FLAT
OUT
(42)
一夜が明け、天気は驚くほど速やかに回復した。ところどころに雲がぽかりぽかりと浮かんでいるものの、灰色の雨雲はもうどこにも見当たらない。秋の透き通る青空を背景に、綿飴のような真っ白い雲は、優雅に浮かんでいた。
朝食を終え、明人と北斗は所長室を訪れた。
「大丈夫なのか」
北斗が地図を見ながら胡散臭そうに尋ねる。対照的に所長は、明人の提案になるほどとしきりに頷いていた。
「大丈夫さ。………たぶん」
明人も答えた。尻すぼみなのは、今になってエリナとの約束の時間を思い出したからである。本当なら三十分後にはモーターホームに居なければならないが、今回ばかりは一時間や二時間の遅刻では済まないだろう。頭に角を生やしたエリナを想像して、明人は少しだけ憂鬱になった。
「で、距離はどのくらいなんだ」
「7、8キロかな」
「随分な運動だな」
「…………まあ、仕方がないかと……」
そのくらいなら走っても行けるだろう。明人も北斗も、だてにFAドライバーをしているわけではない。ただ、降り続いた雨で林道がどうなっているのかが、懸念材料ではあったが。
すると所長が、「それなら」と言い出したのである。
そして二十分後、明人は青い顔をして玄関の前に立っていた。横には雪枝が笑いを堪えながら車椅子に座っている。付き添っているクロフォード女史も、事情を知っているのだろう、気の毒そうに微笑む。北辰は相変わらず無表情のまま、ただ成り行きを見守っているようだった。
そして所長はというと、いつになく誇らしげであった。それもそうだろう、彼の自慢の愛馬を、そこにいる人々に堂々とお披露目できるのだから。
「……本当に、コレで?」
明人が恐る恐る指差して尋ねると、所長は心外そうに腰に手を当てた。
「コレとはなんだね。私の愛馬だぞ」
「はぁ………すみません」
愛馬だろうがなんだろうが、馬そのものが明人は苦手なのである。そして手綱を握るのは、先ほど十分くらいかけて馬を馴らしていた、北斗だ。実家に馬を持っているらしい彼女が手綱を取るその様は、まるでナポレオンの肖像のようだった。
その時は格好良いものだと見惚れたのだが、間近に来られるとやはり怯んでしまう。数年前、元気の良い学校の馬に振り落とされたときは、痛みにしばらく動けなかった。
「さっさと乗れ、明人」
北斗は手馴れたもので、手綱取りがいなくても不用意に馬を動かさなかった。
ここまで来たら仕方がないと、明人も意を決してあぶみにつま先を入れ、なんとか巨大なその背によじ登った。ひらりと飛び乗った北斗に比べたら、たぶん、よほど情けない姿だったに違いない。
「ふつうは逆なんだけれどねぇ」
雪枝が呆れたように零す。たしかに、ふつうは男が女性の背から腕を回して手綱を取るものだろう。が、今の明人は北斗の背にいるものの、その腕は手綱ではなくて彼女の腰にしがみついているだけだ。
「……明人、そんなにくっつくな。動けん」
「ご、ごめん」
他の入所者たちも何人か見送りに出てきていたが、笑い声はますます増えるばかりだった。
「気をつけてね。私たちのことは何も気にしなくていいから、貴方たちのすべきことをしっかりやりなさい」
雪枝がひと際声高に、そう言った。明人も、そして北斗も、自然と笑みを浮かべて彼女に返す。明人はさらに北辰に目をやった。そこでは彼もまた、雪枝と同じような眼差しで二人を見ていた。
ちらりと窺った北斗は、やはり彼女も父親を見ている。それは雪枝を見るときとは少し違う眼差しだったが、そんな明人の心配もすぐに驚きに変わった。彼女は父親に向かって、いつも明人に向けるほどには感情豊かではないものの、小さく、そして不敵な笑みを送ったのである。明人が慌てて北辰を見ると、彼は「フン」と唇の端を歪めたところだった。
「いくぞ、明人」
北斗が言って、手綱を返した。すると所長の愛馬はとても従順に反応し、軽やかな足取りで歩き出す。明人は振り返って、施設の皆に手を振った。
「行ってくるよ!」
そう言うと、玄関に集まっていた十人近くの人垣が皆、口々に「頑張れ」とか「気をつけて」とか叫び、手を振ってくれた。だがそれは、明人だけに向けられた言葉ではない。馬の背に跨った二人を送り出してくれるのだ。明人は北斗の肩を叩いて、振り向かせる。彼女は明人の意図に気付いたのか、玄関前に並んでいる人々を見やり、ふっと笑ったのだった。
目指すのは、くぼ地の向こうに見える高台である。右手から差し込む朝陽がもやのかかった林の中に差し込み、幻想的な光景をつくり出していた。湿った土の匂いが明人の鼻を和ませてくれる。透明な光に、北斗の髪も鮮やかだった。
馬を走らせずに歩かせているのは、たぶん無理をさせないためだろう。彼女の苛立ちはそれほど解消されていないようだけれども、そういうところが優しい人だと、明人は思った。
「馬から落ちたというのは、昔のことか」
ふいに北斗が言った。後ろに座っているのでその表情は窺えないが、それほど機嫌の悪い声でもなかった。
「昔と言っても、六、七年前の話だよ。授業中にね」
「それ以来、乗っていないのか」
「うん……まあ」
馬が嫌いだというわけではない。自分を振り落とした馬を嫌うほど心は狭くないつもりだったし、何より、たぶん自分が何か仕出かしたので馬が驚いてしまったのだろうと、そう思っている。ただ、苦手意識だけは染み付いてしまったのだけれど。
「運動神経が鈍いのか?」
「……そこまではっきり言わなくてもいいだろ」
思いたくはないところだが、たしかに明人の運動神経は良くない。FAマシンに乗れば誰にも負けないのだが、ひとたび降りてしまうとお世辞にもスポーツマンとは言えなかった。せめて、戯れにメカニック達と競った足の速さでビリになってしまったことだけは内緒にしておこう――その程度なのである。
北斗はしばらく無言のままだった。所長の愛馬は、二人分の体重を気にかけるでもなく、巨体を軽やかに揺すりながら歩き続ける。馬はぬかるみを嫌がるとのことだったが、そんな様子は欠片も見せなかった。
「たしかに、馬というのは本来臆病な生き物だ。自分の足がはねあげた水飛沫さえ怖がる」
しばらくして、北斗が言った。
「でも、この馬はそんなに怖がってないね」
「俺が手綱を取っているからだ。いや、俺である必要はないがな。こいつらは、手綱があることで勇敢になるのだ」
そして彼女は、にやりと笑う。
「俺たちはどうか、知らんがね」
その不敵な声色に、明人も笑みを漏らした。
幸いなことに道は極端に悪い場所もなく、目的地までもうすぐである。ちょうどそのとき、明人の恐れていた音が鳴った。携帯電話の着信音である。
「エリナだ」
明人がぼそりと呟いてそれを取り出すと、北斗が「フン」と鼻で笑った。
「こいつは走りたがってる。少し走らせるぞ」
「えっ」
明人は携帯電話を操作するために上体を起こしていた。そんなときに、とつぜん馬が地を蹴って加速したのだ。再び振り落とされそうになって、明人は必死の思いで北斗にしがみついた。携帯電話は、まだ鳴り続けている。
「もしもしっ」
『明人君、いまどこよッ!』
案の定、エリナの怒声は力強い蹄の音よりも大きく明人の耳に届いた。
先ほどとは比べ物にならないほどの勢いで、馬は風のように林道を駆け抜ける。明人の身体も激しく揺さぶられ、明人はそれに負けないよう、大声で答えた。
「嵐のせいだよ! 今はまだイギリスなんだ。空港に向かってるところ!」
『空港って、いつ着くのよ』
エリナは声を抑えているようだが、怒っていることには変わりない。
「いつって……北斗、もう着く?」
「馬に聞け」
明人とエリナの会話はそっちのけで、北斗は乗馬を楽しんでいるらしい。取り合ってもくれなかった。一方、エリナは明人の言葉が聞こえたらしく、驚いたように電話の向こうでがなりたてる。
『ちょっと明人君、貴方ベルギーからずっと北斗さんと一緒なの?』
ああ、もう目茶苦茶だ――それが明人の感想である。
「大丈夫だよ、エリナ。たぶん、そろそろ着くから! 馬次第だけど」
『貴方ねえ、お願いだから変なスキャンダルだけは……………………ウマ?』
ピッと音をたてて、エリナの声が消えた。収拾がつかなくなりそうだったので、明人が電話を切ったのだ。もちろん、イモラに着いてから彼女の説教が倍になるのを覚悟してのことだが。
やっとのことで着いた『空港』。その響きから北斗は、こんな田舎町にも空港と呼べるような代物があることを想像していたらしい。だが現物を前にして、彼女の機嫌は少しばかり傾いたようだった。
たしかにノーウィッチには、彼女の想像していたような空港がある。しかし二人が辿り着いたのは、それとは別の『飛行場』だった。
「グラシスさん!」
「明人、待っていたぞ」
滑走路は舗装されているが、舗装されているだけである。誘導路はところどころアスファルトが剥げ、駐機場は草が生えている。格納庫だけはしっかりとしているが、隣の事務所は、まだFAのモーターホームの方が立派だ。北斗が落胆したのも無理はない。
だが、格納庫の前に引っ張り出された飛行機を見て目を丸くしたのは、明人も同じだった。
「グラシスさん、この機……」
「今、動かせる機体がこれしかないのだ。壊すでないぞ」
オニギリを逆さにしたような形のカウリングに包まれたエンジンは、そこにある飛行機の中でも最も巨大で、パワフルだ。翼は曲技専用機であることを示す対称翼で、失速特性が過敏で神経質な翼である。グラシスがオプションの手動フラップを付けていなかったら、まだまだ300時間とちょっとしか飛んでいない明人には、到底扱いきれない機体だったに違いない。
「ありがとうございます」
明人がそう言うと、グラシスはとくに気にした様子もなく、手を振る。それよりも彼は、北斗を見ていた。
「ふむ……彼女が北斗君か」
それに上手く答えることもできず、明人は一緒になって北斗を見る。彼女は自分がこれから厄介になる飛行機を興味深げに眺めていたが、明人の視線に気付くと、照れ隠しをするかのようにそっぽを向いてしまった。
「ライバルかね」
「僕は、それだけじゃないつもりですけど」
明人の答えに、グラシスは苦笑いとともに肩をすくめた。
「まあ、頑張りたまえ」
「ありがとうございます、教官」
風がまだ少し強いが、空気はからりとして冷たく、飛行日和である。明人はグラシスとともに、遠くイモラの空を見やった。
――と、いつの間にか隣にいた馬がブルルと唸り、やはり明人は飛び退いたのだった。
駆け足で飛行前点検を終え、まずは北斗の準備を手伝う。
「本当に大丈夫なんだろうな」
広いとは言えないコクピットに足を突っ込みながら、彼女は胡散臭げな眼差しで明人を見上げた。
「大丈夫だよ。コヴェントリなら、訓練生時代に一度ソロで往復してるから」
「高所恐怖症じゃなかったのか」
「飛行機なら大丈夫なんだよ」
「………まあいい。他にやり様も無さそうだしな。任せる」
半信半疑だと言わんばかりの彼女に苦笑しながら、明人もコクピットに納まった。そして巨大なエンジンが息を吹き返す。
ゴウゴウと唸るエンジン音は、キャノピーを閉じてもあまり変わらない。ただ、インターコムを通じて北斗の息遣いが常に耳元にあるので、妙にどぎまぎしてしまうのだが。
滑走路の両端にはまだ水溜りが見えたが、真ん中は乾いていた。パワフルなエンジンは、急激にふかすと機体が横転してしまいそうになる。明人はそっと、スロットルレバーを押し出した。すると俄かにエンジン音が増し、機体が動き始めたのだった。
小柄なプロペラ機はあっという間に離陸速度に達し、尻の下にゴツゴツと響いていた滑走路の感触がなくなる。いつの間にか浮かび上がっていた機体は、そのままぐいぐいと高度を上げた。
「案外あっさりとしたものだな」
「こっちはそうでもないよ」
後席に座っている北斗を後方確認用の鏡で見ると、彼女もこういった空の旅は初めてなのか、眼下の風景を眺めているようだった。高度は二千フィート。機体を傾けて旋回に入ると、箱庭のような風景が秋の陽光を浴びてきらきらと輝いている。昨晩までの風雨は、そこにある色々なものを少しばかり洗い流したようだった。
「どのくらいで着くんだ?」
「コヴェントリまでは、三〇分くらい。そこに僕のチャーター機が待ってるから………イモラには三時頃に着くかな。ドライバーズ・ミーティングにはなんとか間に合うと思う」
ドライバーズ・ミーティングを欠席してしまうと、厄介どころの騒ぎではない。今回はあくまで不可抗力だからまだ酌量の余地はあるかも知れないが、基本的にはレースへの出走が認められなくなるという重罪なのだ。いくらなんでもそんな決着のつき方では、納得しようにもできないだろう。
しかし、それでも北斗は慌てた様子ではない。施設では苛立った様子も見せていたのに、どうしたのだろうと明人は思っていた。
「落ち着いてるね」
明人が鏡越しに声をかけると、彼女も気付いたらしく明人を見た。そして、ふっと笑う。最近よく見る、鋭さのとれた優しい笑顔だ。
「そうだな。こんな時だというのに、不思議な気分だ」
それは本当なのだろう。北斗は軽く空を見上げ、ふぅと息を吐いた。明人のヘッドホンからも、それが聞こえる。
「お前に任せているからかも知れん。少なくとも今、俺にできることはなさそうだしな。大したものだ、お前は」
彼女のリラックスした声に、明人もほっとした。口調にいつもの凄みが無く、かと言って弱々しくもない。昨日の朝、彼女の素顔を見たと思っていたが、するといま耳にしたのは、彼女が素顔で話す時のその声だったのかもしれない。
「どうも俺は舞歌任せが多くてな。やろうと思えばできるとは思うが、今は航空券の買い方も知らん。お前がいてくれて助かった」
「そ、それはまた随分と……」
「笑うな。これでも反省しているんだ」
そう言う北斗も、苦笑いを浮かべずにはいられないのだろう。鏡から視線を逸らし、伏せた長いまつ毛が妙に綺麗だ。明人はつい、そんな彼女の様子に見惚れてしまった。
「あー……うん……」
変な口振りの明人を、北斗も訝しんだらしい。不意に振り向いた彼女と目があった。
「なんだ」
「あ……いや、その……綺麗だな、と……」
思わず口に出して言ってしまい、明人は狼狽した。ところが北斗は、何のことだと言わんばかりに明人を見つめるのである。明人は困りながらも、胸はどんどん高まっていった。
「景色のことか? たしかに綺麗だな」
北斗って、実はかなり鈍いのだろうか。自分のことを棚にあげて、明人は思った。同時に、誤解されたままであることに焦燥を感じる。
「……違うよ。君が綺麗だって、言ったんだ」
言って、明人は鏡の中の彼女を見た。彼女もこれには驚いたようで、目を丸くしている。さすがにこれ以上見つめ合うことはできそうになく、明人は前方に視線を戻した。飛行機はちょうど、右手にピーターバラの市街を望みながら飛んでいる。まだ交信の必要もなく、今は明人と北斗、二人だけで空を飛んでいるのである。
単調なエンジンの音が、かろうじて心臓の鼓動を紛らわせてくれた。
「……………下手な世辞だ」
北斗の声が耳元に小さく響く。たまらず明人は彼女を見た。
「そうじゃない、そうじゃないよ。本当に、綺麗だったから、そう言ったんだ。たぶん、僕が君のことを好きだから――」
そこまで言って、慌てて明人は口を噤んだ。
言わなければいけないことではあったが、言い過ぎた。思わず、何をやっているんだと自分を責める。今年の最終戦を控えて、胸の中をさっぱりさせるためにこの数日間を費やしたというのに。これでは、新たな火種を作ってしまったも同じだ。
「ごめん、北斗……。今のは忘れて―――……ん?」
自分の馬鹿さ加減に滅入りながら、今度はなるべくだったら口にしたくなかったそれを告げる。だが、ふと操縦桿を握る右手に違和感を覚えたのは、そのときだった。
操縦桿が、重い。全く動かないではないが、ふつうに操縦するには重すぎる。まるで何かに押さえられてしまった様――明人ははっとなって、北斗を見た。彼女は、何やらぼうっとした顔で、明人を見つめていた。
「北斗! 北斗、操縦桿を放して! 墜落する!」
明人が大声で言ったものだから、彼女もはっと我に帰ったらしい。すぐに操縦桿が動くようになって、明人はとりあえずほっとした。だが、途端に北斗の怒鳴り声である。
「いきなり訳の分からんことを言うな! それとも何か、お前はそんな卑怯な手でタイトルをもぎ取る気か!」
あまりと言えばあまりな言葉だ。明人は本心を告げただけなのだから、卑怯とは酷い。思わず明人は言い返してしまった。
「そっ………卑怯って、なんだよ!」
すると北斗は間髪おかず、こう言うのである。
「お前はそんなことを言って、俺を惑わそうとしているだろう!」
二人とも沈黙してしまった。明人は唖然として北斗を見つめ、彼女は怒ったようにそっぽを向いてしまっている。先に吹き出したのは、明人だった。
「ごめん、北斗。そんなつもりじゃないよ」
「………それならもっとたちが悪い」
「いや………うん、その………」
明人は気を取り直して、どうにか言葉を探した。
自分の言葉に心を乱してくれるくらいには、彼女も意識してくれているだろうことが分かった。それなら今は、それだけでいい。できることなら良い答えを聞きたくもあるが、最終戦を前にそれに惑わされることだけは避けなければならないだろう。一度口にしてしまったことを取り消しはできないけれど、せめて、この週末だけ忘れられるくらいの答えは用意しようと必死で考えた。
「――参ったな」
思わず明人は呟いた。結局、何も浮かんでこないのだ。
あと少ししたら、着陸態勢に入らなければならない。管制塔との交信を理由にこの話を打ち切ることもできたろうが、それではいけないと思った。彼女はまだ、顔を背けたままなのだ。
「その――だから、そういう意味だよ。僕は君に惹かれて………君が、好きなんだ」
神経質な飛行機を操縦しながらするやり取りではないな、と明人は心の隅で思った。何しろ操縦桿を握る手は震えているし、その震えがレース中もかくやという勢いで鼓を打つ胸からくることも分かっている。本来はちゃんと周囲に他の機がいないか見張りをしなければならないのに、さっきから自分は彼女を見つめてばかりだった。
北斗は、今度こそ明人を見た。その表情は、いつもの彼女のようでもあるし、いささか強張っているようにも見える。
「……本気で言っているのか」
「本気だよ」
少し怒りが混じっているのか、低い彼女の声にも明人は即座に答えた。すると彼女は、意外にも先程のような動揺は見せず、思案顔で窓の外に視線をやったのだ。
こちらは必死の思いで告げたのだから、そんなにも冷静な顔で考え込まれると複雑な心境になる。明人は彼女の思考に口を挟むこともできず、周囲に目を配りながらちらちらと彼女を見るしかなかった。
そして、やっとのことで北斗が顔を上げたのだ。鏡越しに、とび色の瞳と目が合った。
「……わかった」
「………………」
再び、沈黙である。明人は相変わらず周囲と彼女を交互に見ていたが、彼女はまた思案顔に戻ってしまい、何かを続けるような気配はない。
「……あの、それだけ?」
たまらず尋ねると、北斗はいま気付いたと言わんばかりに明人を見た。
またしても二人は見詰め合ったまま、黙りこくってしまう。ただ先程と違ったのは、北斗が我慢できなくなって怒鳴る直前、彼女の頬がほんの少しだけ赤く染まっていたことだろう。
「他に何と言えばいいんだ! いきなりそんなことを言われて、すぐに答えられるわけがなかろう!」
「あっ………ああ……そう、かもね。……ごめん」
それはたしかにそうだと、明人も思ってしまった。もちろん、この場で答えを聞きたいという気持ちもあった。いや、明人の本心は九割がた、そう思っていたのだ。だが、北斗にそれを強いるのはお門違いである。あっさり否定されて絶望するよりはましか、と思い直すしかなかった。
「……少し待て」
小さな彼女の声に、明人は顔を上げた。そこには、いつものように鋭い眼差しをした彼女が、静かに窓の外を見ていた。
「とりあえず、シーズンが終わるまで保留だ。俺だけ悩むのは不公平だしな。完全なイコールコンディションで最終戦に臨むには、それが一番妥当な答えだ。いいな」
「………はい」
これでこの話は終りだと、彼女の言葉は言っている。つまり、いきなり告白を受けた北斗が悩むのと同じくらい、その答えを保留にされた明人は悩むだろう、と。彼女はそれがイコールコンディションになると言う。
(理屈はそう………なのかな?)
なんだか言い包められたような気もしたが、どちらにしろ明人に質問は許されなかったろう。有無を言わせぬ彼女の口調は、この一年でよく分かっていた。
最後に北斗は、「ああ」と思い出したように付け加えた。
「お前のことだから大丈夫だろうが、この件が原因で速さが鈍ったりしたら、殴るぞ」
「もちろん、わかっているよ」
「むろん答えも『NO』になるからな」
「…………ハイ」
やっぱり彼女は凄いと、明人は思った。人を好きになるとか、或いはその想いをぶつけられるとか、それは自分がどういう思いにせよ大変に悩む類のものであるはずなのに、彼女はあっさりと後回しにしてしまう。それは、彼女が自分のすべきことを知っているからだろう。
明人もまた、彼女を想う心とは別のもう一つの本心で、それが正しいことだと知っている。彼女を想いはするが、だからこそその彼女と真っ向からぶつかり合ってみたいのだ。そうしなければ見えない何かがあると、レーサーである自分たちは、知っているのだから。
丘陵を越えるたびに地面に落ちた機体の影が近づいたり、遠のいたりした。空の上からでも、所々に大きな水たまりがきらきらと光っているのが見える。
明人はもうコヴェントリの滑走路に向けて、着陸態勢に入っている。先ほど管制塔と交信して、進入許可を貰ったところだった。
「いい景色だ」
北斗が言った。
「気持ちがいいものだな。これも案外、面白いかも知れん。シーズンが終わったら、教えてくれ」
明人はそれを聞いて、口元に笑みを浮かべた。好意を寄せる彼女が頼ってくれるのが嬉しいということもあったが、それ以上に彼女がのんびりとそんなことを考えてくれていることに、ほっとしたのだ。何しろ数日前までの彼女は、思いつめて今にも押し潰されてしまいそうに見えたのだから。
「有難い言葉だけど、僕はまだ教官の資格を持ってないから無理なんだ。でも、グラシスさんに頼んであげるよ。冬のイギリスはどんよりして爽快とはいかないけど、冷たい空気は舵にどっしりくるから、飛ぶのは楽しいよ。飛行機がキビキビするからね」
「ふむ。俺はお前と違って運動神経がいいからな。すぐに追い抜くぞ」
それが彼女なりの礼なのだろう。いかにも彼女らしくて、明人は笑った。
そして一〇分後、二人を乗せたプロペラ機は、リヤジェットの待つコヴェントリの空港へと静かに舞い降りたのである。
to be
continued...
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