FLAT OUT

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 幾年をあそこで過ごしたのであろう。世界のモータースポーツの頂点であるところの、フォーミュラ・アーツ。頂点であるがゆえに何もかもが極限であり、また狂っておった。しかし、だ。あそこにまともな人間がいるとしたら、わしらドライバーはその中に入っていたのではないか。
 あの事故が起きる四年前のことだ。わしらもいつの間にかベテランになっておった。
 パワー競争が白熱し、中には1800馬力などという化物までおった時代だ。知っておろう、ターボの全盛期を。そもそも今ほど空力的に強くない当時のマシンだ。最高速度が異様に上がり、万が一が起きた時にそれを止める術がなく、翌年のエンジン縮小は連盟の苦肉の策であった。もっとも、その案でさえ拗れに拗れた挙句であったのだが。
 当初、連盟はFAの権威失墜を恐れ、マシンを遅くすることには反対だった。その代りとして、トラクション・コントロールやABSに代表される電子デバイスの導入をチームに打診したのだ。
 メーカー系のチームは、即座に賛成したよ。わしらドライバーは、正直なところどちらでもそう変わらなかった。ドライバーを助けることになるそれらのシステムは、それ無しにも走ってきたわしらにとっては、さして必要不可欠だと思えるものでもなかったからな。もっとも、これからFAにやってくる新人どもには、助けになったかも知れぬが。
 しかし、本当の問題は別のところにあった。それに最初に気付いたのが、天河であった。
 奴は新しい規則の案を聞いて、即座に聞き返したよ。
『僕たちメーカー系のチームはそれでいいかも知れないけど………プライベーターは大丈夫なのかい。それだけのシステムを一辺に導入するとなれば、大規模なテストも必要になるだろう。今だって彼らの中には、満足にテストをできないチームもあるはずだが』
 問われた者たちは――とくにメーカー系のチーム関係者は、唖然としていたよ。奴らの誰も、そんなことは思いもつかなかったのであろう。既に奴らの頭の中には、その新システムをどうやって実戦用に開発するか、そしてライバルはどのように攻めてくるか、戦いが始まっていたのだ。
 そんな中で天河の発した言葉は、規則のせいで不利を押し付けられてしまうことになりかねない、弱小チームを慮ったものであった。現実に、二日テストをすればその費用は1グランプリにかかる費用とほぼ同じだったからな。
 開発コストが高騰し、金のあるチームが勝つようになれば、プライベーターは参戦できなくなる。結局のところFAの問題の根源は、いつもコストだ。天河はそれを知っていた。そうであろう、ライバルが一人減ればそれは己の勝利の可能性を一つ増やすが、同時に勝利の価値を一つ下げる。
 FAがFAである為に、参戦する全ての者はライバルであり、また同志でなければなるまい。それをあの男は理解しておった。


 それでも、結局のところ、FAは毎年のように速くなった。同時に各チームの費やす予算も天井知らずに増え続けた。わしがデビューした頃、FAのエンジンは鉄で作られ、フレームはアルミのパイプだったが、十年後にそれはベリリウム合金となり、またカーボンコンポジット・モノコックとなっていた。
 性能も飛躍的に向上し、1年間にタイヤだけでラップタイムが1秒短縮されることも珍しくない。エンジンパワーは、十年で倍になった。
 天河は、大馬力よりもフットワーク型が好みだと言っておった。むろん、フットワークが良くパワーもあるのが一番だが、それを両立するのはいつの時代も易いことではあるまい。今ではコンピューターを使って全てシミュレーションできるそうだが、当時は九割方が熟練エンジニアの経験をもとにセッティングしていた。
 それに、昨今はクラシック・コースも舗装が一新されて走り心地が良くなったようだな。見ていればわかる。車が跳ねぬ。しかし当時のトラックは凹凸も多く、どこへ行っても腹を擦らないことはないくらいだった。

 コースが悪いと言えばインテルラゴス。インテルラゴスと言えばコースが悪い。とくに1コーナー手前が酷かった。あるレースのフリー走行で走っておったら、わしのマシンはいきなりリヤウィングが吹っ飛んだ。路面の凹凸からくる衝撃に、支柱が耐え切れなかったのだ。
 だが、一番ひどいのはイモラだった。コースの悪さはもちろんだが、一番危ないところに逃げ場がなかった。――そうだ。『タンブレロ』がその最たるものであった。
『ヴァリアンテ・バッサ』を立ち上がり、そこからグランドスタンドを抜けて『タンブレロ』まで、アクセルは踏みっ放し。速度はおそらく330キロほどまで達していたろう。その間も路面はひどく、普段プロテクター類を着けないわしでさえ、そこだけは膝と肘をそれで護らなければ、痣だらけになってしまう。そもそもが3センチも動かぬサスペンションと、さらにダウンフォースを少しでも多くするために車高はぎりぎりまで落としていたから、マシンの底板はレースを走れば1センチほども薄くなる始末だった。
 また、小さな凹凸に加えて奇妙なわだちがあるのも問題だった。水捌けを良くするためか知らんが、イモラのコースは一般道ほどではないものの、真ん中が盛り上がって左右が落ちていた。これがコーナーで恐ろしい現象を引き起こしたのだ。
 考えてもみよ。コーナーにはアウト側から飛び込み、インを掠めて再びアウトに膨らみ加速するであろう。その度にわしらはコースの端から端へ、真ん中の盛り上がりを乗り越えるようにして走らねばならん。乗り越える時はハンドルの切れが悪く、アンダーステア。しかし乗り越えた瞬間に、今度は反対側に落っこちるようにしてハンドルが勝手に切れ込む。しかもそれは定速での話で、加速時と減速時でまた挙動が違った。
 空力も過敏でな。フロアの下にゴルフボール一つ入らないほど、当時のマシンは車高を下げていた。もちろん、その分のダウンフォースは得られたよ。ところがイモラのように、凹凸で路面とマシンとの距離が一定しないコースでは、とにかく扱いにくかった。マシンが跳ねた瞬間にダウンフォースもいっぺんに抜け、全く曲がらなくなる。慌ててハンドルを切り足したら、今度はどすんと着地してダウンフォースも蘇り、曲がりすぎる。それの繰り返しだ。まったくもって、よくもあんなマシンで走っていたものだ。
 当然、この罠に引っかかったドライバーが何人もいた。とくにターボ時代は反応の鈍いエンジンのせいで、皆がコーナーで早くアクセルを開けたがったからな。もう全開で抜けられると思ったら、インからアウトに戻る時の「山越え」で飛ばされ、そのまま外側の壁にヒット。そんな光景をわしらは何度も見てきた。

 常人には理解できまい。本来なら走る以外に能のないドライバーですら、あの頃はレースの度に憂鬱になる者もおったのではないか。かく言うわしも、それを全く感じなかったと言ったら嘘になる。天河もそうであろう。いつも絶えないあの男の笑顔が、あの頃ばかりはどこか儚げに見えたものよ。

 それでも、わしらは走り続けた。思えばあの頃ほど己の道について考えたことはなかった。毎レース、今度こそ自分は死ぬかも知れぬという思いがあったのだ。今と違い、予選専用のセッティングがあった時代だ。
 パワーは最大まで引き上げられ、エンジンは予選セッションの1時間、12周だけもてばよかった。そのためだけにあるエンジンだったからな。
 タイヤも同じ。こちらは制限がなかったから、たった12周で4セットものタイヤを使った。アウトラップ、アタックラップ、インラップの3周を1アタックとして、それを4回分だ。
 使われたのは予選専用に開発されたタイヤで、まったくレースには使えぬ。ピットロードを出てアウトラップの1周で暖め、アタックラップの第1コーナーから最大のグリップを発揮。たった1周、渾身のアタックを終えてコントロール・ラインを駆け抜けた途端に命尽き、インラップは走るのがやっとのタイヤだった。
 狂っておろう。だがそれが当然であり、誰も疑おうとはしなかった。

 正しく暴れ馬であったよ。前輪は、まるで糊でついておるかのように路面にくいついた。何をしても滑らぬ。ハンドルを切れば切っただけ、恐ろしいくらい敏感に鼻先は向きを変えた。後輪もまた岩に張り付くかのようなグリップであったが、これはいとも簡単に破綻することがあった。圧倒的なパワーのせいでな。
 エンジンは、言ったように予選の12周だけもてばよかったから、パワーだけを求めたセッティングにされた。過給圧は6バールに達し、馬力はおよそ1800馬力。それさえも計算値で、実際にどれだけ馬力が出ているのか、誰も知らなかった。何しろそれだけの馬力を計測できる機械が、世界中のどこにも無かったのだからな。
 アクセルを踏むと、エキゾーストの音よりもコンプレッサーが空気を吸う甲高い音ばかりが聞こえた。まるでジェットエンジンを搭載しているかのようであった。トラクション・コントロールなどという高尚な代物は、ない。ターボが効いた瞬間、爆発したようにマシンは前へと弾き出されたものだ。最高速度は、あまり直線の長くないイモラでも330キロに達した。

 この狂ったマシンをねじ伏せるドライバーこそ、一番狂っている――当時はそんな風に思われておったのかも知れん。馬鹿な話よ。それならば、そんなマシンにわしらを押し込めたチームはどうするのだ。そんなわしらを見て興奮している観客どもはどうするのだ。わしらが狂人と言うなら、奴らは人でなしであろう。
 だがわしらは、同じ究極を目指す同志としてあの者らを信頼し、あの者らの為にコクピットに入った。そして究極とは名ばかりの狂ったマシンを操り、戦ったのだ。
 予選が近付くと、ドライバーは皆ぴりぴりしていてな。天河はどちらかと言えば精神集中を必要とする男で、予選前や決勝レース前などはいつも、独り腕を組んでピットロードに仁王立ちし、じっと第1コーナーを見つめていた。誰もそばに寄せ付けなかったよ。ある時などフリー走行が始まったのにも気付かず、そこに立ちっぱなしだったものだから、新米ドライバーなどは本来人間がマシンを避けなければならないピットロードで、逆に天河を避けるようにそっと通り抜けて行きおった。それだけの気魄が、奴にはあった。
 あの化け物マシンを操っておるとき、たしかにわしらは尋常でなかったかも知れん。何か一つでも間違えば、ぎりぎりまで張った命綱はあっさりと切れる。わかるか。わしらは踏めば肉を切ってしまうような細い鉄線の上を綱渡りでもするかのごとく、しかし全力で走っておったのだ。
 多くのドライバーは、自問したことだろう。このままでは自分までも狂ってしまうのではないか、と。狂ったマシンと一緒に地獄まで落ちて、そこで終わってしまうのではないか、と。だが、わしらは違った。

 何のために走るのか。それがわしと天河は確固としていた。わしらは、負けてはならぬものに負けぬために、アクセルを踏んだ。栄光などどうでも良かった。己と、そして互いの信念の為に戦ったのだ。
 わしらはいつの間にか、欠けてはならぬ存在になっていた。天河が走るのなら、わしも走った。またわしが走れば、天河も走った。わしらにとって負けてはならぬのは己であり、互いがまた己であったのよ。だからこそ、なんとしても奴に負けるわけにはいかなかったのだ。
 その思いだけが、わしの心から恐怖を消した。これ以上は不可能だと思うても、天河ならばやるだろうと悟った途端、わしの意地はそれを許さなんだ。天河がやるのなら、わしもやらねばなるまい。他で差を取り戻しての勝利など、微塵の価値もない。おそらく奴も、そう思っていたろう。どんな些細なことであろうとも、わしらは負けたくなかった。全てにおいて勝ちたかったのだよ。まるで子どもであった。
 わしがFAに居た中で唯一誇れることがあるとすれば、妙な話だが、それは天河がおったことであろう。いや、違うな。わしが誇りを持って生きたFAという世界の、その誇るべき部分こそ、あの男であったのだ。あの男が居るのならば、わしはFAに誇りを持てた。
 宿敵であり、戦友であった。天河がわしを生かしてくれた。同じようにわしが、天河を生かした。ライバルというのに、これほどの存在は他になかろう。
 どこのレースであったか、記者が天河に訊いた。奴にとってわしはどんな存在なのか、とな。思えば随分と遅ればせた質問ではなかったかな。わしと天河はすでに十年以上も鎬を削ってきたのに、わしはそんな問いを初めて耳にしたと思うた。
 まあ、宿敵であるとかなんとか、そんな答えを期待していたのだろう。だが天河は、こう答えた。考え込むでもなく、ずっと前から決めていたかのように、朗らかな笑みを浮かべてな。
『彼は掛け替えのない親友だよ。彼がいなかったら、今の僕はない。チャンピオンも獲れなかったかも知れない。同時に、次にそれを獲得するのが彼なら、僕は納得するだろう。もちろん、阻止するけどね』
 今だから言おう。天河治己という男は、わしがFAに居る理由であった。かけがえのない男であった。だがわしは――その男を、死なせてしもうた。




 忘れもせぬ。十二年前のあの年、わしらカヴァーリのマシンは、それまでになく神経質なマシンであった。エンジンは規則で縮小されたが、それでも1200馬力を超えたうえに、車体も奇妙なしなりがあって、先の読めないマシンだった。
 一方、天河の駆るネルガルは、相変わらず斬新なアイデアをいくつも引っさげていたが、どういうわけか奴らはそれを見事に的中させる。開幕から表彰台を逃すことがないほどの圧勝ぶりで、シーズン半ばにしてコンストラクターのタイトルは奴らに決まった。
 思えばわしらカヴァーリも、もはや失うものはないといった状態にあった。わしは常にチームメイトよりも上にいたが、それでも浮き沈みが激しく、路面の滑らかなコースでは力を発揮したものの、インテルラゴスではまともに走ることすら危うかった。チームは大慌てで改良型の製作を決め、それの実戦投入がシーズンも終盤となったサン・マリノであったのだ。

 テストでB型を走らせたわしは、これならば何とか天河と戦えるだろうかと思った。わしのFAは、天河との一騎打ちのみ。他に興味はない。B型は、短期間での開発にしては短所も上手く改善され、戦闘力はあった。空力的な特性だけは、どうしようもなかったがな。それでもわしは、及第点をつけた。天河と戦いたい一心でな。それが明暗を分かつことになるとも、知らずに。
 時代はエンジン、シャシーから空力へと移りつつあった。どんなに良いエンジンを積んでも、空気抵抗には勝てぬ。どんなに良いサスペンションを開発しても、ダウンフォースには勝てぬ。空力こそマシンの性能を端的に表すようになっていった。
 ネルガルは先見の明があったのだろう。エンジンは、パワーはそれほどでもないと言われていたが、ともかく頑丈で壊れなかった。それにネルガルのマシンは、非力なエンジンを効率の良い空力パーツで補っていたのだ。コーナーを走らせればわしらカヴァーリよりも遥かに安定して速く、一方で空気抵抗が小さいから、最高速度でも決して引けをとらなかった。
 ただ問題があったとすれば、それはどちらも空力というものの危うさを知らなかったことであろう。空気というものはあくまで希薄で、それがマシンに強い影響を及ぼすのは、定められた条件が整ったときだけだ。わしらはその狭い条件を満たすために日々腐心しておったが、そのせいでまた視野が狭まっていることに気付かなかった。いや、誰しも気付いてはおったが、気付かぬ振りをした。
 たしかに良い部分を上手く突けば、マシンは恐ろしく速く走ったのよ。だからこそ、欠点をあげ、安全のためにとマシンを遅くすることを、わしらドライバーは誰もしたがらなかったのだ。
 まことに、わしらは子どものように意地っ張りであった。誰かが蛮勇を持して無謀なセッティングを施しても、それが速いのなら皆が真似をした。負けず嫌いもここまでくれば筋金入りだな。
 今思えばこそ、当時のエンジニアたちは余程辛い思いをしていたのではあるまいか。何しろマシンは奴らが作ったもの。その限界など、誰よりも奴らが知っておろう。だというのに、わしらドライバーは我先にとその限界を超えようとする。そしてエンジニア達は、そんなドライバーにマシンを渡さぬわけにはいかなかったのだ。


 あの日、天河は息子をイモラまで連れてきていた。何かを悟っていたというわけではあるまい。あの男も、そしてわしも気付けば三十七。FAドライバーとしての残るキャリアもそう長いものではなかった。そうであろう、いくら情熱が冷めやらぬといっても、歳とともに身体は衰える。だが、勘違いするな。決してあの年、それを実感していたということではない。いい加減それを考え始める歳になっていたということだ。
 わしの言いたいことがわかったのであろうか。天河はふっと微笑むと、ガレージに母親とともにいる息子を見やった。ピットウォールに腰掛け、膝に頬杖をつくその姿は、まるでどこぞの彫像のようであったな。
『困っているのさ。いったい僕は父親として、明人になにを教えてやればいいんだろう』
 三十を過ぎた頃から、やつは口髭をたくわえるようになっていた。なんでも尊敬する先輩にならってとのことだったが、そんなあやつの生き様こそ、ともすればFAという世界そのものであったのかも知れぬ。栄光という名の魔性と、凡庸と蔑まれた良心との狭間で、天河は最後まで道を踏み過たなかった。
『それと息子を連れてくるのと、何の関係があるというのだ』
『それは……少しでも長く一緒にいた方が、いいかと思ってね。一週間に三日と家に居ない父親なんて、ふつうじゃないだろう』
 何とも答えようがなかったな。それはドライバーのみならず、レースに関わる全ての人間の悩みだったろう。わしらドライバーは、まだ自由があった。ガレージに家族を招き入れることができたからな。だがそうでないスタッフらにしてみれば、やはりこの世界は愛憎に覆われておったのかも知れぬ。
『だが、あれはお前に憧れるぞ。レーサーになるとも言い出しかねんな』
 わしから見ても、当時のおぬし、天河明人は、もうすでに父親に憧れていた。まるで神でも見るかのように、惚けて父親を見上げておった。
『だから、困っているんだよ。明人がそう決めてしまったら、僕にそれを止めさせることは、できないと思う』
『………なぜできない』
 問うと、天河はちらりとわしを見て、静かに口を開いた。
『僕は、レーサーになると言って家を飛び出して来たんだ。両親は、反対こそしなかったけど、なれるはずがないとも思っていたんだろう。一人息子だったし、本当は家業を継ぐべきだったのかも知れない。でも僕には、この道しか見えていなかった。だからだよ。両親の言うことも聞かず我が道を歩いてきてしまった僕が、今さら息子の道を束縛するようなことはできないんだ』
 妙な話だな。そのときわしは、初めて天河の身の上話を聞いた。べつに知りたかったわけでもないが、思えば十四年も信念をぶつけ合いながら、そんな話は一度もしたことがなかった。
 わしは北斗に関して、やつとは考えが違った。束縛せぬという意味では似たようなものだが、わしは北斗に、わしが間違っておると思う道を進ませる気はなかった。それには、FAも入っていたのだよ。
 それはそうであろう。懐疑と打算に満ち溢れ、権謀渦巻く狂った世界だ。どこの世界に、そんなところへ我が子を放り込もうなどという親がいる。獅子は子を谷に突き落とすというが、それでも生温い例えであろう。FAという世界は、少なくともその本性を例えるなら、谷底に溜まってできた泥濘の淵なのだ。一度それに染まれば、二度とは拭えぬ。洗っても洗っても落ちぬ染みとなって、いつか人間そのものを変えてしまう。
 わしも天河も、それを望んだりはしなかった。その世界の異常さを知っておるからこそ、本心を言うならば我が子をそこから遠ざけたかったのだ。だが、わしら自身がそこを抜け出すことは、ついにできなんだ。わしらがそこに居れば、子らも追ってこよう。分かっておりながら、できなかったのだ。
『引退したら』
 ぽつりと、天河が呟いた。
『あと何年先か知らないけど……引退したら、菓子屋でも始めるかな。家を店にして……それなら皆一緒に居られるだろう。雪枝はお菓子づくりが上手いよ。町内会で教えているくらいさ。こんど、持ってきてあげようか』
 そういえば、あの男の惚気はいつになっても変わらなかったな。わしは勝手にせいとばかりに手を振ったよ。
『なぜ菓子屋なのだ』
『家業だったからさ』
 己の両親を思い出したのかもしれぬ。しかしそう言って笑った天河は、その瞬間、父親以外の何者でもなかった。己を嘲るでもない。ただ数年先の未来に思いを馳せる、一人の父親であった。そこにはおそらく、エプロン姿で息子を出迎える、自分の姿でもあったのではないか。
 わしは柄にもなく、この男に愛されておる妻子は幸せだと、心底に思うたよ。同時に、わしのような男に振り回されておる妻と子が不憫だともな。わしはそもそもこういう性格だ。直すことなどできぬ。だからせめてわしは、さな子と北斗が支えてくれるわしであり続けようとしたのだ。



 予選が始まった。最初の3アタックでわしは、無難なタイムを出してはいた。二番手を引き離し、堂々の一番時計を刻んで見せたのよ。もっとも、当時のトップドライバーは最後のアタックで驚異的なタイムを刻んだものだがな。
 イモラで完璧な予選アタックをするのは、難しい。全てにおいてミスをしないことは無論だが、問題は『トサ』までの長い直線だ。もともとダウンフォースは強めにつけるコースだから、この直線でスピードをかせげればタイムは随分上がる。それには、他のマシンのスリップ・ストリームに入ることが不可欠であった。
 わしらのチームは、前日のフリー走行でちょっとした大事があった。わしのチームメイトが走行中、クラッシュしたのだよ。『ピラテラ』から『アクア・ミネラーリ』に向かう高速の下りコーナーで、外側の縁石に乗せすぎた。あそこは壁が近く、逃げ場がない。速度を落としきれず、タイヤバリアに突っ込んだ。無事が確認されたのは搬送先の病院で、それでもドクター・ストップがかかったことから急遽リザーブ・ドライバーが呼ばれた。
 わしは傍目にそれを眺めておるだけだったが、嫌な予感はしておった。空力的に神経質なマシンで、路面のでこぼこしたイモラだ。マシンの挙動は、思っていたほどには酷くなかったが、コースの全ての場所において本当にそうなのか、確信が持てなかった。そうであろう、前のマシンを抜くには、レコードラインだけを走っていては不可能だからな。
 そして、いよいよ最後のアタックに入ろうと、無線でコースの状況を確認している時だった。場内アナウンスが、悲鳴のようなものをあげたのだよ。
『「タンブレロ」でクラッシュ、大クラッシュが起きました』
 そう言っていた。
 わしがすぐに思ったのは、予選セッションがどうなるかということだ。セッションの残り時間は、5分を切っていた。天河もわしも、おそらくはあと何台かのマシンも、最後のアタックを終えていないはずだ。
 知っておるだろう。このときクラッシュしたのが、ジェラルド・ヴォルフヴィッツ。即死であった。

 場内は騒然となり、ピットロードもパニック状態だった。中には、コースを走って現場に向かう者さえいた。すぐさま赤旗が振られ、セッションは中断。その時点での一番時計はまだわしで、残ったセッションが再び行われなければ、わしはポール・ポジションだった。むろん、喜べるものでもなかったがな。
 少しして、たった五分だが、予選セッションが再開されることになった。その少し前に『タンブレロ』から事故を起こしたマシンが運ばれてきたが、酷いものだ。ぶつかった右側のサイドポッドは完全に潰れ、タイヤもサスペンションも千切れ飛び、無い。まるでマシンの右半分を切り落としたかのようだった。
 天河は青白い顔をしてそれを見ていた。無理もあるまい。天河にとってそれは、その週末、二人目の死だったからな。
 一人目は、金曜の朝だ。白鳥という、連盟の技術統括部長だった。わしはほとんど面識がなかったが、極端な安全論者であった。ある時などFAに衝撃吸収のためのバンパーをつけてはどうかと言い出して、全員の失笑を買っていたよ。だがそれは今、クラッシャブル・ストラクチャとなって生きておる。
 たしかにあの男は、ドライバーにとって父親のような存在であった。意地を張り、素直に怖いのだと言えないわしらを、心の底から気遣ってくれた。だからわしらは、FAを憂いてどうにも行き塞がってしまうと、レースの後に奴と飲みに行ったりしたのだよ。

『また、死んだ』
 その時の天河の一言、わしは忘れぬであろう。
 いったいわしらが走り続けた十数年のうちに、何人のドライバーがその命を落としたというのか。今でこそモノコックは格段に丈夫になり、衝突安全性も飛躍的に向上しているであろう。だが当時、ドライバーの頭は首から上が全てモノコックの外に飛び出ており、大きなクラッシュで首を折って死んだ者は多い。燃料タンクが衝突で破れ、焼け死んだ者もいた。サーキットもまた安全と言うには程遠かった。多くのコースで、イモラのようにコンクリートの壁がむき出しのままになっていた。
 わしらドライバーだけが知っていた。奇妙な連帯感のようなものだ。戦争でもあるまいに、もしかしたらこの中の誰かは、レース終了後に顔を合わせることができないかも知れぬ――そうならぬことを信じようとしたが、時代はそんなわしらの声に出せぬ願いを聞き届けはしなかった。ただひたすらに、がむしゃらに上だけを目指しておったのよ。
――わしらの願いは、覚悟のようでもあり、諦めのようでもあった。




 三十分ほどして、予選が再開された。だが、最後のアタックを残していた全てのドライバーが冷静に走れたかというと、そうでもないかも知れぬ。
 わしは、天河のあとについてアタックを開始しようと思っていた。奴が『リヴァッツァ』に進入したところでピットを出て、『トサ』から『ピラテラ』に向かう途中で道を譲った。わしは天河の後につき、ホームストレートでやつのスリップストリームに入って直線速度を稼いで、予選タイムを少しでも短縮する算段だった。
 だが、そこで意外なことに気付いた。天河が異様に速いのだ。
 走行中、第1、2区間で天河がわしのタイムを更新したと無線連絡があった。譲るのが早すぎたかとも思うたが、邪魔をするわけにもいかぬ。予選だけはレースと違い、誰もが最高のラップを刻むために互いを気遣っていたからな。わしもそうした。だがこれは、レースでの姿勢とは矛盾せぬぞ。決勝レースがドライバーとマシン、そしてチームの総合力を競う場だとすれば、予選はドライバーとマシンの純粋な速さを競う。余分な燃料も積まず、誰が一番究極に近づけるかを試すのだ。ならば、わしらはそれを互いに見守り、邪魔をしたりはしなかった。それが正々堂々というものであろう。
 天河がわしのタイムを更新するであろうことは明白であった。しかし、最終コーナーの立ち上がりからはわしもアタック・ラップに入る。天河のスリップ・ストリームに入り、どんどん速度が上がった。
 奴を抜いたのはブレーキングに入る2秒ほど前だったと思う。天河もそれは分かっていて、わしが抜くとすぐに軽く減速し、ブレーキングゾーンで並ばないようにしてくれたものよ。
 第1区間でわしは、天河の出したタイムをさらに0.02秒縮めた。しかし、満足のいくものではなかった。走りにはミスもなく納得したが、我々が得意であるはずの直線が多い区間で、それほどタイムが稼げなかったのだ。
 続く第2区間で、0.05秒出遅れた。神経質なマシンに『アクア・ミネラーリ』のブレーキングは難しく、一瞬リヤが流れたのだ。そのせいでインから数センチ膨らんでしまった。
 最終の第3区間は、ほとんど天河と同タイムだった。今思えば妙な話だが、ダウンフォースの効率が全てとなる『リヴァッツァ』の立ち上がりで、わしのマシンはそれほど苦もなく最良の加速を得られたのだ。速かったのだから文句はなかったが、なぜ速いのかが分からなかった。何しろわしらのマシンは、そのダウンフォースを得るための空力に決定的な欠陥があったのだからな。

 結局、最後の五分で天河がポール・ポジションを奪い返した形になった。だが、当の本人はそれにどれほど感激していたというのであろうな。予選記者会見が終わっても、天河の顔にいつもの笑みはなかった。憔悴しきったような顔つきで、あまり喋らなかったよ。




 そしてそのすぐ後、わしらドライバーはヴォルフヴィッツの死亡事故を受け、緊急会議を開いた。誰もがあそこを――『タンブレロ』を危険視してはいたのだ。誰が招集したのかは知らんが、ドライバーだけの会議だった。
 三十人近くおったから、全てのドライバーが出席していたのだろう。議題はもちろん『タンブレロ』だったが、他にも危険な箇所がいくつか挙げられた。それらを総じて、最終的にイモラ・サーキットが本当に安全なのかが議論されたのだ。
『やはりこのコースは危険だ。ビデオを見たろう、ジェラルドはコースアウトしてから、ほとんど減速できなかった。グラベル・エリアは役に立たなかったんだ』
 誰かがそう言うた。
 そこにいた者は、新米を除けばほとんどの者が気付いておったろう。ヴォルフヴィッツがコースを飛び出した場所から衝突したコンクリート壁まで、正確な距離は知らんが100メートルといったところだ。この程度のグラベル・ベッドでは、通常の『タンブレロ』通過速度……時速270キロには、とうてい足りぬ。重量の重いツーリングカーならばすぐにグラベルの砂利に沈み、減速されたろう。だが、ドライバーの体重を含めてもツーリングカーの半分に満たぬFAマシンは、そうはいかなかった。
 会議の最中、グランプリの主催者が記者会見を開いて、それがわしらの部屋でもテレビに映った。
『彼のマシンは不運にもコースアウトする瞬間、縁石に乗って跳ね、数十メートルも宙を飛んでしまった。水面を跳ねる小石と同じ原理である。それが減速し切れなかった原因だと思われるが、これは極めて稀な事例で、明日の決勝レースを開催するのに十分な安全性がないものとは言い切れない』
 手元の紙を見ながらぼそぼそと喋る男が、憎らしく思えたものだよ。
 ヴォルフヴィッツが不運であったのは、誰もが認めるところであろう。結局のところ、わしらにとって事故とは全て不運なのだ。好き好んで壁に激突する奴など、居らぬ。むしろドライバー達が気にかけたのは、同じことが己に起こるのではないかという危惧であった。それはそうであろう。極めて稀な事例とやらは、わしらが走るそこで現実に起こったのだからな。
『話にならん。正直なところ俺は、もう少し深慮を経た判断が下されるものと思っていたが』
『そりゃそうさ。連盟はドライバーの命よりもレース収益の方が大事だからな』
 同じドライバーにも、色々な人間がおったよ。少なくとも一人は、チームメイトの死に相当な衝撃を受けているようだった。同じルーキーだったのだ。始終机の上を見つめるばかりで、誰が話しかけても上の空であった。
 主催者を罵った者は、グランプリにおけるドライバーの地位を求めていた。命を懸けて走るのはわしらだというのに、グランプリのルールを決定する会議に出席すら許されないのが、我慢ならなかったのであろう。
 そしてもちろん、決勝レースで同じ事故が起きて命を落とすようなことになれば、それこそヴォルフヴィッツも己も、犬死に以外の何物でもない。それではいくらなんでも腹の虫が治まらぬ。――わしが思うに、それがその場にいた者たちの総意であった。
『決を採ろう。俺たちは明日のレースをボイコットすべきだ。このままでは必ず同じことが起こる』
『多数決で、か? 反対の者はどうする』
『反対する人間が、ここにいるのか。ジェラルドは死んだんだ』
 誰もが、それぞれの顔を見合わせた。わしらの間には、たしかに怒りがあったのだよ。ジェラルド・ヴォルフヴィッツという若者の死を踏み躙られたという思いは、誰しも同じであったろう。わしにとって顔も知らぬドライバーだったが、同志であることに変わりはなかった。奴もまたスピードに命を懸け、そして散ったのだからな。
 わしは天河だけをちらりと窺ったが、奴はじっと机の上を見つめたまま、黙っていた。
『……治己、君は年長だし、我々グランプリ・ドライバーの代表でもある。採択を頼めるかい』
 そう言われて、天河はやっと顔を上げたよ。だがもう、先ほどまでの憔悴した表情は見られなかった。断固として感情に流されず、どっしりと物事を見据えんとする眼が、そこにあったのだ。
『わかった。しかし、採否はどう決める? 全会一致か、或いは過半数か』
 天河の声は静かだった。年の功というわけではあるまいが、たしかに一番落ち着いているように見えた。
『――全会一致にすべきじゃないか。これはドライバー全体の問題なんだ』
 その声に、多くは頷くなりして答えた。奴らにとって、答えはもう見えていたのだろう。いや、見えた気になっていたというべきかな。確かにドライバー全体の問題ではあったが、奴らにはまだFAというものまでが見えていなかった。己の生きる世界が、天河が愛憎に苛まれながらも居続けたその世界が、見えていなかったのだ。
『それならば否決と言わざるを得ない。僕はボイコットには反対だ』
 天河の声が部屋中にはっきりと響いた。それまで勢いに乗っていた者たちは、唖然として尊敬する男を見たよ。天河は何かと面倒見が良い。チームという壁も関係なく、後輩から慕われておった。その男が、よもやおのれらの命を軽視しているとは思えまい。
『なぜだ。いま声を上げねば、取り返しのつかないことに――』
『それはわかる。でも考えてくれ、僕たちは……僕たちのレースは、いったい何の為にあるのか。既に多くの観客が決勝レースを待っているんだ。僕らは、レースをボイコットすること以外に何か方法を見つけられないだろうか』
 あやつの言いたいことは、わからぬでもなかった。やんちゃなルーキーどもは我先にと上を目指す。礼儀も何もない。ところが己の身に危険が及ぶとなると、手のひらを返したように保身に走るのだ。権利がどうたらこうたらと、難癖をつけてな。
 たしかにレーサーというのは、そもそも少なからず目立ちたがりであろう。だが天河は、一風変わっていた。人の前に立って喜びを感じるという点では同じかも知れんが、その喜びの根拠が奴は違っていたのだ。
 あの男は、ファンに対して感謝の念を片時も忘れなかった。自分のファンだけではない。FAを観に来る、或いはテレビを通してFAを観ている全てのファンに、感謝していた。
 ルーキーはとかく、良い成績を上げて賞賛されるのは当然だと思っておる。自分は優秀であり、そうでない者がその前に平伏すのは当たり前なのだ、と。やつらは、表彰台という玉座に座ったつもりでいるのよ。そしてそういう愚か者に限って、何も見えておらぬ。
 天河は、決してファンを玉座から見下ろしたりしなかった。奴はむしろ、巨大なホールの底にある舞台に立ち尽くした道化であった。見上げるほどの観客からの拍手を一身に受け、逆に己が感動してしまうような男であった。己が賞賛されるような人間ではないと、そう信じておるかのように。だから奴は、己と己の世界を愛してくれる全てのファン達に、それに報ゆる義でもって返そうと必死であったのだよ。
『……ファンだって分かってくれる。俺たちだって、命あっての物だねだ』
 誰かが本音を言うたよ。それはそれで、蔑むつもりはない。その通りだからな。
『ああ、彼らは分かってくれるだろう。だが僕たちがそんな期待に甘えるのは、まだ早いんじゃないか。僕たちはまだ、解決策について議論もしていないんだ』
 天河はそう言って、やっと辺りを見回した。
 そういうところが、天河が後輩に慕われた理由かも知れぬ。あの男の言うことはいちいちもっともで、わしの嫌いな正論であった。だが天河は、決してそれを押し付けようとしなかった。奴がそれを口にするのは、そうせねば道を誤ってしまう時だけであったが、それでも奴は問いかけるだけであった。自分一人では何も出来ぬと、知っておったのだ。
 父親のような存在であったのだろうな。どちらにしてもあの男は、それで周囲から嫌われるということがなかった。もしかするとルーキーどもも、この世界に足を踏み入れてすぐ、己が狂ってゆく不安に苛まれたのかも知れん。たった独りまともな天河に、縋る思いもあったのだろうよ。
『僕たちがレースをしないと言えば、多くの大人たちは分かってくれるだろう。レースはこれだけではないと、彼らは知っているからね。だが、子どもたちはどうだ。両親に連れられて楽しみにやってきた、子どもたちは。たしかに僕たちのレースは、大人たちにとって娯楽に過ぎないかも知れない。だがあの観客席にいる幾人かの子どもたちにとって、僕たちは夢なんだ。僕たちがかつて先輩を見て思い描いたようにね。そんな夢を胸に抱いてやってきた彼らを失意のうちに家へ帰すような真似は、僕は絶対にしたくない』
 それはドライバーだけではなかった。当時のエンジニアの中にも、幼い頃にレースを観て、それに圧倒され即座に己の夢とした人間は、多く居ったからな。
 子らの夢か。全くもって天河らしい理屈であったが、それは正しく我らがフォーミュラ・アーツの存在意義であったのかも知れぬ。わしらは、その全てが、幼少に見た夢を忘れることができなかったが故にこのFAという世界を担っていた。それが野心であろうと自己顕示欲であろうと、どうでもよい。ただ、一度たりとも忘れなかった。
 逆を言うならば、それ無くしてここまでは辿り着けなかったであろう。いや、この世界そのものが、それ無くしては存在し得なかったろう。なぜならFAは、人が生きる上で決して必要不可欠ではないからだ。だからこそ人の信念を必要とし、純粋で貪欲な――子どものような夢を必要としたのだ。そしてそれは、我らを究極へと導いた。
『知恵を絞ろう。僕達が応えるべき相手は、連盟でもなければスポンサーでもない。遠くからこのレースを観に来てくれた彼らに、今こそ僕達は彼らの求める夢を見せてあげよう』
 そう言い切った天河の顔は、切実だった。そこには、レーサーとしての顔だけではない、あの男の素顔があったのだ。
――それはやはり、父親の顔に見えた。


 会議は終わった。ボイコットは回避され、我々ドライバーの間でのみ、紳士協定が結ばれた。それは、ブレーキング・ゾーンに入ってからラインを変えないというものだった。ブレーキを踏んでから先は、本来とるべきラインをとる。インを差されたとしても、それを妨害してはならぬ。むろん、ブレーキをかける前に並びかける分には関知せぬが。
 要するに、抜く側はブレーキを踏む前にラインを変えなければならず、抜かれる側もブレーキを踏み始めたらもうそれを妨害してはならんということだ。これで、一番危険なコーナー進入時の接触事故を無くそうとしたのだ。
 天河が記者会見でそれを発表した。チーム幹部の何人かは、驚きとともにいやな顔をしたよ。抜くためのリスクは減ったが、同じように抜かれない為の防御策も減ってしまったのだ。如何なる機を突いてでも勝つことしか頭にない奴らにとって、この紳士協定は目の上のたんこぶになったというわけだ。マシンがドライバーを勝たせると信じておる輩に至っては、当然の反応であろうな。
 連盟は、とくに口出しすることはなかった。もっとも奴らとわしらの思惑が違うのは、あの者たちにとってレース中のバトルの増加が視聴率の向上に繋がっておったからであろう。ドライバー達が自ら安全策を模索してくれて嬉しいとかなんとか、鼻白むようなことを言っておったわ。
 天河は最後に帽子を取って、記者たちを見回した。辺りはしんとしていた。
『昨日亡くなられた世界自動車連盟の白鳥氏、そして今日、悲しい事故で還らぬ人となったジェラルドに、哀悼の意を示したい。願わくは二人の魂が、明日このサーキットにいるであろう全ての人たちを護ってくれることを』
 思えば、あの男ほどにフォーミュラ・アーツを愛していた人間は居るまい。天河は形のないものを愛するような行儀のいい人間ではなかった。奴がFAを愛していたということは、すなわちFAに関わる全ての人間を愛し、また愛そうとしていたということだ。あの男にとってFAは家であり、そこに居る者は家族であった。
 わしはな、奴が羨ましかったのかも知れん。誰が見てもできた男だった。正直者で、謙虚、誠実。己の知らぬことを決して否定せなんだ。妻子への愛と、己の住む世界に負う大任との狭間で、懸命に生きようとしていた。たしかに妙な子供っぽさのある男だったよ。己のミスを、恥ずかしいからと隠し通してしまうあたりはな。だが、人として恥ずべきところは、無かった。
 英雄などではない。そんなものは、腐り果てた狸が己の権勢のために祀りたてる操り人形に他ならぬ。強いて言うなら天河という男は、ヒーローであった。子どもが憧れる、それよ。他に言い様もあろうが、あいにくわしはそれほど勤勉ではなかったのでな。だが、それで良いように思える。あの男を表すのに、それよりも良い言葉は思い浮かばぬ。奴は決して人の中心に立とうとする男ではなかった。むしろ子どもらに囲まれ優しく微笑んでいる姿こそ、似合う男であった。そして――あの男の前には、どんな大人たちも子どものように思えたものだ。










to be continued...


………………つづく!(笑)


ちなみにこの北辰パートは、4話分あります(第40話まで)。

 

 

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代理人の感想

んー、いいなぁ。

何がいいかってこの語り口。賛同者がどれだけいるかは分かりませんが、

こういう淡々として、かつある意味感情的な語り口と言うのは妙に惹かれるものがあります。

傲慢なほど素直に自分の内心を押し出しながら、一片たりとも揺らがない。

好きだなぁ。