FLAT
OUT
(40)
わしは、その年を最後に引退しようと考えていた。単純な話よ。天河の居なくなったFAに、もはやわしの居場所はなかった。必要とされなかったわけではない。カヴァーリはわしを放したがらなかったが、わしの方がそこに居続ける理由を見出せなかったのだ。
結局のところもう一年だけ走ることにしたのは、チームの熱意に負けたからだ。たしかにあの者らは、わしの無実を信じておった。わしのような偏屈を十数年も雇い続けたのだから、それには素直に脱帽しよう。ならば最後の一年くらい、その恩に報いてやるかとも思うたのだ。もっとも、それまでのわしだったらそんなことは欠片も思わなかったろうから、単なる気紛れであったのかも知らんが。
翌年、カヴァーリのマシンは良い出来だった。しかし一方のわしは、前年とは比べようもないほどレースへの情熱は薄かったのだ。そうであろう、わしが本心から戦わんとする相手が、そこにはもはや居なかった。何とか発奮させてわしを走らせたのは、わしを雇い気苦労の堪えなかったろうそのチームへの恩義だけであった。
だが、シーズン中には何度も後悔をしたよ。わしはやはり、天河にはなれぬ。義理で走ることは、苦痛とは言わずとも腑に落ちぬものばかりが募っていったのだ。そのせいでわしは前半戦こそ4勝を挙げたが、わしがFAで挙げた勝利はそれが最後であった。
日に日に身体が重くなってゆくのを感じていた。そもそも酒は飲む方だったが、その酒が残るようになった。契約もあってレースのある週末は飲めなかったから良いのだが、そうでない日は時に記憶が無くなるほどに飲んだ。かろうじて残っておる記憶は、妻に酷い八つ当たりをしているところでな。それでも、さな子――妻の名だが――あれは怒ろうとしなかった。蔑みもしなかった。まことによくできた女だった。わしなどには勿体無い妻であった。
娘を遠ざけたのは、わしの判断だ。FAでのわしは嫌われ者であったし、天河治己を殺した男でもあった。記者どもが押しかけてくるのは目に見えていたのでな。
東――東藤二郎という男は、当時わしのチームが使っていたタイヤメーカーのディレクターだったが、わしを色眼鏡を付けずに見ていた数少ない人間の一人だった。天河とも仲が良く、年の頃が近かったのもあって、何度か飲みにも行った。それに北斗と同じ年頃の娘がいて、預けるにはちょうど良いと思ったのだ。
最初はわしも時間を見つけて会いに行こうと思っておったが、予想以上に風当たりが強く、断念しているうちにわしの方が病気になってしもうた。この偏屈が心の病気などとは、我ながら笑えぬ冗談だと思うたものだ。
シーズンは瞬く間に過ぎ、わしは今度こそFAという世界に別れを告げたよ。成績は憶えておらぬ。鮮やかに咲き続けた花が萎れてゆくようだと、笑われもした。だが、それでよい。わしはたしかに花を咲かせたかも知れぬが、それは天河という光があったからだ。光の当たらなくなった花は、萎れるものであろう。むしろわしは、引退できることにほっとしておったのよ。
思えば天河とわしは、十四年もの間、互いにこれ以上ないほどの存在であり続けた。かけがえのない友であった。わしは、己がFAという世界で戦い続けた天河という男を知っていたよ。天河とともに戦い続けたものも、知っていた。ならばこそ、死力を尽くしたその戦いは、ついに終わったのだ。やっと――。
できることならば、今一度酒でも酌み交わしたかったものよ。何も話さなくて良い。ただ、排気臭さと薄汚れた感情の渦巻くサーキットを離れ、スポンサーロゴのひとつもない服を着て、互いの子らが遊ぶ様でも見ていたかったのだ――。
さな子が賢明に尽くしてくれたおかげで、酒も少しは減っておった。記者どもは相変わらずちらほらと見えたが、事故の直後ほどではない。やっと安息を得られるのかと、わしは柄にもなく自然と笑みが出るほどだったのだ。
思えば、夢などと呼べるものを抱いたのも随分と久し振りであった。だが――そんなわしのささやかな夢は、打ち砕かれた。
罪の報いを受けたのだと言われれば、否むこともできぬ。わしは神など信じぬよ。だが、運命に問うた。なぜだ、なぜわしを直接裁こうとせぬのだ。わしを支えてくれたさな子を、わしに代わって北斗を育ててくれたさな子を、なぜ死なせた。
『さな子』
雨の晩であった。妻はわしの労をねぎらうからと、北斗が生まれて以来となる二人きりの晩餐を用意してくれた。あれは酒がだめであったから、席では口をつける程度で、帰りの運転は任せていた。その道すがら、暗い十字路で、居眠り運転のトレーラーがわしらの車の横腹に突っ込んできたのだ。
『さな子、起きろ』
気付けばわしは、助手席のダッシュボードに足を挟まれながら、運転席のほうへと身体を傾けていた。わしの脚の上に、さな子が覆いかぶさるようにして倒れていた。窓は全て粉々に砕け散り、運転席のドアは1メートル近くも車内にめり込み――。
『さな子、さな子』
わしは何度も呼んだ。抱き起こそうとした時に太腿から下が無くなったような感覚があったが、それどころではなかった。さな子はぴくりとも動かず、まるで眠っているかのように目を瞑ったままであった。左腕は血に濡れていた。
もともと色は白かったが、街路灯に照らされたさな子の頬はさらに白かった。わしはその頬に手を当て、何とか起こそうとした。しかし、その目は開かれぬ。肌も冷たく、まるで外の雨にずっと打たれていたかのようだった。
雨が入ってきたのか、その白い頬にぽたりぽたりと、雫が落ちる。これ以上冷やしてはならぬと、わしは落ちてくるそばからそれを拭き取った。不思議なことに、どこから落ちてくるのかまでは頭が回らなんだ。ただ、さな子の顔から目が放せなかった。
どのくらい経ったのか、知らぬ。何か掛けるものはないかと車内を見回していたが、後部座席に薄い毛布があるのを思い出した。北斗が幼い頃、車に乗って眠ってしまった時に掛けたものだ。いつしかそれは、その車の常備となっていた。
わしは何とか上半身を捻って、後ろに手を伸ばした。足は挟まったままだったから、強引に身体を動かしたら肉が切れたような気がした。だが、痺れて何も分からぬ。そんなことはどうでも良かった。
さな子の身体に毛布を掛け、わしはその身体を抱いて、助けが来るのを待った。辺りは暗く、わしらの車だけが街路灯に照らし出されておるようだった。ぶつかってきたトレーラーがまだそこに居るのかどうかすらも分からぬ。やや郊外の十字路であったためか、新たなライトの明かりが見えるまでに随分と時間がかかったように思えた。
その間わしは、何を考えておったのだろう。いや、考えておったとしてもそれは、腕の中でぴくりとも動かぬ妻のことばかりであったと思う。
引退を公表した時、さな子もまた、わしの肩の荷が下りたことを喜んでくれた。これからは家族でゆっくりと暮らすことができるだろう、と。いつか、天河一家と顔をあわせることもできるだろう、と。
目を開けてくれと、そればかり祈っておった。天河の時とは違う。わしらはレーサーであり、死そのものまでが生き様だ。互いの死がどんなものであれ、受け入れる覚悟はできていた。だがさな子はそうではあるまい。わしらのように幼稚でもなく、また無謀でもなかった。誰よりもわしらの理解者であった。天命もまっとうせずに散ってよい命ではなかったのだ。
『さな子、目を開けてくれ』
雫に、血が混じっておった。わしはすぐにそれを拭き取るが、また落ちる。そのうちにさな子の顔までもが歪んで見えなくなった。雫の正体は、あろうことかわし自身の涙であった。
『頼む、さな子。俺はまだ、夫としての役割を何一つ果たしていないではないか。お前が尽くしてくれたことに、何一つ報いておらぬではないか。言ってくれ、さな子。お前が我慢していたことを、全て言ってくれ。俺はその全てに応えるから』
サイレンの音が聞こえた。だがわしにはもう、それも聞こえなくなりつつあった。全てのことが頭の中に渦となって乱れ、何も分からなかったのだ。
『起きろ、さな子。北斗をどうする。俺だけではだめだ。三人で暮らすと言ったではないか。酒は止める。北斗に優しくしろと言うのならそうする。だから起きろ、さな子。これまで俺に尽くすだけ尽くして、俺にはそれを返させぬ気かッ』
声が出ず、わしは妻の耳にかじり付くようにして話し続けていた。だが――さな子の瞳は、二度と開かれることはなかった。
トレーラーが、とあるFAチームのテスト組のそれであったことをわしが知ったのは、数日後のことであった。
それから何年かのことを、わしははっきりと覚えておらぬ。忘れたいのではない。記憶にないのだ。目を覚ますとそこは病室で、北斗と東の末娘が立っていたのは憶えておる。不思議なことに、居眠りをしていたトレーラーの運転手を恨む気が起きなかったこともな。
まるで天河がわしに乗り移ったかのようだった。過激化する開発競争の中、疲れ切った運転手が居眠りをしてしまったのは、決してその男だけのせいではないと、わしの心の奥底の何かが言うた。
だがそれから後は、まるで霞がかってしまったようで分からぬ。
気が付くと、我が娘は蔑むような目でわしを見ていた。いや、蔑んでおったろうな。酒に逃げ、居るべき時にそこに居らなかったのだ。これほど役に立たぬ父親はおるまい。だが、わしは娘を愛しておった。この性格であるから面と向かって言うはずもなかったが、少なくとも、北斗の将来を常に案じておった。
酒の量が増えておったから医者も危機感を持ったらしく、薬で酒を抑制した。と言ってもこれは、酒に対する身体の反応を極端に高めるものでな。要するに、ビール一杯だけでも重度の二日酔いになるというものだ。何度も嘔吐し、酷い頭痛に時として失神することすらある。それでもわしは飲んでしまうことがあった。
驚いたのは、東の末娘――舞歌が、妹のように可愛がっていた北斗を案ずるがごとく、わしを案じたことだ。わし自身はさほど面識もなかったし、北斗に遊び相手ができるならば喜ばしいことだと、その程度の考えであった。だがあの娘は、幼いながらもよくわしの話につき合ってくれた。と言うてもほとんどは愚痴だったのだが、妙な包容力があった。とくに何かを言うでもなく、ただじっとわしの話を聞いておった。……あれも将来は良い妻になるであろうな。
そうして、わしは何もせぬままに何年かを過ごした。曲がりなりにもFAドライバーであったため、蓄えだけは一生困らぬ程にあったのでな。もっとも、もし何かをしようとしても、できなかったであろう。わしは疲れ果てていたのだ。
わしがFAで失うたものは、あまりに大きかった。これは弱音に過ぎぬが、わしは信念を分かち合った友を失い、命を分かち合った妻を失うた。そのどうにも拭えぬ恨みは、結局のところ、わしをつくり上げたその世界に向いたのだ。
昔も今も、フォーミュラ・アーツは変わらぬ。芸術とは名ばかり、人が人を食い荒らし、魔性の虜となる世界。その魔性が、天河を殺した。さな子に最期まで何一つ報いてやれなんだ。
――わかっておる。わかっておるが、どうにもならなかったのだ。そしてまた、そんなところに愛娘をやりたくないというのは、わしのせめてもの親心であった。たとえそれが子の願いであったとしても、わしにはもはや耐えられぬ。たったひとつ残ったわしの心の拠り所を、どうしてああも惨い死に追いやれるものか。
だがわしは、わしを嫌っておる娘に言い聞かせる術を知らぬ。途方に暮れ、頼ったのが、わしが最も信頼した男の奥方であったのだよ。
挨拶も早々にわしは、会えぬかと尋ねた。今思えば、なんと無礼極まりない態度であったかと思う。それだけ切羽詰っていたといえばそうだが、電話をしてから実際に会うまで、今度はどうしたら事の次第を説明できるかと四苦八苦した。酒などその存在すらも忘れ、ほとんど寝ることもできずにそれを考え続けておった。挙句の果てに、四年の歳月を経て対面叶った天河雪枝どのには、会うやいなや己の顔色の悪さに驚かれてしもうた。
思えばわしは、雪枝どのの夫を死なせた張本人であったのだ。それが今更、どの面を下げて会いに行くというのだ。だがそれにもかかわらず、彼女はわしの顔色を心配して下さった。さな子の死にも、篤い気遣いを貰うた。わしはつくづく、天河家の人間が眩しかったよ。この両親に育てられた息子は、まさしく偉大な人間になるであろうと、本心から思うた。
場所は、ロンドンにあるホテルの一室。春先の、まだ肌寒い時節であった。
昼過ぎから話し始め、全てを伝え終えた時にはとうに日も暮れていた。わしは、それこそ全てを言葉にして話した。中には関係のない事柄もあったかも知れんが、それすらも全て話さねばならぬように思え、話した。
恨まれようとも、人殺しと罵られようとも、覚悟はできていた。そうして欲しかったのではない。ただ、全てを知って欲しかったのだ。
言葉を選ぶのには往生したが、我々レーサーと言う輩は、妻すらも知りえぬ側面がある。いや、人であるところの本心に、お互いもっとも近いからこそ、理解できぬのかも知れぬ。それを知るのは、同じ道にて命を削りあう友だけだ。つまり、わしにとっての天河治己であり、天河にとってのわしであった。
レーサーなどというものは、総じて目立ちたがりのエゴイストどもだ。少なくとも、動機はな。これは良い意味でも、悪い意味でもない。強いて言うならば、そういう存在であるべきなのだ。
レーサーに限らず、己の道を究め、確信を得たのなら、人はそれを広く教えるべきであろう。それはそうでない者に道標となり、子らには希望の光となる。確信を得るというのはつまり、この世界における己の意義を見出す事に他ならぬ。FAなどという小さな器の話ではない。正しくこの世界だ。そこに己を見つけ出せたのなら、それは誇るべきであろう。
だが同時にそれは、粛然たる重責を負う。どんな道にせよ、究めるということはつまり、人の道を究めることだ。そうであろう、人の何たるかを知りもせずに、人の業を悟ることなどできぬ。なればこそそれを見極め、答えを得たのなら、知らずに彷徨うておる者たちに教えてやらねばならぬ。
世界の頂点に立つ我らFAのレーサーは、それをせねばならぬ。己の正義を――スピードという名の正義を見せ付けることによって、正しき道を知らしめねばならぬ。人が、人であるが故の信念を貫かんとして足掻く、その神々しき様を啓蒙せねばならぬ。ならば、目立っても良かろう。少しくらい我が儘でもよかろう。それは人である証拠よ。何もなしに偶像を掲げるより、よほど説得力があるとは思わぬか。
天河はそれを悟った。いつからかは知らぬが、あの男は一身にそれを背負い走り続けた。利己的に見えなかったのはその人柄のせいであろう。誰よりも妻子を愛し、その為だけに生きようとしながら、天河はFAという世界を見捨てることはできなかった。その未来の為に、走り続けた。誰が背負わせたのでもない。天河は自ら進んでそれを自覚し、その身を捧げたのだよ。
いったい幾人が、気付いておったのであろう。多くは奴の人の好さにつけ込み、気付かぬままに終わったに違いない。あの男が無言に叫ばんとしたことを知らぬまま、その死を受け入れたに違いない。そんな輩がこぞってカメラの前で涙を流し、悲しむ。わしはそれが憎らしくてならなかった。
わしは知っておる。わしの生涯に友と呼べる者は、あの男だけだ。その男が命を賭してせんとしたことを、少なくともわしは、知っておる。それを、雪枝どのに知って欲しかった。
結局のところ、会話のほとんどをそれに費やしてしもうた。娘の将来を相談したのは、最後の十五分ほどだけだ。だが、それだけでわしの心は随分と洗われたように思えた。
事故から四年。雪枝どのの息子は――父親を亡くした少年は、再びハンドルを握ったという。それだけでも信じられなかったが、驚きは彼女がそれを嬉しそうに話してくれたことであった。
なんという者たちであろうかと、わしは言葉を失うた。天河の人間とは、なぜそれ程までに強いのだ。一瞬生まれた羨望も、即座に消え去った。
わしは気丈な母どのに向かって、何と言うたか。
『頼みがある、雪枝どの。私にできることはもはや残されておらぬが、せめて貴女方をこの胸の内に留め置くことを許していただきたい。あの男の遺した血の行く末を、この目で見届けさせてくだされ』
あんなに謙虚な気持ちになれたのは、生まれて初めてのことであったように思う。だが、あの時のわしの心の中は、正しくその言葉の通りであった。すると雪枝どのは優しげに笑い、こう答えられた。
『それはもちろん、貴方の胸の内を私たちが束縛することはできませんわ。ですが、貴方にも大切な存在がおありでしょう。それなら私にも、貴方方を見守らせて下さい。生前、夫が生涯の友だと認めた貴方の血を、私にも見守らせて下さい』
それはわしにとって、誓いに等しいものであった。
酒のせいで足腰がやられたのは自業自得というものだ。車椅子の身ではよくよく海峡を渡ることもできぬ。人に教えるような性格でもないが、唯一教えることができるとすれば、それはわしらの血を受け継ぐ者であろう。天河の息子は、母どのが教えてくれる。わしにできることは、我が娘を教えることであった。
レーサーなどでなくとも良い。偉大になれとは言わぬ。ただ、わしが心の底から認めた男のようになれと、それだけを願った。
もっとも、育て方は随分と違ってしまったようだな。これも血なのかも知れぬが……既にわしは娘に嫌われて居ったから、ならばそのまま反面教師になろうと思うた。むろんわししか教えられぬところはわしが担うが、思えば東の娘もよくぞ大任を果たしてくれたと思う。わしは不器用だから、二枚の仮面を被ることは結局できなかったからな。
そして歳月が経ち、わしは雪枝どのから天河明人が父の道を辿るという話を聞いた。ユーロ・マスターズのことだ。驚くほど冷静に、そして穏やかな気持ちで、わしはそれを聞いておったよ。それまでもジュニア・フォーミュラでの逸話を小耳に挟んではおったが、やはり、と思うた。再び時代が動き始めたのかも知れぬと、妙に感慨深くなったものだ。
我が娘が後を追うように道を定めたのが、その一年後であった。わしはどうにか、せめてわしのようにはなるなと願っておったのだが、どうやらこれも血であるらしいな。実力は確かだとわしも認めたが、そのふてぶてしい態度までがわしの若い頃にそっくりで、苦笑したものよ。
それからまず天河明人、おぬしがFA行きを決めるまでは、まことに一瞬のようであったな。メディアはこぞって天河治己の血がどうたらと騒ぎ立てた。察するがいい、わしはそれを蔑みながらも黙って見ていたよ。おそらくは雪枝どのもそうだったのではないか。奴らに対する言葉はもはやないが、おぬしもまた自ずと知ったであろう。何も知らぬ輩の言葉にいちいち惑わされていては、FAでは生き抜けぬ。
おぬしは速かった。だが何よりわしの胸を打ったのは、その貪欲さだ。周りよりも速いというだけでは収まらず、さらにその上にあるスピードに向かって独り邁進しておる姿は、正しく若き日の天河治己であった。わしはそこに、積年の悔恨とその懺悔が果たされたことを悟った。
そして今年、北斗が参戦した。わしの育て方は、世辞にも世に言う父親らしいものではなかったろう。だが、良く言えば放任であったが、決して放置はしなかったぞ。間違いは正した。それでわしが嫌われるのも、まあよかろう。子と親は別ものだ。血というどうにもならぬものが繋がっている以上、好き嫌いもまた、絆に違いはあるまい。
正直に言うとわしは、これを全て話すべきかどうか迷い続けておった。それはおそらく、雪枝どのと同じ理由だ。
天河明人、おぬしがそれを尋ねてきたのなら、わしは話したろう。わしはおぬしにこれらを隠すことはできぬ。何が何でも打ち明けねばならなかった。
だがな、シーズンが進むにつれて、焦燥は募るばかりであった。おぬしらは、わしと天河が何年かかけて辿り着いた真っ向勝負に、初戦から斬り込んでしまいおった。メルボルンのコースは、わしは走ったことがないから知らぬ。だがあの高速コーナーを一歩も引かずに横並びで駆け抜けるのを目の当たりにして、わしがどんな思いでいたか想像できるか。
たとえマシンに優劣があろうと、あの時おぬしらが見せたのは、正に信念のぶつかり合いであった。スピードに懸ける者の信念を、わしは久し振りに目の当たりにした。他のドライバーにそれが無かったと言うつもりはないが、おぬしらの姿は、正しくわしと天河の姿であった。
だからこそ、恐怖も感じた。早すぎたのだ。再び悲劇が起こるのではないかと、気がきではなかった。
いずれ己の手で真実を探求すべきだとの考えに、異存はない。おぬしの母上もおそらくはそうやっておぬしを育てたのであろうし、わしも結果的には北斗に対してそうであった。
だが、FAドライバーには時間がない。過密なスケジュールのことではないぞ。いつ散らす命かも分からぬということだ。たしかに昨今のマシンは頑丈だが、保障はあるまい。逆にわしらから見れば、いまのマシンは速すぎる。直線が速いのは構わぬが、コーナーまでもが速すぎる。事故が起きるのはコーナーで、そこでの速度が速ければそれだけ危険が増すのは道理であろう。FAであるがゆえの、頂点に立つがゆえの代償は、いかに技術が発展しようとも変わりはせぬ。
ならば、言葉だけでも知っておくべきではないかとわしは思うた。心で納得するのは、後でよい。せめて言葉だけでも真実を知らせておくべきではないか。しかし、雪枝どのはともかくとして、わしが天河治己の息子であるところのおぬしにそれを打ち明ける勇気が湧かなかったというのも事実だ。
見る限り、おぬしは若いながら恐ろしく冷静なレースをする。わしら老いぼれから見ると、若さゆえの無謀さが無いのが勿体無いように見えることもあるがな。北斗も同じだ。おぬしらは実に見事で正々堂々としたぶつかり合いをするが、子どもじみた喧嘩が一切ない。まあ、それを責めはせぬよ。時代が変わったということであろう。わしとしては、まだまだヒヨッコのおぬしらが喧嘩のひとつもせずに育つのは、いささか問題だとも思うのだが。
もっとも、そういう安心感がわしに決意を鈍らせてしまった。おぬしはともかく、北斗が十二年前の事故に悶々として居るのは目に見えていたからな。それが真実を知ることで晴れるなら良いが、そうでもあるまい。グッドウッドの前だったか、激しい口論もした。それでもわしは、今本当に全てを伝えるべきかと逡巡しておったのだよ。
決めたのは、イタリアGPが終わったその時であった。残すところ2戦、勝ったほうがタイトルを獲るであろう。しかも宿命なのか、舞台はあのイモラだ。おぬしらの意気込みを想像するにつけ、わしは今話さねばおぬしらのためにならぬと思うた。
そして全ては、天河明人、おぬしが頂点に立って流したその涙にあった。理由は聞かぬ。何があったか知らぬが、レースとは決してその一瞬ではないのだからな。レースの最中に日常を全て忘れ、一方で日常においてレースを全て忘れてしまうと言うのなら、それもまたよい。だが、その程度では頂点に立つ器には足りぬ。
人が生きるに、己の身に起きた事柄をそれぞれに別つことなどできまい。何が起きようとも、この身は一つだからな。だからこそ、全てを等しく見渡せねばならぬ。頂点に立たんとする者は涙を拭わねばならぬが、頂点に立ったならば今度は涙を流さねばならぬ。憂いと悲しみこそが、真に正しき道への道標に他ならぬからだ。
おぬしは涙を流した。それを見た瞬間、わしの脳裏に蘇ったものがあった。南アフリカの大地で、父の死に涙を堪えておった一人の男のことだ。その姿とおぬしの姿が重なったのよ。
少年は、父の姿になった。ならば、話さねばなるまい。わしが十二年間、天河から預かって背負い続けたこの世界の業を、次代に継がねばなるまい。
一人で背負えとは言わぬ。わしはこのとおり、不甲斐ない凡庸の身に、天河の肩の荷を担うことはできなかった。だが、我が娘はそれに足る器だ。これは親馬鹿だが、北斗についてはわしが保証しよう。おぬしがこれから背負うであろうものを、この娘ならば分かち合えようぞ。
さて、時間もだいぶ過ぎたな。
おぬしらは、全てを知らねばならなかった。この世界にあってライバルとは何か、信念を共に、互いに命を預けあって鎬を削ることの何たるかを、知らねばならなかった。そしてわしは今、それを全て話して聞かせた。
今わしが話したことの全てが真実だとは、わしも断言はせぬ。わしはあくまでわしの悟り得た全てを話しただけで、それは時として真理と相違する部分もあったろうからな。だが、嘘は言っておらぬ。今は亡き我が生涯の友、天河治己に誓おう。わしが話したことは、少なくともわしらスピードに命を懸けた男らの真実であり、その中で生きたわしの真実だった。
これを全て理解するには、まだおぬしらは若いかも知らんがな。まあ、よかろう――。
わしは全てを話したつもりだが、まだ聞きたいことがあるか。無ければこれで終りだ。
わしが全てを話したことで心惑わされたのならば、今年のタイトルは諦めるがいい。まだ来年がある。再来年もあるだろう。わしもいずれ話すつもりではあった。おぬしらがわしらのようになった時にな。だがそれは、わしが思っていたよりもずっと早かったらしい。だから話した。
むろんこれでわしの役目が終わったなどとは思っておらぬが、少なくともわしが率先してやるのはこれが最後になろう。雪枝どのもそうではないか。あとはおぬしらの生き様を見せよ。己以外の何者にも干渉を許さぬ、確固たる己としてその生き様を見せてみよ。ならばわしは、この車椅子の上からでもおぬしらの姿を見ていられよう。友と肩を並べ酒を酌み交わし、子らの成長を見届けることもできよう――。
to be
continued...
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