思った。しかし、彼の言う真実が十二年前のそれを指していようといまいと、答えは変わらない。人が持てる力の全てを発揮するのは、心の底からそれを願った時だけだ。
「真実とは、本心でしょう。偽りの心で、僕はレースを走れません」
 言うと、北辰はにやりと笑った。
 その表情にふと思い出し、明人も笑みを浮かべて彼を見る。
「北斗だって同じはずです」
 その言葉は、北辰の表情から笑みを消した。機嫌を損ねたというわけではないだろう。彼は意外そうに明人を見て、再び口の端を吊り上げたのだから。
 だが、北斗は違った。彼女はそれまで背を預けていた壁を離れ、一歩踏み出した。
「俺はこの男の真実がどうであろうと、遅くなったりはしない」
 それは彼女の意地なのであろうと、明人にはすぐわかった。そう言った北斗の表情は、どう見ても自身の言葉を信じているようではなかったからだ。
「でも、タイムにばらつきが出てる」
 彼女の勢いを押さえつけるように、明人は強く、静かに言った。知られたくなかったのだろう、北斗はそれを聞くと、怒りも露わに明人を睨む。
 二の句が継げなくなった彼女を確かめて、明人は立ち上がり、ソファの上に彼女の場所を空けた。
「お願いだよ、北斗。一緒に話を聞こうって、言ったろう?」
 明人に諭されなければならないほど、北斗は取り乱している様子ではなかった。それはむしろ、どうして良いのか分からずに立ち尽くしてようでもあったのである。
「北斗」
 明人が言うと、北斗はまだ怒った顔をしていたけれども、ソファに座った。明人もまた、彼女の横に腰を下ろした。
 北辰は、そんな二人をさして顔色も変えずに待っているようだった。

 

 雨粒が少し大きくなって、窓を叩いている。先週末のベルギーから数えて、かれこれ五日は降り続いていた。まさか雨雲を追いかけてきてしまったのか、或いは雨雲が追いかけてきたのか、どちらにしても明人にどうにかできるものでもない。
「……真実と呼べるほど、大層なものではないのだ」
 北辰が口を開いた。
「わしの言い訳に過ぎぬ。あるいは、懺悔かも知れぬ。しかし話さぬわけにはいかぬであろう。……十二年という年月は、長かった」
 思いのほか優しげな口調で、彼は話し始めた。明人はもはや北斗を気遣うことも忘れかけていたが、その視界の隅で彼女が顔を上げたのがわかった。

 少しの沈黙の間に、外からは何も聞こえてこなかった。雪枝はリハビリを始めているのだろうけれども、その物音もしない。ただ雨粒の屋根を叩く音だけが、囁くように明人の耳に届いた。
 部屋は暖かく、先ほど北辰を出迎えた時に濡れた服も、もう乾いている。降りしきる雨音さえも、今は心なしか暖かかった。
 そして、落ちてくるその水滴の源を天に求めるかの様に、北辰は静かに口を開いたのである。










to be continued...


北辰、やっと登場したと思ったらいきなり長台詞の予感!?

……スミマセン、ソウナンデス(土下座)。

 

 

 

感想代理人プロフィール

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代理人の感想

いや北辰の話はまるまる独白になるかと思ってましたんで別に意外でも何でも(爆)。

というか、シリアスな告白を途中で遮るわけにもいかないでしょう。w