FLAT OUT

(50)






 コントロール・ラインを通り過ぎた瞬間、明人は何も考えられなくなっていた。体が動かず、アクセルから足を離すこともできず、それでも指はエンジンを壊すまいと、シフトアップだけはさせるのである。
 勝ったのか負けたのか、分からない。コクピットからは、自分の前輪と北斗の前輪が、ほとんど真横に並んでいるのが見えていた。そのあと加速は自分の方が良かったから、ラインは正しかったのだろう。
 最後のコーナーだからと言って、決して明人は彼女のラインを塞ぐような真似はしなかった。北斗もまた、明人が空けた1台分のラインをその通りに走り、無理な幅寄せはしなかった。それにほっとして、気が抜けたのかも知れない。
 眠いような、冴えているような、不思議な感覚だった。この一年間の、或いは父が生きていた頃から数えてこれまでの人生の、一区切りがついたように思えた。後悔はどこにもない。ただやり遂げたのだという思いだけが明人の胸を覆いつくして、温かかった。

 そんな時である。突然、ドシンという衝撃がマシンを襲って、明人は現実に引き戻された。自分がアクセルを踏み続けていたことに気付いたが、おかしなことにマシンは減速している。背後からは、ガリガリという嫌な音まで聞こえるのである。しまったと思ってミラーを見ると、案の定、もうもうたる白煙が後方の視界を一切遮っていた。
 同時に発電機にまで影響がいったのか、ハンドル上のインジケータランプやモニターが、点いたり消えたりし始める。そして、それは消えてしまったのだった。
 どういうわけか、無線も通じなかった。いや、緊急用に搭載されているバッテリーの電源で、通じるはずなのである。なのにそれができないのは、明人自身がぼんやりとして電源切り替えスイッチを思い出せなかったからだろう。
 エンジンが壊れてしまっては、あと1周してピットまで戻るのは無理である。できれば表彰台の前にこのマシンを持ち帰ってやりたかったが、それもできないだろう。明人はニュートラル・ボタンを押して何とかギヤをニュートラルに入れると、惰性だけで走らせ、『タンブレロ』の脇にマシンを停めた。


 タイヤにたくさんの草や土をつけ、ゆっくりと停まったマシン。どっと吹き出てくる何かに、明人はベルトを外すのも忘れて頭を垂れた。
(終わったんだ……)
 それだけが身体中を支配している。疲れていると言うには、胸の内は高揚感で一杯だった。マシンを降りようと頭を上げたとき、消火器を持って駆け寄ってくるマーシャルが見えた。そう言えば、エンジン・ブローで停まったのだ。火災の危険があることを思い出し、明人は慌ててベルトを外してマシンを降りた。
 白い消化剤を浴びせられるNF211が少し可哀想で、明人はぼんやりと横に立ったままそれを見つめていた。
 フィニッシュまで、ガソリンはもった。だが、最初から最後まで『RPM1』のまま、しかも後半はずっと燃料を濃くして最大出力を発揮し続けたのである。
 たしかに回転では負けていたかも知れない。信頼性も、折紙付きかというと、そこまでは言い切れなかったろう。でも、いま力尽きたそのエンジンは、最後までもってくれたのである。
 レースを走り切れさえすれば、それでいい。北辰はそれを狂っていると言った。明人も同感である。数百万かの金が、ワリバシのように使い捨てられているも同然だ。だがそれは今、明人という一人のレーサーを最後まで走らせてくれたのである。レース中の短い時間で耐久性やパフォーマンスを再計算し、全てを出し尽くして、ゴールと同時に壊れた。これが究極のエンジンでなくて、なんと言うのだろう。
(ありがとう、僕のマシン)
 心の底からそれを告げて、明人はNF211のノーズに手を置いた。熱の冷める音が、キン、と聞こえた。

 そのときである。背後からFA特有の咆えるようなエキゾースト・ノートが一発、響いた。明人は振り返り、驚く。『タンブレロ』の出口に、見慣れた赤いマシンが停まっていた。そのコクピットから手を出して、指先で「来い」と言うのは、北斗である。
 ピットロードからそう遠くはないし、歩いて戻ろうかと思っていた明人は、少し考えてから、彼女の方へと向かった。その途中、横を見る。ここは『タンブレロ』。父が、十二年前に設置されたタイヤ・バリアの上に座って、笑っているように思えた。それに明人も笑みを浮かべ、足を進める。彼女の元へと、戻るために。
「乗れ」と、明人が着くなり、北斗は自分のマシンのサイドポッドを指差した。バイザーを上げていたが、その表情までは見えない。でもその口調から、不機嫌ではなさそうだった。
 今更になって、彼女と自分と、どちらが勝ったのか気になり始めた。しかしそれを彼女に尋ねるわけにもいかず、どうしようかと迷う。何しろ自分はネルガルのドライバーで、カヴァーリの赤いマシンに乗っていい身分ではないからだ。
「さっさと乗れ。ファンに挨拶くらいすべきだろう」
 今度は北斗が明人を見上げ、少し大きな声で言った。
「あー……流はもう行ったかな?」
 赤月がすぐ来るなら、彼のマシンに乗せてもらった方がいいのではないか。そう思って尋ねるのだが、そんな期待はすぐに裏切られる。
「あいつは先に行った。薄情なチームメイトを持ったものだな」
 明人は驚いてコースの先を見るが、もうそこには赤月のマシンもない。少しくらい待っててくれれば良かったのにと思ったが、同時に赤月のからかうような笑みが思い出された。
(………まさか彼女に譲ったんじゃないだろうな)
 あの優男のことだ、あり得る、と明人は少々げんなりとしつつもふぅと息を吐いた。
「有料じゃないよね?」
「考えておいてやる」
 北斗がギヤを1速に入れるのが見えて、明人はなんとか場所を探してカヴァーリC.7のサイドポッドに腰掛けた。ネルガルの白いスーツを着た自分が、真っ赤なカヴァーリのマシンに乗せてもらう。不思議な気分だった。すぐにエキゾースト・ノートが低く唸り、ゆっくりとC.7は走り出したのである。

 

 ピットまで戻れば、勝ったのがどっちかも分かる。やっとのことで明人の胸にも欲が戻ってきて、そわそわし始めた。
 たぶん、北斗は無線で勝者がどっちなのか知っているのだろう。でも、それを言うつもりはないらしい。彼女は優しいから、声を掛けないでくれているのだろうか。もし明人が敗れたのなら、そうかも知れない。そんなことも思った。
 コース脇の観客たちは皆飛び跳ねるようにして、両手を振っていた。レースが始まる前に見た、明人と北斗を入れた旗も、大きく掲げられている。
 コースの安全を常に監視してくれていたマーシャルたちも、皆コース脇まで出てきて手や旗を振っていた。ただその旗は、レース中に使う黄色や緑のそれなのだけれども。何人かは明人に向かって手を差し伸べてきて、走っているから握り合うことはできなくても、手の平を打ち合うことで返した。


 ピットロードに入る。コントロール・タワーの表示板は、見えなかった。表彰台の前に設けられている入賞車専用の場所まで、北斗はゆっくりとマシンを進めていった。
 赤月のマシンが左に居た。そうか、彼は3位に入れたんだと、どこかほっとする。彼にとって最後のレースを、表彰台獲得という成績で収めたのだ。勇退と言っていいのかどうか、まだ明人には分からないけれども、赤月の笑顔に胸のもやもやは少し取り払われた。
 そして直前まで来て、明人の視線はある一点に釘付けになっていた。
 服装が変わって最初だからか、まだ少し違和感のある白い集団。それがネルガルの仲間たちである。柵に押しかけた彼らの真ん中で、エリナと、それに瓜畑が、見慣れたサインボードを掲げていた。それはレース中、ピットウォールから走っているドライバーに向けてサインを送るための黒いボードである。
 そのボードの一番上には、「AKITO」とあった。
 だが明人が釘付けになっていたのは、その下である。身体がわなわなと震えるようで、声を出そうにも出なかった。体中の血が、一気に頭に昇ってきたように思えたのである。
 1行目は、「Congratulatinos」。
 そして、2行目と3行目を使って大きく、こうあった。

    WORLD
  CHAMPION

 明人がそれを見ていることに気付いたのだろう。ネルガルの人垣がさらに盛り上がって、皆が両拳を突き上げるのである。プロスペクターは、さすがにそこまで行動に示さなかったものの、優しく微笑んでいた。
 ワールド・チャンピオン。その文字が、明人の目に焼きついていた。北斗が静かにマシンを停めたときでさえ、気付かずにつんのめりそうになったほどである。それから立ち上がって、皆の前に出た。
 コントロール・タワーを仰ぎ見ると、そこからは表示板がよく見えた。ポジション1という文字の横に示されたゼッケンは――「3」。それは誰でもない、明人のゼッケンだった。
 呆然とそれを見上げていた明人は、伸びてきた手に肩をひっつかまれ、引っ張られた。体勢を崩しそうになったが、倒れることはない。瓜畑が柵の向こうから手を伸ばし、明人を抱き締めていたからだ。その力は、痛いくらいに強い。
「やった、やりやがった!」
 瓜畑が叫ぶ。明人はヘルメットを被ったままだったから、それが当たって、瓜畑の眼鏡が落ちた。踏み潰されてしまう、と明人がそれを拾って渡すと、彼はそれをかけなおして、再び明人を抱き締める。また眼鏡が落ちた。
 彼の抱擁が終わったと思ったら、今度はエリナに同じことをされた。彼女はやっぱり、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
 誰も彼も、明人のヘルメットを叩きながら「やった、やった」と絶叫するばかりで、そのうちに何を言っているのかも分からなくなった。でも明人は、それに心が満たされていくのを感じた。

――勝った。
――世界チャンピオンの座に、自分が立った。

 信じられないと思いながらも、彼らの歓喜の声にそれが現実であることを知る。いつの間にか明人も、彼らの一人一人と抱擁を交わしながら、喜びを分かち合っていた。
 涙が頬を伝うのを感じた。それはいったい何のために流れたものか、考えて、明人は思い至った。
 この一年にあった全ての事柄を、一気に思い出した。色々な人々との出会い、別れ、それには兄弟のようだったジロや、幼少をともに過ごしたユリカも入っていて。それに何より、父への思い、母との生活、北辰との初めての対話もあって、全てがこの瞬間の為にあったのかも知れないとさえ思った。
 そして――、北斗。
 振り返ると、北斗はちょうどヘルメットを脱ぐところだった。その彼女が、何かに気付いて後ろを見る。明人は視線をそっちに向けて、また驚いた。そこには、ついさっき『タンブレロ』に停めてきたはずの自分のマシンが、こちらに向かって走ってくる姿があったのだ。
 よく見ると、やはりエンジンはかかっていない。コクピットに座っているのは、マーシャルだった。そして彼らの仲間がマシンの後部や横にくっついて押し合いへし合いをしながら、優勝マシンを持ち主の下へと届けに来てくれたのだ。
 明人は駆け寄って突進してこようとするそれを押し止め、一人一人と抱き合った。彼らは同じチームの仲間ではなかったのだけれども、FAを支える仲間であった。
 そして彼らが連盟の競技委員に追い出されるようにして消えると、明人は、今一度自分を勝利に導いたそのマシンを見る。消火器の跡は、気を利かせてくれたのか、彼らのうちの誰かによって拭き取られていた。
 ヘルメットを脱ぎ、頚椎損傷防止用の装置も外した。晩秋のイモラをそよぐ冷たい風が、首筋を吹きぬけてゆく。火照った身体に、それは心地よかった。
 そこにいた皆も、明人の頬に光るものに気付いたのだろう。しばしなりを潜めて、見守っている。明人はヘルメットをノーズの上に置いた。父、治己のヘルメットから少しアイデアを貰ったそのカラーリングは、黒いマシンよりも白いそれの方が似合う。それがいま分かって、口元に笑みを浮かべた。

 

 顔を上げると、北斗と目が合った。サーキットではいつも険しい彼女のとび色の瞳が、今はじっと明人の目を見ている。負けた悔しさがないはずはないだろう。明人に対して決定的に有利な立場でスタートしながら、勝てなかったのだ。レース後の火照りからか、頬は赤い。でも彼女は、優しく笑っていた。
「北斗」
 呟いたが、声にはならなかった。喉がからからに乾いていたのだ。なんとか唾を飲み込んでもう一度その名を呼ぼうとすると、彼女に制された。北斗の口元から笑みは消えない。無理をするな、と笑っていた。

 今年の、たった一年間の戦いが、いま終わった。明人にとっては二年目の、北斗にとってはFAにおける最初のシーズンだった。しかし二人にとってはそれ以上に、これまでの人生を全て詰め込んだ戦いでもあった。それがひとまず、終わったのである。
 明人は一歩一歩を踏みしめるように彼女に近付くと、少し驚いた顔をしている彼女の前に立った。どうしたのだ、という北斗の視線に、なんとか笑みだけを返す。今度は涙が溢れてきて、声にならなかったのだ。

 誰の涙か、明人には分からなかった。自分の分も確かに入っていたのだろうけど、それだけではない気がした。そっと伸ばした手に、北斗は抵抗しなかった。ゆっくりと抱き締めたその身体は、やはり細い。
 彼女が好きだという思いも、今だけは薄れていた。なぜならこの抱擁は、明人と北斗だけのものではなかったからだ。
 父も、そして北辰も、いつかこうしたかったのではないだろうか。戦いの終りに、抱き合って互いを讃えたかったのではないだろうか。だがそれは叶わず、治己はチェッカーフラッグを潜ることなく、レースを終えた。そして北辰もまた、戦う相手が居なくなって失意のうちにサーキットを去った。

――これは、彼らの涙だ。明人はそう思った。

 父が、自分に乗り移ったのだろうか。それならば北斗もまた、北辰そのものであるように思えた。彼らの戦った十四年。そしてそれからの十二年。二十六年越しの決着は、いま、ついた。
 北斗の体温が温かい。彼女は、明人ほど積極的に抱擁を返してはくれない。北辰だって、そんな性格ではないだろう。しかし彼女は片手を明人の背に回すと、労をねぎらうかのようにぽんぽんと優しく叩いてくれたのだ。明人は目を瞑り、ますます彼女を抱く腕に力を込めた。
 どこかから始まった小さな拍手が、次第に周囲を取り巻く全ての人々に広がった。それはグランド・スタンドにまで伝わり、瞬く間にサーキット全体を包んで、大歓声に変わった。
 その歓声はもしかすると、彼ら自身の喜びでもあったのかも知れない。忘れたくても忘れられなかった十二年前の悲劇が、その誤解が、今こうして解けた喜び。彼らだって、信じたかったのではないか。かつて世界中の人々に愛されたレーサーは、決して殺されたのではなく、それが彼の避けられぬ運命だったのだと。彼の死によって再びFAは安全への模索を始めた。それが、彼の最後の役目だったのだ、と。
 明人の耳には、むしろ、そんな彼らの声だけが聞こえた。なぜなら明人と北斗は今、抱き合って互いを讃えていたのだから。

 北斗が腕を解き、明人の胸を押す。突き放すような強さではない。少し離れると、彼女は口元に柔らかな笑みを浮かべ、片手を伸ばして明人の襟をなおした。
「男がそんなにボロボロ泣くな。だらしないぞ、チャンピオン」
 そう言って彼女は明人の手をとると、周囲を振り返った。そして明人の手を高く上げさせたのである。歓声が大きくなって、夕焼けも近いイモラの空が割れそうだった。
 それに応え、明人は自分のマシンに飛び乗ると、今度こそ両拳を突き上げた。さらに大きな拍手と歓声が沸き起こった。ネルガルのスタッフたちは人山のようになって、今にも崩れんばかりだ。カヴァーリを応援してたはずのティフォシたちまでが、両手を振っているのが見えた。
「ありがとう!」
 精一杯の大声で彼らに言う。
 それ以外に言葉は浮かんでこなかった。自分はワールドチャンピオンという栄光を勝ち取った。しかしその栄光は、目の前にいる彼らが居なければ栄光たり得ないのである。ファンの、スタッフの、彼らのFAを愛する思いが、そこに生きる自分たちを育てた。それに明人は感謝して、もう一度声を張り上げた。
「みんな!」
 もう一度「ありがとう」と叫ぼうとしたが、声が出てこなかった。掠れ声で何とか口にしたが、そのとき唇に伝ってきたのは、やはり涙である。
 口を開けたら今度こそ声を上げて泣いてしまいそうで、明人は必死に唇を引き結んだ。足元からヘルメットを取り上げ、それを掲げて今一度両拳を突き上げた。歓声は、それに応えて何度でも炸裂するかのようだった。










to be continued...


次回、最終回です。

CGを挿入しますので、少し重くなります。ご注意下さい。

 

感想代理人プロフィール

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代理人の感想

大団円、ですな。

これまでの50回積み重ねてきた物が見事に昇華されています。

もう言う事は無いでしょう。

次回はエピローグかな?