FLAT
OUT
(46)
日曜の朝。サーキット内の駐車場からいつものように突っ走っているのは、明人である。メカニックたちより遅い足でも、歩くよりは速い。体格も走るフォームも悪くないのになぜ遅いのか謎だとは、チームドクターの弁である。
案の定、明人を迎えたのは腕を組んで仁王立ちしているエリナだった。明人の「おはよう」という言葉は、今日も三分の二ほど口に乗せたところで彼女の怒声にかき消されたのである。
そして午前十時、明人たちは最後の作戦会議を開いていた。
「エンジンについては?」
プロスペクターが問う。
「今のところそれぞれの走行距離は明人が247キロ、赤月が252キロ。どちらも想定内だ。明人のエンジンに起きた不具合については、残念ながら発見できなかった。封印されている部分もあるからな。クラッチは問題なかったが」
瓜畑が答えた。
発見できなかったというのは、つまり不安要素が一つ増えたということである。内部まで完全にばらして整備できればいいのだが、1レース1エンジンという規定上、それができないから困る。問題がエンジンである以上、大事をとって交換すれば間違いなく10グリッド降格なのだ。
「スペアカーは明人君仕様」
「ああ。赤月には悪いが、ドライバーズ・チャンピオンがかかってるからな。セッティングは完璧にレースカーと一緒にしてある。万一を考えて、部品は全て違う製造ロットのものを使った。いつでも乗り換えられるよ」
それを聞いて、プロスペクターの顔色が少し良くなった。これで、今回の不具合が製造ロット上での欠陥ならば、スペアカーに同じ問題が起きる可能性は消えたのである。
「乗り換えますか」
「………いや、このまま行く。明人もそれでいいんだよな」
「うん。今の時点で、10グリッド降格を選ぶのは得策じゃないと思う。不具合も、単純に僕の発進操作が甘かっただけかも知れないしね」
これは昨夜、瓜畑と長く話し合って決めたことだった。もしかしたら不具合は発見できなかっただけで、起きているかも知れない。それでも瓜畑がそう言ったのだ。それなら彼のせいではなく、現在の技術がそこまで辿り着いていないだけなのだろう。それなら明人にできるのは、彼を信じることだけだ。
「作戦は?」
「明人が3ストップ、赤月が2ストップ作戦。カヴァーリは俺たちよりも、燃料を積んだ時の影響が大きい。同じ燃料搭載量なら、確実に引き離せるはずだ。単純に計算すると、明人のレース予想タイムは1時間18分32秒、赤月が1時間18分42秒。はっきり言って明人は攻め、赤月は守りの戦略だ」
3ストップ作戦は搭載燃料が少ないから軽いが、ただでさえ通常の2回ストップよりもピットが多い。軽い利点を生かして周りよりも速く走り、マージンを稼がなければならないのである。速いマシンがなければ不可能だ。明人が自分に自信を持ってはいても、緊張を禁じ得なかった。
「万が一トラブルが起きたら?」
エリナが尋ねた。
「フォーメーション・ラップ前なら迷わずスペア・カーに切り替える。その場合はピット・スタートだ。作戦も1ストップ、その分の燃料を積んである」
瓜畑が少しだけ苦笑いを浮かべた。
午後1時10分、明人はコクピットに納まり、準備を終えていた。エリナの合図でタイヤ・ウォーマーが外され、マシンが地面へと下ろされる。明人がイグニッション・スイッチをオンにすると、程なくして後ろで待っていたメカニックがエンジンを始動した。
たちまちガレージ内は声高なアイドリング音に包まれ、それまでの喧騒が消える。回転は、悪くない。始動にかかる時間は短かったし、変な振動もない。問題はなさそうだ。
『いいわ、明人君、出て。回転は抑えて、少しでもエンジンを温存するように』
「了解。じゃあ、ダミー・グリッドで」
軽くアクセルをあおると、ネルガルNF211に搭載されたエンジンは、寸分違わずに吼えた。一般車はもちろん、かつてジロが走らせたプロトタイプとも違う。自然吸気型エンジンとして一つの完成形へと辿り着いたそれは、他の追従を許さないパワーとレスポンスを誇った。
コースを走っている最中、観客たちの視線はどんなものなのだろうと、明人は目を凝らしてみた。そして、驚いた。
ここはイモラ、カヴァーリの聖地である。観客たちも皆、赤いTシャツやブルゾンに身を包んで、カヴァーリの応援旗は数え切れないほどだ。スタンド全てが、真っ赤に染まっているのである。どこを探しても、宿敵ネルガルのそれは見当たらない。
それなのに、彼らは明人に向かって手を振っていたのである。
驚きながらも、明人はそれに手を振って返した。すると、イタリア語で何か言っているのまで聞こえてくる。何と言っているのだろう、普段外国語の声援は有難いと思うだけだったが、今はそれが何を言っているのか知りたいと思った。
そして目に入ってきたのは、珍しく赤一色ではない応援旗である。それを見て明人は、胸が詰まった。
長方形のそれの、左上には北斗とカヴァーリC.7。地はもちろん赤だ。しかしそれだけではなかった。旗を斜めに区切って、右下には明人が、ネルガルNF211とともに描かれていたのだ。彼らはそれが明人に見えるようにと、飛び跳ねるようにして高々と掲げていたのである。
なぜか熱いものがこみ上げてきて、明人もいっそう大きく手を振った。両手を突き上げるのは優勝した時だけにしよう。今はまだ、片手である。
大きく上げた自分の腕が視界に入って、明人はまた一つ思い出した。いま明人が駆るネルガルのマシンは、もう漆黒ではない。ホワイトを基調とし、赤のメインストライプと黒の細いストライプ。それは十二年前、彼らカヴァーリのファンでさえ涙を流した、その男の駆ったマシンだった。
グリッドにつくと、明人にとってレースはもう始まったようなものだ。エリナがリラックスしろというのでいつも一旦マシンを降りるが、ユーロ・マスターズ時代はコクピットに納まったまま四十五分後のレースまで待っていられたほどである。もっとも、さすがにそれでは一時間以上に及ぶ決勝レースに全てを注ぎ込むことができなくなることに気付き、彼女の忠告を受け入れることにしているのだが。
マシンの横に立って待っていると、ふいに誰かに呼ばれたような気がした。空耳かなと思ってピットを振り返った明人は、驚いて目を丸くしたのである。
「明人!」
ピットウォールから身を乗り出すようにして、全身で大きく手を振っているのは、ユカだった。その後ろに、白鳥夫妻の姿も見える。彼らが連れてきたのだろう。
その驚きに緊張を解かれ、明人は笑みを浮かべる。だが、それだけではなかったのだ。ピットウォールの金網越しではなんだからと明人が回り道をして彼らのもとへ辿り着くと、それを待っていたかのように奥から見慣れた顔が続々と現れたのである。
「明人さん、私たちも応援してますからね」
「頑張って、明人」
「ふむ、明人なら成し遂げるだろう。頑張り給え」
私服姿でにっこりと笑うのは、アリサとサラのハーテッド姉妹。その後ろで白い髭をなでながら頷くのはグラシスである。どうやら明人と北斗をを送り出したあと、自分もコヴェントリから追いかけてきたらしい。
「明人、勝たなきゃ怒るからね!」
なんとユリカまで居た。その隣の青年を明人は見たことがなかったが、ユリカが思い出したように「純君だよ」と紹介してくれたので、戸惑いつつも握手をした。もっとも彼は、この熱気と喧騒に当てられた様子で、それどころではなかったようだが。
明人は、ぽかんと口を開けて彼らを見ていた。すると、隣で笑みを漏らした人物がいる。プロスペクターだった。
「いや、なに。アリサさんやミナトさんとは、私も多少の面識がありますのでね。声をお掛けした次第です」
なるほど、彼女らはそもそもレーサーだし、アリサはもちろん、ミナトも現役時代はそれなりに名を売っていた。それに、明人の家で一度か二度、会ったこともあるはずだ。
「……ユリカも?」
「いえ、彼女は、飛入りですな。それにしたって、かつてのメイン・スポンサーのご令嬢ですから。いらっしゃるのにお招きしなかったら失礼でしょう」
「……はぁ、まぁ……」
小父さんもいるのだろうかと、明人は辺りを見回す。しかし、カイゼル髭に恰幅のいい彼の姿は、見当たらなかった。
それにしても大所帯だ。優勝候補がピットウォールでわいわいやっているものだから、何事かとメディアも集まってくる。明人がグリッドに目をやると、北斗もまたこちらを見て、呆れたように「フン」と顔を逸らすのが見えた。
「みんな、パドック・ラウンジで観てるのかい?」
明人が問いかける。
「そう言われたけど、ねぇ、明人、ガレージにいちゃだめ?」
上目遣いに見上げて返してきたのは、ユカ。
「ラウンジって、お上品過ぎるのよねぇ」
「ふつうに入ろうとしたら5千ユーロって聞いたよ。僕らには場違いじゃないか」
「ガレージの隅っこでも構いませんけど」
「なんだったらネルガルの制服も着るわよぉ」
「えっ、着られるんですか。着てみたいなぁ」
「ユリカ、僕たちは部外者なんだから邪魔しちゃぁ……」
一言発しただけなのに、一気に全員分返ってくる。明人は改めて唖然としつつも、いつもより気が楽になっている自分に気付いた。
思い出すのは、そこにいない人たちの姿である。母も、北辰も、そしてジロも、父も。
母と北辰は、今もこの様子をテレビで観てくれているのだろう。ぱっと周りを見渡すだけで、自分を映しているテレビカメラがいくつもあった。だが明人にとって、それを通して見えるのは二人の顔だけではない。多くのファンの顔もまた、見えるのである。今年最後の戦いを心待ちにしている、ファンの顔だ。
それらのカメラに向かって、明人は小さく手を振って笑いかけた。
「困りましたな。いくらなんでもこれだけの人数をレース中のガレージに入れるわけにもいきませんので……ラウンジの隣にネルガルがスポンサー用に借りているブースが余ってますから、そこはどうですか。使わないのも勿体無いですし、ちょうどガレージの真上ですよ」
プロスペクターの提案に、相変わらずわいわいと騒いでいた彼らも嬉しそうに頷いた。
アリサとミナトは、レースが間近に迫っているこの時間帯にドライバーが感じる緊張を知っているからか、抑え役に回っている。それでも話題が尽きることなく出てくるのは、彼らの性格がそもそもはつらつとしているからだろう。明人もそんな中にいるのは、好きである。
「明人、昨日の記者会見、格好良かったよ。感動しちゃった」
ユリカが眼をきらきらさせて言えば、そこにいた皆がうんうんと頷く。いまになって照れ臭くなった明人は、「あー」とか「うん」とか言うばかりである。
「明人さんなら、『スピード・スター』もそう遠くないかも知れませんね」
そう言ったのは、アリサだった。もちろん今度も皆がそれを肯定したが、明人は少し考え込んだ。
『スピード・スター』受賞の候補者は公表されないが、どうやら明人はその一人に入っているらしい。最終戦が近づくにつれ、記者の口からもちらほらとそれが聞かれていた。
「うん、まあ、べつに貰えなくてもいいんだけどね」
「どうして? 貰えたら、偉いんでしょう?」
ユカが驚いたように言った。
「うん、確かに少し前までは、貰えるものなら欲しいと思っていたよ。でもさ、今はなんだか、違うんだ。『スピード・スター』は、僕が貰うものじゃないような気がする」
明人が静かに語り始めたことに、皆はいっとき静まってそれを聞いていた。何人かの記者が辺りに残っていたが、明人に注目している風ではない。それを確かめて、明人は自分の大切な親友たちに向かって微笑んだ。
「僕は賞を貰うためにレースをしているんじゃないんだ。マシンを運転するのが楽しいから、レースをしている。だから実を言えば、ゴールは遠ければ遠いほど嬉しいんだよ。もちろん勝ちたいとは思うけど、トロフィーとか賞とかは、走っていたらミラーの端に引っ掛けてきちゃった、程度のものなんだ」
グラシスがなるほどと微笑を見せ、他の者たちも同じような反応だった。ただユカだけは、まだ分からないのか、不思議そうに明人を見上げている。明人はそんなユカに微笑みかけた。
「それにね、『スピード・スター』は僕らが目指すものでもあるけれど、同時に僕らの上に輝いている星なんだと思う。眩しくてどんな形か分からない。でも確かにそこにあって、スピードの限界に――自分の限界に挑戦するみんなの上に輝いているんだ。そうさ、ユカ、君の上にもね」
そう言ってユカの頭を撫でると、彼はくすぐったそうに目を閉じた。
その光は、スピードに命を懸け、そして散っていた人々の、その魂だ。そして、そんな人々を愛し続けたもっと多くの人々の、温かい心である。それはたしかに、いつも明人を包んでくれていたのだから。
その温かさに明人が笑みを浮かべなら視線を戻すと、皆の様相は少しだけ変わっていた。
グラシスに九十九、それに純は、真剣な面持ちで。ミナトとユリカは少し苦笑いも含まれているのだろうけど、優しい笑みで。そして残るサラとアリサは、頬を染めて明人を見つめていた。
――お前ってさ、こっ恥ずかしいことを臆面もなく言うよな――
ジロがどこかで笑ったような気がした。
to be
continued...
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