FLAT
OUT
(49)
レースは中盤戦にさしかかっていた。最初で最後のピットインまで、残る周回は3周である。ガソリンもほとんど使い切って、予選並みの軽さになったマシンに、明人はさらに鞭を打って走った。
『テンカワがファステスト・ラップを更新しました。暫定トップを走るテンカワが1分16秒1でファステスト・ラップ!』
イタリア語の実況アナウンスも、北斗はちゃんと聞き取っているのかも知れない。それでなくとも、チームから無線で連絡はいっているはずだ。そして明人がここまでピットインを引っ張っていることから、彼らも明人が1ストップ作戦であることに気付いているはずである。
戦略上、いま北斗との差を広げることは後の有利に繋がるだろう。しかし明人はそんなことも忘れて、ただ毎周を鬼気迫る勢いで走った。
たぶん今の自分は、猛獣のように禍々しい殺気を放っているに違いない。子どもが面と向かったら、泣き出してしまうだろう。片親のいない寂しさを知っているからか、明人は自分が子煩悩であると分かっている。だから子どもを怖がらせるような真似はしたくなかったが、今だけは違った。
ここはもう、世界が違うのだ。颯爽とマシンに乗って、舞踏会で踊るように走り、ステージの上でスポットライトを浴びて勝どきを上げる。そんな格好良さとは無縁だった。明人も北斗も、それにマシンを駆るドライバーは皆、命を懸けてそこにいるのである。かつて人類が夢見た「スピード」を実現するために、全ての人々の想いを背負って、走っているのである。
子どもにとって、或いは夢を忘れなかった大人にとっても、夢の世界がここである。それは現実にあって、明人は今、彼らを代表して戦っていた。夢を背負い、スピードという名の過酷な現実と戦っていたのである。
『速い、速い! テンカワが再びファステスト・ラップを更新! 1分15秒8は、予選タイムをも上回った!』
早口のアナウンスが聞こえたが、内容までは分からない。もしや北斗が急激に追いついてきているのかと戦々恐々となる始末である。ただ、エリナが何も言ってこないので、まだ大丈夫なのだろう。
そしてついに、明人にもピット・ストップの瞬間が来た。
ユーロ・マスターズの頃に比べて、FAのピット・ストップは恐ろしく速い。いや、それは他のどのカテゴリーに比べてもそうだろう。一本のタイヤを交換するのに、ナットを脱着する人間と古いタイヤを外す人間、新しいタイヤを取り付ける人間、その3人が取り付いて、5秒で終了するのである。給油や冷却口掃除の要員を含めれば、一台を取り囲むメカニックは20人もいた。
給油の最中、ピットウォールの向こうを聞きなれたカヴァーリのエキゾースト・ノートが駆け抜けていった。北斗に違いない。目の前には「1st
Gear」のロリー・ポップ。それに従ってギヤを1速に入れ、ひたすら給油が終わるのを待つ。ポップが跳ね上げられた瞬間、アクセルを蹴飛ばすのだ。
後半を走る為の燃料は多く、補給に11秒かかった。しかし、この一瞬の為の練習を常に重ねているメカニックたちでさえ、今日のレースでの緊張はただ事ではなかったのだろう。給油リグを離すのが一瞬、早かった。
ポップが跳ね上げられたのと同時に、明人のマシン後部から火柱が上がった。リグから飛んだガソリンが、高温のエキゾーストパイプにかかって引火したのだ。
それでも、耐火服のメカニックは怯まず、すぐさま消化ガスを吹き掛ける。しかしそこにはもう、火元がなかった。少しくらいの炎、風圧で消えるさ――明人はポップが上がったのを見るや、ミラーの中の炎など目もくれずに、アクセルを踏み込んでいたのだ。
幸いに炎は、数秒で消えた。ピットロードから全開で加速をくれてやっても、マシン後部に変な感触はない。これなら問題なくいける。明人は早くもそれを忘れ、目の前の『タンブレロ』にのみ集中した。
満タンのガソリンを積んで、さすがにペースは落ちる。一方の北斗はそろそろ軽くなってきた頃で、どのくらいのタイム差になるかが勝負の分かれ目である。ここで彼女に1回ピットストップ分のマージンを稼がれてしまうと、次に彼女が最後のピットストップをしたときに、明人が前に出ることは不可能になってしまうからだ。
『明人君、今のペースが1分19秒0。北斗は17秒2よ。ピットアウト時の彼女とのタイム差は約7秒。彼女があと10周前後走るとして、このままのタイム差を維持できればぎりぎり彼女の前に出られるかも知れないわ』
「了解」
再び心理戦である。今の明人は、見えない北斗と戦っているようなものだ。1周ごとに分かる彼女とのラップタイム勝負も、彼女自身が隣を走っているわけではない。それを知るのは、バイザーに表示されるラップタイム・モニターだけだった。
34周目、差は9秒。
35周目、11秒。
36周目、13秒――。
1周ごとに燃料が軽くなって、少しずつラップタイムは上がっていく。しかしそれはどちらも同条件で、彼女は恐ろしく正確に、軽くなった分だけタイムを上げてきた。だから、明人がタイムアップしてもその差が縮まらず、総量として多くを積んでいる明人はじわじわと引き離されてしまうのである。
明人は必死で焦りを抑えながら、走り続けた。北斗との差が広がっていることは忘れ、一周一周で確実にタイムを出すことだけに集中しようとする。既に今、予選並みの集中力で走っているのである。焦りが混ざれば、致命的なミスを犯しそうだった。
そして残すところ20周、レースが開始されて42周目のことである。差は20秒に広がっていて、北斗のピットストップ時間も関わるが、これ以上広げられると彼女の前に出られなくなる。そんな時だった。常に相手のピット戦略さえも予想して戦略を立てているだろうエリナから、待っていた言葉が伝えられたのだ。
『明人君、北斗はそろそろピットインするわよ。ギャップは20.6秒』
「抜ける?」
『まだ分からないわ』
彼女の残り周回数を考えれば、給油に8.5秒はかかるはずである。カヴァーリのピット作業がどれほどのものか知らないが、ピットストップ自体は10秒以内だろう。イモラのピットストップに必要なマージンは、13.5秒プラス停止時間。今ならまだ、2秒差で彼女の前に出られる。
ここで一気にペースアップして彼女との差を確実なものにしておきたいのだが、それはできなかった。今すでに、明人は限界を超える勢いでアタックを繰り返していたからだ。
2周が過ぎた。
「まだ入らない?」
『まだよ。ギャップ、21.7秒』
北斗はまだ入らない。残り周回数は18周である。それが減るほど、彼女の給油時間も減り、ピットストップが短くなる。
はやく入ってくれと、明人は祈りながら走った。
そして、残り周回が17周となったその周の、『タンブレロ』を明人が抜けた時だった。
『明人君、北斗が入るわよ。できる限りペースを上げて!』
カヴァーリのピットクルーの動きを注視していたのだろう。エリナが、口調は冷静であるけれども、捲し立てるように言った。ペース指示はしないと言っていた彼女が、それを忘れてしまうくらいである。彼女をはじめとしたチーム指揮所も、爪を噛む思いでレースを見守っているに違いない。
『入ったわ。北斗が入ったわよ』
明人が『ヴァリアンテ・アルタ』を駆け抜けたとき、エリナから再び無線が入った。約22秒のギャップで、いまピットにいる北斗を抜けるかどうか。明人は速く速くと心の中で鞭を打つと同時に、焦るな、と自分に言い聞かせ続けた。
観客もまた、立ち尽くしたり、絶叫したりしながらこのピットストップを見守っている。
赤いティフォシたちは、もちろんカヴァーリを応援しているのだろう。しかし明人は今、その期待に応えることはできなかった。
『ヴァリアンテ・バッサ』が見えた。その向こうはピットである。そこに、彼女がいる。限界ぎりぎりのブレーキで最後のシケインに飛び込む。
『北斗が出たわ! いまピット出口――』
ハード・リミッターが作動する直前まで引っ張りながらのシフトアップ。1回のシフトアップに加速が途切れるのはほんの0.01秒だが、それさえも明人にはもどかしかった。そして、コントロールラインを通過したときである。200メートル先のピットウォール出口から、赤いマシンが飛び出してくるのが見えた。
速度差はある。『タンブレロ』までの700メートルが勝負。4速、5速とシフトアップして、あっという間に時速300キロを超えた。北斗のマシンがぐんぐん近づき、明人はマシンを横に振った。同時に北斗もラインを変え、ピットアウトしたばかりだというのにしっかりとブロックしてくる。
すかさず明人がラインを入れ替えると、北斗はそれを狙っていたかのようにぎりぎりまで寄せてきた。コース脇のダートとの間に、マシン1台入るのがやっとの幅寄せだ。
「くそっ!」
毒づきながら、明人はブレーキを踏んだ。『タンブレロ』である。直線はあと50メートル、足りなかった。明人のフロントノーズが、北斗の後尾を突付くほどに近付く。しかし、彼女の前に出ることは叶わなかった。
最後の勝負だ。明人はほんの2メートル先を走る北斗の後姿を睨んだ。残りは15周。そのとき、エリナから無線が入った。
『明人君、バランスは?』
「大丈夫だよ。攻められる」
『わかったわ。今、ポジションは2。北斗、貴方、赤月君、ハリの順よ。今のラップタイムだと、ハリは赤月君を抜くことはできないわ』
彼女の言いたいことはすぐにわかった。3位と4位の差は1ポイントだが、優勝と2位の差は2ポイント。北斗に優勝されると、もちろんドライバーズタイトルは彼女のものになるが、加えてコンストラーズタイトルもカヴァーリに持って行かれてしまう。それを阻止するには、明人が勝つしかないとうことだ。
もはや失うものはない。勝てないのなら、リタイヤでも良いとさえ思った。だから、残る周回に全てを懸ける。
『エリナ、燃料ミクスチャーを「1」にしても最後までもつ?』
「ちょっと待って、計算するわ」
燃料ミクスチャー「1」は、最も燃料の濃い――パワーの出るセッティングだ。回転リミッターは最初からずっと「1」に合わせてある。加えて燃料を最大限まで濃くすれば、NF211に搭載されるエンジンは、正しく限度ギリギリの最高出力を絞り出す。だがその一方で、燃料を多く消費するのである。まして先程の火事で、予想外の消費を強いられた後だった。
ほんの数秒で、エリナの声が返ってきた。覚悟も露わに、彼女は告げるのである。
『明人君、賭けよ。燃料ミクスチャーを「1」にして。計算上は、フィニッシュまで持つわ。ただし、パレード・ラップは走りきれないかも知れない』
背筋がぞくりとするのを、明人は感じた。パレード・ラップは、チェッカー・フラッグを受けてからピットに戻るまでの1周である。それすらも走り切れないかも知れないというのだ。
『貴方なら、乗るでしょう?』
「もちろんさ」
レース・マネージャーがエリナで良かった。明人は心底からそう思う。彼女が最優先して考えてくれたのは、明人の意地である。優勝かリタイヤか、今の明人にはそれしかなかった。彼女はそれをしっかりと分かってくれていた。
ハンドル上についているダイヤルを回して、「1」にする。劇的に変化するわけではないが、加速は確実に良くなるはずである。それが、現時点で最強のエンジンを搭載したカヴァーリC.7に対する、最後の切り札だった。
相変わらず、NF211はコーナーで分があった。一方、直線に出るとやはりカヴァーリには敵わない。最大出力のエンジンのおかげで、スリップ・ストリームに入れば速度は上がる。前を行く北斗との差もじりじりと縮まるのだが、一番長いホームストレートでも700メートルしかない。彼女の前に出られる長さではないのである。
逆にブレーキから始まるコーナーは得意で、彼女よりも1メートルはブレーキを遅らせることができた。数メートルまで開いた差が、一気に50センチにまで縮まる。幸いなことにイモラのコーナーは、前車にぴったりつくことでダウンフォースが失われてしまうほど、高速ではない。明人はコーナーというコーナーで、鼻先が彼女のリヤウィングを掠るほどに攻め立てた。
だが、決め手がないのも事実なのである。後ろにいてプレッシャーをかけ続けたとしても、彼女がそれに惑わされるようなドライバーでないことも分っている。ミスを待つ余裕は、ない。
あっという間に5周が過ぎてしまった。開幕戦でしたように、長い直線の前にあるコーナーで加速重視のラインをとっても、それが『ヴァリアンテ・バッサ』という低速のシケインでは、差もたかが知れていた。
『明人君、抜ける?』
「こっちの方がペースは速い。でも決め手がないよ」
答えながら、明人は必死で考えていた。
ラップタイムはほぼ同じでも、NF211とC.7ははっきりとキャラクターの違うマシンだ。どこかで決定的に得意不得意が分かれるコーナーがあれば、そこで間違いなく抜ける。だが、今回に限ってはそれが見出せないのである。
お門違いだと知りながらも、どいてくれ、と心の中で彼女に叫ぶ。とたんに彼女の攻撃的な瞳が脳裏に蘇った。
(抜きたければ勝手に抜け。抜けるのならな)
嘲笑うかのような口調で、北斗が言う。明人ははっとして、前を走る北斗のマシンを見つめた。
マシンの背に突き出た空気吸入口のせいで、彼女を直接見ることは叶わない。ただ、サイドポッドの向こうに小さなミラーが見えた。その中に光るのは、北斗のヘルメット。オレンジがかってきた陽光をきらりと反射するバイザーの中で、彼女と目が合ったような気がした。
――戦うのは俺とお前だが、勝つのは俺だ。これは重要だぞ。
その揺ぎ無い自信は、いったいどこから来るのだろう。明人だって自分に自信がないわけではないが、北斗に対してそこまで言い切ることはできまい。だが、このままでは彼女の言ったとおりになってしまう。
それは悔しい。彼女には負けたくない。それはレーサーとしての意地でもあったが、同時に心の奥底に疼く男の意地にも気付き、明人は場違いにも苦笑いを浮かべた。
多くの人は色眼鏡をつけたまま彼女を見るが、自分はそうでありたくない。何も持たない、自分の手足とマシンだけを武器に、真っ向から戦いたいのである。過去はどうでもいい。未来もまた、どうでもいい。今のこの対決を、自分にも彼女にも、忘れられないものにしてやりたいと思った。
残り、8周。北斗には長いだろう。だが、明人には短い。
『ヴァリアンテ・バッサ』で、明人は強引にアクセルを踏んだ。トラクション・コントロールが介入しても、後輪はパワースライドを起こして滑る。それをカウンターだけでねじ伏せた。
それまでよりも、北斗のマシンが近い。これは行けると、明人は身構えた。
7速、2万2千回転。このコースでのギヤ比を考えれば、時速330キロほどだ。周囲の景色が線となって溶け、北斗のリヤウィング下面には、マシンが跳ねる度に白い水蒸気の塊がぱっと噴き出た。
かつて北辰が言ったように、スリップストリームの中は不思議な世界である。それまで風切音に遮られて聞こえなかった色々な音が、聞こえるようになる。それはエンジンやトランスミッションの回る音であったり、マシンが跳ねる音であったり、或いは観客の歓声であったりする。妙に穏やかな世界なのだ。
しかし明人は、意を決してその世界を抜け出した。とたんに風圧が蘇り、他の全ての音はかき消された。
北斗がけん制にラインをずらしてきた。これは抜かれるかも知れないと思ったのだろう。すかさず明人はラインを入れ替える。『タンブレロ』の一つ目に対してはアウト側になったが、そのあとを考えればこれでも構わなかった。
速度差は、歩くくらいだろうか。世界は線になって猛烈な勢いで流れているのに、そこにいる北斗はぴったりと止まっているかのようだった。
ブレーキを蹴飛ばす。脳みそが頭蓋骨にぶつかって、視界が白く消えそうになるが、鼻の奥に力を込めて堪えるのである。北斗のマシンがぐっと後ろに動いた。
観客がどよめいた。ついに明人が仕掛けたのだ。
最初の左コーナーでは、まだ斜め後ろにいた。だが、もう前輪は彼女の真横にある。ここまで鼻先をねじ込めば、無視はできまい。彼女は幅寄せをしてはくるけれども、無理にラインを塞ぐようなことはしないドライバーだ。
真っ赤に焼けた北斗のブレーキローターが見えた。後輪のそれは今、明人の真横にあって、次の右コーナーではまた数十センチ、後ろに動いた。今度はイン側になった明人が、さらに北斗の脇腹へとマシンを滑り込ませたのだ。
だが、ここからはまた全開での加速である。カヴァーリは強大なエンジンの出力を加速に生かすため、マシンの重心がかなり後ろにあると聞いたことがあった。それによって、パワーをより効率的に地面へと叩きつけるのだ。再び北斗のマシンがぐっと前に出て、明人は斜め後ろのままそれを追いかける。
『ヴィルヌーブ』コーナーでも、明人はじわりと北斗との差を詰めた。狭いこのコースで2台横並びのままでの対決など、いくら明人でも身の竦む思いである。本能の恐怖心がアクセルから足を放させようとするのだが、それを押しとどめるのは目の前の赤い存在だった。
(負けてたまるか)
ただそれだけが、明人の身体を――心臓から指先までを、埋め尽くした。
『トサ』からの加速でも、C.7が速い。だが、『ピラテラ』までに完全に頭を抑えられなければ、その次の『アクア・ミネラーリ』で有利になる。そこからは明人の得意とする第3区間だ。『ヴァリアンテ・アルタ』を2台並んで駆け抜けるなんて聞いたことがないが、『リヴァッツァ』ならアウト側からでも勝負をかけられる。
そんな時だった。エリナの慌てた声がヘルメットの中に響いた。
『明人君、黄旗、イエローフラッグ。「リヴァッツァ」よ!』
「こんな時に!」
思わず明人は毒づいた。それを無線でエリナに送りはしなかったのだが、また胸の内に焦りが噴き出してくるのを感じて、必死に抑えた。
コース上の危険を知らせる黄旗が提示されてしまうと、その区間での追い越しが禁止される。無視すればペナルティだ。明人は苛立ちを抑えながら、北斗の斜め後ろに戻るしかなかった。件の『リヴァッツァ』では、どこかのチームのマシンがコースアウトして止まっているのが見えた。
「すぐに解除されそう?」
『長くても2周でしょう。焦らないで、焦ったらだめよ』
いくら明人でも、右斜め後ろという不安定な位置で走り続けるのはリスクが大きすぎる。真後ろならまだしも、そこからはとくに左コーナーの進入ラインが彼女のマシンに邪魔されてよく見えないのだ。どうしようもなくて、明人は再び彼女の後ろに下がらざるを得なかった。
陽はゆっくりと、しかし確実に傾き、コース上に落ちる木々の影も次第にその背を伸ばし始めていた。風も冷たい。だが、イモラ・サーキットに詰め掛けた観客も、関係者も、それに気付きもしなかった。
残すところ5周である。序盤は落胆や安堵から元気の良かった観客たちも、今となっては息を詰めんばかりにコース上に見入っていた。とくに大型モニターで明人と北斗の鍔迫り合いを全周回にわたって観られた客は、それに釘付けだった。
彼らにとっても、これほど白熱したレースは久し振りだったに違いない。近年のFAはマシンの性能が向上しすぎて、ドライバー同士の戦いが見え辛くなっていると、よく批判される。それを覆すかのような、刃と刃のぶつかり合いが、そこにあった。
十二年前を知るティフォシは、まるで自分たちがその時代にタイムスリップしたかのような錯覚にさえ陥ったのかも知れない。何かと熱狂的な彼らがが、今は黙りこくって決着の行方を見届けんとしていた。彼らもまた十二年前、最も偉大なライバルの死に、涙を流したのだ。
『リヴァッツァ』の黄旗が解除された。残りは3周。先頭を押える北斗とそれに襲い掛かる明人のギャップは、もう10周ほど、0.1秒前後を保ったままだった。
『ヴァリアンテ・バッサ』の一つ目の縁石に乗り上げた。あとタイヤ一本分ずれていたら、ショートカットとしてペナルティを負わされてしまったろう。だが、それだけの価値はあった。北斗よりもコンマ何秒か早くアクセルを踏むことに成功した明人は、瞬く間に彼女の後尾へと喰らいついたのだ。
『テンカワが仕掛けた、テンカワが仕掛けた!』
アナウンスが絶叫している。
スリップストリームに入ってどのくらい速度が出ているのか、もう気にしなかった。ソフト・リミッターが作動してほんの少しだけ加速が鈍るが、それは北斗も同じようだった。再び明人の前輪が彼女の真横までせり出す。
バン、とブレーキを蹴飛ばして、同時に左の人差し指と中指で、ダウン・パドルを弾く。背後でエンジンが断続的に吼え、時速340キロから一気に200キロの減速に入った。そしてハンドルを切り込んだそのときである。
(しまった)
明人は思った。ブレーキを踏むのが50センチ遅すぎたのだ。
見る間にラインが膨らみ、本来のそれから1メートル近くもずれた。それに北斗が気付かないはずもなかったが、彼女だって逃げ場は無いに等しい。無理に避ければ、今度は彼女がグラベルに突っ込んでしまう。
そもそも両車の間にはほとんど間隔が無かったのだ。修正する間もなく、明人の前輪が北斗のサイドポッドへと接近した。
そして、ドシンという感触。
ハンドルに感じた接触の衝撃に明人は肩を強張らせていたが、それが思っていたほどでないことに拍子抜けした。もちろんその最中も本来のラインに戻ろうと無理にハンドルを切っていたのだが、ぶつかったことで明人のマシンは押し返され、あっさりとそのラインに戻った。
両手足は、本能的にレースを続けようとする。しかし明人は、隣の北斗を見た。
「なにをやっている」とでも言いたげに、北斗はこちらのことなどお構い無しの加速に入っていた。
負けてなるかという思いが、更に強くなって蘇った。
それまでC.7の空気吸入口にさえぎられて見えなかった北斗のヘルメットが、今は斜め後ろから見える。しかし明人はもう、それを視界の隅に置いておくだけだった。
チャンピオンへと通じる扉。それに飛び込むことができるのは、最初に辿り着いた一人だけだ。北斗は、そこへ通じる己の道だけを見て走っているに違いない。明人がいま、そうしているように。かつて北辰が、そして明人の父親、治己がそうしたように。
ファイナル・ラップである。
スリップストリームを使わないと、どうしても明人のほうが加速は鈍い。しかし瓜畑が全てを注ぎこんだエンジンは、決定的な差を補っていた。
再び『タンブレロ』の進入で、明人が並びかける。前輪と前輪が真横に並び、その間は10センチもないだろう。小石を踏んだだけでもラインがずれて、クラッシュしてしまうに違いない。しかし明人は、不思議なことに、自分にも彼女にもそれが起きないことがわかっていた。根拠はないのだけれども、そんな不安を欠片も感じなかったのである。
最後のチャンスはどこだろうと、前後左右の強烈なGに苛まれながらも考える。だが、すぐにそれを放棄した。チャンスがあったのなら、とっくに抜いている。ないからここまでこうして来ているのだ。ならば、最後の決め手はなんなのだろう。
勝ちたいという思いだろうか――いや、それも違うような気がした。間違いではないが、それだけではまだ足りないように思えたのである。
何が足りないのだろうか、でもそれを考えるには、あまりに時間が少ない。『トサ』の立ち上がりで北斗が30センチ前に出た。負けずに明人も『ピラテラ』の進入で踏ん張り、逆に50センチ出し抜くことに成功する。
そして『アクアミネラーリ』では、北斗が数周前の明人と同じようにブレーキを詰め過ぎ、膨らんできた。それを明人は、双方とも壊れない程度に衝撃を和らげられるよう、ラインを膨らませ、同じようにサイドポッドで受け止めたのだ。
再び加速すると、二人の相対位置は全く変わっていなかった。
そのときである。明人の頭の中で何かが閃いた。
――明人、お前は優しい。
父の言葉だった。
――その優しさが、明人を速くするだろう。私たちの戦いに必要なのは敬意だよ。敵意ではない。私たちは、殺し合いをしているのではないのだからね。
夢の中での言葉をこうもはっきり覚えているのが、不思議だった。しかしそれが終わるかという時に、もっとはっきりと思い出されたものがあったのだ。
――世界の頂点に立つ我らFAのレーサーは、それをせねばならぬ。己の正義を――スピードという名の正義を見せ付けることによって、正しき道を知らしめねばならぬ。人が、人であるが故の信念を貫かんとして足掻く、その神々しき様を啓蒙せねばならぬ――。
とたんに明人の頭の中で、全てが一つになった。
この世界が自分の生きる世界であること。命を懸けてスピードの限界に挑戦すること。それを北斗と競うのがこれほどまでに嬉しいこと。そしてそれが、自分の彼女に対する想いであること。
北斗はそれを知っている。この世界の正義が何であるか、それを誰よりも知っている。それが彼女の自信の源なのだ。
それを悟った瞬間、明人の胸もまた、言い様のない自信に満ち溢れた。それはたぶん、彼女のそれと同じだったに違いない。自らの全てを懸けて闘うことの誇りであり、そしてそれを共有する存在もまた、誇りである。いや、後者に至ってはむしろ、自分以上の誇りであった。
(君のために、勝つ)
真横の北斗に向かって、明人は心の中で宣言した。もしかしたらそれが届いたのかも知れない。
(それはこっちの台詞だ)
頭の中に、彼女の声が返ってきた。
『ヴァリアンテ・アルタ』を少しアウト側のラインから入って、明人はなぜ皆がそこで失速するのか、やっと分かった。ちょうど縁石からタイヤが飛び降りる辺りに、ほとんど気付かないほどの窪みがあるのだ。それにぶつかって、一瞬減速してしまうらしい。
その被害を思わぬところで受けた明人は、最後の勝負に賭けた。残るは『リヴァッツァ』、そして『ヴァリアンテ・バッサ』。
あと30秒で、全ての決着がつく。十二年前につかなかった決着が今つけられようとしているこの瞬間に、誰もが息を詰めて最終区間を見つめていた。
短い下り坂で、それでも時速300キロに達してしまうマシンを、限界のブレーキで減速させる。これまでにないブレーキングに、イン側の前輪から白煙があがり、タイヤがアスファルトを擦るキュキュッという音さえ聞こえた。
リヤが滑り出すのも構わず、ハンドルを戻すだけのカウンターを当てながら、一瞬のアクセル。二台同時だったそれは、イモラの空に鋭く響く。そして『リヴァッツァ』の二つ目へ、一般車なら急ブレーキにも匹敵する強力なFAのエンジン・ブレーキを使って進入する。イン側の縁石をなめながら、再びアクセルを踏んだ。
二台のエキゾースト・ノートが輪唱を奏でるかのようだった。弾けるように甲高いカヴァーリのそれと、絹糸のように滑らかなネルガル。その二つが重なって、最後のコーナーを目指す。
明人の方が50センチ早く、ブレーキを踏んだ。それは減速の間に1メートル近い差になるが、最初の左でイン側を走る明人と、アウト側を走る北斗のライン分の差でしかない。
チェッカー・フラッグが見えた。コントロール・ラインまでの距離が、果てしなく長く感じる。早くアクセルを踏まなければという思いと、まだ踏んではならないという思い。北斗は真横だ。全てがスローモーションのように動き、アクセルを踏むべき地点が刻一刻と迫った。
そして縁石に乗り、後輪が再び地面を捉えるその瞬間、明人は躊躇いなくアクセルを踏みつけた。
イモラのグランド・スタンドに、2台の最後の咆哮が轟いた。
白と赤の2台の鼻先がコントロール・ラインに達した瞬間、世界から音が消えたようだった。FAのフィニッシュは写真判定ではなく、マシンに搭載されたトランスポンダーによって判断される。だというのに、その瞬間はまるで1枚の写真のように、音もなく刻まれた。
誰もがはっと息を呑んで、それを目の当たりにした自分に驚いていた。その一瞬、確かについた決着に、それがこの十二年間忘れられていた戦いであったことに気付いたのだった。
つられて、音が戻ってくる。しかし2台はまだレースが続いているかのように、アクセルを緩めることもなく加速してゆくのである。
ピットロードの出口を過ぎる頃になってやっとその一方が途切れたのは、しかし、ドライバーの意思ではなかったのかも知れない。
明人のNF211が、真っ白い煙を吹き上げた。
レースに詳しい観客なら、コースを覆いつくさんばかりの大量のそれがどこから吹き出したか、すぐに見当がついたろう。彼らの予想通り、それは右のエキゾースト・パイプから吹き出していた。エンジンが壊れたのだ。
しかし観客は、誰もがコントロールタワーの天辺にあるタイム・ボードを振り返っていた。1位、2位と表示のあるその横に、それぞれの順位に該当するマシンのゼッケンが表示される仕組みである。明人なら「3」、北斗は「2」だ。
コントロール・ラインを通り過ぎて2、3秒すると、それは表示される。その短い時間を、誰もが息を止める勢いで待っていた。
そしてそこに黄色い数字が浮かび上がった瞬間、イモラがどっと沸いた。
to be continued...
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