FLAT
OUT
(39)
季節は、秋口であったか。イモラのコースにも枯れ葉が舞い始める、よく晴れた日であった。アドリア海はそう近いわけではないが、朝の静かな刻頃には海鳴りのような風の音が厳かに空を覆っておった。
決勝レースの始まりがどこか白けたものであったことは、否めぬであろう。おそらくは観客の中にも、うやむやにされたヴォルフヴィッツの事故を訝しむ者がおったに違いない。そのルーキーの死が偶然ではなく、起こるべくして起こった悲劇であったことに、気付いておったかも知れぬ。
わしらドライバーもまた、腹に疼くかのような不安を抱えてコクピットに納まったものよ。
天河がピットウォールに向かって手を振っているのが見えた。どんなつもりで手を振ったのかは知らぬ。その先には、鼻から上だけを壁の上にのぞかせ、手を振っている奴の息子の姿があった。
わしもまた、娘のことを思い出したよ。だがわしのグリッドからカヴァーリの指揮所は少し離れていて、姿を認めることはできなかった。もっとも……認めたところでわしには、天河のように手を振ってやることはできなかったろうがな。
フォーメーション・ラップが始まり、それまでの事は全て頭から消えた。おぬしらもそうであろうが、トラック以外でのごたごたをレースに持ち込んだところで何の役にも立たぬからな。件の協定まで忘れてしまうほどではないにせよ、昨日の事故はもはや過去の出来事のように思えた。
わしらがグリッドについたのが、午後二時を少し回った頃だ。空気は程よく乾いており、空は相変わらず抜けるような青空であった。
そしてその空に滲むように、レッドランプが点灯した。わしにとって、失うものは何もない。チャンピオンシップは天河が大きくリードしておった。何とか二位を守っていたわしは、もはや優勝し続けたとしても奴の不運を待たねばタイトルには手が届かぬ、そんな状態であったのだ。
ライトが消え、わしと天河はほとんど同時にスタートした。後ろのことなど知らぬ。急激に追い上げてくる奴がおれば無線で知らせてくれる。それがないなら、わしはミラーを見ることすらなかった。
最初の『タンブレロ』は、誰もが少し慎重だったように思う。もっとも、グリッドスタートからのそれはブレーキの要らないコーナーであったから、抜く場所でもなかった。
『トサ』ヘアピンでわしは天河のインに半身だけ振り、様子を窺った。天河の走りは、もちろんのことだが、予選の鬼気迫るそれではなかった。毎周を予選のように走ることは、わしらドライバーにとっては不可能でもなかったが、マシンがもたなかったろうからな。
『ピラテラ』の立ち上がりで、天河が一瞬だけリヤを滑らせた。あやつらしくもないミスだよ。だが、朝のウォームアップから決勝レースまでの間に行われた他カテゴリーのサポートレースで、路面が少し悪くなってもいた。おそらくそのせいであろう。
わしはインを差すことはせず、アウトに並びかけた。下りの緩い左コーナー、続くは『アクア・ミネラーリ』の連続した右。一つ目は浅く、ブレーキは要らぬ。だが二つ目が直角に近い急コーナーで、そこを完璧に抜けるには、一つ目の直前で横Gを残したままブレーキングに入らなければならなかった。
目論見どおり、わしは天河のインに入り込んだ。だが、天河とてそれを易々とさせるような男ではない。
このような鍔迫り合いで、わしと天河を区別するとすればこうであろう。つまりわしは、己の技量を闘志と度胸で証明した。傍から見れば無謀にも見えたろう。だがわしは、ともすれば破綻しそうなそれを力でねじ伏せ、勝ち取った。一方の天河は、己の技量でもってその業火のごとき闘志を表した。非の打ち所のない、正確無比な奴の腕は、そうでないドライバーに空恐ろしささえも感じさせたものよ。
オープニング・ラップだからといって、無駄な様子見などはせぬ。一度で十分だ。レースは60周以上、300キロを走るが、わしらにはそれでも足りぬくらいであった。抜けるときに抜かねば、次の機会は50周待たねばならぬかも知れん。攻守ともに隙などなかった。
当時も、イモラの最終コーナーは『ヴァリアンテ・バッサ』。ここでわしは、すぐ先のホームストレートに対し天河よりも有利なラインをとれた。奴は守りのラインで、わしが攻めのラインであったことが功を奏したのだ。アクセルを開けたのは、わしの方がコンマ1秒か2秒、早かった。
スリップストリームの中というのは奇妙なものだ。まるで台風の目の中に居るかのようで、己がとんでもない速度で走っていることを忘れる。風圧がなくなり、風切音が消える。
静かであった。わしは刹那、ピットウォールを見た。そこに北斗が居るように思えた。何故だか知らぬ。グリッドで見られなかったが、今は見えるかも知れぬと思ったのだ。だが、結局わからなかった。
天河とわしの間には、すでに歩くくらいの速度差があった。わしがマシンを滑らせて天河の横に出たのは、ちょうどピットウォールが切れる辺りだったろう。今度は様子見ではない。わしは抜くつもりだった。
『タンブレロ』で抜くのは難しい。だが、できないことではない。相手がルーキーであったなら、わしは仕掛けなかったろう。共倒れしてしまっては何の得にもならぬ。だが天河ならば、抜き方も抜かれ方も知っておる。それはどこに行っても変わらなかった。あやつの走り方を誰よりも知っていたのは、このわしだ。
知っての通り『タンブレロ』は左コーナー。天河が右側アウト一杯に、そしてわしがそのイン側に追従するような形で、わしの右前輪が天河の左後輪を越えようとしていた。やはりと言うべきか、わしのマシンは空力効率の悪さもあって、馬力の割りに最高速度の伸びがない。ブレーキングの直前で横に並べるかといった予測であったのだが、それに若干足りなかったというのが実際のところであった。
『タンブレロ』の通過速度は、6速1万5千回転。時速にすると270キロといったところだ。直前で速度は330キロ程に上がっていたが、ブレーキは要らぬ。その速度になれば、空気抵抗だけで50キロくらいはすぐに落ちるのでな。
わしはいつもよりもコンマ数秒か、早めにハンドルを切り込んだ。万一にもアンダーステアが出れば、外側に居る天河に激突してしまうからだ。
だが、最初に不思議なことが起きたのは、そのときだった。ハンドルを切っても、車が思ったように反応しなかった。まるで曲がるのを嫌がるかのように、天河の横に張り付いて離れようとせぬ。
今思えば、これが当時の最先端であるところの空力が持つ罠だった。
ネルガルのマシンが空力的に一歩も二歩もリードしていたのは言った通りだ。もちろんそのせいだけではないのだろうが、その瞬間、わしのフロントウィングは、天河の起こした乱流に巻き込まれていた。いや、ネルガルだけにそれは乱流などではなかったのだろう。そこに流れておるべき空気の流れであったのだ。それはまるでわしのフロントウィングを誘うかのように、影も形もなく、しかし確実に流れていた。
わしの頭は目まぐるしく回転し、事の次第を理解しようとしていた。たしかにスリップストリームというものは、前車の真後ろでなくとも発生するものだ。それは長年の経験からわかっておった。だがこの時に感じたそれは、桁が違った。原因は知らぬが、十数年間FAで走った経験からも予測できぬ何かが、起ころうとしていた。
ブレーキも踏めなかった。踏んだ瞬間に吹き飛びそうだった。マシンは、おそらくその状態での特殊な走行風から来るのであろう、不気味な横揺れに襲われていた。天河も同じだったに違いない。安定しないその状態でブレーキを踏めば、前後のバランスが狂って即座に姿勢を乱す。まして目の前は世界屈指の高速コーナーだ。
わしは何とかハンドルだけで天河のマシンから離れようとした。コンマ1秒が数十秒にも思えた。わかるであろう、時速300キロでは、ハンドルを1ミリ切り間違えれば一巻の終りだ。そうこうする間にも路面の凹凸のせいでマシンは跳ね、空力バランスは目まぐるしく変わる。それに乱されぬためハンドルは一定せず、離れたいのに離れられぬ時間が何分も続いたように思えた。
そのままでの終焉など、わかりすぎるほどにわかっておったよ。わしは何が何でも事態を打開せねばならなかった。インの縁石に乗り上げても良い、それでコースアウトしても構わぬ。だが、隣を走る男にだけはぶつけたくなかった。
わしは己と、かろうじて妻子のためだけに走った。だが奴は、それに加えてFAを愛する全ての人間たちのために走った。わしらが生きるこの世界のために走っておった。このような下らぬ事故でリタイヤしていい男ではなかったのだ。
『タンブレロ』のクリッピングポイントが迫り、わしはどうしようもなくなってついにブレーキを踏んだ。同時に、逃げるためにハンドルを切ろうとした。イン側のダートに突っ込もうかと考えた。それならばわしもスピンしてコース上を滑る程度であろうし、天河にも当たらぬだろう。それ以外に、もはや方法は思いつかなかった。
そして、その瞬間だった。わしはとんでもないものを見た。天河の前輪――それはわしの前輪のさらに先にあったのだが、そこから一、二枚かの枯れ葉が舞ったのだ。それは一瞬跳ね上げられ、わしの方に来たかと思うと、今度は急激に舞う方向を変えて天河のサイドポッド上に吸い込まれて消えた。
ぞっとした。それは、天河のマシンの側面に猛烈な速度で流れる空気があることを示していたのだからな。
はっとする間もなかった。わしの足はすでに、ブレーキペダルを踏み締めていたからだ。とたんにサスペンションが沈み、わしのフロントウィングは今度こそその流れの真っ直中に突っ込んでしまったのだ。
空気流は、速度が速くなればなるほど負圧が生ずる。それは昨今のFAではドライバーの間ですら常識であろう。だが当時は、その原理は分かっていても実際にどこでどう発生しているのかがわからなかった。そもそもFAの空力は、とくに黎明期にあっては航空機のそれを見様見真似で取っ付けていただけだ。この頃になればある程度は進歩していたが、それでもわしらドライバーは風音やマシンの微振動からそれを察する以外になかったのだよ。
わしは引退後、FAとの関わりを絶ってしもうたから、詳しい原理は知らぬままだ。だがあの時まさしく、それはそこにあった。天河のマシンとわしのマシンの間に、周りよりもさらに速い空気が、流れておった。
吸い込まれると思ったときには、遅かった。世界の全てがのろのろと動き、わしの手がわしのものでないかのようであった。ハンドルは左に切っておるのに、マシンは右に滑った。わしは目を見開いたまま、歯を食いしばって、天河の後輪がわしの前輪に乗り上げるのを見ておった。
何故か――以前わしのところに怒鳴り込んできた天河の、ことの事情を知って見せたその笑顔が、脳裏に浮かんだ。
不思議なことに、タイヤがぶつかった瞬間は何も衝撃がなかった。風切音もエンジン音も、全ての音が消えていた。ただわしは、天河のマシンが見上げるほどに高く撥ね飛ばされるのを、呆然と見ていた。
直後、わしの前輪を支える支柱も折れ、天河とは反対方向に車が回転し始めた。しかしわしは、それに対処することすら忘れてしまっていた。駒のように回りながら、時おり壁を擦る衝撃があったような気がする。世界が回り続けるその視界は、まさしくその時のわしの胸のうちであった。
天河がどうなったのか、わからなかった。わしもまた、車が止まるまで周りの状況を掴むことができなかったのだ。いつの間にか『タンブレロ』を200メートルほども行き過ぎていた。
そして飛び込んできた光景を目の当たりにして、わしの息は止まった。大げさではない。わしの目はそれに釘付けになり、離そうとしても離れぬ。喉がひっくり返り、息をしようとしてもできなかった。
その時見たものを言うても良いか。
では言おう。わしは前日に大破したジェラルド・ヴォルフヴィッツのマシンを目の当たりにしておった。だが、天河のマシンはそれどころではなかったのだ。
マシンはちょうどわしの方を向いて止まっておった。グラベル・ベッドの中に沈むようにな。巻き上がった砂埃に日が筋となって幾重にも差し込み、そんな事態だというのに妙に美しく思えた。
白いフロントウィングは、なかった。それどころか、ノーズからサスペンションまでがごっそりともぎ取られ、潰れたペダルの向こうには天河の足先までが見えた。左側のサイドポッドは滅茶苦茶に壊れ、やはりコクピットのすぐ横から切り落としたように潰れていた。その向こうに転がっておるものがある。引きちぎれた後輪と、胴体の後部だった。
天河は、まるで眠るかのようにコクピットの障壁に頭をもたげていたよ。ヘルメットに目立った傷はないように見えた。だが、本来そのヘルメットの向こうに見えるはずの空気吸入口は、なかった。万一の横転などからドライバーの頭を護るはずのそれは、潰れたか砕けたか、ともかく跡形もなかったのだ。
わしの身体は凍りついたように動かなかった。寄ってきたマーシャルが肩を揺するまで、わしはじっと天河だけを見つめていた。そのヘルメットが再び動き出すのを待っていたのかも知れん。奴がまたわしのピットに怒鳴り込んでくるなら、それで良いと思うた。
わしはコクピットから立ち上がると、砂利の中を歩いて天河の下へ向かおうとした。だが足が動かず、砂利に沈むばかりで進めぬ。数歩か、あるいは数十歩歩いたのか、知らぬ。そのうちに力尽き、立ち尽くした。天河がおったところまで、あまりに遠いように思えた。
どのくらいそこにおったのか、分からぬ。わしの身を案じて声をかけてくれたマーシャルさえも、わしは無視した。天河の身体がコクピットから引きずり出され、担架の上に乗せられた。ぐったりと両腕が垂れ下がり、医者らしい男が支えておったヘルメットは、まるで胴体と繋がっておらぬかのようにぐらぐらと揺れておった。
天河のことだ、そのうちに目を覚ますのであろう。担架の上に起き上がって、肩凝りでもほぐすかのように首を振り振り、マーシャルたちに笑いかけるのであろう。そう思うたのは、それがわしの心底からの願いであったからだ。
容態など知らぬ。わしのいたところから天河のところまで、まだ数十メートルあった。しかし、おぬしらならばわかるであろう。同じFAドライバーならば、あの『タンブレロ』で、あの速度で、コントロールを失ったマシンがどうなるか、分かるであろう。
わしは、声に出せぬほどの強い思いで、祈っておった。――死ぬな、天河、と。
怒りにも似た感情であったように思う。むろん事故の原因をつくったのはわしなのだが、その瞬間、わしはそれすらも忘れていた。いつになっても起きない天河に、怒りと絶望が入り混じって激情となった。
――お前が死んだら、わしは誰と戦えば良いのだ――。
そう口に出したのかどうか、憶えておらぬ。だがその時のわしは、正しく藁にも縋りたい思いであったよ。まるで死にかけているのは己のような、胸を掻きむしりたい衝動にかられたが、腕が動かなかった。
――答えよ、天河。
お前が居らなくなったら、わしは誰を求めてここに居ればよいのだ。
わしにはお前の真似はできぬ。お前がしたように息子を愛し、妻を愛し、この世界を愛することが、わしにはできぬ。いや、誰にもできぬであろう。お前にしか、できぬのだ。
死ぬな、天河。お前が今そこで起き上がってくれるのなら、この命も惜しくはない。妻子は気がかりだが、お前にならば託すこともできよう。
お前との決着は、まだついておらぬではないか。
お前が居らなくなったら、わしはいったい誰に勝てばよいのだ。
唯一、わしを理解してくれるお前が居らなくなったら、わしはいったい何を頼りにこの世界で生きればよいのだ――。
赤旗が振られていたことも、わしは気付かなかった。歩いてピットに戻る道すがら、やっと気付いたのだよ。
天河は救急ヘリコプターで運ばれていった。そしてそれを見届けてからのわしは、言い様のない怒りと憎しみにかられ、ただ真っ直ぐにガレージを目指しておった。
己が憎かった。天河にぶつけたことを後悔したのではない。それを回避できなかった己が憎く、殺したいほどであったのよ。わしの腕が未熟であったばかりに、天河を裏切ってしもうた。こんなわしを親友だと言うたあの男を、裏切ってしもうた。
同時にピットロードに居る全ての人間が憎かった。奴らは皆わしを見た。中には憎悪のこもった目もあったよ。わしにはそれが我慢ならなかった。わかるか。
現場に駆けつけた医師は、躊躇わずにその場で天河の喉を切り開いたよ。気道確保だと言うたか。勇敢なコースマーシャルは、まだレースは続いているというのに、あの危険極まりない『タンブレロ』のコース上にまで飛び出し、立ちはだかるかのように後続車を減速させた。
だというのに、おのれらは、なんだ。あれだけ天河に愛されておりながら、今、何をしておる。即座に容態を見抜いて最善の手を尽くそうとした医師のように、あるいは身を挺して後続車から天河を護ろうとしたマーシャルのように、あの男を助けようと、少しでもしておるのか。あの男がその命を懸けて貫かんとしたことを、少しでも継ごうとしておるのか。
幸か不幸か、赤旗中断による再スタートが近付いていた。奴らの多くは、その準備をしておった折に、何食わぬ顔で戻ってきたわしを目にしたのだろう。人間でないものでも見るように、不躾にわしを見ておったよ。わしはそんな奴等が、どいつもこいつも救いようのない大馬鹿者に見えた。
ガレージに戻り、わしは真っ直ぐにスペアカーへと進んだ。気遣って差し出された手を振り払ってな。言葉には出さなんだが、そのときわしのすべきことは一つしかなかったのだよ。それは、このレースを続行し、勝者を決めることだった。スタートされたレースは、チェッカーフラッグとともに終わらねばならぬ。それが天河の持論であり、誇りであった。遺志を継ぐなどと大それたことは言わぬよ。そもそも天河の容態は未だ知れなかったのだからな。もしまた奴が笑顔で戻ってきたなら、せめてレースの結末くらいは話してやらねばならぬと……そう、己に言い聞かせたのだ。
レースが再スタートされたのは、事故から一時間近く経った頃だ。ピットロードには、信じられぬといった顔をしておる者もおった。それはそうであろう。二度の大事故によって、イモラが危険なコースであることがはっきりとしておったのだ。そんなところで今ひとたびレースをしようなどと言うのだからな。
もっとも、これはわしも後で納得した弁よ。あの時わしの頭には、レースを再開することしかなかった。おそらくは他の多くのドライバーたちも、そうであったように思う。もちろん奴らの場合は、わしへの敵愾心も一層勝っておったのかも知れぬが。
まだ天河の安否は定かでなかった。だというのにわしは、弔い合戦にでも出るかのような心境であった。他のドライバーたちにしても同じであろう。このレースは既に、奴らにとって父とも呼べるドライバーを無くしておったのだ。その男の、レースに懸けたその信念を、知らなかったとは言わせぬ。予選後の会議で、天河は皆を前にはっきりと言うたではないか。――もし再スタートせぬ者がおったとしたら、それこそ臆病者だ。
結局、すべてのドライバーが再びグリッドに並んだよ。ポール・ポジションの空いたグリッドだった。
天河の居なくなったレース、わしは確かに速く走った。だがそれにはもう、価値などなかった。むしろわしは、己の限界を無視して走り続けた。
毎周、『タンブレロ』を走るたびにわしは、今度こそリヤが飛び、天河と同じようにコンクリートの壁に叩きつけられるかと思うた。それもそのはずだ、わしは無事にそこを抜けられたら、次の周は更に速度を上げて突っ込んだのだからな。
正直に言おう。死んでも良いと思うたのは、後にも先にもあのレースだけだ。
むしろなぜあの事故でわしが死ななかったのか、今でも不思議でならぬ。あの事故で、逃げ場のない『タンブレロ』で、わしもまたコントロールを失った。なのにわしは、生きておる。
なぜだ、とわしは、そこ居らぬ天河に問い続けた。答えは――十二年経った今でも、返ってはこぬ。
レースが終り、精細なく垂れ下がるチェッカーフラッグを見ても、わしは何の感慨も起きなかった。あるとすれば、それは未だかつて感じたことのない疲労感だけであった。そしてわしは、夜になって天河の死が伝えられたとき、もはや何をする気も失せてしまったのだよ。胸の中がそっくり落ちて無くなってしまったかのようだった。
わしが記者どもに言うた言葉か。確かにわしは天河の死を不運だと、そう言うたよ。いや、何度も言うた。事故の聴取や、それに裁判が終わってからもな。
嘘は言っておらぬ。あのような男を殺したいなどと、いったいそこにいた誰が思ったものか。ならば不運以外になかろう。過失の有無も、いま話した通りだ。有ると言うのなら、全てにあった。だが無いのなら、どこにも無かったのだ。
それでも、それが予期された不運であったことが、わしの胸を憤怒と悔恨で埋め尽くしたのよ。あの瞬間、わしは己に出来うる全てをして、悲劇を避けようとした。ほんの数秒かの間に、手を尽くしたのだ。だが、間に合わなかった。FAは既に、わしらの手にすら負えぬ化物になっておったのだ。
そしてわしらを、わしらのチームとマシンを、まるで己のそれのように嬉々として評する記者ども。ならば奴らも、それが如何な化物であるか知っておったろうよ。知りながら更に煽ったのではないか。
警察や法廷での話は省くが、理屈からしてもわしにとってあの法廷はどこか他人事であった。結局のところ、わしの故意は早々に否定され、争点はチームの責任問題であったのだからな。そしてわしは、あの男の死を目の当たりにしながらなお責任とやらの擦り合いをしているその法廷が、どうにも陳腐に思えて仕方がなかった。慷慨心にも似た思いで、ただそれを見ておったよ。
わしの心は、それらの言い様のない毒に満ちておったのだ。誰かに限ったことではない。その泥沼のような世界が、勝利を合言葉として不正を正さぬ腐った美学が、憎かった。
今思うても、不運の言葉に変わりはない。いや、代えるとするならば、不憫であった。そうであろう、己の役目に命を懸け、そして散った男が、そうでない馬鹿どもに評される。あの男ならばそれでもよいと苦笑いの一つも浮かべたかも知らんが、あいにくわしはそうではなかったのでな。わしが何度も口にしたその言葉は、その度にますます胸糞の悪くなる、この上ない侮蔑を込めた皮肉であった。
――シーズンは終わり、わしが天河のポイントを逆転することは叶わなかった。天河は、FA史上初の、あの世でタイトルを獲得したドライバーとなった。
ポディウムの中央に立つ者はない。チャンピオン・トロフィーだけが、それを高らかに掲げてくれる者を待っていた。
黙祷の最中でさえ、すすり泣く声が絶えなかった。そんな涙を堪えきれぬ者たちの心を慰むるかのごとくに、頂点の壇上に置かれたトロフィーは、儚く輝いておったよ。
『スピード・スター』を受賞したのも、天河が何年か振りだった。その前の受賞者をわしは知らぬが、それにしてもあのとき天河が受賞せねば、いったい誰がそれに足りたというのであろうな。
あの男は、命を懸けて人に報わんとした。己を育ててくれた全ての人々に、己の全てを懸けて応えんとした。己の生きる世界の、その将来を築こうとした。――そして、散った。
FAを愛し、またFAに愛され、人々に愛され、天河治己は生きた。三十七年という短すぎる生涯の全てを、スピードひとつに捧げた。これを讃えなくて、わしらFAの何が讃えられるというのだ。
その年の暮れであった。わしは初めて、事故後のイモラを訪れた。順序としては逆になるが、この頃すでにわしは妻子と離れ、独りであった。
何を思ったのか憶えておらぬ。まあ、犯人はよく犯行現場に戻ると言うであろう。そんなものかも知れぬ。
天河が叩きつけられたコンクリートの壁を、わしは遠くに眺めていた。すぐ近くでなかったのは、わしがそこに近づけなかったからだ。遠目にも、その向こうにうず高く積み上げられた花束が見えたのだ。そして、多くの人間も。
見覚えのある顔ではない。おそらくはファンであろう。しかしその者らは、根っからの天河ファンというわけでもなかったに違いない。着ていたのは、ネルガルの白を基調としたものではなかった。
天河のマシンは、白い部分がほとんどだった。コンクリートの壁にも、白い傷跡があったよ。線のような傷ではない。そこを擦ったのでなく、叩きつけられたというに等しい、衝撃の跡であった。そして目を凝らしたわしは、そこに一つ、青い跡を見つけたのだ。
天河のマシンで――いや、そこに叩きつけられたものの中に、青い部分はひとつしかなかった。それが、天河のヘルメットだった。事故の直後、傷はないように見えた。だが、マシンと同様にそこにぶつからなかったのなら、跡はつくまい。
金網の向こうにおる人間たちに、わしは目をやった。わしらカヴァーリの応援旗ともなる、赤い服を着ておったよ。
どうもティフォシというのはカヴァーリを応援はするが、カヴァーリのドライバーを応援はせぬ。そんな輩がましてライバルの天河にどこまで尊敬の念を抱いておったのか、定かではあるまい。そう思って目を凝らしたわしは、しかし次の瞬間、胸を押し潰されそうになってしもうた。
彼らはそこに立ち尽くし、或いは金網にもたれ掛かっておった。ある者は呆然とし、またある者は額を抱え、声をあげて泣いておった。その開かれた口から絞り出される悲嘆の声が、聞こえるかのようだった。
誰かがカヴァーリの赤い旗を、花束の上に乗せた。まるでその花束が天河の亡骸であるかのごとく、イモラに吹き始めていた木枯らしから天河を護るがごとく、そっと被せた。
それにつられるかのように、また咽び泣く声が聞こえた。
――お前はいったい、なんという男だったのだ――。
わしはそこに居らぬ友へと心のうちに叫んだ。
なぜお前はそこまで人を惹きつける。なぜお前はそこまで人に愛される。
わしは人の心など分からぬ。分かりたくもない。だがこれでは、分からぬはずがないではないか。あの者らの流す涙を、わからぬ訳にはいかぬではないか。
なぜだ、天河。なぜお前は、この偏屈に人の心を教えてしまったのだ。
わしは呻いた。なんと呻いたのか、憶えておらぬ。腹の底から膿みのごとく湧き出てくる何かを吐き出すように、呻いた。視界も歪んで定まらなかった。
初めてわしは、人に詫びた。誰か知らぬ。顔も知らぬ全ての人々に、そして視界に入ってくるその世界に、詫びた。
わしは、死なせてはならぬ男を死なせてしもうた。人々から、そしてこの世界から、奪ってはならぬものを奪ってしもうた。
許してくれ、雪枝殿よ。
許してくれ、天河明人よ。
許してくれ、天河治己という偉大な男の愛した全ての人々よ――。
to be
continued...
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